« 2007年07月 | メイン | 2007年09月 »
2007年08月30日
News 山口小夜子さんを送る夜
8月14日、山口小夜子さんが急逝されました。30年以上にわたって小夜子さんと親交を重ねてきたセイゴオはいまもそのショックから立ち直ることができずにいるようです。
このたび、同じように小夜子さんの死を悲しみ、つきせぬ思い出を語り合ってきた友人たちとともに、「山口小夜子さんを送る夜」を開くことになりました。
セイゴオのたっての願いで、当「セイゴオちゃんねる」をご覧の皆様に、そのご案内をいたします。
下記の文面はセイゴオによるものです。
また、ご案内のあとに2000年に「アサヒグラフ―山口小夜子特集」のためにセイゴオが寄稿した「キリンを着て黒海を舞う人」を掲載させていただきます。小夜子さんが「自分のことを誰よりも的確に表現してくれた」と言って、とても喜んでくださった文章でした。2006年7月25日の「連塾絆走祭―数寄になった人」で小夜子さんが披露された「陰影礼讃」朗読パフォーマンスの写真とあわせてご覧くださいませ。
====================================
山口小夜子さんを送る夜
さる8月14日、山口小夜子さんがまるで盂蘭盆にあわせるかのように、
ふいに月界に帰っていかれました。
もう二度と逢えなくなってしまったのかと思うと、
切なくてしかたありませんが、
せめてみんなで小夜子さんを送る一夜を催したいと思います。
生前の小夜子さんが今年の春、「ここの庭で踊ってみたい」と言っていた
築地本願寺の夕暮れに、お出掛けください。
静かな読経と小夜子さんの声と、
とても不思議なパフォーマンス映像が流れるなか、
僅かなひとときではありますが、
「この世で一番美しかった小夜子」の思い出に耽っていただけたらと思います。
この夜は小夜子さんの誕生日です。
日時 2007年9月19日 夕刻6時〜8時
場所 築地本願寺本堂
友人代表
藤本晴美 三宅一生 松岡正剛 重延浩 天児牛大
大出一博 鈴木清順 福原義春 今栄美智子 高田賢三
LUNEX
オフィスマイティー(代表 近藤女公美)
〒106-0045 東京都港区麻布十番1-10-3-403
TEL 03-3584-6388 FAX 03-3584-4033
どなたとご一緒に来ていただいても結構ですが、
皆様には一輪ずつの献花をしていただきますので、
供花・花輪などはご遠慮ください。
*会場案内
築地本願寺 ⇒ http://www.tsukijihongwanji.jp/tsukiji/map.html
東京都中央区築地3−15−1
東京メトロ日比谷線築地駅下車徒歩1分
都営地下鉄浅草線東銀座駅下車徒歩5分
東京メトロ有楽町線新富町駅下車徒歩5分
都営地下鉄大江戸線築地市場駅下車徒歩5分
お車でのご来場は台数に限りがございますのでご遠慮ください
====================================
アサヒグラフ(2000年9月29日号)所収
キリンを着て黒海を舞う人 by 松岡正剛
小夜子に仏壇のデザインを頼んだことがある。まず打診だけしてみようとおもって電話をしたら、「お仏壇? わあ、すてき。つくってみたい」と言うので、そのまま任せた。
やがて細身で楕円の仏壇のスケッチができあがってきた。モノセクシャルな、楚々とした仏壇である。コバルトブルーに包まれている。ぼくはマインドギアという名前をつけた。
いったい山口小夜子について何を知っているのだろうか。あらためて綴ろうとすると、とくに何も尋ねてこなかったということに気がつく。
むろん聞いてみたいことはある。たくさんあるといっていい。とくに「小夜子の日本」を聞いてみたい。ところが会っていると、それで十分な気がしてしまう。そこに小夜子がいれば、それで山口小夜子のすべてなのである。風のことは風に、キリンのことはキリンに、記憶は記憶に、松のことは松に習え(芭蕉)なのである。
目の前にいるキリンにキリンのことを聞くことははい。ぼくと小夜子の間では、二十年近くそんなふうに時間がすぎてきた。小夜子はそういう人である。
小夜子に会ったとき、彼女はすでに世界のトップモデルになっていた。ファッション業界に暗いぼくも、イーマン・アブラドジッドと山口小夜子だけには注目していた。だからファッションショーのステージも何度か見ていたし、寺山修二や重延浩の演出の舞台も見ていた。
けれども、会ったのは話したかったからではなかった。当時、ぼくが編集していた『遊』の表紙に出てもらいたかったからだ。撮られる山口小夜子を見たかったからである。三時間近くにわたって彼女は何も喋らず舞いつづけた。シャッターが小鼓で、ストロボが横笛だった。小夜子はそのときすでにダンサーというよりも、舞の人だった。
それから何度か対談をすることになった。一度きりだが、デートもした。このときはちょっと注文を出していた。「高野山を着てほしい」という注文だ。
これは、その前に会ったときに「私、何でも着たい、何でも着られるようにしたいの」と言うので、じゃあ鯨は着られるの、ジョージア・オキーフは着られるのと聞いたところ、うん、着られるという。そこで「高野山は?」と聞いてみたら、「むずかしいけど着られるとおもう」と言った。それで高野山を着ることになったらデートをしよう、ということになったのである。
当日、われわれは美術館で待ち合わせたのだが、向こうからやってきた小夜子を見て驚いた。なんと袈裟を自由に組み合せたブーツの人が颯爽と歩いている。袈裟の前後左右を変えて、あの金襴と斜めの裁断を魔法のように制御して、みごとに山口小夜子になっていた。街の一角は高野山と化していた。
もうひとつ思い出がある。桜の季節の午後に公開対談をしたことがあって、このときの衣装には涙が出そうになった。
小夜子は人前で対談することは好まない。緊張するらしい。だから人前での対談はしない方針になっている。そのタブーを破ってもらい、この日は初めて公開対談を承諾してもらった。そういう事情もあったので、前もって「何を着てくるの?」と電話で聞いた。そうしたら「セイゴオさんは、着物がいい?それとも洋服がいい?」と逆に聞かれてしまった。「うーん、どっちもいいよねえ」とまことに曖昧な返事をした。これなら電話などしないほうがよかったのである。ぼくに小夜子の衣装を打ち合わせる能力なんてなかったのだ。小夜子を迷わせてわるいことをしたと思いつつ、当日を待った。
小夜子が着てきたのは絶品だった。前から見ると桜の精をおもわせる薄いピンクのロングドレスのようなのに、後ろから見ると黒紋付のような着物の感覚になっている。なにかビロードのケープのようなものを羽織っているはずなのだが、それを抜き襟めいて着付けていて、いわば「前後の片身替わり」ともいうべき風情、まさに道成寺の風情なのである。その和洋伯仲の感覚が、小夜子のわずかな身の捩れで落花狼藉となる。ぼくは急激に熱いものがこみあげて、対談がおぼつかないほどだった。
いったい山口小夜子ほど「着る」ことに徹底した人も珍しい。おまけに彼女が着ているのは、洋服ではないし、着物でもない。
それは型であって隙間であり、時間のゆらぎであって動きや流れそのものだ。色であって温度であって、自分のたわみであって他者のふくらみなのである。しかも着る前から着ていて、脱いでからまた着つづけている。部分と全体を取り換えたりもする。
小夜子が着ているのは言葉のようにも思われる。なぜなら、言葉をいつ着脱しているかといえば、どんな言葉の天才もそれがいつだとは言いきれない。ずっと着脱しつづけているとしか言いようがない。きっと小夜子はそのような言葉のごとくに概念を着て、述語を羽織り、形容詞を穿いて、句読点をピンとフックで留めるのだ。ニコライ・ゴーゴリがペテルブルクを着たように、ボリス・ヴィアンがパリを着たように。
けれども、それだけではない。小夜子はそもそも体を着つづけている。佐藤信や勅使川原三郎のパフォーマンスに応じるのもそのせいなのであろうかが、そのような舞台に出る以前から、小夜子は体を着た人なのである。いや身体ではなく、心体だ。
おそらくは、山口小夜子は少女のころから心体を問いつづけてきた舞人なのだろう。今度デートするときは、月か黒海か、昭和四年かビザンチンか、あるいは世阿弥がドビュッシーなどを着てもらうつもりだ。





(撮影 中道淳)
2007年08月21日
News 「松岡正剛 本に溺れて浮いてみる」
9月14日(金)、新宿の紀伊國屋ホールで『ちょっと本気な 千夜千冊 虎の巻』出版記念講演会が開催されます。
刊行されて約2ヶ月。全集『松岡正剛 千夜千冊』の攻略本として、「セイゴオ式読書術」の入門書として各書店で大好評。講演では「一冊一会」の読者にむけて、セイゴオ式「必冊多義」のメソッドを濃く深く伝授します。『虎の巻』片手にお越し下さい。
第81回新宿セミナー@Kinokuniya
『ちょっと本気な千夜千冊虎の巻』(求龍堂)刊行記念
「松岡正剛 本に溺れて浮いてみる」
日時:9月14日(金)19:00開演(18:30開場)
会場:新宿・紀伊國屋ホール(紀伊國屋書店 新宿本店4階)
料金:1,000円(全席指定・税込)
主催:紀伊國屋書店
協力:求龍堂・松岡正剛事務所
前売取扱所:キノチケットカウンター
(紀伊國屋書店 新宿本店5階 10:00〜18:30)
ご予約・お問い合わせ:紀伊國屋ホール 03-3354-0141
(受付時間 10:00〜18:30)
*イベントの日時・時間については、急な変更等がある場合がございます。
詳細は紀伊國屋ホールにお問い合わせください。
*定員になり次第、チケットの発行を終了させていただきます。御了承ください。

2007年08月15日
Report ヒミツの多いセイゴオ式読書術のヒミツ
8月5日、リブロ池袋本店で『千夜千冊 虎の巻』刊行記念講演会が開催されました。愛知から駆けつけたという10代の高校生から、ライバル書店の熟練スタッフ、料理雑誌編集長まで、読書意欲の高い聴衆を前に、著者であり編集者でもあるセイゴオならではの「読書奥義」をたっぷりと披露しました。
◆速読術より「セイゴオ式」
今日のテーマは「セイゴオ式読書術」です。読書術というと、“速読術”のような話を期待する人もいるかもしれませんが、速読術なんて読書の役にはたちません(笑)。それよりも、「読書をする」とはどういうことなのかを今日は話したい。
私たちにとって本はスポーツや料理や天気と同じくらい身近な存在ですが、残念ながら本についての情報には、スポーツや料理に比べるととても偏りがあります。せいぜいブックレビューがある程度ですね。人気レストランにあたるような書店ランキングも、天気予報のような本の予測情報もない。まして、人々が本をどう選び、どう読み、どう扱っているかという情報はまったくないし、研究も分析もされていない。有名な『オーデン・わが読書』に書かれていることも本の中身のことですしね。そこで今日は、ぼくがどんなふうに本と関わっているのかという話を織り交ぜながら、皆さんにおすすめの「読書術」を紹介したいと思います。
◆本を特別扱いしない
読書というのは、どうやって1冊の本と出会うかというところから始まります。ということは、読書術は本屋さんにいるあいだからスタートを切るべきなんです。
ここはリブロ池袋書籍館の8階ですが、皆さんは会場に来るまでにイルムス館というインテリアショップを通ってきたことでしょう。いろんなインテリアを目にしたことでしょう。ところで、皆さんがそうやってインテリアを見ているときの眼と、本を見ているときの眼は同じですか?
ぼくは、インテリアショップで家具を見ることや、ブティックで洋服を選ぶことや、レストランでメニューを見ることと同じような感覚で、書店で本を見るべきだと考えています。書店とは「知の商品」を並べている場所だと思うといい。ブティックに入ってハンガーラックに掛かった洋服をざっと見たとたんに、その年の流行感覚や自分の好みと合うかどうかが肌で分かるような、ああいう感じで書棚を見ればいいんです。
本を特別なものだと思わないこと。読書を特別な行為だと思わないこと。これが究極の読書術です(笑)。
◆まず本の前に書棚を読む
次に書店でこころがけてほしいことは、書棚と本の並びをよく見ること。書店はそれぞれ独自の書棚づくりや本の配列をしているものです。書店員というのはおおむね書棚づくりに命を懸けている。残念ながらいい加減な本屋さんもありますが、少なくともリブロはがんばってますね(笑)。
ぼくは、かつて「遊」という雑誌をつくっていたとき、ロジェ・カイヨワやピエール・ド・マンディアルグやスーザン・ソンタグやルイス・トマス、ジョン・ケイジといった欧米の知識人やアーティストにどんどん会いに行きました。彼らの家やオフィスを訪ねると、それぞれ素晴らしい書棚を構えていて、ぼくはそれを見るだけでも会いにいった甲斐がありました。そして、書棚こそがその人の思想を表すのだという確信を得たのです。それ以降、たった1冊の本を選ぶときにも、まずその棚全体を見るようにしています。そこには、誰かが意図して並べた本と本との関係性が潜んでいるからです。
ぼくの仕事場には約5〜6万冊の本がありますが、それらは1冊ずつ単独で存在しているのではなく、ある文脈に沿って書棚に配置しています。これらの本はぼくのスタッフたちもしょっちゅう使っていますが、彼らには「本を1冊取り出すときには、必ずその両脇にある本を見るようにしなさい」と教えています。
ぼくは編集工学者として「情報は一人でいられない」ということをモットーとしてますが、本こそがその典型です。1冊の本を手に取れば、少なくとも10冊以上の本と、もっといえば大いなる知の森の一部とかかわったことになるんです。そのことをぜひ意識してほしい。書棚の本の前後左右の文脈のつながりを意識することによって、グーグルや親指一発ケータイの検索では得られない知識の蓄積ができるし、読書の幅が広がります。
◆パラパラ読まずに目次を読め
そうやって書棚や並びを十分に見ながらようやく1冊の本を手にとったら、パラパラとページをめくりたいのをちょっと我慢して、5分だけ目次をじっくり読みましょう。
たとえば『千夜千冊 虎の巻』の目次の4章のところには「ドストエフスキーとフロイトがなげかけた謎」という見出しが書いてありますね。これを読んで「ドストエフスキーとフロイト?」「謎ってなんだろう」というふうに、ちょっと思いをめぐらしてみる。この前段階をふむことで、あとから本文でこの第4章をよんだときに格段に理解しやすくなるはずです。
たとえば、TVをつけたら野球の中継をやっていたとします。その試合がいまどんな状況になっているのかは、ぱっとはつかめないことでしょう。でも、点数がどうなっているか、三回裏なのか九回表なのか、塁に出ている選手はいるのかといったことが把握できてくると、とたんに試合の中身に入っていけますね。
読書も同じです。まず目次によって大筋をざっくりつかんでから、本文に当たり、個々の文脈とつかんだ大筋とを組み合わせながら読むようにすると、一気に読書というものをハンドリングできるようになる。もっと言えば、読書というのは目次さえしっかり読めば、80%は終わったも同然です(笑)。それに、目次を5分かけて読んだときの感想と、まるごと1冊を1ヶ月かけて丁寧に読んだときの感想は、実はほとんど大差ない(笑)。ウソだと思うなら実際にやってみるといい。それほど、本の内容を把握して自分のものにするということが、みんなできていないんですよ。だからむしろ一時の好奇心の高ぶりとともに一気に鷲づかみにしたほうが、自分のなかに残るものも多いんです。
◆本は「取り扱い注意」
いよいよここからは、本を読んでいる最中のポイントです。
じつは、本に書いてあることは「絶対」ではありません。本は麻薬であって毒薬であって裏切り者でもある。そう思ったほうがいい。だから、読む側が本との付き合い方をコントロールしないと、著者の勝手な意図に引きずられるだけです。それでは自分の読書体験というものにはならない。本というのは「取り扱い注意」商品なんです(笑)。
本は著者のためにあるのではない。読者が著者に合わせる必要なんてないんです。ときにはワインを飲むように、ときにはむさぼり喰うように、あるときは全速力で走りこむように、たまにはコソコソしながら、というふうに、自分が接したい方法で接するべきです。
けれども多くの人が読書については一様なスタイルしかもっていない。通勤電車で読むとか、寝る前にベッドで読むとか、喫茶店で読むとか、せいぜいそれくらいでしょう。これではいけない。もっと読書モードのバリエーションを増やすべきです。こうなってしまう原因は、読書が一人でする行為であること、読書している姿を誰かに見られるチャンスが少ないことにあると思います。でも、洋服や食事が毎日同じでかまわないと思う人は少ないでしょう。その日の気分や場所によって「変えたい」と思うものですね。それと同じ感覚を、読書にも入れるといいんです。
◆著者を過信してはいけない
もうひとつ重要な本のヒミツを教えます。じつは著者というのは文章がヘタだと思ったほうがいい。だから、本は鵜呑みにしてはいけない。これは著者であるボクが言うんだから絶対です(笑)。
著者というものは、アタマで思い描いたことの3割程度しか書けていないのが現実です。考えたことのすべてを書けている著者なんていないはずです。仕方がなくて“あたかも”とか“まるで”などといったレトリカルな表現で、なんとかそれに近いことを文章にしているだけなんです。文章というのはまさに装飾です。どのようにでも書けてしまうものです。だから本というものを、著者というものを過信してはいけない。
ただし、そんなふうにだらしのない著者を、読書するにあたってはひとまず許容しなければいけません。そういう意味で、読書というのは「交際」なんですね。だから著者の言葉にベタにつきあうのではなく、その本がいったいどんな経緯で書かれたのか、といったことを、一歩引いて思いめぐらしながら、あえて著者を受け入れてみるようにするといいんです。過信は禁物ですが、反発していたのでは充実した読書にはなりません。
そのようにして、本の前で自分が裸一貫になるのではなく、ある時空間をもって本とつきあってみることが大切です。実感としてはその著者と会っているかのような意識をもつようにするといいでしょう。
◆読書モデルをつかって読む
著者の書いたことに引きずられないためには、自分のなかに読者モデルを持つといい。ボクは、つねに2つのキャラクターを立てて本を読んでいます。「著者になり代わる自分」と「著者ではない自分」。それぞれにまたモデルがあって、前者には科学者モデル、文学者モデル、アーティストモデル・・・など、さらに科学者モデルのなかには、ホーキングモデル、寺田寅彦モデル、湯川秀樹モデル・・・など、たくさんストックしてあります。また、後者には、「ある女性に惚れている自分」モデル、「やましい自分」モデル、「幼い自分」モデルなど、こちらも多様にある。それらのモデルを1冊の本を読むあいだに、入れ替わり立ち代わり照合させて、どのモデルで読むといいのかを使い分けています。
◆もっと本を汚しなさい
読書とは“本”という旅に出ることと同じです。だから、旅先での感想を日記や手帖に書き込んで帰ってくるように、本にも大いに書き込みをするといいんですね。気になったところにマーキングを入れたり、そのときに考えたことを走り書きしたりする。これが、ぼくがお勧めの「マーキング読書法」です。ちょっと面倒に思うかもしれませんが、慣れると「速読術」なんかよりずっと速く本が読めるようになります(笑)。
ぼくのマーキングの一例を紹介すると、たとえば見方Aと見方Bという2つの視点をもとに話が展開されている文章があったとすると、Aに関わるところにはA、Bに関わるところにはBと書き込んで読み進める。すると、あとで読み直したときに、自分がそこをどんなふうに通過したのかがマークを見るだけで再現できます。あたかも旅先の記憶を写真を見て蘇らせるように、ですね。
さらには、自分がぐんと加速できたところ、失速してしまったところなども書き込むとよい。自分が知というものにさしかかっていくときの感覚を覚えていくわけです。そうすれば、車を運転するときに、どのあたりでハンドルをきると曲がりきれるのか、どこでブレーキをふめば定位置で止まれるのかをだんだん習得していくように、自分のコンディションと本との関係をコントロールできるようになる。
ちなみに、よく本に傍線を引く人がいますが、あれはだめですよ(笑)。少なくとも、著者の主張に関心したところと、表現に関心したところは同じ線でマークすべきではないし、疑問をもったところも線を変えて残しておくべきです。
ま、マーキング読書術の詳細は、『千夜千冊 虎の巻』に書いてありますので、ぜひ買って読んでください(笑)。
◆2つの「A」で読書体験を意識する
読書をするときにもうひとつお勧めしたいのが、「二つのA」を使った読書法です。一つ目の「A」は、アフォーダンス(affordance)です。扇子を持とうとするときに手の形を扇子の要(かなめ)に合わせようとしたり、コップを持とうとするときに手をコップの円筒形に合わせた形にしますね。このように、「アフォーダンス」というのは、私たちの身体が扇子やコップに「アフォード」されているという考え方です。つまり私たちの手は「扇子ハンド」とか「コップハンド」というものになる。
本に向かうときも同じです。本というものに自分がアフォードされて、なんらかの構えを取っているということを意識するといいんです。うまく読書に入れないときには、ちょっとその構えを修正して入りなおすといい。
もう一つの「A」は、アブダクション(Abduction)です。これは、演繹・帰納にならぶ推論の方法の一つで、ごく簡単にいえば「仮説形成」のことをいいます。本を読んでいる最中に自分のなかに生まれつつある「仮説」を使って、文脈を解読していくようにするといいんですね。つまり、そうやって読書をしている最中の体験を、自分にフィードバックさせることが大切です。これができるようになると、読書は受身の行為ではなくなる。自分なりの世界をつくっていくために読書をすることができるようになります。
◆読書は編集である
かくして最後に申し上げたいことは、「読書は編集である」ということです。文章を書くことも本を作ることも「編集」ですが、読書をするということも「編集」なんです。つまり、著者や編集者が時間をかけて行った編集プロセスを、もう一度読者としてかかわることによってリバースエンジニアリングするのが読書なんですね。また、そうやって本を読むという行為を通して、1冊の本と自分の記憶や知識を自在に照らし合わせ、組み替えていくこともできる。読書というのは自己編集でもあるんです。
さらに言えば、読書というのは相互編集でもある。読書体験というものを、誰もがお互いに共有し交換することができるわけです。
いま私たちは普通、本を黙読していますが、12〜13世紀までは世界中が音読社会でした。もともと本というものは声に出して読まれていたものなんです。読書する空間というのは聴覚的な空間だった。これはヨーロッパの古い図書館のキャレル(読書ブース)の作り方や、日本の絵巻を見るとすぐにわかります。「源氏物語絵巻」にも、巻子を読んでいる源氏の声を御簾の影で聞いている女御の姿が描かれています。当時の日本が音読社会だった証拠です。
残念ながら、音読社会から黙読社会に変わったことによって、読書というものは一人の行為、1冊の本のなかに閉じ込められてしまい、共有空間としての本というものが成立しにくくなってしまいました。欧米ではいまだに「ブッククラブ」というものが出版業界を動かす強い力をもっていますが、日本では読者の側から新たな共有空間やコモンズを作るということがまだ始まっていません。でも、ぼくはそういったものが生まれる可能性はあると思っていますし、相互編集のための読書空間というものを、自分でも創ってみたいと思っています。
ぼくは、世の中には「ヘンなおじさん」と「きれいなお姉さん」と「そのいずれでもない人」の3種類しかいない、と考えてます(笑)。どういう意味でしょうね。そして、皆さんは、そのうちのどの人といっしょに読書してみたいですか。これが、「セイゴオ流読書術」の本当のヒミツです(笑)。
気温34度にも負けないセイゴオの熱弁
「もっとカジュアルに本と向き合うといい」
講演後はサイン会も行われた
2007年08月11日
Publishing 『「茶の本」の100年』刊行―岡倉天心を再考する
2006年に『THE BOOK OF TEA(茶の本)』刊行100年を記念して開催された「岡倉天心国際シンポジウム」が本になった。ボストン美術館のアン・ニシムラ・モースさん、磯崎新さん、熊倉功夫さん、マンフレッド・シュパイデルさんとともに基調講演を行ったセイゴオの「負の想像力」が収録されている。
松岡正剛「負の想像力」要旨
天心は『茶の本』において、茶室は装飾をしていない「仮のすみか」であり、「空き家」であり、そこを客が通過することによって茶が成り立つといった。
例えば、春や秋の美しさを感じるために何もない冬に美の原点を見出した道元。水があってほしいためにわざと水を抜いた枯山水の手法。氷や霜柱のような冷え切っていて余剰がないものから本当の「わび」「さび」がはじまるといった連歌師心敬。あえて不足であること、そしてそこへ差し掛かることから日本の美は生まれ、ひいては日本文化を多様にしている。この「負の想像力」ともいえる方法を天心は発見し、世界に発信したのではないか。
また、天心の師であるフェノロサが狩野派を賞賛し、日本画という「型」がうまれた。しかし天心は、余白を残した文人画にも注目した。文人たちが用いた“埋め込まない手法”にこそ、日本が世界に問うべき方法がある。これを土佐起光は「白紙も余白のうちなれば心にてこれをふさぐべし」とあらわし、天心は「故意に何かを仕立てずにおいて想像の働きだけでこれを完成させる」といった。
今日、世界中の民族や政治の間で「プレゼント・アブセンティーズ(そこに存在する不在)」が大きな問題になっている。今後ますます大きな問題になるだろう。引くことによって美やおもかげが立ち現れる「日本という方法」を再発見した天心を考えることは、現代の日本人にとっても大きな課題である。
※シンポジウム「『茶の本』の100年」は、2006年09月05日のセイゴオちゃんねる
「負の想像力」という方法で紹介しています。ご覧ください。

書 名:「茶の本」の100年
発行日:2007年8月1日
発行所:小学館スクエア
価 格:3400円+税
2007年08月03日
Diary 大蔵経データベース完成を祝して
仏教2500年の歴史につながる「智慧の宝庫」
7月30日、大蔵経データベース化完成記念大会シンポジウムが東京ガーデンパレスで開催され、セイゴオがパネラーの一人として出演、電子化された「智慧の宝庫」の21世紀的重要性と可能性を編集工学者の立場から示唆するスピーチを行った。
「大蔵経」とは、仏教の経・律・論の「三蔵」を集約し編纂したもので、古来東アジアの各国が国家事業として取り組んできた。日本では、漢訳された経論と中国・朝鮮・日本の仏教文献を網羅した『大正新脩大蔵経』全100巻(高楠順次郎・渡邊海旭都監修)が民間の手によって1924〜34年に編纂・刊行された。今回データベース化されたのは、その『大正新脩大蔵経』の第1巻から第85巻までのテキスト部分。
このプロジェクトは日本の仏教界と仏教学会が手を結び成し遂げられた歴史的な大事業とも言われる。1994年、東京大学の江島惠教氏によって「大蔵経テキストデータベース研究会」(SAT)が発足したことから始まった。膨大な作業と人員の必要性から一時は資金面で事業存続の危機に陥ったこともあったが、平成12年に「大蔵経データベース化支援募金会」が発足、仏教各宗派・仏教系大学・民間の協力体制が整ったことにより、ようやく事業が軌道に乗ったという。
大会前半、支援募金会事務局長の奈良康明氏とともに、募金会発足後急逝した江島氏の構想を継承しデータベース化を完遂させたSAT代表の下田正弘氏が、これまでの経緯と関係者への謝辞を語った。全巻8万ページ、使われているフォントは漢字・仮名・梵字などをあわせて1億5千万字近くあるという『大正新脩大蔵経』を電子化するためには、仏教2500年の歴史に連なろうとする強い意志と、そのような大事業に関わる感謝の気持ちがかかせなかったという下田氏の言葉に大きな拍手が沸いた。
その下田氏の進行によって、大会後半のシンポジウムでは、まず東洋哲学研究者のアルバート・チャールズ・ミラー氏、仏教学者の彌永信美氏、仏教・文学研究者の石井公成氏が、それぞれ大蔵経テキストデータベースを使った研究事例を発表。インターネットを介して世界中の仏教研究者が共同研究の場を自生させながら、これまでほとんど注目されてこなかったさまざまな文学や思想と仏典とのインターテクスチュアリティを新たに発見していく可能性などをアピールした。
セイゴオはそれらの事例や方法はいずれも今後の仏教研究を牽引する「前衛」になるはずと前置きした上で、次のようにスピーチをした。
仏典はブッダが語った言葉がまずオラリティ文化のなかで継承され、やがてそれが文字に表わされ結集されたもの。仏典として定着していくまでに長い時間がかかった上に、その時代や地域の文字システムによって、多彩なシナリオやスクリプトが生み出された。しかも、それらはインドから中国、さらには東南アジア、チベット、モンゴル、朝鮮半島、日本にまで広まり、「縁起」や「空」というヨーロッパ思想では読み解けないような考え方がさらに膨大なバリエーションの仏典や注釈書によって継承され、それがまたさまざまな宗派や宗門を生み出してきた。目に見えないブッダの言葉や悟りの世界が、多様な文字になり、仏典になり、ハイパーテキストとなり、いよいよそれが電子コーパスとして集大成された。
私の本来の研究テーマは「日本という方法」である。日本にはインドにも中国にもない仏教編集方法があった。日本にはそもそも文字はなく、仏教とともに中国の漢字を取り入れ、それを万葉仮名にし、平仮名とカタカナを独自に生み出した。あるいは返り点などを工夫して、漢文を日本語で読み下した。さらには仏教における感覚的・身体的な概念を、和歌や文学や物語に転化させることによって、独自の文化や芸能を生み出した。
SATのプロジェクトもそういう歴史のつながりのなかにある。このデータベースによって、日本が仏教を取り入れそれらを新たに編集した「現場」にいつでも立ち戻ることができるはずだ。このような研究から、まったく新しい日本の見方さえ浮上するだろう。極東の日本がインドに発祥した仏教をもう一度新たな「知の方法」として、全仏教史の流れごと受け止め直すことにもなる。
私はいま、「アフォーダンス」「アブダクション」という二つの見方に非常に関心をもっている。アフォーダンスは、私たちの身体や知が環境や対象によって「アフォード」されていくという考え方。「アブダクション」とは類推的仮説形成のこと。じつは、ブッダの語ったことに近づくためには、「縁起」や「空」の意味を知るには、この二つの「A」が不可欠である。なぜなら、どんな概念もキーワードも、それが辞書の項目のように単立で存在しているわけではない。必ずセンテンス、フレーズと結びつき、コンテキストのなかに含まれることによって、それらは存在し継承されていく。仏教思想というものはまさにそこを重視する。今日の電子ネットワーク社会やデジタルアーカイブの未来もまた、コンテキストをどのように扱えるかということにかかっている。テキストとテキストをどのようにまたぎ、つないでいくのか、そこに二つの「A」がかかわってくる。
21世紀の日本にとって、SATはもっとも重要な知識情報になるはずである。日本においては、ほとんどの概念、キーワード、ロジックは、仏教が用意したことが明らかになるだろう。今後は、仏教が生み出した多様なイコンやシンボルの画像や音声などもデータベース化されることをぜひ期待したい。
セイゴオの示唆した「二つのA」は他のパネラーや来場者をおおいに触発したらしく、その後のディスカッションと質疑応答でも、諸宗派の代表が集ったシンポジウム後の懇親会でも、さかんにその話題がかわされていた。
ちなみに、今回のシンポジウムは関係者と支援会メンバーのためのクローズドな会だったが、ISIS編集学校の専門コース[離]の千離衆たち(卒業生)十数人も特別聴講していた。現在、千離衆のあいだでは、セイゴオの編集的世界観にもとづく大規模なテキスト編纂プロジェクトの準備が進んでいる。プロジェクト名は「万離の超城」と言うらしい。

開演前、彌永信美氏と仲よく“タバコ談義”

データベースによる仏教研究の達人が壇上に揃う

大事業の完成を祝しながら、「智慧の宝庫」のハイパーな展望を語る
