セイゴオちゃんねる

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2008年4月26日

News NHK教育「知るを楽しむ 白川静」再放送

 2月に放送されたNHK教育テレビ「知るを楽しむ 私のこだわり人物伝-白川静」が大変好評につき、再放送が決定しました。
 「60年間ずっと日本語を理解したいと思っていたがここまできてようやく念願がかなった」「白川さんがのりうつったかのように漢字解説する松岡さんの様子に身震いがする知的興奮をおぼえた」「古代中国から現代日本まで一気に語れる人がいることを始めて知った」など、これまでに松岡正剛事務所にも様々な番組感想が届いています。セイゴオが伝えたかった白川静さんのおもかげは、強いメッセージ力をもって番組内に立ち上がったようです。2月に見逃してしまった方は、ぜひこの機会にご覧ください。

◆放送局
NHK教育テレビ

◆テキスト  ※在庫あり
NHK知るを楽しむ「私のこだわり人物伝」2008年2月3月放送
日本放送出版協会 683円(税込) 

◆放送日時
第1回 神と交感する漢字 4月28日(月)  午前10:05~午前10:30
第2回 白川静という奇跡  4月29日(水) 午前10:05~午前10:30
第3回 古代中国に呼吸する  5月1日(木)午前10:05~午前10:30
第4回 漢字=日本の文字革命 5月2日(金)午前10:05~午前10:30


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2008年4月22日

Publishing [対訳ニッポン双書]『茶の本』に序文を寄稿

 [対訳ニッポン双書]シリーズ・岡倉天心『茶の本』に、セイゴオが序文を寄稿しました。1906年にニューヨークで出版され、茶道という「生の芸術」をもつにいたった日本人の「負の想像力」を説こうとした天心の試みが、いまなおはかりしれない響をもっていると讃しています。

『茶の本』はまるで透き通った虫の翅のように薄い本であるが、その翅がひとたび震えると、日本精神の真髄が遠くまで響いていくものになっている。
      ―――松岡正剛

 「千夜千冊」でも第75夜『茶の本』をはじめ、『茶の本』についてしばしば言及してきたセイゴオ。その一部を紹介します。

『茶の本』に含蓄された判断と洞察は、いまなお茶道論者が百人かかってもかなわないものがある。
      千夜千冊第75夜『茶の本』岡倉天心より
まず天心の『茶の本』を読み、次に南坊の『南方録』を読んで欲しい。この二書は数ある茶書のなかでも抜群に教えられることが多く、おもしろい。
      千夜千冊第939夜『南方録』南坊宗哲より
久松真一の茶道をどう見るかというなら、その先駆的だった「侘び」の思想はその後の茶道論のなかでほとんど咀嚼されてきた。岡倉天心の『茶の本』があり、次に久松真一の『茶の精神』があったのである。それはいまや茶の心の根底になっている。
      千夜千冊第1041夜『東洋的無』久松真一より
ぼくは岡倉天心の『茶の本』初読においてタオイズムにめざめ、ついで内藤湖南と幸田露伴を知ってまたまたタオイズムに出会い、さらに富岡鉄斎の水墨にタオイズムの極上を知った者である。
      千夜千冊第731夜『夜船閑話』白隠より


『茶の本』表紙
書 名:[対訳ニッポン双書]茶の本
発行日:2008年4月8日
発行所:IBCパブリッシング
価 格:1200円+税

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2008年4月13日

Publishing オピニオン誌『VOICE』『中央公論』に連続登場

■『誰も知らない世界と日本のまちがい』好評

 各メディアの書評や、書店でのセイゴオフェアなどで『誰も知らない世界と日本のまちがい』がますます絶好調。月刊『VOICE』の連載コラム「BOOK STREET この著者に会いたい」では、『遊』のころからのセイゴオファンで千夜千冊の愛読者でもある編集者・仲俣暁生さんのインタビューをうけました。大量のコンテンツとコンテキストをどのように編集したのか、素材選び、盛り付け方、食べ方にいたるまで、セイゴオの世界読書&編集メソッドが明かされています。

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平成20年5月号第365号「VOICE」
定価 680円
発行 2008年5月1日(発売中)
PHP研究所

■セイゴオの「知」の現場を公開

 『中央公論』の巻頭カラーページ「私の仕事場」にセイゴオが登場。撮影場所は赤坂・編集工学研究所1階のPIER(橋)と名付けられた共有スペース。ここは、東西の神話時代から近現代の各国史までの本があふれる“世界読書の間”。まさに、セイゴオの脳とリンクしたアーカイブですが、ときに深夜まで議論が交わされるサロンスペースとなり、編集学校のセミナールームにもなり、またセイゴオが戯画遊書をたしなむ工房にもなります。


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平成20年5月号 第1489号「中央公論」
定価 800円(税込)
発行 2008年5月1日(発売中)
中央公論新社

投稿者 staff : 23:37

2008年4月10日

Diary 田中優子さん・内藤廣さんと「図書街」を語る

 3月10日、神田・学士会館で「図書街シンポジウム2008」が行われました。主催はNICT(独立行政法人情報通信研究機構)。セイゴオの基本構想をもとに、北海道大学・慶応大学・京都大学および編集工学研究所が3年ごしで進めてきた技術研究の成果を披露する場とあって、当日は雨にも関わらず、図書街の将来性に関心を寄せるさまざまな企業人やクリエイターなど約150人が参加しました。

 「図書街」は、古今東西の600万冊の本を収蔵する、壮大なWEB上の街。セイゴオの編集的世界観にもとづいて配置された本棚と書物の街路空間であり、文脈検索や連想検索によって自由に書物間を移動することが可能なアクティブなマルチデータベースでもあります。
 その具体化のために、昨年から1年間をかけて開発されたのが、京都観光と図書街空間をつなぐ「京都観光ナビゲータ」。三部立て4時間におよぶシンポジウムの第一部と第二部で、プロジェクト・リーダーである金子郁容氏(慶応大学)をはじめ、田中譲氏(北大知識メディアラボラトリー所長)、土佐尚子氏(京大学術情報メディアセンター)ほか、実際の開発にかかわった研究者やデザイナーが次々と登場し、「京都観光ナビゲータ」のお披露目をしました。

 後半の第三部では、いよいよセイゴオが登場し、江戸文化研究家の田中優子さん、建築家の内藤廣さんとともに、知識情報と都市の関係や人間の知覚とメディアの「あいだ」をめぐる話を交わしつつ、今後の図書街プロジェクトの方向性を探るトークが展開されました。

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■建築土木と情報空間

松岡:建築や土木はつねに情報空間と闘ってきた。人々はINした情報をOUTするために、土地を開拓し、道路と鉄道をはりめぐらし、上下水道をつくり、ついには電話網をつくってコンピューター網を乗せた。その後、コンピュータ社会はホストマシンを失って、情報がクライアントサーバー方式でフラットにつながった結果、情報の多くがグーグル化した。今のこういった情報社会をどう見るか。

内藤:もしこの瞬間に震度8の地震がきたときに、人間がつくってきたシステムはすべて瓦解する。そうなると、生命、水、排泄といった身体的な問題がインフラ問題としてリピートされるはずだ。ただし、ここまで情報社会が迫ってくると、非常時に一番必要なものは情報であるともいえる。どうも、現代の情報社会というのは、身体と情報の「あいだ」がぬけた構造になりつつあるのかもしれない。

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■書物がある空間

内藤:いまコロンビアで図書館をつくるプロジェクトにかかわっている。あそこの子供たちを見ていると、情報と人間のあるべき姿を考えさせられる。彼らにとって書物はまるで砂漠の水のように知の渇きを潤している。一日3000人ほどの人が図書館を使い、夜の10時になっても本をあさり、ネットの前には人が群がっている。日本は豊かになりすぎて、そういった書物や「知」との、基本的な関係が希薄になっている。

田中:私も子供のころは、コロンビアの子供たちと一緒だった。新刊には手が出ないから、古本屋と貸本屋と図書館に通いつめ、むさぼるように本を読んだ。繰り返し繰り返し同じ本を読んだ。そういうふうにして小さい頃に読んだ本は、今でも自分の血肉になって残っている。

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■“あいだ”にある書棚

松岡:情報をパッケージするモデルとして、書物とともに書棚も注目したい。書棚は、人間の知覚や身体が外部化したものであって、まさにハードウェアとソフトウェアの間にあるもの。ホロニックで断片的な情報が、書物や書棚というトータルな情報となり、それが人格をあらわしたり文脈を形成したりしていく。

田中:ステンドグラスや装飾彫刻が詰まったゴシックの教会建築は、まさに「書物」であり「本棚」だった。それを象徴するように、印刷技術の発達とともに教会建築は衰退してしまった。ただし、建築には「背表紙」がない。背表紙は、その情報の位置取りを示しつつ、中身をすべて明かさないためのテクニック。だからこそ、背表紙から広がるイメージは何回でも読み替え可能で、それによって本棚を自分のコンテキストによって何度でも組み替えることができる。

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■ディレクトリーと浮世絵と建築

松岡:出来のいい本表紙やカバーは読者の想像力をかきたてるが、それをコンピュータ化するにはどうするか。どういうポータルがいいか、どういうディレクトリーがいいかということに、みんな方法が持てないでいる。

田中:江戸文化の場合は、ディレクトリーを追求した結果、浮世絵が大いに発達した。実際に、浮世絵師の初期の仕事は本の表紙や挿絵を書く事だった。表紙にはストーリーのおかしさやおどろおどろしさが滲み出るようなものが求められたので、絵師たちが腕を競った。「図書街」も背表紙と表紙はぜひ重視してほしい。

松岡:建築物におけるディレクトリーはどうか。建築構造と情報空間と人間の認知構造の関係は何を基準に、どう結びつけられているか。

内藤:人間の身体や感覚が、建築や都市の情報空間とどう関係づけられるかは、まだ研究が進んでいない。とてもデリケートな問題である。たとえば「スクラッチタイル」は距離によって印象が大きく変わるようにつくられているが、素材ひとつをとってみても、光や湿度によって見え方や感じ方が変わる。その判断はいまのところ建築家の原始的な体験にもとづいているという段階だろう。近い将来、それらをデータ化してなんらかの手法が出てくる可能性があるが、おそらく10年くらいはかかるのではないか。


投稿者 staff : 13:05

2008年4月 6日

Publishing 『山水思想』文庫で登場

 2003年、五月書房から刊行された『山水思想』が、ちくま学芸文庫になりました。

 日本画の“床の間主義”を打破し、『炎炎桜島』『塔』『ウォール街』『波濤』といった破格な大作で一斉を風靡した横山操が、病に倒れ右半身不随となって、もう一度見つめなおした水墨山水の「日本」。本書は、中国の画法や神仙タオイズムに始まり、日本の禅林文化と法華文化を経て、明治期の天心らによる「日本画」へと変遷をたどった水墨山水の精神の奔流を詳述しつつ、雪舟・等伯から横山操へと継承された「負の想像力」を浮き彫りにしていく、松岡正剛ファン必携の一冊。
 

私は「主題」よりも「方法」に関心をもっている。方法が主題を包摂すると考えてきた。それゆえ、私は本書で、日本の水墨山水画にひそむ「方法」は、はたして日本の風土や日本の芸術芸能に特有のものなのかどうかということを、またそこにはわれわれが忘却してしまった重大な「方法」がひそんでいるのではないかということを考えつづけた。(「あとがき」より)


 なお、本書の文庫化にあたって、建築家の内藤廣さんが「解説」を寄稿してくださっています。
 

いつもなら、大人が子供に説明するように丁寧に文化の深淵を解き明かしてくれるのだが、この本では松岡さん自身が手探りの所がある。それが大きな魅力になっている。本の冒頭からいきなり「雪舟から等伯への道程をたどってみたかった」という横山操の言葉を引き、日本画を巡る意識の問題に肉薄する。序破急の序がない。いきなり破から切り込んでいる。当たり前のように眺めていた風景が一転する。われわれの思考停止を打ち砕く。何も分かっていなかったのだ。そう気づいた瞬間から松岡さんの思索の道連れとなる。(内藤廣さんの「解説」より)


『山水思想―「負」の想像力』
ちくま学芸文庫

2008年4月10日刊行
1500円(税別)
カバーデザイン:戸田ツトム

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投稿者 staff : 13:44

2008年4月 5日

Daiary 談志師匠の名答、爆笑問題と問答

 3月のセイゴオは、立川談志さん・爆笑問題と、テレビ対談が相次ぎました。3月9日放送の「立川談志まるごと10時間」(NHK-BS)、そして4月1日放送の「爆笑問題のニッポンの教養―松岡正剛・編集工学」(NHK)。いずれの相手とも初対面だったセイゴオですが、語りと笑いを磨き続ける芸人さんたちの「ひたむきさ」と「自己観察力」に触発されたのか、冷静ながらも包容力のあるエディターシップを発揮。とりわけ「ニッポンの教養」では、セイゴオをインタビューするはずの爆問がセイゴオに逆インタビューされるという六曲一双屏風のような展開となり、放送後は爆問ファンや番組ファンからも大反響があったようです。

◎「立川談志まるごと10時間」より(3月9日放送)

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松岡: 談志さんは物事の“キワ”をはっきりとさせますよね。日本の「ここ」はいいけど「ここ」はどうしても許せないとか、この落語の「ここ」はいいけど「ここ」はどうしてもダメとか。

談志: 許せないことの“キワ”に立つと途端に喧嘩っぱやくなりますね。なんでもかんでも「いいじゃないですか」で済ませるのは気にくわねぇ。演芸場で騒いでいる客を見ないふりしている兄弟弟子がいたら容赦なく叱る。「だからおめぇはいつまでたっても売れねぇんだよ」って。語気が荒くて言葉がきたなくて変にロジカルだから喧嘩向きなんだね。

松岡: そういった「許せないと思う感覚」を、“肩越し”に見る文化がなくなってきていますね。

談志: おっ、「肩越しに見る文化」とは、うまいこと言ってくれるな。俺の場合は、東京人の了見に反することが許せないんだね。

松岡: 「了見」というのも大事なキーワードですよ。それから「分をわきまえる」の「分」という感覚も大事。

談志: そうそう「沙汰の限り」とも言うよね。あぁ、でも、こういうことって愚痴なのかな。

松岡: いやいや、そういうことを言葉にしない日本がダメになっているんですよ。

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談志: このごろ自分が「立川談志」という傘の下にいる気がする。このまえ「鐵拐(てっかい)」をやっている最中に、鐵拐が突然暴れだしたんですよ。感情注入もしてないのに、勝手に動き出されてまいったよ(笑)。なんだったんだろうね。でもその状況を少なくとも「傘の立川談志」は認めてくれたんだね。

松岡: 談志さんの芸のなかで管理不能なことがおこったんですね。

談志: そうそう「管理不能」。またまたいい言葉だねぇ。

松岡: 円朝でもゲーテでもアインシュタインでも、先駆者と呼ばれるような人物にはきっとそういう一面があるんだと思います。だから、談志さんに起こっても不思議じゃない。談志さんみたいに目の前で起きていることの同時性を多様に語れる人は他にはいませんよ。あるワンシーンについてその細部に入り込んで、江戸時代ではこうで、明治時代ではこうで、さらに海外から見ればこうだというふうに、いくつもの目を同時に語る。

談志: しゃべりながら次から次へと話したいことがでてくるんだよね。得技だな。

松岡: マルチレイヤーでマルチタスクでマルチリンクな表現者なんです。しかも一つのことを1、2分という短時間のあいだに語りつくしてしまう。

談志: 落語は、フロイト的にいえば「エス」(本能的欲働)を出しやすいという面があると思う。金のことから男女のことまで、常識から非常識まで、そのすべてをユーモアが覆ってくれるんですよ。

松岡: それって本当のカタルシスかもしれない。ナンセンスとかウィットとか道化を借りて、人間の業(ごう)を登場人物の会話にすることで、「あんたたち大丈夫だよね」と言ってあげるわけですよね。

談志: そうそう。ありとあらゆる小さなところに人間の本当の部分が出ていて、それを全部ばらしてあげちゃうんだね。

松岡: あ、いま初めて分かりました。談志さんが政治の世界に入ったのは、何がバレていて何がバラされているのかを、自分で確認したかったんじゃないですか。政界に入るときに迷いはありませんでしたか?

談志: 落語家が落語だけやっててもおもしろくないでしょ。「それいけ~~っ」という勢いだけですよ。そういうおっちょこちょいな奴が落語をやるから面白い。最後はパーソナリティが落語の決め手のような気がするよ。


◎「爆笑問題のニッポンの教養―松岡正剛・編集工学」より(4月1日放送)

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太田: 文章を書いていて常日頃思うことは、伝えたいことを文字で埋めれば埋めるほど、感情をそこに留めちゃうっていうジレンマですね。気持ちって本当は動いているじゃないですか。文字で表現された感情はその時点で死んでいるから残骸でしかなくなる。本当に表現したいものは文字以外の部分にあって、そこを表現しようとすればするほど、気持ちが離れていく気がするんですよ。

松岡: それは作家も詩人も絵描きも舞踏家も、あらゆる表現者がみな抱えてきた問題ですよ。たとえばゴッホがヒマワリを見ながら描いている。パッとヒマワリを見たときにはすでに太陽が動いて前の様子と変わってしまうので、それを描き加える。またパッと見ると変わっているので、描き加える。それを繰り返していくうちに、何がヒマワリで何が太陽だか分からなくなる。ゴッホのあとに出たピカソたちは、最初から右から見たり左から見たりした形を全部描いた。それがキュビズムでしょ。20世紀にはこういう表現方法がほぼ出尽くしましたよね。

太田: とすると、これから言葉の世界に残された可能性は何ですか?

松岡: 言葉って、「丸い四角」とか「黒い雪」とか「けたたましいハンバーグ」とか、突然ありえないことを表現できますよね。そのままでは受け取りようがないものを作り出せる。しかし、そういう言葉を連鎖することによって、たとえば「けたたましいハンバーグ」から「ニコニコしている生卵」までいろいろ連鎖していくことによって、何を言っているのか分からないにもかかわらず、なんとなく醸し出される世界を伝えることができる。そういう言葉の“ズレ”というものについてもっと研究を深めると、案外新しい芸能や哲学が生まれる可能性があるかもしれませんよ。

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松岡: ぼくの編集哲学では“一対”というモノの見方を大切にしています。ハードとソフト、陰と陽、鍵と鍵穴のようにですね。あることをシングルメッセージで伝えるのではなく、別の角度から見た物言いはどうか、まったく逆の視点に置き換えることはできないかと考える。その両極をもちながら存在したいし、それらを相互に編集していきたい。

太田: 両極の“あいだ”がおもしろいっていうのは、ぼくもなんとなく分かります。実際にあるモノから想像をふくらませたところにある別のモノを感じると、ワクワクします。

松岡: この話、日本とも関係があるんだよ。日本、日本語、日本人というのは、やっぱりちょっとヘンだと思う。日本人って文字をつくらなかったでしょ。中国から漢字を輸入して万葉仮名にして、その一部を平仮名とか片仮名にして使っている。おまけに漢字は中国読みをせずにフォントだけ入れて、新たに日本語読み(訓読み)にした。もともと日本は、最初から相反したものを受け入れてきたデュアルな二重性の国なんだよね。

太田: たしかにそうですね。

松岡: もっと言えば、日本には天皇と将軍、公家と武家、関白と執権、仏道と神道が共存してきた。そこに気がつくと、日本人が作り上げる方法とか芸能とか哲学というものも、世界に通用するかどうかは別にして、もっともっとラディカルに進むことができるんじゃないか。

太田: でも、日本ってあるときにその片っ方を捨ててしまいましたよね。もともとは矛盾するものを両方もっていたのに、いつから片方を捨てないと進めない国になっちゃったんでしょうね。

松岡: とくに明治維新以降は捨てっぱなしだよね。そろそろ、価値観の転倒というか、柔らかいテロリズムというか、おもしろいタブーというか、そういうものを社会に混ぜていく以外にないでしょうね。

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投稿者 staff : 16:47

2008年4月 2日

News 日韓女性親善協会で講演

4月23日(水)、セイゴオが、日韓女性親善協会で、ソロ講演をします。

この協会は、女性たちの手によって日韓両国の理解と友好を深めることを目的に1978年に創設されたもの。韓国の歴史文化を理解するための研修会や韓国訪問をつづけ、近年では青少年交流のための活動も行っています。

今回は、今年30周年を迎える協会が、広く一般の方々に向けて開催する特別講演会です。

セイゴオの講演テーマは「日韓文化の渦と潮」。
近著『世界と日本のまちがい』でほぼ1章分を日朝・日韓の歴史の“見方”に費やしたセイゴオですが、公的な場でこのテーマについて語るのは初めてのこと。乞うご期待。


日韓女性親善協会講演会
松岡正剛「日韓文化の渦と潮」

■日時:2008年4月23日(水) 14:00~15:30
■会場:憲政記念会館(永田町) 会議室
     会場地図→http://event.telescoweb.com/node/5990

■参加費:1500円(当日受付でお支払ください)

■申し込み先・問い合わせ先

松岡正剛事務所「セイゴオちゃんねる」申し込み専用メールアドレス宛に、メールでお申し込み・お問い合わせください。

*申し込み専用メールアドレス: schan01@eel.co.jp 
*申し込み者のお名前と申込人数を明記してください。
*必ず、メールのタイトルに「日韓女性親善協会講演会申し込み希望」と記載してください。
*申込みは、お電話でも承ります。
 TEL:03-3568-2200(松岡正剛事務所)


投稿者 staff : 12:04

Diary 安藤忠雄さん・茂木健一郎さんと都市の未来を語る

 3月14日、皇居前の和田倉噴水公園内のレストランに、安藤忠雄さん・茂木健一郎さん・セイゴオが顔を揃えて、約1時間にわたり「都市の未来」をめぐって鼎談をしました。これは、ディベロッパーのアーバン・コーポレーションが新創刊した雑誌「カイラス」のプレス発表会のために行われたもの。じつは、もともと雑誌創刊を祝して記念スピーチを行うことになっていた安藤さんのたっての希望で、急遽茂木さんとセイゴオが“友情出演”をすることになったという、異例の鼎談でした。安藤さんは昨年末に刊行された『脳と日本人』(茂木さんとセイゴオの対談本)を読んでおおいに触発され、今回の鼎談を希望されたのだとか。

 アーバンコーポレーション代表の房園社長、「カイラス」編集長の小西克博氏の挨拶に続き、まず安藤さんが自作品を映像で見せながらの20分の基調講演、「建築物が社会に何を残せるか」という問題意識に立って、30年以上にわたって取り組んできた、エコ・コンシャスなプロジェクトの数々を紹介しました。そこにセイゴオと茂木さんが加わり、環境と都市について、意識と風土について、日本人の方法と自然科学の接点について、縦横に話題を広げていきました。


松岡:ロラン・バルトは東京の中心がヴォイド(空)であることに注目した。マッカーサーも皇居周辺の景観こそ東京でいちばん美しいと言った。今の東京は、あいかわらず中心は空いているが、ますます過密都市になっている。これからはむしろ、ヴォイドな空間をもっと増やしていくべきではないか。

茂木:自然には驚くべき回復力がある。隙間さえつくってやれば、自然は自分で回復していく。人間も同じである。子供を育てる環境をつくるには、空間の隙間、時間の隙間を空けていくことだ。

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安藤:韓国では川の上に造られた高速道路を8年かけて撤去し、完全に川を再生した。川を再生したことで、人間の歩ける街になった。いま日本橋でも同じような計画が持ちあがっているが、日本ではおそらく100年ほどかかってしまうのではないか。東京ではあいかわらず経済のための町づくりが進んでいる。

松岡:都市には暗闇も必要だ。人間には「惧れ」が必要だ。世界中の聖なる空間は、天を覆ってその下に陰影をつくるという共通構造がある。各民族が風土にあわせて造ったものが、結果的に人工の森や木陰のような、癒しと惧れのための構造をもっている。

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松岡:かつて日本の村には、「入会地」というものがあった。誰の所有地でもなく、何のために使うのかという目的もない場所が、村民の活動の多様な可能性を担保していた。現代は、「目的のない場所」というものが残れない時代。

茂木:何もない、ということは「無」ではない。じつは脳の中の無意識もそういうもの。むしろ雑音が入り混じっているような状態が無意識である。そういう脳の状態と自然のあり方は似ている。

安藤:何もない壁や隙間に、花を活けたり掛け軸を飾るのが日本人の暮らしである。本来の日本の暮らしとは、自分がかかわることによって、ゼロから空間をつくっていくことだった。都市づくりでもそのような考え方が必要になっている。

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松岡:日本はグローバリズムをいったん止めるべきだ。そのためには、「苗代」というものを考えなおすとよい。日本人は、幼弱な稲苗を育てるために、大陸にはなかった「苗代」という工夫を生み出したのだ。いまの日本では方法としての「苗代」が忘れられている。

茂木:日本的方法と生命の科学哲学は非常に合致する。生命科学は世界のフロントランナーだが、日本の方法にはそれに匹敵する普遍性と可能性がある。

安藤:私は、お二人の『脳と日本人』を読んで、たいへん触発された。いろんなイマジネーションがかきたてられた。ところが、学生たちにその話をしても、本を読ませても、どうしてもそのことが伝わらない。知識の総量ばかりを競う教育のために、自分で感じ、自分で考える力を失っている。これがグローバリズムの結果なのだ。

松岡:安藤さんの建築にひそむ「日本」を、日本人が取り出せなくなっていることと共通する問題だ。

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