セイゴオちゃんねる

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2010年3月31日

Publishing 京都新聞「本の大路小路」4月1日より連載スタート

 4月1日から1年間、セイゴオが京都新聞朝刊の1面コラムを担当します。タイトルは国民読書年にちなんだ「本の大路小路」。伝統の歴史文化から現代のサブカル・キッチュまで、京都とその周辺に関わりのある一冊を紹介しながら、京都の“おもかげ”や“うつろい”を伝えます。

 セイゴオはこの1年間におよぶ連載の執筆モードを模索するため、3月下旬に京都新聞担当記者の内田孝さんとともに右京中央図書館や二条通り沿いの古本屋をめぐりました。数千冊におよぶ郷土本の背表紙を高速スキャンしながら、気になった本を見つけては、表紙を開き頁をめくり目次を眺め、身体感覚ごとノートに言葉を書きとめていました。

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2010年3月26日(金) 15面

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「本の大路小路」連載にあたって
本で遊ぶ京の町  松岡正剛
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 いま出版業界は大不況にさらされている。多くの消費財とウェブと電子書籍端末とに脅かされているというのが実情だが、実は版元や本屋も怠けてきた。本のづくりを怠けているのではない。日々のそこかしこにどんな本が待っているのか、読書のおもしろさを伝えることを怠けた。
 読書は、もともと何かを食べたり、好きな洋服を着たりすることと、似ているはずなのである。それほど気取ったことではない。また、茶の湯の道具の取り合わせやファッション同様に、さまざまなアンサンブルをおもしろがっていい。どうもたくさんの本が読めないという人が多いようだが、これは本を堅く考えすぎている。一冊のジーパンの上に、新書セーターや文庫のTシャツや、ちょっと渋めのジャケット単行本を選ぶように、コーディネーションをするつもりになれば、いろいろ本は組み合わさっていくものなのである。
 だから本というものは、とても自由な乗り物であって、いろいろな柄と布地をもつ着物であり、大小さまざまなものを出したり入れたりできるバッグのような持ち物なのだ。好きに着たり脱いだり、遊んだり考えたりすればいい。乗り換え、着替え、持ち変えをたのしむものなのだ。
 だいたい本を知識の殿堂のような高みに鎮座させるのがよくない。たしかに高尚な本もあるが、おもちゃになる本もジャンクフードな本も、優しい本も、寡黙な本もある。本でなければ告白できない内容が吐露されてもいるし、本になったおかげで時代や場所が蘇ることもある。
 そうなのである。本は町を散歩することとそんなに変わらないはずなのだ。看板を見たり、ちょっと立ち寄ったり、何度も長居をしたり、たまにはバスの車窓から見たり、そういうふうに本と親しめばいい。
 この四月から「本の大路小路」というちっちゃな連載をすることになった。京都を中心にその周辺の消息を綴った本や、歴史や人物や町を描いた本を案内したいと思っている。古典も歴史書もマンガも写真集も、小説も告白もあやしげな本も、古本も冊子も、みんな入ってくる。京都の一隅の呉服屋に育った私としても、久々の京都文化への深入りだが、できれば京都案内というよりも、本との付き合い方や遊び方を案内したいというのが本音だ。
 ただし、一冊の本についてはごくわずかなことしか書けない。そのかわり、毎日次々に本の景色が変わっていくだろうから、そこをたのしんでいただきたい。どうしても私のディープな読み方を知りたいという諸姉諸兄は、私のいくつかの著書か、六年ほど前からウェブで公開している「千夜千冊」(http://www.honza.jp/senya/1)というサイトを覗いてほしい。
 それからもうひとつ。この連載でとりあげた本を、できればどこかの本屋さんがぜひとも店頭に並べてみてほしい。本はときに“おつまみ”にも“和菓子”にもなるはずなのである。

3月26日(木)京都新聞朝刊掲載

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何十年かぶりに『ロバのパン物語』を見て大喜び。
本を片手に「パン売りのロバさん」の歌を口ずさむ。
(右側:京都新聞の内田孝さん)

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リング式のノートとノック式のペンをスタンバイしながら、
次から次へと目次読書にはげむ。

投稿者 staff : 16:44

2010年3月29日

Publishing 韓国語版『多読術』刊行

 2009年4月に刊行されたセイゴオの『多読術』(ちくまプリマー新書)が、韓国で翻訳出版されました。版元はCHUNGRIM PUBLISHING GROUP。

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 韓国語版『多読術』のタイトルは、『創造的な本読み、多読術が答えだ』、表紙カバーには、松丸本舗の本棚写真と、同じく松丸本舗にディスプレイされているセイゴオの手書き図解があしらわれるなど、「ちくまプリマー新書」とは装丁も雰囲気もがらりと変わっています。
 また、原著にはないセイゴオの特別インタビューも収録されており、こちらは本書を翻訳した金炅均(キム・ギョンギュン)さんが昨年10月に赤坂の編集工学研究所で本書のためにおこなったもの。

 この“原著にはない特別インタビュー”はもちろんハングル語でまとめられたものですが、日韓語翻訳・通訳を手がけるイシス編集学校師範の小西明子さんが全文翻訳してくださいました。当「セイゴオちゃんねる」愛読者の皆さまにだけ、その一部を特別にご披露いたします。

『創造的な本読み、多読術が答えだ』特別対談
縦横無尽に駆け回る編集的「本読み」の力
松岡正剛+金炅均

金:お久しぶりです。お元気そうですね。
(実は、彼は以前に比べてずいぶん痩せていた。この間に『千夜千冊』というとんでもないプロジェクトを進めてきて、そのストレスで身体を壊し胃癌になったのだが、幸いに初期に発見されて完治できたという話を他の人を通じて聞いていたが、礼儀上、それについて訊ねることは控えた)。

松岡:おかげさまで元気です。ぼくたちが最後に会ったのは、3年ぐらい前かな?(事務所注:実際は8年ほど前) あの時は、ぼくが急に耳に異常が生じてソウルで開かれるシンポジウムに参加できなかったんですよね。すいませんでした。

金:あの時は、ソウルで松岡先生に会えると思っていた知人たちの期待も大きかったので、本当に残念でした。近いうちに、また機会をつくりましょう。

松岡:心の中でいつも「借り」があると思ってました。いつかお返しできる日があるだろうと考えています。もしかしたら、今日がその日かもしれませんね。
(話が始まったとたん、まず煙草を口にくわえた。彼は、体質的にお酒はまったく飲めないが、煙草は非常に好む。言葉どおりのヘビースモーカーで、対談中もほとんど5分おきに煙草を吸った。こうやって煙草を吸えるところをみると、健康には大きな問題がなさそうだ)。

金:遅くなりましたが『千夜千冊』の出版、おめでとうございます。来る前に検索してみたら、オンラインではすでに1300回を超えて、1400回に向かっているんですね。本当にすばらしい情熱です。
(松岡正剛は4年前から読書感想文をアップしている。ここには自ら定めた極めて厳しい規則がある。週末は休み、平日には毎夜、1冊ずつアップする。同じ著者の本は1冊以上取りあげない。同じ出版社や同じジャンルの本は続けて扱わない、といったふうだ。彼はこんなふうに、まるで刑務所暮らしでもしているかのように、読書をするしかない状況に自らを罪人椅子に縛りつけている。最初は、千夜に千冊をアップすることを目標にして始めたが、その目標を達成して全7巻の膨大な全集として出版したあとも、『千夜千冊』プロジェクトは続けられている)。

松岡:今はもう、習慣になりました。かえって書かないと気分がおかしくなるくらいになりました。夜ごと本の知識を吸い取るドラキュラのような生活が定着してしまったとでも言いましょうか。

金:『創造的な本読み、多読術が答えだ』でも言及されていますが、30年以上、朝の3時前にはお休みにならないそうですが、読書がそれほど魅力的なんですか? わたしもそれなりに本が好きですが、時々は嫌になったりもするんです。

松岡:嫌になる余裕がないんです。寝て起きれば、新しい本があふれ出ているし、以前読んだ本ももう一度読み返すと、また新しいんです。同じ服ばかり着続けたり、同じ食べ物だけを食べ続けたりすれば飽きるかもしれませんが、さまざまに組み合わせて食べていればいつでも新鮮なんです。読書も同じです。礼儀を守らなければならない席では正装しますが、ジョギングをするときはトレーニングウェアに着替え、ジーンズにTシャツが気楽でいい場もあるでしょう。ご飯だけ食べているのではなくて、時おりパスタも食べ、ラーメンも食べるのと本も同じなんです。さまざまなジャンルを行ったり来たりしながら、自分に合うように編集していけば、飽きることはありません。

金:『千夜千冊』はオンラインで始まってオフライン出版で展開され、その後もオンラインで続けられています。わたしが運営しているACAでも同じような試みをしているんですが、これをメディア・ハイブリッドというんですよね。わたしたちは、すでにオンラインとオフラインのメディアの境界を飛び越えなければならない時代に生きていると思います。今は、出版の現場でも、企画者、編集者、デザイナー、マーケターがそれぞれの役割をはっきり分ける必要がなくなり、また実際にそういう試みがさまざまにおこなわれはじめています。

松岡:まだ小規模ではありますが、そのうえに、電子出版や、いわゆるオンデマンド出版など、新しい試みがある程度の成果をみせています。われわれはすでに、出版に従事する専門家だけでなく読者自らが好みに合わせてコンテンツを編集できる時代を生きているのです。ですから、以前とはまったく違う出版市場を体験することになるでしょう。もちろん、このようなメディアが与える影響がいいのか悪いのか、改めて論議する必要はありますが。

金:iPhoneをはじめとするスマートフォンやアマゾン・キンドルのような電子ブック端末機の発展速度を見ていると、本当に鳥肌が立つくらい恐ろしいと思いますが、こんなふうにメディアとジャンルを超えて多様な情報が発信され、使用者が自ら編集できる状況においても、本という紙メディアが依然として存在感をはっきり主張できるという気がします。

松岡:その理由はやはり、本というメディアがとても基本的なフォーマットを維持しているからです。つまり、「見開きページ」です。この基本的なフォーマットが与える魅力が千年以上も本という媒体を維持させ続けてきたのです。右と左に分かれた本を両手で広げて持ち、ページをぱらぱら捲って目の保養をしている。関心の向いた写真やヘッドラインを発見した瞬間、親指に力を入れてストップさせ、そこから集中して読み始める。もし読むのが嫌になったら、パタッと半分に伏せてしまうという単純な行為で内容を簡単に収納できてしまうし、どこでも簡単に持ち歩ける。この単純な設計が本という媒体が持っている魅力の核心です。
 東アジアでは上から下に続く縦書きが、西洋では左から右に続く横書きが、イスラムでは右から左に読んでいくなど、情報を羅列する形式は違いますが、見開きページは、これらのすべての方式を受容できるフォーマットです。この「見開きページ」という基本フォーマットで世界のすべての情報を編集することができるという考え方は、永遠に変わらないでしょう。

金:現在の電子ブックの端末機は、ほとんど見開きページの構造を無視しています。はたして将来、これらの端末機が見開きページをそのまま再現して、ページを捲るときに出る音まで真似ることができるでしょうか? 技術的にはそれほど難しいことではないですが、見開きページの構造を維持しなければならない必要性をきちんと感じてはいないのでは?

松岡:見開きページの形式が作られる前は、巻物や木簡のような形式をとっていました。しかし巻物や木簡は、収納したり運搬したり、お互いに広げて情報交換する際には不便だということを感じたのです。それで発展を重ねて見開きページという情報編集形式に定着していき、このフォーマットは千年以上変わらなかったのです。また、このフォーマットを採用してはじめて背表紙という空間を獲得したんです。その結果、本棚に収納された本は、背表紙だけでも重要な情報を発信し、本と本がお互いにリンクするようになったのです。われわれは本棚に本を整理するときも、このような情報のハイパーリンクを念頭において配列します。本棚から本を探すときも、このように並べられている背表紙の情報を記憶しているから簡単に探すことができるのです。それには書体、色、厚さ、ニュアンスがすべて含まれます。まるで人の印象のように。そのような意味で、ブックデザインは本の印象を決定し、記憶し再生するにおいて、非常に重要な役割を果たしているのです。

金:電子ブックの端末機が見開きページの構造を捨てたら、巻物や木簡の時代に戻ってしまうのと同じだとお考えなのですね。

松岡:そうです。いまも薄くて曲げられるモニターが開発されていますが、そのうち折り曲げられる端末機が登場することでしょう。

金:松岡先生は、『創造的な本読み、読書術が答えだ』で本を1冊ずつ別々に読まないで、読者が編集力を発揮して、いろいろな本を同時に読めと勧めておられます。それは本と本の脈略を読者自らが発見してハイパーリンクさせろという意味でしょうか?

松岡:今日、読者はややもすると自らの自由性の大部分を喪失しているのではないかと思います。本のフォーマットである四角の枠の中に閉じ込められて抜け出せずにいる状況といえるでしょう。

金:今の電子ブックの端末機のように1ページずつ具現化されたら、枠の中から抜け出せない現象はさらに深刻になりますね。

松岡:そうです。読者は、自分の編集力、すなわちセルフ・エディティングという、非常にすぐれた能力をもっているのに、ひたすら本の内容とフォーマットに自分自身を委ねてしまうのです。そんな画一的な読書に溺れているわけです。そうなると本は難しく、おもしろくない対象になってしまいます。そんな読書をファッションと比べてみると、新入社員の紺のスーツや新兵の軍服のようだといえるでしょう。実にぎこちなく、おもしろみのない構成です。われわれはいつでも、このような画一的な枠から抜け出したいと思っています。ちょっとだぶだぶのジーンズに着心地のよいTシャツを着て、天候に合わせて上に軽いジャケットを羽織って、靴やベルトは少しカジュアルに・・・。このように多様なファッションを編集して、自分だけのスタイルを演出するのと、本も同じなのです。自分の編集能力を自由に発揮して、さまざまな本を組み合わせながら同時に読んでいってほしいと思います。

金:最近、同じ脈絡でオフラインの書店も企画されたと聞きましたが?

松岡:少し前に創業100年を超える、日本で最も古く大きな書店である丸善本店に松丸本舗をオープンしました。松岡正剛の「松」と丸善の「丸」を結び合わせた名前ですが、この書店の本棚のデザインから本の分類や配列に至るまで、すべてをぼくが企画しました。ここでは一般書店の図書分類法の代わりに新しい方法で本を配列しています。雑誌や単行本、文庫、古本、輸入本が一つの本棚に共存しています。本がまっすぐにささっていないで、わざと横になっている本もあるし、重なっていて後ろの本がよく見えなかったりもします。それから、同じ本があちこちに何冊もあったりもします。
 本と本がもっている情報の脈絡を土台に配列されているため、ある人は本を探しづらいと不平を言いますが、読書が好きな人は、誰かの書斎にいるようにリラックスできると言います。そういう脈絡で、ほしい本を簡単に発見できるから楽しいという反応もあります。まだ始まったばかりなので、修正したり補完したりしなくてはならない点も多いですが、本店での初めての試みがある程度定着したら、将来的には丸善の全国の支店に拡大させていく予定です。

金:わたしも昨日行ってみたんですが、本当におもしろい空間ですね。まるで編集工学研究所の書斎をそのまま持っていったような気がしました。やはり本をテーマで、オンラインとオフラインを行き来しながら、出版とウェブ、教育、書店、アーカイブなどを融合してしまうのが松岡先生のおっしゃる編集工学だと思いました。このような統接、あるいはハイブリッドという概念をひと言で定義するとすれば、「あいまいさ」ではないでしょうか? あいまいさは、合理的な思考をする西洋よりも、一元論的な思考をする東洋のほうが、よりマッチするように思います。

松岡:そうです。韓国のビビンパや中国のチャーハンのような食文化は西洋にはありません。西洋人は、あんなふうにごちゃまぜになっているとメチャクチャだと思うようですね。特に韓国のビビンバは、個人の好みで入る具が少しずつ違います。ナムルだけを入れることもあるし、その上にシーフードを乗せることもあれば、ユッケや卵の黄身をさらにくわえることもあります。
 そういう個人の好みが反映された本の読み方が、まさに編集的読書なのです。その人の本棚を見るとその人の性格がわかります。ぼくは世界じゅうを回ってスーザン・ソンダクのような有名な人の書斎を見る機会もありましたが、本当にその人の好みや個性がはっきり現れます。自分の本を分類するのにいわゆる図書館分類法に従う人は誰もいませんでした。現在の図書館分類法には大きな変化が必要です。本というコンテンツ(情報)だけがあって、コンテキスト(脈絡)がないのです。
 オンライン書店で書名や著者名がわからなければ、本を正確に探せないのも分類法が画一的だからです。シェークスピアの作品を単純に文学としてだけみるのではなく、ミュージカルや映画からも検索できるようにしなければなりません。ですから図書館は、同じ本を何冊も購入して本棚のあちこちに差しておく必要があるのです。ここ(編集工学研究所)は4階建てのとても小さな建物ですが、6万冊以上の本があります。もし、これらの本が図書館のように分類されていたら、われわれ職員はまともに本を探すこともできず、仕事をする際にも大きな問題が起きるでしょう。
 ある意味、本棚は脳と似ています。知識の所有者とでもいいましょうか。したがってここの本棚は、ぼくの脳の構造をそのまま反映していると言っても過言ではありません。そして本は増え続けますから、定期的に並べ替えなければなりません。1年に一度ぐらいは、全面的に配列を変えます。このくらいたくさんの本ではなく、数十冊や数百冊程度の本を持っている人であっても、自分なりの読書経験や、その本に盛り込まれている知識の脈略を土台に本を並べ替えてみれば、これからの読書におおいに役に立つでしょう。絶対に大きさやジャンル別に本を分類するような愚を犯さないようにしなければなりません。

金:画一的な読書から果敢に脱皮すること、多様なジャンルの本を縦横無尽に行き来しながら、脈絡を把握する編集的読書をすること、成長の過程で同じ本を再読して理解の幅をさらに広げることが『創造的な本読み、多読術が答えだ』の核心なんですね。
 お忙しいなか、長時間お話を聞かせてくださってありがとうございました。とにかく、韓国の読者にも松岡先生のすばらしい読書法が伝わるといいと思います。

松岡:はい、ぼくも期待しています。

投稿者 staff : 20:22

2010年3月20日

News 明治大学国際日本学部主催の特別講演会

3月30日(火)、明治大学アカデミーホールで、セイゴオのソロトーク「世界と日本の見方-神と仏と鬼と夢」が開催されます。主催は明治大学国際日本学部、司会は同学部教授で、セイゴオと30年来にわたって「知」のハイパートークを交わしてきた高山宏さん。

昨年末の連塾「JAPAN DEEP 4」にゲストとして登場した高山さんは、セイゴオが展開する「知」のパフォーマンスをぜひ学生に見せたいとの一心でこの企画を立てられたとか。


明治大学 国際日本学部 特別講演会

◎日時:2010年3月30日(火)
      15時00分~17時00分(14時30分開場)

◎場所:明治大学駿河台校舎アカデミーコモン3階
      アカデミーホール(JR御茶ノ水駅徒歩約2分)
      千代田区神田駿河台1-1

◎講師:松岡正剛 
      「世界と日本の見方 ― 神と仏と鬼と夢」

*参加無料・予約不要(一般来聴者歓迎)

  
↓高山宏さんのメッセージはこちら

日本文化の国際的発信がこれからの日本の大学の最大テーマに謳(うた)われていますが、「日本文化」とは何かを考える場にも機会にも恵まれてこなかった研究・教育の現場には大きなとまどいがあります。

国際日本学部出発から2年経ち,いよいよ「国際日本学」を本格的に考え始めることになるこの機会に、
古代記紀から平成サブカルチャーまで「日本」を巨細自在に語ることのできる稀有な講演者、ベストセラー『17歳のための世界と日本の見方』の著者、編集工学研究所所長、松岡正剛氏をお招きして、これからあるべき日本文化研究すべての出発点であり根本である大テーマでお話ししていただけることになったのは、まさしくひとつの「事件」であります。

国際日本学部の学生・新入生はもちろん、関心あるすべての人々がこの機会に、新しい日本研究・文化発信の方法を「極める」第一人者の驚くべき構想力と説得術を楽しんでいただくなら主催者としてこれ以上の喜びはありません。                

高山宏

投稿者 staff : 01:25

2010年3月 9日

News セイゴオメディア情報(1月1日~3月1日)

昨年の『ハーバードビジネスレビュー』誌に掲載され好評を得た、セイゴオのインタビュー「『論語』の世界」が、同誌のシリーズをまとめた一冊に再録されました。渋沢栄一氏や中曽根康弘氏とともに「論語」の多読性を読み解いています。

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『論語ビジネス塾 -世界一の教科書に学ぶ-』
発売 2010年2月5日
発行 ダイヤモンド社
定価  1,500円(税別)

↓その他1月1日~3月1日にセイゴオが登場したメディア情報はコチラ

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■『ユリイカ 特集*白川静』 2010年1月号
発売 2010年1月1日
発行 青土社
定価 1,300円(税込)
*松岡正剛 「レキシコ・メソドロギア-世界を巫祝するまなざし」収録

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■『ユリイカ 特集*森村泰昌』 2010年3月号
発売 2010年3月1日
発行 青土社
定価 1,300円(税込)
*松岡正剛 「侵襲的反記憶術」収録

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■『墨』  2010年3・4月号
発売 2010年3月1日
発行 芸術新聞社
定価 2,300円(税込)
*松岡正剛 「女手が女筆となって江戸に舞う」収録 

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■『週刊読書人』
2010年2月26日発行
発行 週刊読書人
定価 260円(税込)
*松岡正剛 「『世界の文字の図典 普及版』(世界の文字研究会編)書評」収録

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■『新書大賞2010』
発売 2010年2月25日
発行 中央公論新社
定価 580円(税別)
*松岡正剛 「『振仮名の歴史」(今野真二著)書評」収録

投稿者 staff : 23:21

2010年3月 4日

Report エバレット&セイゴオ『日本力』トーク

今年1月に出版された『日本力』が好評の、エバレット・ブラウンさんとセイゴオの出版記念トークとサイン会が、丸善丸の内本店内の日経セミナールームで開催されました。書籍購入者先着100人に配布を予定していた入場券があっというまになくなり、当日は150人を超える入場者が詰めかけ大盛況となりました。

エバレットさんとセイゴオの出会いは1994年の「ゑびす曼荼羅シンポジウム」にさかのぼります。日本の神話や物語に描かれた数々の「欠けた英雄」たちをテーマに、花田春兆氏をはじめとするハンディキャッパーが次々と登壇し、点字や手話を駆使して論議をするという催しで、唯一“健常者”ながら出演依頼を受けたセイゴオも、おおいに感銘を受けたと語り草になっているものです(この日、会場にその仕掛け人の坂部明浩さんもお見えになってました)。

エバレットさんはこのシンポジウムで撮影をされていたのですが、セイゴオは撮影中のエバレットさんの「間合い」に感じ入るところがあり、以来、たびたび会ってはさまざまなことを話しこんできたと言います。

二人のトークは、そんな出会いのエピソードから始まり、会場のステージ横に展示されたエバレットさんの3枚の写真をめぐりつつ、『日本力』に込めたメッセージを来場者に刻印するように展開しました。

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セイゴオ:今日、用意してくださったエバレットさんの写真はいずれも『日本力』に使ったものですね。真ん中に、手のアップの写真がある。意味深いですね。

エバレット:これは人間国宝の紙漉きの岩野市兵衛さんの手です。手は『日本力』のひとつのテーマでしたね。いまの日本をよくするには、ひとりひとりが自分の掌にある力で日本をつくるしかないのではないか。いまの政治家では無理なんではないか(笑)。

セイゴオ:政治家は選挙のときの白手袋をはずさないといけない(笑)。日本語には手にまつわる言葉がいっぱいある。手本、手引き、手加減、手当…。いずれもとてもいい言葉です。もともと日本人は、舞踊や能を見るとわかるように、ふだんはそれほど手を出さない。隠しているものです。もし手が出たときは、それが扇にも刀にも、鍬にもクワにもなる。芸能はそういうことを重視している。でも、エバレットがそういうことに気がついたことにこそ、びっくりさせられます。
 右側の写真は、女形(おやま)ですね。

エバレット:日本唯一の女形芸者の栄太朗さんです。彼が化粧しているところを何度も撮りましたが、化粧しているうちに性格がかわるんです。23歳の青年から「女狐」になる。何かがのり移っていくように感じました。

セイゴオ:日本の昔話には、そんなふうにして狐にトランスする人の話がたくさん出てきます。かつてお祭りなどでも、そういうことがしょっちゅうあった。でも、いまではトランスすることが「精神病」扱いされてしまう。男たちが祭りに行くときに懐にヤッパを忍ばせたりしたのも、喧嘩をするためばかりではなく、自分を緊張させてトランスするためでもあった。それもいまだと「銃刀法違反」になってしまう。

エバレット:みんなそういうものを潜在的にもっているのだと思います。でもそれを表現する場がなくなっている。三河地方の手筒花火職人の話を聞きましたが、みんな困っていました。ひとつ事故がおこると祭りができなくなる。『日本力』のなかでもコンプライアンスの問題を取り上げましたが、そういうものが祭りの世界にまで及んでいるんです。

セイゴオ:エバレットさんは、日本がだめになったのは、太陽暦やメートル法といった欧米のレギュレーションを受け入れすぎたからだという話をされてましたね。

エバレット:太陽・太陰暦の併用は、これからのぼくのテーマのひとつです。「日本人フェロモン」を養うためには、自然のリズムにもとづいた太陰暦を取り入れるしかないんじゃないか。たとえば、種蒔きをするのは満月のときがいいのか、新月のときがいいのかといったことを昔の人はわかっていた。ケガをしたときは、満月のあとなら治りやすいといったことをみんな知っていた。だから手術するなら満月のあとがいいんです(笑)。

セイゴオ:そうだったのか(笑)。

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セイゴオ:もう1枚のモノクロの写真は、湿板写真ですね。あえて写真の黎明期の上野彦馬や下岡蓮杖の技法を使って撮ったものですが、こうやって撮ると、現代の日本の風景が明治の風景になるとエバレットさんは言ってましたね。なぜこういうことがおこるんだろう。

エバレット:ひとつには、場所をこだわって選びました。伝統を守っている祭りを選んだ。露光時間が長いから、シャッターチャンスは1回しかない。一期一会という感じがするんです。
 『日本力』の表紙の松岡さんも同じ方法で撮りました。この松岡さんはすごいです(笑)。

セイゴオ:ぼくは、表紙の写真は絶対栄太朗クンの女形がいいと言ったんだけど、編集者とエバレットがどうしてもこれにしたいと言ったんだよね(笑)。

エバレット:20秒間じっとしてもらって撮るから、その人のようすがすべてカメラのなかに吸い込まれてくるんです。こういうふうに撮られる人はなかなかいませんよ。こんなふうに、まわりがぼやけて、まん中あたりにピントが合うというのは、じつはぼくたちが肉眼で見ている世界そのものではないかと思うんです。

セイゴオ:ぼくは30代~40代のころ、原稿を書きながら、言語のスピードをめぐってそういうエクササイズをしょっちゅうやっていた。いろいろな言葉が浮かんできても、それをすぐに書こうとしないで、浮かんだ言葉のなかにゆっくり入ってみる、ということをやっていた。何かを指差すときも、うんとゆっくりやってみる(眼の前のコップをゆっくり指し示す)。そうすると、自分が向かっているものが、コップなんだか言葉なんだかわからなくなっていく。

エバレット:自分に合うスピードがあるんでしょうね。朝と夜とでも、スピードのギアチェンジを意識するべきなんでしょう。ぼくは、どうも日本の知のフェロモンは脳下垂体のなかにあるんじゃないかと思う。太陽光や月の光を見ると、脳下垂体が元気になるんです。先月の満月の夜、3時間ほど月を眺めてたんですが、ずっと見ていると月がモノクロの写真になったりポジとネガが入れ替わったりする感じがして、いろんな像が見えてきました。脳のうしろのほうが刺激を受ける感じがした。

セイゴオ:自分の身体や感覚の変容がわかると、それを言葉や発想にもつないでいくことができるんです。いまの時代は、言葉がみんなツイッター化して、からだが入る余地がない。だから肯定か否定かといったレギュレーションに侵されていくんでしょうね。

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セイゴオ:エバレットさんはずっと明治に注目して、明治の文献も読んでいますね。そこからどんなものが見えてきてますか。

エバレット:明治から150年たっていますが、日本の長い歴史のなかでは、たいした長さではないでしょう。きっと明治的な、あるいは江戸的な感覚は戦後までは日本に残っていたのではないでしょうか。それを失ってしまったのはほんの最近の50~60年のことです。だから少しさぐってみれば十分に手が届くと。明治以前の生活の知恵を取り戻せば、日本人の感性がよみがえってくると思います。
 たとえば、発酵・醸造の文化。昔の日本人はいい酵素や微生物を食べていました。そうすることによって、おなかのなかに自然の環境をもっていた。

セイゴオ:ぼくの見立てでは、残念ながら、明治以降そのように日本を発見してきた人々の大半は“外国人”だった。ハーン、フェノロサ、ウェストン、タウト、コンドル・・・。

エバレット:それがマレビトの役割でしょう(笑)。

セイゴオ:最近ぼくは日本人でありながらそのマレビトにならざるをえないという気がしているんです。トランスしたおかしな人と思われることを承知で、マレビトとしてふるまわなければ、日本のことを語れないんです。現実の代入であふれてしまう前に、自分のほうで異質なXやYをつくらないかぎり、セレンディピックなものを入れられなくなる。
 どうもこの点は、“ガイジン”さんのほうが有利なのかな(笑)。

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来場者との対話を楽しみながらのサイン会。
丸善が閉店してからも延々と続きました。

*レポート:太田香保
*写真:櫛田理

投稿者 staff : 14:55