セイゴオちゃんねる

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2007年8月15日

Report ヒミツの多いセイゴオ式読書術のヒミツ

 8月5日、リブロ池袋本店で『千夜千冊 虎の巻』刊行記念講演会が開催されました。愛知から駆けつけたという10代の高校生から、ライバル書店の熟練スタッフ、料理雑誌編集長まで、読書意欲の高い聴衆を前に、著者であり編集者でもあるセイゴオならではの「読書奥義」をたっぷりと披露しました。

◆速読術より「セイゴオ式」

 今日のテーマは「セイゴオ式読書術」です。読書術というと、“速読術”のような話を期待する人もいるかもしれませんが、速読術なんて読書の役にはたちません(笑)。それよりも、「読書をする」とはどういうことなのかを今日は話したい。
 私たちにとって本はスポーツや料理や天気と同じくらい身近な存在ですが、残念ながら本についての情報には、スポーツや料理に比べるととても偏りがあります。せいぜいブックレビューがある程度ですね。人気レストランにあたるような書店ランキングも、天気予報のような本の予測情報もない。まして、人々が本をどう選び、どう読み、どう扱っているかという情報はまったくないし、研究も分析もされていない。有名な『オーデン・わが読書』に書かれていることも本の中身のことですしね。そこで今日は、ぼくがどんなふうに本と関わっているのかという話を織り交ぜながら、皆さんにおすすめの「読書術」を紹介したいと思います。

◆本を特別扱いしない

 読書というのは、どうやって1冊の本と出会うかというところから始まります。ということは、読書術は本屋さんにいるあいだからスタートを切るべきなんです。
 ここはリブロ池袋書籍館の8階ですが、皆さんは会場に来るまでにイルムス館というインテリアショップを通ってきたことでしょう。いろんなインテリアを目にしたことでしょう。ところで、皆さんがそうやってインテリアを見ているときの眼と、本を見ているときの眼は同じですか?
 ぼくは、インテリアショップで家具を見ることや、ブティックで洋服を選ぶことや、レストランでメニューを見ることと同じような感覚で、書店で本を見るべきだと考えています。書店とは「知の商品」を並べている場所だと思うといい。ブティックに入ってハンガーラックに掛かった洋服をざっと見たとたんに、その年の流行感覚や自分の好みと合うかどうかが肌で分かるような、ああいう感じで書棚を見ればいいんです。
 本を特別なものだと思わないこと。読書を特別な行為だと思わないこと。これが究極の読書術です(笑)。

◆まず本の前に書棚を読む

 次に書店でこころがけてほしいことは、書棚と本の並びをよく見ること。書店はそれぞれ独自の書棚づくりや本の配列をしているものです。書店員というのはおおむね書棚づくりに命を懸けている。残念ながらいい加減な本屋さんもありますが、少なくともリブロはがんばってますね(笑)。
 ぼくは、かつて「遊」という雑誌をつくっていたとき、ロジェ・カイヨワやピエール・ド・マンディアルグやスーザン・ソンタグやルイス・トマス、ジョン・ケイジといった欧米の知識人やアーティストにどんどん会いに行きました。彼らの家やオフィスを訪ねると、それぞれ素晴らしい書棚を構えていて、ぼくはそれを見るだけでも会いにいった甲斐がありました。そして、書棚こそがその人の思想を表すのだという確信を得たのです。それ以降、たった1冊の本を選ぶときにも、まずその棚全体を見るようにしています。そこには、誰かが意図して並べた本と本との関係性が潜んでいるからです。
 ぼくの仕事場には約5~6万冊の本がありますが、それらは1冊ずつ単独で存在しているのではなく、ある文脈に沿って書棚に配置しています。これらの本はぼくのスタッフたちもしょっちゅう使っていますが、彼らには「本を1冊取り出すときには、必ずその両脇にある本を見るようにしなさい」と教えています。
 ぼくは編集工学者として「情報は一人でいられない」ということをモットーとしてますが、本こそがその典型です。1冊の本を手に取れば、少なくとも10冊以上の本と、もっといえば大いなる知の森の一部とかかわったことになるんです。そのことをぜひ意識してほしい。書棚の本の前後左右の文脈のつながりを意識することによって、グーグルや親指一発ケータイの検索では得られない知識の蓄積ができるし、読書の幅が広がります。

◆パラパラ読まずに目次を読め

 そうやって書棚や並びを十分に見ながらようやく1冊の本を手にとったら、パラパラとページをめくりたいのをちょっと我慢して、5分だけ目次をじっくり読みましょう。
 たとえば『千夜千冊 虎の巻』の目次の4章のところには「ドストエフスキーとフロイトがなげかけた謎」という見出しが書いてありますね。これを読んで「ドストエフスキーとフロイト?」「謎ってなんだろう」というふうに、ちょっと思いをめぐらしてみる。この前段階をふむことで、あとから本文でこの第4章をよんだときに格段に理解しやすくなるはずです。
 たとえば、TVをつけたら野球の中継をやっていたとします。その試合がいまどんな状況になっているのかは、ぱっとはつかめないことでしょう。でも、点数がどうなっているか、三回裏なのか九回表なのか、塁に出ている選手はいるのかといったことが把握できてくると、とたんに試合の中身に入っていけますね。
 読書も同じです。まず目次によって大筋をざっくりつかんでから、本文に当たり、個々の文脈とつかんだ大筋とを組み合わせながら読むようにすると、一気に読書というものをハンドリングできるようになる。もっと言えば、読書というのは目次さえしっかり読めば、80%は終わったも同然です(笑)。それに、目次を5分かけて読んだときの感想と、まるごと1冊を1ヶ月かけて丁寧に読んだときの感想は、実はほとんど大差ない(笑)。ウソだと思うなら実際にやってみるといい。それほど、本の内容を把握して自分のものにするということが、みんなできていないんですよ。だからむしろ一時の好奇心の高ぶりとともに一気に鷲づかみにしたほうが、自分のなかに残るものも多いんです。

◆本は「取り扱い注意」

 いよいよここからは、本を読んでいる最中のポイントです。
 じつは、本に書いてあることは「絶対」ではありません。本は麻薬であって毒薬であって裏切り者でもある。そう思ったほうがいい。だから、読む側が本との付き合い方をコントロールしないと、著者の勝手な意図に引きずられるだけです。それでは自分の読書体験というものにはならない。本というのは「取り扱い注意」商品なんです(笑)。
 本は著者のためにあるのではない。読者が著者に合わせる必要なんてないんです。ときにはワインを飲むように、ときにはむさぼり喰うように、あるときは全速力で走りこむように、たまにはコソコソしながら、というふうに、自分が接したい方法で接するべきです。
 けれども多くの人が読書については一様なスタイルしかもっていない。通勤電車で読むとか、寝る前にベッドで読むとか、喫茶店で読むとか、せいぜいそれくらいでしょう。これではいけない。もっと読書モードのバリエーションを増やすべきです。こうなってしまう原因は、読書が一人でする行為であること、読書している姿を誰かに見られるチャンスが少ないことにあると思います。でも、洋服や食事が毎日同じでかまわないと思う人は少ないでしょう。その日の気分や場所によって「変えたい」と思うものですね。それと同じ感覚を、読書にも入れるといいんです。

◆著者を過信してはいけない

 もうひとつ重要な本のヒミツを教えます。じつは著者というのは文章がヘタだと思ったほうがいい。だから、本は鵜呑みにしてはいけない。これは著者であるボクが言うんだから絶対です(笑)。
 著者というものは、アタマで思い描いたことの3割程度しか書けていないのが現実です。考えたことのすべてを書けている著者なんていないはずです。仕方がなくて“あたかも”とか“まるで”などといったレトリカルな表現で、なんとかそれに近いことを文章にしているだけなんです。文章というのはまさに装飾です。どのようにでも書けてしまうものです。だから本というものを、著者というものを過信してはいけない。
 ただし、そんなふうにだらしのない著者を、読書するにあたってはひとまず許容しなければいけません。そういう意味で、読書というのは「交際」なんですね。だから著者の言葉にベタにつきあうのではなく、その本がいったいどんな経緯で書かれたのか、といったことを、一歩引いて思いめぐらしながら、あえて著者を受け入れてみるようにするといいんです。過信は禁物ですが、反発していたのでは充実した読書にはなりません。
 そのようにして、本の前で自分が裸一貫になるのではなく、ある時空間をもって本とつきあってみることが大切です。実感としてはその著者と会っているかのような意識をもつようにするといいでしょう。

◆読書モデルをつかって読む

 著者の書いたことに引きずられないためには、自分のなかに読者モデルを持つといい。ボクは、つねに2つのキャラクターを立てて本を読んでいます。「著者になり代わる自分」と「著者ではない自分」。それぞれにまたモデルがあって、前者には科学者モデル、文学者モデル、アーティストモデル・・・など、さらに科学者モデルのなかには、ホーキングモデル、寺田寅彦モデル、湯川秀樹モデル・・・など、たくさんストックしてあります。また、後者には、「ある女性に惚れている自分」モデル、「やましい自分」モデル、「幼い自分」モデルなど、こちらも多様にある。それらのモデルを1冊の本を読むあいだに、入れ替わり立ち代わり照合させて、どのモデルで読むといいのかを使い分けています。

◆もっと本を汚しなさい

 読書とは“本”という旅に出ることと同じです。だから、旅先での感想を日記や手帖に書き込んで帰ってくるように、本にも大いに書き込みをするといいんですね。気になったところにマーキングを入れたり、そのときに考えたことを走り書きしたりする。これが、ぼくがお勧めの「マーキング読書法」です。ちょっと面倒に思うかもしれませんが、慣れると「速読術」なんかよりずっと速く本が読めるようになります(笑)。
 ぼくのマーキングの一例を紹介すると、たとえば見方Aと見方Bという2つの視点をもとに話が展開されている文章があったとすると、Aに関わるところにはA、Bに関わるところにはBと書き込んで読み進める。すると、あとで読み直したときに、自分がそこをどんなふうに通過したのかがマークを見るだけで再現できます。あたかも旅先の記憶を写真を見て蘇らせるように、ですね。
 さらには、自分がぐんと加速できたところ、失速してしまったところなども書き込むとよい。自分が知というものにさしかかっていくときの感覚を覚えていくわけです。そうすれば、車を運転するときに、どのあたりでハンドルをきると曲がりきれるのか、どこでブレーキをふめば定位置で止まれるのかをだんだん習得していくように、自分のコンディションと本との関係をコントロールできるようになる。
 ちなみに、よく本に傍線を引く人がいますが、あれはだめですよ(笑)。少なくとも、著者の主張に関心したところと、表現に関心したところは同じ線でマークすべきではないし、疑問をもったところも線を変えて残しておくべきです。
 ま、マーキング読書術の詳細は、『千夜千冊 虎の巻』に書いてありますので、ぜひ買って読んでください(笑)。

◆2つの「A」で読書体験を意識する

 読書をするときにもうひとつお勧めしたいのが、「二つのA」を使った読書法です。一つ目の「A」は、アフォーダンス(affordance)です。扇子を持とうとするときに手の形を扇子の要(かなめ)に合わせようとしたり、コップを持とうとするときに手をコップの円筒形に合わせた形にしますね。このように、「アフォーダンス」というのは、私たちの身体が扇子やコップに「アフォード」されているという考え方です。つまり私たちの手は「扇子ハンド」とか「コップハンド」というものになる。
 本に向かうときも同じです。本というものに自分がアフォードされて、なんらかの構えを取っているということを意識するといいんです。うまく読書に入れないときには、ちょっとその構えを修正して入りなおすといい。
 もう一つの「A」は、アブダクション(Abduction)です。これは、演繹・帰納にならぶ推論の方法の一つで、ごく簡単にいえば「仮説形成」のことをいいます。本を読んでいる最中に自分のなかに生まれつつある「仮説」を使って、文脈を解読していくようにするといいんですね。つまり、そうやって読書をしている最中の体験を、自分にフィードバックさせることが大切です。これができるようになると、読書は受身の行為ではなくなる。自分なりの世界をつくっていくために読書をすることができるようになります。

◆読書は編集である

 かくして最後に申し上げたいことは、「読書は編集である」ということです。文章を書くことも本を作ることも「編集」ですが、読書をするということも「編集」なんです。つまり、著者や編集者が時間をかけて行った編集プロセスを、もう一度読者としてかかわることによってリバースエンジニアリングするのが読書なんですね。また、そうやって本を読むという行為を通して、1冊の本と自分の記憶や知識を自在に照らし合わせ、組み替えていくこともできる。読書というのは自己編集でもあるんです。
 さらに言えば、読書というのは相互編集でもある。読書体験というものを、誰もがお互いに共有し交換することができるわけです。
 いま私たちは普通、本を黙読していますが、12~13世紀までは世界中が音読社会でした。もともと本というものは声に出して読まれていたものなんです。読書する空間というのは聴覚的な空間だった。これはヨーロッパの古い図書館のキャレル(読書ブース)の作り方や、日本の絵巻を見るとすぐにわかります。「源氏物語絵巻」にも、巻子を読んでいる源氏の声を御簾の影で聞いている女御の姿が描かれています。当時の日本が音読社会だった証拠です。
 残念ながら、音読社会から黙読社会に変わったことによって、読書というものは一人の行為、1冊の本のなかに閉じ込められてしまい、共有空間としての本というものが成立しにくくなってしまいました。欧米ではいまだに「ブッククラブ」というものが出版業界を動かす強い力をもっていますが、日本では読者の側から新たな共有空間やコモンズを作るということがまだ始まっていません。でも、ぼくはそういったものが生まれる可能性はあると思っていますし、相互編集のための読書空間というものを、自分でも創ってみたいと思っています。
 ぼくは、世の中には「ヘンなおじさん」と「きれいなお姉さん」と「そのいずれでもない人」の3種類しかいない、と考えてます(笑)。どういう意味でしょうね。そして、皆さんは、そのうちのどの人といっしょに読書してみたいですか。これが、「セイゴオ流読書術」の本当のヒミツです(笑)。

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気温34度にも負けないセイゴオの熱弁

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「もっとカジュアルに本と向き合うといい」

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講演後はサイン会も行われた

投稿者 staff : 2007年8月15日 23:54

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