セイゴオちゃんねる

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2007年10月 4日

Report 本に溺れて浮いてみる

読書革命のための読書術

 9月14日、新宿紀伊国屋ホールで『千夜千冊 虎の巻』刊行記念講演会「本に溺れて浮いてみる」が開催されました。ロビーには『虎の巻』『千夜千冊全集』とともに、『虎の巻』から生まれた「セントラ屋」「千冊座」などのセイゴオの版画9枚が飾られ、訪れたファンをお出迎え。
 「セイゴオ流読書術」について講演する機会が増えているセイゴオ、この日はちょっと意外な、読書の妄想という話題を挿入しながら、次のように話を進めました。

■確立されていない読書術

 最近、読書術を話したり書いたりする機会が増えています。読書は誰もがしているのに、定評のある「術」も「方法」も代表的なモデルもなく、読者と本のあいだでは何がおこっているのか、読んだ本は読者の中でどうなっているのかよくわかっていません。本来読書は自由に楽しむものです。が、自由に楽しむためには、読書にはたくさんのモデルがあることを知ったほうがいい。そうしないと、本にひそんでいる知へのアプローチがわからなくなり、自分を見失う危険性すらある。微力ながらもそういった読書の方法を伝えなければというミッションを最近は強く感じるようになっています。
 今回の講演タイトル「本に溺れて浮いてみる」は少し変わっていますが、これこそ私の実感なんです。読書は溺れたままではだめで浮かなくてはいけません。今日はいくつかの本やモデルを使いながら「溺読・浮読」(できどく・ふどく)を案内したいと思います。

■不足を補う読書と妄想を呼ぶ読書

 最初に取り上げる本は、ドイツの作家ヴィルヘルム・イェンゼンの『グラディーヴァ』です。イェンゼンというのはだいたいカフカと同時代の作家です。物語は、主人公の考古学者が「歩く女」が刻まれた石膏のレリーフを手に入れたことから始まります。彼女のことが気になりやがて夢にまでみるようになった学者は、その女性の由来をいろいろ調べて、ポンペイの女神だったことを知り、彼の地を訪れる。そこでまさにレリーフから抜け出たような女性に出会い、「これは夢かまぼろしか」と思いながら、逢瀬を重ねていく。ちょっと不思議な物語ですが、ここには私が伝えたい「読書」というもののイメージが見事に現されているんですね。
 日本にもこれと似た小説があります。川端康成の短編『弓浦市』です。ある日、川端自身がモデルと思われる作家の家に妙齢の女性が突然尋ねてきて、弓浦市での二人の思い出を話しますが、作家にはまったく覚えがない。最後に「あの時結婚したいとおっしゃったわね」と言われて怖くなり、女性が帰ったあと地図を調べてみたところ、日本中のどこにも「弓浦市」という名の場所は存在しなかったという話です。

 この2つの物語は、私たちはアタマのなかで、つねにあるできごとの不足を補っているということを前提にしています。私たちは、瞬間瞬間に情報を処理し、つねに何かを補いながら、バラバラのできごとに文脈をつけながら生きている。実は読書中も脳の中でこれと同じことがおこなわれています。しかも、読書は一瞬で終わりません。何かを思い出したり暗示を受けたり葛藤を覚えたりするといったことが、1冊の本と向きあっている間に連続的に凝縮して起こっていく。考古学者がレリーフの女神と現実の女性をあいまいに重ねてしまったようなことや、作家を訪ねてきた女性が自分で物語をつくってしまっていたようなことが、読書中には頻繁に起こっているんです。このとき、無自覚に本に溺れてしまうと、「補い」を自分でおこなっているのか著者が語っているのかわからなる。そうなると妄想と現実の区別がつかなくなってしまいます。

 実は私もそうしたあやしい“読者の物語”に巻き込まれたことがあります。ある日突然、ミュージシャンの大槻ケンヂから電話がかかってきて「松岡さんは岩井寛さんの『森田療法』の序文にボクのことを書いてますよね」と言われました(笑)。大槻君は当時あることを悩んでいたらしい。その後、誤解は解けて彼とは親しくなりましたが、大槻君も『ボクはこんなことを考えている』という著書で、突然訪ねてきたファンのおばさんに「今、日本には陰謀が渦巻いている。これを救えるのは大槻さんと天地茂だけだ」と言われたことを告白しています(笑)。
 本来読者にとって著者は遠い存在なのですが、読書に溺れてしまうとその距離感がわからなくなってしまうんですね。またおもしろい本ほど読者をそこまでもひきつけてしまう。しかし、本を読むたびに著者との接点を感じすぎたり、現実と妄想の区別がつかなくなるようでは困ります。

 では読者はいったいどこに入っていけばよいのか。私のおすすめは、読書と著者のあいだに入ってみることです。読書中におこる勝手な「補い」を現実にそのまま持っていけば妄想になりますが、“別の場所”にもっていけばいくらでも安心して溺れることができるんです。私はこの“別の場所”を「読書空間」と呼んでいます。「読書空間」を上手に使うことができれば、本に浮くこともできるようになります。

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■本棚を読書空間にする

 私が読書空間や本のための場所を強く意識するようになったのは「岡倉天心」「南方熊楠」「折口信夫」「三枝博音」の全集を無理して買った30歳の頃でした。それらの全集の堂々たる存在感は圧倒的でしたが、その頃住んでいた安アパートにはどうしても間尺が合わなかった。そこで安い板を買ってきてそれぞれの全集のサイズに合わせた専用の本棚を自分で作り、何度もその組み替えを試みました。そうしてみると、私のアパートの本棚は、私の頭の中が外在化されたもの、つまり知が図形配置されたものになり、それによって書物の中に意識が出入りしやすくなったんですね。さらには、全集はなにも一揃いずつ固めて並べなくてはならないものではなく、バラバラにして入れ子にしてもいいし、また全集の中にほかの単行本を挿しこんでおいてもいいということに気がついた。

 そもそも本というものには、タイトル、目次、背表紙、見返しといった構造があり、一冊ごとが知のパッケージとして、フォーマットとして完成されたものです。どんなにパソコンやモバイルが発達しても、本のもつフォーマットの普遍性には到達できないことでしょう。さらに、それらを組み込み合わせて配置することによって、一冊一冊が「知のインデックス」になり、本棚全体が意味や文脈や構造をもった読書空間になるわけです。1冊の本の構造と本棚の構造が相似律のように関係性をもつ。こういう本棚を意識してつくれるようになると、書店や図書館で本を目にした瞬間、手にした瞬間から、自分の本棚と照応させながら知の図形配置を意識して読書に入っていくことができるようになるんです。

 また本棚というのは新たな1冊の本と出会うたびに組み替えや置き換えをしていくといいんですね。私は今も本棚の組み替えをしょっちゅうやっています。工作舎時代は年に2回スタッフ総出ですべての本を並び替えてましたし、今赤坂にある編集工学研究所の5万冊の本もことあるごとに組み替えています。自分や仕事場の本棚ばかりではなく、最近は本棚のある空間をプロデュースしてほしいと頼まれることも増えています。千鳥ヶ淵の「ギャラリー册」というところでは、文庫本を並べるための空間「糸宿房」(ししゅくぼう)を作りました。ここでは壁面すべてが天井まで文庫本のための本棚で構成されていて、その本棚は縦横のモジュールごとに交換できるようになっています(「ギャラリー册」を映像で紹介)。

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■読書体験がつながる街

 読書空間を持つこと、自分でそれを組み立てることは「溺読・浮読」に欠かせませんが、それでもなお本と本のあいだには隙間があきます。ではその隙間をどうやって埋めるのか。
 私がそのために試みたことの一つが「千夜千冊」です。1日1冊、千日かけて、私が経てきた「読書の記憶」を綴ってインターネット上に発表していきました。2000年2月に中谷宇吉郎の『雪』から始めて、2004年7月の『良寛全集』で千冊を達成したんですが、「やめるのは惜しい」といろんな人から言われ、その後もずっと続いています(9月14日現在1199冊となっている)。また、去年はそのうちの1444冊を組み替えて全7巻の『千夜千冊全集』にして、さらにはその全集の構成をガイドする『虎の巻』も出版されました。全集をつくるときに発起人になっていただいた山口昌男さんや岩波書店の山口昭男社長からは、「千夜千冊を読むことによって、松岡さんの読書体験を通して全人類の読書空間と行き来できるようになった」といわれました。これはうれしい言葉でした。

 私は読書というものは「アルス・コンビナトリア」(結合術)であるべきだと思っています。個人にとっての「読書の記憶」が、構造をもって組み立てされることによって「類」の読書になる。読書というのはただ個人が没頭する行為なのではなく、個人と歴史、個人と類の記憶がつながりながら、知の時空間を共有していくものです。
 そのように自由にだれもが出入りできる共有読書空間を、実際につくってみたい思ってスタートしたのが「図書街」という構想です。「千夜千冊」を毎日書き続ける一方で、ひそかに自分でその設計図も書き始めました。そうしたらなんと東京ドーム4杯分の広大なものになってしまったので、「図書館」ではなく「図書街」と呼ぶことになった(笑)。また現実につくるには膨大な予算がかかるので、インターネット上の仮想空間としてつくっていくことになりました。
 この「図書街」にはたくさんの街区や路地があって、詳細な知のマッピングをエリアごと、本棚ごとに組み立てました。またすべての本棚はそこに置く本のイメージや時代背景にふさわしいデザインを施したいと考えています。今はこの構想に関心をもってくれた国の機関(NICT)と北大・京大・慶応大との共同プロジェクトとして、私の描いた設計図をもとに「図書街」がつくられつつあります(映像で「図書街」を紹介)。

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■ブッククラブから革命を

 私がこんなふうに「本」というものに溺れ、また本と本をつないでいきたいと思うようになったきっかけは、小学生の頃に吃音だったことが関係しているようです。アタマの吹き出しの中には言いたいことがたくさん湧いているのに、いざ言葉にしようとするとうまくしゃべれない。非常に歯がゆい思いをしました。ところが、いざ吃音を克服してみると、あいかわらず思っていることのすべては表現できないことを実感し、さらにショックを受けたんですね。言葉や話し方をいくらスキルアップしても埋められないものがあることを思い知った。
 そんな体験から、私はもともと自分のアタマの中にある空間のようなものを、言語のような限られたツールだけではなく、もっといろんなツールによって外在化したいと思うようになりました。そして“あいだ”をまたぐことや“あいだ”を動く思考の動きに興味をもつようになり、やがて編集工学を志すようになった。
 最初に言いましたが、現在も読書の基本的な方法や術が確立されていないのは、本の中身や本のコンテンツの研究ばかりが重視され、その奥に動いているものが取り出されていないからなんですね。これからはもっと読書のミームやプロセスに向かうべきです。そのこと自体を解き明かし、空間として共有すべきです。これは大学で細分化された学問を学ぶことよりもうんと重要です。「読書空間」というものは、誰もが体験可能であり、活きた知として取り入れやすいはずなんです。

 そのためにも、私は、今の日本には「ブッククラブ」が必要だと思っています。たとえば、私たちが本を入手するときには、書店で新品を買うか、古書店で古本を買うしかありません。しかも再販制度によって書店では一律の値段でしか本を売ることができず、また古書店では汚れた本や書き込みのある本は価値が下がることがほとんどです。でも、もっと自由におもしろく本を入手したり交換したりできる仕組みがあってもいいのではないか。一冊の本がいろんな人の手をまたいだヒストリーが、裏書として残されていってもいいと思います。井上ひさしさんが読んだ本とか、司馬遼太郎さんが読んだ本を、そのプロセスごと受け取れるとか、有志を募って特別な本を仕立てて付加価値をつけクラブ財として共有してもいい。ワインのように読書のソムリエがいてもいい。
 こういった新しい本とのかかわり方を提案するブッククラブがあれば、おそらく書店や出版市場に変化を起こすことでしょう。実際に欧米ではブッククラブが出版社の戦略を左右する大きな力をもっています。“セイゴオ流読書術”だけでなく、みんなが読書体験を持ち出し合って交換してもいい。誰もがストーカーにも被害者にもならずに(笑)、読書に溺れながら浮かび合って互いに交わし合える場が必要なんです。

 最初に話したように、もともと読書というものはゆがんでいます。読者の勝手な「補い」に満ち満ちています。しかしそういった「補い」を妄想に持ち込まず、あえて自分の中にゆがんだまま残して、組み直して置き直してほしいと思うんですね。私はそこから新たな物語の出現が起こる可能性があると考えています。そして自分の中にひそむ“あやしさ”や“ゆがみ”を言葉ではなく、手のストロークによって補うことを試み始めています。この夏、「ギャラリー册」で李白、ゴーゴリ、ドストエフスキー、マラルメ、コクトーなどの物語と出会った体験を絵にし、それを「ハイパープリント」という高度な電子技術によって版画にしてみました。今日ロビーに飾ってある“擬画”もその一例です。「千夜千冊全集」の各巻を線やかたちによって補ってみたものです。

 書物の世界、読書の世界は一番古い歴史をもちながらいまだ革命がおきていません。だからこそこれから誰もがその革命に参加できる可能性を持っています。ここに集まった皆さんでぜひ読書革命を起こしましょう(拍手)。

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投稿者 staff : 2007年10月 4日 21:43

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