セイゴオちゃんねる

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2006年11月30日

Diary 新宿椿座第3講・根岸汎大第1講

 11月22日新宿「由庵」で連志連衆會主催の「椿座」第3講が、11月25日には根岸西蔵院で「汎企大学」(ハイパーコーポレート・ユニバーシティ)の第1講が開催されました。ともに「日本の方法」を学ぶためのクローズドなサロンで、オーディオ・ビジュアル資料を駆使した塾長セイゴオの超編集講義が圧巻でした。

■「椿座」第3講―民謡から武満徹まで、「日本の音」に浸る

 大好評だった第2講「日本の音を聴く」の続編をぜひという座頭・福原義春さんとマダム・北山ひとみさんの希望を受けて、さらに30曲を超える音源を準備して第3講に臨んだセイゴオ(当サイトの第2講のレポートもご覧ください)。
 まずは上方の宮薗節・新内節と江戸の河東節を対比させ、独特のウレイやクドキやシオリといった節回しを解説。それらが地方にも広まって生まれた多種多様な民謡のなかから、「津軽山唄」「仙北長持唄」「八木節」を聞かせます。さらに明治になると邦楽はショートカットされ軽快になり、旦那衆や芸者衆が技を競う端唄・小唄が全盛に。

 明治以降は、洋楽の洗礼を受けて新しい日本の音楽を生み出した天才たちを次々に取り上げます。23歳で夭折した瀧廉太郎の絶筆のピアノ曲「憾」を流しながら言葉を詰まらせるかと思えば、中山晋平作曲の「ゴンドラの唄」をお気に入りの森繁久弥で聞かせてついついモノマネも披露、絶好調のセイゴオ。講義のクライマックスは、「千夜千冊」にも取り上げた宮城道雄・早坂文雄・武満徹の3人によって迎えます。武満徹作曲の「死んだ男の残したものは」を小室等さんの歌で聞かせながら、またも繰り出すセイゴオ節。

 最後に、「日本の音を、節を、心を、今も引き継いでくれている人がいます」と紹介して、井上陽水の「夏まつり」で約150分の講義が締められました。
 2回にわたって数々の「日本の音」を堪能した椿座参加者の皆さんは、通史的に邦楽を学ぶことができただけではなく、セイゴオの選曲の妙とナビゲーションの巧みを堪能したようです。

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■ハイパーコーポレート・ユニバーシティ「AIDA」第1講

 ハイパーコーポレート・ユニバーシティ「AIDA」は企業のミドルリーダーに「日本の方法」を伝授することを目的に昨年スタート。第1期は内田繁さんや大倉正之助さんをゲストに迎えて全5回を開催、第2期となる今期も、メンバーを一新して全5回を予定しています。

 第1講の会場は根岸の「西蔵院」。都内には珍しく広い庭園と茶室が見事な室町以来の歴史をもつ密教寺院です。
 最初に本堂に集って般若心経と金剛・胎蔵曼陀羅に触れ、その後は密教や空海の話をかわきりに日本とアジアの「あいだ」、さらに日本・アジア・世界の「あいだ」をめぐって、セイゴオ講義をたっぷり300分。井真成、新渡戸稲造、イサム・ノグチの3人に焦点を絞って、それぞれが抱えた葛藤やそこから発見した「方法」を紹介するとともに、「千夜千冊」のハンチントン『文明の衝突』やダニエル・ベル『資本主義の文化的矛盾』をテキストに、現代の日本が世界との「あいだ」をどう結んでいくのか、鋭角の問題提起を次々に投げかけました。

 映像資料を連打しながら、編集ワークショップを挟みこみながら、根岸の仕出し弁当を囲んで懇談もしながらのセイゴオの熱意と愛情の大盤振舞に、新メンバーもすっかり興奮し通し。
 第2講は、神田明神で、しかもハイパーな特別ゲストを迎えての開催となるそうです。

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2006年11月28日

Report セイゴオ霜月NNレポート

 11月のセイゴオは西へ東へ大忙し。初旬はまず奈良と那須に招かれて、それぞれ趣のちがう対談を行いました。

◆奈良から「ゼネティック・コンピュータ」と「電子図書街」を発信

 11月4日、奈良県立図書情報館の開館一周年記念として、セイゴオとメディアアーティストで京都大学教授の土佐尚子さんが公開対談。テーマは「ゼネティック・コンピュータと電子図書街」。2人が共同開発中のカルチュラルコンピューティングの最先端の話が展開しました。ちなみに、会場の情報館は日本最古の図書館といわれる「芸亭院」の跡地に立っています。

 約2時間のセッションの冒頭で「ゼネティック・コンピュータ」のデモビデオが紹介されました。東洋思想とコンピュータが初めて融合したインタラクティブシステムで、3次元山水画と禅問答によって、ユーザーを未知の物語に誘います。コンピュータグラフィックス分野で世界的な「SIGGRAPH2004」でデモを行い話題になりました。

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セイゴオ:「ゼネティック・コンピュータ」は、ゲーム特有の“勝敗”や“目的”や
“結論”を重視していないから、いい。どこにも“正解”を求めていない。

土佐:このコンセプトとエンジンによって、日本にかぎらず世界各地の途絶えてしまい
そうなローカルな文化を、コンピュータで再現できるかもしれない。


 続いて、200万冊の書物でうめつくされた「電子図書街」を紹介。人が街のかたちを認識して暮らしているように、書物も書棚ごと頭のなかに入ってくるようなものがあれば知の領域をより自在にコントロールできるのではないかというセイゴオの考えから生まれた大構想です。現在も金子郁容さんがリーダーとなって編集工学研究所、北大、慶応大、京大とともに開発プロジェクトが進んでいます。

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セイゴオ:図書街では、図書館の分類とは異なり、書籍同士、本棚同士がリンクされて横のつながりを持っている。一冊一冊の本がもつ多様な文脈がユーザーにどうアフォードしていくのか。街のいたるところで相互編集状態がたちあがることに興味がある。

土佐:コンピュータ上では“本”というものの単位を自在に扱える。本を情報化するこ
とで、それぞれの無意識下にあった本との関係性を他人と交換したりつないだりしてい
ける。


◆那須で、脳科学者・茂木健一郎さんと12時間対談

 11月11日~12日は、つい先日「七石舞台」の御披露目を開催したばかりの那須の「二期倶楽部」で、脳科学者の茂木健一郎さんと12時間におよぶロング対談。コーディネーターは、MCプランニングの薄羽美江さん。晩秋の二期倶楽部の風景のなかで2人の思考が交じり合い、日本という方法と生命論がたくさんの関係線で結ばれました。この対談は、薄羽さんのプロデュースにより文藝春秋からの書籍化が予定されています。

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茂木:ロボット工学にはまだまだ身体論が足りない。結局ぼくたちは生命を捉えきれないでいるんです。
松岡:AI(人工知能)も、グーグルやアマゾンみたいな検索システムも、これからは人間の“身体モデル”をもっと適用すべきなのにね。

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茂木:松岡さんのいう“ウツ”に興味がある。節分ひとつとっても、日本では“鬼”を排除しないで、わざわざ“鬼”を呼び込んでから祓いますよね。この“ウツ”の概念で生命を捉えてみたい。
松岡:それにはテンプレートをどう考えるか。ちなみに、嫌気性生物がのちの好気性生物の真逆の生き物だったように、生命の最初の状態を逆鋳型と捉えることもできる。

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松岡:普遍性は、情報をつまんで貼り付けるカットアップ型か、情報を織り込むホールドイン型の二種類。つまり世の中には編集的現実性しかないということ。
茂木:たしかにコドン(遺伝情報の暗号)の世界も、普遍的な方法をもちながら結果の約半分がミスプリントで成立するわけだから、もともとネット社会は生命体とよく似た体質をもっていることになる。


投稿者 staff : 21:41 | コメント (0)

2006年11月24日

News ニュークリア・フォビアに棲む思考形態

「多価値化の世紀と原子力」フォーラムで講演

 ニュークリア・フォビアとはいわば「核恐怖症」のこと。「核」や「核エネルギー」が「フォビア」としてイメージ付けられ畏怖の対象となっているために、とりわけ日本においては本来必要な多元的議論の土壌が育まれていないという。松岡正剛が、独自の世界観によって、この問題に切り込む異色のソロ講演です。どなたでも聴講可能です。


第23回学術フォーラム「多価値化の世紀と原子力」開催案内
       
◆日時:平成18年12月6日(水曜日)18:30-21:00
◆場所:東工大 大岡山キャンパス 百年記念館3F フェライト会議室
 ※大岡山キャンパスは、東急電鉄大岡山駅(目黒線および大井町線)下車1分。
  建物の場所などは下記URLをご参照ください。
 http://www.titech.ac.jp/access-and-campusmap/j/o-okayama-campus-j.html
◆主催:学術フォーラム「多価値化の世紀と原子力」
◆共催:東工大21世紀COEプログラム「世界の持続的発展を支える革新的原子力」

◆プログラム:

 18:30ー18:40 開会挨拶(澤田哲生)

 18:40-20:00 講演
 講演題目:「ニュークリア・フォビア(Nuclear Phobia)に棲む思考形態」
 講  師: 松岡正剛  編集工学研究所所長

 20:00-21:00 自由討議 

◆参加費:無料(先着90名 定員になり次第締め切らせて頂きます)
◆参加申し込み: 氏名、所属、電話、電子メールアドレスを下記までメールでお送
 りください。
 ※このフォーラムは一般に公開していますので、お立場や年齢に関係なくどなたでもご参加頂けます。

◆参加申し込み先: tetsuo@nr.titech.ac.jp

※お申し込みの際に頂きました個人情報については、本講演会の集計のためのみに使用します。
 またこの件に関するお問い合わせは、下記までお願い致します。

学術フォーラムコーディネータ代表
澤田哲生
東京工業大学 原子炉工学研究所
電話:03-5734-3062


【参考:主催者による講演会案内より】

 1953年に米国のアイゼンハワー大統領が国連でかの有名な"Atoms for Peace"演説を行った。それを契機に核の平和利用の途が拓かれ、原子力発電が重要なエネルギー源として普及していった。いま原子力ルネサンスが謳われ、長い逆風の時代から再び原子力が興隆しようとしている。
 歴史をふり返れば、1947年7月16日、核(nuclear)が人類の前に最初にその実像を顕した。人類初の核エネルギーの解放を実現したトリニティー実験である。実験を目の当たりにしたオッペンハイマー博士は、古代インドの叙事詩バガバッドギーターを引用して「フォビア(Phobia)」つまり得体の知れない畏れを露わにした。
 そして、それから約1ヶ月後人類はオッペンハイマーのフォビア体験を共有することになる。広島・長崎への原爆投下である。
 つまり、核の生い立ちから見れば、人類の脳裏にはフォビアとしてのイメージが強烈に焼き付けられ今日まで払拭されずある。
 その一方で、永井博士のように、自らが長崎で被爆したという悲惨な体験にもかかわらず、核エネルギーの解放は人類の便益に供するはずで、またそうしなければならないと悲痛な心情を吐露したものもいた。
 それから60年が過ぎた。核エネルギーは宇宙の至る所にあり、この地球生命圏にあっても多様な側面を持っている。いまあらためて「核」を単に忌避的に捉えるのではなく、多元的な価値観に基づいて、多様な視点から議論できる土壌が必要なのではないだろうか。
 この点を松岡正剛流の独自の世界観から切り込んで頂き、その解決の糸口を論じて頂く予定である。

投稿者 staff : 17:25

2006年11月15日

Diary 岡野玲子さんの筆使いにためいき

『妖魅変成夜話(ようみへんじょうやわ)・4巻』の解説を執筆

 大ヒット作『陰陽師』が完結し、異色の仙界コメディー『妖魅変成夜話』がまたまた話題となっている漫画家の岡野玲子さんが、『松岡正剛千夜千冊』刊行を祝う真紅のアレンジの花束を抱えてセイゴオを訪ねてきた。
 岡野さんとセイゴオは『ファンシー・ダンス』のころからの友人同士。会うと必ず日本やアジアのアナザーワールドをめぐって会話がはずむ。今回は岡野さんの希望で『妖魅変成夜話』第4巻にセイゴオが解説を書くことにもなっている。
 岡野さんはセイゴオのために『妖魅変成夜話』の原画をたくさん携えてきていた。見開き2ページにわたって展開する面相筆と青墨の微細華麗なタッチにためいきをつきながら見入るセイゴオ。『陰陽師』後、大きく変化した岡野さんの作風は今またさらに変わりつつあるそうだ。



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セイゴオ「岡野さんの漫画は日本画だよ。絵巻みたいだ。」
岡野さん「コマ割は見開きでしか考えられなくなりました」


◆『妖魅変成夜話』は平凡社PR誌『月刊百科』で連載中。
 セイゴオが解説を書く単行本第4巻は2007年2月2日発行予定。

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2006年11月 8日

News 丸善で『松岡正剛千夜千冊』記念セミナー開催

セイゴオ読書術教えます!

11月3日(金)の「ニュース23・深夜特急便」でも紹介され、ますます『松岡正剛千夜千冊』(求龍堂・全8巻)の反響が広まっているなか、丸善丸の内本店でセイゴオによる全集出版記念セミナーが開催されることになりました。

テーマはずばり、「読書の極意」。「読書は編集である」をモットーとするセイゴオが、長年にわたって生み出し、また「千夜千冊」に取り組む日々でも実践していた読書メソッドの数々を特別公開・伝授します。

『松岡正剛千夜千冊』(求龍堂)刊行記念セミナー
「読書の極意」

日 時 :12月1日(金)午後7時~
場 所 :丸善・丸の内本店 3階 日経セミナールーム
定 員 :100名様
入場料 :1,000円(税込)講演会当日会場にてお支払い
申込方法:(1)丸善・丸の内本店3Fインフォメーションにて、ご予約を承ります。
       (2)電話予約 丸善丸の内本店 和書グループ 
          03-5288-8881(営業時間 9:00~21:00)
       ※定員になり次第受付終了
       ※入場は当日先着順

投稿者 staff : 23:13 | コメント (0)

2006年11月 7日

Report 「イサムの和・ノグチの洋」

 セイゴオがイサム・ノグチに引き寄せられて四国を訪れたのはかれこれ十回以上に及ぶ。前回は10月14日に御披露目した「七石舞台」の石を選びに,晩年イサム・ノグチが住み着いた牟礼をおとずれ、弟子の和泉正敏さんの案内を受けた。3年ぶりとなる今回は、高松市美術館で開催中の「イサム・ノグチ展」の記念講演会に招かれての来訪。和泉さんや高松市美術館学芸員の毛利直子さんはじめ,四国・関西の編集学校メンバーの手厚い歓迎が待っていた。

 講演開始は午後2時。会場にはイサム・ノグチを最近知ったという学生から長年のファンまで、約200人以上が詰めかけた。高松市美術館の講演会としては、過去最高の入場者数となり、急遽補助席が準備された。田村館長の紹介を受け「イサムの和・ノグチの洋」の大きなタイトルバナーを背にして、ノーネクタイの白シャツと黒いスーツ姿のセイゴオが壇上に立った。

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◆二極の間を生きたイサム・ノグチの運命

 はじめて牟礼に行きイサム・ノグチのアトリエで放心したときのこと、もともとコンスタンティン・ブランクーシが好きでその流れでイサム・ノグチを知ったことなど、セイゴオがイサム・ノグチに魅かれていったエピソードをゆっくりと話はじめた。
 本題に入ると場面転換するかのようにドキュメンタリー映像をさしはさみ、スピードをあげて一気にイサム・ノグチの人物像に迫っていく。

 父は日本人の詩人・英文学者の野口米次郎、母はアメリカ人作家・教師のレオニー・ギルモア。1904年ロサンゼルスに生まれ、2年後日本に渡る。
 イサム・ノグチが生涯抱えたもの、それは東西の血をもつ二重国籍という宿命。和と洋の間に身を置き、天と地を軸にして極大と極小を抱えもったイサム・ノグチが、これほどまでに素晴らしい作品を残せたのはどうしてなのか。

◆清沢満之と西田幾多郎とイサム・ノグチの共通点

 いま日本では、プリント浴衣が流行り、民芸調のアクセサリーが好まれ、雑誌でもテレビでも「茶道」や「華道」が日本の文化としてとりあげられ、さまざまなところで「和」のブームがおこっている。しかし、はたして日本はこれでいいのだろうか。
 日本人はいまこそイサム・ノグチの精神をあらためて知る必要がある。ただ、イサム・ノグチのような境遇は珍しい。誰もが体験できることではない。継承したくてもできないことがある。では、私たちはイサム・ノグチから何を感じとるべきなのでしょうか。

 イサム・ノグチの精神については、私は明治の宗教哲学者・清沢満之や哲学者・西田幾多郎といっしょに語りたい。日本という国は、陽と陰、大と小、善と悪、天と地、正義と犯罪、合理と非合理といった相反する概念が混在している国である。その両者は入れ替わり、ときに部分が全体を凌駕する。
 清沢満之は「二項同体」というユニークな考えかたを提唱し、矛盾を矛盾のままいかす思想を唱えた。「二項対立」を前提とするヨーロッパ哲学の洗礼をうけた清沢は、あえてその「二項対立」に立ち向かうことで日本を発見した。
 西田幾多郎が提唱した「絶対矛盾の自己同一」も同じことを言っている。自己と他者も、主観と客観も、精神と物質も、ヨーロッパ的な対立的・対比的な関係にしないということ。まさに、これがイサム・ノグチなのである。イサム・ノグチは「絶対矛盾」を本気で表現した人物だった。


◆日本の庭園がイサム・ノグチに衝撃をあたえた

 コンスタンティン・ブランクーシ、アルベルト・ジャコメッティ、そしてイサム・ノグチ。この3人こそ20世紀を代表する彫刻家だと思う。なかでもイサム・ノグチがイメージする“彫刻”は、当時の人々が思い描く“彫刻”よりもはるかにスケールが大きかった。
 彼はヨーロッパの彫刻を見つくしたうえで「石」と「彫刻」と「自分」の矛盾を解決するものが日本にある、日本の「庭園」にこそ自分が求めていた世界があると気がついた。こうして1969年にイサム・ノグチ(65歳)は香川県の牟礼にアトリエを構えた。
 日本の庭には“神庭”と“斎庭”と“市庭”という3つの種類があるが、どの庭についても膨大に見てまわり、「日本の庭園は彫刻そのものだ」と言った。そして「地球を彫りこむ」という有名なメッセージを残した。

 イサム・ノグチは日本庭園の何に彫刻を見たのか。平安時代の造園書『作庭記』にこんな一説がある。「石の乞はんにしたがひて立つべき也」。
 日本の庭園では石ひとつの置き所を決めるのにも石に耳をそばだてなくてはいけない。ここにイサム・ノグチが思い描く彫刻と通じる精神があったのだろう。また、石、砂、樹木などで山水を表現した日本独特の庭園様式「枯山水」は、水を感じさせるためにあえて水を使わない、いちばん欲しいものを引き算するという斬新なものだ。これこそ、「日本の方法」であり、これこそイサム・ノグチが見た日本だった。


◆二つのものの関係が「意味」を決める

 イサム・ノグチの作品のなかには『見えるものと見えないもの』や『マイナスイコールプラス』のように、相反する両極端のものを両軸にとった作品がある。日本の言語にも、陰イメージと陽イメージをいっしょにしてつくったものが少なくない。
 たとえば「加減」という言葉は、「加えることと減らすこと」ではなくて「ほどよいところで止めること」を表す。その場に依存した関係が「加減」という言葉の指し示すものを決めている。同じような言葉に「去来」や「結構」がある。そこには意味の「出入り」がある。
 じつは、人を飽きさせない普遍的なアートの秘訣は「出入り」ができるかどうかにかかるところが大きい。それは、和洋、大小、天地など、二軸の間をどう動くかということだ。


◆和の本質は「不足」にある

 日本人は「満足」ではなく「ちょっと足りない」ところに美をみつけてきた。日本には「粗相」や「粗品」といって、自らをへりくだる言葉がある。ここで注目すべきところは、へりくだっていることではなく、足りないことは承知のうえで今の状況ではこれが精一杯であるという「侘び」の心なのである。それを「持ち合わせの美」や「事足りぬ美」という。満足しきれていないところに美を見出すのだ。この「不安定」つまり「インスタビリティ」こそが、イサム・ノグチの永遠性を支えた。
 彼は作品「ウォーターストーン(蹲)」が完成したとき、不均一に水が溢れ出すことを指摘した記者に対して、「完璧なものは面白みに欠ける」と言い放った。こんなアーティスト今はいない。

 「不足」や「不安定」に関する日本の美意識は、イサム・ノグチ以前に岡倉天心も気づいていた。天心は「あえて仕上げずして、想像力によって完成させる。これが日本である」と言った。
 もっと遡れば『徒然草』でもすでに「不足」や「不安定」の美についての記述がある。たとえば「全集は揃っていないのがいい」「製本はほつれているのがいい」「葵祭りは終わってからがいい」「大文字は火が消えてからがいい」など。
 イサム・ノグチはこのような小さな美の世界を小さいままの表現で終わらせなかった。彼は、小さな世界をダイナミックな世界に仕立てた奇跡のようなアーティストだった。手の平に乗せられるくらいの小さなもの(構想)から宇宙にひろがる大きなもの(構想)まで、「二項同体」を実現した人だった。


◆「私はここにいます」

 最後は、牟礼のイサム家の縁側で「私はここにいます」と語るイサム・ノグチの映像が流された。
 いまこそわたしたちはイサム・ノグチが抱えた矛盾を格別なものとして捉えなおすべきである、と再び強く語るセイゴオ。わたしたちは、あまりにも彼を知らなすぎる。だからといって「イサム・ノグチ」を主語にして語ろうとしなくていい。わたしたちが抱える問題の解決の糸口をイサム・ノグチに見つけようと試みることが、彼を知ることになる。
 一生涯矛盾を抱えながらも「私はここにいます」と堂々と言えるイサム・ノグチこそ、今日みなさんにお伝えしたいイサム・ノグチでしたと締めくくり、1時間半のセイゴオトークは終了した。

 次の日、セイゴオは牟礼の和泉正敏さんの工房をおとずれた。和泉さんが守りつづけるイサム・ノグチ庭園美術館と武家屋敷を移築してつくられたイサム家をひさびさに堪能した。その佇まい、そのしつらい、その間合いは、何度浸ってもセイゴオの胸を揺さぶるようだ。イサム・ノグチが抱えた矛盾と、それを乗り越える構想が押し寄せてくるのだろう。秋晴れの空のもとセイゴオはイサム・ノグチが眠る丘に行き、石のモニュメントにしずかに手を合わせていた。

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高松市美術館学芸員の毛利さんの案内をうける

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和泉正敏さんがセイゴオをとっておきの作業場に案内


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