セイゴオちゃんねる

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2008年6月30日

Publishing 現代女性・現代日本に提言する

◆ナマな女性像を考える―『ランティエ』連載第6回
 
  『ランティエ』で連載中の 「男と女の資本主義」第6回のテーマは、「ナマの女性像を考える」。話題のベストセラー『女性の品格』や島崎今日子『この国で女であること』の語り口を紹介しつつ、しかしセイゴオは、「もっともっと大胆に女性が女性を、さらには歴史や世界のことを語る思想があっていい」と説く。
 セイゴオのお勧めは、上野千鶴子やジュリア・クリステヴァやダナ・ハラウェイ。とりわけ、ダナ・ハラウェイの『猿と女とサイボーグ』は、ラディカル・フェミニズムの立場から、サル学と女性学と科学にひそむ偏屈な男性的社会観を切り崩す痛烈な書。「いまや女はサイボーグとしての自覚をもったほうがいい」「いったい人類史の思想にとって、何が本当にナマなのか」といったきわどい切り口に、セイゴオは新しい「女性の品格」の萌芽を見つめているようだ。猿と女とサイボーグを表象させたセイゴオ遊書「傀儡子」も掲載されている。

書 名:『ランティエ』2008年7月号
発 行:株式会社角川春樹事務所
発売日:2008年5月24日
価 格:880円(税込)


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◆「日本型資本主義のすすめ」―雑誌『現代』のインタビュー

 月刊『現代』7月号に、「日本型資本主義のすすめ」についてのセイゴオのロングインタビューが掲載されている。グローバル資本主義の名のもとに世界中にひろまった民主化と画一化と市場化に、日本がどう立ち向かうべきかを提言したもの。
 イギリスの植民地政策を起源とし、アメリカの「ゲーム理論」によって世界大にまで拡張されたグローバリズムとは、セイゴオの見方によると、「裸の王様」にすぎない。しかしそうやって民主主義と資本主義が結びついたアメリカンドリームを、日本は絶対的価値として受け入れてきた。しかし、本来、ものごとの価値観は西洋と東洋とでは異なっていたはずである。日本はいまこそ、東洋的な多神多仏の価値観の中にひそむ可能性を見出し、グローバリズムという名の西洋的・一神教的な資本ゲームから脱却すべきではないか。
 最後にセイゴオは、日本独自の「苗代」という方法を取り上げ、日本から世界に向かって提案すべき「選択可能性」という新しい思想について説いている。

書 名:『現代』2008年7月号
発 行:講談社
発売日:2008年5月31日
価 格:750円(税込)

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投稿者 staff : 20:52

2008年6月18日

Report 母校早大で「千夜千冊」を語る

 5月某日、セイゴオは、母校の早稲田大学でゲスト講師として、「本の読み方」をテーマに約90分の講義を行いました。これは、田原総一朗塾長による「大隈塾」の1コマで、毎回さまざまなジャンルのプロが学生たちに“本気の話”をする人気講座です。ちなみに、塾長代行の高野孟さん(『インサイダー』編集長)は、セイゴオの早大時代の同級生。田原さん・高野さんは『世界と日本のまちがい』を読み、その方法論に感銘を受け、今回の講義を企画されたそうです。

 会場となった早稲田キャンパス中ほどの14号館地下(セイゴオ在学中はまだなかった校舎らしい)の大教室には、200人を超える生徒が詰めかけ、満席でした。7割が男子学生で、この日はとりわけ院生・卒業生たちも熱心に聴講していたようです(セイゴオの時代に比べると、ずいぶんオシャレな学生が多かったらしい)。

 講義に先立って、高野さんがセイゴオを紹介しながら、熱弁を奮いました。

 「私はあまり人を尊敬することが少ないんだけれど、今日お呼びした松岡さんは、私がとうていかなわないと思っているスーパー編集者です。みなさんのなかにはジャーナリストを志望する人も少なくないと思うけど、新聞の論調にだまされて、マスコミの文脈に魂を吸い取られているような読み方をしているようでは、何の役にも立たない。今日、松岡さんに話してもらうテーマは[本の読み方]です。自分の文脈を発見しながら読書するという、松岡君の方法をぜひ学んでほしい。では、ウェブに[千夜千冊]を書き続けてガンになってしまった、でも今は元気に復活された、本きちがいの松岡さんです」。

 ステージ上のスクリーンに「千夜千冊」のウェブ画面が映し出され、そこに登壇したセイゴオ。冒頭で「“本きちがい”の松岡です」と笑いを誘いながら、「このなかに、[千夜千冊]を覗いてくれたことのある人はどのくらいいるかな」と訊ねると、40~50人ほどの手が挙がりました。「結構読んでくれてるんだね」と満足しながら、次に「このなかで、自分の本棚を持っている人はどれくらいいるのかな」と質問。今度はほとんどの学生が手をあげました。「最近の学生はCDラックは持っていても本棚を持っていないと聞いてましたが、みなさんは違うんですね」と、しきりに感心。

 今日の講義について、「千夜千冊」を通して「本の読み方」を語るというアウトラインを示し、最初にまず読書の基本的なスキルについて話を始めました。

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■本気で本と接する

 皆さんは、本とはどういうメディアだと思いますか。テレビやブログやグーグルに比べると、古いメディアだと思っていませんか。私は、本というものは、2000年以上にもわたってフォーマットを変えていない、最強のメディアであると考えているんですね。
 本のフォーマットには二つの大事な特徴があります。一つ目は、コンテンツが“ダブルページ(見開き)”の単位になっているということです。すべての知のクラスターがあのダブルページに収まっている。じつは、人間のアイスキャニングのスピードや、両眼で見渡したときにキャッチできる情報量を考えると、ダブルページというのは高速に情報を読み取るのに最適なフォーマットになっています。
 二つ目は、本がどんなコンテンツも入れられる“器”であるということです。表紙と背と裏表紙があり、バインディングされた頁のなかには、ギリシャ神話も革命もカップラーメンも、政治も哲学も科学も、ありとあらゆるものが盛り込めるわけです。
 こういった永遠のフォーマットのなかに、著者と版元と編集者、さらには取次や書店までが加わって、膨大なコンテンツを組み立ててきたものが、本という世界です。

 「本の読み方」を身につけるには、こういった本の特徴やフォーマット、また本の造られ方までよく知っておくことがまず重要です。その上で、書店に並んでいるたくさんの本の中の1冊と、本気の出会いをしてほしい。
 今では文庫や新書のようなコンパクトで便利なものがたくさん出回っていますが、本当に本の世界に触れたければ、絶対に単行本を手に入れるべきです。また、単行本を買うときには、表紙のデザイン、本文の紙質やフォント、レイアウトまでよく見て、スタイルも含めて選ぶ気になるといい。そうすれば、ファッションを選ぶときと同じように、自分の肌に合う一冊がきっと見つかります。


■目次を見る・書棚を読む・マーキングする

 次に、実際に目当ての本や好みの本を手にしたときに、まずどうするか。
 ここでぼくがとくにお勧めしたいのは、「目次読書法」です。すぐに中身をパラパラとめくって見るのではなく、まずは目次をじっくりと見てほしい。
 目次というものは、著者と編集者がコンテキストを結晶化させたものです。何よりも確かなディレクトリなんですね。これを使わない手はない。そこに書かれている章タイトルや見出しを見て、「他民族の文化」って何だろうとか、「ブルースの崩壊」って何のことだろうとか、頭の中に疑問を想起させながら内容を想像してみる。これをしておくだけで、実際にページを繰って本を読みはじめたときに、おのずと読むスピードが速くなるはずです。また、少々内容の手ごわい本でも、著者のロジックに引っ張られずに、自分のペースで読むことができるようになります。もちろん、目次を見て想像したことよりも内容がつまらなさそうなら、そんな本は買わずにもすむ。

 それから、書店で本を選んだときには、必ずその両脇の本も見るようにする。これを続けていると、その分野の本の地図のようなものがだんだん自分のなかにできあがっていきます。とくに今は、グーグル検索社会であり、“親指一発ケータイ主義”社会です。いくら検索エンジンの性能が上がって便利になっても、このような社会に浸かっていたのでは、知識情報の基本マップがいつまでたっても自分の身に付かない。
 その点、書棚のように関連情報が上下左右にも並んでいる空間ではチャンスです。書棚まるごとを本の目次を見るように眺めるといいわけです。が、とりあえずは、目当ての1冊の両脇を見ておくだけでも、ずいぶん本の読み方が変わってくるはずです。

 もうひとつ、本をノートのようにつかう「マーキング読書法」もぜひ勧めたい。読書には楽しみも多い反面、重大な欠陥があって、それは読み終わったとたんに、内容を忘れてしまうということです。マーキングはその解決策になるんですね。
 ぼくは学生のころ、レーニンの岩波文庫版の『哲学ノート』(岩波文庫)を見て、レーニンがどういうふうに本に痕跡を残したのかを見て、すごく憧れました。以来、自分なりにいろんなマーキングや書き込みを試して、本をノートのようにする、本を徹底的に汚すということを実践しています。


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■千夜千冊で伝えたかったこと

 では、今日の話の本題に入ります。ぼくがどのようにして「千夜千冊」を書いてきたかということを、お話ししたい。「千夜千冊」というのは、「本を読むこと」を、そのまま「本を書くこと」につないでいくという、ぼくなりの編集エクササイズだったわけですね。著者の組み立てたコンテキストを紹介しながら、そこにぼくの実感的な読書体験も加えて、新たなコンテキストに組み替えていくということを毎晩毎晩やり続けました。

 「千夜千冊」は、2006年に全集にもなりました(スクリーンに映像)。このとき、自分の書いた1144冊分の「千夜千冊」の原稿に手を入れて、場合によっては書き直しもし、さらにシャッフルして組み変えて、7巻というフォーマットに組み立てしました。今から、それぞれの巻の構成についてちょっと説明します。それによって、ぼくが「本の読み方」を通して、どのような世界観をもってきたか、すなわち、世界の読み方・見方をしてきたのか、ということを話します。

1)第1巻・遠くからとどく声

 わたしたちの世界は、「ここ」(here)と「むこう」(there)からできています。自分が属しているところが「ここ」だとすると、「むこう」というのはどこか遠い町や国のことですが、書物の世界ではそれが浄土と呼ばれたり、ユートピアと呼ばれたりしてきました。あるいは、ヨーロッパ人の描く世界では、つねにアジア的なものも「むこう」とされてきた。今は「ここ」にあるもの、自分の周りにあるものが文学やファッションやスタイルになっていく時代ですが、かつては「むこう」の世界こそが、膨大な書物のなかで繰り返し繰り返し語られてきたんです。
 第1巻「遠くからとどく声」は、いつのまにか忘れられてきた「むこう」の声を、微かなささやきやざわめきとして、「ここ」に届けてくれる文学的作品を集めた巻です。
 たとえば第2章「少年たちの行方」と第3章「リボンの恋」には、少年少女が憧れた遠方の世界がいろいろと出てきます。スティーブン・キング『スタンド・バイ・ミー』の鉄橋を越える少年たち、船でミシシッピー河を渡るハックルベリー・フィン、あるいは樋口一葉の『たけくらべ』などを通して、幼な心が初めて見染めた“むこう”の感覚を、かなり充実させてあります。

 なぜ少年少女は遠いものに憧れるのか。いったい「むこう」とは何なのか。いまのハリウッド映画はたいてい宇宙から未知のものがやってくるという話になってしまっていますが、本来は何か「むこう」というものを感じる、そこに思いを馳せることで、ふとしたときに、「むこう」から名状しがたいメッセージがやってくるのではないか。「むこう」からやってくるものは、こちらから投げかけたことへの返事なのではないか。
 そういう遠方からやってくるものをまとめたのが、第5章「遠方からの返事」です。ここには上田秋成『雨月物語』や折口信夫『死者の書』のように正体不明の兆しを扱った本から、A・C・クラーク『地球幼年期の終わり』、J・G・バラード『時の声』のような、“未知との遭遇”を描いたSFまでを収めてあります。

 このような“ここ”と“むこう”のメッセージの往来から、空間を超えた時の連なりが生まれていきます。第6章「時の連環記」は、仏教的な世界観を元にした幸田露伴の『連環記』をかわきりに、夏目漱石『草枕』、ローデンバック『死都ブリュージュ』、夢野久作『ドグラ・マグラ』のような迷宮的な世界にまで入っていきます。
 こうして、最後は、誰もが帰るべき場所に戻っていく。ただし物語の世界では、たいてい故郷というのは次第に遠のいていく世界、失われていく世界です。これが第9章「ノスタルジアの風味」に凝縮させた感覚です。ここにはエリアーデの『聖なる空間と時間』から、アンドレイ・タルコフスキーの評伝までが入っていますが、ぼくはこういう感覚を、「ハイパー・ノスタルジア」と呼んでいます。そういう感覚を喚起させる本ばかりを集めた章です。
 そして結局、自分の魂が帰っていくところは、見たこともないどこか遠くの町である、ということで、第10章「忘れがたい町」へつながっていく。最後の「方舟みちあふち」という章は、西行や良寛といった漂泊の精神や、澁澤龍彦『うつろ舟』で締めくくっています。
 
2)第2巻 猫と量子が見ている

 第2巻にはサイエンスの本を集めました。はじめの第1章「理科の黒板」は、ぼくの少年・青年時代の科学との出会いを凝縮させた章です。とりわけ、『俳句と地球物理』の寺田寅彦には、ぼくは大きな影響を受けています。トラ猫やシマウマの模様に「割れ目」を発見し、昼下がりの喫茶店で、ふと宇宙線が通過したことを感じるような“粋”な感覚の持ち主です。ぼくに「読書する科学」という見方を教えてくれた人です。
 それは、やがて第3章「数学的自由」に書いたような考え方にもつながっていった。数学というのは難しいものだと思われてますが、本来は「自由」のための方法だったんじゃないか。そういう視点で、ここにはラプラスやゲーデルやフェルマーの定理といった本が並んでいますが、皆さんにもぜひ勧めたいのは岡潔の『春宵十話』ですね。きっとこれを読むと涙ぐむと思います。
 岡さんは、自然というものは人間の心のなかにこそ属しているのではないかと考えた人です。数学者が「1」を考えるときには、何か抽象的な基準がある。けれども人間はそんな「1」では生きていけない。たとえば、「春の泥」というものがある。そういうものを「1」では表現できないではないか、と言うんですね。そうして、「ある」を考えるには、自然に「ある」ことと心に「ある」ことの二つを考えるべきである、春の野に咲くスミレのような数学こそが必要である、と説きました。

 第4章「光と量子の物理学」、第5章「時空をつくる紐」には、ケプラー、マッハ、アインシュタインから、スティーブン・ホーキングまでの、古典から現代までの天文学や物理学の本をずらっと揃えてあります。ぼくは、若いころから今にいたるまで、宇宙物理学についてはだいたい最新の本を追いかけて読み続けてきました。
 宇宙の見方というものは、今もどんどん進んで、複雑なものになっています。最近はスーパーストリングス理論、ひも理論といって、物質の究極の姿を「11次元のひも」としてとらえ、その物質イメージと宇宙の成り立ちを重ねるという方向になってきていますが、こういう科学の方法は、私がふだん携わっている編集の仕事にもさまざまなヒントをもたらしてくれるんですね。
 科学になじみのない人でも、ハイゼンベルクの不確定性原理などは、ぜひ一度ご覧になるといい。これは20世紀のもっともおそろしい理論です。物質の姿というものは我々人間には観測ができない、知ることもできない、不確定性であるというものです。こういう科学の世界観を取り入れておくことは、社会や人間の見方にも、決定的な影響をもたらしてくれると思います。

 ぼくはまた、生命科学や動物学の本も折々読むようにしています。第7章「ジーンとミーム」、第8章「虫の耳・象の胸」にはそうやって最近読んだ本も含めています。たとえば、遺伝学ではジェノタイプ(遺伝系)とフェノタイプ(表現型)といった二つの見方をするんですが、こういう考え方は本を読むときや思想を学ぶときにも、たとえばもともと奥にあった文化の層と、ある時代に表現として出てきた文化の層を分けてみるといったように、たいへん役に立つんですね。あるいは生物多様性というものは遺伝子のプリントミスによって生まれたものですが、こういう話も、文化多様性や言語多様性と重ねて見ていくといいと思います。
 この巻の仕上げの第10章「オブリックな複雑系」では、世界の知というものを思いっきり斜めに切り取るという方法を、いろいろと紹介しています。


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3)第3巻 脳と心の編集学校

 ぼくの専門である「方法=メソッド」と「編集=エディティング」に関わる本を集めて、ごく身近な入口から広い出口までを順序だてて紹介した巻です。「脳と心」というのは、ヴィトゲンシュタインが「カタル」(語る)と「シメス」(示す)を分けない哲学を探究したことに、ぼくなりの敬意を表した表現です。
 人間は編集する動物であり、人間を取り巻く環境も編集された情報で成り立っています。なぜそうなっているかというと、人間が言葉と文字を持ったからですね。第2章「文字の国の消息」では、白川静『漢字の世界』やリービ英雄『日本語を書く部屋』など、われわれ日本人が漢字文化圏に住んでいるということを思い起こさせる本を、取り上げています。

 第3章「声と手のテクスト」と第4章「脳の現象学」では、中世に活版印刷技術が登場したことによって、それまでの音読社会が黙読社会に変化したという、人類の編集文化史の重大事件を核にしています。かつてはヨーロッパでも日本でも、文字というものは音読されるものだったんですね。つまり聴覚的な回路を通して文字が読まれていた。
 聴覚を通さずに黙読で文字を読むようになると、たいへん意外なことが起こりました。人間が「無意識」を持つようになったんですね。第5章「あやしい意識の正体」ではフロイトとユングとラカンを取り上げてその「無意識」の正体を探っていますが、そもそも人間の脳と心は、「言葉」と「文字」によって作られ、変化してきたということが言えるわけです。

 ここまでがぼくの世界観の前提としている書物の紹介で、ここからが書物という世界観、さらには編集的世界観を案内するための本です。第6章「書物と本棚の悦楽」、第7章「エディターの仕事」、第8章「物語という秘密」というふうにしてあります。なぜここに「物語」が入っているのかというと、ぼくは、物語こそが古来このかた編集的世界観を劇的に保存してきた様式であると考えているからですね。


■「本の読み方」から「世界の読み方」へ

 この調子で話していると、7巻全部の説明は無理ですね。残り5分になってしまいました(笑)。ここから先は、ごく簡単に紹介しておきましょう。
 第4巻「神の戦争・仏法の鬼」は世界的な時代展望を指し示した巻です。『ヨブ記』からドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』、そしてアントニオ・ネグりの『構成的権力』までを取り上げています。
 第5巻「日本イデオロギーの森」では、この国の奥をみるために必要な本を集めました。はじめに中国の側から日本を見て、だんだん混合文化を受け入れてきた日本の方法に目を移し、最後は司馬遼太郎の『この国のかたち』で締めくくっています。
 第6巻「茶碗とピアノと山水屏風」は、古今東西のアーティストを勢ぞろいさせた巻です。絵画から写真、古典芸能からポップミュージック、枯山水から現代建築まで、ほとんどのジャンルを網羅しています。
 第7巻「男と女の資本主義」は、編集途中で広辞苑よりも厚くなってしまい、東京中のどの製本屋さんでもつくれないと言われて苦労した巻です。結局、本文紙を薄くすることで何とか一冊にまとめました。「欲望と社会」をテーマに200冊ほどの本を劇的に並べてあります。政治もメディアもフェミニズムもネット社会も、すべて欲望社会に取り込まれてしまったのではないか、という辛口の視点を込めています。

 途中から駆け足になりましたが、これがぼくの「千夜千冊全集」であり、これがぼくの本の読み方、そして世界の読み方です。皆さんも、本を読むことを特別な行為とか知的な行為と思いすぎずに、もっと自由にいろいろと工夫して読んでみてください。

投稿者 staff : 22:35

2008年6月 9日

News 連塾「JAPAN DEEP 1」申込受付中

松岡正剛「連塾」が、いよいよ第三期「JAPAN DEEP」(全4回)に突入。セイゴオが「日本という方法」をソロで語りつくした第一期と、極上のゲストを呼んで知とアートのスペクタクルを繰り広げた第二期は、延べ約1800人の各界のリーダーやクリエイターを夢中にさせました。そして第三期は、格別な語り手とセイゴオがダイナミックにシナジェティックに、日本の深層を浮き彫りにします。

「JAPAN DEEP 1」は、2008年7月5日(土)、赤坂のドイツ文化会館・OAGホールで開催します。ゲストは、岡野弘彦さん(歌人)、押井守さん(映画監督・演出家)、井上ひさしさん(作家・劇作家)。時代に断ち切られたさまざまな「日本の面影」をめぐって、セイゴオが3人とたっぷりと交し合う7時間です。

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松岡正剛「連塾 JAPAN DEEP 1」

日 時:2008年7月5日(土)12:00受付開始13:00~20:00
場 所:ドイツ文化会館・OAGホール

ゲスト:岡野弘彦(歌人)
    押井守(映画監督・演出家)
    井上ひさし(作家・劇作家)

主 催:有限責任中間法人連志連衆會
参加費:3万円
申 込:どなたでもご参加できます。必ず事前にお申込ください。
     連志連衆會・事務局 渡辺
     電話 03-3587-9201/FAX 03-3568-2201

連志連衆會ホームページ http://www.renrenkai.jp/

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投稿者 staff : 15:02