セイゴオちゃんねる

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2008年10月30日

NEWS トークセッション「仕事に生かす読書術」に出演

第2回「日経-文字・活字文化推進機構シンポジウム」

 11月10日(月)14:15~16:00、文字・活字文化推進機構と日本経済新聞社が主催する「第2回 日経-文字・活字文化推進機構シンポジウム」のトークセッションにセイゴオが参加します。文字・活字文化推進機構とは、福原義春氏を会長とし、国が制定した「子どもの読書活動推進法」(2001年)と「文字・活字文化振興法」(2005年)を具現化しようとする団体です。最近は2010年の「国民読書年」に向け、大きく活動を展開中。

 今回のトークセッションのテーマは「仕事に生かす読書術」。セイゴオは、伊藤忠会長の丹羽宇一郎氏と東京日産自動車社長の林文子氏とともにトークを繰り広げます。

 先日行われた主催者側との打合せでは、「ぼくは“異質なもの”や“未知なもの”と出会うために読書をしている。スポーツと同様、どうすれば打てるようになるのか、どうすればゴールできるのかを、絶えず自己訓練している。読書という行為は、ぼくにとってスポーツであって闘いです」とラディカルな読書論を披露。「読書とは心の栄養である」という主催者側のコンセプトに対し、早々と一撃を与えていたようです。

※講演の模様は、後日、日経新聞で掲載されます(日時未定)。

開催日 2008年11月10日(月) 13:30~16:00
会 場 日経ホール
東京都千代田区大手町1-9-5 日経本社8階
参加費 無料
申 込  財団法人文字・活字文化推進機構
主催 財団法人文字・活字文化推進機構/日本経済新聞社

■13:30~13:35 主催者挨拶
福原 義春 氏 (資生堂名誉会長、文字・活字文化推進機構会長)
喜多 恒雄 氏 (日本経済新聞社 代表取締役)

■13:35~14:10 基調講演 「読書の効用を語る」
阿刀田 高 氏 (作家、文字・活字文化推進機構 副会長)

■14:15~16:00 トークセッション 「仕事に生かす読書術」
丹羽宇一郎氏  (伊藤忠商事株式会社取締役会長)
林文子 氏  (東京日産自動車販売株式会社代表取締役社長)
松岡正剛 氏 (編集工学研究所所長、イシス編集学校校長)
司会:森一夫氏(日本経済新聞社論説委員兼特別編集委員)

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2008年10月28日

Report 日本の美学と茶の湯

ル・ベイン・デザイン塾で講演

 10月4日、内田繁さんの主宰する「ル・ベイン・デザイン塾」でセイゴオが2時間のソロ講義を行った。この塾は現代のデザインと生活文化をめぐって多彩な講師を招いて行われているシリーズで、今年4年目を迎える。今シリーズでは「茶の湯の今日~道具をめぐって」というテーマで竹内順一氏(永青文庫館長)、矢部良明氏(人間国宝美術館館長)、倉斗宗覚氏(裏千家今日庵業躰)、それに内田さんとセイゴオという豪華な顔ぶれが講師陣をつとめている。

 セイゴオの講義タイトルは「日本の美学」。貴重な映像資料をいくつか組み合わせて上映しながら、古代アジアとの文化交流にひそむ日本の“おおもと”から茶の湯の世界観を照らし出す内容となった。

【講演抄録】

 茶の湯を理解するには、なんといっても和歌や連歌のことを知っておく必要があります。つまり、藤原定家がわからないとお茶というものはわからない。
 また、茶の湯の奥には日本の「座」の文化もある。「一座建立」ともいいますが、これは古代中世の歴史、社会文化からおこったものでした。たとえば、室町時代には武家や貴族が集う「会所」がさかんに開かれていましたし、ムラ社会のなかでもいろいろな「座」が組まれ、寄合や祭りをおこなっていた。そういった「座」の文化と和歌や連歌の文化が重なり、さらにそこに中国から禅宗がもたらされ、薬効としての茶が加わったことから、やっと茶道というものがスタートをきった。

 それらのことを通していちばん重要なことは、「和漢」ということです。私はいまの「和ブーム」も茶道もまったくつまらないと思っています。それは「和漢」というものがふまえられていないからです。もっといえば、「和」というものが成立する背景に、中国や朝鮮がどのようにかかわっていたのか。ここを押さえておかないと、茶の湯はもちろん、日本というものについて何もわかったことになりません。
 「漢」とは中国由来の文化のことで、かつての日本にとっては「漢」こそがいまでいうグローバル・スタンダードでした。そしてその「漢」と対比させながら作られてきたものが「和」だった。
 たとえば、平城京も平安京も、公式な政治の場である朝堂院は徹底して唐様、すなわち「漢」によってつくられていました。朝堂院は瓦葺きで丹塗りで、天皇や上流貴族たちは椅子に坐って政治をおこなった。ところが一方、天皇のプライベート空間である内裏の清涼殿などは、檜皮葺で白木の建物でした。ちなみに「朝堂院」というのは、政(まつりごと)を朝おこなっていたことからきた呼びかたです。そして一日の切り替わりである夕方(旦)以降は、内裏のほうでことが進む。このように、かつて日本では「和漢」という二つのスタイルが使い分けられていたのです。
 侘び茶の創始者である村田珠光はそれを「和漢のさかいをまきらかす」と言って、和漢の境目をはっきりさせないという価値観を初めて提唱しました。そこから茶の湯が生まれたわけですが、この珠光の考え方を理解するためにも、それ以前の、和漢をデュアルスタンダードにしていた時代の様式を知っておく必要がある。

 一言でいうと「漢」はフォーマル、「和」はカジュアルです。ただし「カジュアル」といってもラフという意味ではない。「和」では神殿や高床式の社の作り方が踏襲されていたので、中国的様式からすればそれはカジュアルですが、日本的にはそれがあくまでフォーマルだった。そういう二重性があった。そして、この和漢というものを使い分けながら、次第に「和」というものを自立させていったのが日本文化です。そこには何人ものすぐれたディレクターの活躍がありました。そのひとりが紀貫之です。

 ご存知のように貫之は「古今集」を編纂した歌人ですが、私は貫之こそ日本の文字革命を起こした重要人物だったと見ています。というのも、「古今集」には漢文による「真名序」と平仮名による「仮名序」の二つの序文があった。内容的にはほぼ同じことを書いていますが、プロトコルが違えばそこに表現されるものは変わってきます。貫之は、当時は公文書には必須だった漢文とともに、平仮名による序文をつけることで、「和漢」というデュアルスタンダードを明確に示したわけです。
 貫之はまた「土佐日記」を書いています。「おとこもすなる日記というものをおんなもしてみんとてすなり」と書いて、なんと男である貫之が女のフリをして日記を書いた。当時、日記というものは漢文で書くものでした。またそもそも日記は貴族の役人たち、すなわち男たちが書くものだった。だから女が日記を書くこと自体が革命であり、さらにそれを平仮名で書くというのは、誰も思いもつかないことだった。
 平仮名は女文字とも呼ばれ、女房たちがつかう文字でした。貫之は男ですから、あえて女文字である仮名文字で日記を書くためにトランスジェンダーしてみせたわけです。なぜそのようなことをしたのかといえば、仮名文字を使うことによって漢文では表現できない日本というものが表現できるからです。貫之はそういうことを早くも見抜いていた。
 
 そもそも平仮名というものはどうやって誕生したか。中国の美というのはだいたい左右対称でシンメトリーです。ところが日本はそれらをとりこむとアンシンメトリーに崩していく。宝相華文様や咋鳥文様のような文様もそうでした。たとえば咋鳥文様は日本では松喰鶴になって、左右対称性を崩して自由なレイアウトにしてしまう。
 漢字を取り入れたあとに日本がしたことも同じでした。きっかりとした楷書で書いていたものを、だんだん崩して行書にし、さらに崩して草書にする。草書になると漢字のかたちもどんどん崩れて、ついにはそこから平仮名というものが生まれていった。
 茶の湯にも「真・行・草」があります。利休が大成した草庵の茶が今日の茶道になっているわけですが、そのおおもとにはもちろん「真」というもの、「漢」という中国的な世界があったわけです。だとすると、利休はそれをどのようにして崩したのか、そこにはどんな方法がひそんでいたのか、そのことを知るべきです。

 先ほど話したように、茶道を知るためには日本の「座」も重要です。ところが、この「座」というものも今日の日本ではなかなかわかりにくくなっている。「座」というのは、メンバーシップによって場所や権利を占めるものですが、ただしそれは何かの価値を互いにシェアし共有するためのものだった。たんに自分たちの利益を守るためではなかった。
 ここで、今日はちょっと珍しい映像をお見せしたい。大正8年、御殿山の益田鈍翁の邸宅で、「佐竹本三十六歌仙絵巻」という美術品がばらばらに切断され断簡にされるという大事件がありました。佐竹本はいまの価値に換算すれば50億円は下らないだろうと言われるほどのものでした。当時はまだ国宝という制度はありませんでしたが、今なら国宝の最高峰になっていたでしょう。
 いったいなぜそのようなものが、ばらばらに切断されてしまったのか。

 「佐竹本」は切断されてどうなったかというと、その場に集っていた財界人たちやコレクターたちにくじ引きで分けられ買い取られていきました。そしてそれぞれ掛軸に仕立てなおされ、新しい価値をもつことになった。じつはこの断簡事件は、たった一人で占有することが困難なほど高価な「佐竹本」を、日本人の数寄者たちが分有するということを、益田鈍翁が乾坤一擲で決断したものだったんです。もしそうしなければ海外のコレクターに奪われかねなかったのでしょう。
 益田鈍翁というのは三井財閥の大番頭として名を馳せ、番年は明治を代表する数寄者として多くの美術品をコレクションした人物です。その鈍翁に声をかけられ佐竹本を分有したのも、阪急の小林一三、野村証券の野村徳七、ビール王とよばれた馬越恭平、住友財閥の住友吉左衛門、三井財閥の団琢磨など、そうそうたる財界人だった。
 当時の財界人というのは、みんな50歳にもなるとビジネスをリタイアして、日本美術や茶道に財力をそそいだ。余生を数寄者として過ごすという美意識をもっていた。そういう人々が買い集めた美術品が、今日の根津美術館や三井美術館となっているわけです。
 このシリーズでも講義をされた熊倉功夫さんは、「近代数寄者を失ったときに、日本の茶道は崩れた」というふうに見てらっしゃいます。私も同感です。戦後GHQたちによって真っ先に財閥が解体されたように、今日ではあのような大金持ちの存在は誰もがよく思わなくなっていますが、しかし当時の益田のような人たちがいったい日本の何を守ろうとしていたのかということは知っておくべきです。

 「座」をもって価値をシェアすること、それによって何かの価値を維持すること、さらにはそこに新しい価値を生み出していくこと。こういうことは今日の自由主義社会や市場主義社会とは相いれないものかもしれません。けれども私は、本来の文化、本来の価値というものはこういうかたちでしか維持できないのではないかと考えています。
 そして、その本来の価値というものの奥に、中国的な美というものがあった。明治の数寄者たちの時代まではそのことも継承されていたはずです。

 最後に、その中国的な美意識をもちつつ、日本の逸格というものをみごとに生み出した人物を、やはり映像で紹介しておきます。その人物とは、川喜多半泥子です。半泥子も明治の財界人でした。若くして百五銀行の頭取をつとめ、50代にはリタイアし、そこから陶芸にのめりこんでいった。
 半泥子のつくった茶碗は、「大吹雪」「松の内」「たつた川」など、いわゆる茶の湯でいわれる茶碗の基本からははずれたものばかりです。けれども、そこには中国の水墨山水がもっとも重視したコンセプトである「気韻生動」がみなぎっていた。すばらしいものです。
 中国では「気韻」には「神・能・妙」という三段階があるとされ、のちにそこに「逸」が加わった。日本はこの「逸」をもっとも重視し、中国にはなかった独自の山水画を生み出していきました。「逸」というのは逸脱であり逸格です。しかし「気韻」というものにはつねに「品」というものが重視された。それが「神・能・妙」である。この、中国本来の「品」と、日本流の「逸」をひとつの茶碗のなかにみごとにあらわしたのが半泥子だった。私はそのように見ています。

 いったいなぜ半泥子にこのような作品がつくれたのか。半泥子の陶芸は誰の弟子になるわけでもなく自学自習によるものでしたが、朝鮮を訪ねて土や釉薬や窯の研究をし、あるいは当時廃れつつあった備前焼の窯元を訪ね、そのなかで金重陶陽と知り合い日本の古い焼き物の技法を共同研究するなど、その方法は徹底していました。近代日本が失ったもの、あるいは失いつつあるものを、半泥子はかなり正確に見抜いていたわけです。

 私が半泥子の作品のなかでももっとも好きな「一声」。これこそ、失われた日本の奥にあるものを探求しつづけた半泥子の到達点だと思います。とてもシンプルなものですが、ここには、日本文化の目利きであった白州正子さんが最後に須恵器に行きついたことと共通するものを感じます。
 能を演じることをやめて能を綴る決心をした白洲さん。財界をリタイアして佐竹本を断簡にすることで守り抜いた鈍翁。日本の奥にある「漢」を忘れずに逸格と品をめざした半泥子。
 いまの日本にはこの半泥子の茶碗ひとつに匹敵するものが何もない。いったいこれからどうすればいいんでしょうね。ぜひみんなで考えていきましょう。

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2008年10月24日

Diary 「ときたん組」・越前探訪記

『ときの探訪』放映500回直前研修合宿

 10月10日~11日、CBCテレビの番組「ときの探訪」の研修合宿がおこなわれ、監修者であるセイゴオもスタッフたちとともに越前を訪れました。
 「ときの探訪」は毎週木曜日に放映中のミニ番組(JR東海提供)。2分半という短い時間の中に、東海道沿線の伝統工芸、祭り、建築、庭園、名所名物など、風土に根ざした日本文化を濃縮しています。平均視聴率12%以上、なんと12月11日には放映500回を迎えます。
 1997年の番組開始以来、2ヵ月に一度関係者が赤坂に集う企画会議もかれこれ12年目。年に一度の合宿旅行も恒例行事になっています。ちなみに今回の越前合宿の参加者はJR東海エージェンシーの木村典雄さん・桑原賢治さん(共に企画担当)・新谷潤一さん(前企画担当)、CBCの原田洋さん(制作担当)、エキスプレスの炭山信義さん(ディレクター)と、松岡事務所の太田香保・和泉佳奈子・栃尾瞳、編集工学研究所の石黒壮明・香川文、そしてセイゴオの11人。通称「ときたん組」です。

■セイゴオの高速越前語り
 名古屋駅で顔をそろえた「ときたん組」、11人には少し大きすぎる大型貸切バスに乗り込んで一路越前へ。岐阜を越え、滋賀を抜け、ようやく見えた日本海を横目に、突然マイクを手にしたセイゴオ。超高速で継体天皇から柴田一族までの歴史をたどる“越前語り”をはじめました。セイゴオのガイドに耳をかたむけるうちに、いよいよバスは福井の地に入っていきます。

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セイゴオの名解説。栃尾瞳がすかさず撮影。

■丸岡城でカンダタになる
 まず訪れたのは中世の面影を今に伝える古城・丸岡城。丘陵を登り古調の望楼式天守閣に入ると、薄暗い城内の中央にほぼ垂直の階段と天上から降ろされた綱が一本。「まるで蜘蛛の糸だね」と笑いつつ、綱をつかんで段差の大きな階段をなんとかよじ登るセイゴオと一行。物見櫓の四方の窓から城下の丸岡の町を一望、旅の始めの「国見」を無事に果たしました。

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日本一古い遺構の天守閣・丸岡城。
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“蜘蛛の糸”をたよりに物見櫓に登る。

■たそがれ時の東尋坊
 次に向かったのは福井の名勝「東尋坊」。東洋一を誇る柱状節理の絶景に「ときたん組」は大興奮。足場の悪さも気にせず絶景ポイントを探して岩場をとびはねる太田香保・和泉佳奈子に少しハラハラのセイゴオ。一行は、うららかな秋晴れの日本海が次第にくれなずむようすをゆったりと眺め楽しみました。

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木村典雄さんと断崖でツーショット。
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日本海と夕景をバックに記念撮影。

■繊細な匠の技・越前竹細工にため息
 二日目は「越前竹人形の里」から始まりました。以前「ときの探訪」でも取りあげた、竹人形作家・師田黎明さんの作品を見学。雪国越前の厳しい寒さに耐えた孟宗竹と匠の技が生んだ、まるで“竹の精”のような「香具夜」や「遊里」にセイゴオも一行もため息をつくばかり。

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竹人形の髪の毛ための極細の細工に感嘆。
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髪の先まで生命をふきこまれた「飛翔」。

■永平寺で写経体験
 続いて訪れたのは、道元禅師が開いた大本山永平寺。「三解脱門」と称される山門をくぐり、雲水に案内された道場で全員そろって写経を体験。背筋を伸ばして姿勢を正し、心静かに墨を磨ります。般若心経のお手本の上に和紙をかさねて、約50分かけて一文字一文字を丁寧に写していきました。実家が曹洞宗の原田さんと新谷さんは納経も済ませて大満足。

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写経途中の『摩訶般若波羅蜜多心経』。
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七堂伽藍をむすぶ大階段を、雲水をまねて駆け下りる。
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唐様の巨大な楼閣門をしばし見上げて。

■“つわものどもの夢のあと”をめぐる
 永平寺近くで精進料理をいただいた後は、一乗谷朝倉氏遺跡へ。かつて一乗谷は戦国時代に越前を治めた朝倉氏の城下町でした。四代目の朝倉孝景の頃に全盛をむかえ、越前の中心として繁栄したといいますが、今は石組や礎石が残っているだけで、ひっそりと静まっています。お気に入りの地をゆっくりとした足取りでめぐるセイゴオは、“つわものども”の面影に思いを馳せたようでした。

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セイゴオとの旅はスタッフにとっても貴重な経験。
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一乗谷川でゆっくりと煙草をくゆらす。

■越前漆器のぬくもりに触れる
 最後は越前漆器の工房「山久漆工」を見学。朱や漆黒の漆や蒔絵で彩られ、出荷を待つ重箱・屠蘇器・お椀・お盆。工房にずらりと並んだ漆器を手にとり、その風合いを楽しんだ一行。社長の山本一男さんとご子息で取締役の山本泰三さんに、越前漆器の昔ながらの手法や、現代にも通じる魅力をレクチャーしていただき、伝統を守る職人のぬくもりに触れました。

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山久漆工の社長・山本一男さんに話をうかがう。
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工房の棚で乾燥中の越前漆器。

テレビ局:CBC(中部日本放送)
時  間:毎週木曜日 19:54~19:57
放映地域:東海三県(愛知・岐阜・三重)

※「ときの探訪」番組HPもご覧下さい

投稿者 staff : 23:12

2008年10月 9日

Daiary 安田登さんと白川漢字学を遊ぶ

 10月のとある雨上がりの午後、安田登さんが突然赤坂を来訪されました。安田さんは、今一番セイゴオが注目する能楽師(千夜千冊1176夜『ワキから見る能世界』)で、これまで那須・七石舞台「かがみ」のお披露目、鎌倉・鶴岡八幡宮でのハイパーコーポレートユニバーシティ合宿、静岡・美保の松原の未詳倶楽部と、様々な場所で極上のパフォーマンスやレクチャーをご披露して頂きました。
 実は、能楽師以外にも漢和辞書編集者、ロルファーなどたくさんの顔を持っている安田さんは、現在、孔子の『論語』についての本を執筆中。その資料調査のためにセイゴオの蔵書をごらんになるというのが今回の来訪目的でしたが、居合わせたセイゴオとのあいだで、ひととき漢字の発生や白川文字学をめぐって、談議がおおいにもりあがりました。
 折りしも、セイゴオは11月に平凡社から出版予定の『白川静入門書(仮)』の仕上げのまっさいちゅう。また安田さんは、未詳倶楽部で甲骨文字の解読ワークショップをされたほどの漢字通(そのときのようすは安田さんのブログにも紹介されています)。近頃二人は会えば甲骨・金文・漢字をめぐっているのです。

安田登さんのブログはこちら

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2008年10月 6日

Diary 空中絶景茶席開きの会

 神無月の月立ちの日、南青山に新設された日本オラクルの茶室「聚想庵」の席開きの茶会が催されました。2年ほど前、日本オラクル元会長の新宅正明さん(現在エグゼクティブ・アドバイザー)から相談を受け、遠州流の小堀宗実家元とともにアドバイザーとしてかかわってきたセイゴオ、この日は小堀宗慶宗匠とともに正客として招かれました。

 この茶室は、アメリカ本社代表で日本通のラリー・エリソン氏の意向を受けて、今年6月に南青山に移転した本社ビルの最上階の24階につくられたもの。黒板塀の露地や、目にもすがすがしい竹や植え込みや苔の緑、そして選りすぐりの逸材を取り合わせた茶室は、ビル内とは思えないみずみずしい風情。しかも高層階とあって、秩父宮ラグビー場と神宮球場を眼下におさめ富士山も望むことのできる空中絶景を借景にした贅沢な空間です。

 茶席開きに先立って行われた「聚想庵」扁額式では、命名者であるセイゴオがまずごあいさつ。この名前には、大切な人々とひととき思いをともにする「一期一会」の意味を込めたと語りました。またその語感には遠州好みの窓の多い開放感ある茶室の雰囲気や、オラクル(神託)のもつメッセージ性にもこだわって「目」や「耳」といった漢字を含む文字を選んだとのことです。

 続いて、小堀宗慶ご夫妻、ディベロッパーの三井不動産、工事を担った清水建設の各代表、宮崎木工の西岡棟梁やオラクル代表やセイゴオらが、二グループに分かれて、宗実家元のお点前による席開きの茶をいただきました。茶道初心者の多い席だったこともあり、家元と喜美子夫人、それに正客のセイゴオも、場の緊張をほぐしなごませながらときに解説や指南もしながらの、心温まる席開きとなったようです。

 なお、新宅さんは、日本の職人の技を生かしたこだわりの逸品「セイゴオ好み・時分」を制作・頒布する組織「品組」の代表でもあります。6月に発表した組子手文庫が好評ななか、間もなく第2弾として本染と友仙型染の風呂敷をリリース予定。さらに今年から来年にかけて、小堀宗実家元とセイゴオのコラボレーションによって、遠州好みの新しい茶箱を制作予定です。

 品組ホームページもご覧ください。

「聚想庵」扁額
初披露された「聚想庵」扁額。書は小堀宗実家元による。

織部燈籠と手水鉢
空中絶景を背景にした織部燈籠と手水鉢

宗実家元・新宅さんと
無事に茶席開きを終えた宗実家元・新宅さんと

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