セイゴオちゃんねる

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2008年1月31日

Report 江戸のAIDAをめぐる

■「いき」を体感-舞踊・地唄・川柳

 ハイパーコーポレート・ユニバーシティ[AIDA]は、企業の次世代リーダーに「日本という方法」を伝授する連続塾。セイゴオを塾頭に、毎回各分野の第一線で活躍するゲストを迎え、会場と次第を変えて開催する。また期に一度、伝統芸能を体験する合宿がおこなわれる。

 2007年10月から始まった第3期では、第一講が岡倉天心をめぐるセイゴオのソロ講義、第二講は格闘家の前田明さんをゲストに迎え武士道を体感、年末には連塾「浮世の赤坂草紙」も聴講し、いよいよ1月19日~20日、東京都内で一泊二日の合宿を行った。ゲストは江戸研究家の田中優子さん、花柳流舞踊家の花柳千寿文さん、邦楽家の西松布咏さん。

 一日目、集合場所の小石川後楽園に集まった塾生は全員和装。これが合宿に参加するにあたっての、“日本”をどう着るかという塾頭セイゴオからの宿題である。そのセイゴオもこの日は道着姿。一同は公園入口にある朱瞬水の肖像画に目をとめてから、早くも梅が咲き始めた園内をしばらくめぐった。

 セイゴオ「後楽園は水戸光圀が招いた明の儒学者・朱瞬水が命名した。明という大国の衰亡を憂い、再興の志を抱いた朱瞬水は徳川江戸社会の思想形成に大きな影響を与えた。この、明と江戸の[AIDA]を考えてほしい」。
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 その後、都内ではめずらしい本郷の和風旅館に場所を移し、桜の大枝を活けた座敷へ。花柳千寿文さんに『黒田節』の踊りの稽古をつけてもらった。最初は手足がバラバラだった塾生も、花柳さんの熱心な指南で、最後は西松布咏さんの唄と三味線にあわせて全員で武士の心意気を踊りおさめた。
 さらにその後は、花柳さんが西松さんにあわせて、情感たっぷりの地唄舞『黒髪』を披露。花柳さんの雪の冷たささえ感じるような指先のしぐさと、二人の阿吽の間合いに、セイゴオも塾生も田中優子さんも深深と酔いしれた。

西松「演奏中は千寿文先生の姿はほとんど見ません。衣ずれや足のすり音で間をはかっています」。
花柳「西松先生とはお互いに慮って稽古を何度も繰り返してきました。すると自然に二人だけの間合いが浮かびあがってそれが芸になるのです」。
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 二日目は、両国の江戸東京博物館に場所を移し、特別展の北斎を鑑賞後、課題の自作川柳の発表会。縞の着物を粋に着こなした田中優子さんが“グローバル”や“サブプライム”が読み込まれた塾生の作品を一つ一つ丁寧に講評した。

田中「川柳は観念的につくると面白くない。日常の瞬間が具体的に目に浮かぶように五七五にし、そこに笑いを含めること」。
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 最後は、千夜千冊の九鬼周造『「いき」の構造』を取り上げて、セイゴオと田中さんが[間]のはかりあいの極地ともいえる「いき」について、またその精神を共有する「連」という江戸のコンセプトについて存分に対談。

田中「人と同一化せず無関係にもならないのが連句の精神。“連”は関係の中からしか生まれない」。
セイゴオ「西洋の構造的文化ではなく、“連”のような小さな集団が文化を作り動かしてきたのが日本。安易にグローバルを目ざすのはまちがっている」。

 岡倉天心から始まったハイパー第3期は、三人の師匠の格別な稽古を身体に通したことで、近代日本が育んだ「意気」の方法論の共有にいたったようだ。
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投稿者 staff : 02:26

2008年1月25日

Publishing 睦月セイゴオ・アラカルト

◆「名経営者たちのCSR理念」を5つのモデルで解く

 『ハーバード・ビジネスレビュー』1月号の特集にセイゴオのインタビューが掲載されています。渋沢栄一から奥田硯氏(トヨタ自動車取締役相談役)にいたる明治・大正・昭和のビジネスリーダー13人についてCSR理念を、時空間創造モデル、社会貢献モデル、企業家精神モデル、共生思想モデル、文明と人間モデルに分けて解説。セイゴオによると「いまの時代は、近代資本主義の競争原理がCRS本来の機能を置き去りにしたままである。先人たちがどのような志で社会の矛盾を解き社会の発展を促したか、その方法論やプロセスをたどり現代に還元することでCRS本来のあり方を見出すことができる」とのこと。編集部による各人物の解説記事とともに充実した特集となっています。

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『ハーバード・ビジネス・レビュー』2008年1月号
発行 2008年1月1日
出版 ダイヤモンド社
定価 2000円(税込)


◆現在の数寄をめぐる

 建築雑誌『コンフォルト』創刊100号の企画として、セイゴオと陶芸家・樂吉左衞門さんと花人・川瀬敏郎さんの座談会が収録されています。フルカラー10ページ。司会をつとめたのはセイゴオの友人でもある武田好史さん。「数寄」の際どさと危うさが三人三様の語り口の中で屹立する極上の企画です。一部を紹介します。

川瀬:数寄っていうのは、その時代の最先端の膨大なエネルギーを混ぜ続けながら、この国の本体である素木を真ん中に残してきた構図なんじゃないかな。

松岡:日本の文化の本質や、数寄の本質のなかには「不在の在」というものがある。不在とか不足とか狂とか拒絶とか。川瀬さんにも樂さんにもそれを感じる。

樂:人間には本来的な不足があって、それがセクシュアリティとして転化する部分だと思う。個の確立そのこと自体が不足を生んでいる。欠けたところにこそ創造の始まりがある。

川瀬:「本当の数寄」って怖いものですよ。花でも、すごい花って殺人者だから。真ん中に刃物がグサッて刺さっているみたいなもの。

松岡:数寄には「拒絶」がないとダメ。ダンディズムとかエレガンスの本質も「拒絶」でしょ。みんなと同じことをやって「数寄」は生まれない。

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『コンフォルト』100号 
発行 2008年2月1日
出版 建築資料研究社
価格 1800円(税込)


◆ 14歳の少年少女へ

 『PHP』3月臨時増刊号の特集「14歳だった」に、セイゴオの500字エッセイが掲載されています。タイトルは「誰もやらないからこそ」。初音中学で体験した猩紅熱(しょうこうねつ)と科学部で没頭した「埃の研究」「雨の研究」が、「思いがけなさ」の哲学の兆候になったということが明かされています。

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『PHP』2008年3月臨時増刊
発行 2008年3月1日
出版 PHP
価格 330円(税込)

投稿者 staff : 14:36

2008年1月18日

News NHK「知るを楽しむ」で白川静さんについて連続講義

 セイゴオが2月放送のNHK教育テレビ「知るを楽しむ 私のこだわり人物伝-白川静」に出演、漢字研究に生涯をかけた白川静さんの世界を全4回にわたって語ります。毎週火曜日です。構成は、第1回「神と交感する漢字」、第2回「白川静という奇蹟」、第3回「古代中国に呼吸する」、第4回「漢字=日本の文字革命」。放送に先立ち、1月30日には、番組用テキストも出版されます。もちろんセイゴオ書き下ろしのテキストです。

 「白川さんは、その思想や考え方を首尾一貫して浴び続けたくなる人。できれば一字一句そのままに継承したくなる人だ」というセイゴオは、工作舎時代からたびたび白川さんを訪ね、その豊穣な研究世界に触れてきました。とくに、白川さんが徹底して古代文字を身体でなぞりトレースすることによって、長らく漢字研究の聖典といわれた許慎の『説文解字』の字源解釈を覆し、新たな体系を打ち立てたことには、大きな影響を受けたと言います。
 そんな巨人・白川静を連続講義することは、セイゴオにとっても大きな挑戦だったようです。昨年末から正月休みも返上して、白川静全集および『字統』『字訓』『字通』はもちろんのこと、古代中国の膨大な資料までも書斎に積み上げ、それらを詳読しながら、一方では白川さんの「文字講話」のビデオを見尽くし、まさに白川漬けとなって、テキスト執筆と番組での講義準備に没頭していました。

 年明け早々の1月8日からはじまった番組収録は、嵯峨野にある築350年の古民家で行われました。NHKの柄子ディレクターのアイデアで、撮影場所となった居間には、新たに書棚をしつらえ白川さんの著作を納め、木製の机・椅子を用意し、高さ70センチほどの商後期時代の青銅器「犠首方尊」が飾られました。このセットは、白川さんとセイゴオの書斎をイメージしたものとのこと。セイゴオも、赤坂の書斎から大量の資料を持ち込みました。
 しかし、予想外に大変だったのが、底冷えする京都の寒さ。撮影中は音の関係で暖房が焚けなくなるため、全身ホッカイロ、靴下5枚履きという重装備で、それでもときおり寒さのあまり口がまわらなくなるなどの悪条件です。その寒気と闘いながらも、セイゴオはなんとか平常心を保ったようです。古代中国の神話や日本の文字変遷史などを織り交ぜつつ、『万葉集』と『詩経』を同時に比較する白川さんの手法、反骨精神に満ちた生涯と一貫した日本へのまなざしなど、96年にわたる白川さんの人生を浮き彫りにするセイゴオならではの組み立てと語りを展開しました。
 白川さんがもっとも好きな漢字が「遊」だったこと、そんな縁でセイゴオが編集する雑誌「遊」にも登場していただいたことなど、折々にはさまれるエピソードや、最終回で明かされる「松岡正剛」という名前の秘密も聞きどころです。

 またセイゴオは、京都西京区桂にある白川さんのご自宅も訪問、今もそのままの状態で残されている書斎を拝見しながら長女の津崎史さんにインタビューをしています。白川さんの漢字研究を後援した白鶴美術館(神戸)にも出向いて、拓本とりの名人として白川さんの漢字研究を支えた木村元三さん・文子さんご夫妻にも取材。これらのシーンも番組中で紹介される予定です。

 

NHK教育テレビ「知るを楽しむ 私のこだわり人物伝-白川静」

◆テキスト発売

発売日 1月30日(水)
定 価 683円(税込)

◆放送日時

第1回 神と交感する漢字 2月5日(火) 午後10:25~午後10:50
     ※再放送 2月12日(火) 午前5:05~午前5:30
第2回 白川静という奇跡  2月12日(火) 午後10:25~午後10:50
     ※再放送 2月19日(火) 午前5:05~午前5:30
第3回 古代中国に呼吸する  2月19日(火)午後10:25~午後10:50
     ※再放送 2月26日(火) 午前5:05~午前5:30
第4回 漢字=日本の文字革命 2月26日(火)午後10:25~午後10:50
     ※再放送 3月4日(火) 午前5:05~午前5:30

詳しくはこちら→番組案内/テキスト販売


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平凡社の「白川静漢字暦」を用いて白川文字学に迫る

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白川さんが駆使していたというガリ版の使い方を紹介

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『遊』に連載していた白川さんの「遊字論」の一節を朗読

投稿者 staff : 15:27

2008年1月14日

Report セイゴオ回郷―京都篇(番外)

セイゴオちゃんねる更新200回記念特別企画
セイゴオ回郷―京都篇(番外)

■編集後記-風の又三郎の帰京を追って

 最後に、本編で紹介しきれなかった取材中の写真をまとめて紹介するとともに、企画・取材・インタビューに携わったスタッフの感想も記しておきたい。

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セイゴオ回郷に合流してくれた、小学校時代の同級生・中村晋造さんと、
中学校時代の同級生・茶木哲夫さん

 今回の企画のために、セイゴオには二日間かけて思い出のトポスを訪ねながら京都時代を振り返ってもらった。出生の地―横田病院も、修徳小学校も初音中学校も、綾小路の住まいも高倉の家もなくなってはいたけれど、いまもセイゴオが住んでいた当時の、半世紀も前の佇まいや面影を残している路地や界隈や老舗などをめぐることができたのは、やはり京都ならではのことだったろう。
 セイゴオが京都に在住したのは実質的には8歳から15歳までの、わずか7年間足らずのことだった。ただしそれは、セイゴオの生い立ちのなかでももっともかけがえのない7年間だった。もちろん、誰にとっても多感な少年期の思い出は香ばしくかけがえのないものだろう。けれどもセイゴオは、その香ばしさを誰もおよびもつかないほど高純度に結晶化し、たんなる少年期や京都に対するノスタルジーではない思索や思想をそこから紡ぎ出してきたのである。
 インタビューのなかでは、幼少期に「母の不在」への強烈な寂漠を抱えていたという話があかされた。セイゴオ少年の痛々しいほどの感受性が推し量られるエピソードである。そのままでは「生きていけない」ほどに鋭い感知力だったというべきかもしれない。セイゴオのお母さんが見抜いていたのもきっとそのことだったのだろう。
 そんなセイゴオの感受性や感知力を好奇心に変え、外部世界へと向かわせ導いてくれたのが、母のあふれる想像力であり父の際立った判断力だったようだ。そしてその外部世界とは、変化に富んだ京都の自然であり、奥行の深い京都の歴史文化だったにちがいない。おそらく、この父・母、そして京都なくしては、セイゴオは松岡正剛たりえなかったことだろう。
 思い出の場所を訪ね歩くセイゴオは、楽しげだけど沈着だった。インタビュー中も、失われた風景への望憶や、残されたものへの懐古をうかつに口にすることはなかった。望憶も懐古もそれ自体、松岡正剛にとっては、父・母、そして京都から授かった「思想の方法」として表現されるべきものなのだ。本企画を「望郷」ではなく「懐郷」でもなく、あえて「回郷」と名付けたのは、そんなセイゴオの姿勢を汲んでのことである。

 さて、本編にも紹介したように、セイゴオは初音中学校を卒業後、朱雀高校に進学したが、ここで父の大胆な決断によって一家は横浜元町に転居、セイゴオも東京九段高校に転校させられてしまう。しばらくのあいだ京都への思慕を募らせ、一人で京都に帰ることがしばしばあったという。そんなとき、帰京しても帰る家のないセイゴオを迎えてくれたのは、京都弁の幼馴染たちだったらしい。

 今回の取材中、修徳小学校跡地を訪ねた足で突然立ち寄った呉服店の中村晋造さんもその一人だ。中村さんの店ではこの日、お得意さんのために展示会を開催中だったのだが、以降の回郷探訪に同行し、半日以上つきあってくれた。出生地である横田病院探しにも、いっしょに奔走してくれた。また初音中学時代の友人の茶木哲夫さんも会いに駆けつけ、室町で昼食をふるまってくれた。
 ただしその後は、茶木さんに請われて、着物姿の中村さんを伴ったまま下鴨の茶木さんの骨董店を訪問するという予定外の展開になり、ようやく店を辞したあとは、セイゴオと中村さんが茶店でくつろいでしまい、その茶店に追い掛けるようにしてまた茶木さんが現れるというように、日暮れ前に取材を敢行したいスタッフ泣かせの、珍道中さながらのできごとが次々と起こってしまった。案の定、取材時間がずれこんで、めざす老舗が閉店してしまったり、夜間撮影で記録写真が真っ暗になるという不運に見舞われてしまった。
 それでも、茶木さんの店で、セイゴオの手元から失われていた中学校の卒業アルバムを見せてもらえたことは幸いだった。そのアルバムに、1994年にセイゴオが手掛けた「平安建都1200年記念フォーラム」のチラシが大事にはさまれていたことも、そのチラシを見た中村さんが「わしも行ってたんやで」とすかさず口をはさんでいたのも、ほほえましかった。
 きっと中村さんにとっても茶木さんにとっても、セイゴオは、たんなる幼馴染以上の存在、非日常性を連れてくる不思議なマレビト、風の又三郎みたいなものなのだろう。

 「セイゴオちゃんねる」では今後も、セイゴオの生い立ちに沿ってゆかりの地を訪ねる特別取材企画を続ける予定である。次回は更新250回達成ごろに、日本橋人形町・芳町あたりの回郷篇を、ついでは横浜篇をお届けしたい。乞うご期待。

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河原町の六曜社珈琲店は、セイゴオが帰京したときに、
幼馴染たちと集った喫茶店。

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松原通りの家並みを眺めながら、
修徳小学校の級友たちの面影をたどる。

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昔と変わらない大喜書店を見つけておおはしゃぎ。

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中村晋造さんの店で、先祖代々の肖像画を拝見。
「ぼくの家にも確かこういうものがあった」。

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高倉の家があった場所は、もとは足利尊氏の邸宅および菩提寺(等持寺)だった。
碑文をしげしげと眺めるセイゴオ。

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寺町を散策中。
すっかり少年の顔に戻っている。

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高倉時代にしょっちゅう訪れた若林書店。

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母のお使いでよく来ていた一保堂。
番茶「青柳」が指定銘柄だったらしい。

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寺町の「げてもの屋」はお気に入りの店だった。
今も古道具が店の内外にあふれている。

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イノダコーヒーで好物のフレンチトーストを食べる。
ほかに、ゆずシャーベットもよく食べたという。

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二日間の回郷を終えて、祇園で一服。

投稿者 staff : 14:30

2008年1月12日

Report セイゴオ回郷―京都篇(七)

セイゴオちゃんねる更新200回記念特別企画
セイゴオ回郷―京都篇(七)


■父との思い出―コーヒーと脂粉の香り


 セイゴオの父は歌舞伎や踊りといった伝統芸能ばかりでなく、映画やスポーツも好んで見ていた。家族全員で観劇を楽しむこともあったが、もっぱらセイゴオ一人を連れて出かけることが多かったらしい。そうやって、一流のもの、本物を見る目をセイゴオに身に付けさせようとしていたのだろう。
 今回の企画のために、セイゴオに、家族や父といっしょに行った京都市中のスポットを訪ねてもらったが、名店や老舗ほど当時の佇まいのまま残っていることが多かった。とくに、堺町三条の老舗イノダコーヒーには、現在のメインフロアーに隣接して、セイゴオがしょっちゅう父に連れられて来ていたころの店がそっくり保存されていて、ひさしぶりに訪れたセイゴオも感激していた。この店に41年勤めているという松本さんに話を聞くと、9年前に火事を出してしまったが、1年をかけてほぼ元通りに復元したのだという。
 父はまたセイゴオを、先斗町に連れ出すこともあったという。父のなじみだったお茶屋さん「初音」―セイゴオがかすかに憶えている連子格子の二階屋を探して、人が行き交うのも困難なほど混雑した先斗町を歩いてみたが、とうとう見つからなかった。
 人ごみを避けて、賀茂川を見下ろし煙草をくゆらせながら、セイゴオがつぶやいた。「ああ、父は都踊りより鴨川踊りが大好きだったんだよ」。
 
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セイゴオが父と通った堺町三条のイノダコーヒー。
当時の店がそのまま保存されていた。

Q:家族みんなで出かけるときは、どういうところへ行ってたんですか。

S:もちろん京都だから、お寺や神社、いろんな行事とか、あと南座の歌舞伎にもよく行った。東宝映画館にもよくみんなで行った。映画は父が選ぶので、ジョン・ウェインの西部劇とか、山本富士子の「夜の河」とか、子供にはあんまりおもしろくないような映画だった(笑)。たしか中学3年のときにフェリーニの「道」を見た。ぐしょぐしょに泣いたからよく憶えてるよ。
 南座に行ったときは東華菜館で中華料理を食べるのが恒例だった。映画の帰りにはよく寺町の「スマート」という喫茶店に行った。ぼくと妹はクリームソーダとかシャーベットとかを食べさせてもらった。

Q:堺町三条のイノダコーヒーは、当時の店構えがそのまま残されてましたね。やはりよく家族で行ったんですか。

S:イノダに行ってたのは父とぼくだけ。母はコーヒーを飲まない人だったと思う。父がイノダに行くのは、テレビを見るのが目的だったんだよ。ぼくのうちにはずっとテレビがなかった。横浜に移ってから初めてテレビが入ったくらい遅かった。そろそろどの家にもテレビが入り始めてたけど、父はなぜか、人の大勢いるところに行ってテレビを見るのが好きだったな。相撲と野球をよく見ていた。

Q:そういうときは、お父さんと二人でどんな会話をしてたんですか。

S:テレビに熱中するから、そんなに会話はなかったと思うよ。だいたいぼくはあんまりしゃべる子供じゃなかったしね。でも、父はテレビを見ながらも、いつも、相撲なら相撲の、どういうところを見なさい、というところを教えてくれた。「この仕切りをよく見ておきや」とか「信夫山は右手から双差に行くさかいな」とかね。それは日本橋にいたころからそうで、落語でも歌舞伎でも踊りでも謡曲でも、舞台であろうとテレビであろうと、いつもそうだった。「井上八千代さんの、あの左足がすっと上がるところ、見ときや」とか。
 父のそういう話はとてもおもしろかった。父はなんといってもナマの芸人たちにも会っていたからね。
 でもときどき困ることもあった。歌舞伎を見ていると「ほらセイゴオ、ここでドメキをやれ」とか急に言われる。恥ずかしいから小さな声で「な、成駒屋」とかいうと、「なんや聞こえへんで」「ほれ、次は播磨屋やで」とか言われて、おちおち見ていられない(笑)。

Q:ラグビーにも連れて行かれてたんですよね。

S:そう、お正月ともなると、普通の家なら「炬燵でミカン」なのに、ぼくたちだけは寒い花園や西京極でラグビー観戦(笑)。しかも、父は試合が終わるとグラウンドに降りていって得意そうに選手にわあわあ声をかけるんだよ。必ずぼくも連れていって、「ほれセイゴオ、ボール投げてもらい」と言ったりしてね。選手のほうも小さな子供相手に困ってたよ(笑)。父ももと選手だったし、借金をしてて余裕のない時期でも豪勢に寄付したりしてたから、ラグビー協会のなかでは一目置かれていたようだけどね。
 バスケットの観戦にもよく行った。ぼくも中学校のときはバスケをやってたから、このときは楽しかった。当時は大学リーグでは立教がトップだったんだけど、立教の応援歌が流れると父も大きな声で歌ったりしてね。センターの斎藤というエースなんかにすぐに声を掛けに行ってた。父はそういうことにはいっさいひるんだり遠慮したりしない。平ちゃらだった。声は大きいし押しが強いし、体も大きかった。

Q:お父さんは先斗町にまで幼い松岡さんを連れて行ったんでしょう。

S:父の行きつけの「初音」というお茶屋さんによく連れて行かれた。それも芸妓さんたちがまだ支度中で、スリップ一枚で動き回っているような時間から出かけるんだよ。で、父が遊んでいるあいだ、ぼくは帳場みたいなところにちょこんと座らされて、芸妓さんが着物を着付けてお化粧を整えていくところとか、女将さんがそれらをいっさい取り仕切っているようすなんかを見ていた。芸妓さんたちの脂粉の甘ったるい匂いをよく憶えてるよ。たしか照子さんという芸妓さんがいた。
 お客さんがだんだん増えてくる時間にはぼく一人が家に帰された。京都の花街には男衆(おとこし)さんといって、芸妓さんたちの身の回りの世話をなんでもする男性たちがいて、よくその男衆さんに家まで送ってもらった。女将さんが必ず“すぐき”の漬物とかをおみやげに持たせてくれてね。「帰ったらこれ、お父さんからお母さんに、とちゃんと言うのよ」と言い気かされながら(笑)。母の好きな漬物をお茶屋の女将がちゃんと心得ていたんだね。そういった支払いも女将さんが全部負担している。もちろん、あとでちゃんと父親も相応のことをしていたはずだけどね。

Q:父子でお茶屋通いだなんて、お母さんは平気だったんですか。

S:もちろん父が先斗町に行っていることも、ぼくをダシにしていることも(笑)、母はちゃんと知っていたよ。父もそういうことはまったく隠さなかったしね。だいたい母はそういうことに焼きもちを焼いたりする人ではなかった。それくらいやらないと男の肥やしにならない、といった昔堅気な心得をしていたんだろうね。父も行き過ぎた遊びはしなかったし、あくまで一流の旦那としてやっているという意識だっただろう。
 そういう意味では、タブーのない家だった。礼儀やしつけには厳しかったけど、性のこととか社会的なタブーは気にしない家だった。東京に出てからは、家族全員で日劇のストリップに行ったこともある(笑)。武智鉄二さんに招待されたときだったと思う。

Q:お父さんが自分の好きなものをすべて家族にオープンにするところも、明らかにいまの松岡さんに引き継がれてますね。

S:そうだね。きみたちスタッフに対してもね。いいと思ったものは何でもオープンにしてるよね。それに何も隠さないでしょう。トイレに入っているときもドアすら閉めないものね(笑)。

Q:今回の企画「セイゴオ回郷」で思い出の京都をめぐっていただき、いろいろお話をうかがいましたが、今日の松岡さんの源泉が、お父さんとお母さんにあったということがよくわかりました。

S:それはぼくの両親が特別な人たちだったとか、破格だったということではないんだよ。もちろんぼくにとっては父も母も格別だったんだけど、親子の関係って基本的にはそれほど変わらないものでしょう。何かがずっと繰り返されるものでしょう。だから母親や父親に対してムッとするのも、グッとくるのも、だいたい同じようなことだったりする。
 ただ、ぼくの場合みんなとちょっと違うのは、そういう父や母との格別な出来事や場面、うれしかったことも悲しかったことも強烈なものとして結晶化して、何を思索するときにも、必ず回路がそこを通るようにしてきたことなんだと思うね。
 ぼくはものすごくたくさんのことをやっているように思われているけど、むしろ何度でも同じ回路を通すことで、どんなものでも取り込んでいくことができると言ったほうがいい。「千夜千冊」を書くときも、『世界と日本のまちがい』のような本を書くときも、書やドローイングをするときも、いつもそんなふうにしているんだよ。
 ところでこの「セイゴオ回郷」はこのあとも続くの? 日本橋にも行く?

Q:もちろんです。ぜひ続けたい。日本橋は次回ですね。鵠沼とか横浜の家にも行かなくちゃ。

S:京都以上に、もう何も残ってないと思うけどね。まあ、ぼくも楽しみにしているよ。

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イノダコーヒー前には、デリバリー用の自転車が並んでいた。
年期の入った古い自転車も残されていた。

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41年間イノダで働いているという松本さんに話をうかがう。
セイゴオが通っていた時代はそれよりも古いのだが。

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「このテレビだよ。父とぼくが相撲や野球に熱中したのは」
テレビ台もそのころのものらしい。

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家族4人で行くことの多かった南座。

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東華菜館の待ち合い。「さすがだね。何も変わってない」。
南座の帰りは必ずここでご飯を食べた。

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寺町の喫茶店「スマート」も、家族との思い出の場所。
クリームソーダが楽しみだった。

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先斗町の人ごみを避け、賀茂川の夜景を眺める。
父と通った「初音」は見つからなかった。

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河原町に家族でお出かけ。


投稿者 staff : 00:43

Report セイゴオ回郷―京都篇(六)

セイゴオちゃんねる更新200回記念特別企画
セイゴオ回郷―京都篇(六)


■科学と哲学への憧れ―初音中学校

 1956(昭和31)年、セイゴオは姉小路東洞院の初音中学校に入学した。
 中学時代のセイゴオのアルバムを覗くと、セイゴオの顔つきが同級生たちに比べてどんどん大人びていくようすがわかる。急速に思索や表現を深めていた時期なのだろう。科学や哲学など、それまでの父や母の導きから来るものではない読書世界も開きつつあった。これには数学の赤井滋雄先生や、国語の藤原猛先生、富永二郎先生の影響が大きかったらしい。
 初音中学校も平成5年に閉校となり、統合によって京都御池中学校に吸収されている。ただし当時の校舎は一部増改築されているものの、外観はほぼそのまま残され、不登校児のための特別学校が開かれているという。

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改修はされていたものの、当時の外観そのままの初音中学校の校舎。

Q:中学校に入学したときのことは何か憶えてますか。

S:すごく新鮮な感じを受けたことを憶えてるよ。修徳小学校の級友たちとは学区がちがったから、初音中学にはひとりも知り合いがいなかったけど、さびしいという感じはなかった。半ズボンが長ズボンになったしね。
 ただし、入学して半年後に、猩紅熱で高木小児科病院に隔離入院させられるという事件があった。猩紅熱は法定伝染病だったから、ぼく一人のせいで学校中がDDTで真っ白に消毒された。だから退院して学校に戻ってくるとすっかり有名人になっていた(笑)。
 でも中学時代の3年間は、精いっぱいおもしろく過ごした。そのあとの東京の九段高校時代に比べれば、ずっと楽しかった。

Q:今回、松岡さんは高木小児科病院がまだ残っていないか、熱心に探していましたね。病院はなくなってたけど、その場所だけは特定できた。

S:そうだったね。病院があった場所が空地になっていたね。猩紅熱で入院してたときに看護婦さんたちに性的ないたずらをされたりしてね、思い出深いんだよ(笑)。あのころの看護婦さんも、もうすっかりおばあちゃんになってるだろうね。
 高木病院はぼくの妹の敬子もお世話になった。妹はぜんそく持ちだった。死にかけたことがあった。「もう覚悟してください」と医者に言われて、父も葬式をどうしようと言い出すくらいに危なくなった。それを、高木病院の副院長先生が、一睡もしないで妹につきっきりで奇跡のように直してくれた。そんなこともあったんだよ。
 妹のぜんそくは横浜に引っ越してからも続いてたけど、妹は自分で乾布摩擦と山登りによってそれを克服した。それでものすごい頑丈な身体になった。で、結婚し、子供を二人産んで、仕事も続けて、完璧な人生をいまも歩み続けている。妹は頭もいいし、決して逸脱しない。しっかりした女性だよ。ぼくはずっと逸脱しっぱなしなのにね(笑)。

Q:知的なおいたちとしては、中学生時代はどんな時期だったんですか。文章を書き始めたりしていたんですか。

S:俳句はたくさんつくっていたし、表現することへの関心はどんどん高まっていたけど、まだ文章には目覚めてなかったと思う。日記を書くくらいだった。でもその日記は『あるがままの記』というタイトルをつけて、毎日見出しもつけて、書体も内容によって変えるという凝ったものだった。学研の雑誌の俳句欄に入選して贈られた万年筆を使うのがうれしくてね。ペン先を寝かしたり立てたりして、いろんな書体を工夫していた。
 ぼくの作文能力に注目してくれたのは、国語の藤原猛先生だった。難聴者でね、いつもものすごい大きな声でしゃべる先生だった。ぼくの日記をおもしろがって、いつも教室のうしろに貼り出すので、ちょっと困ったけど。

Q:でも何か作文くらいは書いたでしょう。

S:学校で1回だけ中学新聞をつくることになって、何か書いてくれと頼まれたことがあった。それも藤原先生が「松岡に書かせるといい」と顧問の先生に言ったらしい。でも何を書けばいいのか、そもそも「書く」って何をすればいいのかが、よくわからなかったよ。
 いろいろ考えて、比叡山の「中西悟堂の会」のことを書いた。中西悟堂というのは鳥類学者で、比叡山に集まってみんなで鳥の声を聞こうという会だった。そこで体験した一夜のことを書いたんだけど、比叡山というのはみんなが思っているイメージとは違って、じつは鳥の山である、といったことを、中西先生という人物のことを重ねて表そうとした。すでに編集的な発想はしてたんだね(笑)。
 やっぱり、ぼくが本当に文章に目覚めたのは、九段高校の新聞部以降だったと思う。中学校時代はまだ、「書く」ということに目標をもてなかった。

Q:クラブは科学部でしたね。そこでは何をしていたんですか。

S:最初は「郷土部」と言ってた。化石とか鉱物が好きだったので、そういう採集とかをやってると聞いて入ったんだけど、二年生になると名前が「科学部」に変わった。担当の“チョーク”というあだ名の吉田先生が「科学的な実験をしなさい」というので、いろいろやったよ。ガリレオの落体実験みたいなこととか、「尿の研究」とか「ほこりの研究」とか。「ほこりの研究」は、京都の科学実験コンクールに入賞した。実験を組み立てたりするのはおもしろかった。
 この科学部でいっしょだったのが茶木哲夫君。君たちも知ってる骨董屋さん。

Q:絵を描いたりドローイングをしはじめたのもこのころですか。

S:科学部にいたからスケッチはよくやっていたけど、絵に関心をもったのはいつごろだったかな。影響を受けたのはぼくの叔父の日本画家だった。池田洛中という人で、横山操のいた青龍社に所属していた。その叔父から日本画のことも洋画のこともいろいろ教えてもらったんだね。叔父が写生をするときの目の配り方とか筆の持ち方とかもよく観察して、見よう見まねをしてた。キリコやダリも教えてもらった。でもやはり母の写生の線、ドローイングの速さのほうが、ぼくには影響が大きかったかもしれない。
 そのころはむしろ版画と粘土のほうが好きだった。版画はちょっとうまかったし、粘土はなんでも器用に作った。動物とか学校の友達とか、保津川下りの場面を粘土で細かくつくったこともある。川をつくって船をつくって、船頭さんをつくって長い串を櫂にして。母は「おもしろいものをつくるなあ」と感心してた。子供がつくるものとしては変わってたね(笑)。あと、鳥カゴを粘土で作ろうとしたことがあったけど、それはうまくいかなかった。あの細い骨組を粘土で組み立てようとしたんだけど、すぐにぐにゃっとつぶれて失敗した(笑)。

Q:そろそろ将来何になりたいとか、考えることはありましたか。

S:まったく考えてなかったね。あんまりそういうことを気にしない子供だった。将来なりたいものを聞かれても、車掌さんとか水泳選手とか、虫の王様になりたいとか空を飛びたいとか(笑)、そういうばかばかしいことしか答えられなかった。
 中学2年生のときにふと哲学者がいいな、と思った。ただし哲学って何をするのかよくわからなかった。ただ言葉としてぱっと「哲学者」と思ったんだ。

Q:哲学者に憧れるきっかけはあったんでしょう。

S:2年生から国語を教えてくれた富永先生があるとき授業で、誰か『ファウスト』を読んでいるかと聞いた。そうしたら、クラスでいちばんおとなしかった女生徒が静かに手を挙げて、カバンの中から岩波文庫の『ファウスト』を取り出した。そのとき『ファウスト』を初めて知った衝撃も大きかったけど、ぼくは「岩波文庫」というものにびっくりしちゃったんだね。小さな茶色い本で、表紙の題字も茶色。それまでぼくが手にしてきた本のような挿絵も色も何もないのに、どんな本よりも不思議なものに思えた。
 そうか、こういう本のなかに先生のいう「ファウスト」のようなすごい世界が入っているのか、きっとそれが「哲学者」というものなんだと思いこんでしまったんだね。それで、岩波文庫のデカルトだったかショーペンハウエルだったかカントだったかを、自分で初めて買った。どれが最初だったかは覚えてないけど、何冊目かがデカルトの『省察』だった。「なんじゃ、これは」と思ったね。抽象的なことばかり書いてあってさっぱりわからない(笑)。でも、けっこう読んだね。

Q:哲学に憧れるというよりも岩波文庫というものに憧れたんですね。

S:それはまるで見たこともない鉱物を目の前にしたときのようにぼくの中に入ってきた。その鉱物のなかに描かれている文様が、デカルトでありファウストであり哲学ってものなんだという、そういう感じだったろうと思う。
 でも、哲学にしても科学にしても、そういうぼくの見方は今も基本的には変わってないんだよ。少女のチュチュや浴衣と同じように、おとなしい女生徒のカバンから取り出された岩波文庫のほうが、ぼくの記憶にとっては大切で、それを切り離して哲学や科学だけ扱うことには関心がないんだ。

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校舎は増築され、校庭は小さくなっていた。

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建物内のようすはすっかり変わっていた。

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セイゴオが通っていたころの初音中学校正門(卒業アルバムより)

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セイゴオが所属した科学部。後列左端がセイゴオ。
前列左側はいまも親交のある茶木哲夫さん。

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学芸会で上演中の「七年目のイリサ」。右端がセイゴオ。
7人の神々の頭目のような役だった。

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友人の茶木哲夫さん・宮武剛さんと。

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朱雀高校1年生のセイゴオ。級友よりもおとなびていた。
このあと東京・九段高校に転校し、疾風怒濤時代が始まる。

投稿者 staff : 00:39

2008年1月11日

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セイゴオ回郷―京都篇(五)


■四生同堂―高倉押小路の家

 1953(昭和28)年、セイゴオ9歳のとき、ようやく父が京都に戻り、松岡一家は高倉押小路の蔵付き2階建ての家に転居した。ベンガラ格子とはね床几のある典型的な町屋普請だった。それまではもっぱら家の外で一流を遊んでいた父は、この家にさかんに数寄や風流を持ち込み、旦那衆の矜持を存分に発揮しはじめた。庭の土蔵をつぶして隣の帯屋と庭を共有工事して、不審庵見立ての茶室がつくられた。贔屓の芸人や役者たちを家に招くことも多くなった。
 おそらく高倉の家こそが、セイゴオの京都時代の記憶にもっとも鮮やかな色彩と克明な陰影をもたらしているトポスだろう。しかし、この高倉時代も長くは続かなかった。修徳小学校から初音中学校に進学し、さらに朱雀高校へと進んだ6年後の1959(昭和34)年、父は横浜元町への出店を決心し、またしても一家は京都を離れてしまうのである。以降のセイゴオは、しばらくのあいだしきりに京都への思慕を募らせていたという。
 いまの高倉押小路は、もちろんセイゴオの知る風景からは様変わりしていたが、わずかに松岡家と付き合いのあった仕出し屋や、家族で通った銭湯や、何軒かの家だけが、当時の面影を残していた。
 
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家族で通った高倉通の初音湯。もちろん建物は建て替わっている。


Q:やっとお父さんが東京から戻って、家族そろっての暮らしが再開したのが高倉の家だったんですね。

S:そうだね。しかも高倉に越してから、すぐには店は開かなかった。東京の店をたたんで2年間くらいしてから、ようやく店を開いた。だからその2年間というのは、父とぼくの最大の蜜月期だった。父はずっと家にいたし、どこかに出かけるときにはいつもぼくを連れて行ってくれた。
 父も母に苦労をかけているのがわかっていたんだろうね。だから高倉の家には母方の親戚たちがよく遊びに来ていた。もちろん父方の親戚たちも。そうすると父は大盤振る舞いをして、みんなで俳句大会をやったりして遊んだ。そういうときの父のもてなし方は際立っていたよ。ぼくも新しい遊びを考えて、親戚たちみんなでそれを遊んだりした。今思うとエディトリアル・エクササイズみたいな遊びだった。「20の扉」もそのときからやってたよ。
 父は京都一商の出身で、ラグビーの全国優勝したときのフルバックだったから、ラグビー仲間もしょっちゅう来ていた。もちろん呉服屋で悉皆屋だったから、生地屋さんや染屋さんや小物屋さんたちとの交流もあった。京都で商売をやっていくためには、それだけの多様な交流が必要だったんだろうね。

Q:初代中村吉右衛門も遊びに来ていたんですよね。

S:水谷八重子とか花柳章太郎とかもね。父は「吉右衛門さんは白梅が好きやから」と言って、近江の植木屋から見事な白梅を取り寄せて植えたりしてた。そういうことにお金を使うのを惜しまない人だった。庭の蔵をつぶして、隣の高木さんという帯屋といっしょに不審庵見立ての茶室をつくったりもしてた。京都の四季や文化が家のなかにまで、坪庭や蹲にまで一気に染みてきたという感じだった。
 神棚や仏壇や床の間があり、庭や縁側があり、父母や店員たちがいて、ウグイスがいて、そこに多くの客たちが出入りしていた。まさに四生同堂の家だった。

Q:小学生や中学生が学校生活で体験することに比べると、お父さんが家にもたらす文化はかなり高度で大人びたものだったでしょう。違和感はなかったんですか。

S:ぼく自身はそんな隔たりはまったく感じてなかったよ。家で体験する大人文化と、学校での遊びや探索の、両方が充実した時期だった。父はよくお客さんの前で、ぼくに俳句や読経を披露させたがった。母は「そんなことさせんでもよろしいがな」と言ってあきれてたけど(笑)。父はぼくに観世流の謡曲の先生をつけたりもした。覚えたての謡曲も、すぐにお客さんの前でやらされた。

Q:小学生に観世流ですか。

S:謡曲は京都の旦那衆としての教養だからね。どこの呉服屋だって、そのくらいのことをしていたと思う。でも、さっきも言ったように、父はぼくを溺愛していたし、やっぱりこの子に何かを託そう、ちゃんと身に付けさせようと思っていたんだろうね。でもぼくは嫌で嫌でしょうがなかった。それに謡いの先生が「これ西塔のおぉ」とか言って唸るのを聞いていつも笑いころげてたから、さっぱり身に付かなかった。

Q:ほかにはどんな習い事をしてたんですか。

S:京大生の英語の家庭教師もきていたよ。ソロバンを習いに行かされたりもした。でも、やっぱりそういうものにはぜんぜん乗れなかった。抵抗はしなかったけど進んではやらなかった。それにソロバンはヘタくそすぎて、話にならなかった(笑)。

Q:お父さんはがっかりしませんでしたか。

S:それはなかったよ。父は習い事をさぼるくらいのことでは怒らなかった。でも、何か大事な場面でぼくがだらしなくしているときには、厳しかった。
 ぼくがよく話すエピソードだけど、野球のグローブを放りっぱなしにしてたら、「正剛、包丁もってこい」と言って、その場でグローブを切り裂いてしまったとか、ウグイスの餌やりを忘れたときには、ぼくの目の前で鳥籠を開けてウグイスを逃がして、籠をバシャンとつぶしてしまったとか。強烈だよね。それくらいのことをされると、ほかのことも気をつけなくちゃと思うもの。それが父の教え方だった。それに答えられないなら、こいつはダメだ、というくらいのことは考えていたんだろう。
 でも父に叱られたという記憶も、その2回くらいしかない。あ、1回だけ口論したことがある。大学生のときに、ぼくが学生運動ばっかりやっているのを咎めて「ベトナムへ行って頭カチ割られて来い」と怒鳴られた。ぼくがきっとなにか生意気なことを言ったんだろうね。

Q:俳句もやらされたんですよね。

S:父も母も「京鹿子」という俳壇に所属していて、3年生か4年生くらいのときからぼくも妹もいっしょに句会に連れて行かれた。でも俳句は好きになって、自分から進んで作ってたよ。今のぼくよりうまかった(笑)。何度も入選して、ぼくの句が俳誌に載ったりした。
 父と母は俳句の作り方も対照的だったけど、教え方も対照的だった。母は、その句がいいとか悪いとかはぜったい言わない。「庭の沈丁花を読んだんやなあ」とか言って、「色はこれでいいの」とか、「匂いは季節で変わるんよ」とか、言葉は少ないけれど、イマジネーションはいくらでも表現になりうる、いろんな可能性がある、ということを的確に教えてくれた。父はまったく違ってて、「これはええな」とか「なんや、このヘタクソ」とか「アホみたいな句やな」というような言い方をする(笑)。
 でも、父のよいところは、まったく後を引かないところ。いかにグローブを裂こうと、きついことを言おうと、その場でずばんと終わる。そういうところは、ぼくも受け継いでいると思うよ。でもいろんな可能性を発見する母の気質も受け継いでいる。

Q:お父さんもお母さんも、松岡さんのことを子供扱いしないで導いてくれる人だったんですね。

S:早くから自立的に扱ってくれたと思う。「男の子なんだから」とか「一人でがんばれ」みたいなことも言わなかった。
 父と母が晩婚だったことも大きかっただろうね。若いお父さんお母さんだったら、子供を育てながら自分も成長するといったことはあるかもしれないけど、たぶんぼくの両親はそういう段階はすでに終えていたんだよ。子供が生まれたからといって、自分の価値観や判断が揺らぐようなことはなかった。
 それに京都では、四季があり行事があり、神社や寺院や庭があり、そういう装置がいくらでもあった。家のなかまで京都そのもの、日本そのものだった。父や母がそんなに必死にならなくても、子供のためにわざわざおもちゃや学習教材を用意する必要もなかった。

Q:このころの写真を見ると、松岡さん、朗らかでやさしい顔をしてますね。

S:そうかなあ。そういえば母からはよく「お前のようにやさしい子は生きていけない」と言われてたよ。母は少し心配症なところがあった。何が母の心配かというと、ぼくがよそのお嬢さんに迷惑をかけること(笑)。「よそのお嬢さんに迷惑をかけたらあかんで」としょっちゅう言われた。なぜそんなことを思ってたんだろう。好きな子がいても声もかけられないほうだったのに。
 
Q:やさしいだけじゃ、女心にとって罪なばあいもありますよ(笑)。きっと松岡さん、すごく女の子にもてたんでしょう。

S:そういえば、中学時代にこんなことがあった。御池通り沿いの散髪屋にいたら、なぜか表に女生徒たちが集まって、ぼくのことでキャアキャアしていた。そのときにちょっとだけ、こういうのはよくないな、気をつけなくちゃいけないな、と自覚した(笑)。高校生のときも文化祭の企画で投票があって、女子生徒の人気ベストワンになったことがある。こういう話、なんか歯が浮くようで自分でも困るんだけど(笑)、いろんな子に告白されたりもしたよ。でもそんなときも、ぼくはうれしいとか「しめしめ」なんて思うどころか、どうしていいのかわからなかった。
 だいたい、ぼくは自分に影響力とか人を動かす力とかがあるなんて、一度も感じたことがない。当時もむろんそんなこと自覚していなかったけど、今のような仕事や立場になって振り返ってみると、母は、ぼくにはそういうものがあって、それがぼくが思っている以上に人に強い影響を及ぼしてしまうということを、見抜いていたのかもしれないね。

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ここが思い出深い、高倉押小路の家があったところ。

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向かいの本龍寺の境内でよく遊んだという。
「こんなに小さいお寺だったっけ」。

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松岡家と付き合いのあった仕出し屋の松長が残っていた。

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高木小児科病院は跡形もなかったが、
この榊原歯科医院は建物ごとそっくり残っていた。

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高倉の家の玄関前で。父はバスケットボールを持っている。

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松岡家の客の間ではしばしば句会が催された。
父母にはさまれ幼いセイゴオと妹も作句中。

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親戚・いとこたちと記念撮影。前列左がセイゴオ。
千鳥の欄間はセイゴオのお気に入りだった。


投稿者 staff : 22:49

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セイゴオ回郷―京都篇(四)


■男の子・女の子―室町新町松原通

 京都下京の室町といえば、村田珠光の茶の湯発祥の地。そこを貫く室町通りには、かつて呉服関係の問屋や商店が立ち並んでいたという。修徳小学校はこのあたりを学区としていた。室町通りを軸に、並行する新町通りや、交差する松原通りあたりが、修徳小学校に通う子供たちの通学路であり遊び場であり社交の場だったのだろう。
 しかし、あまりにも記憶が覚束ないのか、それとも街並みが変わりすぎたのか、学校周辺を散策するセイゴオには、当時の思い出につながるトピックがなかなか見つからないようだった。セイゴオは4年生のときに中京区の高倉押小路に引っ越したので、市電で烏丸通りを南下して学校へ通っていた。そのため、学校周辺の店や寺や祠にはあまりなじみがなかったのかもしれない。それでもわずかに見憶えのある建て物や看板が、ところどころには残っているようだった。旧友の苗字の表札が今も掛っている家もあった。
 右見左見しながら室町通りを歩いていたセイゴオが、とつぜん一軒の町屋にずかずかと入って行った。修徳時代の友人の中村晋造さんの呉服店である。まるでその場所だけ時間が止まったかのように、店構えもタタキも柱も庭も、何もかもが当時のままだという。
 呉服店主らしい着物姿の中村さんが玄関先に飛び出してきて、「よう来たな、あがってあがって」とセイゴオを迎え入れてくれた。昔よく遊んだという蔵のなかで、しばし旧友の溝川陽子さんや杉山依子さんのことなどを交わしていた。

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松原通りにたたずんで、学童のころを思い返す。


Q:中村さんとおしゃべりするときに、松岡さんは京都弁に戻ってましたね。

S:ははは。ぼくの京都弁、珍しかったかな。中村はみんなからからかわれてばかりいる変なやつだったよ(笑)。むこうもぼくのことを東京からきた変な子と思って、親近感をもってたらしい。それにしても中村の家は昔のままだった。あれじゃ、変わらなさすぎるよ(笑)。

Q:中村さんは、松岡さんのお父さんがいっしょにキャッチボールをして遊んでくれたときのことを強烈に憶えているそうです。

A:商売をやっている家で父親が子供と遊んでくれるという光景が珍しかったんだろうね。中村の家も呉服屋だったから、よけいにそう思ったんだろう。父にはそういうところがあった。どんなに忙しいときでも、いったん引き受けたら、たとえ相手が子供であっても、本気で遊ばせる。
 ぼくが大学生のときに、中学校時代の同級生の女の子が東京に遊びに来たことがあってね。そのときなんか父は「それならいっぺん家にきてもらいなさい」と言い出して、ああだこうだとデートコースをこと細かく口出ししてね(笑)。日比谷のあそこでご飯を食べて、どこでお茶を飲んでというふうに、とても大学生が行けないような一流のところばっかり(笑)。でも、そんなふうにして、ぼくのボーイフレンドでもガールフレンドでも、同じように大事にしてくれた。

Q:小学校時代の友達の家がほかにも残ってましたね。よく遊びに行ったりしてたんですか。

A:あんまり家に行ったりしてなかった。杉山依子ちゃんの家にテレビが入ったと聞いて、みんなで見に行ってたけど、ぼくは行かなかったなあ。やっぱり母のいる「うち」が一番いいと思ってたんだろうね。
 松原通にあった花井君の家にはときどき行ってた。花井君というのは、いっしょに電気倶楽部を作った仲間で、お父さんが大工さんだったから、よく工作を手伝ってもらったよ。

Q:中村さんや田中依子(杉山依子)さん、あと北川陽子(溝川陽子)さんも、いまでもよく松岡さんの講演を聞きにきてくれますね。

S:みんな同じ「ろ組」の仲間だよ。だいたいぼくのこと一番はやしてたのミゾチン(溝川さんのこと)。「あんた、きのうお母さんと女風呂行ったやろ」とか言い出すんだよ。まだ小学校3年とか4年なんだから、女風呂に入ったっておかしくないよね。あれっ、おかしいかな(笑)。

Q:眼鏡の竹原先生のあとに、好きになった女の子とかいなかったんですか。

S:「は組」の山添さんという子と「い組」の麻山さんという子が、学芸会のときにチュチュを着てバレエを踊ったことがあった。それがものすごくきれいに思えた。あとから写真を見てもきれいな子だったんだけど、そのときぼくは初めてバレエというものを見たんだね。いままで見たこともないものだと思った。だから、麻山さんと山添さんが好き、というんじゃなくて、バレエを踊っている二人にものすごく気持ちが反応したという感じだった。
 ぼくはそのころ、『ノンちゃん雲に乗る』の映画を見て鰐淵晴子にも夢中になったんだけど、それも鰐淵晴子の全部が好きだったわけじゃなくて、あくまで「ノンちゃん」の鰐淵晴子だけ、池の中の雲に飛び込んでしまう、あのノンちゃんであることが重要だった。

Q:寝ても覚めても好きというような女の子はいなかったんですか。

S:中学生のとき、夏に八幡さんのお祭りがあって、1年後輩の内貴登代子ちゃんと言う子が浴衣を着ていた。それがすごくよくて、初めて、何度もその子に会いたくなった。その子のうちを探しに行ったりしたよ。「内貴」という表札のかかった格子戸のある大きな家だった。京都でも有名な大素封家の内貴清兵衛の孫か曾孫だったんだよ。その子にはいつも学校で会っていたんだけど、その浴衣姿を見て変わっちゃった。だから一目惚れというのともちょっと違ってたと思う。
 ぼくはいまでもそうなんだけど、「これがすごくいい」と思ったものは、すぐに価値観の真ん中に置く。チュチュを着た二人も、浴衣を着た内貴登代子ちゃんも、ぼくにはいまも変わらず「すごくいいもの」なんだよ。だからいっぺんダリアって花がいいと思うと、ダリアに代わる花はなかなかなかったりする。松葉ボタンがいいと思うと、宇宙のことだって科学のことだって松葉ボタンから語ろうとする。

Q:一度好きになったものに対して、ずっと評価が変わらないんですか。

S:ぼくの気持ちが動かされた、その場面をずっと大事にするということだね。だからそこまで行かないものに対しては評価もしない。これはね、ぼくが母の不在へのさびしさというものを、いっさい伏せようとしなかったこととも関係あるんだ。今のぼくの思想の根本にあるフラジャイルとかノスタルジーとか「負」とか枯山水と、どこかでつながっているんだと思う。
 一度好きになったものも、失いたくなかったのに失ってしまったものも、何度でも想起して再生してずっと持ち続けるということをやってきたんだ。

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「これはきっと、そのころの看板だね」。

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松原同祖神社は学校の行き帰りに寄っていた。
こうして拝むことを「アンする」と言っていた。

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中村晋造さんの呉服店の蔵で昔語りを交わす。
「ぼくの家にもこんなふうに色とりどりの反物がたくさんあったよ」。

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「中っかん、ソロバン使えるんか」「あたりまえやがな」。
京都弁でからかいあう姿は小学生時代のままらしい。

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前列左から2人目がセイゴオ、後列左から一人目が中村さん。

投稿者 staff : 22:35

Report セイゴオ回郷―京都篇(三)

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セイゴオ回郷―京都篇(三)

■永遠の学び舎―修徳小学校

 日本橋の東華小学校からセイゴオが転校した修徳小学校は、明治2年に日本初の町組立下京第14番組小学校として、つまり町衆の手によって創立されたという、京都ならではの歴史をもつ学校である。残念ながら近年進む小学校統廃合政策によって、修徳小学校も平成4年に廃校となってしまった。現在その跡地には特別養護老人ホームや下京区図書館などの複合施設が建てられ、校庭だった場所は市民公園となっている。
 1953年(昭和28)年、4年生になったセイゴオは、吉見昭一先生と出会う。「千夜千冊」に『虫をたおすキノコ』(461夜)を取り上げて綴っているように、当時は大学院を出てまだ2、3年の青年先生だったが、その自由で活動的な授業が、セイゴオの探索力や表現力や行動力に大きな影響を与えたようだ。

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取り壊される前の、セイゴオが学んでいた校舎(「京都の小学校」より)

Q:修徳小学校跡地を訪ねてみて、当時のまま残っているものは何か見つかりましたか?

S:何もなかった。校庭にみんなでメタセコイアの木を植えたことを思い出したんだけど、それも残ってなかった。修徳小学校の校舎も校庭も大好きだったので残念だよ。あの空間、あの空気感。油でモップをかけてつやつやになった木の廊下の匂いとか、今でも蘇ってくるんだけど。もちろんぼくは3年生の半ばまでは日本橋の東華小学校にいたし、東華小学校の校舎もすばらしかったけれど、ぼくにとっての校舎、校庭は、やっぱり修徳小学校だね。

Q:修徳小学校のなかで、いちばん好きだった場所はどこですか。

S:そうだねえ。標本室とか保健室とか音楽室とか。標本室には骸骨の模型とか鉱物や化石の標本とかチョウチョや虫の標本があった。それと理科室にあるような実験道具の一部が置いてあった。小学校だからどれもちょっとずつしかないんだけど、ぼくの模型好き、標本好きのルーツはあの標本室にあったよ。それから作法室といって畳の部屋もあった。畳は珍しいものじゃないけど、学校のなかに畳がある風情がよかった。
 それとなんといっても図書室かな。そういえば5年生か6年生のときに図書委員をやっていた。それでしょっちゅう図書室に行ってた。

Q:図書委員って何をしてたんですか。

S:さてね。何をしてたんだろうね(笑)。確か、返却された本がいっぱい積んであって、それを棚に戻したり、閲覧カードを本に戻したりしてた記憶がある。そうそう、ぼくは閲覧カードを見るのが大好きだった。カードを一枚一枚見て、この本は誰が借りてたのかなとか見てたんだろうね。
 もちろん本もよく読んでたよ。『三銃士』とか『トム・ソーヤの冒険』とか『ハックルベリー・フィン』とか、シャーロック・ホームズのシリーズとか。いかにも男の子向けの本ばっかりだね(笑)。そういう本は母が買ってくれなかったんだよ。母が買ってくれるのは、名作を子供むけに編集した本とか、偉人伝とか、世界一尽しのシリーズ、ナイヤガラの滝とかサハラ砂漠とかが紹介されている本だった。

Q:修徳小学校の近くの大喜書店は残ってましたね。松岡さんが初めて本を買った書店ですよね。

S:自分で買ったというよりも、吉見先生が学級文庫をつくって、「好きなものを買っていい」と言ってくれたんだ。教室のなかにガラス戸のついた本棚があって、そこにクラスのみんながそれぞれ選んだ本が置かれていた。ぼくが選んだのは『太閤記』とか『砂漠の女王』とか『鉄火面』。偕成社か講談社の児童文学のシリーズだった。あとは「ミツバチのひみつ」とか「セミの一生」といった本だったかな。京都の自然に触れて、虫や鉱物を採集したり探究することに急速に目覚めてた時期だったからね。

Q:虫や鉱物への目覚めは吉見先生の影響も大きかったんでしょうね。

S:ものすごく影響を受けた。先生のことは千夜千冊の『虫をたおすキノコ』(461夜)にくわしく書いたように、南方熊楠の弟子の弟子で、のちに日本一のキノコ学者になった人だった。腹菌類の専門家だね。もちろん大の自然派で、雪が降れば雪合戦、夏日であればみんなで水浴び、雨が降れば泥遊びをさせてくれた。
 だから図書室にもよく行ったけど、放課後はむしろソフトボールとかドッジボールとか、S形という陣地ゲームとかばかりやっていた。だいたい吉見先生は子供たちを教室のなかでじっとさせておかない先生だった。「子供は風の子やろ」と言ってね。

Q:それでも松岡さんは転校してから吃音になったんですよね。なかなか京都弁になじめなかったんでしょうか。

S:東京弁をはやされたりしたからね。でもそんなことが深刻だったとは思えない。吃音になったのはどうしてかなあ。
 それより弱ったのは、杉山依子ちゃんという子と愛愛傘に名前を書かれたり、しょっちゅう「杉の木、松の木、サンショの木」ってはやされたりしたこと。べつにその子と何かあったわけじゃないし、ただ「杉」と「松」でゴロがいいからくっつけられたんだね。子供たちって他愛もないことですぐ人をはやすでしょう。まあでも、それもべつに悩むほど弱ってたわけじゃない。
 ぼくはすでに、いちばんおもしろいもの、いいものにだけ反応するように育てられていた。嵐山がいちばんきれいに見える午後の光とか、法然院の椿とか、お母さんの微笑とかね(笑)。父の一流主義と母の想像力、大好きになった京都に包まれて、学校で何があったからとか、何を言われたからって、そんなにぐらぐらと揺らがない子供になっていた。
 ぼくにはいまだに、いじめるとかいじめられるとか、誰かを許せないとか悔しいとか、悪意を持つとか持たれるとか、そういう感情がまったくないんだ。がまんして抑制しているのではなくて、もともと、ずっと、ない。
 
Q:松岡さんは精神年齢のすごく高い子供だったんでしょう。京都で2番目か3番目くらいだったんですよね。

S:当時、精神年齢テストというのがあってね。ぼくは京都で3番目に精神年齢が高い子供だったらしい。どういうテストだったかよく憶えてないけど、IQテストとはちょっと違っていたと思う。京都が率先して導入したけど、その後中止されたと聞いている。
 テストの結果のことは、吉見先生がうっかりぼくにしゃべっちゃったんだよ。先生はぼくがクラスのなかでいじめられていると思って、慮ったつもりだったんだろう。あるとき一人だけ呼び出して、「お前がいじめられるのは、この前のテストで京都で3番という成績やったからや。やっかまれてるんや」みたいなことを言った。

Q:えっ、松岡さんやっぱりいじめられてたんですか。

S:そうじゃなくて、先生のいう「いじめ」というのは、「杉の木、松の木」の一件のことだよ。先生が何か過敏に考えすぎたらしい。だから先生からそういう言われ方をして本当に困った。だいたいぼくは何かに集中したり熱中したりするのが好きで、努力家のほう。なのに、「もともとみんなとはデキが違うんだ」みたいなことを言われても、うれしくないよね。だいいち、それを何に生かせばいいのかもわからない。
 その後、何に夢中になっているときも、そのこと(精神年齢)となんの関係も感じなかったし、その後引きずったりもしなかったけどね。あんなことは聞かされたくなかったね。

Q:でも学校の成績はよかったんでしょう。

S:そんなことないよ。成績はだいたいクラスで3位から5位。なにかの科目でトップだったというのも、高校のとき国語がずっとトップだったことを除いては、まったくなかった。
 ぼくよりも妹のほうが優秀だったよ。小学校の卒業式で総代をやったくらい、ほとんどトップだった。妹は与えられたことを徹底的にマスターするタイプで、おとなになってからも、パソコンでもプログラミングでもすぐにこなしていた。ぼくなんて、つるかめ算がまったくできなくて、半泣きになって母親に教えてもらってたよ。いまだに暗算がヘタだしね(笑)。

Q:つるかめ算が苦手だったんですか。松岡さんからそういう話を聞くとなぜかほっとします(笑)。では、松岡少年は何が得意だったんですか。

S:解釈力と想像力はものすごく進んでいたと思う。それから一人遊びを工夫するというのが得意だった。それと、やっぱり自分で問題をつくって自分で解いていくようなこと、かな。だから夏休みの自由課題とか工作とかは、がんばってたよ。反対に妹はそういうクリエイティビティが苦手だったから、いつもぼくがやることをマネしていた。
 小学校5年のとき、自由課題で「日本列島の姿」という一冊本をつくった。白い紙を重ねてそれを彫りこんで等高線を作ったり、ページを開けて行くと川から見る日本とか、産業から見る日本とかが見えるようにした。そうしたら、妹もそれとそっくりなものを作って提出してた(笑)。

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修徳小学校の沿革を記す記念碑

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元校庭は市民公園になっていた。
「古いポンプだね。これは当時のものかなあ」。

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「確かここにみんなでメタセコイアを植えたんだけど」。

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学級文庫づくりのために通った大喜書店。
アルミサッシに変わった以外は、店構えも看板もほぼ当時のまま。

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吉見昭一先生と、4年ろ組の生徒たち。
1列目左から四人目の斜め後ろがセイゴオ。

投稿者 staff : 22:31

Report セイゴオ回郷―京都篇(二)

セイゴオちゃんねる更新200回記念特別企画
セイゴオ回郷―京都篇(二)

■母との蜜月時代―綾小路室町の家

 京都に生まれながら京都を知らないまま、尾鷲、日本橋、鵠沼を転々とさせられたセイゴオは、1949(昭和24)年、日本橋人形町の東華幼稚園に入学。めざましい復興を遂げる東京で、松岡一家はようやく4人家族が一つ屋根で暮らせる安定期に入りつつあった。翌年には東華小学校に入学、すっかり東京弁を身につけ、メンコや凧あげや童話や絵本に夢中な日々を送っていたセイゴオに、またしても父の方針で転機が訪れた。1952(昭和27)年7月、母とセイゴオと妹の3人だけが、京都に戻ることになったのである。
 住まいは綾小路室町。親戚の帯屋の小泉商店に間借りして、母子3人のつつましい京都暮らしが始まった。父の不在という不安定を抱えながらも、セイゴオはたちまち東京とは対照的な京都の自然や文化に親しみ、あふれる好奇心を満たすことに忙しい少年時代の輝きを獲得していった。それはまた、大好きな母との蜜月時代でもあったようだ。

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セイゴオ母子が間借りした小泉商店は立派なビルに建て替わっていた


Q:京都に戻ってきたのは8歳のときですよね。子どもごころにとって京都はどんな印象でしたか。

S:それはもう衝撃だった。美しかった。焼け跡の東京というのは、日本一破壊された風景だったからね。京都は街並みもすべて残されているし、すぐそこに山があり川がある。東山なんて春夏秋冬、朝も昼も夕方も色が違う。ホタルもいるし、セミも鳴く。驚いたよ。母も「お前は京都へ戻って変わったね。よかったね」とよく言っていた。「こんなに自然があってよかったね」と。
 でも、きっと京都に戻れていちばん母が喜んでいたはずだ。母は京都が大好きだった。ぼくはきっとそんな母に感応して、そういう様子を見せていたんだろうと思う。

Q:お母さんと松岡さんと妹さんが間借りした小泉商店が、いまも同じ場所に残ってましたね。

S:でもビルに建て替わってたからね、やっぱりなんの感慨もないよ(笑)。隣の奈良漬屋さん(田中長)は変わってなかったけど。ぼくたちが住んだのは、小泉商店の裏のわずか一間か二間の小さい部屋だった。ときどき父が京都に帰ってきたけど、いっしょに寝るスペースもなかった。きっと、そのころ父の商売はうまくいってなかったんだろう。なんとかしようと思って、とりあえず家族だけを先に京都に戻したんじゃないかな。

Q:お父さんとはどれくらい離れ離れだったんですか。

S:高倉押小路の家に移るまでの2年くらい。でも当時はそんなことはまったく気にならなかった。きっとどこかでは不安は感じていたんだろうけど、すぐに京都での暮らしになじんでいったしね。それに、父がいつも必ずお寿司とかケーキとか、おみやげを持ってきてくれるのが楽しみでね。鵠沼のころもスイカを下げて訪ねてきた父のことを、よく憶えてるな。なんだろうな。このころの父のことは、「あばらかやん、えっせんらん」という“あやし言葉”と、おみやげのことばっかりよく憶えてる(笑)。

Q:お父さんは子煩悩だったんですか。

S:礼儀とか作法には厳しかったけど、ぼくのことを溺愛してたと思うね。ぼくをよくベロベロ舐めた(笑)。体を触りたがるし、しょっちゅう肩車をしてくれた。スキンシップなんていうときれいごとすぎる。もっと猛獣が子供をベロベロ舐めるような感じ(笑)。両親は晩婚だったからね。結婚したときに父はもう40歳に近いか超えてたか、母も35、6歳だった。
 父は仕事熱心で遊び熱心だったけど、家をほったらかしにする人ではなかった。一言でいえば、豪胆な人だった。にぎやかなことが大好きで、自分はあんまり酒を飲まないけれど、誘われればいつも応じていた。でも、ずるずるだらだらするのが嫌いで、わっとその場を盛り上げて、ぱっと切り上げる。家族やぼくに対しても、いつもそんなふうにしてたよ。だから帰ってきても、ぼくをひとしきりベロベロ舐めたら、ぱっと切り上げる(笑)。

Q:お母さんはどういう人だったんですか。

S:母はほんとうにやさしい人で、ものすごく頭がよかった。文章も俳句もスケッチも水彩画も書もうまくて、創造力がすぐれていた。女学生のときにラジオのドラマコンクールで優勝したくらいの人だったよ。父とはある意味で正反対の価値観をもっていた。母は徹底して自然派で、写生派。父は完全に人工派だった。これは父と母の俳句の出来で、よくわかる。
 父は洋服も食べ物も好みも、本物、一流のものでないと気がすまない人だった。店員の前掛けは本藍染、自分の洋服は英国屋、ホテルは帝国ホテルというふうに。母はそういう権威にはまったく関心がない。イマジネーションに生きている人だった。非常に澄んだ人だった。父のことを馬鹿にはしてなかったと思うけど、多少合わないところもあっただろうね。

Q:そんなに対照的な夫婦だと、ケンカをすることとかなかったんですか。

S:母は決して口ごたえしたりグチを言ったりする人じゃなかったけど、とにかく表現力が豊かで、いつもなにかがあふれていた。それがなにかのときに、父には気に入らないこともあったようで、そういうときには父は厳しく叱っていた。なにせ「蚊帳を吊るときは蚊帳になれ」「飯をつくるときは飯になれ」というのが父の美意識だからね。母はちゃんと心得てはいたけど、「はい、はい」と適当にあしらうようなことができない人だった。父にはそれが見えてしまうんだろうね。
 母は普通の主婦でおさまるのはもったいないような女性だったんだよ。それに、子供にとってはこんなに慈愛に満ちた、きれいな人はいない。ぼくの誇りだった。

Q:松岡さんのほうがお母さんを溺愛してました?

S:かなりね(笑)。ぼくの根本的な問題は、母がいないと悲しくてさびしくて、どうしようもなくなることだった。台所にいるはずの母の姿がちょっと見えないだけでも、もうだめだった。むちゃくちゃにメソメソになった。母が死んだ夢を見て、泣いて目が覚めるということが何度もあった。母の不在は子供のぼくにとって徹底的な寂漠だった。
 どうしてそんなにも母を失うことを恐れてたんだろうね。たんに「お母さんだから」という理由だけだったと思えないんだよ。
 母の言葉にも描く線にも鉛筆の削り方にも、にこっとした微笑にも、なにか永遠に失いたくないような澄明さを感じていたんだと思う。レオナルドのマリア像とか、ベルニーニの彫刻とか、オキーフの花とか、常盤津の艶やかな声を聞いたときに、「ああ、これはいいな」と感じ入るときがあるでしょう。ぼくはそれに近いことを、母に対して感じていたんだろうな。

Q:男の子はみんなそんなふうに母親像をもっているんでしょうか?

S:そういうものなんじゃないかな。普通は。やがてそれが誰かほかの女性に移行していくはずなんだけど、ぼくの場合はなかなか移行できなかった。たとえば、東京から京都の修徳小学校に転校したとき、担任の竹原恵美先生がすぐ好きになった。眼鏡を掛けてて、とてもきれいな歯でにこっと笑ってくれる。その「にこっ」が、とても母に近いと思った。でもそのうち、やっぱりどこかお母さんとは違うと思っちゃうんだね。そうするとまた母に戻ってしまう。そんな調子で、なかなか母を凌駕する女性が出てこない。
 母が永遠のマドンナだなんて、女性たちからすると困るだろうね(笑)。
 

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隣の奈良漬屋・田中長は当時とまったく変わらない店構え

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「ああ、この匂いが懐かしいねえ」。田中長の店内で。

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そのころこの綾小路の一画は空地で、サーカスや相撲巡業をやっていたという。

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3~4歳ごろのセイゴオ。父、母、妹と。

投稿者 staff : 14:02

2008年1月10日

Report セイゴオ回郷―京都篇(一)

セイゴオちゃんねる更新200回記念特別企画
セイゴオ回郷―京都篇(一)

 2007年末、当「セイゴオちゃんねる」は200回目の更新を達成しました。これを記念して、特別企画「セイゴオ回郷―京都編」をお送りします。セイゴオが、生まれてから15歳までを過ごした京都のゆかりのトポスを訪ねながら、当時の思い出や心境を語る当サイトならではの企画です。これから全7回に分けてお届けします。


■出生の地、横田病院を訪ねて

 一億総進撃の大号令が喧しい太平洋戦争まっただなかの1944年1月25日、セイゴオは、父太十郎・母貴久の長男として、中京区富小路の産婦人科・横田病院で生まれた。「ぼくは戦中生まれ」をしばしば口にするセイゴオだが、むろん赤ん坊だった当時の記憶があるわけではない。それどころか、生まれてまもなく父の方針で東京日本橋に移ってしまったために、セイゴオの原初の記憶は戦後の焼け跡の日本橋から始まっているのである。
 原初の記憶から京都が消えてしまったセイゴオにとって、横田病院こそは京都生まれという事実、そして戦中生まれという事実をつなぎとめる貴重なトポスだ。
 京都を離れてから約半世紀になろうとしているセイゴオが、初めてその出生地である横田病院を訪ねてみた。幼少時に父母から聞かされた記憶や、京都の友人の情報を手掛かりに、ようやく探し当てたその場所は、錦市場のすぐ近く、柳馬場と蛸薬師通の交差点に位置していたが、残念ながら横田病院は7年前に閉院し、消え去っていた。セイゴオの記憶に残るレンガ造りの建物もなくなって、その跡地には武田クリニックという看板を掲げた白いタイル貼りビルが建っていた。

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往時の横田病院を知る住民に話を聞くセイゴオ


Q:出生の地、横田病院を訪ねてみて、どんな感慨がありました?

S: その横田病院がなくなってしまってたからね。立て替わった建物を見ても、感慨なんてないよ(笑)。たしか黄色っぽいレンガ色の建物だった。もちろん生まれたばかりの記憶はないから、あとから「ここが正剛の生まれた病院よ」と言われたりしたときの記憶だね。小ぶりの産婦人科病院だった。たいへん評判のいいお医者さんだったようだ。街並みもだいぶん変わっていた。もちろん京都だから、ほかの町に比べれば、まだまだ昔の面影は、それでも残っているんだろうけれど。

Q:松岡さんが生まれたときのエピソードはありますか。お父さんやお母さんからいろいろ聞かされた話とか。

S:それがね、あんまりないんだ。父も母も、そのころのことをあまり語りたがらなかった。なんといっても、ぼくが生まれたのは昭和19年でしょう。日本が南方戦線で負け続けて、それでも戦争をまだやめられないという、日本史上でも最悪の年だった。父も母も余裕のあることなんて何もできなかったんだと思う。「お前を負ぶってどうのこうのした」とか「大変やったんやで」といった話くらいしかしなかった。
 それにしても、父と母がどこで結婚したのかも聞いていないし、ぼくが生まれたとき、家がどこにあったのかも知らない。ただぼくが横田病院で生まれたということしか知らないままなんだ。うっかりしてたよ。ちゃんと聞き出しておけばよかった。
 母は殿定という大きな老舗呉服店の娘だった。もとは池田といった。父は近江長浜の出身だった。父も京都を大変愛したけれども、やっぱり京都の町屋の雰囲気は、母がもっているものだった。だから横田病院を選んだのはきっと母だったんだろう。

Q:松岡さんは京都に生まれたけれど、すぐに東京に移ったんですよね。

S:それが1歳くらいだったか、1歳半くらいだったか、やっぱり正確にはわからないんだけど、東京に行く前に、母と二人で尾鷲(三重県)に疎開していた。結果的に京都は爆撃されなかったけど、当時は京都も危ないと言われていたからね。赤ちゃんに焼夷弾が当たったら大変だというんで、たぶんぼくが生まれてすぐに父が疎開させたんだろうな。
 で、日本が敗戦して、すぐに東京の日本橋芳町に移った。どこもかしこもまだ焼け野原で、闇市がどんどん立ち並んで、車が乱暴に走ってまだ荷馬車もパカパカ町を動いていた、誰もが殺気だっているような状況だった。ぼくの記憶はそのあたりから始まっている。それ以前の記憶はまったくないんだ。

Q:なぜお父さんは、そんな殺伐とした東京に移る決心をされたんですか。

S:父はものすごいやり手だったから、たぶん焼け跡の東京で一旗あげて生き抜いていこうと決心したんじゃないかな。それでいったんは京都を捨てる決心をしたんだろう。で、何人かの若い仲間たちと芳町に呉服店を構えた。でも、そんなところでは子供をちゃんと育てられないと思ったのだろう。それで今度は母とぼくと二人だけで湘南の鵠沼に住むことになった。日本橋の東華幼稚園に入る前までのことだから、鵠沼にいたのもほんの1年か1年半くらいかな。そのころ妹の敬子が生まれた。
 そんな調子で、ぼくは生まれてしばらく、まったく居所の定まらない数年を送っていたわけだ。でも当時の日本では、田舎の人たちを除けば、みんなそういう状態だったんだよ。

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横田病院跡地に建つ武田クリニックの前で

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セイゴオ一歳のころ

投稿者 staff : 18:18

2008年1月 7日

News セイゴオの初講話は曇り空

 2008年1月7日、年末28日の納会後10日ぶりに編集工学研究所・松岡正剛事務所のメンバー全25人が一堂に会して、恒例の年始の儀が行われた。枡酒で乾杯し、各チームリーダーが今年の抱負や指針をスピーチしたところで、セイゴオからもとっておきの初講話。ただし、新著『誰も知らない世界と日本のまちがい』をふまえての時代予測に始まったその内容は、スタッフたちのハレの気分を一気に脱色するような、緊張感に満ちたものだった。

 「2010年まではまだまだ日本は悪くなる。新自由主義はますます進み、政治も社会も文化もことごとくオーダーを失っていくだろう。すべての価値観は平均化され定番化され定常化されていくだろう。」
 
 セイゴオの暗澹たる時代予測を振り払うためなのか、専務・大村巌のはからいで、例年ならばこのあと全員で近所の氷川神社に行くところを、今年は山王日枝神社に切り替え。すでに元日に同神社に初詣出をしたというセイゴオには二度目の日枝詣りとなったが、正殿前で丁寧に手を合わせ、何ごとかを念じていたようだ。

 ちなみにこの日から、都内のタクシーは一斉に禁煙となった。そのことも、セイゴオの年始の気分に影を落としているのではないかと、スタッフたちはひそかに噂をしている。

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投稿者 staff : 19:59