セイゴオちゃんねる

2007年9月22日


Key Word 天衣の面影―さよなら小夜子


 9月19日、午後5時。いまにも泣き出しそうな曇り空の下、セイゴオ、築地本願寺に到着。黒いジャケットの内ポケットに、念入りにスタッフがアイロン掛けをした白いハンカチを忍ばせて。「今日ばかりは友人代表の務めがうまく果たせる自信がないよ。ぐじゃぐじゃになってしまうだろうから」。

 本堂へあがる石段の左右にアーチストのJUNEさんがディスプレイした300本もの大小のローソクがすでに点火されている。階段上の二本の柱には、セイゴオによる書が二枚、「さよなら小夜子」をリフレインしている。5日前の真夜中に、呻吟して書き上げたものだ。

 本堂内では小夜子さんを失った心傷を抱えたまま、休むことなく眠ることなく奔走し続けてきた藤本晴美さんが、照明・音響・映像・進行チームのリハーサル中。セイゴオも一人一人のスタッフに仕上がり具合を聞き、ねぎらいの声をかける。

 5時30分、セイゴオは再び本堂外の階段下で、友人代表の三宅一生、福原義春さんたちと300のローソクの火に魅入られたように佇んでいる。次々と訪れる来場者たちがそのまわりを囲み、その輪がだんだん大きくなっていく。

 5時45分、開場。来場者が入り口で赤いカーネーションを一本ずつ受け取り、本堂の中へ導かれる。4本の大柱に掲げられたモノクロの小夜子さんが迎える。切れ長の眼。黒髪。キュッと口角のあがった唇。壮麗な金色の祭壇からもモノクロの小夜子さんが見つめ返している。

 6時。太食調の雅楽とともに、本願寺のご輪番と僧侶が入堂。仏説阿弥陀経が唱えられる。3ヶ月前の6月16日、「連塾絆走祭」をこの本堂で開催したときには、客席のなかに小夜子さんの姿があった。そのとき小夜子さんが「ここの庭で踊ってみたい」とセイゴオに告げた。

 …池中蓮華大如車輪青色青光黄色黄光赤色赤光白色白光微妙香潔舍利弗極樂國土成就如是功徳莊嚴……祭壇の左右で、天井から吊るされたスクリーンに、小夜子さんのシルエットが舞う。天衣をまとい、あやつりながら、読経の声に合わせて細い指から華を散らすように舞う。

 友人代表が祭壇前に誘導され、一列に並んでカーネーションを供える。セイゴオも体を引きずるようにして祭壇前に立ち、手を合わせる。つづいて来場者による献花。あらゆる年齢、あらゆる職業、あらゆる髪型の男女たち、少年少女たち、ハイパージェンダーたちが、赤い花を添えていく。その真ん中には、セルジュ・ルタンスから送られた真紅のバラが五輪、宝石のように黒い箱に飾られている。

 献花の列が延々と続く。再び雅楽の調べにのって僧侶たちが退堂し、パイプオルガンの演奏が始まる。小夜子さんのシルエットが、たちまちセザール・フランクの霊妙な曲想と同調していく。

 セイゴオは最前列の席で、小夜子さんの面影をじっと追っている。時折献花を終えた来場者と無言の挨拶をかわしては、眼鏡をはずしてハンカチで眼を覆う。「お葬式とは違うからね。小夜子さんらしく小夜子さんを送る夜にしたいからね」と言っていたはずなのに、今夜はもう、泣き虫を隠す気もないらしい。

 会場には必要最低限のアナウンスが流れるだけで、司会もいなければ挨拶もスピーチもない。献花を終えて静かに本堂を去る人。そのまま客席に戻り、虚ろになっている人。数人で集まって、何事かをうなづきあっている人。
 「それぞれが心穏やかに、微笑みながら、私たちが大好きだったおとめ座の小夜子さんを、秋のお月様に送りましょう」。藤本晴美さんが関係者に宛ててメッセージをしたように。ただし微笑んでいるのは写真の小夜子さんだけだ。

 7時45分。スクリーンの映像がカラーに切り替わり、小夜子さんのささやくような声が流れ始める。「水はただ流れているだけで真実に流れることはない。私たちは水として流れ水として如来しているものである…」。山尾三省の詩。

 心を空にして、心のままに生きよ。水のように。水のように。水のように……。

 再びパイプオルガンが響き、バースデイソングを奏ではじめる。この日は、小夜子さんの誕生日。何度も何度もバースデイを寿ぎながら、オルガンの音が次第に高まり、極まっていく。一瞬の静寂。突然スクリーンに無数の鳥が襲来して、けたたましくさえぎながら小夜子さんを覆い尽くしていく。小夜子さんとコラボレーションをしつづけてきた映像作家の生西康典さんの驚くべき仕掛け。白描画の世界が一転して叭々鳥図となり、最後にそのなかの一羽が大きく羽を広げたところで、映像が止まり、音響が止まり、すべてが終わった。

 予想外のエンディングに射抜かれたように、来場者が無言で席を立ち本堂を出ると、あの300本のロウソクが配置を変えて、階段下に集まって炎を揺らしている。つい引き止められて、炎のまわりに立ちつくす人々。その手には、出口でひとりひとりに渡された白い封筒。セイゴオが小夜子さんの残したたくさんの言葉のなかから選び出し編み直したメッセージカード。

 うん、今夜逢えて嬉しかった。じゃ、またね。

 小夜子さんを送り、小夜子さんに送られた、不思議な一夜が閉じるとともに、耐えかねたようにはらはらと雨が降り出した。


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「山口小夜子さんを送る会」メッセージカード
松岡正剛・編

すべてにおいて「着る」ことが私の原点になっています。

山の上の、目の前にお墓がある家に住んでいたから、
小さい頃はよくそこで遊んでいました。

小学生なのにマニキュアを塗っていったりしてたの。
だから、「手をつながなーい」とか言われたこともあるの。

とても服に興味を抱いている子でした。
独創的であることが、小さいながらに私の基準だったのね。

高校を卒業後、洋服をデザインする仕事につきたくて杉野ドレスメーカー女学院に
入学したんです。学校内で先輩のモデルを頼まれているうちに、
プロにならないかというお話をいただいた。

渋谷の西武デパートに、「カプセル」という若いデザイナーを紹介するスペースがあったの。
そこで、まだ20代のケンゾーさんやイッセイさんの実験的な作品を見たときは、
頭を殴られるような衝撃でした。

初めて海外でショーの舞台にたったとき、
「どこの国の人ですか?」ってよく聞かれたんです。

当時、パリのモデルたちが急に髪を黒く染めて、
「小夜子どうしたら切れ長な目になるの?」って聞かれることにびっくりしました。

私たち日本人がコンプレックスに思っていることが、
西洋人にとっては憧れだったりするんです。

着るという仕事をしてきて、ふと思うことがあってね。
それは、からだ自体も着ているんだなという感覚、心がからだを着ているっていう感じ。
だからこそ、いたわりたいし、大切にしたいと強く思うようになってきています。

空き缶は捨てるものという固定観念を取り払えば、いろいろな形が見えてきます。
空き缶もタワシも着ることができる。地下鉄だって、家だって着られる。
なんだって着ることができるんです。

歩くことを変化させていくと動きになり、そこに手の動きをつけると別な表現が生まれ、
さらに言葉が加わると、新たな世界が生まれるの。それがいま、試みている
身体と音楽と映像と言葉によるパフォーマンスにつながってきたの。

私たちは、生まれたときから洋と和が混在している文化の中で生活していますが、
細胞のなかには必ず「日本的なもの」が存在しているとおもうんです。
いま、新しく「蒙古斑革命」というプロジェクトを始めているんです。

生きていると、自分が濁ってきてしまう時もあるでしょ? 
そう思ったら、街に出て他の人の創った作品を見るの。

自分のからだと心の関係、死とか生とか、そういう精神とからだの関わりを
探っているというか、見つけようとしている旅なのかなと思うんです。

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投稿者 staff : 15:00

2007年4月19日


Key Word 前の木蓮・後の桜


 白い花の咲いた枝を手折って、セイゴオが持ち帰ってきた。稲荷坂途中で見つけたという。「これ、モクレンかな」。調べたところ、どうやらコブシらしかった。もともと白モクレンとコブシの見分け方は難しいのだが、その花は細い花弁が巻き上がるように開いていて、形が「紙垂」(しで)に似ているので「シデコブシ」と言うらしい。
 それを聞くと、「ふうん、シデなんだ。いいねえ」。花の名前にはとんと疎いセイゴオが、珍しく反応して見せた。

 『眼の劇場』に、「内側の木蓮」というエッセイが収められている。渋谷松涛の通称“ブロックハウス”に六人と猫七匹と起居をともにしていたころの話である。観世能楽堂近くの邸宅の庭で、ある日、木蓮が大きな象牙色の花を樹いっぱいに咲かせていた。そこでセイゴオは「不思議な思い」に駆られたという。

 今朝の木蓮の「存在の仕方」には驚いた。木蓮は冬のあいだも少しずつ変化を見せ、つぼみもごく最近までふくらみ続けていたのだろうが、私はうっかりしてその生命の変容力を見過ごしていたのであった。そこへ突如、一気に象牙色の花たちが枝いっぱいに出現したのである。それはまるで見過ごしを咎めるかのようにも見え、また咎めもしないで黙って存在を告示しているようにも見えた。 

 セイゴオはここでノヴァーリスの言葉「そこに待機していたものに気がつく時、大いなるものがやってくる」を思いながら、「待機」という存在の消息をめぐっていく。「待機」の「機」は「機会」の「機」であり、また「禅機」の「機」でもあるのだが、セイゴオにとってそれは“出会い頭”のチャンスのようなものとは違うらしいのだ。

 千夜千冊第1175夜『無門関』には、こんな公案が紹介されている。

 一人の僧が趙州(じょうしゅう)和尚に尋ねた。「達磨大師が伝えた禅の極意とは何でしょうか」。和尚は言った、「庭先の柏の木だ」。  これは何を示しているのか。また、こんなふうだ。  慧忠国師が3度、侍者の名を呼んだところ、侍者は3度とも気のない返事をした。そこですかさず国師が言った、「私がおまえにそむいていると思ったら、なんだ、おまえが私にそむいていたのか」。

 いったいこの、柏の木は木蓮なのだろうか。慧忠国師は柏の木なのだろうか。


 ところで、今年の春、松岡正剛はシデコブシを1本手折ったきり、あいかわらずの出不精を決め込んで、とうとう桜も見なかった。
 花散らす雨の音を聞きながら書斎に篭もり続けた夜更け、スタッフとともに傘をかざして赤坂稲荷坂を歩きながら、セイゴオはこぼれるようにつぶやいた。
 「覚めても胸の騒ぐなりけり、か」。

 桜が咲き始めるころは、今年も桜が咲いたか、どこかに見に行くかと思い、桜が真っ盛りのころはその下で狂わなければなあ、去年もゆっくり桜を見なかったなあと思い、そのうち一雨、また二雨が来て、ああもう花冷えか、もう落花狼藉かと思っていると、なんだか急に落ち着かなくなってくる。寂しいというほどではなく、何かこちらに「欠けるもの」が感じられて、所在がなくなるのである。(千夜千冊第753夜『山家集』)

 今宵もセイゴオは待っている。
 木蓮の花咲く前の「機」を。
 そして桜の花終えてからの「機」を。

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2007年2月15日


Key Word 赤坂のクンストカマー


 稲荷坂上の赤坂ゼアビルには、大小11の部屋がある。そのなかでもっとも小さな、わずか20平米ほどの北向きの一室がセイゴオの書斎になっている。壁面は天井まで近代日本の本で埋まっていて、その本棚を塞がないように注意深く大きな書斎机とクローゼットが配置されている。動き回れるスペースは畳一枚分ほどもない。もっとも仕事や執筆に必要なもののほとんどはセイゴオの手の届く範囲に揃っているため、書斎で動き回る必要もないらしい。
 セイゴオの仕事ぶりはきわめてシステマチックである。身体とキーボードとモニターの距離はもちろん、辞書や参考書を開く場所、マーキング用の赤と青のペンの並べ方、タバコと灰皿と湯のみ茶碗の位置にいたるまでがきっちりと決められていて、徹夜で執筆をしようと書斎が乱れることはない。翌朝出勤したスタッフは、灰皿に残る吸殻の量を見て、ようやく昨晩の格闘ぶりを推し量るのである。

 セイゴオの書斎はまさに世界知を航行するパイロットと人機一体となったコックピットだ。が、決して機能主義というわけでもない。というのも、一見すると編集航法には何も寄与しそうにないようなさまざまな文物までもが所狭しとディスプレイされていて、もう少し正確に言うならば、路地裏に住む好々爺が大きさも色もバラバラの鉢やらトロ箱を軒先いっぱいに並べて、草花を超然と管理しているような、あの感じにむしろ近いのである。
 
 たとえば、眼鏡のことがある。松岡正剛のトレードマークである丸眼鏡を半年~1年に一本は新調しているのだが、ほとんど用済みとなった代々のフレームも大事に取っておいて、書斎の窓際に陳列しているのである。また、自分の用事のある空間にはすべて読書用の老眼鏡を置いておくという主義もあって、それをしょっちゅう各所に持ち歩いてしまうため本来必要な数倍ほどもリーディンググラスを所有することになってしまい、それが本棚の隙間の小物箱にごっそり仕舞われているのである。

 たとえば、扇のことがある。セイゴオは季節を問わず場所を問わず扇を持ち歩き、講義のときなどは落語家のようにさまざまに見立て使いをしてみせる重要な小道具になっている。長年、三宅一生さんが特注して配ったという漆黒の9寸を愛用していたが、それに似たものを探すうちに、だんだん手元に扇が集まってきてしまったらしい。今では机の上の「ペン立て」の横に「扇子立て」が置かれていて、決して持ち歩きそうにないような茶席扇子から祝儀扇、白扇まで各種取り揃えられている(扇子好きが昂じて、目下、自分で特注扇子を作っているらしい)。

 さらに、草履のことがある。書斎の一角に筒描きの藍染が敷かれていて、その上に、普段愛用のシューズとともに、桐やねずこや布製のポップな草履までが鎮座しているのである。もちろん冬のあいだはそれらに足を通すことはない。夏になればさらに数が増えていくはずである。

 ほかにも、年に1セットずつ増えていく鉱物標本や、奈良京都の出張中に立ち寄る古道具屋の掘り出し物や、ホテルから持ち帰ってきた洋酒のミニチュアボトル(セイゴオは酒を一滴も飲まない)などなどが、編集学校の学衆や読者からの贈り物とともに、そちこちの棚や壁面に展示されている。

 セイゴオは、決して持ち物を引き出しに収納しようとしない、徹底したディスプレイ派なのである。果たしてそれらは「コレクション」と言うべきなのか、いったいそこに何の「隠れた次元」があるのか、スタッフたちも今だ解明できていないのだが、赤坂ゼアビル3Fの一隅は路地裏風クンストカマーと呼ぶにふさわしい謎に満ちている。

 ところで、赤坂ゼアビルでは昨年からセイゴオの第2書斎の設営が少しずつ進んでいる。最上階の現代思想の書籍に囲まれた一室を仮設の和風空間にリニューアルし、近年熱心に取り組んでいる書画制作のために座卓とともに文房四宝を整えつつある。
 松岡事務所はもちろんのこと、編集工学研究所に昨年着任した大村専務をはじめ、システム派マシン派の若手スタッフまでが、この空間のなりゆきを目下楽しみにしていて、今年1月25日のセイゴオの誕生日には、それぞれが相談しあって、新書斎空間に置くにふさわしいと思しき品々をプレゼントした。
 木村久美子が見立てた渋好みの座布団と、渋谷恭子が水滴代わりにと選んだ錫の片口だけが実用向き。あとは明治時代に大流行したという有明行灯、駿河の竹千筋細工職人による大和虫篭、苔玉、起き上がりこぼしなどなど・・・。

 なんということだ。スタッフたちもすっかり、そこをセイゴオ好みの第2の路地裏風クンストカマーにすべきことを心得ているのである。

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有明行灯と大和虫篭

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2007年1月15日


Key Word ゲニウスタキハラロキ


 

ゲニウス・ロキは場所の関数であり、場所の雰囲気の本質なのである。このようなことは古代ならどこにでもそのようになっているだろうという想像もつく。地霊に関係がない古代の都市や古代の墓など、ありそうもない。日本でもそうである。産土(うぶすな)を度外視しては社はおろか、高床住居も市場も立たなかった。(千夜千冊第926夜『ゲニウス・ロキ』)

 2007年は恒例の編工研・松岡事務所勢ぞろいしての赤坂氷川神社詣出から、セイゴオの公式スケジュールがスタートした。もちろんプライベートには元日に初詣をすませた上でのこと。ここ十数年は初詣はずっと山王日枝神社だが、気が向けば神田明神もまわるらしい。
 プロジェクトや取材で神仏にかかわることが多いセイゴオは、ふだんでも神社を参拝する機会が頻繁にある。正殿に上って祝詞をあげてもらい正式参拝することも多い。仕事のためばかりではない。地方の鎮守の社であろうと田園の苔むした祠であろうと、向かうところに「社」があればつねに丁寧に拝礼することを心がけているようだ。

 セイゴオの拝礼の仕方は、まるで模範演技のように凛として、かたちも間合いも美しい。背筋を伸ばして二礼し、大きな掌を打ち響かせて二拍し、深々と一礼する。たまたまそこに居合わせた者が(見知らぬ他人ですら)、セイゴオが神前に立つだけで目を見張り、最後の一礼が終わってそこを立ち去るまで、じっと見守ってしまうほどだ。

 そんな姿が年末のTBSの番組「日本を探しに行こう」でも映し出されていた。関口宏さんと原沙知絵さんを伊勢の滝原宮に案内したセイゴオが、いつもと同じように堂々たる間合いで柏手を打ち鳴らす瞬間を社殿の上手側からカメラが捕らえていた。ただし前後の時間の流れはカットされていた。クレーンを駆使して撮影された滝原の空間も、残念ながらセイゴオの語りと同様寸断され縮退していた。

 じつはセイゴオは、収録日の前日にも未詳倶楽部のメンバーたち15人と滝原を参拝したばかりだった。伊勢をめぐる未詳倶楽部の例會と、番組収録の予定がたまたま一日違いで重なっていたのである。

 未詳倶楽部との参拝では、セイゴオが滝原宮と滝原竝宮を拝礼するあいだ、メンバーたちが遠巻きにその一部始終を無言で見守っていた。セイゴオは鳥居の下に立ち視線をひたと正殿の正面に据えてから一礼し、白玉石の上を歩幅を厳密に測るかのようにゆっくりと神前に進んだ。
 内宮や外宮に比べると、滝原の社殿は楚々と小さく、その敷地も杉の森のなかにぽっかりと拓かれた庭のようである。けれどもセイゴオがまるで能舞台で演じられる道行きのようにあまりにもゆっくりと進むので、その小さな空間が時間を呑み込みながらどんどん伸び広がっていくようだった。

 そこへ突然、数人の老人が湧いて出てきたかのように割り込んできた。全員が「く」の字に曲がった腰で、いざるように次々に鳥居をくぐり、いままさに神前にいたろうとするセイゴオを追い抜いて、玉石に額を擦りつけるように礼をして手を合わせはじめた。
 それまでの光景を息詰めて見守っていた一同は、異風の老人たちの闖入に気押されたようにフリーズしていた。が、セイゴオはそんな出来事にも煩わされる様子もなく、老人たちの拝礼が終わるまで黙ってその後ろに佇んでいた。老人たちもまた、誰ひとりとしてその存在を気にとめることもなく、あっという間に杉木立の中に消えていった。
 再び静まりかえった神域に、ようやくセイゴオの打つ柏手の音が響き渡った。

いったん素形に削がれた空間は饒舌で小うるさい主張をしなくなる。空間は空間独自の呟きをやっとしてくれるようになる。そういう隙間に、気がつくとひょいひょいと思いがけない時間がとりもどされてきた。(弟1104夜内藤廣『建築的思考のゆくえ』)

 いったい神社を参拝するときに松岡正剛が何を祈念しているのかということを、誰もまだまともに聞いたことがないはずだ。聞いたとしてもおそらく簡単には答えてはくれないだろう。ましてや滝原の小さな二つの社殿を十数分もかけて参拝していた正剛に去来していたものが何だったのかはわからない。
 ただ、社殿の桧皮葺のあたりをふっと見上げて「ああ、簡素だ。いたって簡潔だ」とつぶやく声を確かに聞いたと、あとで何人かが言っていた。

 もともとセイゴオは伊勢神宮には並々ならぬ関心をもっていた。伊勢詣出をしたことのない日本人なんて日本人じゃないとすら言っていた。とりわけ伊勢神宮の結構や神明造のデザインや「遷宮」の意味については、機会あるごとに建築家やデザイナーたちと多くのことを交わし刺戟を受け合ってきた。安藤忠雄さんとは内宮は目線を地上50センチくらいのところにおいて見るべきだといったことを、内田繁さんとは御正殿の前に立つ蕃塀の位置の絶妙といったことを、磯崎新さんとは「伊勢には始原というモドキのための装置がある」といったことを。そして伊勢をめぐる未詳倶楽部のゲストとして招いた内藤廣さんとは、「素形」と「ゲニウス・ロキ」をテーマにしんしんと語り合った。

それは始原を隠すためのモドキ(擬)としての擬態であって、そうすることが「始原が起源を虚像のように浮かばせてしまう装置」だったのである。西行が「何事のおはしますかは知らねども」と言ったのも、そこに感じたものも、これだった。「・・・・」である。(「千夜千冊」第898夜『建築における「日本的なもの」』)

 が、最近のセイゴオは伊勢神宮よりも滝原のほうにもっぱら関心を寄せてきた。これは「千夜千冊」に司馬遼太郎の『この国のかたち』を取り上げて以来のこと。明治国家の崩壊と軍国主義の台頭が日本を「異胎の国」にしてしまったと見た司馬は、晩年は神祇的なるものに「日本の本来」を求め、それを「真水」(まみず)と呼んだ。その代表的な場所としてあげたのが、伊勢の滝原だった。
 その後NHK「人間講座」でも司馬遼太郎の「真水」を取り上げたセイゴオは、ラストシーンの撮影場所に滝原を選んだ。この番組のためのテキストを再編集して昨年9月に上梓した『日本という方法』(NHK出版)も、最後を司馬と滝原で締めくくっている。
 滝原は今やセイゴオが「日本の本来」を語るための絶好のロケーションになっている。そして、いまのところ司馬遼太郎への“仁義”を守って(こういう仁義を松岡正剛は絶対に欠かさない)、滝原を語るときには司馬の言葉を紹介するというスタイルをはずさない。

 けれども、テレビカメラのいない滝原の松岡正剛は、誰の代弁者でも代表者でもなかった。その場の誰の思慮や思惑からも孤絶し、どんな言葉も届かないほど屹立していた。
 セイゴオにとって滝原は、誰とも分かち合いたいと思い、誰をもそこへ連れて行きたいと思いながら、いざそこを訪れてみると誰とも分かち合えない心境や想念に満たされてしまう、格別なトポスであるらしい。

出入りしたのはイツだけではない。そのほかにウツ(空=充)も出入りしたし、ミツ(満=密)も出入りした。(「千夜千冊」第898夜『建築における「日本的なもの」』)

 そんな正体不明のセイゴオの様子を気にしつつ、一行15人もそれぞれが丁寧に二つの社殿やその横手に並ぶ若宮神社や長由介神社を拝礼し、そこかしこに散らばって、遠い目をして無言のまま時間を食んでいた。

 そこへまたささやかな“事件”が起こった。セイゴオが立ち入り禁止の古殿地のほうに、一人で入って行ってしまったのだ。ひとけのない滝原とはいえ、内宮・外宮と同じように厳重な警備用赤外線が張り巡らされている。たちまち正殿前に立つ監視カメラが首を廻して結界を超えた犯人の姿を追い始めた。それを知ってか知らずかセイゴオは杉木立に身を隠しながら、とうとう古殿地正面にいたったようだった。
 滝原の古殿地は参道から来るとさらに奥まったところに位置し、鬱蒼とした森を背景としていることもあり、現在社殿の建っている敷地よりもいっそう神寂びた場所に見える。セイゴオの後を追って何人かが行きたそうにしていたが結局踏みとどまったのも、警備カメラのせいではなく、古殿地の神妙な雰囲気に気後れしたらしかった。

 それは不思議な時間だった。真の御柱を収める覆屋が楚々と置かれ、あとは風雨を受けて黒ずんだ玉石が敷かれているだけの、何もない場所。そこにセイゴオがたった一人で向き合っている。しかしその姿は見えない。
 ただ、取り残された一行は、何か侵し難いことが起こっていることだけは察知していた。

 やがてセイゴオが杉木立のあいだから姿を現し、ゆっくりとこちら側に帰還した。穏やかな表情だった。すっかり先達者の顔に戻っていた。「すばらしいよ。みんなも行っておいで」と結界越えを唆す口調も、いつものセイゴオだった。
 けれども、一行は神隠しにあった“父親”を囲んでふわふわと微笑んでいるばかり。「きっと“向こう”が滝原の本来の場所なんだね。あそこに行くとそれがよくわかるよ」という言葉にも、ただうなづくだけで誰もその場を動かない。

 メンバーの一人でいつもは控えめな平野湟太郎さんが機を捉えて「記念撮影をしましょう」と言い出し、セイゴオも機嫌よく応じた。滝原宮を背景に鳥居の下に身を寄せ合って全員で一枚の写真に収まった。
こうして、“本来の場所”はセイゴオただひとりの体験となった。そこでどんな様子で何をしていたのかは、監視カメラが知るのみであるが、一行15人はその見えざるシーンを一生忘れることはないだろう。

 ちなみに、TBSの番組ではセイゴオの提案で特別許可を得て、古殿地の前で撮影が敢行された。その放映時間にちょうど講演が入っていたセイゴオは、帰宅後録画を見ていたのだが、古殿地のシーンで「あっ」と声をあげた。クレーンカメラが捕らえた白玉石の広がる何もない風景を覆い隠すように巨大なテロップが重ねられていた。しかも「古殿池」という誤植のまま。
 それもまた、ゲニウス・ロキのいたずらだったのか。

「ゲニウス・ロキはどこにでも、時空をまたいでいるらしい。」(弟926夜)



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滝原にたたずむセイゴオ


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2006年12月27日


Key Word すさびのパサージュ(2)


 講演のためにおよそ20年ぶりにパリを訪れたセイゴオが、なぜ「楽しまない風情」に徹していたのか。「千夜千冊」第46夜ライナー・マリア・リルケ『マルテの手記』に、その秘密が明かされている。ちなみに求龍堂の「千夜千冊全集」では、一夜ごとに新たなタイトルが付せられているが(これはWEB「千夜千冊」にはなかったもの)、『マルテの手記』にセイゴオが付けたタイトルは「孤立するためのパリ」である。

久しぶりにパリに行って、慌しく仕事(平家物語についての講演)をして帰ってきたとき、同行した者たちから「松岡さんはまるで心ここにあらぬという感じでパリにいましたね」と口々に言われた。みんなでパリの街をあれこれ動いていたときの印象らしい。ある女性からは「まるで死に場所を探しているようだ」とも言われた。みんな鋭いもんだ。(千夜千冊第46夜『マルテの手記』)

  「平家物語の講演」というのは、和紙人形作家の内海清美さんの「平家物語」展が日仏会館で開催され、セイゴオがその記念講演を行ったもので、テーマは「日本人の無常観」だった。
 講演の首尾は上々だった。セイゴオは会場に詰めかけた数百人のフランス人を相手に、「あはれ」「あっぱれ」「無常」「遁世」といった日本語のキーワードを駆使して、日本で行うときとほとんど変わらない速度と深度の語りを貫いた。それは、カトリーヌ・カドゥーさんの名通訳のおかげでもあった。カトリーヌさんはセイゴオの友人で、日本語が堪能であるだけではなく、永井荷風の研究者であり東京の木場に日本家屋の仮寓を持つ日本通であり、フランス大蔵省長官夫人でもあった。
 講演会前日、セイゴオはカトリーヌさんとIホテルのラウンジで3時間にもおよぶ綿密な打ち合せをしたのだが、このときカトリーヌさんは「セイゴオ、できるだけ日本語でキーワードを連打しましょう」という提案をしてセイゴオをおおいに喜ばせた上に、本番では身振り手振りを加えて完璧な通訳をしてくれた。講演後は日仏会館のロビーで「あはれ」「あっぱれ」という日本語がさかんに飛び交っていた。

 そんなふうに、講演のためにパリに行き、その準備に1日、本番で1日、あとは主催者の用意したレセプションや行事で2日がつぶされて、正味5日ほどの旅程だったこともあり、セイゴオが自由に過ごせる時間はほとんどなかった。しかも、そのわずかな自由時間の過ごし方といえば、行き先もルートも日本から同行してくれた未詳倶楽部メンバーまかせで(唯一、国立図書館にだけは積極的に行きたがった)、東京では考えられないほどよく歩いてはいたが、そのときの顔色や様子が「まるで死に場所を探しているよう」だったと観察されてしまうほど、はかりしれない沈静を保ち続けていた(ちなみにこれは、未詳倶楽部メンバーでオトグラフ収集家の高野純子さんの言葉である)。

 それがどのような事情と理由のためだったのかは、「千夜千冊」に次のようなことが明かされるまでは、同行者の誰も察しえなかったことである。

パリを歩くと困ってしまうのだ。そこがボードレールやヴァレリーの街であり、ナタリー・バーネイやジャン・コクトーやココ・シャネルの街であることが困るのだ。それが東京の下町を歩いて、もはやそこには永井荷風も葛西善蔵も辻潤も見えなくなるほど光景が様変わりしているというならまだしも、パリはほとんどが元のままなのだ。もっとも往時の景観がよく残っているはずの京都を歩いていても、こういう気持ちはおこらない。ぼくは京都ではエトランゼになりえない。パリはそうはいかない。神経を尖らせて歩いている。それでもこの程度のトポスの記憶ならまだしもかなり軽症なのである。ここに紹介するライナー・マリア・リルケのパリは、あまりにも鮮烈すぎて魂を直撃してしまっている。(千夜千冊第46夜『マルテの手記』)

 セイゴオは、プラハ生まれの詩人リルケがパリを漂泊しながら、痛哭な孤独を観照し続けたことに強く感応したようだ。セーヌ河畔を歩くときも、ヴァンドーム広場やコンコルド広場を横切るときも、ノートルダム寺院周辺をうろつくときも、『マルテの手記』の一行目「人々は生きるためにこの都会へ集まって来るらしい。しかし、僕はむしろ、ここではみんなが死んでゆくとしか思えないのだ」がセイゴオの胸を突いていたらしい。

これではパリは歩けない。ボードレールやコクトーをなんとかしても、リルケのパリが残響すれば、とてもぼくには歩けるものじゃない。(千夜千冊第46夜『マルテの手記』)

 『マルテの手記』は、リルケがパリに滞在した20代後半から30代前半にかけて、約7年をかけて書き上げた詩小説である。若いデンマークの詩人がパリでの陰鬱な日々を手記に書きとめたという形式をとっているため、リルケの内的体験や追想が投影された告白集のようにも読める。
 リルケが過ごした20世紀初頭のパリとは、19世紀半ばにオスマン市長が進めた大規模な改造計画によって完成された商業資本都市にほかならない。ベンヤミンはそこに「現代性」という19世紀の幻像と、それゆえにすでに廃墟となりつつあるパリの現像を鋭く見抜いたのだが、リルケの分身であるマルテはすでに「なんらかの意味を持つこの人生の表面に、得たいのしれぬ退屈な裂地をはって、たとえば疎懶な夏休みのサロンの椅子か何かのように、本質を包み隠してしまう」ようなパリに巣くう“愚劣”を鋭敏に感知していた。そしてその「食い違いに手をつける」ことにたった一人で挑んでいく。

 セイゴオはそんなマルテ=リルケによるパリ観察は、まるで「死にかたの見本のよう」だという。パリが“退屈な裂地”で包み隠した「死」や「病」にこそ、リルケがもっとも過敏で真摯な目を向けているということなのだろう。そして、そんなリルケの痛ましくも勇ましい魂がパリのセイゴオに去来していたのだとすれば、「まるで死に場所を探しているようだ」という未詳倶楽部メンバーの観察は、ぎょっとするほど鋭いものだったのである。

 ただしこれはたんにリルケのペシミズムと見るべきではないし、ましてやセイゴオのペシミズムなのでもない。いや、もしこれをペシミズムと呼ぶなら、「千夜千冊」第1164夜にショーペンハウアーを取り上げたセイゴオが、ペシミズムを「思考の分母」に到達するための方法と捉えた、まさにあのような方法によってこそ捉えてみるべきだろう。
 それになんといっても、セイゴオにとって街を歩くことは読書をすることと同じ「すさびのパサージュ」の行為なのである。そしてまたリルケも、異郷の地をめぐりながら体験と想起の「あいだ」をパサージュすることを練磨しつづけた詩人である。しかもセイゴオによると、リルケのパサージュこそ「つねに懸崖に向かっている」というほどに、徹底した「すさび方」だったらしい。

 意外なことに、「千夜千冊」第926夜『ゲニウス・ロキ』に、そんなリルケが少しだけ顔を覗かせている。

ゲニウス・ロキに敏感だった詩人はおそらくライナー・マリア・リルケであり、ゲニウス・ロキに深い関心を寄せた作家はロレンス・ダレルだった。リルケは『ドゥイノの悲歌』で、「われわれがこの世にあるのは、家、橋、泉、門、壷、円柱、鐘楼があるためだ」と書き、アレキサンドリアに異常な関心を示しつづけたダレルは、「いかなる文化の重要な決定要因も、結局のところ場所のスピリットによっているものなのだ」と書いた。リルケの歌は場所はロマン主義によって喚起され、ダレルの文章は場所は宇宙的に喚起される。(第926夜『ゲニウス・ロキ』)
2006122802.bmpセーヌ川のほとりで

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2006年12月25日


Key Word すさびのパサージュ(1)


 松岡正剛はめったに歩かない。昔のことはいざしらず、ここ十数年ほどはできるだけ歩かないことを心がけているらしい。最近はそれがいっそうはなはだしくなり、移動はもっぱらタクシーかスタッフの運転するホンダのアコード。赤坂近辺に出かけるときですら、新入スタッフの栃尾瞳が郷里から運んできたミニカーのラパンがセイゴオの脚になっている。

 胃癌の手術後、集中治療室で麻酔から覚めたばかりのセイゴオをベテラン看護婦が見事な介添えをしながら無理やり立たせて歩かせてからというもの、またその後は和泉佳奈子が献身的にセイゴオを励まして院内を散歩させてリハビリさせてからというもの、セイゴオは自分が人並みに歩くためには、誰かの介添えと献身とプロジェクトが不可欠だと思い込んでいる節がある。
ましてやセイゴオが走る姿など、赤坂では誰も見たことがないし想像すら及ばない。

 そんなふうにめったに歩かない、決して走らないセイゴオが、2000年に講演のために訪れたパリでは、驚くほどせっせと歩いていた。しかも、同行者たちがよそ見脇見に夢中になるような古い街並みを歩くときほど、静かにただコツコツと歩いていた。決して早足ではないし、脇目も振らずに歩いていたわけでもないけれど、街歩きを楽しむ風情はまったくなく、かといって不機嫌なのでもない。セイゴオにとっては工作舎時代にカイヨワ、フーコー、マンディアルグに会うために訪れて以来、20年ぶりのパリだったはずなのだが、そんな感慨にふける様子もなく、石畳の街路も広場の景観も平気で通過してしまうといった歩き方だった。

 セイゴオは、街というものは漫然と歩くためのものではなく、きまぐれに立ちどまるためのものでもなく、覚醒しながら通りすぎるものと考えているのかもしれない。まるで一冊の本を高速で読み抜いていくように。できれば足を動かさないで街をパサージュすることができるならそれが一番いいとすら考えているのかもしれない。まるで足の萎えたベンヤミンのように。

パサージュとは「移行」であって「街路」であって「通過点」である。境界をまたぐことである。ベンヤミンはパサージュへの異常な興味をことこまかにノートに綴り、そしてそれを仕事(Werk)にした。だから『パサージュ論』は本というより、本になろうとしている過程そのものだ。しかし「本」とは本来はそういうものなのである。(第908夜ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論』)

 ベルリン生まれのユダヤ人のベンヤミンは、ナチスを逃れてパリに亡命し、19世紀の産業振興政策によってつくられた「パサージュ」(ガラス屋根で覆われたアーケード街)に着目した。その誕生と廃頽によるパリの街並みの変遷や、そこに起こった現象を探索し調査し考察した。ベンヤミンがパサージュを通して見たものは、資本主義が都市にもたらしたファンタスマゴリア(幻像)であり、19世紀の「集団の夢」の痕跡だった。

もともとベンヤミンは「個人にとって外的であるようなかなり多くのものが、集団にとっては内的なものである」ということに関心をもっていた。個人の内部性と集団の外部性を問題にしたのでは、ない。逆である。個人の外部性と集団の内部性に関心をもったのだ。それがベンヤミンの「集団の夢」なのだ。(第908夜『パサージュ論』)

 個人の外部性と集団の内部性。「パサージュ」がまさに道路であって商店でもあるように、ベンヤミンは「個人にとって外的であるようなもの」と「集団にとっては内的なもの」とのその「線引き」に関心をもち、それを「敷居」と呼んだ。そして、その敷居を通過させる商業装置に関しての、そこを通過する「遊歩者」としてのボードレールに関しての、またモードやインテリアやメディアや写真に関しての膨大な記事や引用を収集し、ドイツ語とフランス語で断片的なメモを綴り続けた。
 ベンヤミンははじめから終わりまで引用で埋め尽くした書物を構想していたとも言われるが、『パサージュ論』はベンヤミンの生前に刊行されることはなく、残された大量の資料とメモが他者の手によって編集され陽の目を見ることになった。

 しかし、セイゴオは『パサージュ論』を未完の書物であるとは見ていないようだ。

ベンヤミンにとって書物とは、それが見えているときと、それが手にとられるときだけが書物であったからである。その書物の配列と布置と同様に、ベンヤミンには都市が抽出と引用を待つ世界模型に見えた。(第908夜『パサージュ論』)
(パサージュとは)茶碗でいうなら轆轤で成形して窯に居れ、これを引きずり出すことである。読書でいうなら書物を店頭から持ち出してページを切り開くことである。それは述語的な行為というものだ。(第908夜『パサージュ論』)

 ベンヤミンはいったい何をやろうとしていたのか。セイゴオはそれを「数寄のパサージュ」と名付けている。またそれによって記録されるのは、ベンヤミンの言葉でいえば「過去についてのいまだ意識されない知の覚醒」なのだという。ベンヤミンにとって、そしてセイゴオにとって、パサージュとは自他の境界領域で次々と意識と記憶と言葉を切り結ぶ「行為」のことであるらしい。それは街路を気まぐれに遊歩し脇見やよそ見を楽しむような風流とはほど遠い。まさに、みずからが高速の回転扉となって街を擦過していくような、“すさび”のパサージュとも呼ぶべきものではないだろうか。

 そしてまたベンヤミンにとって、パサージュは歴史哲学のための方法を集大成する行為であって闘いでもあった。命がけでもあった。ナチスドイツの侵攻によってベンヤミンはパリを脱出し、アメリカに渡ろうとするが失敗、ピレネー山脈超えを断行しスペインをめざしたが、その途上で強制送還され、ついに服毒自殺を遂げる。その最期のときまで、ベンヤミンは膨大な『パサージュ論』のメモ群を肌身離さず携えていたとも言われる。

 パリの街路を、孤絶した風情ではないものの、いたずらに楽しむこともなく、言葉少なく歩き続けていたセイゴオは、いったいそのとき何を携えていたのだろう。

24nortordam7.bmpノートルダム寺院にて

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2006年12月15日


Key Word 喘息と吃音と呼吸と文字と


 20代から30代にかけて、セイゴオはしばしば脳圧昂進に見舞われていた。激痛のあまり七転八倒し吐き気がとまらなくなり、病院にかつぎこまれては巨大な注射針で髄液を抜くという拷問めいた治療を受けていたという。「20代はほとんど寝なかったのではないか」と周囲が証言するセイゴオにはふさわしい宿痾だったのかもしれないが、30代後半からはぴたりと発作が治まった。代わりに、40歳で胆嚢を摘出し、51歳のときには交通事故で肋骨骨折、61歳で胃癌と、その後はなぜかおよそ10年周期で入院や手術を繰り返しているのだが、幸い後遺症もなく完治してきた。

 幼年期の猩紅熱から数えれば、あきれるほど多彩な病歴をもつセイゴオだが、その胸に暗い影をもたらした病といえばセイゴオ自身の病ではなく、父親の膵臓がんと、妹の喘息だったようだ。父の癌死は「遊」創刊号から『場所と死体』を連載したことに象徴されているように、松岡正剛の思想に大きな影響を与えたが、妹の喘息の発作の激しさもまた、「死」を予感させる病として、少年時代のセイゴオに深く印象づけられていたらしい。そのせいだろうか、「千夜千冊」には、喘息者の宿命への特別な共感が時折刻まれてきた。

 ゲバラはキューバ人ではない。ボリビアでもない。アルゼンチン生まれである。
 5人の長男で、両親がスペイン共和派びいきの家に育った。2歳で喘息をおこした。ラグビー少年であることがぼくにいっそうゲバラ熱を高じさせたのだが、ラグビーの試合の途中に喘息でベンチに戻ったこともしばしばだったという。この喘息こそ、最後のボリビア山中の動きを鈍くした。(第202夜『ゲバラ日記』)

 咳きこんで苦しむとき、中島は面影が定まらない母といつも定位に父がいる少年期を急激に追想した。が、そんなことをしていても心身が蝕まれるだけだ。何か夢中になるものを選ばなければならなかった。そこで中島が選んだのは、なんと「南洋」だった。パラオの仕事を選んだ。(第361夜中島敦『李陵・弟子・名人伝』)

 山中で発作を起こすゲバラ。咳き込みながら父母の面影を追想する中島敦。松岡正剛は、喘息者たちの窒息寸前の呼吸困難を知るだけではなく、発作の中での想念の行方に寄り添おうとする。このような共振感覚は、肉親の喘息を痛々しく見守っていた少年期に培われたものなのだろう。(実はセイゴオが編集工学研究所を預けた澁谷恭子も喘息の少女期を送っている)。

 プルーストの幼年時代にとって、その精神に大きな影響を与えたのはブローニュの森から帰って始まった喘息である。ぼくの妹がひどい喘息だったので、この発作が何をもたらすかはよくわかる。 それが間歇性の喘息症状であったことは、その記憶を間歇的に思い出すことにつらなり、その喘息にしばしば瞬間的な窒息がともなったことは、プルーストが考える文学作品は“記憶を辿る文学”ではなく、“思い出せない記憶にさえ思い出が広がる文学”というものであることを、思いつかせたのだった。  こうしてプルーストの40代はほとんどの日々を『失われた時を求めて』に費やしたといってよい。51歳、書き継ぎに書き継いだ大作にようやく終息を感じると、プルーストはベッドの上で校正をしたまま疲れ切って、呼吸困難のうちに終息していった。(第935夜『失われた時を求めて』)
 

 瞬間的な窒息。それは、喘息持ちでこそなかったものの、「サ行」の音を発しようとすると言葉に詰まる吃音少年だったセイゴオも、しばしば感じていたものではなかったか。そのために、舌先から間歇的にしか言葉を発することができないもどかしさを抱えながら、呼気が封じられた瞬間にアタマの中を巡る思考について、鋭敏な自己観察を重ねていったのではなかったか。

 やがて吃音を克服し、禅や太極拳に触れて呼吸法や発声法を鍛錬した松岡正剛は、ファンがしびれるというあのよく響く低い声で、思索と乖離させないまま高速に言語を放つ独自のパフォーマンスを体得していった。近頃は、さらにそこに文字を連関させようとするかのように、さかんに息を吐きながら書を嗜んでいる。
 その姿は、セイゴオが古今東西のどんな思想家よりも一段深い関心を寄せてきた、かの空海こそかくありや、とさえ思わせる。

 空海の声は深かったとおもう。ただ大きいのではなく、深く遠くよく響いたであろう。(『空海の夢』第9章「仮名乞児の反逆」)

 なんとなれば、『空海の夢』第22章「呼吸の生物学」では、次のような注意深い呼吸観察をもって、空海の「声字実相」を読み解いているのである。

(略)風気による響きと声の関係は不即不離である。その声がおこってすだいたとき、そこに字がおこる。その字は名をまねき、名は体をまねく。これが実相である。ここには言語の創出風景があるようだ。(略)  声を出しているときは、声を出さないときよりも呼息量がおさえられている。たとえばクーカイと発音をしてみると、クー・カ・イのクーやカのときは呼気がおさえられ、イの発音の最後の部分でやっと呼息量がふえる。  つぎにコーボーダイシ・クーカイというふうに区切って発音してみると、その区切りでわずかではあれ吸息されていることがわかる。一般に、発話時には一分あたりの呼吸数が激減し、吸息作用は少し増すものの呼息作用はいちじるしくゆるやかになり、全体としての呼吸は深くなる。(略)  十全な発話活動をしているときに呼吸が深くなるということは、声を出していても瞑想しうるという可能性を立証する。

 そういえば講義をするときのセイゴオは、声の張りはもちろんのこと、板書のスタイルにも気を配る。ホワイトボードにマーカーでは字がすべりすぎるので、できるだけ黒板にチョークを用意してもらうほどである。確かに黒板を使うと、語りのリズムもノリも変わるようだ。きっとそんなときのセイゴオは、空海の「声字実相」さながらのハイパートランス状態になっているはずだ。

 もっとも、イカヅチ頭の空海と仙人顔のセイゴオとでは姿かたちが似ても似つかぬ上に、少年セイゴオが吃音だったことに比べると、少年空海=真魚(まお)は、言語をつかさどる佐伯一族、騒々しいほどしゃべりまくるという意味のサヘギの出自である。この違いはあまりにも大きい。

 喘息者たちの“未発の言葉”に敏感になりすぎるセイゴオは、空海にはなりきれないようだ。呼吸を止められてしまった追想者の面影をどこかに宿したままなのだろう。

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筆の動きと呼吸の調子を絶妙に重ねて書をするセイゴオ

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2006年9月 1日


Key Word 砂漠王とオートバイ


 サン=テグジュペリを載せたまま失踪したP38ライトニングがマルセイユ沖で発見されたというニュースにそわそわと胸騒ぎを起こしたセイゴオが、もうひとつ、なんとしてでも見たがっていた「事故機」があった。アラビアのロレンスことT・E・ロレンスが事故死したときに乗っていたオートバイ「1932年型SS100(ジョージ7号)」である。

 ロレンスは砂漠でのミッションを終えイギリスに戻ってからオートバイにぞっこん入れ込んで、もっぱらブラフシューペリア社のマシンばかり7台を乗り換え愛好した。マシンには創業者ジョージ・ブラフにちなんだ「ジョージ」というニックネームを付けていた。
 1953年、7代目のマシンとなる「ジョージ7号」を駆って郵便局へ行く途中、少年の乗る自転車に接触し転倒、頭部を強打して、6日後に昏睡状態のまま死亡した。あまりにもあっけない死に方だったが、これが映画「アラビアのロレンス」の冒頭にも描かれた歴史的“交通事故”なのである。

 1989年5月、池袋西武美術館で「アラビアのロレンス展」が開催されたとき、ロレンスが所有していたジョージ5号が展示された。残念ながら「事故車」ではなかったのだが、もちろんセイゴオは会場に駆けつけている。この展覧会は1988年12月からロンドンのナショナル・ポートレイト・ギャラリーで開催されたものの巡回展で、そのカタログの日本語版に、セイゴオは『オクスフォードの砂漠王』というエッセイも寄稿している。

 コリン・ウィルソンの『アウトサイダー』にも取り上げられているように、アラブの反乱に一身を投じたT・E・ロレンスは、どこか根クラのヒーローだった。女性と一度も交わらなかったとも、マゾヒストだったとも言われる。セイゴオのエッセイは、展覧会場で販売される日本語版カタログに寄せられたものとあって、「アラビアのロレンス」の歴史背景の解説を充実させたものになっているが、そのラストで独自にロレンスの「内なる反乱」について触れている。

『知恵の七柱』が端々にあかすように、あるいは知己友人への数々の手紙があかしているように、いつだってロレンスは極端な自己否定にこそ極端な自己高揚があることを盲信していた。肉体と精神をひたすらへとへとにすることが、ロレンスの唯一の原理であったのだ。  ロレンスは「自己の内乱状態」というものを自身の最大のデノミネーターとしていたということである。ロレンスが、つねに自己を歴史の中にゆらぎつづける一個のモレキュラー(分子)として位置づけられたということは、逆にロレンスに、いつだって大いなるデノミネーター(分母)に対する永劫回帰の準備があったということなのである。それを私は、多少は自分の気持ちをこめて「デノミネーター・コンプレックス」とよぶことにしているのである。(『オクスフォードの砂漠王』)

 いったいセイゴオがいつからなぜロレンスに関心を持つようになったのか。その“男ごころ”についてはこのエッセイにはまったく触れられていなのだが、『遊学』のロレンス論はその“男ごころ”が遠慮も会釈もなく狼藉をはたらいているようなものになっている。なんといってもタイトルが「オートバイの繊維学」なのである。その繊維学はしかも、ロレンスにではなく、ひたすらにピーター・オトゥールに向けられているのである。

それがピーター・オトゥールでなかったら、これほどロレンスに傾倒しなかった。次に、それがオートバイで死ななかったら『知恵の七柱』を読んでみる気にはならなかった。それほどにデヴィッド・リーンの映画『アラビアのロレンス』が私にもたらした感興は深かった。(『遊学』)

 実際のT・E・ロレンスは背が低くて短足だったらしいが、セイゴオにとってのロレンスは、砂漠の民の真っ白な“花嫁衣裳”に身を包んだ長身痩躯のピーター・オトゥールその人の姿として焼きついてしまったらしい。

ピーター・オトゥールの“繊維学的演技”のなんと感動的であったことか。私は新聞広告や看板にみる『アラビアのロレンス』のプロフィールから、たんに勇猛果敢、非常冷徹のがっしりした体躯と鋭い眼光の男を想像していたのであるが、これはすっかりうらぎられた。神経質な動作とめったに外には見せない決意の凝縮、つねに不可視の恐怖に脅えているような手と、思考のよどみを象徴するかのような青灰色の眼。ピーター・オトゥールはロレンスの心理の外観というものをのべるためのあらゆる技法を揃えている軟体機械(ソフト・マシーン)であるかのようだった。(『遊学』)

 「ジョージ5号」を見るために西武美術館に駆けつけたセイゴオは、きっとそこにまたがるロレンスの面影を、そっくりピーター・オトゥールの面影として感じ、堪能したのだろう。そして、たった一人分の加速機械であるオートバイで散っていったロレンス=オトゥールを思うとき、やはり一人分の機械に乗って事故死したサン=テグジュペリのことも思わずにいられなかったはずである。

日本の武石浩波、フランスのサン=テグジュペリ、イギリスのロレンスに代表される呆気ない死に方は、消失としての死の源流である。そこには生理学と哲学との癒着による人生観がもののみごとに払拭されている。一人はカナキン張りの飛行機で、一人は郵便配達便で、一人は昆虫のようなオートバイで、ただただ死ぬべくして死んだ。むろんかれらが事故死をしたから美化されるわけではない。生きながらえていても事情は同じだ。かれらの死線はいつだって自身の生態圏を離れた「横超の境界線」にある。あとは一束の宇宙線がその死線を震わせるかどうか、それだけで生死はどちらにもころんだのである。(『遊学』)

 このように、『遊学』のロレンス論は、アラブの反乱にもイギリスの二枚舌外交にもロレンスの苦痛にも触れることなく、ただただオトゥールへの賛美と、機械と運命をともにした男たちへのオマージュだけが綴られた異色の一篇となっている。だからこそ、ここにはセイゴオの“男ごころ”の真相が疼いている。そのように考えてみたくなる。
 どうやらそれは国家や革命やナショナリズムや、あるいは「覚悟の死」や武士道や騎士道といった言葉ではないもので綴られるべきものらしい。機械や昆虫や鉱物やオブジェを偏愛し一心同体になってしまう少年を手がかりにしか掴み得ない、はかない熱情のようなものらしい。
 そしてきっとまだ見ぬサン=テグジュペリとロレンスの「事故機」こそ、絶対少年セイゴオにとってこの世でもっとも極上の恋情オブジェであり、数寄の加速装置なのだろう。

男の倫理をナショナリティの血潮と同種にしてしまうことに反対したい。もっと唐突に男性の倫理というものはやってくるものなのである。そう、オートバイの繊維に疾駆して――(『遊学』)
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写真:『アラビアのロレンス』 ジェレミー・ウィルソン著  1989年新書館
巻頭に松岡のエッセイ「オクスフォードの砂漠王」。

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Key Word あなたの胸でプロペラーが唸っている


1944年7月31日、いまだ第二次世界大戦の戦火が激しいなか、サン=テグジュペリはコルシカ島から南仏グルノーブルおよびアヌシー方面の偵察飛行あるいは出撃に飛び立ったまま行方不明となり、そのまま大空の不帰の人となった。44歳だった。この年、ぼくが生まれた。(千夜千冊第16夜 サン=テグジュペリ『夜間飛行』)

 『星の王子さま』が好きだという大人に会うと(なぜか世の中にはそういう大人が多いのである)、松岡正剛はたいてい「『夜間飛行』や『人間の土地』は読んだの」と聞く。「読んでません」などと答えようもの なら、「ふうん」と軽くあしらってしまう。「読みました」という殊勝な答えに対しても、「胸中の飛行精神がよかったでしょう」とうなづくだけ。ことサン=テグジュペリの“愛し方”に関しては、セイゴオのリトマス試験紙は厳密だ。

 2000年6月のこと、当時松岡正剛事務所で発行していたプライベートメディア「一到半巡通信」に、セイゴオは次のようなことを書いている。

「フィガロ」誌によると、サン=テグジュペリが偵察旅行中に行方不明になったままの飛行機P38ライトニングの残骸が、マルセイユ沖の海底で発見されたらしい。発見したのは潜水士。これはすごい。ぼくはどこかに急に飛んで行くということをしないのだが(とくに外国には)、これだけは見たい。なんといってもサン=テグジュペリがコルシカ島バスティアから飛び立ったまま消えたのは、ぼくが生まれた1944年のことなのだ。つまりぼくはP38で消えた男に代わって生まれてきたようなものなのだ。うーん、見に行きたい。

 そもそもセイゴオは飛行機嫌いなのである。なんでも耳管が人一倍繊細で、気圧が高まるとたちまちアタマが鬱血したように痛み出すらしい。それをまぎらすために機内でも積極的に吸っていたタバコが全面的に禁止されるようになってからは、国際線には極力乗らず(海外にはよほどのことがない限りは行かない)、国内線すら避けるようになっている(四国・九州だって陸路で行きたがる)。そのセイゴオが、「フィガロ」を読んですぐにでも“飛んで”行きたくなったというのだから、これはもう病膏盲・処置なしの絶体絶命のサン=テグジュペリ熱である。けれども、これこそ稲垣足穂伝来の、スジガネ入りの「プロペラーな精神」なのである。

長いあいだ、この飛行家サン=テグジュペリの文学や生涯に疎かった。それが急激に近しくなったのは、サン=テグジュペリが1900年の生まれで、稲垣足穂がやはり1900年の生まれで、二人ともがこよなく飛行機を偏愛していたという符牒に合点してからのことである。  『夜間飛行』は、そうしたサン=テグジュペリの「飛行する精神の本来」を描いた感動作である。(略)サン=テグジュペリ以外の誰もが描きえない、まさに「精神の飛行」の物語なのである。航空文学の先駆と文学史ではいうけれど、そんな甘いものではない。(千夜千冊第16夜 サン=テグジュペリ『夜間飛行』)

 セイゴオの言う「飛行する精神の本来」とは、ハリウッド映画が描くような飛行機野郎のヒロイズムや、うかつに自由や開放を欲しがるヤワな性根とは無縁のものだ。千夜千冊には、この意味を知りたいのであれば、さらにサン=テグジュペリの『人間の土地』を読むべきであること、そして『星の王子さま』は『人間の土地』の童話版として読むべきだということを綴っている。

そこで謳われているのは、飛行機というものは農民が大地にふるう鋤のようなものであって、空の百姓としての飛行家はそれゆえ世界の大空を開墾し、それらをつなぎあわせていくのが仕事なんだということである。とくに、大空から眺めた土地がその成果をいっぱいに各所で主張しているにもかかわらず、人間のほうがその成果と重なり合えずにいることに鋭い観察の目を向けて、人間の精神とは何かという問題を追っていく。そこには「人間は本来は脆弱である」という洞察が貫かれる。だからこそ人間は可能なかぎり同じ方向をめざして精神化を試みているのだというのが、サン=テグジュペリの切なる希いだったのである。(千夜千冊第16夜 サン=テグジュペリ『夜間飛行』)

 サン=テグジュペリは少年時代に飛行機の虜になり、やっとのことで郵便飛行機のパイロットとなってからは、志願して南米やアフリカへの路線を開拓した。まさに大空を開墾した。今日からすれば古典的な極小のプロペラ機で飛んでいたのだから、失速すればたちまち不時着か運が悪ければ墜落、いやもっと言えば、乗れば「いつかは墜ちる」宿命を抱いて飛び続けていたとも言える。実際にも何度も大事故に遭遇したが、むしろ危険な冒険飛行にこそあえて挑戦し続けた。そうやって生死の地平線すれすれを飛びながら「人間の土地」を洞察し、精神の空隙を耕し続けたのだ。
 セイゴオが「航空文学の先駆と文学史ではいうけれど、そんな甘いものではない」と言うのはそういうサン=テグジュペリの生きざまを思えばこそだった。「飛行する精神の本来」とはかくまでリスクの高い存在学のことなのだ。そして、そんな魂の唸り音をいつも胸に響かせようとする心意気が、稲垣足穂の「プロペラーな精神」なのだ。
 そのことをセイゴオは次のように著している。1999年に『別冊太陽』に寄せた稲垣足穂についてのエッセイである。

タルホのヒコーキ・エッセイについては、とくに評論する気などないが、その視線がみごとなまでに初期の飛行機だけに、ファルマンやブレリオやカーチスの機械学や、徳川好敏や武石浩玻の飛行精神の投企性だけに絞られていることが、なんといっても真骨頂なのである。機械とともに大空に飛び出せば、それが直截の存在の投企であって、すべからく死の詩学とも直結していたということを、また、そのような光景を心に描いて空中に放電してしまう夢想に賭けた一連の魂があったということを、わざわざ映画『タイタニック』のように莫大なお金を賭けないで、耳元で伝える方法があってもいいはずである。タルホはさすがにそこを一言で「あなたの胸でプロペラーが唸っている」と書いたものだった。

 この「プロペラーな精神」は、もちろんセイゴオの胸にも唸っている。しかも、羽田や成田で「やっぱりイヤだ。乗りたくない」などと真顔で言い出してはスタッフを困らせる飛行機嫌いのくせに、ときどき「夢」のなかでは飛行を楽しむことがあるらしい。セイゴオは大人になってからも「空を飛ぶ夢」を見ることのできる、稀なる絶対少年らしいのだ。
 ただしその「空」は、サン=テグジュペリよりもさらに「人間の土地」に近いところにあって、せいぜい地上2~3メートルあたり、家々の軒先のあたりを遊泳し続けるのだと言う。あまりにつつましい飛び方だし、たちまち墜落してしまいそうなのだが、いつまでも醒めてほしくないほどの幸福感に包まれた夢なのだということだ。

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写真:稲垣足穂・中村宏『機械学宣言―地を匍う飛行機と飛行する蒸気機関車』1970年仮面社
松岡が編集に携わった。表紙に銅版が使用されている。

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2006年7月29日


Key Word 七夕のためにはいかに契りおきけむ


 千夜千冊第1000夜が7月7日に当ったのは、半ば偶然のようなものだった。体調を見計らいながらの“バースコントロール”の結果がそうなったまでのこと、七夕で千夜を締めくくるというドラマチックな演出を狙ったわけではなかった。が、第1000夜が『良寛』になったことには、人知れぬ七夕の符牒があった。7月7日が『良寛』をセイゴオ千夜の必然にしたのである。

今夜は「千夜千冊」を書きはじめての、4度目の七夕にあたっている。その7月7日にちょうど千冊になるのも何かの不可思議で、ぼくとしてはこういう「めぐりあわせ」は尊びたい。  そして、やや意外なことかもしれないが、良寛には七夕の歌が少なくなかったのである。18首にのぼる。その大半が棚機津女(たなばたつめ)の期待と悄然を詠んでいた。たとえば、次のような3首である。

        天の川 やすのわたりは近けれど
        逢ふよしはなし秋にしあらねば
   
        久方の天の川原の たなばたも
        年に一度は逢ふてふものを

        人の世はうしと思へど 七夕のためには
        いかに契りおきけむ             
   
        (「千夜千冊」第1000夜『良寛全集』)


 良寛の創作長歌『月の兎』を、ちぎり絵のように全編に散らして貼り込んでいった手法は、ただ1回限りの、『良寛』のためだけの手法だった。本文はしんしんと『外は良寛』執筆のエピソードとともに、漢詩、消息、和歌などをほんのわずかずつ引用しながら、しだいに良寛の無常観を降り積もらせていく。同時に兎の物語が少しずつ明かされていく。そして良寛末期の歌「うらをみせおもてをみせて 散るもみじ」と、良寛を看取りながらその歌を書きとめた貞心尼に触れたとたんに、物語のほうは突然に兎が火の中に飛び込む劇的なシーンを迎えるのである。千夜の行間の末尾からびょうびょうと良寛の寂寥が吹きすさぶのだ。
 そのあとに、上記の七夕の歌の下りが続いていく。ここに選ばれた三句は、とうてい千夜と七夕のめぐりあわせを寿ぐために引用されたものではないことがわかる。

淡雪と七夕のあいだに、この千冊目は良寛となっていった。ぼくにはこれが、盂蘭盆会の灯火が点じられたようにも見える。(「千夜千冊」第1000夜『良寛全集』)

 この良寛に点じられた灯火は、まるでセイゴオの七夕の契りのように、翌年の7月7日には北原白秋に、さらにその翌年、つまり今年の7月7日には石川啄木に灯された。

 第1048夜『北原白秋』では、少年セイゴオが胸かきむしられた童謡『里ごころ』『雨』にはじまり、集中豪雨のように白秋の雨の詩歌を降らせている。ただし白秋の雨は、内にも外にも降り積もる良寛の雪とは違って、時折降ってはセイゴオの不意をつくものらしい。
 白秋とは同じ1月25日生まれ、かつ同じ早稲田大学出身という “運命的な”符牒がありながら、また、「青いとんぼをきりきりと夏の雪駄で踏みつぶす」ような哀傷感覚に触知的な共感を抱きながら、青年期に10年ほどまったく白秋を読まなかった時期があると明かしている。そんなセイゴオに再び白秋の断固たるフラジリティを蘇らせたのが、やっぱり「雨」だった。美空ひばりの歌う『城ヶ崎の雨』だった。それをきっかけに、セイゴオは初めて白秋が短歌の名人でもあったことを知ったという。

ぼくをふたたび白秋に向かわせるきっかけになったのは、「秋思五章」(『桐の花』)に歌われた“絲”の音である。きりきり、きりり、こんな音がする短歌だ。

        清元の新しき撥(ばち)君が撥
            あまりに冴えて痛き夜は来ぬ
        手の指のそろへてつよくそりかへす
            薄らあかりのもののつれづれ
        微かにも光る蟲あり三味線の
            弾きすてられしこまのほとりに
        円喬のするりと羽織すべらせる
            かろき手つきにこほろぎの鳴く
        太棹のびんと鳴りたる手元より
            よるのかなしみや眼をあけにけむ
        常磐津の連弾(つれびき)の撥いちやうに
            白く光りて夜のふけにけり

        (「千夜千冊」第1048夜『北原白秋集』)

 ここでは、青いとんぼを踏み潰す「きりきり」音に共通する擦過傷感覚ばかりを、三絃の糸の音鳴りに合わせて選び抜いている。常磐津や清元が白秋とセイゴオをつないでいる。これは、すでに2月7日の「Key Word(セイゴオ・オントロジー)」にも書いたように、セイゴオがこよなく愛する風趣のオブジェ感覚にも通じるものなのだ。

これはシュルレアリスムのオブジェ感覚なんかではない。おお、ほろろん白秋、ほろろんの白秋オブジェのぢぇぢぇ、なのだ。たとえては、「一匙(ひとさじ)のココアのにほひなつかしく訪(おとな)ふ身とは知らしたまはじ」という、そのココアと一瞬だけ交わった眼の言葉、タッチの渋みなのである。(「千夜千冊」第1048夜『北原白秋集』)

 こうして第1048夜『白秋』は、一匙のココアの風味を余韻に、良寛の寂寥を髣髴とさせるような次のような寂びた詩を引用して終わる。

        二人デ居タレド マダ淋シ。
        一人ニナツタラナホ淋シ。
        シンジツ二人ハ 遣瀬ナシ。
        シンジツ一人ハ 堪ヘガタシ。

 そして、今年7月7日、第1148夜の啄木である。『一握の砂・悲しき玩具』である。驚いたことにセイゴオは、白秋のラストの「一匙のココア」を、啄木の「ココアのひと匙」に逢着させて、ひそかな七夕の契りを結んでいたのである。

        はてしなき議論の後の
        冷めたるココアのひと匙を啜りて、
        その薄苦き舌触りに、
        われは知る、テロリストの
        かなしき、かなしき心を。

 啄木のココアには、白秋のココアの香ばしさや渋みがない。冷めたココアの哀しい甘苦さがあるばかり。昭和の時代まで生きて詩魂をまっとうした白秋に比べて、肺結核のために26歳で死んでいった啄木はあまりに悲痛だった。その悲痛をかなぐり捨てるようにもがき、さらに窮地へと追い込まれていく啄木の短い生涯を、セイゴオは詩歌を引用しながら物語っていく。そして国家と社会に対する「灰色の精神のテロリスト」「ココア色の魂のアナキスト」の逆上と喀血を描ききる。
 この啄木の心情を激震のように伝える3句を、セイゴオは選び抜いている。第1148夜は前置きも前触れもなく、冒頭でこの3句から啄木の痛哭と義憤を打ち付けているのだ。

       どんよりと
       くもれる空を見てゐしに
       人を殺したくなりにけるかな

       やや遠き ものに思ひしテロリストの
       悲しき心も
       近づく日のあり

       誰そ我に
       ピストルにても撃てよかし
       伊藤のごとく死にて見せなむ

 ところで、10月刊行の求龍堂版「千夜千冊全集」では、良寛は第1巻『遠くからとどく声』の第十一章「方舟みちあふち」に、白秋は第8章「歌が降ります」に配されたが、啄木はどこにも入らない。それはセイゴオの意図したことではなく、10月刊行を厳守するために入稿が打ち切られてしまっただけのことだった。
 けれども、7月7日の連環記は、良寛から白秋、啄木へと、切なくも周到に、誰に告げることもなく書き継がれてきた。セイゴオがこっそり契りおく盂蘭盆会の灯火は、来年はどの星座の当りに灯されるのだろうか。

       己が名をほのかに呼びて
       涙せし
       十四の春にかへる術(すべ)なし

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歴史ビデオ「新代表的日本人(第2巻)」でも啄木の「誰そ我に・・・」を紹介

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2006年6月28日


Key Word 自動販売機は乾電池の夢を見ているか


……何であれ、忽然と出現する「電界的消息」の隙間から話は急転直下するものです。これはヴィリエ・ド・リラダンがメンロパークの魔術師に、宮澤賢治が電線のうなり音楽に、マックス・エルンストが巨大コイルに心を奪われてこのかた、CRTのピクセルの点滅に心を奪われる少年の今日にいたるまで、ずっと変わらぬ急転直下というもの、それがましてポール・ディラックの電子方程式やリチャード・ファインマンの電磁気学の隙間ならなおさらです。しかし、その急転直下が近所の風呂屋の帰りでもおこるとなると、ちょっと隅におけなくなってくる。まずは、そのアンチ・ディック風の話から聞いてください。……

 これは、松岡正剛が1988年にイナックス・ブックレット「自動販売機」特集に寄せた「たった一人ぶんの消費機械あるいは自動販売機は乾電池の夢を見ているか」という長いタイトルのエッセイの書き出しである。セイゴオには愛着のあるエッセイらしく、1998年に芦ノ湖畔で第1回未詳倶楽部を開催したときは、コピーを全員に配布し、思い入れたっぷりに朗読をし始めたものだ。

……1970年代が半ばにさしかかっていた冬の時代、当時、私は抜弁天と番衆町とのあいだの富久町の小さなアパートにいたのですが、そのアパートから下駄でブラブラ歩いても5分もかからない風呂屋にしょっちゅう通っていた。アパートに風呂がなかったわけではなく、そこがたいてい3匹の猫たちに占領されていたからでもなく、また滝田ゆうや西岸良平のレトロ趣味にかかわるわけでもなく、ともかく銭湯が好きだったのです。……

 セイゴオが富久町の横田アパートに住んでいたのは、20代最後の数年から30代の始めにかけてのこと、永井荷風の断腸亭跡があった余丁町まで下駄でそぞろ歩くこともあった。同じく下駄履きの沢木耕太郎と顔を会わせることもあったらしい。

   
A ヨコタアパート.jpg


……ある晩、それも夜中の12時近くだったのですが、体を充分に温め、半分消えた洗い場の蛍光灯をあとに、いつも定番になっていた45番の箱から鼻緒のゆるんだ下駄を取り出し、藍地に紅で「ゆ」と染め抜いた暖簾を払ってひょいと表に出たとたん、それ、そこに、乾電池の自動販売機が立っていたことに気がついたのでした。

 いや、風呂屋に入るときはまったく気がつかなかった。なにしろその町内といったら、夕闇が迫っても灯りがついているのは風呂屋とその向かい側の電気屋だけという界隈、その電気屋も8時には灰色のシャッターをピシャリと降ろしてしまいます。……

 当時の思い出や解説を加えながら朗読するセイゴオと、その声に全身を傾けて聞き入る未詳会員たち。ところが、このエッセイはここから、セイゴオのけったいな行動を記していた。

……だいたい灰色のシャッターにしてからが冬の風しか知らない音をもっている。そのシャッターの前に、かつて見たことがない販売機が凍て付くように待機していたのだから、これは私の風変わりな経歴からしてもたまらない邂逅です。ふらふらと2、3歩前に出て、しかし決してそれ以上は近づかずに、その異様な主張力に見とれていました。……

 異様なのはセイゴオの行動ばかりではない。販売機を眺める眼も、その記述ぶりも、あきれるほどのマシンフェチぶりである。朗読を聴く未詳倶楽部の面々は、堪えきれずにくすくす笑いを漏らし始めた。

   
B 弁天湯 のコピー.jpg


……ボディのデザインや色はあっさりしています。N乾電池としるしたロゴタイプもことのほか小さく、格別の趣向はないショウウインドウもまたしごくシンプル、清涼飲料のための販売機に見られる大口思考の押し付けがましさはなく、せいぜい天地20センチほどの横に長いウィンドウなのです。そのウィンドウにチ・チ・チ・チと単一の乾電池が整然と並んでいるだけ、ただそれだけなのに、こちらはなんとも息をはずませホッホッと興奮していたというのだから、これはむろん私の方が異常です。……

 ひそひそと笑う声が次第に痙攣したようなうめき声に変わっていった。朗読するセイゴオもつられて笑い始める。エッセイはなおもしつこく、乾電池販売機の楚々としたたたずまいとその相貌を賛美し続ける。笑いの感染が会場のすみずみにまでいきわたると、もう止まらない。読み手も聞き手も身をよじり、椅子から転げ落ち、しまいには涙を流して洟をかみ、しばし中断してはまた読み始めるというとんでもない朗読パフォーマンスとなってしまったのである。

……そのときの感慨を一言であらわすのは容易ではないのですが、とりあえず簡潔してしまえば、「そうか、乾電池よ、おまえもついに自動販売機にまで到達したか、そうかそうか」という喝采です(わっはっは)。それから3日ぐらいたってからでしょうか、いまならまだ風呂屋に間に合いそうだという夜陰、私は乾電池自動販売機に初めてコインを入れてみました。チャリン、ウィーン、ドコン。たしかに単一の乾電池が一個落ちてきた(うっうっう)。
 その瞬間です、どうもこれは「乾電池が自動販売機に進化したのだ」と、そう直感的におもってしまったのです。乾電池は自動販売機になることを狙っていたのです。そして、いま、乾電池は自動販売機の中に入り、おそらくこれはまだ進化の途中のことで、このあと、いよいよ乾電池が自動販売機になっていくプロセスがはじまるのだ、そう直観したわけでした。妄想はみるみるまに膨れ上がっていきました(ぐっぐっ)。……

 エッセイはそのあと、自動機械やオートマチスムの歴史にちょっとは触れたりはするものの、セイゴオの販売機愛がなおも過剰に綴られていた。じつはセイゴオにはもう一本、乾電池販売機について記したエッセイがある。1976年に『日本美術』に寄稿した「乾電池とボールペン」である。こちらは冨久町時代からさほど時を措かず記されたものであり、おそらくはイナックス・ブックレットのエッセイの母体となったものだろう。すでに乾電池販売機への偏愛が硬質な文体で告白されている。書き出しはこうである。

……新宿抜弁天の風呂屋の向かい側の電気屋は夕方六時頃には早々と店が仕舞われて、シャッターが降りたそのあとにはナショナル乾電池の自動販売機が男湯や女湯へ入っていく人たちを見ている。やがて12時近くに風呂屋も終わるとその界隈一帯はほぼ真っ暗になり、ひとり自動販売機のみが何かを待ち受ける。アンドレ・ブルトンは街でナジャに逢い、萩原朔太郎は路面電車のスパークに逢い、レイ・ブラッドベリはさなぎ男に逢い、稲垣足穂が落ちてきた星に、別役実がカンガルーにそれぞれ逢った或るもの、それが私には乾電池の自動販売機だった。……

 ところで、第1回未詳倶楽部を予期せぬ盛り上がりで終えた松岡事務所スタッフは、東京に戻るなり新宿区冨久町へと向かった。風呂あがりのセイゴオをかくまで興奮させた乾電池販売機の消息を訪ねずにはいられなかったのだ。
 驚いたことに、セイゴオが暮らしていた当時から四半世紀を経ているにもかかわらず、工作舎が入居していた番衆町のローヤルマンションも横田アパートも弁天湯も、その地に健在だった。しかも弁天湯の向かい側には、近年リニューアルされたと思しくも、それほど進化したとはとうてい見えないくだんの乾電池販売機が、灰色のシャッターを背にたたずんでいたのである。

   
C 自動販売機 72 のコピー.jpg


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2006年5月23日


Key Word 健康なんてくそくらえ


 
 松岡事務所の常備品といえば、キャスターマイルド、ヤクルト300、サラダ煎餅、チキンラーメン。すべてセイゴオの嗜好品。いずれも常備歴は10年以上。もはや必需品である。

 タバコをやめさせることなどすっかりあきらめているスタッフも、せめて食べモノくらいはカラダにいいものをと、常備品の健康路線シフトを試みてきた。すなわち、甘すぎるヤクルトよりは野菜ジュースを、アブラギッシュな煎餅よりは五穀米煎餅を、チキンラーメンよりは手作り惣菜を。しかし嗜好が合わないと「思考が落ちる」とまで言うセイゴオ。スタッフの思いやりは消化したうえで、その上やっぱり、サラダ煎餅とチキンラーメンもかかさないのである。

 そもそも「健康」嫌いなのである。関心がないのではなく、“嫌い”なのである。こんなことでは、くだんの胃癌入院以来、「千夜千冊」を見守りつつ松岡正剛の健康を願い続けてくださっているファン、読者の皆さんにあまりにも申し訳がないのだが、さりとてこの「健康」嫌いをくつがえすには、セイゴオの次のような論戦に対峙しなければならないのである。

 曰く、「なぜ健康が嫌いになったか? それは千夜千冊はじまって間もない第10夜のルネ・デュボス『健康幻想史』にすでに書いたよ。読んでないのかね」

 あわてて第10夜を開いてみれば、こんなことが書いてある。

ぼくが一番おもしろかったのは『健康という幻想』である。これは人類がどのように健康や長寿を求めたかという歴史を、ふつうなら病気の歴史にしてしまうところを、ひっくりかえして「健康幻想史」にしてみせたのだ。それを抗生物質の発明者が書くところが、デュボスのデュボスたるゆえんなのである。ただしぼくには、この本が「健康なんてくそくらえ」という方針を確立させてしまい、おかげで健康から見放されることになってしまった曰くつきの本だった。

 また曰く、「諸君のほうこそ、“健康”に蝕まれているんだよ。それについては第764夜のジャック・アタリに書いておいたからね」。
 アタリの『カニバリズムの秩序』はかえって情報ネットワーク経済社会の“その後”の問題を先取りしたようなところもあった。新しい経済社会の食人性(カニバリズム)は、家屋を装う商品が家屋を蝕み、健康を装う商品が健康を蝕み、心を装う商品が心を蝕んでいく危険性があると説いたのだ。だからそのような社会ではどうしても「自律監視性」が求められるだろうが、そこをどうするかが難問になると警告したのだった。

 さらに曰く、「自分の“健康”や“精神”に関心を向ける時間があったら、第446夜ベイトソン『精神の生態学』のラストを味読しなさい」
 自分の関心は自分であり、自分の会社であり、自分の種だという偏狭な認識論的全体に立つとき、システムを支えている他のループはみな考慮の外側に切り落とされることになります。人間生活が生み出す副産物は、どこか"外"に捨てればいいとする心がそこから生まれ、エリー湖がその格好の場所に見えてくるわけです。
 このとき忘れられているのは、エリー湖というエコメンタルな一システムが、われわれを含むより大きなエコメンタル・システムの一部だということ、そして、エリー湖の「精神」が失われるとき、その狂気が、より大きなわれわれの思考と経験をも病的なものに変えていくということです。

 こんな筋金入りの「健康嫌い」を、どうすれば“健康”にさせられるのか。松岡事務所の永遠の課題なのである。
   
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2006年5月11日


Key Word ノスタルジアの風味


 松岡正剛の出身地といえば京都だが、セイゴオを育んだ“故郷”はどこかとなると、2歳から7歳までをすごした日本橋芳町もあれば、そのあいだに1年間だけ暮らした鵠沼もある。芳町ではよちよちと一人で出歩いては迷子になって大騒ぎを起こす頼りない幼少期を送っていたようだが、「松岡商店」の店構えから右隣の伊香保湯や、しばしば父に連れて行かれた人形町末広亭などを克明に覚えているらしい(「千夜千冊」第九一七夜『日本橋』参照)。また鵠沼は、江ノ電に轢かれそうになったことが松岡正剛の原初の記憶になっているほど、重大なトポスになっている。
 8歳のときに松岡一家は京都に戻ったが、すっかり「東京弁」の少年になっていたセイゴオは京都弁になじめずに、それが原因で吃音になってしまったと言う。京都に生まれながら、セイゴオ少年は京都の「異邦人」になってしまったのだ。

 しかし、そんな気難しい幼な心は父親から与えられたピカピカの自転車によって、たちまち変貌していった。数年後には野球のユニフォームを着たまま自転車で京都市中を上ったり下がったりして飛行しまくる「京都っ子」になっていた(「千夜千冊」第806夜『天使突抜一丁目』参照)。

 そこへ、二度目の「分断」が起こる。またしても父の突然の方針変更で、一家は横浜山手町に引越し、入学したばかりの朱雀高校から東京のど真ん中の都立九段高校に転校。セイゴオ15歳の春のこと。

 ぼくは京都の朱雀高校合格が決まった直後に横浜に越すことになり、神奈川県立の緑が丘高校やら希望ケ丘高校やらのフリーパスの編入先を蹴って、東京の九段高校の編入試験をうけた。京都弁はなおりそうもないし、入学式にはギリギリまにあったとはいえ、まわりは見知らぬ者ばかりで言い知れぬ不安が募った。(千夜千冊第507夜『女生徒』)
 ぼくは九段高校にいて富士見町教会に通い、演劇部の女生徒に憧れながらも、離れた京都が無性に恋しくて、こっそり京都に通っていた。(千夜千冊第351夜『山羊の歌』)

 二度にわたって、馴染んだ町かど、見知った顔と引き離された体験。そればかりではなく、8歳で京都の「異邦人」となり、15歳で東京の「異邦人」となったこと、しかもその京都と東京が背中合わせの鏡になっていたことは、松岡正剛の“郷愁感覚”に独特の捩れをもたらしたのではないか。 

実は、ノスタルジアは指定できないものへの憧れにもとづきながらも、その指定できないものからすらはぐれた時点で世界を眺めている視線なのである。  もっとはっきりいうのなら、ノスタルジアの正体は視線が辿るべき正体がないことから生じたものなのだ。したがってノスタルジアは過ぎ去ったものへの追憶ではなく、追憶することが過ぎ去ることであり、失った故郷を取り戻したい感情なのではなくて、取り戻したい故郷が失われたことをめぐる感情なのである。(第482夜『ノスタルジアの社会学』)

 この感覚を、松岡正剛は「香ばしい失望感」と呼び、また「遊星的郷愁」と名づけている。「遊星的郷愁」とは、地球に生まれ落ちてしまったことすら何かの喪失になっているという、ハイパー・ノスタルジック感覚である。日本橋界隈を小さな靴で一心に歩いた少年も、あるいは京都で自転車をスパークさせて疾駆していた少年も、きっと遊星になりたかったのだろう。

 ちなみにセイゴオが日本橋芳町時代に通っていた東華小学校は小学校適正配置計画によって統合されて中央区立日本橋小学校になり、京都時代に通っていた修徳小学校は閉校されて特別擁護老人ホームになり、初音中学校も今はすでになく、跡地には教育センターのビルが建てられているという。NHK「ようこそ先輩」の出演依頼も、帰るべき学校がないというセイゴオの告白を受けたディレクターが困惑したままで、いまだに実現していない。

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日本橋の東華幼稚園時代(4歳)

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2006年4月20日


Key Word スカートを穿いたMとM


 「千夜千冊全集」出版に向けてセイゴオの猛作業が続く一方で、「千夜千冊索引年表巻」の編集が求龍堂と松岡事務所によって着々と進められている。あるとき、両社の担当スタッフが額を寄せて索引語の選定会議をしながら、こんなことを交わした。
 「松岡正剛の世界観を浮き彫りにする索引語として、“スカート”は欠かせませんね」。

 これは冗談ではなくおおまじめな意見である。実際にWEB「千夜千冊」を「スカート」で検索してみるとわかる。ずらりとこんな記述が出てくるはずだ。

○グラスが仕掛けたのは「匂い」と「スカートの中」という感覚装置である。(第153夜『ブリキの太鼓』)
○女神の足元の衣の奥を覗くなんて大それたことだとおもったが、いそいそとアルマ・マター のスカートの中を覗いてみると、そこになんとフクロウがいた。(第294夜『二重らせんの私』)
○彼女のスカートの中にはつねに一寸法師や傀儡たちが入りこんで、議会で演説をする ロベルトの上半身の理性は・・・(第395夜『ロベルトは今夜』)

 仙人顔のセイゴオとて生身の男児、翻るスカートに目を奪われ、そこから零れる脚さばきに胸ときめかせ、スカートの中にもぐりこみたい春宵をもてあますことだってあるだろう。しかし次のような一節を読むと、ことの重病さが気になろうというもの。

東京日本橋の小学校に入って、音楽の先生がぼくをスカートの中に入れた。何が何だかわからなかったものの、この記憶は強く残っている。(第444夜『ピアノの誕生』)

 上野千鶴子に『スカートの下の劇場』という著書があるが(これについても第875夜で念入りに触れている)、セイゴオのヰタ・セクスアリスはまさに「スカートの中の劇場」から始まっていたのである。
 しかしこの幼年スカート体験は、松岡正剛の嗜好を解くヒントにはなったとしても、そのままでは世界観を解く鍵にはならない。それを開けるには次のスカートもめくってみる必要がありそうだ。
 
 WEB「千夜千冊」第714夜のロラン・バルト『テクストの快楽』には、バルトの幼年時代の写真が一枚掲載されている。内股ではにかみながら立っているバルトは、なんとスカートを穿いているのだ。

この写真をぼくが知ったのはバルトが交通事故で死んでからのこと、ルイ=ジャン・カルヴェの厚い『ロラン・バルト伝』が出てからのことだった。その本はバルトのゲイ感覚についてほとんど言及していないままだった。だから、ぼくはスカートを穿いた幼年バルトがかえって忘れられなくなったのだ。
 

スカートを穿いたバルトがいたならば、スカートを穿いたセイゴオがいるはずだ。第714夜に綴られているのは一貫してバルト=セイゴオ同定式という密約のこと。この同定式は、心理や精神やトラウマの分析などは寄せ付けない。性についての自己編集も他者編集も撥ね付ける。バルトのスカートはテクストという快楽の秘密であり、セイゴオはそれを編集というジェンダーの秘密にした。二人にとってスカートは、それが何を表すのかを定義されることを断固として拒む、世界編集劇場のヒダのヒダなのだ。

 もう一人、スカートを穿いたセイゴオの同定式の相方がいる。第890夜の森村泰昌である。WEB「千夜」では本文の前に、マリリン・モンローとなってスカートを翻す森村氏の写真が掲載されている。

森村もM、三島もM、マリリン・モンローはMMで、いったいどのMがMMで、どのMが何のMかがややこしくなりすぎているところがあって、そこがまた実は一番の味わい深いところなのである。 つまり問題はMなのである。M的であるとはどういうことかということなのだ。問題のすべてがMであることは、もう一人のMであるぼくにはとくによくわかる。

 このあとセイゴオは森村氏と大阪で落ち合ってなにやらの「仕掛け」について交し合ったという話を綴っているが、じつはこれは数日後に熱海で開催された未詳倶楽部「金色変成観光」の段取り打ち合わせだった。いよいよその当日、何も知らずに温泉旅館に集まった40人の会員たちは、「春の祭典」「受胎告知」「彦根屏風」といった東西の名画になりきる大コスプレ大会に巻き込まれたのである。しかもその模範演技として、Mが寛一・Mがお宮となって、あやしさ満点の金色夜叉が披露された。その甲斐あってか、会員たちも旅館からあらゆる小道具を借り出して、女装男装入り乱れての見事な変成名画を完成させた。
 充実した審査会を終えて、MはMのために一篇の自筆の文章を朗読した。それが「千夜千冊」第714夜のロラン・バルトだったのである。Mはそれに答えて、このようなことを会員たちに告げた。「セイゴオさんの切実こそを皆さんは共有すべきです」。

 スカートを穿いた「M」=「M」。その切実。そういえばMは、めいっぱいスカートを広げて空中に浮かぶ文字にも見えるではないか。

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投稿者 staff : 15:45

2006年4月12日


Key Word ウチのセイゴオ、ソトの正剛


 松岡事務所には合計3台の電話がある。うち1台はセイゴオ専用となっているが、外線の呼び出し音を切ってあるため、セイゴオ宛ての外線電話は必ず松岡事務所が取り次ぐことになっている。
 たいていは「松岡さん、いらっしゃいますか」といった会話から始まるが、これが「松岡先生」となると原稿催促か講演依頼、「校長先生」となると編集学校の関係者、「センセセンセ」と連呼するのは帝塚山ゼミ生である。「松岡正剛さん」とフルネームで呼ぶのは武道家で、「セイゴオさん」だと森村泰昌さんか山口小夜子さん、「松岡君、いる?」なら杉浦康平さん。「まっつぁん、おるか?」が修徳小学校時代の幼なじみ、「“まっち”は来てる?」なら工作舎草創期の友人。注意すべきは「社長」でこれはたいてい金融か不動産セールス、もってのほかの「松岡マサタケ社長」というのもある。

 セイゴオ専用電話は外線の呼び出し音は鳴らないが、内線の音は鳴る。松岡事務所のみならず、赤坂ZEREビルの中にある30台の電話機のどこからでもセイゴオに内線電話をかけることができるようになっている。しかしスタッフからセイゴオに内線をかけることはほとんどなく、ましてやいきなり書斎「WEAR」に入室するスタッフもいない。
 セイゴオに用件のあるスタッフはまず、書斎の隣のルーム「NEAR」にいる和泉佳奈子に内線をかけ、その日のセイゴオの予定や執筆状況や体調や機嫌を聞き出す。その上で「間合い」をはかり、呼吸を整え、カニ歩きをしながら書斎に滑りこむ(書斎にはドアがなく、暖簾を分けて入っていく)。そういう社則があるわけではないし、セイゴオが望むのでそうしているのでもない。

 赤坂ZEREのスタッフは、書斎のセイゴオの思索を中断することを何よりも恐れている。いや、中断ならまだしも、そこに持ち込む相談や思惑や想念が、セイゴオの思索の網にひっかかってしまったら最後「千夜千冊」や執筆中の文章の緻密な文脈や周到なスタイルにまで影響を及ぼすこともある。書斎の松岡正剛は「内」と「外」、「個人」と「組織」、「歴史」と「現在」、「HERE」と「THERE」、「汝」と「我」を瞬時に引き換え差し違えてしまう異形の不空羂索観音なのである。その広大無辺な慈悲深さこそを、スタッフたちはもっとも恐れている。

 われわれは、自身を「我」と呼びながら、歴史や組織を「それ」とよぶ。それらの両方を「共に在る」とよぶ力をもってはいない。なぜなら、個にとって類の歴史は外部であり、我にとって組織はいつでも外部化できるからである。が、この錯覚を除去しようとしたとき、初めてわれわれはこの両者のあいだの「感情」をもつことができるのだ。
 この感情がつくるもの、それは「汝の境界線」を生ける中心として、そこに向かう者たちのズレを頼みに「あいだ」をつくり、その「あいだ」にそれぞれが生ける相互関係を立たせていくということである。これが感情が生み出す「真の共同体」(Gemeinde)というものではなかろうか。そうでない共同体が理想だというのなら、その例を持ち出してもらいたい。(第五八八夜『我と汝』)

 この組織観は、工作舎のころからあまり変わっていないようだ。工作舎において「遊軍」や「遊塾生」たちがそうだったように、いまはISIS編集学校の師範・師範代・学衆が、生ける相互関係としてセイゴオと哀楽を共にしている。

 おそらく本来のセイゴオは書斎派ではない。仕事場は広間や次の間や縁側のほうがふさわしく、そこにスタッフのみならず、塾生や学衆の自在な出入りがあってもいいと思っているはずだ。実際に工作舎で受付を陣取って、すべての外線電話と来客に対応しながら、執筆や企画を編み続けていたという。青葉台に住居兼事務所を構えたときは、30畳ほどの広間の一画を書斎にし、接客と執務をかわるがわるにこなし、あるいはそこでいかなるミーティングや交渉ごとが行われようと、かまわずにワープロを打ち続けていた。
 
 そんなセイゴオのことも、セイゴオのいる場所のことも、松岡事務所のことも、スタッフたちは「M」と呼びならわしてきた。社内でかわされるメモや書類に書かれた「M」がどの「M」を指しているのかは、松岡正剛という文脈のなかにいる限り取り違えることはない。
 

   
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書斎前に置かれた「関守石」は入室不可のしるし

投稿者 staff : 17:47

2006年3月15日


Key Word 赤き光のみなぎらふ


 赤坂ZEREビルのセイゴオ書斎には「WEAR」というルーム名が付いている。その名のとおり、ここが更衣室にもなっている。クローゼットの中のワークスーツやジャケットは黒ばかりだが、ひときわ目立つ赤いマフラーが何本か吊り下げられていて、コートの季節には必ずこの赤いものをとっかえひっかえ首に巻いている。

 セイゴオには赤色エレジーな幼な心の秘密があるらしい。両親に連れられて京都の俳壇「京鹿子」の最年少同人となったのは9歳のときだった。そのころ読んでいた句はあまり覚えていないようだが、次の二句は今もときどき口にすることがある。

  赤い色残して泳ぐ金魚かな
  木の箱にいちごの色を残しけり

 赤色の、しかも残像ばかりを気にする少年だったようなのだ。さらにこんなエッセイも書いている。『眼の劇場』に収録された「鳳仙花とハーモニカ」である。

 ある日、ハーモニカを吹いていたら口元から血が吹き出てきた。なにかの加減でハーモニカの金具が口元か唇を切ったのだろう。ハーモニカは血に染まった。私は驚いたが、どういうつもりだったのかいまでは理由が憶い出せないのだが、庭の奥に咲き乱れていた鳳仙花の一群のところに行き、その血塗られたハーモニカを鳳仙花の根元に埋めた。私はそれで安心したかったのだろうか。翌朝、早すぎるくらいの時間に起き出し、私は庭の奥の鳳仙花を見に行った。赤くなりすぎてはいないかとおもったのである。

 この感受性の鋭すぎる少年は4歳だった。敗戦と同時に東京進出を決めた父の意向で、母と二人だけで暮らした束の間の鵠沼時代の一場面である。松岡正剛の原初の記憶は、生まれ故郷の京都の風物でも、7歳までを過ごした日本橋芳町の芳香でもなく、鵠沼の鳳仙花の赤だったのである。

 そんなセイゴオが、2003年11月、斎藤茂吉の故郷山形で未詳倶楽部を開催したことは、決定的な赤色事件となった。ゲストの一人が「赤色エレジー」のあがた森魚だった。その生歌を堪能した翌日は、もう一人のゲストである田中泯が蔵王連峰を背景に踊り、そこにセイゴオが茂吉の『赤光』から選び抜いた歌を読み重ねた。

 ぼくは茂吉の『赤光』から選んだ歌をポツリポツリと読み挙げていった。できるかぎり無個性に。できるだけ松岡正剛らしくなく。茂吉にしたのは、茂吉の故郷が上山であったことと、きのうこそは田中泯と未詳倶楽部の面々に、茂吉の赤い光を滾らせたかったからだった。(「千夜千冊」第816夜『共同―体(コルプス)』)

 ところが赤色事件はこれで終わらなかった。2年後、今度は田中泯が新国立劇場で『赤光』を踊ることになり、セイゴオに再び選歌とともに、その書を依頼してきたのである。
 
 田中泯のプランに合わせて、一首を畳一畳分もの大きさの書にすることになった。さまざまな書体と結構を試すうちに、石州から特漉きしてもらって取り寄せた100枚の和紙をたちまち書き尽くし、慌てて60枚を追加で漉いてもらった。全身サロンパスで4週間ほど格闘し続けたが、それでもまだ書き上がらない。いよいよ紙も体力も尽きそうになったとき、突然セイゴオは朱墨を使い出した。朱が入ると墨が自由に走り始めた。文字とも画ともつかないものが勢いづいて躍り始めた。これで、ようやく“狙い”が決まった。

 2005年6月3日、新国立劇場小ホール。田中泯とともに、7枚の書が舞台を上へ下へ、前へ後ろへと舞った。松岡正剛はどこか落ち着かないようすで、ますます赤方偏移していくダンシング・カリグラフィを、客席から見守っていた。

 入りつ日の赤き光のみなぎらふ 花野はとほく恍け溶くるなり(『赤光』)


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4月20日 どう書こうか頭をかかえるセイゴオ(左)
5月06日 朱をいれてみた(中央)
5月12日 ようやく筆が自由になった(右)

投稿者 staff : 18:43

2006年3月 9日


Key Word 金属サーカスの日々


 10年ほど前のこと、珍しく昼間のスーパーマーケットに買い物に行ったセイゴオが、戻ってくるなり「すごいレジ打ちのおばさんがいたんだよ」と眼を輝かせて話し出した。目にも留まらぬ速さでテンキーを打ちまくり、あっというまに商品を整然と袋に詰め込んでくれたのだという。「それがもう、速いのなんのって」。世界一の早撃ちガンマンに会ったとでも言わんばかりに興奮していた。
 かつて日本では職人のことを「手人」(てひと)と呼んでいた。セイゴオはこの「手人」の「手」が大好きなのだ。京都の悉皆屋に育ち、たくさんの手人に出会った生い立ちが関係しているのかもしれない。きっと「手」を観察するのが好きな少年だったのだろう。プロたちの手ばかりではない。母親がナイフで鉛筆を削りあげていく「手」や、父親が火鉢の灰を静かにつつく「手」も憧れをもって見つめ、それを真似ようとしていたと言う。

九段高校時代に「新聞部」に入ったときも、紙面づくりや編集さのおもしろさに目覚めるよりも先に、印刷所の手人たちに夢中になったようだ。そのことを『遊学』(中公文庫)のグーテンベルクの章に微細に綴っている。「金属サーカスの日々」というタイトルで、グーテンベルクのことではなく組版職人や鉛活字のことばかりを書いている。

 黒いゴムの前垂れをしてピンちょ(ピンセット)片手に大小の鉛を相手にとりくんでいる組版工の人にまじり、これを手伝うのがたのしみだった。

(略)組版は天を手前にしておこなわれる。組版のお兄さんがたは「このほうがね、活字が読みやすいんだよ」と教えてくれたけど、しばらくはこの「裏文字の活字を天地さかさまにして読む術」が不思議でならなかった。この職能は、そのころの私にはレオナルドの鏡文字などよりよっぽどスペクタクラ・パラドクサレルムにおもわれた。

さらに驚くべきは組版の早さだ。柔らかい物体をつかむにこそふさわしいと思いこんでいたピンセットが、まるで生きた指先のように冷たい活字やインテルを操るのは、組版台上の金属サーカスというにふさわしい。

 こうして活版印刷の醍醐味を覚えて生涯一編集者を志したセイゴオは、ついに杉浦康平さんと出会う。杉浦さんこそ、セイゴオがもっとも長期にわたって、驚きをもって観察し、憧れ、慕いつづけた手人だった。

 そのころ杉浦さんは・・小さな円形計算尺で版下指定をしていた。まるで数理学者のようだった。指定はスタビロの色鉛筆の深紅と臙脂。字は小さくて、間架結構が美しい。当時のぼくには、その計算尺と赤紫の文字が杉浦目盛と杉浦色というものだった。また杉浦さんは・・葉書より小さなカードを脇に何枚かおいていて、何かを思いつくとメモを必ず簡略なドローイングにしていた。それもやはりスタビロの色鉛筆。すべてはドローイング・メモ。走り書きは一度も見たことがない。なんであれ、丁寧に扱うこと、とくに本のページを繰るときは――。(「千夜千冊」第981夜『かたち誕生』)

 いまもセイゴオはよくスタッフに杉浦さんの動作を再現して見せる。デジタル世代のエディターやデザイナーには、杉浦さんの「プリンティング・コスモス」のディテールが伝わりにくくもなっている。それでも、ほんのちょっと「丁寧」ということを教えるために、杉浦さんがどんなふうに本を机に置き、どんなふうに姿勢を正し、どんな手つきで頁を繰るのかを、真似て見せている。
 
 そしてまた、松岡正剛が自分のことを「編集職人」と言うときは、ただ言葉を編み、デザインを指示することの徹底を表しているのではない。著者として初校や再校に向かうときも、赤入れの書き込みの位置から引き出し線の勢いにいたるまで気をくばり、どんなにゲラを真っ赤にしようともそれ自体が整然と美しく見え、しかもその作業が段取りよく高速で進むことにもこだわっている。おそらく印刷所の組版工の鮮やかな仕事ぶりが、またそれ以上に杉浦さんのドローイングの間架結構が、セイゴオ・テンキーのなかに生きているのだ。

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手の配置、ペンをもつ位置にもこだわるセイゴオ(撮影:中道淳氏)

投稿者 staff : 18:53

2006年3月 2日


Key Word 渋茶には塩煎餅の冬を添え


 「遊」編集長の松岡正剛といえばヒゲの強面だった。そのヒゲを剃らせたのは、松岡事務所創設メンバーの一人で今の編集工学研究所代表の渋谷恭子だった。以降、渋谷の美意識は松岡事務所に強固に受け継がれ、執筆のために数週間篭ったあとなど、無精ヒゲをそのままにしたがるセイゴオの“気分”はスタッフに却下されつづけた。

 いまのヒゲは、一昨年前の胃癌の入院・手術を機にのばし始めたもので、すでに1年以上になる。それでなくとも皮膚感覚の鋭い松岡正剛のこと、病後とあっては剃刀を肌に当てることなど強いることもできず、当分は不問にしようということがスタッフ間の暗黙の了解となってきた。痩せて古武士のような相貌になったせいか、長めの顎ヒゲがすっかりなじんできた。

 実年齢より10歳以上若く見られることが多かったセイゴオだが、いつも「年相応」か、それ以上の年齢に見られることを望んできたようなところがあった。20代のころから老人に憧れてきたとも言う。老人どころではなく耄碌にさえ憧れていた。
 そういえば、「ヒゲを剃れ」と迫るスタッフに「君たちは“やつし”がわからないのかなあ」と嘆いたことがあった。“やつし”は関西弁の「ええカッコしい」の“やつし”ではなく、「その意気=粋や意気地に入っていきたいと思わせる風情をわざわざ外して見せること」(『日本数寄』)なのだと言う。たいへんな高踏戦術なのである。

 セイゴオが“やつし”の代表の一人と考えているのは、おそらく永井荷風だろう。2001年12月28日の「千夜千冊」、すなわち21世紀最初の年の締めくくりで、『断腸亭日乗』を取り上げ、荷風が若くして老人をめざしたこと、『日乗』は老人化計画のための創作だったろうこと、こんな荷風を言い表すのにぴったりな言葉が“やつし”であるということを書いている。
 この“やつし”はしかし、セイゴオと荷風とでは心得が変わるらしい。

 荷風自身がつかっている言葉から『日乗』の荷風にふさわしい言葉を見つけたらどうかということにもなるが、これも容易ではない。ぼくはとりあえず『日乗』から拾って「悵然」という言葉ではないかと見当をつけた。いかにも荷風的な立心偏だ。ちなみにぼくはどうかといえば、「絆然」。

 荷風の「悵」と、松岡正剛の「絆」。立心偏の“やつし”と、糸偏の“やつし”。これはさしずめ「逸民」と「遊民」の違いとでも取ればよいのだろうか。あるいは意気地を羽織ってみせるか、履いてみせるかの違いなのだろうか。

荷風 長らへてわれもこの世を冬の蝿
玄月 渋茶には塩煎餅の冬を添え

 それにしても、ヒゲはすっかりのびたが、近頃のセイゴオは肌艶がいい。「手術のおかげでいちだんと若返ったんですな」などまで言われて、あわてて「でも痩せたでしょう」と切り返している。老人化計画はなかなか思うように進んでいないらしい。

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千夜千冊の執筆には渋茶がかかせない

投稿者 staff : 18:03

2006年2月21日


Key Word HALは何処へ


 「千夜千冊」に没入しながらも、松岡正剛はテレビ情報や映画情報の仕入れも怠りないようだ。たまに映画館に足を運ぶこともある。最近は『ALWAYS―三丁目の夕日』を見た。『男たちのヤマト』も気にしていたが、いまはチャン・イーモウの『単騎、千里を走る』が楽しみなよう。これは主演が憧れの高倉健だからという理由。ちなみに最近気にしている俳優は健さんを別格とすれば、ジョニー・デップ。最新作までほとんど追いかけて見ているらしい。

 「千夜千冊」にはさまざまな映画や映画監督が登場してきたが、「千夜千冊」に最も多く登場した映画は何かといえば、おそらく『二〇〇一年宇宙の旅』ではないか。なにしろ第428夜『地球幼年期の終わり』で原作を、第814夜『キューブリック全書』で監督を、第91夜『HAL伝説』で“主人公”を取り上げているほどだ。第913夜『神曲』、第1070夜『闇の奥』、第1072夜『ネオテニー』などでも触れているが、まるでそそり立つモノリスから宇宙胎児のラストまで、すべてのシーンをすっかり記憶しているかのような触れぐあいだ。

 松岡正剛がこの映画と出会ったのは25歳の冬らしい。父親の残した借金を返済するためにマーケティング・アドセンターで広告取りをしながら、高校生向けの無料新聞「ハイスクール・ライフ」の編集に早くも異能を発揮していたころだった。

  

この映画の原題は『スペース・オデュッセイ』というもので、そこには現実におこっていないことのすべてを描いて、そこから暗示されるあらゆる印象を観客の現実の想像力に介入させていた。ぼくはショックをうけて、ひそかに誓ったものである。この映画を成立させている哲学と、そして技法とを、ぼくなりの方法にしていかなければならない、と。(第三九五夜『ロベルトは今夜』)


  『遊』創刊の2年前のことだ。すでに新婚アパートに独自の書棚を構築し、「ハイスクール・ライフ」を通して日本のキラ星と出会い、稲垣足穂と武田泰淳と湯川秀樹に私淑し、輸入されたばかりのシステム工学や知識工学にも触手を伸ばしていた。『遊』が生み出される土壌は十分に整いつつあった。けれども、松岡正剛を目覚めさせ、一気に発芽させたのは、『二〇〇一年宇宙の旅』の神話的構想と精緻な映像技術と、そして「HAL」の謎だった。

 1992年1月12日、東京谷町のある地下ホールで、浜野保樹さんの呼びかけによって、HALの誕生祝いのイベントがあった。セイゴオは、「HALこそはあの映画の未完のシナリオライターであり、キューブリックその人だった」とHALに最大限の賛辞を送る挨拶をしたものだった。

 さらにまた1999年3月7日にキューブリックが死去したとき、『産経新聞』に次のような追悼記事を書いている。

私は打ちのめされながら、そうか、まだ神話がつくれる男がいるのだと思った。キューブリックは、芸術表現は「真の驚き」をもたらすべきだということを示し続けた。「真の驚き」とは何か。それは私たち自身が最も驚くこと、すなわち私たち自身の意識の狂いというものである。『二〇〇一年』では、その象徴としてHALが選ばれ、またモノリスが選ばれた。


 この原稿の締めくくりは、「私たちはいまHALを失ったままにある」というもの。しかしセイゴオは決してあきらめてはいないはずだ。HALと出会ったときの多感なアンテナをいまも張り巡らせている。そうでなければ、ジョニー・デップの顎のことを、あんなに愛おしそうに念入りに語ったりはしないはずなのだ。


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工作舎『off』ポスター(1973)より

投稿者 staff : 21:46

2006年2月14日


Key Word 松のことは松にならへ


 ISIS編集学校の入門コース「守」に「ミメロギア」という編集コンテストがある。これは松岡校長考案のエディトリアル・ゲームで、「下駄・草履」「天丼・うな丼」「トヨタ・ニッサン」などの対比語のお題に対して、「下町の下駄・山の手の草履」「ダシの天丼・タレのうな丼」といったように“形容”をつけて対比を強調するというもの。ルールは簡単だが、妙味を競えば奥が深くなる。編集学校では年々「ミメロギア」の評価軸が高度になっている。

 「ミメロギア」という言葉はギリシア語のミメシス(模倣)とアナロギア(類推)を足した造語だが、「千夜千冊」第660夜によると、その原型はじつは寺田寅彦の俳句にあったという。

それは「客観のコーヒー主観の新酒かな」というものだ。これは珈琲と新酒を比べているようでいて、実は客観と主観とを論理で説明しないで、寅彦得意の俳諧で特色づけたということでもあった。

 ミメロギアで入選したければ俳諧を心得たほうがいいらしい。では俳諧とは何かと言うと、「俳諧とはこれだということを言わないのが俳諧」であって、「何が俳諧的でないかということを知ったほうがわかる」と寅彦先生と校長は口を揃えている。

寅彦は、日本には多様な自然の変化がありながら、その宗教と哲学に自然的制約があること、それをうけとる日本人に無常迅速という感覚が根を張っていることがあるからだと転じる。そうすると「春雨」とか「時雨」という、それ自体ですべての自然との関係を集約する言葉に自分を捨てられる。こうなれば、おのずから俳諧が出てくるのだと言う。たいへんに俳諧的である。ミメロギアなのだ。


 それでもミメロギアの奥義がわからないという編集学校の学衆には、校長は松尾芭蕉の次の言葉を授けてきたものだ。「千夜千冊」でも、第85夜(唐木順三)第703夜(『盆栽の社会学』)第850夜(蕪村)などにたびたび引用されてきたフレーズだ。

  「松のことは松にならい、竹のことは竹にならえ」

 これは第898夜『建築における「日本的なるもの」』では、芭蕉とともに世阿弥・道元も好んだもうひとつの究極フレーズとともに用いられている。

  「触れるなかれ、なお近寄れ」

 松をミメシスし、松をアナロギアせよ、しかし松には触れるな、なお松に近寄れ。
 松と聞けば「松岡」をアナロギアしてしまうであろう編集学校学衆に、この教えはどぎまぎするような混乱と眩暈をもたらしている可能性があるのだが、いずれにしても、この二つのフレーズにひそむ閑居の気味こそが、ミメロギア俳諧奥義であり松岡正剛の奥座敷であることは間違いない。

 ところで、寅彦のミメロギア「客観のコーヒー主観の新酒かな」の俳味のわかる松岡校長は、残念ながらコーヒーも酒も飲めない。酒は体質のせいだが、コーヒーはパリでカフェをがぶ飲みして帰って、東京の喫茶店の一杯を口にしたとたん、突然飲めなくなったらしい。ところが近頃また突然に、夜中の執筆中にコーヒーを一杯だけ所望するようになった。スタッフたちが謎の嗜好変化の原因を探っているところだ。

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編集学校の師範代を前に講義をするセイゴオ校長

投稿者 staff : 15:57

2006年2月 7日


Key Word 水枕ガバリと寒い海がある


 セイゴオ感覚のおいたちにはたくさんのオブジェが登場する。だいたい「遊」がオブジェ・マガジンというサブタイトルをもっていた。シャープペンシル、乾電池、バーバーポール、アイラッシュ・カーラーなどに愛惜を込めたエッセイも書いている。どんな好みの変遷があったかは不明だが、とりわけ水枕が気に入っていたらしい。


西東三鬼に、「水枕ガバリと寒い海がある」という一句があります。(略)この「水枕の一句」にはとりわけ度肝を抜かれたもので、その感動を何とか眼にも残したいという思から、わが工作舎の壁にバーミリオンの水枕を掛けてみたのです(『眼の劇場』)。

 この水枕は元麻布時代の松岡事務所の壁にも掛けられていた。すっかり古びてそちこちの裂け目から肉色の覗く不気味な軟体を、来客はみんな見て見ぬふりをしていた。しかし先の文章には、加えてこんなことまで書いていた。


「気味悪さ」こそこれから私が手短かに語ってみたい「事物存在学」の核をかたちづくっている「気配」の本体にほかなりません。

 このような美意識は、その後『フラジャイル』に記した弱さの哲学や断片の哲学だけではどうにも解きにくい。むしろ、「千夜千冊」第1048夜で北原白秋のオブジェ感覚に共振しながら綴った「風趣」に近づくものではなかったか。


これはシュルレアリスムのオブジェ感覚なんかではない。おお、ほろろん白秋、ほろろんの白秋オブジェのぢぇぢぇ、なのだ。この感覚は風の変わりというものだ。風変わりとは、そのことだ。その場を魂が立ち去る直前の風趣の変わりというものだ。いえいえ、それこそが郷愁という風趣、さもなくば風趣というオブヂェたちなのである。

 白秋の詩に「痛いほど」の共感を覚えるという。立ち去り際の風が白秋少年に残したのと同じ擦り傷が、セイゴオ少年の膝小僧にもあったらしい。白秋=セイゴオ。同じ1月25日の星の下で生まれた二人にとっての「風趣」とは、骨董や民芸に宿るものではなく、ほろろん絶対少年の皮膚の上にしかないものなのだろう。

 いま赤坂の書斎には、とりたてて風変わりなオブジェも不気味なオブジェも置かれていない。四方を書架に囲まれ、手に取るものといえば「本」くらいのもの。いや、いまの松岡正剛には本こそが風趣のオブジェなのだ。今宵もまた、頁を繰っては虚を突くような海や風が皮膚をかすめていくことばかりを追っているのだ。そういえば工作舎の書籍のために最初につくったコピーは「本は暗いおもちゃである」というものだった。


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千夜千冊第1048夜北原白秋『北原白秋集』をどうぞご覧ください。

投稿者 staff : 14:20

2006年2月 1日


KeyWord 雪にしてしまいますえ


1月25日のセイゴオの誕生日には、雪がよく降る。生まれた年も京都は大雪だったと聞く。2006年は快晴だったがこんなことは珍しく、セイゴオには雪女の宿命があるとスタッフたちも信じているようなところがある。雪男なのではなく、雪女。

セイゴオが学生時代に作詞・作曲した『比叡おろし』という歌がある。六文銭が歌って知られたが、その後小林啓子や由紀さおり姉妹や都はるみが歌い、五木寛之や笑福亭鶴瓶の愛唱歌にもなっている。サビは「うちは比叡おろしですねん。あんさんの胸を雪にしてしまいますえ」。青年セイゴオのはかりしれなさが氷結している。

「比叡おろし」は冬の京都に吹き降ろす比良八荒のひとつ。その八荒にかけて行われたのが「連塾」だった。全八回、合計すると50時間以上にも及んだ日本文化語りは「比叡おろし」のように荒れてみたいというセイゴオの宣言から始まった。「連塾」は塾生の気迫もすさまじく、内田繁さんや中村吉右衛門さんや山口小夜子さんが、セイゴオの風気を一瞬も逃さない勢いで講義ノートを取り続けていた。2003年7月26日だから盛夏の只中のこと。

2年後の2005年6月11日、「連塾」は「雪が舞う鳥が舞うひとつはぐれて夢が舞う」というタイトルで締めくくられた。これは「連塾」の塾生でもあった森進一の『北の蛍』の一節で、セイゴオの愛唱歌、そしてこの歌もやはり「雪女」の宿命を思わせる。セイゴオは森進一の絶唱を、2年のあいだに5倍ほどに膨らんだ塾生たちに、秋吉敏子と川喜多半泥子とグレン・グールドの映像とともに、そして小室等の「比叡おろし」とともに聞かせた。こうして夏に始まり夏に終わった「連塾」を、厳寒の風と雪が貫いた。

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連塾第八講 時事通信ホール 撮影:中道淳氏 


いよいよ擱筆を迎えようとしている「千夜千冊」も、第一夜が中谷宇吉郎の『雪』。千夜達成は4年後の七夕の夜だったのだが、セイゴオは「良寛」を取り上げ、こんなことを書いていた。


とくに雪の降る日は良寛なのである。「淡雪の中にたちたる三千大千世界」がほしくなる。また「その中に沫雪」を、見たくなる。
憶えてくれている人などなかろうが、ぼくは『外は、良寛。』の最後を、こう書いたのだ。「ただただ良寛の淡雪が降っていたのです。気がつけば、外は良寛――、良寛だらけです」。

セイゴオには永久に夏が来ないらしい。いつだって比叡おろしが吹きすさび、そうでなければ、良寛の淡雪をしんしんと降りつのらせているらしい。

投稿者 staff : 13:20