セイゴオちゃんねる

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2007年11月28日

Report 田中優子×セイゴオ対談「日本を語る」

 11月12日(月)、田中優子さんが5年にわたって塾長をつとめている「神田明神塾」にセイゴオが出演、今期の締めくくりを二人でぜひという田中さんからのたっての希望で、「日本を語る」をテーマに縦横無尽の対談が行われました。
 最初に、「今日は全部ひっくるめた日本を徹底的に話したい。松岡さんの雰囲気にすっと入り、頭をめぐらして聞いて下さい。知識を超えたなにかが伝わると思います」と、1年間熱心に通い詰めた120人の塾生たちに語りかける田中さん、紫紺の着物も艶やかに、絶品のナビゲーションでセイゴオの紹介から話を始めます。

■セイゴオ流「場の編集術」
田中:10年前にライプツヒ大学の日本学部長に頼まれて「松岡正剛論」を書いたとき、松岡さんのことを知らないドイツ人に紹介するために、「平安遷都1200年記念フォーラム」(1994年)のことから始めたんですね。
セイゴオ:あの「松岡正剛論」には驚きました。ぼくのことをぼく以上にうまく書いてくれた(笑)。
田中:2年間かけて「もてなし」「ふるまい」「しつらい」をテーマに3つのフォーラムを行って、最後に宝ヶ池の京都国際会館で3日間のグランドフォーラムがあったんですが、すべて松岡さんが総合監修された。
セイゴオ:グランドフォーラムには田中さんにも出演してもらいましたね。
田中:「みやび」をテーマに、いろんなジャンルの方々が出演するセッションが5つほどあったんですが、いちばん驚いたのが、書家の今岡徳夫さん、華道家の川瀬敏郎さん、陶芸家の樂吉右衞門さんが出演したセッション。松岡さんは最初に書家の今岡さんを登場させましたね。しかもその場で大きな紙に書を描くところからスタートした。
セイゴオ:大きな筆でね。確か最初は「宴」という一字を書いてもらった。今岡さんは当時京都を代表する前衛書家で、あのとき使った墨には大量のボンドを混ぜていた。
田中:あんなふうに書家が大きな紙と格闘する姿に驚きました。「みやび」を伝えるために松岡さんはこういう仕掛けをするのか、と思った。で、そのことをドイツ人のための論文に書いたわけです。
セイゴオ:書というのはまさに「場」の世界なんですね。「伏仰」といって、筆を運ぶときに必ず「伏せて」、筆を返して「仰ぐ」んですが、それは日本の「場」の作り方そのものなんです。ぼくはあの会場に、どうしても「場」を作り出したかった。
田中:今岡さんは「宴」の次に「遊」を書いて、最後に「雅」を書かれましたね。その次に樂吉左衛門さんが登場した。てっきり茶碗の話をするのかと思ったら、しばらく松岡さんと書の話をされました。あのあたりも、まさに“その場”ならではの連続性があった。
セイゴオ:うん、うん。樂さんも今岡さんに触発されてましたね。
田中:そうして、最後に川瀬敏郎さんが出てきて、その場で花を立てた。それがまたすごくて、竹と椿だけを使って、「真」と「草」を立て分けた。みごとでしたね。3人のアーチストを迎えて、この順番でこの流れで展開しながら「場」がつくられていく。「これが松岡さんの編集なんだ」と感じました。照明の演出も徹底してましたね。

■「おとづれ」を待つために「席」を空ける
田中:松岡さんのイベントには私もよく出させていただきますが、いつも出演者がたくさんいらして持ち時間がせいぜい10分とか20分とか、とても少ないんです(笑)。でも、出演者の一人一人が松岡さんの編集によって「場」を作っている、そのような「場」に自分もかかわっているということをすごく感じるんです。
セイゴオ:ぼくがフォーラムやイベントを演出するときは、「乗りかえ」「着がえ」「持ちかえ」をすごく重視してるんですね。テーマだけが大事なのではない。むしろそこにどのように乗るのか、何を持ち出すのか、どういうモードに着替えるのか、その組み合わせ方が、まさに「日本という方法」だと思っている。
田中:松岡さんは『知の編集工学』に「あらかじめ決められたところに話をもっていくのは談合だ」と書いてましたね。私もつい対談やシンポジウムでは、筋書きを全部考えるような準備をしてしまう。松岡さんによく「それだけはやめたら」と言われました(笑)。
セイゴオ:準備はしていいんですよ(笑)。ぼくも準備はしつこいほどやる。でもそうしたうえで、それを捨てたほうがいいんです。そうすると自分でも予想していなかった展開が向こうからやってくる。
田中:まさに神様が降りてくるように。
セイゴオ:そうです。まさに何かがやってくるために「席を空ける」。これは日本の最大の編集術です。西洋ではゲストとホストの席はつねに決まっていますが、日本では状況に応じて席が変わる。「人の文化」「神の文化」と「席の文化」を組み合せていくんです。
田中:イベントも祭りも、なにかが訪れるための場をそこにかかわる全員でつくっているわけですね。
セイゴオ:「後成的風景(こうせいてきふうけい/エピジェネティック・ランドスケープ)」という言葉があります。これはウォディントンによる生物学の用語ですが、日本文化を説明するときによく使うんです。まさに準備されたものが組み合わさって、場の中で後成的にストーリーやイメージが作られていく。ぼくはいつだってそういう「場」に浸っていたいんです。

■江戸と科学の縁側文化
田中:松岡さんは今のように、日本を語るときにもよく科学の用語を使われますよね。
セイゴオ:意識的に使っているところがある。ぼくにとって、文化を考えるときに科学からヒントをもらっていることがすごく多い。もちろんいろんな国の神話などから学ぶことも多いんですが、科学と神話はどこか似ているところがある。
田中:江戸の国学者も日本を考えるときには、まず言葉にこだわった。でもいま日本のことを考えている人々は、あまり日本語のことを考えなくなってますね。
セイゴオ:グローバルスタンダードな概念やカテゴリーだけを使いまわししているもんね。
田中:日本語だけを見ても、ずいぶんおもしろいことがたくさんあるんです。たとえば「縁側」というのは言葉そのものであり、目に見える空間でもある。こういった感覚の「縁側」がないと、江戸文化そのものも成り立たないんです。
セイゴオ:まさに江戸は縁側だらけですからね(笑)。
田中:たとえば「自分を縁側状態にしておく」という言葉があります。するとそこにふっと誰かが入ってきて、かかわりが生まれて、物事が起こっていく。
セイゴオ:じつは、いまそういった縁側感覚と先端科学が近づいてきてるんですよ。「複雑系」の科学を扱う研究者たちのあいだで、「カオスの縁(ふち)」という言い方もされるようになっている。たとえば、あんなに巨大なジャンボジェット機が、ビス一つ緩むだけで落ちてしまう。ほんの小さな部分に起こったことが、全体に影響を及ぼしてしまうわけです。
田中:おもしろいですね。まさに縁側の出来事が大きな物事を動かしていくんですね。
セイゴオ:しかもそれが文化や感覚の問題だけではなく、たとえば宇宙のでき方といった大きなシステムにおいても重視されているんです。

■主語的自己から述語的客観へ
田中:「自分を縁側状態にする」と、言うのは簡単ですが、実践は難しい。自己意識もあるし価値観もある。どうしても「私」という個人がいることが気になります。よく松岡さんは主語的なものよりも述語的なものが大切だとおっしゃいますが、どうしても主体を捨てきれない人間が述語的になるにはどうすればいいんでしょうか。
セイゴオ:「私のものだ」と決められる範囲は、自分が思っている以上に少ないことを自覚することです。30年くらいまえに、NHKが「松岡正剛の世界」という特集番組をつくってくれたことがありましてね。そのときにぼくは、うんこの話をして(笑)、主体から離れてトイレで流されていくうんこを、いつまで「自分のもの」と言えるかと問いかけた。
田中:ふつうは「自分のもの」なんて主張しません(笑)。
セイゴオ:これは汗や涙などでもいえることで、もっといえば言葉もそういうものではないですか。思想も意思も愛情もそうではないですか。それが「私のもの」である時期は確かにありますが、いつまでも主体が離さずにいると他者には伝わりません。だから「私」すらも、述語的なものにゆだねることが大切だと思うんです。
田中:まさに縁側の存在学ですね。

■翻訳不可能な日本語の「主語」
田中:もともと日本語というのは、文章になったときでもあえて主語を省きますね。ところが翻訳されたものを読むと、かならず「I」とか「He」と書いてある。たとえば芭蕉の連句(『猿蓑集』)にある「ただ突拍子に長き脇差」といった言葉は、「ただ突拍子もなく長い脇差だ」と言っているだけなのに、翻訳では「彼は変な人で、突拍子もなく長い脇差をさしている」となって、突然原文にはない「変な彼」がでてくる。
セイゴオ:余計な解釈ですよね(笑)。
田中:翻訳者たちも苦労しているんでしょうが、ではなぜ私たち日本人は、主語がないのに俳句や和歌を理解して味わえるのか。どうもそこには「読み手」が入っているんじゃないかと思います。たとえば連句はいくつもの主語をはらんで進んでいく。少し勘違いしながらも前の読み手を受けて句をつなげていくものなんですね。
セイゴオ:それと、やはり「場」のかかわりです。とくに連句は「場」を重視して、だからこそいろんな主語が選択可能な状態になっている。水の音を聞いているのは「私」かもしれないけど「蛙」かもしれないし、「風」ということもありうる。
田中:はい。それでもまったく問題ないんです。さきほどの芭蕉の連句でいうと、次に「草むらに蛙こわがる夕まぐれ」と続きます。これが英語に翻訳されると、こわがっている人は「She」となっているんです。蛙を怖がるからこれはたぶん女性だろうと(笑)。
セイゴオ:「human」は人間一般を意味するけど、元来は「男」をさしているように、西洋の言葉は「性別」をもっている。加えて複数か単数か、過去か現在かということを揺るぎなく明示する必要がある。
田中:日本語だと、草むらで怖がっているのは一人か数人かもわからない。
セイゴオ:蛙の数だってわからない(笑)。
田中:反対に英語を日本語に訳すときは、「自分」をあらわす言葉が多すぎて困るそうです。英語なら「I」だけで済む。
セイゴオ:たぶん主語のレイヤーが違うんだと思う。西洋では天上の神と地上の人間が対置されていて、ずばっと主語を下ろします。ところが日本では、主語をつねに棚の上にたくさん並べて、仮置きしてあるんです。

■補いながら取り入れる
田中:西洋の日本学者たちは基本的に「どんな日本語も翻訳できないはずがない」と考えている。けれども、翻訳不能ということこそ日本語のおもしろいところだと思うんですね。そういう感覚ごと、わかってもらう方法が重要ではないか。
セイゴオ:いろいろ補うしかないんです。ぼくは同時通訳の会社に10年ほど携わったのですが、ものすごくおもしろい体験でした。当時のトップクラスの同時通訳者たちが、ぼくの日本語の知識に学びたいといって集まってきたんです。ぼくはそのころから、ジョン・ケージやスーザン・ソンダクを相手に話すときも、「うつろい」や「おもかげ」といった言葉を日本語のままどんどん使っていた。それを、彼らが苦労して、いろいろな言葉を補って通訳してくれたんですが、そのときに交わしたことは、どんな学者の神道論よりおもしろかった。
田中:「おもかげ」みたいな日本語の訳語ってあるんですか。
セイゴオ:ないんです。「あこがれ」とか、日本人の思う「なつかしさ」という言葉も感覚も、英語にはぴったりした言葉がないんです。だからぼくは外国では、「寂しい」が「さび」になったとか、「侘しい」が「わび」になるといった話を、どんどんするようにしてます。そうすると、もう独壇場です(笑)。そういうことがわかると、向こうの人たちも日本語の「さび」や「わび」をそのまま使おうという気になってくれる。それでいいと思うんです。我々だって「システム」とか「デリバティブ」といった言葉をそのまま使っているんですから。

■近代日本の忘れもの
田中:じつは、江戸や明治時代の文学の、日本語の現代語訳もひどいんです。たとえば樋口一葉の『たけくらべ』は語り手が特定されないまま、吉原の情景を外から丁寧に描写するところから始まります。ところが現代語訳では、「私は」から始まっていて、しかもその「私」は一葉のことだという。
セイゴオ:『たけくらべ』に一葉がでてきたら邪魔ですよ(笑)。大江健三郎あたりから日本語の言語感覚はどんどん英語に近づいてきたんです。それと、ロラン・バルトあたりから物語の「話者」や「語り手」が絶対視されすぎるようになった。
田中:日本のつくってきた文化は「話者」の文化ではないはずです。書いている人が「自分が書いている」という感覚をもっていない。
セイゴオ:柿本人麻呂が天皇の心を代作して歌を詠んだり、紀貫之が女性のふりをして日記を書くといったように、話者や作者は何かに仮託して物語を編んでいくものだった。そうやって内なる奥の声を物語に偏在させる文化があった。そういうことが明治の頃までは守られていたのに、いまはすっかり崩れてしまった。
田中:松岡さんは著書で、「近代以降の日本の忘れもの」についてよく問うてますね。「話者が奥の声を偏在させる文化」も、大きな忘れものですね。
セイゴオ:他にもたくさんあります。神仏分離や廃仏棄釈もそう。天皇だって国家の元帥にしてしまったために、「遊君」の文化が失われてしまった。こういうことがいまでも日本にかなりの痛手を残しています。
田中:天皇は言葉の司祭でもあったのに、定位にこだわり役割を限定してしまったんですね。

■文化の苗代を育てる
セイゴオ:今年の年末に、『世界と日本のまちがい』(春秋社)という本を出します。その最終章に、日本に「苗代」がなくなったということを書きました。「苗代」は日本特有の文化で、苗を直植えしないで仮の場所で育ててから植え換えをする。この「仮置きの文化」や、「苗代」のような小さいエージェントを作る能力が、日本から失われてしまったということです。
田中:江戸文化はまさに「苗代型」でしたね。たとえば琳派は、江戸中期にいったん廃れてしまったんですが、酒井抱一が100年後に尾形光琳を蘇えらせたんですね。でも抱一は光琳の指導を受けていないばかりか、琳派との師弟関係もなかった。もともと宗達と光琳も活躍した時代が違うんですが、光琳が宗達を苗代にし、その光琳を抱一が苗代にして、王朝復古的でしかも前衛的な文化をつくりあげていった。私も苗代づくりをしないとまずいかな(笑)。苗代としての江戸文化はまだまだ使える宝の山ですから。
セイゴオ:なんだか早乙女みたいですね(笑)。
田中:櫛や簪をいっぱいつけて、二人でぜひ早乙女をやりましょう。

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最初にそろって明神さまに正式参拝

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笑顔と名調子で座を盛り上げる田中塾長

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塾生の中には1年間皆勤した人も多数

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絶品のナビゲーションに遊ぶセイゴオ

投稿者 staff : 17:59

2007年11月26日

News 浅葉克己・松岡正剛・佐藤卓「水と書と日本。」

 12月9日(日)、セイゴオが浅葉克己さん(アートディレクター)と佐藤卓さん(グラフィックデザイナー)とともに「水と書と日本」をテーマに2時間のトークライブを行います。会場は、神宮前にある東京ウィメンズプラザホール。
 日々「書」に親しみ、中国に伝わる象形文字「トンパ文字」に造詣の深い浅葉克己さん。現在開催中の“water”展のディレクターとして五感にうったえる水を追求した佐藤卓さん。当日は、水墨山水画、文字の出現、そして書にひそむ日本の方法など、「水」を通して書、文字、日本について語ります。詳しくはコチラへ。

※water展
ミッドタウン内のミュージアム「21_21 DESIGN SIGHT」で08年1月14日まで開催。

■2007年12月9日(日)14:00~16:00(開場13:30~)
■会場:青山ブックセンター本店隣 東京ウィメンズプラザホール
〒150-0001 東京都渋谷区神宮前5-53-67
■定員:260名様
■入場料:500円(税込) 
■問い合わせ: 青山ブックセンター本店・03-5485-5511(10:00~22:00)
■前売りチケット:青山ブックセンター本店(電話03-5485-5511)
            青山ブックセンター六本木店(電話03-3479-0479) 
            ABCウェブサイトwww.aoyamabc.co.jpにて販売


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投稿者 staff : 11:06

2007年11月20日

Report 第6回織部賞その2 記念トーク編

 11月4日に岐阜県多治見市のセラミックパークMINOで行われた第6回織部賞授賞式。メインイベントである正賞・副賞授与式のあとは、5人の受賞者と選考委員・特別ゲストによるトークやパフォーマンスが、国際会議場と展示ホールの2カ所で次々と繰り広げられた。来場者は、受賞者の作品展示や過去の授賞式の映像を楽しみつつそれぞれのトーク会場に足を運び、たった1日だけの、しかも1日では体験しきれないほど盛りだくさんなプログラムを、思い思いに楽しんでいた。


■「ぼくの朗読会」―高橋睦郎

 「女神よ、私は、女たちの優しさを、名もない死者たちを、そして虫たちや草たちを詠い、称えようと思います」。

 もともとホメロスの時代には叙事詩を読む前に必ず女神に祈りを捧げていたという。その古代の詩人たちにならい、女神に呼びかけながら、高橋睦郎さんのソロプログラム「ぼくの朗読会」が始まった。

 はじめは、織部賞受賞を記念してつくったという未発表の詩 「天上の木-古田織部を祀る」 。朗々とした声が会場に響き渡る。

 葉は喩えようなく香ばしく香る
 地に生えるが、天に属するからだ
 人はこれを噛み 煮て汁を嗜む
 石臼に挽き 粉にして糊で固める
 固めて餅のかたちにしたものは
 海を渡って 東の果ての島にも伝えられた
 これを砕き湯を濯いで飲むのに満足せず
 種子を招来して 懇ろに播き懇ろに育てた
 その香り高い緑の粉を迎えるのに
 特別の壷 特別の碗をもってした
 壷や碗は貴ばれ しばしば一国に価した

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 続いては今秋急逝された二人の“女神”、美術研究家の若桑みどりさんに捧げる「階段をのぼって若桑みどりに」と、山口小夜子さんに捧げる「小夜曲 サヨコのために」を立て続けに朗読し、さらに、あの世の人がたくさん住んでいるという高橋さんの自宅に捧げる「この家は」を披露。それぞれの詩にまつわるエピソードを織り交ぜた語りも味わい深く、観客とともに受賞者たちも聞き入っていた。

 最後は、現代の日本に向けてのラディカルなメッセージ「地獄はどこにあるか」。

 生きている人間のためだけの民主主義は不完全だとおもっている。
 含死者、含未来人、含生物、含無生物のための民主主義じゃなければいけない。
 体裁のいいものだけではなく残酷さもみつめたものでなければいけない。


■「メディアとアート」―岩井俊雄

 岩井俊雄さんはスクリーンに写真や映像を映しながら、アーティスト活動の原点である子供時代の思い出から話を始めた。

 小学校1年生の誕生日に両親からもらった図鑑、放課後に読みふけっていた物理化学のマンガ、ある日突然「もう玩具は買いません」と宣言した母親、海へ山へと遊びにでかけ手作りの遊び道具をつくってくれた父親。そして少年時代の発明ノート「工作ブック」。各ページにアイディアの見取り図や仕組みを書くだけではなく、目次やレイアウトにこだわっていたという岩井さん。また余白を見つけてはパラパラマンガを書いていた。大学時代になると、工作への興味にグラフィック技術が融合し、それが「時間層Ⅱ」をはじめとするアート作品になった。

 一方で、岩井さんはオルゴールと出会い、五線譜ではない音楽のあり方を発見。音楽はメロディーだけではなく、音と音のバランスや関係性が大切であることに気がついた。以降、音と光、映像と音を結びつける研究に拍車がかかった。それが最新作の新楽器「TENORI-ON」(ヤマハと共同開発)に通じたという。

 ここで会場が暗転し、岩井さんが両手で「TENORI-ON」を巧みに操作しながら、音やリズムを次々に打ち込んでたちまち音楽を作りあげていくパフォーマンスを披露。わずか30センチ四方の板状の楽器が音に合わせて発光しながら、次第に重層的な音色を響かせていくクールでファンタジックなライブに、会場に詰めかけた岩井ファンの若者から年配の観客までが魅了されていた。


■「数寄の文化」―林屋晴三×鯉江良二

 授賞式前日、織部賞記念茶会でも腕を振るった林屋晴三さんは、第3回織部賞受賞者で陶芸家の鯉江良二さんを相手に、ちょっと辛口の“林屋節”を利かせた焼き物談義。当代きっての目利きと現代を代表する作り手が、核心をつきながらも笑いのあるやりとりで観客をおおいに沸かせた。

林屋:日本の茶碗の歴史は桃山時代から始まるけれど、もともと鯉江さんが共感を得た焼きものは何?
鯉江:高麗の手乗り茶碗だね。一瞬にして心を奪われた。なんともいえない軟らかさがあって、茶碗が生きているように見えた。あの“はんなり”した感じは手作りでなくちゃできませんね。
林屋:でも、ぼくが触った鯉江さんの茶碗のなかで“はんなり”したものってあったかな(笑)。
鯉江:これはまいった(笑)。ぼくも林屋さんくらいの年齢になったらきっと力具合のちょうどいいものがつくれるようになるかな。はははっ。

林屋:鯉江さんは水気のある軟らかい土を使うけど、これはほかの陶芸家にはあまり見られないやり方です。土が軟らかいままロクロをまわして、すぐに箆(へら)を使って形にしちゃう。あのスピードはすごい。500個も1000個もあっという間でしょ。
鯉江:昔は1個のお猪口を15秒で仕上げてた。茶碗は“赤ちゃん”のようなものなんだね。落としても割れない感じがする軟らかい茶碗に魅力を感じる。

林屋:「土」と「塗」と「焼」で重視するものは?
鯉江:やっぱり「土」だね。土の魅力は陶芸家にとってたまらないものですよ。一筋縄では扱えないだけに挑戦心が掻き立てられる。自分の足で取ってきた土は、特に格別だね。
林屋:ふん、ふん、なるほど。加藤唐九郎さんなんか、いい土を探すのに、土を食べていたらしいね。でも、ぼくはね、焼きものの個性は「焼」で決まると思う。
鯉江:ありゃ、意見が食い違った(笑)。そりゃ「焼」のほうがおもしろいですよ。おもしろすぎて、ついはまっちゃいますけどね。


■「日本の発見」―山田脩二×磯崎新

 山田脩二さんのお相手は、1960年代からのつきあいという選考委員長の磯崎新さん。山田さん相手に酒なしではしゃべれないという磯崎さんたっての希望で、急遽、地元多治見の「千古乃岩」の酒がステージに差し入れされた。

磯崎:山田脩二の写真は、一見するとシロウト写真なんだけど、写しているものが実に不思議で魅了されてしまうんだよね。普通は、写真は芸術になるかならないかという際(キワ)が勝負だけど、脩ちゃんが撮るとふっと力が抜けて、日本にこんなものがあったのかということに気付かされる。
山田:普通は、カメラマンになるためには、カメラの撮影技術とか焼き方とかを学習をするんだろうけど、ぼくの場合は日本中を巡り歩いて「押す」と「呑む」をひたすら繰り返した。一回シャッターを押しては、二回グビグビッと呑む(笑)。このやり方で山田脩二の日本発見を永遠と続けてきた。

磯崎:正統と前衛の葛藤を越えて新しいことに挑む人に織部賞を贈っているんだけど、じつは脩ちゃんだけはどうもそこに入らない(笑)。度を過ぎた通俗でありながら、しかもキッチュに見えない妙な感覚をもっている。群集を撮った写真を見るとよく分かる。
山田:ぼくは「うつろい」を写しているんだと思う。引いて撮るか、寄って撮るかの感覚が普通の人とちょっと違うんでしょうね。
磯崎:確かにそう。普通は「対象物に近寄れ」というけれど、修ちゃんは引いて撮る。この引き方が絶妙で実におもしろい。

山田:瓦屋になって25年、日本で粘土を一番多く焼いた人間だと自負しています。磯崎さんは別府にあるビーコンプラザの屋根にぼくの瓦を大量につかってくれました。7500㎡分なので東大寺クラスの枚数ですよね。
磯崎:そうそう。ただし、高いところにあるからこの瓦はぜんぜん見えない(笑)。瓦のあとに炭焼きも始めたでしょう。そのことにもぼくは関心ある。
山田:日本全国の隅(スミ)から墨(スミ)まで炭(スミ)焼きを見て回りましたよ。だから、ぼくの人生は、光を紙に焼いて、土を焼いて瓦にして、木を焼いて炭をつくって、それが灰(ハイ)になって、それではみなさま、ハイ、サヨナラっていうことですね(笑)。その日のためにも、いい酒をたくさん呑まなくてはいけない。
磯崎:ぼくは山田脩二の焼いた炭でいつか茶会をしてみたい。


■「コスチューム革命」―ワダエミ×松岡正剛

 織部賞記念トークの締めくくりは、グランプリのワダエミさん。松岡正剛が聞き手となって、衣装に関心をもった経緯、アカデミー賞最優秀衣装デザイン賞に輝いた黒澤明監督映画『乱』の裏話、そして今の日本へのメッセージなど、貴重な話の数々を引き出した。

松岡:エミさんの衣装プランはどうやって生まれていくんですか。
ワダ:シナリオを読んだときにほとんどの衣装イメージができあがります。あとはそのイメージが成立するかどうかの検証をする。日本一の知識人である松岡さんには何回も夜中に長電話しましたね(笑)。
松岡:エミさんの質問はいつも鋭い。あの場面にでてくる人物の持ち物がズタ袋でいいのか、もしズタ袋であればいったいどれくらいの網目にしようかということまで考え抜いてから電話をしてくる。答えるほうもたじたじです(笑)。
ワダ:とくに資料がないときの衣装づくりは悪戦苦闘します。映画『HERO』では、監督のチャン・イーモウが「歴史は戦に勝ったほうの資料は残るけど、負けたほうの資料は残らない。その無いほうのイメージをぜひ手がけてほしい」とリクエストされました。
松岡:資料が無いものを生み出すときはどうするのですか。
ワダ:まずは同時代の既存の資料に片っ端から目を通します。中国の秦の時代はもちろんのこと、日本の古代、韓国の古代、中国のほかの時代まで。それらをミックスしてイメージをつくるんです。
松岡:今では、あの衣装イメージを中国側もいろんな映画で盛んに利用してますね。
ワダ:それから、エンターテイメントなアクションが多い『HERO』では、衣装のイメージをより際立たせるために、動きをとことん研究してシーンごとに袖の長さを変えました。同じ衣装を12着つくった。一着について12メートルの布が必要だったので、結局500メートル分、同じ生地が必要になりました。

松岡:エミさんが衣装に関心をもったのはどうしてですか。
ワダ:私の家は京都の呉服屋でしたが、着物だけではなく洋服もつくっていました。その影響を受けて、着るものは作るものという意識は子供のころから身体にしみこんでいました。
松岡:影響を受けた人物はいますか。
ワダ:中学生のときの絵の家庭教師ですね。ただし、影響を受けたのは絵ではなくて、絵を教えるという名目のもとで先生が連れて行ってくれたコクトーの映画やサルトルの芝居でした。
松岡:かなりアバンギャルドな世界に触れていたんですね。
ワダ:京都生まれなのに洋風な家にいたし、歌謡曲は全くダメで、クラシックが好きな子供でした。そのころの感覚は今も役に立っています。それから京都市立美術大学(現・京都市立芸術大学)のときに演出家の和田勉さんと結婚し、次第に彼の仕事を手伝うようになったのが舞台衣装や舞台セットをてがけるきっかけでした。

松岡:黒澤明監督の『乱』の話を聞かせてください。どういうところから衣装作りが始まりましたか。
ワダ:まずは私がデザインした衣装を創ってくれる職人さんを探すところからスタートしました。技術的な問題はもちろんですが、もともと型がある能衣装とかだと「この衣装は型破りだから創れません」と端から断られたこともありました。けっきょく当時で一着250万かかった。
松岡:とくにこだわったのはどういうところですか。
ワダ:糸の選定にこだわりましたね。もう少し太い糸で、しかも練ってくださいとお願いしたりしました。『乱』はフランス人のプロデューサーでコストにうるさいシステムだったから、糸1メートルいくらかといった予算見積りも自分で作った。すると足軽の衣装が一着75000円かかるんです。この価格では高すぎるということになって、風呂場で自分で染めることにしました。これなら一着9000円の見積もり(笑)。
松岡:足軽っていわばエキストラですよね。その衣装をすべてエミさんが手染めしたんですか。
ワダ:1000着、すべて自分でね。Sサイズ、Mサイズ、Lサイズの3サイズ用意して。染め上がると近所のコインランドリーにある10台全てをつかって乾燥。しかも使い込んだ色に見せるために二ヵ月半天日干し。
松岡:そういうフィニッシュに対する確信はすごい。
ワダ:黒澤さんの映画にかぎらず、カメラチェックをすると見えちゃだめなところを写されることがあるから、本当は1000人のエキストラに1200着の衣装をつくるのが理想なんです。200着の余分があればどこを写してもカメラに耐えられる。じつは「乱」では、ワンカットだけ、見えてはいけない直垂が映っているんです。私が現場でにいれば、絶対にそういうところは映させなかったのにと今でも後悔しています(笑)。
松岡:エミさん以外の誰も気づいてないと思いますけど、すさまじいエピソードですね。
ワダ:『乱』で初めて手がけたことの一つに衣装のエイジングがあります。登場人物がだんだん歳をとっていくので、同じ衣装でも最低4着は準備しました。ただ、こういうこだわりや衣装への関わり方はたくさんあるけど、映画は最終的には監督のものだと思っているので、やるべきところはやったという達成感だけが頼りですね。終わったらすべてを忘れてしまう。

松岡:最後にひとつだけ。今の日本の体たらくについて、ぜひ痛烈なメッセージを。
ワダ:いい観客もいい作り手もいるんだけど、いいプロデューサーがいない。一回当たるといつも同じ戦略になってしまう。同じことの繰り返しはダメです。見たいと思っている観客に対してちゃんとしたコミュニケートしなければいけない。かつての日本映画が世界に影響を与えたようなレベルに今の現状が及んでいないということが本当に残念です。
松岡:まさに衣装で世界をつくっているワダエミさんでした。来年の6月にはCFで現代版『七人の侍』の衣装をてがけ、またピーター・グリーナウェイとはいよいよ『雨月物語』を手がけるそうです。期待しています。

(撮影:川本 聖哉)

投稿者 staff : 16:41

2007年11月19日

Report 第6回織部賞その1 授賞式編

美濃の地に、21世紀のオリベが勢ぞろい

 11月4日(日)、岐阜県多治見市のセラミックパークMINOで第6回織部賞授賞式が開催された。グランプリに選ばれた衣装デザイナーのワダエミさんほか、メディアアーティストの岩井俊雄さん、詩人の高橋睦郎さん、菊寛実記念智美術館館長の林屋晴三さん、淡路瓦師で写真家の山田脩二さんたち5人の受賞者が一堂にそろい、 華やかな祝祭が朝から夕刻まで、たっぷりと繰り広げられた。
 演出構成は第1回から織部賞総合プロデューサーを担うセイゴオと、照明家の藤本晴美さん。会場デザインは織部賞選考委員でもある内田繁さん。今回の会場「セラミックパークMINO」の設計者である磯崎新委員長のアイデアによって、参加者が館内のさまざまな施設を回遊しながら展示や映像も楽しめる、これまで以上におおがかりな織部賞となった。

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■名品と名人の饗宴―織部賞記念茶会

 授賞式前日の3日夕刻、セラミックパークMINO内の茶室「懸舟庵(けんしゅうあん)」で、受賞者を迎えて織部賞記念茶会が開かれた。「懸舟庵」という名称は、設計者の磯崎新委員長が、この特別な茶会に合わせて命名。丘陵の地形を生かしたダイナミックな三段の滝の上に、浮かぶようにして茶室がつくられていることにちなむ。
    
 席主は受賞者の林屋晴三さん。日本一の茶数寄の目利きである林屋さんによって、小間には茶入「宗長棗」「千利休作竹二重切花入」「利休型真塗手桶」「長次郎作赤楽茶碗」など利休好みの逸品が並べられた。また大寄せの茶をふるまう広間には井上有一筆の書「月」や江里佐代子風呂先「截金萬象文」、辻村史朗作伊賀壺の花入など現代作家たちの作品が飾られた。茶会の段取り一切を仕切った熊倉功夫委員も驚いたという、まさに一期一会の大胆な取り合わせである。

 織部賞記念茶会にふさわしく、茶碗は、過去の受賞者である楽吉左衛門さんの黒楽をはじめ、鯉江良二さんの黒織部、加藤孝造さんの瀬戸黒が用意され、さらに人間国宝の鈴木蔵さんの志野が加わった。しかも鯉江・加藤・鈴木さんが相伴客として列席し、受賞者・選考委員・古田知事とともに、林屋さんの点前と数寄談義をおおいに楽しんだ。正客は紅一点のワダエミさん、濃紫の着物に合わせた15歳のときにはじめてつくったという縦縞の帯が、凛と映えていた。

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■「織部」と「秀吉」―ワダエミさんの衣装を特別展示

 一夜明けた4日は晴天に恵まれ晩秋とは思えない陽気に恵まれた。午前10時、セラミックパークMINOオープンとともに来場者が訪れ、総面積1600平米の特設会場にしつらえられた記念展示をゆっくりと鑑賞する姿が見られた。

 展示の目玉は、会場の最奥に飾られたワダエミさんデザインの衣装「織部」「秀吉」「北政所」。勅使河原宏監督映画『利休』のために作られ実際に映画で使用されたものである。とくに、歴史的な史料が残っていない「織部」の衣装は、袖無し羽織に織部焼の柄を染め抜くという、ワダさん独特の想像力が発揮されたものとなっている。また、山田脩二さんが500枚の瓦を使って1日がかりでオブジェ作品「淡路の瓦の散歩道」を制作・設置し、当日は来場者がその上を靴のまま歩いて楽しんだ。ほかに岩井俊雄さんがヤマハと共同開発した新楽器「TENORI-ON」、高橋睦郎さんの直筆原稿やドローイングなど。

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 さらに、内田繁さんデザインによる色とりどりのモニターボックスが設置され、過去10年全5回の織部賞授賞式や記念イベントの名場面の数々とともに、早くも昨夜の織部賞記念茶会の記録映像を上映。そこで使われていた道具もすべて、そのまま茶室「懸舟庵」で公開され、茶道や焼き物に関心の高い熱心な地元客が、展示ホールと茶室をさかんに行き来していた。

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■オリベごよみが迎える―授与式開演

 正午過ぎになると、段ボール製の大きな招待状を携えた来場者が次々に国際会議場に集まってきた。一枚ずつ形も柄も違う招待状は、選考委員の日比野克彦さんが発案し、岐阜県民が制作したもの。来場者が持ち寄ったものを組み合わせると、ジグソーパズルのように2m×6mの大きな作品「オリベごよみ」が出来上がるという趣向。

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 そのほとんどのピースが揃うと同時に、いよいよ織部賞授与式の開幕である。軽快な音楽とともにスクリーンにこれまでの織部賞をダイジェストした映像が流れ、会場の祝祭ムードが早くも高まっていく。司会の平松亜希子さんの進行で、古田肇岐阜県知事、そして今回はトロフィーデザインも手掛けた磯崎新委員長が挨拶。

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 この、毎回新しくデザインされるトロフィーも織部賞名物のひとつとなっている。これまで、選考委員のアンドレア・ブランヅィ、内田繁、石井幹子、日比野克彦さんたちが岐阜県の伝統技術とのコラボレーションによって、ユニークなトロフィーを制作してきた。
 磯崎委員長デザインのトロフィーは、多治見で200年の歴史をもつ幸兵衛窯によって焼かれた花器ふうのオブジェ。2本の立方体が突き出したような不思議な形である。その制作意図について磯崎委員長は「利休の時代から茶室では一輪挿しと決まっているが、織部賞なのだから、あえて二輪挿しはどうかと考えた。古田織部の逸話には南蛮と切支丹がからむ。そこで、私のこだわる立方体のうえに、クロスを描いてみた。それが、二本の塔の組み合わせになった」と語った。

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■オリベの魂に贈る言葉―伝統の名場面

 織部賞授賞式のハイライトはなんといっても一人一人の受賞者を紹介し正賞副賞を授与するシーンである。1年にわたって選考会に携わってきた委員たちがプレゼンターとなって、受賞者の作品を映像で見せながら、それぞれの「オリベらしさ」をアピールしながら祝福するというスタイルは、いわば織部賞授賞式の「伝統」となっている。今回は坂根厳夫委員が岩井俊雄さんの、セイゴオが高橋睦郎さんと林屋晴三さんの、磯崎委員長が山田脩二さんとグランプリのワダエミさんのプレゼンターをつとめた。

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 古田知事が読み上げる賞状も、もちろん一人一人文面が違うもの。大胆破格な受賞者たちもこの賞状の喝采の言葉には思わず目を潤ませていた。
 「貴殿は、最先端のテクノロジーと幼いころの感覚を絶妙に融合させ、多くの人々に創造的に遊べるメディアを提供してこられました。そこにはつねに映像と音楽と光の境界が揺れています。」(岩井俊雄さんへの賞状)
 「貴殿は、詩人といて、歌人として、俳人として、西はギリシアから東は古代日本まで、つねに古今東西の言霊の消息をみごとに綾なしてこられました。」(高橋睦郎さんへの賞状)
 「貴殿によって、日本の“好み”は大いに変貌し、より深く発展してきました。その伝統と前衛を大胆に出会わせた極上の目を称えて、ここに第6回織部賞を贈ります。」(林屋晴三さんへの賞状)
 「貴殿は、現代の日本人が忘れた原風景を慈しみ、その魂を、写真に、瓦に、炭に、すぐれた職人の技をもって注いでこられました。」(山田脩二さんへの賞状)

 授与式の締めくくりはワダエミさん。華やかなピンクのジャケットに身を包み、磯崎新委員長から受け取ったトロフィーを手に、「日本国内でいただく初めての賞です」と静かな声で語るスピーチに、満場が引き込まれていた。

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◎岩井俊雄さん

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「作家を志した原点にいる両親に感謝し、この喜びを昨年他界した父とこの会場にいる母に一番に伝えたい」

◎高橋睦郎さん

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「古田織部の名に恥じない“困った芸術家”になりたい。これからもっと理屈くさくなる覚悟でおります(笑)」

◎林屋晴三さん

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「私のこの羽織袴はまったく織部的ではありませんが、このような賞をつくられた岐阜県への敬意を表したかった」

◎山田脩二さん

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「この先も三筋四筋の人生を織部賞の誇りとともに楽しみたい」。

◎ワダエミさん

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「いろいろ不義理をしてきた私ですが、これまでの仕事を見ていてくれる人が日本にもいたということが何より嬉しい」。

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(撮影:川本 聖哉)


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2007年11月13日

Report ラグジュアリーの本質

日本の「粋と奢り」を解く

 2007年11月10日(土)、京都服飾文化研究財団主催の連続セミナ―「ラグジュアリーの本質」で、「粋と奢り」をテーマにセイゴオが講演(会場は京都国立近代美術館)。

 チーフ・キュレーターの深井晃子さんから「知の糸を無限に吐き出すお蚕さん」と紹介を受けたセイゴオ。最初に、京都服飾文化研究財団がおもに近代以降の洋服をコレクションしていることにちなんで、ヨーロッパにおける「ラグジュアリー」感覚、「レクサス」というものは、18世紀後半、王侯貴族などの“クラス”の誕生とともに定着したという話を入口に、日本の「レクサス」の発生と変遷について話を展開。
 
■日本のダブルスタンダード
 日本においても、江戸時代に身分や分限などの“分”(ぶん)の社会が成立したことによって、贅沢という価値観が生まれ、それがモードを生み出す原動力になった。ただし、日本の贅沢は必ずしも華美とは限らない。日本では“派手”と“地味”という美意識が、対立しつつも補完しあいながらラグジュアリー感覚を磨いていった。

 その“派手”と“地味”のおおもとに、「荒魂」(あらたま)と「和魂」(にぎたま)の二項対比があり、王朝時代にはそれが「みやび」と「ひなび」になり、武家の時代には「金閣の北山文化」と「銀閣の東山文化」になった。日本はこのようにつねにダブルスタンダードを立てる国だった。
 戦国時代の終わりには、「黄金」と「侘び」、すなわち秀吉の黄金の茶室と利休の草庵が両立する。そこには、カブキの精神と数寄の精神が同時代に成立していったという背景がある。過差なふるまいをするカブキと、ひたすら好きなものに執着していく「数寄」。

■悪場所が日本のレクサスを生んだ
 ではそのなかから、日本の「レクサス」はどうやって誕生したか。カブキ者たちの風俗から出雲阿国の女歌舞伎が生まれ、さらに少年たちによる若衆歌舞伎が生まれた。それらが幕府に禁じられたために、男たちだけで演じる野郎歌舞伎となって、今日の歌舞伎のような女形の芸が生まれ、一世を風靡した。このとき、日本の「レクサス」感覚が誕生した。「悪所」と呼ばれた歌舞伎小屋が、ファッションやモードの発信地となっていくのである。同じく「悪所」と呼ばれた吉原もまた、江戸の「レクサス」の発信地だった。日本の「ラグジュアリー」は、歌舞伎や島原や吉原のように、禁止やタブーがなければ生まれないものなのだ。
 そのような感覚を代表した人物の一人が、絵師の英一蝶。一蝶は伝統的な狩野派に入門しながら浮世絵を描いたために破門され、吉原に転がり込んで幇間となって風俗画を描き続けた。ところが将軍家に対してタブーを犯した咎で三宅島に流罪となる。三宅島時代に一蝶が描いた作品は「島一蝶」と呼ばれ、今日非常に高く評価されている。値段も高い。
 一蝶が描いたものは吉原時代に見聞していた世界、吉原の「面影」である。面影を描こうとするから見立てと風刺が効いた。そのため、三宅島から吉原に戻った一蝶は二度と風俗画を描かなくなってしまう。

■「表」と「裏」をまぎらかす
 一蝶はタブーを冒し続けたことで、「ウツ」(虚)と「ウツツ」(現)の間、バーチャルとリアルの間、「表」と「裏」の間に、新たな画境を見出した。この、二つの極の境目を“まぎらかす”ことが、江戸のレクサスの真骨頂であり、その後の「粋」や「通」の美意識にもつながっていく。
 もう一人、そのことを成し遂げた人物が同じく絵師の酒井抱一。抱一の最高傑作「夏秋草図屏風」は、もともと尾形光琳の「風神雷神図屏風」の裏に描かれていた。抱一はまた光琳没後100年に、「光琳百図」を出版している。そのころすっかり忘れられていた光琳の作品を抱一が筆使いまで真似て写したものである。この、「ウツシ」こそは、本歌に対する引用、オリジナルに対するバージョンという形で、日本が古来重視していた方法だった。
 抱一は「表」と「裏」、「ウツツ」と「ウツ」を、メディアを変換することによって両立させるという方法を発見したのである。

■振袖火事と着物革命
 一方、江戸時代には着物革命が起こる。もともと下着だった小袖が表着となり、キャンパスに絵を描くように自在に絵柄が表現できるようになったうえ、技法的にも「織」から「染」への大きな転換があった。じつはここに、江戸市中のほとんどを焼き払った大災害が関係していた。明暦の大火、いわゆる「振袖火事」である。家財一切を失った江戸の町民のあいだで着物需要が急増し、そのことが京都西陣の隆盛を呼んだ。このときに完成されたのが宮崎友禅斎らによる型染めの技法である。
 着物に贅をつくす美意識の裏には、災害に立ち向かう意気地が重ねられていたのである。それが日本の「粋」であり「奢り」である。それはまた、表と裏、生と死の両極を行き来する人間の生きざまでもある。

■松茸の傘ほどの可能性
 のちに九鬼周造がこのことを深く考察し、『「いき」の構造』を著わした。九鬼は母の初子と岡倉天心のスキャンダルのなかで生まれ、出生の疑惑に苦しみながらヨーロッパに留学し、西洋哲学と出会う。が、神との同質性を理想とする西洋哲学では、自分の抱えた問題が解決できないと悟り、帰国。祇園で芸妓を身受けし、京都帝大に人力車で通う日々のなかで、「粋」や「通」や「意気地」や「張り」を「偶然性と可能性の哲学」として組み立てた。
 『「いき」の構造』のなかに「松茸の崩落」という文章がある。松茸の傘ほどの、いまにも崩れ落ちそうなわずかな可能性を身を張って支えようとすること。それが「いき」であると九鬼はいう。私が大好きな文章である。


 英一蝶、酒井抱一、明暦大火と友禅染、さらにはラグジュアリーの極みともいえる歌舞伎「揚巻」の衣裳を映像で見せながらのセイゴオの語りは、静かながらもしだいに熱を帯び、終わったときには、予定されていた2時間を20分超過。
 その後は会場に駆けつけてくれた未詳倶楽部や編集学校のメンバーたち十数人と洛中のいずこかへ。さらにその後はこっそりと“御ひいき”を伴い、祇園の奥の路地あたりにお忍びで出かけたらしい。


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2007年11月12日

Publishing 日本経済新聞読書面コラム「半歩遅れの読書術」

 日本経済新聞の日曜版朝刊コラム「半歩遅れの読書術」でセイゴオが連載中。刊行後あまり日の目を見ていない書籍を毎回数冊づつクローズアップするコーナーです。11月4、11、18、25日の全4回掲載。セイゴオ流の本の選び方、読み方、楽しみ方を紹介します。

■「書きこむ本」同時進行するメモと本文 (11月4日掲載)

 ぼくにとっての読書は、「食べる」や「仕事する」や「着る」が、そこに本を読むという行為が挟まっていくというのではない。もともと「読む」がずうっと続いていて、そのなかであれこれ読み方を変えていくというのが、読書の愉快になっている。だからどの本を「食べる本」にし、「着ていく本」にし、「汗を流す本」にするかという選択しつづけていると言ったほうがいい。
 そういう読み方のひとつに「書きこむ本」があり、読みながらどんどん書きこんでいく方法で読む。漢詩集や和歌集や句集を読むときに、これをよくやる。
 最近は、久松潜一が昭和八年に編纂した『中世歌論集』(岩波文庫)を相手によく書きこみをする。
 この本は『古今風体集』『毎月抄』『正徹物語』といった歌論をほどよく収めていて、一冊で中世の歌論が手にとれる。それを読みながら、ページの隙間や欄外に好きな感想メモを書きこんでいく。これを気が向いたときに何度かやっていくと、しだいに一冊の本が原テキストとぼくのメモとの同時進行ノートのようになっていく。それを読み返して、またまた新たなメモをふやしていく。
 そもそも読書というもの、読みおわれば、その内容の大半を忘れてしまうようになっている。その内容が何年たっても鮮やかに蘇るというのはマレなのだ。
 けれども、読みながら書きこんでいくと、読んでいるときにアタマにひらめいた痕跡が、その本の中に如実に残っていく。そのため、あとでその本をちょっと開くだけで、そのときの読中感覚がみごとに蘇る。
 ぼくが、こういうことを最初に思いついたのは、三〇年ほど前のことで、『蕪村俳句集』『一茶俳句集』(いずれも岩波文庫)に好きなマークをいろいろつけていたときだった。最初は「月」に関する句を抜き出すためにしていたのだが、あるとき「はかなさ」というテイストをもつ句を選ぼうとして、同じ句集に印やメモをしはじめたところ、前に記した「月」との関連が浮かび出てきた。
 ほう、ほう、これは儲けたという感じである。そのうち、そのように「書きこむ本」をふやすようになったのだ。
 もっとも、これにはいろいろ向き不向きもある。内容もそうなのだが、なんといっても余白が多い本のほうがいい。そういう余白の多い、がっしりした単行本などを汚しきったときの快感は、ちょっと譬えようがない。本を汚したい人にぜひ勧めたい。

■「方角をもつ-自分の地図で知を体験」 (11月11日掲載)

 読書には方角というものがある。哲学っぽいものを読む、イギリスの小説を読む、職人に関する本を読むというような、ジャンルやテーマによる方角もあるけれど、その本の内容自体が明確な地理上の方角をもっているものもある。
 ぼくはある時期から好んで「南を向く本」を読むようになった。たとえば佐々木高明『南からの日本文化』(NHKブックス)だ。
 これは南西諸島、とくに沖縄諸島や台湾とルソン島のあいだの島々の農耕をレポートしたものなのだが、それまで読んできた「南を向く本」との比較も含めると、実に興味が尽きない。
 もともとは、こういう方角に導かれるようになったのは、柳田国男の『海上の道』(岩波文庫など)を読んでからのことで、そのときは「日本を南から見るという視野」を自分につくってみたかったからにすぎなかったのだが、以来、これが高じて、ぼくにとってはまったく未知の「南方」なら、その多くに惹かれるようになっていったのだ。
 だからここには、レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』(中公クラシックス)も中砂明徳の『江南』(講談社選書メチエ)も、またツェーラムの『狭い谷・黒い山』(みすず書房・新潮社)や石牟礼道子の『はにかみの国』(石風社)なども入ってくる。
 まあ、そんなぐあいで、南を向いてるなら何でもおもしろくなってきて、やがては、まるで自分が歴史文化地図上の棒磁石の“紅いS極”のような気分になっていくのが、けっこう微妙に心地よくなってしまったものだった。
 読書というもの、たいていは著者の主張に巻きこまれてしまうものである。むろん多くの本がそのように書かれているのだから、それが読書の半分の楽しみではあるのだが、そのぶん何をどのような順番に読むかによっては、知の体験がバラバラになっていき、自分の読書地図がまったく描けなくなっていることも、少なくないはずだ。
 したがって、たまには方角をもつ読書もしてみるべきなのだ。いやいや、南や北を向くだけではない。横断的な本を読むとか、一カ所にとどまる本を読むのもいい。横断的なものが好みなら、イブン・バットゥータや玄奘や河口慧海旅行記がふさわしい。
 一カ所にとどまる本というのは、たとえばモロッコを描いたミシェル・グリーンの『地の果ての夢・タンジール』(河出書房新社)とか、かつて自分が住んでいた一角を綴った四方田犬彦の『月島物語』(集英社)などだ。これはこれで抜け出せなくて、いい。

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2007年11月 6日

Diary こんな日本人・あの日本人

福原義春さんと超高速椿座談義

 10月末日、連志連衆會・椿座の第2講が開催されました。会場は、第1講同様、北山ひとみさんの“隠れ屋”、深沢の梅寿庵。
 前回は入院中のため参加できなかった座元の福原義春さんが、すっかり回復した艶々したお顔で会員のみなさんをお出迎え。退院後セイゴオと何度かうち合わせを重ねて、今期椿座のテーマを「あんな日本人・この日本人」とし、二人で日本人の源流を探る座談をすることにしました、とご挨拶。そして、さっそく古代の神話時代・王朝時代をかわきりに、縦横無尽の対話が展開していきました。

福原:日本はいまだに神話のある世界でも珍しい近代国家。1000年以上前に書かれた『源氏物語』を、いまも原文で読めるというような国も、ほかにはない。
松岡:たった一人の女性が書き上げたということでも『源氏物語』は稀有。紫式部は「竹取物語」や「大和物語」などの“物語の親”をたいへん意識していた。
福原:日本の物語や神話の最大のマザータイプは中国の長江文明と黄河文明だった。
松岡:漢字そのものがまさに物語世界だった。ただし中国の神話では洪水伝説が大きい。歴代の王にとって、政治とは水利事業のことでもあった。
福原:日本の天皇はいまも即位式で「真床覆衾」を行う。神話世界をリアルにやり続けているのも日本だけではないか。
松岡:伊勢の遷宮のように、日本は延々と「始原のもどき」を演じ続ける。そこには、「あえて始原を問題にしない、語らないという方法」がひそんでいる。

 打てば響くような福原さんとセイゴオの応酬は、日本の方法の最奥の秘密に触れながら日本神話の構造についてたっぷりめぐったあと、最初に日本をつくった日本人たちとして、聖徳太子・天智天皇・天武天皇・藤原不比等を取り上げました。

松岡:聖徳太子は渡来民をまとめあげ、隋の煬帝の中華思想ともわたりあった。このような交渉術はその後の日本には見られない。
福原:日本人のなかではいちはやく無常観ももっていた。仏教をイデオロギーとして取り入れたことも大きい。
松岡:続く天智・天武時代には政治体制の確立と文字・言語体系の確立が重なった。それは日本の思考をつくりあげた時期でもある。
福原:万葉時代もめざましかった。
松岡:それらの成果をすべて掌握し、日本の言語文字を改めて中華秩序の中に位置付けたのが藤原不比等だった。以降の日本はすべて藤原氏の計画と陰謀によってつくられた。

 福原さんの絶妙なナビゲーションによって、藤原氏の謎とともに華厳経による鎮護国家システムについて解説するセイゴオ。話題はさらに万葉時代をへて平安時代へ、藤末鎌初へとどんどん進みます。

福原:唐に留学した空海が日本に戻ってきたときに、何をめざしたのか。
松岡:それまでになかった金胎両部の密教システムを国づくりに取り入れようとした。経典型のシステムから、マンダラ型のシステムに転換した。空海の方法はまさに「密言」、密教は華厳経よりもすごいと言いながら、具体的なことは一切語っていない。
福原:言葉の力を重んじた人として、後白河法皇にも注目したい。日本のすべての歌謡のルーツは後白河の編纂した「梁塵秘抄」にある。
松岡:日本の天皇とは「遊君」である。後白河がまさにそれを体現した。
福原:「遊びをせんとや生まれけむ」の「遊び」は真剣な遊びのこと。一方、そのころ日本には「浄土」という新しい観念も広まっていた。
松岡:「浄土」を広めたのは空也らの念仏仏教だったが、これも世界的に珍しい。たとえば「和讃」はまさにJ-POPのようなもの、ニューウェーブだった。
福原:男装した白拍子がそのころの日本を象徴する存在だった。ところが以降の日本は武士が台頭し、文学芸能の担い手も男性に転じてしまう。
松岡:韓国では武家政権はわずかに30年ほどしかなかったが、日本は数百年にわたった。のちに鈴木大拙の説いた「日本的霊性」は、じつは古代は女性たちが担い、中世以降は武士に転じてしまった。日本の謎を解く鍵がここにある。

 稀代の読書家である福原さんとセイゴオが繰り出す引き出しはまさに無尽蔵、予定時間の150分があっというまに過ぎてしまいました。北山さんが用意した由庵特製弁当と特別仕込みの日本酒をいただきながらの歓談では、「めくるめく展開に、脳がすっかりしびれてしまった」という感想が続出していました。

 椿座はこのあとも3回にわたって、近代・現代にいたるまで、福原さんとセイゴオが、「あんな日本人、この日本人」を掛け合いで話し続けることになっています。

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