セイゴオちゃんねる

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2006年12月27日

Key Word すさびのパサージュ(2)

 講演のためにおよそ20年ぶりにパリを訪れたセイゴオが、なぜ「楽しまない風情」に徹していたのか。「千夜千冊」第46夜ライナー・マリア・リルケ『マルテの手記』に、その秘密が明かされている。ちなみに求龍堂の「千夜千冊全集」では、一夜ごとに新たなタイトルが付せられているが(これはWEB「千夜千冊」にはなかったもの)、『マルテの手記』にセイゴオが付けたタイトルは「孤立するためのパリ」である。

久しぶりにパリに行って、慌しく仕事(平家物語についての講演)をして帰ってきたとき、同行した者たちから「松岡さんはまるで心ここにあらぬという感じでパリにいましたね」と口々に言われた。みんなでパリの街をあれこれ動いていたときの印象らしい。ある女性からは「まるで死に場所を探しているようだ」とも言われた。みんな鋭いもんだ。(千夜千冊第46夜『マルテの手記』)

  「平家物語の講演」というのは、和紙人形作家の内海清美さんの「平家物語」展が日仏会館で開催され、セイゴオがその記念講演を行ったもので、テーマは「日本人の無常観」だった。
 講演の首尾は上々だった。セイゴオは会場に詰めかけた数百人のフランス人を相手に、「あはれ」「あっぱれ」「無常」「遁世」といった日本語のキーワードを駆使して、日本で行うときとほとんど変わらない速度と深度の語りを貫いた。それは、カトリーヌ・カドゥーさんの名通訳のおかげでもあった。カトリーヌさんはセイゴオの友人で、日本語が堪能であるだけではなく、永井荷風の研究者であり東京の木場に日本家屋の仮寓を持つ日本通であり、フランス大蔵省長官夫人でもあった。
 講演会前日、セイゴオはカトリーヌさんとIホテルのラウンジで3時間にもおよぶ綿密な打ち合せをしたのだが、このときカトリーヌさんは「セイゴオ、できるだけ日本語でキーワードを連打しましょう」という提案をしてセイゴオをおおいに喜ばせた上に、本番では身振り手振りを加えて完璧な通訳をしてくれた。講演後は日仏会館のロビーで「あはれ」「あっぱれ」という日本語がさかんに飛び交っていた。

 そんなふうに、講演のためにパリに行き、その準備に1日、本番で1日、あとは主催者の用意したレセプションや行事で2日がつぶされて、正味5日ほどの旅程だったこともあり、セイゴオが自由に過ごせる時間はほとんどなかった。しかも、そのわずかな自由時間の過ごし方といえば、行き先もルートも日本から同行してくれた未詳倶楽部メンバーまかせで(唯一、国立図書館にだけは積極的に行きたがった)、東京では考えられないほどよく歩いてはいたが、そのときの顔色や様子が「まるで死に場所を探しているよう」だったと観察されてしまうほど、はかりしれない沈静を保ち続けていた(ちなみにこれは、未詳倶楽部メンバーでオトグラフ収集家の高野純子さんの言葉である)。

 それがどのような事情と理由のためだったのかは、「千夜千冊」に次のようなことが明かされるまでは、同行者の誰も察しえなかったことである。

パリを歩くと困ってしまうのだ。そこがボードレールやヴァレリーの街であり、ナタリー・バーネイやジャン・コクトーやココ・シャネルの街であることが困るのだ。それが東京の下町を歩いて、もはやそこには永井荷風も葛西善蔵も辻潤も見えなくなるほど光景が様変わりしているというならまだしも、パリはほとんどが元のままなのだ。もっとも往時の景観がよく残っているはずの京都を歩いていても、こういう気持ちはおこらない。ぼくは京都ではエトランゼになりえない。パリはそうはいかない。神経を尖らせて歩いている。それでもこの程度のトポスの記憶ならまだしもかなり軽症なのである。ここに紹介するライナー・マリア・リルケのパリは、あまりにも鮮烈すぎて魂を直撃してしまっている。(千夜千冊第46夜『マルテの手記』)

 セイゴオは、プラハ生まれの詩人リルケがパリを漂泊しながら、痛哭な孤独を観照し続けたことに強く感応したようだ。セーヌ河畔を歩くときも、ヴァンドーム広場やコンコルド広場を横切るときも、ノートルダム寺院周辺をうろつくときも、『マルテの手記』の一行目「人々は生きるためにこの都会へ集まって来るらしい。しかし、僕はむしろ、ここではみんなが死んでゆくとしか思えないのだ」がセイゴオの胸を突いていたらしい。

これではパリは歩けない。ボードレールやコクトーをなんとかしても、リルケのパリが残響すれば、とてもぼくには歩けるものじゃない。(千夜千冊第46夜『マルテの手記』)

 『マルテの手記』は、リルケがパリに滞在した20代後半から30代前半にかけて、約7年をかけて書き上げた詩小説である。若いデンマークの詩人がパリでの陰鬱な日々を手記に書きとめたという形式をとっているため、リルケの内的体験や追想が投影された告白集のようにも読める。
 リルケが過ごした20世紀初頭のパリとは、19世紀半ばにオスマン市長が進めた大規模な改造計画によって完成された商業資本都市にほかならない。ベンヤミンはそこに「現代性」という19世紀の幻像と、それゆえにすでに廃墟となりつつあるパリの現像を鋭く見抜いたのだが、リルケの分身であるマルテはすでに「なんらかの意味を持つこの人生の表面に、得たいのしれぬ退屈な裂地をはって、たとえば疎懶な夏休みのサロンの椅子か何かのように、本質を包み隠してしまう」ようなパリに巣くう“愚劣”を鋭敏に感知していた。そしてその「食い違いに手をつける」ことにたった一人で挑んでいく。

 セイゴオはそんなマルテ=リルケによるパリ観察は、まるで「死にかたの見本のよう」だという。パリが“退屈な裂地”で包み隠した「死」や「病」にこそ、リルケがもっとも過敏で真摯な目を向けているということなのだろう。そして、そんなリルケの痛ましくも勇ましい魂がパリのセイゴオに去来していたのだとすれば、「まるで死に場所を探しているようだ」という未詳倶楽部メンバーの観察は、ぎょっとするほど鋭いものだったのである。

 ただしこれはたんにリルケのペシミズムと見るべきではないし、ましてやセイゴオのペシミズムなのでもない。いや、もしこれをペシミズムと呼ぶなら、「千夜千冊」第1164夜にショーペンハウアーを取り上げたセイゴオが、ペシミズムを「思考の分母」に到達するための方法と捉えた、まさにあのような方法によってこそ捉えてみるべきだろう。
 それになんといっても、セイゴオにとって街を歩くことは読書をすることと同じ「すさびのパサージュ」の行為なのである。そしてまたリルケも、異郷の地をめぐりながら体験と想起の「あいだ」をパサージュすることを練磨しつづけた詩人である。しかもセイゴオによると、リルケのパサージュこそ「つねに懸崖に向かっている」というほどに、徹底した「すさび方」だったらしい。

 意外なことに、「千夜千冊」第926夜『ゲニウス・ロキ』に、そんなリルケが少しだけ顔を覗かせている。

ゲニウス・ロキに敏感だった詩人はおそらくライナー・マリア・リルケであり、ゲニウス・ロキに深い関心を寄せた作家はロレンス・ダレルだった。リルケは『ドゥイノの悲歌』で、「われわれがこの世にあるのは、家、橋、泉、門、壷、円柱、鐘楼があるためだ」と書き、アレキサンドリアに異常な関心を示しつづけたダレルは、「いかなる文化の重要な決定要因も、結局のところ場所のスピリットによっているものなのだ」と書いた。リルケの歌は場所はロマン主義によって喚起され、ダレルの文章は場所は宇宙的に喚起される。(第926夜『ゲニウス・ロキ』)
2006122802.bmpセーヌ川のほとりで

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2006年12月25日

Key Word すさびのパサージュ(1)

 松岡正剛はめったに歩かない。昔のことはいざしらず、ここ十数年ほどはできるだけ歩かないことを心がけているらしい。最近はそれがいっそうはなはだしくなり、移動はもっぱらタクシーかスタッフの運転するホンダのアコード。赤坂近辺に出かけるときですら、新入スタッフの栃尾瞳が郷里から運んできたミニカーのラパンがセイゴオの脚になっている。

 胃癌の手術後、集中治療室で麻酔から覚めたばかりのセイゴオをベテラン看護婦が見事な介添えをしながら無理やり立たせて歩かせてからというもの、またその後は和泉佳奈子が献身的にセイゴオを励まして院内を散歩させてリハビリさせてからというもの、セイゴオは自分が人並みに歩くためには、誰かの介添えと献身とプロジェクトが不可欠だと思い込んでいる節がある。
ましてやセイゴオが走る姿など、赤坂では誰も見たことがないし想像すら及ばない。

 そんなふうにめったに歩かない、決して走らないセイゴオが、2000年に講演のために訪れたパリでは、驚くほどせっせと歩いていた。しかも、同行者たちがよそ見脇見に夢中になるような古い街並みを歩くときほど、静かにただコツコツと歩いていた。決して早足ではないし、脇目も振らずに歩いていたわけでもないけれど、街歩きを楽しむ風情はまったくなく、かといって不機嫌なのでもない。セイゴオにとっては工作舎時代にカイヨワ、フーコー、マンディアルグに会うために訪れて以来、20年ぶりのパリだったはずなのだが、そんな感慨にふける様子もなく、石畳の街路も広場の景観も平気で通過してしまうといった歩き方だった。

 セイゴオは、街というものは漫然と歩くためのものではなく、きまぐれに立ちどまるためのものでもなく、覚醒しながら通りすぎるものと考えているのかもしれない。まるで一冊の本を高速で読み抜いていくように。できれば足を動かさないで街をパサージュすることができるならそれが一番いいとすら考えているのかもしれない。まるで足の萎えたベンヤミンのように。

パサージュとは「移行」であって「街路」であって「通過点」である。境界をまたぐことである。ベンヤミンはパサージュへの異常な興味をことこまかにノートに綴り、そしてそれを仕事(Werk)にした。だから『パサージュ論』は本というより、本になろうとしている過程そのものだ。しかし「本」とは本来はそういうものなのである。(第908夜ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論』)

 ベルリン生まれのユダヤ人のベンヤミンは、ナチスを逃れてパリに亡命し、19世紀の産業振興政策によってつくられた「パサージュ」(ガラス屋根で覆われたアーケード街)に着目した。その誕生と廃頽によるパリの街並みの変遷や、そこに起こった現象を探索し調査し考察した。ベンヤミンがパサージュを通して見たものは、資本主義が都市にもたらしたファンタスマゴリア(幻像)であり、19世紀の「集団の夢」の痕跡だった。

もともとベンヤミンは「個人にとって外的であるようなかなり多くのものが、集団にとっては内的なものである」ということに関心をもっていた。個人の内部性と集団の外部性を問題にしたのでは、ない。逆である。個人の外部性と集団の内部性に関心をもったのだ。それがベンヤミンの「集団の夢」なのだ。(第908夜『パサージュ論』)

 個人の外部性と集団の内部性。「パサージュ」がまさに道路であって商店でもあるように、ベンヤミンは「個人にとって外的であるようなもの」と「集団にとっては内的なもの」とのその「線引き」に関心をもち、それを「敷居」と呼んだ。そして、その敷居を通過させる商業装置に関しての、そこを通過する「遊歩者」としてのボードレールに関しての、またモードやインテリアやメディアや写真に関しての膨大な記事や引用を収集し、ドイツ語とフランス語で断片的なメモを綴り続けた。
 ベンヤミンははじめから終わりまで引用で埋め尽くした書物を構想していたとも言われるが、『パサージュ論』はベンヤミンの生前に刊行されることはなく、残された大量の資料とメモが他者の手によって編集され陽の目を見ることになった。

 しかし、セイゴオは『パサージュ論』を未完の書物であるとは見ていないようだ。

ベンヤミンにとって書物とは、それが見えているときと、それが手にとられるときだけが書物であったからである。その書物の配列と布置と同様に、ベンヤミンには都市が抽出と引用を待つ世界模型に見えた。(第908夜『パサージュ論』)
(パサージュとは)茶碗でいうなら轆轤で成形して窯に居れ、これを引きずり出すことである。読書でいうなら書物を店頭から持ち出してページを切り開くことである。それは述語的な行為というものだ。(第908夜『パサージュ論』)

 ベンヤミンはいったい何をやろうとしていたのか。セイゴオはそれを「数寄のパサージュ」と名付けている。またそれによって記録されるのは、ベンヤミンの言葉でいえば「過去についてのいまだ意識されない知の覚醒」なのだという。ベンヤミンにとって、そしてセイゴオにとって、パサージュとは自他の境界領域で次々と意識と記憶と言葉を切り結ぶ「行為」のことであるらしい。それは街路を気まぐれに遊歩し脇見やよそ見を楽しむような風流とはほど遠い。まさに、みずからが高速の回転扉となって街を擦過していくような、“すさび”のパサージュとも呼ぶべきものではないだろうか。

 そしてまたベンヤミンにとって、パサージュは歴史哲学のための方法を集大成する行為であって闘いでもあった。命がけでもあった。ナチスドイツの侵攻によってベンヤミンはパリを脱出し、アメリカに渡ろうとするが失敗、ピレネー山脈超えを断行しスペインをめざしたが、その途上で強制送還され、ついに服毒自殺を遂げる。その最期のときまで、ベンヤミンは膨大な『パサージュ論』のメモ群を肌身離さず携えていたとも言われる。

 パリの街路を、孤絶した風情ではないものの、いたずらに楽しむこともなく、言葉少なく歩き続けていたセイゴオは、いったいそのとき何を携えていたのだろう。

24nortordam7.bmpノートルダム寺院にて

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2006年12月20日

Publishing 12月25日 『17歳のための世界と日本の見方』刊行

セイゴオ先生の人間文化講義

 『日本という方法』を9月に、『松岡正剛千夜千冊』を10月に上梓したばかりのセイゴオの新著が早くもクリスマスに刊行。タイトルは『17歳のための世界と日本の見方』(春秋社)。帝塚山学院大学の講義「人間と文化」の採録をもとに再構成した、まさに東西の人間文化史入門。しかも、セイゴオ自筆のイラスト満載。仙人みたいな顔のセイゴオ先生キャラクターも登場します。

 ヒトザルがヒトになったときに何が起こったのか、なぜアメリカ人と日本人はノックの仕方がちがうのか、人は文字のない時代にどうやって記憶をのこしてきたのか、イエス・キリストは誰だったのか、なぜ宗教戦争が起こるのか、日本神話をどう読むべきか、ルネサンスは本当に“人間復興”の時代だったのか、利休や織部のなにがすごいのか・・・。

 人間文化の発生の起源にはじまり、言葉や文字や宗教や物語の発生を追いながら、東西の世界観やその表現の違い、さらには近代の科学が新たに発見したマクロ・ミクロの世界像まで、ときにはポップに、ときにはスリリングに、現代のアーチストや現象とも重ねながら一気に語る、まさにセイゴオならではのジェットコースター・レクチャーです。

 ところで、なぜ「17歳」なのかというと、セイゴオ自身にとって、17歳は何かを考えたり行動したりするときの象徴的な年齢だとか。あとがきのなかでそのことを、“精神の17歳”と書いています。

書 名:『17歳のための世界と日本の見方』
発行日:2006年12月25日
発行所:春秋社
価 格:1700円+税


目次
第1講 人間と文化の大事な関係  
第2講 物語のしくみ・宗教のしくみ    
第3講 キリスト教の神の謎 
第4講 日本について考えてみよう 
第5講 ヨーロッパと日本をつなげる



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カバー

2006122003.jpg表紙


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2006年12月19日

Diary セイゴオお忍び見学「三省堂・千夜千冊フェア」

 12月末日まで、神田・三省堂の4階人文フロアで「松岡正剛千夜千冊刊行記念フェア」を開催しています。企画した海老原フロアリーダーによると「ぜひ多くの人に全集を手にとってもらい、『松岡正剛千夜千冊』をあじわってほしい」とのこと。
 場所は、4階エレベーターを降りて左手に曲がったコーナー。2列分の棚と平台をつかい、左側には全集とセイゴオの著書が、右側には千夜千冊でとりあげられた本が約40冊ほど並べられ、その一冊一冊に「書物がつくる空間と時間とテイストとモダリティと流行と停滞というもののいっさいが香ばしい哀切とともに滲んでいる(千夜千冊第727夜『ブックストア』より)」、「松岡正剛という名前はどうみても堅すぎる(千夜千冊第517夜『ペンネームの由来事典』より)など、「千夜千冊」から抜書きした手作りのカードが添えられています。
 本のセレクトは、書店員歴12年の大塚さんによるもので、「いつもは背表紙しか見られないような本が、千夜千冊全集のおかげで表に出すことができた」と喜んでいました。

 書店におかれた『松岡正剛千夜千冊』を見てみたいというセイゴオも、噂を聞いて、こっそりと三省堂へ出かけました。フェアの棚組をじっくり眺めて、おもむろに7巻を手にとってパラパラとめくり「やっぱり、重いね」と苦笑い。また、眼鏡を老眼鏡にかけかえて壁に貼られた日経新聞や新文化の書評の切り抜きをあらためて読んだり、手作りの抜書きに目をとおしたりと、三省堂につくられた千夜千冊空間をしばらく堪能しました。帰り際、全集の小口にけっこう手垢がついていることを見つけ「重いだろうに、よく立ち読みできるよね」と妙な関心ぶり。


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大塚さんのメッセージ
「赤のグラデーションも、一冊一冊の重さも、頁の手触りや開き具合も、
一人でも多くの人に伝えたい。楽しみにして来て下さい。」




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立ち読みにチャレンジしようと6巻を手にする



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『松岡正剛千夜千冊』がとりあげられた書評を読む

【書棚にならべられている千夜千冊本の一例】

第 108夜『絶対安全剃刀』高野文子
第 138夜『文体練習』レイモン・クノー
第 237夜『ペーパーバック大全』ピート・スフリューデルス
第 339夜『漂着物事典』石井忠
第 517夜『ペンネームの由来事典』紀田順一郎
第 666夜『声の文化と文字の文化』ウォルター・オング
第 813夜『「編集知」の世紀』寺田元一
第 840夜『波止場日記』エリック・ホッファー
第 981夜『かたち誕生』杉浦康平
第1096夜『ジョージア・オキーフ』ローリー・ライル
第1122夜『ぼくの哲学』アンディー・ウォーホール  ほか


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2006年12月15日

Key Word 喘息と吃音と呼吸と文字と

 20代から30代にかけて、セイゴオはしばしば脳圧昂進に見舞われていた。激痛のあまり七転八倒し吐き気がとまらなくなり、病院にかつぎこまれては巨大な注射針で髄液を抜くという拷問めいた治療を受けていたという。「20代はほとんど寝なかったのではないか」と周囲が証言するセイゴオにはふさわしい宿痾だったのかもしれないが、30代後半からはぴたりと発作が治まった。代わりに、40歳で胆嚢を摘出し、51歳のときには交通事故で肋骨骨折、61歳で胃癌と、その後はなぜかおよそ10年周期で入院や手術を繰り返しているのだが、幸い後遺症もなく完治してきた。

 幼年期の猩紅熱から数えれば、あきれるほど多彩な病歴をもつセイゴオだが、その胸に暗い影をもたらした病といえばセイゴオ自身の病ではなく、父親の膵臓がんと、妹の喘息だったようだ。父の癌死は「遊」創刊号から『場所と死体』を連載したことに象徴されているように、松岡正剛の思想に大きな影響を与えたが、妹の喘息の発作の激しさもまた、「死」を予感させる病として、少年時代のセイゴオに深く印象づけられていたらしい。そのせいだろうか、「千夜千冊」には、喘息者の宿命への特別な共感が時折刻まれてきた。

 ゲバラはキューバ人ではない。ボリビアでもない。アルゼンチン生まれである。
 5人の長男で、両親がスペイン共和派びいきの家に育った。2歳で喘息をおこした。ラグビー少年であることがぼくにいっそうゲバラ熱を高じさせたのだが、ラグビーの試合の途中に喘息でベンチに戻ったこともしばしばだったという。この喘息こそ、最後のボリビア山中の動きを鈍くした。(第202夜『ゲバラ日記』)

 咳きこんで苦しむとき、中島は面影が定まらない母といつも定位に父がいる少年期を急激に追想した。が、そんなことをしていても心身が蝕まれるだけだ。何か夢中になるものを選ばなければならなかった。そこで中島が選んだのは、なんと「南洋」だった。パラオの仕事を選んだ。(第361夜中島敦『李陵・弟子・名人伝』)

 山中で発作を起こすゲバラ。咳き込みながら父母の面影を追想する中島敦。松岡正剛は、喘息者たちの窒息寸前の呼吸困難を知るだけではなく、発作の中での想念の行方に寄り添おうとする。このような共振感覚は、肉親の喘息を痛々しく見守っていた少年期に培われたものなのだろう。(実はセイゴオが編集工学研究所を預けた澁谷恭子も喘息の少女期を送っている)。

 プルーストの幼年時代にとって、その精神に大きな影響を与えたのはブローニュの森から帰って始まった喘息である。ぼくの妹がひどい喘息だったので、この発作が何をもたらすかはよくわかる。 それが間歇性の喘息症状であったことは、その記憶を間歇的に思い出すことにつらなり、その喘息にしばしば瞬間的な窒息がともなったことは、プルーストが考える文学作品は“記憶を辿る文学”ではなく、“思い出せない記憶にさえ思い出が広がる文学”というものであることを、思いつかせたのだった。  こうしてプルーストの40代はほとんどの日々を『失われた時を求めて』に費やしたといってよい。51歳、書き継ぎに書き継いだ大作にようやく終息を感じると、プルーストはベッドの上で校正をしたまま疲れ切って、呼吸困難のうちに終息していった。(第935夜『失われた時を求めて』)
 

 瞬間的な窒息。それは、喘息持ちでこそなかったものの、「サ行」の音を発しようとすると言葉に詰まる吃音少年だったセイゴオも、しばしば感じていたものではなかったか。そのために、舌先から間歇的にしか言葉を発することができないもどかしさを抱えながら、呼気が封じられた瞬間にアタマの中を巡る思考について、鋭敏な自己観察を重ねていったのではなかったか。

 やがて吃音を克服し、禅や太極拳に触れて呼吸法や発声法を鍛錬した松岡正剛は、ファンがしびれるというあのよく響く低い声で、思索と乖離させないまま高速に言語を放つ独自のパフォーマンスを体得していった。近頃は、さらにそこに文字を連関させようとするかのように、さかんに息を吐きながら書を嗜んでいる。
 その姿は、セイゴオが古今東西のどんな思想家よりも一段深い関心を寄せてきた、かの空海こそかくありや、とさえ思わせる。

 空海の声は深かったとおもう。ただ大きいのではなく、深く遠くよく響いたであろう。(『空海の夢』第9章「仮名乞児の反逆」)

 なんとなれば、『空海の夢』第22章「呼吸の生物学」では、次のような注意深い呼吸観察をもって、空海の「声字実相」を読み解いているのである。

(略)風気による響きと声の関係は不即不離である。その声がおこってすだいたとき、そこに字がおこる。その字は名をまねき、名は体をまねく。これが実相である。ここには言語の創出風景があるようだ。(略)  声を出しているときは、声を出さないときよりも呼息量がおさえられている。たとえばクーカイと発音をしてみると、クー・カ・イのクーやカのときは呼気がおさえられ、イの発音の最後の部分でやっと呼息量がふえる。  つぎにコーボーダイシ・クーカイというふうに区切って発音してみると、その区切りでわずかではあれ吸息されていることがわかる。一般に、発話時には一分あたりの呼吸数が激減し、吸息作用は少し増すものの呼息作用はいちじるしくゆるやかになり、全体としての呼吸は深くなる。(略)  十全な発話活動をしているときに呼吸が深くなるということは、声を出していても瞑想しうるという可能性を立証する。

 そういえば講義をするときのセイゴオは、声の張りはもちろんのこと、板書のスタイルにも気を配る。ホワイトボードにマーカーでは字がすべりすぎるので、できるだけ黒板にチョークを用意してもらうほどである。確かに黒板を使うと、語りのリズムもノリも変わるようだ。きっとそんなときのセイゴオは、空海の「声字実相」さながらのハイパートランス状態になっているはずだ。

 もっとも、イカヅチ頭の空海と仙人顔のセイゴオとでは姿かたちが似ても似つかぬ上に、少年セイゴオが吃音だったことに比べると、少年空海=真魚(まお)は、言語をつかさどる佐伯一族、騒々しいほどしゃべりまくるという意味のサヘギの出自である。この違いはあまりにも大きい。

 喘息者たちの“未発の言葉”に敏感になりすぎるセイゴオは、空海にはなりきれないようだ。呼吸を止められてしまった追想者の面影をどこかに宿したままなのだろう。

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筆の動きと呼吸の調子を絶妙に重ねて書をするセイゴオ

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Diary ハイパーコーポレート・ユニバーシティ「AIDA」第2講

■イメージとマネージのあいだをセッション

 12月9日、ハイパーコーポレート・ユニバーシティ「AIDA」第2講が開催されました。会場はなんと江戸の総鎮守「神田明神」。前回の第1講会場の根岸の密教寺院「西蔵院」とはうってかわった「しつらい」とプログラムによって、塾生を迎えました。
 始めに、日本の神が常住しない客神であること、神社は神のエージェントであること、日本の祭は神を招いてもてなす意味があることなどについてセイゴオからレクチャーがあり、その後全員で揃いの浄衣をはおり、総朱漆塗の社殿へ。かねてからセイゴオと親交のある清水禰宜から、神田明神の歴史や祭神・平将門の話を聞き、祝詞を挙げてもらい、ハイパーコーポレートの学習成果を祈念しました。
 それを受けて再びセイゴオのソロ講義によって、神も仏も編集してきた「日本という方法」をさらに深め、「文化には“典型”“類型”“原型”といった型がある。それぞれのあいだを動かすことが編集工学であり日本になる」ということを、ISIS編集学校のでもおなじみの「ミメロギア」ワークショップで体感してもらいました。

 そこに今回の特別ゲスト、元ラグビー日本代表監督で神戸製鋼ラグビー部GMである平尾誠二さんが登場。平尾さんが日本ラグビーにもたらしたといわれる「スペース」の捉え方、なぜ日本ラグビーが世界を相手に勝てないのかということについての独自の分析、チームリーダーに必要なマネージメントとイメージメントなどなどの話題を、スピード感のある語りで展開してたちまち塾生たちを魅了しました。さらに「千夜千冊」の中村敏雄『オフサイドはなぜ反則か』や二宮清純『天才セッター中田久美の頭脳』を読みながら、「スポーツにも仕事にも必要な“あいだ”をつなぐ編集力」について、かつて『イメージとマネージ』(集英社)でも見せた平尾さんとセイゴオの、セットプレーのようなセッションが続きました。

 それぞれが企業のチームリーダーである塾生との質疑応答では、スタッフの育て方から、モチベーションの持たせ方にいたるまで、平尾さんが実践してきたメソッドやノウハウを次々と披露。ラグビーボールを手にパスの実演をしながらの、「パスの原則は自分より有利な人にまわすこと。人は必ず予測する。攻める側はつねに相手の予測を裏切ること。そのためには事前にチーム内での十分なシミュレーションが必要」という一言には、セイゴオもすっかりしびれていたようです。

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パスの極意を実演する平尾さん


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2006年12月12日

News 連塾絆走祭 「風来ストリート」へご案内

 中間法人「連志連衆會」(理事長・福原義春さん)が主催する、日本文化塾「連塾」絆走祭の、第2祭が、2007年1月27日(土)、池袋の自由学園明日館で開催されます。

 「連塾」は、松岡正剛が思索し構想する「日本」を語る場として、2003年7月から2005年6月まで全8回の講義を行い、のべ300人以上の各界リーダーが塾生として参加しました。今年7月には、その第2弾として、「連塾・絆走祭」(はんそうさい)をスタート、松岡のソロトークとともに多彩なゲストとのトークやパフォーマンスによって、「日本という方法」をさらに深めています。

 第2祭のテーマは「風来ストリート」。日本にひそむ“風来”の感覚や精神をめぐります。松岡や「連塾」に関心のある方ならどなたでも参加可能。詳細問い合わせは、下記の連志連衆會事務局へどうぞ。

 *当サイトの第1祭のレポートもご覧ください→こちら

 
連塾・絆走祭 第2祭「風来ストリート」

日時: 2007年1月27日(土)13:30開演 21:00終了予定 *夕食をご用意します
会場: 自由学園明日館講堂(豊島区西池袋2-31-3)

出演者:松岡正剛
     福原義春(連志連衆會理事長・資生堂名誉会長)
     石山篤(インダストリアルデザイナー)
     高橋睦郎(詩人)
     田中泯(舞踊家)
     エバレット・ブラウン(写真家)
     小堀宗実(遠州茶道宗家十三世家元)

*詳細問い合わせおよび参加申込み
 下記事務局宛に、直接御連絡ください。

 連塾2事務局 担当:原・渡辺
 TEL:03-3587-9201
 FAX:03-3568-2201

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自筆の書を背景に日本を語る(連塾絆走祭第一祭より)

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2006年12月11日

Publishing 読売ウィークリーに『日本という方法』

12月11日発売の「読売ウィークリー」の「著者からのメッセージ」コーナーに、『日本という方法』のインタビューが掲載されました。なぜ「日本の方法」ではなく「日本という方法」なのか、本書に込めた視点やまたそれを伝えるためにセイゴオが採った「方法」が明かされています。

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2006年12月 7日

Report ニュークリア・フォビアに棲む思考形態

「多価値化の世紀と原子力」フォーラムで語る

 12月6日のTBS「日本をさがしに行こう!」放映時間中、セイゴオは原子力利用に関する学術フォーラムでの講演のため、大岡山の東京工業大学・百年記念館にいた。機械学会やAI学会や情報処理学会などさまざまな学会で講演をしてきたセイゴオも、「原子力」をテーマに語るのは初めてのこと。

 この講演をアレンジしたのは東工大の原子炉工学研究所の澤田哲生さん。“核の平和利用”をめぐる科学技術の将来と、“核の恐怖”にねざした忌避感の歴史のあいだで、「原子力」や「核エネルギー」はどのように語られるべきか。専門領域を超えた議論の土壌が必要と考える澤田さんの依頼を受けて、そのための多軸的で編集的な視点を提供することがセイゴオの講演のねらい。集まった約100人の聴衆はフォーラムメンバーの研究者や技術者、企業人に加え、約半数が一般申込み。

 セイゴオはこの講演のために15枚にもおよぶレジュメをほぼ一晩で用意。しかし物質の原点ともいえる「核」と、それをめぐる人間意識を語ることは、セイゴオの編集的世界観の最深に触れることにもなるとあって、本人曰く「行きつ戻りつ、思考の分岐を自分で確かめながら」の、言葉とイメージの機微を追い続けるような語りとなった。

 動物が新奇なものに出会ったときに起こる反応には、「ネオフィリア」(新奇嗜好症)と「ネオフォビア」(新奇恐怖症)の二つがある。人類に当てはめてみた場合、たとえば一神教の世界では「悪」を造形することによって「善」や「聖」の造詣を対比的に強調した。東洋とりわけ日本では浄土と穢土を対比させ、末法到来への恐怖心からさまざまな浄土美術の造形を生み出した。このような「フォビア」に根ざした東西の世界観や方法の違いをどう見るか。

 近代以降の社会は、宗教ではなく科学によって「フォビア」を徹底的に管理し監視しコントロールしてきた。しかし人類から「フォビア」がなくなることはない。「完全」という擬似的な幻想モデルが重視されすぎている今日、かつての宗教に変わる「方法」をどのように見いだしうるのか。

 NPT(核拡散防止条約)体制が陥っている、核兵器廃絶と恒久的核兵器国温存という矛盾。小型の大量殺戮兵器による「自爆テロ」を撲滅するという大国のアジテーションにひそむ欺瞞。個人の生存権と国家というホッブス以来の問題をどう考えるか。

 そもそも生命には核エネルギーに対する「フォビア」があったのかどうか。おそらくはなかったはずである。しかし、そのことに答えるためには、ビッグバンとその後の光と物質の交代劇という宇宙創生モデルと、生命誕生の序章(パンスペルニア説)をつなぐ「シナリオ」が必要である。まだ誰もそのことに着手していない。

 このように、「原子力」と「核」を語るための“前提”となる視点をさまざまに示唆し、最後にセイゴオはそれを「ニュークリア・フォビア」を考えるための「9つのポイント」として整理して提示した。その8番目は「宇宙も生命も“方法”である」ということ、9番目は、そのようにして「方法」を主語にしながら構築する「編集工学的世界観」についてだった。

 珍しく聴衆の前で思索の航跡をあきらかにさせながらの90分間の講演だったが、セイゴオの思考の彷徨とそこから紡ぎだされた言葉に、新鮮な感動を覚えた聴衆たちがいたようだ。終了後の懇親会には30人ほどが押し寄せ、澤田さんによると「こんなに聴衆の目が輝き、懇親会にこんなに多くの人が殺到した講演会は初めて」のことだったらしい。

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2006年12月 6日

Report 『松岡正剛千夜千冊』刊行記念セミナー「読書の極意」

◆書物と知覚のあいだ

 12月1日(金)丸善・丸の内本店で、『松岡正剛千夜千冊』完成記念セミナー「読書の極意」が開催された。3F実用書フロアの奥にある会場は本を手にしたビジネスマンやセイゴオファンで埋め尽くされ、急遽椅子が追加された。
 満員の会場に紺のスーツに薄緑のハイネックで登場したセイゴオ。「千夜千冊」を通してセイゴオが日々実践し、また改めてつかんだ読書の極意を語り始めた。

 本を読むとはいったい何なのか。読書人口は多いがまったくといっていいほどわかっていない。読書という行為のプロセスは未だ不明で、現代の脳科学でも解明できていない。本を読むということは目で見る刺激と意味を解釈する刺激がある。しかしこれは半分で、あとの半分は読書をしながらも違うことを考えている。

 読書は目ではページの順番に連続的に読んでいるのだが、脳のなかでは思考が連続ではない。これを「非線形読書」という。ここに読書の醍醐味があり、不思議がある。では読書という行為は人間の行為としてどういうものであるのか。

 ここで重要になってくるのが読書法の変化である。近代では声を殺した読書、黙読をするが、16世紀までは世界中で書物は音読されていた。長いあいだ人間にとって読書は声の文化としてあった。今でも幼児が絵本を読むときや小学校で初めて読書を習うときは声を出して読む。読書のメカニズムの根本に声があった。つまり読書には声の文化と目の文化があったのだ。このようにプロセスだけを考えると、読書を説明するのは難しい。しかし読書はおもしろい。
ここでセイゴオはもっと読書をおもしろくするために日々実践・編集し続けているユニークな読書術を紹介。

 読書にはレパートリーとカウンターとパレット、3つの領域がある。広大な本の世界には数多くのレパートリーがある。まず最初に心がけることは、レパートリーである書店や図書館で本を選ぶときに、これだと決めた一冊の左右の本を絶対に覚えること。それから本を手に取りまずは1~2分、目次だけをみる。これを「目次読書法」という。ここで自分のカウンターで作業するように、今までの読書体験や自分の経験などをマッピングしながら、自由に本の中身を想像する。そしていよいよ自分のパレットに本の世界を描くように読む。このときセイゴオは“傍線”や“囲み”や“記号”をタグをつけるように本に書き込む。これを「マーキング読書法」という。

 書き込むことによって、本はノートにもなる。マーキングしたページは再読のとき内容が浮かび上がってくる。こうすれば何度でも本の中に入っていける。
さらに読書をおもしろくするためには、読書という行為をしないことだとセイゴオは言う。読書は学びであるが、まず遊びである。そこには喜びがあり、何度でも本に入っていくことによって、その時々の喜びを交歓することができる。

 人間の知覚と書物という知のかたまりの間にはなんでも入る。書物には著者・編集者・版元が知の総動員をかけている。だからこそ読書には自分の総動員をかけたほうがいい。この戦いはいくらでもおもしろくなるが、まだまだそうなっていない人が多い。ブティックでジャケットやセーターを試着するように、もっと自分にあった「本の着心地・脱ぎ心地」を試してみるべきだ。

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「非線形読書」と「3つの領域」を解説するセイゴオ


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2006年12月 1日

News TBS「日本を探しにいこう!」に出演

12月6日のゴールデンタイム放送のTBS特別番組「日本を探しに行こう」にセイゴオが出演します。番組では、関口宏さんと原沙知絵さんが日本らしさとは何かをめぐって日本通の外国人を次々に訪ねます。そして最後に、唯一の日本人ゲストとしてセイゴオが登場し、2人を熊野と伊勢に案内しながらセイゴオ独特の視点で日本の“原郷”を紹介します。

番組名:「日本を探しに行こう!」
司 会:関口宏、原沙知絵
出演者:呉善花、セーラ・マリカミングス(枡一市村酒造場)、ダグラス・ブルックス(伝統古船技師)、ジェフリー・ムーサス(建築家)、松岡正剛ほか
放送時間:12月6日(水)19:00~21:00
放送局:TBS(全国放送)


★「日本を探しに行こう!」ロケレポート★

 セイゴオの出演シーンの収録日は11月22日(火)。撮影は熊野古道からはじまり、那智の滝とゴトビキ岩をまわり、さらにロケバスに乗って伊勢の滝原へ。司会の関口宏さんと原沙知絵さんとともにハードな一日でしたが、じつはセイゴオはその前日までの3日間、建築家の内藤廣さんをゲストに迎えて未詳倶楽部のメンバーと鳥羽・伊勢・松阪をめぐり、最後に滝原を参拝したばかり。つまりセイゴオは11月18日から22日までの4日間、鳥羽→伊勢→松阪→滝原→熊野→滝原と移動し続けていたのです。

 早朝に勝浦の旅館を発ち、補陀洛山寺にほど近い熊野古道で撮影が始まりました。熊野の森の木漏れ日の中で、セイゴオは日本特有の自然条件と文化の関わりを解説。続いて那智の滝での撮影は、予想外に観光客が多く、撮影スタッフはポジション獲りにおおわらわ。セイゴオはそんな混乱は気にもせず、滝の前でおもむろにスケッチブックを開いて関口さんと原さんに「ウツ(空・全)」の世界を図解しながら、滝をご神体とする日本人の心について語りました。

 つづいては新宮の神倉神社へ。神倉のご神体は60メートルの断崖にそそりたつ巨石「ゴトビキ岩」。急勾配の538段の階段を杖をつきながら一気に登り詰めたセイゴオ、たいそう息を切らしながらも表情は明るく、海を背にゴトビキ岩を指差しながら神が降り立つ「依代」や「磐座」について解説。
 ここでようやくひと段落。ゴトビキ岩から下るとすぐにベンチそばの灰皿に直行し、関口さんと並んで喫煙タイム。関口さんもタバコ好きのようでした。

 次はロケバスに乗って約2時間かけて伊勢の滝原宮へ。車中でも日本の話ですっかり盛り上がり、関口さんと原さんは「たくさんの疑問をもってここまできましたが、いろいろすっきりしました」。
 滝原宮は熊野と伊勢を結ぶ旧街道沿いにあり、皇大神宮(内宮)の別宮で「遥宮」とも「元伊勢」とも呼ばれる古社。9月末に刊行した『日本という方法』(NHKブックス)では、セイゴオは「滝原には真水がある」と紹介しています。樹齢数百年の杉木立に囲まれた静かな長い参道を奥へ奥へと進み、途中の石段を降りて宮川の御手洗場で3人揃って手を清めました。

 さらに奥に進み、玉垣瑞垣をめぐらした滝原宮と滝原竝宮の前に立つ3人。ちょうど午後の光が簡素な社殿を照らし、桧皮葺の上の千木鰹木が黄金に輝いていました。撮影はメインカメラのほかに、クレーンも動員。ふだんは訪れる人の少ない滝原宮に、なぜかこの日は参拝客が次々やってきて、スタッフの皆さんは収録中の人ばらいに一苦労だったようです。
 
 番組のラストシーンは、セイゴオのたっての希望で特別許可を得て古殿地の前で撮影。古殿地は、次の遷宮のときに神殿が移される敷地です。この滝原宮も、20年ごとに遷宮が行われているのです。そのような伊勢の仕組みが日本の技を伝承する貴重な役割を果たしていること、また社を「仮設」するという考えが日本特有のものだとセイゴオは語り納めました。

 セイゴオの撮影はそこで終わり、最後にもう一度ひとりで滝原宮と竝宮をゆっくりと参拝し、ようやく鳥羽から始まった4日間にわたる長い旅を終えました。



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午前9時、熊野古道で撮影開始

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那智の滝を前に日本人の信仰について語る

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「ウツ」「ウツツ」「ウツロイ」という日本古代の観念を図示

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ゴトビキ岩を目指して急所難所をひたすら登る

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熊野灘からもはっきり見えるという「ゴトビキ岩」の前で

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社殿にのしかかるゴトビキ岩

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「日本の真水」で手を清めるセイゴオと原さんと関口さん

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御手洗場から滝原宮の社殿にむかう

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滝原宮と竝宮の前で社の結構を解説


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