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2007年07月31日
Diary 大盛況、「ちょっと本気な」サイン会
7月26日、八重洲ブックセンターでセイゴオ初のサイン会が行われました。あいにくの雨にもかかわらず、本館1階の特設会場には、開始前から『ちょっと本気な 千夜千冊 虎の巻』を手にしたお客様の長蛇の列。その表紙画「セントラ屋」ミストグラフ(版画)と『千夜千冊全集』がディスプレイされた席についたセイゴオ。銀色のペンで、『虎の巻』の深紅の見返しに一人一人の名前とサインを、タッチを変えてしたためます。
保存用にと3冊購入した男性には3パターンのサインを、『千夜千冊全集』の特別巻を持参した奥様にはセイゴオの大ファンだという旦那様への為書を、この日が誕生日だった編集学校の学衆にはバースディメッセージを添えるなど、大サービス。セイゴオの両脇に立ったベテランの書店員が、見事な手さばきでお客様とセイゴオをつないでいきます。
サインの合間にもセイゴオは、一人一人に積極的に話しかけます。『17歳のための世界と日本の見方』を読んで興味を持ったという学生には課題研究への示唆を、「絵本の古本」と「木のおもちゃ」のショップオーナーの女性には本とオブジェのかかわり方をアドバイスし、『遊』以来のセイゴオファンという紳士とはかたい握手を交わしました。
普段は会うことのできない、書物のむこうの読者たちの思いに触れ、「一冊一会」の縁をセイゴオもたっぷり味わっていたようです。

2007年07月24日
Report ギャラリー册で、幼なごころと物語を語る
7月20日、「擬画遊書展」開催中のギャラリー册で「夜のサロン」が開催され、セイゴオがソロトーク。作品テーマ「物語の出現」にちなんで、自分自身の生い立ちを振り返りながら幼なごころと本や物語との出会いを語るという本邦初の試みとなりました。
来場者全員に「千夜千冊全集」第8巻に収録されている「松岡正剛二万二千夜譜」の0歳から18歳までの全36ページが資料として配布され、セイゴオの物語はその冒頭の、1944年1月25日の出生のエピソードから始まりました。
*下記の文中の作品は、すべてギャラリー册で展示中の、松岡正剛によるハイパープリント(版画)作品です。
◆欠けてしまった戦争と京都の記憶
ぼくは戦時中の昭和19年1月25日に生まれましたが、戦争を体験したという記憶はありません。最悪の時代に京都で生まれて、記憶のない嬰児期を過ごして、気がついたときにはぼくは日本橋芳町にいた。昭和19年生まれというのは、ぼくにとって欠如した日本の宿命そのものであって、「戦争体験」について自分が何も書き込みできていないということが、ぼくの考え方や思想に大きな影響を与えているんです。
ここにぼくが書いた遊書「数寄」が展示されています。こういう書を書くときにも、「欠如している記憶」がかならず蘇ってくる。体験できていないことだからこそ、蘇ってくる。
たとえばたった今、夜空に星を見たとします。でもその星の光は何億光年もかかって、今やっと地球にいるぼくの目に届いたものです。つまり宇宙というのは大過去です。仮にその星たちが地球にうんと近づいてきたとしても、ぼくが見ているのは5億年前、3億年前、1500万年前、あるいは500年前の光というふうに、つねに過去のものですね。たとえ手の届くところまで星の光が近づいてきたとしても、ぼくが見る光はほんのわずか過去のものである。つまり、今生まれたばかりの星の光を、ぼくは同時に見ることはできない。
だとしたら、自分が同時代的に何かを体験したかどうかということに、いったいどんな意味があるのか。それよりも宇宙の大過去から「今」という時間までの連続性を体験しているのだと考えたほうがいいのではないか。自分の記憶や思考や表現には、そのような大過去すらもがかかわっていると思うべきではないか。
ぼくはここにある遊書や擬画に取り組むときに、呼吸や手のストロークをなんとかコントロールしようと格闘し続けながら、ずっとそのことを意識しました。そうして生まれてくるものを、「物語」と呼んでみたかったんです。
私の母は、京都で一番大きな呉服屋の娘でした。父は長浜の呉服屋の分家筋で、昭和初期の日本を席巻した近江の繊維商人の末端だった。父母は見合いで知り合い、母が大きな老舗から、新興商人の父のもとに嫁ぎ、そしてぼくが生まれた。
ところが、2歳のときに父の方針で東京に引越しました。ですからぼくの記憶にある原体験には、戦争も敗戦もない上に、生まれた場所である京都もない。ぼくの記憶は泉鏡花や永井荷風の日本橋から始まっているんです。
なぜ父が敗戦直後に京都から東京に動いたのか。しかも京呉服屋なのに、東京の呉服のメッカである日本橋に移ったのか。たぶん京都よりは東京のほうが混乱がましだと考えたんでしょう。でも、あとにして思えばそういう奇妙な父の行動が、いまの私にも反映しているようです。
◆ピアノと幼稚園がきらいだった
父母とぼくが移り住んだのは日本橋の芳町で、近所から三味線の音が聞こえてくるような芸者の町、川上貞奴が育った町です。貞奴といえば6歳のときに伊藤博文に惚れられて、のちに日本人ではじめて海外で女優として認められた女性です。そういう女性たちのいた日本橋の記憶が、いまのぼくにとても根強く残っている。
2歳のときに妹が生まれて家族は4人になりましたが、3歳のときに、突然母と僕と妹だけが湘南の鵠沼に転居しました。これも理由がよくわからなかった。おそらく日本橋で京呉服店を立ち上げるという父の大胆な計画がなかなかうまくいかなかったんでしょう。しかたなく、闇市で軍用品の販売なんかを手がけていたようです。そして母と子供たちだけが、鵠沼に転居させられた。
鵠沼は当時の“湘南”のイメージを代表する高級住宅地でした。どこの家からもピアノの音がし、どこのお姉さんもドーナツをつくっている。まるで敗戦なんかとは無縁のようなへんな町でした。しかも生粋の京女の母までが、何を考えたのか、ぼくにピアノを習わせたりした。そのピアノの先生がひどかった。芸術家気取りで、耐えられない先生。ぼくはそのせいで、後にグールドやチック・コリアやセロニアス・モンクに出会うまで、ピアノとの関係をふさいでしまった。きっと誰にもこういう経験はあることでしょう。少女期・少年期の“不幸な出会い”によって、塞がれてしまったもの、奪われてしまったものがある。
そのかわり、ぼくはハーモニカが好きになってよく吹いていました。あるときハーモニカの金具で唇を切って、ハーモニカが血で染まってしまったので、それを庭のホウセンカの元に埋めた。ちょっとシュールな子どもですね(笑)。お配りしたぼくの年譜にそのことを書いたエッセイの引用があります。
その後、家族そろって日本橋に戻り、人形町がぼくの最初のにぎわいの体験になっていきます。まだまだバラックのような町並みでしたが、店先のきらきらした花火やブリキのおもちゃが気になっていた。
ぼくは母に手を引かれて歩きながら、脇見したくてよそ見したくてしかたなかったけど、いつも「いけません」と言われていた。ある日とうとう、ひとりでそれを見に行ってしまった。水天宮まで歩いて行ってしまった。おとなには大した距離ではなくても、4歳の子どもにとっては大冒険です。「おうちがだんだん遠くなる」という童謡みたいに、とてもさびしい気持ちになった。子供のぼくの知覚の単位が、それまで知らなかった単位に出会ったんですね。いまもぼくは、そういう幼なごころの単位を大事にしています。
ここにある9枚仕立ての版画「物語の出現」も、古代オリエントや小アジアの遺跡や神話を取材しているときに、自分がはまった単位を再現しようとしたものです。何度も何度も紙と墨とを合わせて、押し付けたり剥がしたりスクラッチして、それを再現しました。
5歳になると、日本橋の東華幼稚園に行きました。「幼稚園に入ったその日に大人社会に連れ去られてきたと感じたものだった」と、ぼくはそのときの体験を千夜千冊『日本の幼稚園』(第562夜)に書いていますが、幼稚園というのはぼくにとって“すでにできあがってしまった社会”でした。ちょっとみんなから遅れて中途入園したこともあって、なかなかなじめなかった。そもそも初めて行ったその日がお遊戯の日で、母や先生がいやがっているぼくを無理やり輪のなかに入れようとする。「こんなのいやだ。こんなスキルアップされた世界になんか入りたくない」とか思ったんですね(笑)。
そこにまたヨコシマタカコちゃんというおしゃまさんがいた。彼女のやさしさとおせっかいによって、ぼくの反抗心が増幅されてしまったようです(笑)。それはまた、母や妹以外の女性との出会いでもあった。

ハイパープリント「物語の出現」シリーズより「ミノア」
◆父の教えと3つの物語との出会い
そうやって社会との軋轢を体験していく一方で(笑)、父が徹底してぼくに一流のものを見せようとした。この父の方針は今でもありがたかったと思っています。
芸者も落語も歌舞伎も、建築もホテルもレストランも一級品だけを見せようとしてくれた。父は相撲の琴錦や歌舞伎の先代吉右衛門や落語の桂三木助のタニマチをやってました。旦那衆で遊び人だった。しかも一人で遊ぶだけじゃなくて、ぼくをどこへでも連れて行ってくれた。ここぞという場面で「播磨屋!」と「どめき」をやらされたりした。
日本橋の家は、落語の末広亭から5分の場所だったので、落語にもしょっちゅう行きました。当時はまだテレビなんかなくて、落語も漫才もラジオでしか聞けない時代でした。父のおかげで、いろんな芸人たちの顔を知っていることがその後ぼくの自慢になったものです。
日本橋の東華小学校に入り、そのころ絵本や童話との出会いも始まった。とくに夢中になったのが『クリのおてがら』『フリップ物語』『ノンちゃん雲に乗る』。『フリップ物語』は長いあいだタイトルを忘れていたんですが、千夜千冊で『日本の絵本史』を取り上げたときに再会して思い出しました。ベルギーの小さな町の物語で、家々の屋根の風見鶏たちのなかにひとつだけ“風見馬”がある。これが主人公のフリップです。フリップは鳥になれないけれど、町に降りてきて冒険をします。そういう物語に夢中になった。『クリのおてがら』のほうは、夜中に悪さをするネズミをやっつけようと野菜たちがミーティングをして、クリが立ちあがってクーデターを起こす話です(笑)。『ノンちゃん雲に乗る』は石井桃子さんの童話で、ご存知の方も多いでしょう。ノンちゃんが、池に映った雲があまりにきれいなので枝に登ってよく見ようとして池に落ちてしまう。池に落ちるとそこはふわふわの雲の上、ノンちゃんはその雲に乗って、いじわるなガキ大将に会いに行ったりいろんな体験をしていく。最後に、おかあさんの声でやっと目が覚めるという話です。
この3つの物語が、ぼくの原点です。最後には翼をもったペガサスとなって天空を駆けるフリップ。野菜たちのリーダーになってネズミと闘うクリ。池に落ちて、自由に空を飛びまわるノンちゃん。とくにノンちゃんは、人間の知覚は水たまりのなかに太陽も宇宙も映せるということ、言い換えれば、メディアがなければ人間は自然も宇宙も知覚できないという今のぼくの考え方にも、影響を与えています。

ハイパープリント「物語の出現」シリーズより「語り部」
◆吃音体験と、日本文化への反抗
8歳のときにようやく一家は京都に戻りました。綾小路室町、祇園祭の鶏鉾(にわとりぼこ)という鉾町でした。このころぼくの次の原体験が連続して起こりました。はじめてホタルを見て感動したり、はじめてブヨにさされたりした(笑)。日本橋から京都に移って、ぼくはやっと「自然」というものを体験したわけです。比叡山や東山の緑など、絵に描こうとしても描けない緑だった。東京にはない色だった。
もうひとつ、ぼくが体験した大きなものが「吃音」です。京都に生まれながら東京に育ったせいで京都弁がまったくしゃべれない。転校した修徳小学校で、みんなに言葉をからかわれた上に、「さしすせそ」が発音しにくかった。それで吃音になってしまったんですね。頭のなかのフキダシには話したいことがつまっている。なのに言葉が出てこない。そのことに悩みました。結果的に吃音は克服はできたけど、直ってみるとかえってがっかりした。頭のなかにあることの100分の1も言葉にすることができない。日本人が英語を話せても、ろくな話ができない、思想がしゃべれないのと同じです。そのことを、ぼくは吃音に悩んでそれを克服するという体験のなかで強く感じた。
一方、父も母も京都に戻れてうれしかったんでしょう、こぞって二人がかりでぼくと妹を京都文化に染め上げようとした。
そもそも母は文才のある人だった。女学生時代にラジオドラマ・コンクールで優勝するほど演劇好きでもあった。また母の兄は日本画家で、ぼくに宗達とキリコをいっしょに教えてくれるような人だった。父もますます本領を発揮して、京都新聞の社主や南座前の伊沢屋や河原町の宮武時計といった旦那衆と遊んだり、隣の帯屋といっしょに庭に不審庵見立ての茶室をつくったりしていた。
そんな父と母がぼくに対して熱心になればなるほど、ピアノのときの拒否感と同じことが、またしても起こってしまったんです。京都文化や「和」に対する拒否感が生まれてしまったんですね。それが最初に出たのが、謡曲だった。観世流の師匠のところに行かされたんですが、これがまた耐えられなかった。だいいち、あんな大仰な声で意味のわからないことを謡うのがおかしくて耐えられなかった(笑)。父が友人の旦那衆たちと遊ぶお茶や芸能には自由な気風があったけれど、家元と呼ばれるような人々はみんなつまらないと思ったし、そのせいで長いあいだ「和」というものに反感を持ってしまった。そういう世界にのちのち自分で出会い直すまで、それが続いてしまった。でも、現代の茶にも謡曲にも、あいかわらずぼくが出会いたかったものはやっぱりないんです。
ぼくは30歳半ばごろに、謡曲もお茶も書も三味線も、何がだめでどれがいいかが見えてきたように思うんですが、最初にそのことを自分で意識できたのは、写真でした。20代のときに、オリジナルプリントでなければ写真でないということを知り、ヴィンテージのプリントをたくさん見た。いまの日本でオリジナルプリントで見られる写真家はわずかしかいないことも知った。そのときに、自分が写真を見る目は、じつは京都にいたころ、あるいは鵠沼で、自分の拒否感によって失いながらその後自分で取り戻したものによって培われてきたことを、はっきりと認識したんですね。
日本美術の多くもいまはだめです。美術批評もだめ。コンセプトメイキングができなくなっている。和も同じです。いまのままではだめです。むしろ椎名林檎に謡曲の間拍子のいちばんいいものが兆していたりする。そういうことをもっと日本に広めていかなければと思っています。

ハイパープリント「物語の出現」シリーズより「母と子」
◆伏せられたもの開かれたもの
父母は京都の「京鹿子」という俳壇にも小学生のぼくと妹を入れてしまった。俳句はまったく拒否感なく入っていけたんですが、このころつくった俳句を越えるものを、その後はつくれなかったように思います。小学生にしてぼくは俳壇でもてはやされてしまったんです。小学校4年で「木の箱にいちごの赤ののこりけり」、中学生のときに「秋深し薄くとじたるまぶたかな」なんてませた句をつくり(笑)、それをオトナたちが絶賛してくれた。それがぼくの俳句をダメにしたんですね。
のちに雑誌「遊」をつくって、若者の教祖とかカリスマとか言われるようになったときに、ぼくはそれを拒否しました。CMや映画に出演してほしいといった話もあったけど、全部断りました。ぼくは早すぎる名声というものは人をダメにすると思っています。チャンスはあとからくればいい。自分から点を取りにいったらだめ。点を取る気もないのにやたらと褒められるともっとダメになる。
俳句に関しては、ぼくはもう一度原点に戻らないといけないと今も感じています。
小学校4年生のとき、ぼくが最大の影響を受けた吉見昭一先生と出会いました。京都大学出身でキノコ学者で、のちに腹菌類研究のリーダーになった先生です。雪が降ると授業を中止して雪合戦をさせる先生だった。学級文庫をつくって子どもたちに本を自由に買わせてくれたり、社会科のときには、あるものとあるものを比較させてどちらが好きかを必ず子供たちに議論させた。市電派とバス派とに分かれて議論させられたりした。そうやって子供たちに考えさせつづけた人でした。
ぼくはその吉見先生によって日記を毎日書かされたことから、自分のなかにあるものに気がつきます。先生は子供たちの日記にいろいろ線を引いたり書き込みをしてくれた。いま思ってもその書き込みはおもしろかった。
そのころのぼくは病弱でした。擬似結核になって、そのせいで母が過保護になり、体育を休まされたりした。これもぼくの心がマスキングされてしまう大きなもののひとつになってしまった。一方、父は学生時代に全国優勝したラグビーチームのフルバックだったこともあって、すばらしい体格だった。お正月は必ずラグビーを見に花薗に連れて行かれた。ぼくはラガーマンたちに憧れながら自分の身体の弱々しさを強く感じていました。のちに「フラジャイル」というコンセプトと出会い、そのことを本に書くまで、そのズレをずっと抱えていました。
10歳を越えたころになると、やっと四生同堂、つまり家族とともに家のなかの仏壇や神棚やウグイスやメジロたちとかかわりはじめ、そういうもののなかに死生を超えたものがあるということに気がつきはじめました。
初音中学に入ると、今度は化石や鉱物や科学現象に関心を深めました。また父がそのころ創刊された「週刊新潮」を絶賛していたことに影響を受けて、ぼくもメディアやその作り手に関心をもつようになりました。俳句に入選してもらった万年筆がうれしくて、ペン先の角度を変えて、いろんな書体で日記を書き分けるということもやりはじめた。
世界文学というものと出会ったのもそのころです。ぼくにとってそれは「岩波文庫」との出会いでもあった。富永先生という人が、授業で『ファウスト』の話をしてくれた。「誰か読んでいる人はいるか」と先生が聞くとと、それまでまったく目立たなかった女生徒がたったひとり手をあげたんです。それが衝撃で、ぼくはその女生徒のもっていた、あのクリーム色の表紙の岩波文庫というものともはじめて出会うことになった。その翌日、さっそく若林書店(かつて梶井基次郎が書棚に檸檬を置いていった丸善のあったところ)へ行って、岩波文庫を探し、どきどきしながらデカルトの『方法序説』を買いました。なんでデカルトなんか買ったのかは憶えてませんが(笑)、それが、ぼくが初めて自分で買った本です。
13歳のときに、父に連れられて花街にも行きました。筆下ろしのために連れて行かれたんですが、ぼくは何をすればいいのかわからないので、ずっとお姉さんとおしゃべりをして終わってしまった(笑)。父がそれを聞いてあきれていました。
父の遊びの世界をいろいろ体験させてもらっていたけど、まだまだ普通の少年でした。野球少年でもあった。

ハイパープリント「ドストエフスキー」
◆京都から引き離されて
15歳になって京都朱雀高校に入ったとたん、父が突然、横浜に移転を決めてしまいました。母は大反対したし、ぼくもすっかり京都になじんでいたので横浜になんか行きたくなかった。ところが、繊維不況のせいで京都では商売が立ち行かなくなると考えた父は、またまた大胆にも横浜元町に京呉服店を出すというとんでもない計画を実行してしまった。
しかも父が借りた家は山手町の外人墓地の近くの洋館でした。大家がゲラシモフというロシア人で、どこもかしこもペンキ塗りの真っ白な家で、見たこともない西洋式トイレに母も妹も難儀していました。
でも父は大きな夢を見ていたんです。外人やホステスに京呉服を売ると本気で思っていたようです。でもやはり失敗しました。元町で京呉服なんて売れっこなかった。やがて家は没落し、父は多額の借金だけを残して、ぼくが大学生のときに、がん死してしまうんです。
いま皆さんのうしろにハイパープリントで、ゴーゴリの『外套』に取材した作品を展示しています。背景に注連縄があって、黒い外套がハンガーにかかっているという絵です。なんでそんなものを描いたのかというと、ひとつはぼくが京都で出会った神社や注連縄に感じていた不思議な感覚をあらわしてみたかった。京都では年末になると煤払いをするんですが、それが終わると家中の十箇所以上に注連縄が出現するんです。明治20年くらいにつくられた古い町屋なかに、小さな神聖空間が突然たくさん出てくる。それは結界やヨリシロというよりも、もっと生活に近いものだった。
それと、高校時代にゴーゴリを初めて読んだときの記憶も重なっています。ロシア人のゲラシモフの家から九段高校まで通っていた京浜東北線や、キリスト教に関心をもって通っていた富士見町教会の思い出とともに蘇ってくるゴーゴリが、ぼくの手に重なってこういう擬画になりました。
思想もアートも人生の一角を占めるものです。それと出会ったときに、自分がどこで何をしていたかということがはずせないんですね。つまりゴーゴリの『外套』を読むとき、アカーキー・アカーキエヴィッチの物語に向き合うときにも、自分が体験していた風景とのマッチングやそのころの記憶の陥入が起こるわけです。
今日は、ぼくが幼少期から少年期を経て青年時代までにどんなふうに物語の出現を感じていたかをちょっとだけ話してみました。こんなふうに話したのは初めてです。時間が足りなくて15歳くらいまでで終わってしまいましたが、この続きは、またいつかどこかで。

ハイパープリント「ゴーゴリ」
2007年07月20日
Report 「門」を感じる感門之盟
岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ
7月13日、港区芝にある建築会館ホールで、ISIS編集学校第17回「感門之盟」が開催されました。台風4号が接近していた影響で関西から種子島にいたる一部の地域の参加者が急に来られなくなったほかは、遠くはベルギー、カルフォルニアからもかけつけ、応用コース“破”(15期)と専門コース“離”(3季)の師範・師範代・学衆あわせて約130人が集合。受付をすませてイシス学林局発行「感門通信」を手にした同志たちはそのまま会場へ。十数週間にわたってインターネットで編集稽古・編集指南に明け暮れていたとあって、リアルな場で校長を囲み、恩師や愛弟子と「卒業」を祝う喜びはひとしおのようでした。
ハレのステージは、水紋をあしらった「感門之盟」というスクリーン文字を中央に、上手(かみて)に「突破」、下手(しもて)に「離 退院式」というセイゴオの大きな書が彩りました。「感門之盟」の編集エンジンを担う司会進行は、大川雅生頭取と小清水美恵師範。5代目の女性司会となる小清水師範は、普段は人気オーガニックレストランの経営者です。女将風の着物姿で「以前から校長の賄いに雇ってほしいとお願いしているのですがなかなか願いがかなわなかったので、このような場でお役に立てて嬉しいです」。この日は日頃の手腕を発揮して絶妙な“包丁捌き”を披露。「みなさん、火であぶられる覚悟でご参加ください」という大川頭取との息もぴったり。
はじめに校長の挨拶。「今日は、同門に入り、難問にあたった諸君が、感門する日です」と話し、百人一首から一句を引用。「瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ」。生まれ落ちた一滴の水が集まり、とうとうと流れて別れてまた集う歌です。“早瀬”に立ち向うこと、渡りきれない瀬に挑むこと、“瀬”に対する姿勢が大切だとセイゴオは粛々と語りました。
15“破”の授与式では、まず木村久美子学匠から、今期の“破”が過去最多の学衆数だったことが紹介され、続いて4ヶ月にわたる編集指南の奮闘の余韻を表情に湛えた5人の師範と11人の師範代を称えました。スタートは「望気雲流教室」「レキオちゃんぷる教室」「まちかどラーセン教室」担当の、赤いポケットチーフを胸にしたお洒落な田中俊明師範のチーム。師範代には師範から渾身のメッセージが書かれた感門表が贈られ、校長からはメッセージ入りの先達文庫(せんだつぶんこ)が2冊づつ手渡されます。さらに、師範には一人一人のイメージに合わせて書き下ろしたセイゴオの書画色紙が贈呈されました。ラストは「酔道恋道教室」「シンドロ六甲教室」担当の、赤いバンダナでキリリと決めた海賊ルックの林十全師範のチームでした。
休憩時間のおやつは「シウマイと大福」。この不思議な組み合わせは15“破”の校長校話がヒントです、と司会の大川頭取が種を明かし、つづいて小清水師範がその校長の言葉を噛み砕いて説明。「シウマイはシウマイ、大福は大福であるように、シウマイの皮がよくできているからといって、そのシウマイの皮の中に何でも入れようとしてはいけない。中身に“型”があるのであって、形のほうに“型”があるんじゃない。別のものを入れたいならば、皮ごと変えましょう」。そして、休憩時間のもう一つの楽しみは赤坂ZEREの蔵書を100円からオークションする「落册市」。今回はすべての本にセイゴオのサインやイラストが入っていたこともあり、100冊すべてが落札されました。
そのあとはいよいよ第3季[離]校長直伝プログラム「世界読書奥儀伝」の退院式。ここで、離学衆の女性たち8人が舞踏会のようなあでやかなドレス姿で入場し、会場が騒然となり大拍手が沸きました。
[離]校長直伝プログラムは年1回、30人限定で、セイゴオがこの講座のために書き下ろしたテキスト「文巻(ぶんかん)」をマスターする特別講座です。受講期間中は徹夜続きという伝説が広まっているほど大量の課題が毎日配信される厳しいものですが、今季は32人が受講し、そのうち「万酔院」15人と「放恋院」14人の計29人がみごとに“退院”を果たしました。ちなみに「“退院”とは「教室」にあたる「院」を無事に卒業することを意味します。
8人の女性たちの堂々たるドレス姿は、何度も迷い何度も立ち止まりながらも、文巻を道しるべにとにかく前へ突き進んできたことへの確固たる自信と、「退院」に到達した喜びがどれだけ大きなものだったかを物語っていたようです。
壇上では、離学衆一人一人の名前が呼ばれ、校長から退院証が手渡されます。また、会場が息を呑んで静まり返った中、関係と関係をつなぐような編集的活躍の著しかった者に贈られる「別当賞」(3人)と「総匠賞」(1人)が発表され、さらにセイゴオ直伝の「世界読書奥儀」を確実に修得したことを認定する「典離」(5人)が、太田香保総匠から発表されました。「典離」は、ISIS編集学校の最高の栄誉です。選ばれた離学衆には「典離額」とよばれるセイゴオ直筆の黒板画が贈られました。
こうして約7時間に及んだ感門之盟は、再び校長講話によって締めくくられました。「いまの時代は“賞味期限”を問う時代。そんなたった一つの基準に社会が縛られている。ただ、人の想像力や創造力には賞味期限もなければ使う時期も決まっていない。いつでも“時分の花”がありうる。自分で賞味期限をつくりなさい。アソシエーションを駆使して好きな目標を掲げなさい。「守」で型を学び、「破」で型を使い、「離」で世界と対応する編集学校は、仕切りを自由に設定できる場所です」。
校長はさらに編集学校の可能性を語り続けます。「『虎の巻』の第7章・男と女の資本主義の核となる“レベッカの資本主義”。司会の小清水さんも読んだときに打ち震えたそうですが、“レベッカの資本主義”を一言で言えば、営利の起源、資産の起源とは何かという問いです。キリスト教のはじまりから今までつづく資本主義の根本的な仕組みとは、相手の何かを暴いて人を押しのけて社会にのし上がっていくというもの。じつは、編集学校は、レベッカの資本主義を無視することなく全資本主義を相手どるくらいの知の相転移をおこせるかもしれない学校です」。
参加者全員の胸に、境界線をつくり、早瀬を渡り、どんな臨海値も超えていこうという校長のメッセージが届いたところで閉会。そのあと、セイゴオも感門の余韻をいつまでも楽しみたかったのか、中華「周の家」での熱気むんむんの懇親会、さらに西麻布でのカリビアンな二次会にも顔を出し、とうとう明け方まで、師範や師範代や離学衆たちと語り明かしたようです。
総合司会の大川頭取の今回のパートナーは小清水師範
このあと二回の衣装替えをした校長
林十全師範からシンドロ六甲教室の赤松師範代へ感門票が贈られる
ポケモンカードを世に出した赤羽師範への色紙は「尾」
落冊市は100円からオークションできます
第3季「離」を率いた相京・倉田・太田別当ほか指導人10名が勢ぞろい
典離額を手にしたベルギー在住のダンサー日玉さん
真紅のドレスで典離額を受け取る大音さん

会場を沸かせた華やかな「離」の貴婦人たち
編集学校には、「番匠」という新たなロールも誕生

多種多彩の花をさかせてハイ、チーズ!
撮影 川本聖哉
2007年07月19日
News 『ちょと本気な 千夜千冊 虎の巻』刊行記念講演会開催
8月5日(日)、西武池袋内のリブロ本店主催『ちょっと本気な 千夜千冊 虎の巻』刊行記念講演会「セイゴオ式読書術の秘密」が開催されます。
全集『松岡正剛 千夜千冊』の入門書としても攻略本としても楽しめる本書には、目次読書法、マーキング読書法、要約的読書法、図解読書法など、セイゴオ独自の読書術もたっぷり収録。今回の講演会ではそのエッセンスと極意を語りあかします。
■第74回リブロ・コミカレ特別セミナー
『ちょっと本気な 千夜千冊 虎の巻』刊行記念講演会
「セイゴオ式読書術の秘密」
■日時:8月5日(日)午後3時〜5時
■場所:西武池袋本店イルムス館8F池袋コミュニティ・カレッジ3番教室
■料金:1,000円(税込)
※リブロ池袋本店B1F注文カウンターにて参加券発売中
■ご予約・お問い合わせ:03-5949-2910(代表)
※席数に限りがありますのでお早めに。
2007年07月10日
Publishing 『ちょっと本気な 千夜千冊 虎の巻』サイン会開催
6月27日に発売された『ちょっと本気な千夜千冊虎の巻 読書術免許皆伝』(求龍堂)。たちまち重版されて、各書店で大好評。千夜千冊を解説しながら、そこにたっぷりとセイゴオワールドを挿し込んだ一冊です。とくに各章の扉に描かれた「擬画」は版画としてもリリースされ、ギャラリー「册」で開催中の「松岡正剛・擬画遊書展」でも話題になっています。
本書の刊行を記念して、7月26日(木)午後6時30分〜7時30分、八重洲ブックセンター本店1階で、セイゴオ初のサイン会がおこなわれます。先着100名限定ですのでお早めに。詳しくは八重洲ブックセンターへお問い合わせ下さい。
■日時:7月26日(木)午後6時30分〜7時30分
■場所:八重洲ブックセンター本店1階 サイン会場
■お問い合せ:八重洲ブックセンター本店 TEL.03-3281-1811(代表)
■本書をお買い上げのお客様に1Fレジカウンターにて先着100名様に整理券を
お渡しいたします。
当日は書籍と整理券をご持参下さい。

2007年07月06日
Report 擬画遊書展オープン!
7月6日夕刻、ギャラリー「册」で「松岡正剛・擬画遊書展」がオープン。120センチ四方の大きな遊書から、葉書サイズほどの擬画まで、趣向を尽くした多彩な作品に見入る来場者たちで、会場はたちまち大混雑。とりわけ今回初挑戦した「ハイパープリント」は反響が大きく、原画作成から刷り上りまで、数週間にわたって苦心し続けたセイゴオも、ほっとしたようすでした。
ギャラリー「册」のキュレーター新見隆さん、オーナーの北山ひとみさんとともにスピーチをしたセイゴオは、「ぼくはアーチストではない。これらの作品はほんの手遊びです」とことわりながら、今回の展覧会では、人間のなかに「物語」がどのように立ち現れるのかということを表現してみたかったと語りました。またそのために自分の手のストロークとメディア(画材)との関係を重視したこと、さらにはハイテクによる版画という新しい技法と出会い、イマジネーションやアイデアが触発されたことなどを明かしました。
「擬画遊書展」では、版画はもちろんのこと、一点ものの遊書も一部を除いてすべて購入可能。また7月20日に行われるギャラリートークはすでに満員のため受付は終了していますが、7月12日(木)、7月21日(土)、7月28日(土)には、セイゴオと会場で会えるチャンスあり。千夜千冊」ファンはもちろんのこと、古今の物語世界を表現したかつてないセイゴオの作品に、ぜひ触れてください。
会場に吊るされた和紙バナー。左右の遊書はもちろんセイゴオ手書き。
今回の展覧会中、最大の遊書作品「器」。
北山ひとみさん、和紙人形作家の内海清美さんと。
スピーチで、作品に込めた思いなどを語る。
ハイパープリント作品に見入るオートバイデザイナーの石山篤さん。
会場照明で特別協力してくださった藤本晴美さん。
「册」のなかの一画「糸宿房」には、行灯作品「四天燈」が吊るされている。
作品とともにディスプレイされたセイゴオの本に見入る人も。
写真家のエヴァレット・ブラウンさんとアーチストの菊池慶矩さん。
真っ白な衣裳がひときわ華やかな真行寺君枝さん。
緻密なドローイング作品「ランボー/ボードレール」に見入るのは、
春日大社の中東弘さん。
岡山から駆けつけた招き猫美術館館長の虫明昭夫さん。
セイゴオが仕組んだ絵解きを楽しむアスキー編集長福岡さんと、
邦楽家の西松布咏さん。
会場では『千夜千冊虎の巻』も販売中。
その場でセイゴオにサインをもらう来場者も。
Diary 「擬画遊書展」出品作勢ぞろい
「松岡正剛・擬画遊書展」会場の「ギャラリー册」では、セイゴオとスタッフが連日連夜、展示作業に大奮闘。5日午後、ようやく額装された出品作が勢ぞろいし、飾り付けもほぼ完成、あとは6日のレセプションを待つばかりとなりました。
展覧会テーマは「物語の出現」。「千夜千冊」に取り上げた物語にちなむ遊書と擬画を約50点出品しています。ちなみに、「遊書」はセイゴオが自由に水暈墨章に遊んだもの、「擬画」は技法もスタイルも自在な独自のドローイング作品のこと。またそのうちの14点は、高度なデジタル技術を駆使した「ハイパープリント」(超版画)作品となっています。
さらに、求龍堂によって版画化された『千夜千冊虎の巻』(求龍堂)のための描き下ろしドローイング全9点も展示・販売します。
「松岡正剛・擬画遊書展」は、7月29日まで。「言葉のある絵」「絵が文字を孕む」ということを意表したかったというセイゴオの手技を、ぜひ会場でとくとご覧ください。
求龍堂版「ミストグラフ」全作品が展示されたコーナー
さまざまな技法を駆使した「遊書」「擬画」とともに「千夜千冊全集」やセイゴオの著書もディスプレイ

初公開! ハイパープリント作品「物語の出現シリーズ」より「ヴィンチャの女」(左)と「水神」(右)
松岡正剛・擬画遊書展―物語の出現
◇会期:2007年7月7日(土)〜29日(日) 11時〜19時
◇休廊日:7月9日(月)、17日(火)、23日(月)
◇会場:NIKIギャラリー册
千代田区九段南2-1-17 パークマンション千鳥ケ淵1F
東西線・半蔵門線・都営新宿線 九段下駅2番出口徒歩10分
TEL:03-3221-4220 FAX:03-3221-4230
http://www.satsu.jp/
◇レセプション・パーティ 7月6日(金) 17:00開演
※7月6日(金)は17時よりオープンいたします。
パーティはどなたでもご参加いただけます。
2007年07月03日
Report 連塾絆走祭「牡丹に唐獅子」フォトダイジェスト
6月16日、築地本願寺で開催された連塾絆走祭「牡丹に唐獅子」は、セイゴオのモデレートによって8人のゲストが次々と登場し、トークや映像やパフォーマンスを披露、全7時間におよぶ破格のイベントとなりました。
「牡丹に唐獅子」は、連塾を主催する連志連衆會理事長の福原義春さんの命名によるタイトル。それを受けてセイゴオは、日本の「アワセ・キソイ・ソロイ」などのマッチングのメソッドと、アナロジーやアブダクションといった編集工学の基本メソッドを組み合わせて「次第」を構成。3ヶ月以上にわたり、演出・照明の藤本晴美さんとともに、出演者の皆さんと入念な打ち合せを重ねてこの日の本番を迎えました。
連塾は参加者の顔ぶれも破格です。今回も、アーティスト・企業人・政治家など各界のリーダーから、伝統技術職人・老舗のご主人まで、全国から250人の多彩な方々が集い、セイゴオとゲストが展開する絢爛プログラムを堪能していました。
以下、その一大イベントのようすを、写真とともにダイジェストでご紹介。
第1部会場の蓮華殿に飾られたセイゴオの書「唐獅子」。
参加者全員に、名札と特製ファイルが配布される。
開演前、ロビーで参加者をお出迎え(右はワダエミさん)。
「迷走日本から絆走日本へ」。オープニングから加速するセイゴオ。
カルチュラル・コンピューティングの可能性を語る土佐尚子さん。
高野明彦さんはコーパスが生み出す意味検索システムをデモ。
坂井直樹さんのプロダクツはまさに「牡丹に唐獅子」。

森村泰昌さんによる「三島由紀夫」のパフォーマンス。手には自作の檄文巻物。

歴史と時代を引き受けることの意味と重さを語り合うMとM。
休憩時間には、目にも鮮やかなディスプレイで串料理が振舞われた。

築地本願寺の本堂に会場を移して第2部が開演。
厳かに進む遠州流家元・小堀宗実さんによる献茶。
初顔合わせとなった俳人の黛まどかさんと書家の矢萩春恵さん。
畳4枚分の大パネルに黛さんの俳句を朱墨で書く矢萩さん。
真行寺君枝さんが自作の台本による渾身の「日本語り」。
180インチスクリーンに杉浦康平さん構成のアジアの図像が躍り出す。
複合獣からマンダラへ。東洋のマッチングの意味を独自に読み解く杉浦さん。
「日本は母なる知を取り戻すべきです」。7時間に及んだ絆走祭を締めくくる。
250人の「絆」を迎え入れ、見送った、セイゴオの手書き立て看。
