セイゴオちゃんねる

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2006年4月26日

News セイゴオ、那須の石舞台を踏む

内藤廣さんらと現地確認

 4月21日(金)早朝、セイゴオは、建築家の内藤廣さん、照明家の藤本晴美さんとともに石舞台建設中の那須・二期倶楽部へ向かった。(参照:セイゴオちゃんねる3月23日「前代未聞の石舞台が出現」

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那須「石舞台」(仮称)  撮影:戸澤裕司

 前日に雪が降ったという那須の気温は5度。予想以上の寒さに凍えながら、養生シールがはがされる瞬間を待ち、一行は初めて石舞台の鏡面スチールの輝きを目の当たりにした。たちまちセイゴオも靴をぬぎ裸足で舞台に上がった。鏡面に映りこんだ青い空と太陽のなかに舞台上のセイゴオの姿が重なる。正座をしたり、颯爽と歩いたり、しゃがんだり、見上げたり、片足をあげたり、摺足をしたりして舞台の感触をたしかめて、「これは、すごい。すごいよ。」と叫んだ。息を呑んでセイゴオの反応を見守っていた内藤さんも北山さんも藤本さんも、工事を担当した皆さんもホッと笑みをかわした。その後は、藤本さんを中心に照明テスト作業などが夜まで続いた。

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バスので移動中も打合せ。
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セイゴオのイメージは内藤さんによってその場で図面におこされる。
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おそるおそる、舞台を踏んでみるセイゴオ。
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内藤廣さん、藤本晴美さん、牧浦徳昭さん
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セイゴオ「この舞台、意外と大きいね!」

投稿者 staff : 22:47

2006年4月20日

Key Word スカートを穿いたMとM

 「千夜千冊全集」出版に向けてセイゴオの猛作業が続く一方で、「千夜千冊索引年表巻」の編集が求龍堂と松岡事務所によって着々と進められている。あるとき、両社の担当スタッフが額を寄せて索引語の選定会議をしながら、こんなことを交わした。
 「松岡正剛の世界観を浮き彫りにする索引語として、“スカート”は欠かせませんね」。

 これは冗談ではなくおおまじめな意見である。実際にWEB「千夜千冊」を「スカート」で検索してみるとわかる。ずらりとこんな記述が出てくるはずだ。

○グラスが仕掛けたのは「匂い」と「スカートの中」という感覚装置である。(第153夜『ブリキの太鼓』)
○女神の足元の衣の奥を覗くなんて大それたことだとおもったが、いそいそとアルマ・マター のスカートの中を覗いてみると、そこになんとフクロウがいた。(第294夜『二重らせんの私』)
○彼女のスカートの中にはつねに一寸法師や傀儡たちが入りこんで、議会で演説をする ロベルトの上半身の理性は・・・(第395夜『ロベルトは今夜』)

 仙人顔のセイゴオとて生身の男児、翻るスカートに目を奪われ、そこから零れる脚さばきに胸ときめかせ、スカートの中にもぐりこみたい春宵をもてあますことだってあるだろう。しかし次のような一節を読むと、ことの重病さが気になろうというもの。

東京日本橋の小学校に入って、音楽の先生がぼくをスカートの中に入れた。何が何だかわからなかったものの、この記憶は強く残っている。(第444夜『ピアノの誕生』)

 上野千鶴子に『スカートの下の劇場』という著書があるが(これについても第875夜で念入りに触れている)、セイゴオのヰタ・セクスアリスはまさに「スカートの中の劇場」から始まっていたのである。
 しかしこの幼年スカート体験は、松岡正剛の嗜好を解くヒントにはなったとしても、そのままでは世界観を解く鍵にはならない。それを開けるには次のスカートもめくってみる必要がありそうだ。
 
 WEB「千夜千冊」第714夜のロラン・バルト『テクストの快楽』には、バルトの幼年時代の写真が一枚掲載されている。内股ではにかみながら立っているバルトは、なんとスカートを穿いているのだ。

この写真をぼくが知ったのはバルトが交通事故で死んでからのこと、ルイ=ジャン・カルヴェの厚い『ロラン・バルト伝』が出てからのことだった。その本はバルトのゲイ感覚についてほとんど言及していないままだった。だから、ぼくはスカートを穿いた幼年バルトがかえって忘れられなくなったのだ。
 

スカートを穿いたバルトがいたならば、スカートを穿いたセイゴオがいるはずだ。第714夜に綴られているのは一貫してバルト=セイゴオ同定式という密約のこと。この同定式は、心理や精神やトラウマの分析などは寄せ付けない。性についての自己編集も他者編集も撥ね付ける。バルトのスカートはテクストという快楽の秘密であり、セイゴオはそれを編集というジェンダーの秘密にした。二人にとってスカートは、それが何を表すのかを定義されることを断固として拒む、世界編集劇場のヒダのヒダなのだ。

 もう一人、スカートを穿いたセイゴオの同定式の相方がいる。第890夜の森村泰昌である。WEB「千夜」では本文の前に、マリリン・モンローとなってスカートを翻す森村氏の写真が掲載されている。

森村もM、三島もM、マリリン・モンローはMMで、いったいどのMがMMで、どのMが何のMかがややこしくなりすぎているところがあって、そこがまた実は一番の味わい深いところなのである。 つまり問題はMなのである。M的であるとはどういうことかということなのだ。問題のすべてがMであることは、もう一人のMであるぼくにはとくによくわかる。

 このあとセイゴオは森村氏と大阪で落ち合ってなにやらの「仕掛け」について交し合ったという話を綴っているが、じつはこれは数日後に熱海で開催された未詳倶楽部「金色変成観光」の段取り打ち合わせだった。いよいよその当日、何も知らずに温泉旅館に集まった40人の会員たちは、「春の祭典」「受胎告知」「彦根屏風」といった東西の名画になりきる大コスプレ大会に巻き込まれたのである。しかもその模範演技として、Mが寛一・Mがお宮となって、あやしさ満点の金色夜叉が披露された。その甲斐あってか、会員たちも旅館からあらゆる小道具を借り出して、女装男装入り乱れての見事な変成名画を完成させた。
 充実した審査会を終えて、MはMのために一篇の自筆の文章を朗読した。それが「千夜千冊」第714夜のロラン・バルトだったのである。Mはそれに答えて、このようなことを会員たちに告げた。「セイゴオさんの切実こそを皆さんは共有すべきです」。

 スカートを穿いた「M」=「M」。その切実。そういえばMは、めいっぱいスカートを広げて空中に浮かぶ文字にも見えるではないか。

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投稿者 staff : 15:45

Publishing セイゴオの耽美感覚

『夜想』復刊第3刊の「耽美」特集に、松岡正剛「耽美の蠱惑」が掲載された。聞き手は、編集長の今野裕一氏。ファンタジーやイリュージョンでかたづかないものが「耽美」と語るセイゴオ。三島由紀夫、室生犀星、泉鏡花から、萩尾望都、澁澤龍彦、十文字美信まで千夜千冊で取り上げた本のなかから100冊以上の本を織り交ぜて「耽美」を立ち上がらせている。

『夜想』データ
○ステュディオ・パラボリカ発刊
○172ページ 
○発売/2006年4月23日
○定価/1500円(+税)

松岡正剛「耽美の蠱惑」(小見出し一部紹介)
◆数式の中に、菫の花を
◆キンカンの耽美学
◆端から耽美
◆墨を接ぐ息

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「夜想」 耽美特集

投稿者 staff : 00:53

2006年4月17日

Diary 日本の方法とグローバリズムの間

ハイパーコーポレート・ユニバーシティ「AIDA」のエピローグ

 4月15日(土)、ハイパーコーポレート・ユニバーシティの第5回講義が、上野の不忍池近くの小講堂で開催された。昨年の12月、やはり不忍池に近い森鴎外ゆかりの日本間からスタートを切った本講座の最終回である。これまで体験してきた内田繁さんなどの特別ゲストによる講義やワークショップを振り返りながら、いよいよ企業と市場と国家の「間」を、松岡正剛の講義とメンバーのディスカッションによって詰めていく。

 「日本の問題を考えるためには、正と負の両極を思考すること。あえて自分にそれを課していくこと。」そのように語る松岡は、その両極を思考するためのたくさんの質問をメンバーに投げかけていった。

 企業は市場に内属しているのか。
 企業は国家に内属しているのか。
 「民主主義が世界を平和にする」は正しいと思うか。
 日本には軍事的思考は必要か。企業は軍事とかかわると思うか。
 日本の「失われた10年」とは何か。いったい何を失ったのか。
 日本の資本主義は世界とは違うのか。どのような特徴があるのか。
 日本は海洋国家なのか。なぜ日本はシーレーンに甘い国になってしまったのか。
 日本の「本来」とは何か。日本の「本来」とグローバリズムはつながりうるのか。

 ハイパーコーポレートの受講生は、平均年齢40歳。いずれも企業の第一線で活躍中のビジネスマンたちである。もともと日本の近現代史に関心をもつメンバーが多いこともあり、松岡がつきつけた難問にも怯むことなく、それぞれの立脚点を示しながら意見をかわしていた。

 「皆さんの世代は大いにグローバリズムで勝負をしてほしい。しかし同時に日本の「本来」によっても勝負ができるということを示してほしい。そのためには“わかりにくさ”を排除しないこと。そこに日本が世界に持ち出しうる“方法”があるはずだ。」

 松岡からの期待のこもったメッセージによって締めくくられた。講義のあとは全員で根津に移動し名残の懇親会。幕末明治の面影を残す老舗料理屋の座敷で車座になり、全5回の講座の感想をかわしあった。

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「グローバルな言葉づかいだけじゃ、日本は語れないよ」

投稿者 staff : 15:31

2006年4月14日

Diary ISIS編集学校「離」、折り返し地点へ

SM校長のお楽しみ

 詳しいことは報告できませんが、2月26日に開講したISIS編集学校「離」の講座「校長直伝プログラム・世界読書奥義伝」第二季が、そろそろプログラムの半分を終え、折り返し地点に達しています。離学衆(そう、呼びます)たちは、連日数回にわたって配信されるセイゴオ・オリジナル・テキスト「文巻」を読み込み、そこに指示されるさまざまな編集稽古や編集課題に果敢に立ち向かっているのです。その数、30人。

 で、ちょっとだけ洩らしますが、今週は、東洋思想をめぐって、「蓮條院」(相京範昭別当師範代)と「風鏡院」(倉田慎一別当師範代)それぞれ3チームに分かれてのレポート作成をしました。インド哲学や大乗仏教の滔滔たる流れに始まり、その関係と意味をめぐってイメージを交わすのです。それを分担執筆して最後に一本の菩提樹にまとめあげます。その間、かわされたメール数はなんと500通。しかもその半分が十数時間に集中するのです。いったい何がおこっているんでしょうね。それは秘密です。

 こうして提出された6本の菩提樹は、いずれもSM校長ことセイゴオを驚かせるほどの知脈をもったものとなりました。「文巻」にひそませた方法の旅に絶対の自信をもつセイゴオも、「わずか数日でここまでの内容を相互編集できる集団が世界のどこにあるだろうか」と離学衆の知闘に賞賛しきりでした。

 これから「離」は後半戦にさしかかります。つねに意外なプログラムが待ちかまえる「離」ですが、いちばんその交歓を楽しみにしているのがSM校長です。実は5月14日には校長・別当・離学衆の全員が初めて顔をあわせることになっているのです。これ、「表沙汰」っていう1日なんです。では、このへんで。


   
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離学衆の提出課題をチェックするSM校長

投稿者 staff : 20:59

2006年4月12日

Key Word ウチのセイゴオ、ソトの正剛

 松岡事務所には合計3台の電話がある。うち1台はセイゴオ専用となっているが、外線の呼び出し音を切ってあるため、セイゴオ宛ての外線電話は必ず松岡事務所が取り次ぐことになっている。
 たいていは「松岡さん、いらっしゃいますか」といった会話から始まるが、これが「松岡先生」となると原稿催促か講演依頼、「校長先生」となると編集学校の関係者、「センセセンセ」と連呼するのは帝塚山ゼミ生である。「松岡正剛さん」とフルネームで呼ぶのは武道家で、「セイゴオさん」だと森村泰昌さんか山口小夜子さん、「松岡君、いる?」なら杉浦康平さん。「まっつぁん、おるか?」が修徳小学校時代の幼なじみ、「“まっち”は来てる?」なら工作舎草創期の友人。注意すべきは「社長」でこれはたいてい金融か不動産セールス、もってのほかの「松岡マサタケ社長」というのもある。

 セイゴオ専用電話は外線の呼び出し音は鳴らないが、内線の音は鳴る。松岡事務所のみならず、赤坂ZEREビルの中にある30台の電話機のどこからでもセイゴオに内線電話をかけることができるようになっている。しかしスタッフからセイゴオに内線をかけることはほとんどなく、ましてやいきなり書斎「WEAR」に入室するスタッフもいない。
 セイゴオに用件のあるスタッフはまず、書斎の隣のルーム「NEAR」にいる和泉佳奈子に内線をかけ、その日のセイゴオの予定や執筆状況や体調や機嫌を聞き出す。その上で「間合い」をはかり、呼吸を整え、カニ歩きをしながら書斎に滑りこむ(書斎にはドアがなく、暖簾を分けて入っていく)。そういう社則があるわけではないし、セイゴオが望むのでそうしているのでもない。

 赤坂ZEREのスタッフは、書斎のセイゴオの思索を中断することを何よりも恐れている。いや、中断ならまだしも、そこに持ち込む相談や思惑や想念が、セイゴオの思索の網にひっかかってしまったら最後「千夜千冊」や執筆中の文章の緻密な文脈や周到なスタイルにまで影響を及ぼすこともある。書斎の松岡正剛は「内」と「外」、「個人」と「組織」、「歴史」と「現在」、「HERE」と「THERE」、「汝」と「我」を瞬時に引き換え差し違えてしまう異形の不空羂索観音なのである。その広大無辺な慈悲深さこそを、スタッフたちはもっとも恐れている。

 われわれは、自身を「我」と呼びながら、歴史や組織を「それ」とよぶ。それらの両方を「共に在る」とよぶ力をもってはいない。なぜなら、個にとって類の歴史は外部であり、我にとって組織はいつでも外部化できるからである。が、この錯覚を除去しようとしたとき、初めてわれわれはこの両者のあいだの「感情」をもつことができるのだ。
 この感情がつくるもの、それは「汝の境界線」を生ける中心として、そこに向かう者たちのズレを頼みに「あいだ」をつくり、その「あいだ」にそれぞれが生ける相互関係を立たせていくということである。これが感情が生み出す「真の共同体」(Gemeinde)というものではなかろうか。そうでない共同体が理想だというのなら、その例を持ち出してもらいたい。(第五八八夜『我と汝』)

 この組織観は、工作舎のころからあまり変わっていないようだ。工作舎において「遊軍」や「遊塾生」たちがそうだったように、いまはISIS編集学校の師範・師範代・学衆が、生ける相互関係としてセイゴオと哀楽を共にしている。

 おそらく本来のセイゴオは書斎派ではない。仕事場は広間や次の間や縁側のほうがふさわしく、そこにスタッフのみならず、塾生や学衆の自在な出入りがあってもいいと思っているはずだ。実際に工作舎で受付を陣取って、すべての外線電話と来客に対応しながら、執筆や企画を編み続けていたという。青葉台に住居兼事務所を構えたときは、30畳ほどの広間の一画を書斎にし、接客と執務をかわるがわるにこなし、あるいはそこでいかなるミーティングや交渉ごとが行われようと、かまわずにワープロを打ち続けていた。
 
 そんなセイゴオのことも、セイゴオのいる場所のことも、松岡事務所のことも、スタッフたちは「M」と呼びならわしてきた。社内でかわされるメモや書類に書かれた「M」がどの「M」を指しているのかは、松岡正剛という文脈のなかにいる限り取り違えることはない。
 

   
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書斎前に置かれた「関守石」は入室不可のしるし

投稿者 staff : 17:47

2006年4月10日

Diary  セイゴオの著作が「入試問題」に

立命館大学、筑波附属高校で出題

 新年度を迎えたこの時期になると、セイゴオのもとには毎年数箇所から「今年の入試問題に著作の一部を使わせてもらいました」という「著作物掲載許可願・承諾書」がおくられてくる。今年も2件あった。
 一つは、立命館大学の国語問題。『岩波講座・現代社会学・第5巻『知の社会学/言語の社会学』(岩波書店)の「声のコミュニケーション・文字のコミュニケーション」(p.125~)の一部が引用され、10題もの設問に答えるというもの。もう一つは、筑波大学附属駒場高校の国語問題。『日本流』第6章「日本と遊ぶ」の「7. 間に合わせ」(p.244~)から「詫び」の話が抜粋され、5題の設問が出されている。
 著者本人が試してみたところ、穴埋め問題はスラスラわかるが、なぜか3択・5択問題が難しいとか。解釈力が問われる問題ほど、選択肢のなかに“正解”が見当たらないような気がするらしい。

投稿者 staff : 20:23

2006年4月 7日

Diary 宇治山哲平展でソロ講演「アイコンとアート」

セイゴオが会ってみたかったこの人

 ○△□だけで独自の抽象表現を追及した大分県日田市の画家・宇治山哲平(1910-1986)。世の中の評価は確立していないが、実際は超目利きが認めていた画家である。図録に宇治山哲平論を依頼された縁で、最終日直前の4月6日(木)にセイゴオがソロ講演を行った。

 開演前に2時間かけて宇治山作品とむかいあったセイゴオは、講演の冒頭で「宇治山さんの作品はいくら見ても言葉が浮かばない。感じたことを言葉にするのが難しい。でも、好きな人、好きな月、好きな空こそ、ほんとうは語らなくてはいけない。」
と語った。

 宇治山の作品には、「暗合」があり「符牒」がある。「符牒」とはアイコンでありイコン、つまり偶像。アイコンは、oneとanotherの関係でできている。一つのものは、また別のものと共鳴しあって存在している。だから、何を表現するかによってすべての組み合わせが変わる。いったい、その関係性を決めているものは何なのか。
 宇治山には、好きなものがいっぱいあった。それぞれに深く傾倒していた。藤原隆信による似絵「源頼朝像」、雪が降りしきるなかで面壁する達磨に慧可が入門を請うて自らの片腕を切断して差し出している雪舟の「慧可断臂図」。俵屋宗達の金碧画の屏風「蔦の細道」や養源院杉戸絵の「白象図」。宇治山が「溜飲がさがる思いがした」「男子の本懐という気迫を抱かせてくれる」と言った富岡鉄斎「富士」。そして日田の自然、暮らしを愛していた。

 宇治山は、これらのものから多大な影響を受けているはずである。ただし、その影響は宇治山作品にそのまま現れてはいない。そこにあるのは「面影」である。宇治山は何も言葉で残していないが、きっとそこには雪舟も宗達も鉄斎も、日田の自然も潜ませてあるのだろう。宇治山のキャンバスは、宇治山が好きなものを入れ込めるリセクタブルな器だったのではないか。作品「王朝」、作品「凛」、作品「華厳」という「器」。

 このように宇治山哲平の目と作品を紹介した上で、そのあとは、具象と抽象、アニメーションとエマネーション、タブローと枠、ユングの箱庭療法、ナム・ジュン・パイクとヴィル・ヴィオラとジャック・アタリ、ケプラーの軌道、曼荼羅と密教、華厳世界、ホワイトヘッドの「抱握」、アインシュタインと哲学、エントロピーと情報、生体膜の物質の出入りへとめくるめく話が展開。それは、セイゴオ自身がアートを見るときの方法論なのであると同時に、そのすべてが宇治山哲平その人に向けられていた。

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ホワイトボードのあちこちに描かれたセイゴオスケッチ


投稿者 staff : 23:52

2006年4月 6日

Publishing 漫画家・安彦良和さんと初対談

『虹色トロツキー』の縁で実現

『機動戦士ガンダム』の原作者として知られる漫画家・作画監督の安彦良和さんの原画約300点をあつめた原画展が4月から出雲で開催されている。カタログには18ページにおよぶセイゴオと安彦さんの対談が掲載されている。
 安彦さんの代表作は、『アリオン』『クルドの星』『神武』『ナムジ』『イエス』『ジャンヌ』『我が名はネロ』『ネオデビルマン』などだが、なかでもセイゴオが愛読しているのが『虹色のトロツキー』。千夜千冊第430夜やデジタオブックレット『本の読み方4』などでもとりあげるなど、たびたび紹介している。
 今回の対談は、その「千夜千冊」に感激した安彦さんからのたっての希望で実現した。マンガやアニメーションの可能性から安彦さんの創作活動の魅力などが4時間にわたって交わされた。

 「安彦良和原画展」は、出雲を皮切りに八王子、新潟へ巡回することが決まっている。

   2006年4月1日~5月28日 出雲市立平田本陣記念館
   2006年7月28日~9月18日 八王子市夢美術館
   2006年11月3日~11月30日 新潟市新津美術館

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『安彦良和原画集』

投稿者 staff : 01:58

2006年4月 5日

Report 南方熊楠の面影を語る

日本の民俗学と熊楠の森に分け入って 

 4月1日、ワタリウム美術館主催「熊楠の森を知る」シリーズのプレミアム講演会で、セイゴオが「民俗という想像力」というテーマで2時間のソロトーク。もともと50人ほどを対象に美術館のホールで開催予定だったが、申込者が殺到し急遽会場変更が行われる異例の講演会となった。しかも新会場となった「日本青年会館」を訪れると、「講演会場は会議室からホールに変わりました」という二度目の変更告知の張り紙が。

 そのホールに、開演40分前から熱心な熊楠ファンとセイゴオファンが詰めかけた。あっという間に用意された150席が埋まり補助椅子まで並べられた会場に、珍しく明るいオレンジ色のシャツを着たセイゴオが登場(熊楠ファンにはピンときたかもしれないが、じつは熊楠ゆかりの“安藤蜜柑”にちなんで選んだシャツだった)。

 会場の半分を熊楠ファンのツワモノが占めていることを見てとったセイゴオは、「いったい人類とは何か、日本人とは何か、われわれは日本人としての記憶をたどることができるのか、どうしたら日本人であることを思い出せるのか」と、スコープの広い導入から話を切り出した。
 日本人が日本人の起源を問題にしはじめたのは、明治時代になってからのこと。しかも明治日本は列強に伍するために、アジア諸国を包含する「多民族国家」として日本を位置づけようとしていた(のちに五族協和、大東亜共栄圏などにつながった考え方)。このことに真っ向から立ち向かったのが、南方熊楠(1867~1941)、柳田國男(1875~1962)、そして折口信夫(1887~1953)の3人の民俗学者だった。彼らはまだ「民俗学」という言葉さえ定着していな時代に、日本の記憶を取り出す方法をそれぞれに発見していくのである。

 セイゴオは日本の民俗学の黎明期のなかで熊楠を位置づけた上で、この日のために用意した映像を使いながら、熊楠の人物像に分けいっていく。
 20代でアメリカに出奔しさらに英国へ遊学をした熊楠は、イギリスで出版されたばかりのフレイザーの『金枝篇』を読み、西洋的な民俗学の方法に目覚め、やがて日本のための民俗学を志して1900年に帰国。和歌山県の田辺を本拠地に熊野の原生林に入り、森のなかで培われている生命連鎖宇宙に着目。そこから、「南方マンダラ」と呼ばれる独自の世界モデルを構想していく。
 ところがここで大事件が起こる。明治政府が神社合祀という政策を打ち出し、当時和歌山県だけでも3713社あった神社が800社にまで激減、各地の鎮守の森が破壊されていった。熊楠は「森」を守るために神社合祀反対運動に奔走。今でいう「エコロジー」の先駆けともなる活動だった。熊楠にとって、森こそが世界であり、熊野こそ全世界だった。まさに熊楠は熊野にいながらにして「世界民俗学」を体現していたのである。

 このような熊楠に対し、柳田国男は日本に固有の「一国民俗学」をめざした。セイゴオは、柳田についても資料映像を見せながら、柳田の方法と熊楠の方法の違いをあぶりだしていく。
 農商務省官僚だった柳田は農村調査にたずさわりながら、日本人はどうして米をつくるようになったのか、注連縄の形にはどんな意味があるのか、鹿踊りの太鼓のリズムはどこからきているのか、またその衣裳は何を継承しているのか、といった日本人のルーツに関心を深めていった。そして、定住して農事とともに祭事をいとなむ「常民」の民俗学を確立していく。
 そんな柳田に「民俗学」の方法を指南したのは熊楠だった。熊楠は一日に三通以上にもおよんだ往復書簡のなかで、『金枝篇』や西洋の民俗学の体系を柳田に惜しげもなく教授している。ところが「世界民俗学」を唱える熊楠と「一国民俗学」に迫る柳田の間に論争が起こり、ついにその濃密な関係性に亀裂が入ってしまった。

 二人に次いで、民俗学に新たな方法をもたらしたのが柳田の弟子である折口信夫だった。ちなみに、千夜千冊第143夜にも書かれているように、折口の『死者の書』はセイゴオにとっての「珠玉の一冊」であって、セイゴオが20代から着手した日本文化研究も、折口が入り口だった。熊楠は「生命」に民俗のルーツをもとめ、柳田は「先祖」に民俗が継承してきた意伝子を探ったが、折口は「神話」や「和歌」を入り口にして目には見えない日本人の深層にある意識の解明を志した。そして「常民」ではなく「遊民」に着目し、「マレビト」というコンセプトを生み出した。

 ここまで熊楠と柳田と折口を対比させながら超スピードでその方法の違いを解いてきたセイゴオは、最後に再び熊楠の世界へと聞き手を誘った。しかも、ちょっと珍しい映像資料によって。
 今よりも顔つきの鋭いセイゴオと、ぶ厚い眼鏡をかけた荒俣宏が、気楽な会話をかわしながら熊野本宮に参詣し、その後熊野川の河原で延々と熊楠の世界観について談話をしはじめる。これは1994年にBSテレビで放映された「南方熊楠」のノーカット版映像なのである。
「こんなふうに荒俣君といっしょに熊野や熊楠に浸ってみたのが、僕には貴重な体験でした」。
 この番組では、セイゴオが円形の透明アクリル板にホワイトマーカーで板書をしながら「南方マンダラ」を解説するという実験的な収録も行われた。そのシーンのさわりも、紹介された。

 「では、今日の締めくくりです。僕はこの熊楠の面影をこそ皆さんに伝えたかった。泣いてください」と前置きして、セイゴオは会場を真っ暗にし、ある映像を流した。
 昭和4年、昭和天皇の南紀行幸の折、熊楠がご進講をつとめることになった。このとき熊楠は一計を案じて、天皇に小さなキャラメル箱を贈った。なかには熊楠が生涯をかけて研究をした粘菌標本が入っていた。キャラメル箱は熊楠からの「小さきものの中に世界がある」というメッセージだった。
 さらに熊楠は天皇に「神島」への行幸を勧め、それが果たされた。小さな無人島である神島こそ、熊楠が愛した生命の森の象徴だったのである。熊楠の死後、昭和天皇は再び白浜を訪れ、和歌を詠んだ。その歌碑が今も熊楠記念館前に立っている。「雨にけふる神島を見て紀伊の国生みし南方熊楠を思ふ」。

こうして、キャラメル箱に込められた熊楠の思いと、昭和天皇が偲んだ熊楠の面影を伝えて、2時間のセイゴオトークマンダラが締められた。


   
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ツワモノ熊楠ファンを前に面影を説く


投稿者 staff : 03:13

2006年4月 1日

Dairy 十文字美信さん、M書斎を激写

『千夜千冊全集』口絵写真も絶好調

 『千夜千冊全集』のために、十文字美信さんが「本の写真」を撮り続けている。各巻の巻頭口絵用の写真である。その撮影たるや尋常なものではないらしい。第4巻「神の戦争・仏法の鬼」用には、セイゴオが所蔵していた豪華大型版の『神曲』(時価数百万円!)を、鎌倉の海辺で朝日を背景に撮影。第7巻「男と女の資本主義」用には、ジャン・コクトー『白書』や『鈴木いづみ全集』を、箱根の旅館でノリのきいた布団と一緒に撮影したという。

 千夜千冊1109夜『澄み透った闇』には、セイゴオは次のように十文字さんについて書いている。「何人もの写真家の撮影の現場につきあってきたけれど、十文字の撮影に立ち会っていて、これ以上その"もの"を見つづけるには何か格別な鬼神の力でも借りないと無理だと感じたことが、何度かあった。」

 その鬼神の眼力を持つ十文字さんが、松岡正剛詳細年譜と全集索引が収められる第8巻の口絵用に、「いよいよ松岡さんを撮る」と赤坂を奇襲したのである。しかも、「たった今まで松岡さんがいたのに、ふと席を立ったあとの、主のいない書斎」を撮るという。
その意を汲んで、セイゴオは朝から書斎に篭って、ここ数週間追われ続けている第2稿の赤入れ作業をし続けた。そして十文字さんが訪れるやいなや、ふっと席を立って書斎を明け渡した。

 十文字さんはローライフレックスを手にすばやく書斎に侵入した。作業中のゲラも、キャップのはずれたペンも、飲みかけのお茶も、脱ぎ散らかした靴下もそのままの状態の「現場」を鋭く見渡した。あわてて「少し片付けましょうか」とスタッフが声をかけると、「ぼくの眼が、この部屋の松岡さんらしさを切り取る。何も動かさないで。そのまま、そのまま」。そして即断即決のシャッターを切っていった。あっという間の出来事だった。

 十文字さんはもうひとつ秘策を携えていた。書斎の撮影を終えると、階下で編集者と打ち合わせ中のセイゴオのところに行き、四方山話を交わしはじめた。そのうち「ところで松岡さん、どうして二つもメガネつけてるの」と質問。セイゴオは近眼乱視用のメガネを付けながら、老眼用のメガネを首から下げていることが多い。十文字さんはそのことに目をつけていたらしい。「ああ、これはね」とメガネをつけかえて見せるセイゴオ。その瞬間、十文字さんは電光石火でシャッターを押した。「あっ、やられた」。セイゴオ、苦笑い。

 その後も、本棚から本を取り出す姿、黒板に板書をする姿、そして再び書斎に戻って原稿に赤入れをする姿なども次々と撮影された。セイゴオが書き込み中の原稿を至近距離からカメラで覗き込んで、今度は十文字さんが驚いた。「こんなに書き込んでるんですか。真っ赤じゃないですか」。ファインダーから眼を離さない十文字さんと赤ペンを手から離さないセイゴオ。ただならない二人の切り結び。しかもそれぞれ正確無比な「仕事」をしながら、同時に会話し続ける。写真と照明について、本の撮影状況について、「千夜千冊」にも書かれた十文字さんの“首のない男”の写真について、写真と言葉の「切り取り方」の相違について・・・。

 これまで多くの写真家やインタビュアーやエディターが、「ふだんの松岡正剛」に関心をもってきた。しかし「プライベート」な領域をつくらないセイゴオからは、誰も「ふだん」を聞き出すことも、「ふだん」の姿を取り出すこともできなかった。十文字さんはそのことを百も承知だったのだろう。

 十文字さんがフィルムに焼き付けたのは、おそらくは「いつものセイゴオ」なのである。十文字さんが立ち去ったあとも、セイゴオはそのまま書斎で、何事もなかったかのように、赤ペンを走らせ続けていた。

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  極限まで近寄りセイゴオを“切り取る”十文字美信さん
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  「やられたっ」 「じつは、その仕草を狙ってたんだよ」

投稿者 staff : 22:13