セイゴオちゃんねる

2014年1月28日


Report 松岡正剛 人生七十暴走古来稀



セイゴオが70歳の誕生日を迎えた1月25日の前夜、「人生七十暴走古来稀」と題して祝宴を開催しました。かねがね「70歳すぎたら暴走族になる」と宣言していたセイゴオの新たな門出を激励するために、会場の豪徳寺ISIS館「本楼」にキャパシティをはるかに超える200人以上のお客様が駆けつけてくださいました。
 福原義春さん、田中優子さん、高山宏さん、美輪明宏さん、川崎和男さん、内藤廣さん、田中泯さんなど15人の発起人の皆さんをはじめ、いとうせいこうさん、白石加代子さん、大澤真幸さんなどセイゴオの友人たちが次々とステージでメッセージ。
 さらに、藤本晴美さん・東亨さん・三浦史朗さんおよびその仲間たちと編集工学研究所・松岡正剛事務所スタッフが結集して制作した古希暴走の「乗り物」「着物」のプレゼントには、セイゴオも仰天、お客様もおおいに沸きました。
 その後も、セイゴオは親しい友人・仲間たちに囲まれながら、皆さんからの心尽くしのお祝いに照れたり感じ入ったりしながら、夜更けまで楽しんでいました。

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背中に「本族 無棒 玄月本番長」の文字をあしらった衣裳をはおったセイゴオ。その顛末は以下の画面を開いてご覧ください。


 以下、当日の模様をダイジェスト版でお届けします。近日中に、編集工学研究所のニュースページに詳細レポートをアップいたします⇒http://www.eel.co.jp/news/update.html

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2013年11月12日


Report 意身伝神フォトレポート



10月25日(金)、二つの台風が日本列島をかすめる悪天候のなか、ゴートクジISIS館で開催された特別催事「意身伝神」のフォトレポートをお届けします。
 たとえ関東に台風が上陸しても決行する予定(セイゴオ談)ではありましたが、幸いにも進路が逸れ、若干のキャンセルは出たものの、会場の本楼は立ち見も出るほどの超満員。パブロ・カザルスと土方巽の二人の「神」に捧げる、田中泯と石原淋の踊り、井上鑑・坂田明・バカボン鈴木の音、そして松岡正剛の言葉が次々と繰り広げられ、続く夜食歓談まで、熱気あふれる一夜となりました。

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ブビンガこと鉄木の巨大テーブルがこの日のメインステージ。セイゴオが土方巽の言葉を朗読し、田中泯が踊る。二階席まで満員となった本楼に、セイゴオ書の大型行灯が煌々と灯る。

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2013年2月 1日


Report 「アプローチ展」記念トーク


 1月29日、竹中工務店主宰のシンポジウムにセイゴオが出演、建築家の内藤廣さんと対談しました。聞き手は、デザインジャーナリストの森山明子さん。
 このシンポジウムは、竹中が50年にわたって発行している建築情報誌「アプローチ」を一望する展覧会を記念するもので、「企業誌の果たす役割とメディアの未来」をテーマにしていましたが、内藤さんが三陸復興に携わりながら痛感してきたという「言葉の思想」の重要性について語り、それについてセイゴオが進行役の森山さんに感想を逆質問するという異例の展開によって、3・11後の日本社会をとりまくシステムや制度とメディア社会の変化について、三人三様の問題意識が重層的に交わされていきました。

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トークの内容は以下をご覧ください。

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2012年12月29日


Daily 引っ越し完了、納会上々


 12月2日に決行された6万冊の本の大移動をともなう松岡事務所・ヘンコーケンの引っ越しプロジェクトは、若干の機材の破損や所員の足腰のダメージを除いては、さしたる事故も事件なく、無事に完了しました。
 その後は、セイゴオと所員一同、そして編集学校の皆さんや講演会で出会った行きずりの方々までが参加して、新しい書棚の結構に合わせた書列の編集が年末まで延々と続いてきました。
 大方の予想どおり書列は完成にいたらないまま年を越すこととなりましたが、セイゴオが本気でめざす書列編集といえば、まさに東西の歴史の再編集という前代未聞の新プロジェクト、またなんといっても三浦史朗さん・東亨さん・林尚美さんという凄腕の建築家・スペースエディターが誂えてくれた格別な書架によって、世界のどこにもない“本の館”づくりという夢は膨らむばかりです。

 そんななか、今回の引っ越しプロジェクトと書列編集プロジェクトにご協力いただいた皆さんの慰労と、今年一年お世話になった方々への感謝のために、引っ越し疲れも書列編集疲れもなんのその、今度は所員総出で二日がかりでおもてなしの準備をして、例年よりも少しだけ規模の大きい納会を27日に行いました。 じつはゴートクジの新社屋の目玉は書架のほかにもうひとつ、なんと本に囲まれた舞台も備えています。納会では、三味線3棹が持ち込まれ、3人の名人が演奏を披露してくださるというサプライズもあり、セイゴオにもうれしい本棚舞台のこけら落しともなりました。

 以下、引っ越しプロジェクトの一端とともに、納会の模様を、フォトレポートでお届けいたします。

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数寄屋の本棚空間にしたいというセイゴオのコンセプトを受けて、三浦史朗さんが腕によりをかけたゴートクジISISビルの玄関「井寸房」。「納會」のセイゴオの招きの書がよく映える。

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150人ほどのお客様を前に、引っ越しおよび書列編集プロジェクトの感謝を込めて、ゴートクジでの新しい催しや企みの夢を語るセイゴオ。

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2012年8月30日


Report 『3・11を読む』を語る


 8月7日(火)、東京堂書店で『3・11を読む』の出版記念トークが開催されました。『3・11を読む』は、東日本大震災後、セイゴオが「千夜千冊」で地震や津波や原発や東北地誌にまつわる本を取り上げた「番外録」を収録したもの。母国日本の行方について沈思し続けたセイゴオの日々の赤裸々な記録ともなっています。
 トークでは、震災前まで1年以上にわたって「千夜千冊―連環篇」に綴っていた、世界の諸問題の「見方」も織り込みながら、日本の本来と将来を考えるヒントを高速連打。その内容を要約版で以下にお届けします。

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2012年5月31日


Report 連塾ファイナル 松岡正剛・本の自叙伝(3)


 第1景 テスト氏の一夜
 第2景 死者の書
 第3景 サイの国から
 第4景 黒板銀河鉄道
 第5景 アインシュタインの林檎
 第6景 生命の塵
 第7景 虹色のトロツキー
 第8景 ZEAMI条々

 ヴァレリーと幸田露伴を、折口信夫と本居宣長と白川静を、『銀河鉄道の夜』と『オデュッセイア』を、松岡正剛と森村泰昌を、絶妙な抜き合わせにしながら、「本」から「本」へと放電しつづけてきた「自叙伝」も、6時間を超えてとうとう最終景を迎えた。しかし、ここからが、本連塾最大の胸突き八丁なのである。松岡は、25冊の本を連綿とつないで語りおさめるという壮絶なクライマックスを最後に用意していたのだ。

 裏方スタッフがこの日もっとも心配していたのは、セイゴオの体力が終演までもつかどうかということと、それぞれが細密工芸のような立体構造をもつ9つの各景の時間配分がうまくいくかどうかということだった。松岡がこの一世一代の「連塾ファイナル」のために執筆した「台本」は、打ち合わせやリハーサルを重ねるたびに長大化し、最終的にはA4約100ページに及ぶものとなったいた。このすべてを語り尽くすとなると、12時間以上は優にかかるであろうコンテンツ量である。

 松岡はそのことを誰よりも理解しながら、不可解なことに、本番を迎えるまでコンテンツ量を一切減らそうとしなかった。何か方法的な確信を抱いていたようだが、前日のリハーサルでは序奏だけで予定時間を超えてしまうシーンが続出した。「もう終わり? これじゃ無理だよ」と思わず気色ばむ場面もあった。

 にもかかわらず、松岡は、本番舞台では第8景までほぼスケジュール通りの進行でこなしてきたのである。しかも100ページの台本を一行たりとも削ることはしていない。なんと、そのあふれるコンテンツのなかから「言葉」にするものと「間合い」にするものと「ふるまい」にするものを、用意と卒意によってパフォーマティブに振り分けて再編集していたようなのである。しかも、めくるめく各シーンを結節する「語り」は、台本に書いてあることではなく、行間に潜んでいた内声を響かせながら即興的に言葉にしていた。

 じつは松岡は準備の渦中で「台本」をどんどん重厚に仕上げていくとともに、ダンサーの田中泯さん・石原志保さん・花岡安佐枝さんたちにパフォーマンスのアドバイザーになってもらい、立ち位置から歩き方、舞台装置の使い方まで、事細かく相談をしてきたのだった。もともと松岡の言語思想に深い関心をもつ3人のダンサーたちは、松岡が実践したがっている身体言語の見せ方を明確に理解してくれたらしい。

 すでに疲労のピークに達しつつある身体を抱えて、松岡は安田登さんの熱演した『リア王』の余韻の残る舞台を一瞬だけ暗転させ、そのまま休むことなく、第9景「二十五冊の連綿草」に向かっていった。

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25冊の本とその類書たちがステージのそこかしこに蹲踞し、松岡の言葉とパフォーマンスを支える


*以下、(1)(2)に続き、写真による第9景と「本宴」のレポートをお届けします。
*「二十五冊の連綿草」で取り上げられた本は、編集工学研究所の「本の自叙伝」速報レポートに全冊掲載しています→http://www.eel.co.jp/info/?p=640

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2012年5月30日


Report 連塾ファイナル 松岡正剛・本の自叙伝(2)


 連塾ファイナル「本の自叙伝」を構成する全9景は、それぞれが独立的な起承転結を持つ。「自叙伝」と言いつつ、松岡正剛の生涯を語るわけではなく、読書歴を時代順に語るわけでもない。紹介される本や著者はいずれも「千夜千冊」で松岡が敬愛心をもって取り上げてきたものばかりだが、それらが意表を突く組み合わせ、順番で展開されていくのである。先読みをすることも、結末を予測することもできないが、松岡のパフォーマンスによってひとつずつの「景色」をわたっていくうちに、緻密にはりめぐらされた編集のアヤが「本」から「本」へと、「人」から「人」へと、ものがたりを運んでいることに気づかされるのである。

第1景では、「読書は脳髄に割れ目を起こすこと」だとセイゴオに刻印した西のポール・ヴァレリーと東の幸田露伴を対比させ、第2景~第3景ではコトダマによって日本の母なる物語を読み解いた折口信夫を招きよせたたうえで、漢語を排して日本の“おおもと”に迫った本居宣長と、漢字によって世界観に革命を起こした白川静の「方法」を激烈に提示した。

休憩をはさんで続く第4景からは、ステージのしつらいが大きく変わり、連塾でおなじみの3枚の「黒板」が登場。また、地球儀や三角定規や道具箱や実験道具や不思議なオブジェが所狭しと並べたてられて、ホールに戻った来場者たちを驚かせた。いったい松岡正剛は、これから何をおっぱじめるのだろうか? と思うやいなや、蒸気機関車のエンジン音が聞こえ、汽笛が鳴り響く。スクリーンには星空のなかを走る機関車のシルエット。第4景「黒板銀河鉄道」の開演である。

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第3景まで闇夜のように見えていたブラックスクリーンが、第4景から一転して宇宙空間のようになった。このステージで、銀河鉄道に乗せて物語の秘密と宇宙の不思議をめぐるセイゴオトークが光速で疾駆した。

*以下、レポート(1)に続き、フォトレポートをお届けします。

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2012年5月29日


Report 連塾ファイナル 松岡正剛・本の自叙伝(1) 


 5月26日(土)、東京青山スパイラルホールで、9年間に渡った「連塾」に終止符を打つ松岡正剛のファイナルトークライブが開催された。

 第1期「方法日本」、第2期のゲスト連談「絆走祭」、第3期の「Japan Deep」、そして第4期の「ブックパーティ・スパイラル」と、2~3年ごとにスタイルを変えてきた「連塾」を締めくくるにあたり、松岡は「本の自叙伝」と銘打った全9景・計6時間の超絶シナリオを構成、約半年をかけてその実現化のための準備を重ねた。

 「本はロマンなのか、テロルなのか」。松岡のこのキワどいメッセージが反響を呼び、告知が始まるなり申し込みが殺到、一時は80人近くがキャンセル待ちとなった。事務局と制作チームがレイアウトの変更や椅子の確保に奔走し、当日は会場既定のキャパをはるかに超える400人以上もの入場者を迎えた。

 「全身自在な方法でハイパーテキストを演じます」というソロトークの予告とともに、松岡は特別ゲストの存在も明かしていたのだが、誰が登場し何をするのかは、当日までスタッフに箝口令が敷かれた。

 9年間の「連塾」の歴史の集大成でありながら、塾衆もスタッフも、松岡正剛本人も、“かつて見たことも体験したこともない”、[本]を主人公とする前代未聞のラストショウがいよいよ開演した。

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スパイラルホールで来場者を迎えた松岡正剛の大型バナーとディレクターズチェア。バナーの写真は川本聖哉さんの撮影。

*以下、松岡が構成したシナリオに沿って、フォトレポートを3回に分けてお届けします。

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2012年5月12日


ソウル・セイゴオ―ペーパーロードシンポジウム出演記(3)


 シンポジウム終了後はCOEXから至近距離の「芸術の殿堂」で開催される「ペーパーロード展」オープニングパーティに参加。ようやくソウル気分を満喫する気になったのか、セイゴオはすっかりくつろいだ様子で、ハングル文字への並々ならぬ関心を発揮し始めました。

 翌日はセイゴオにとってひさびさの「休日」を、ハングルのあふれるソウル市街地を散策して過ごし、なかでもソウル一と言われる大書店のなかで「意味情報」がまったく遮断されたままハングルの洪水に浸るという異常な体験を楽しんでいました。

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「ペーパーロード展」を見て回るセイゴオ

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Report ソウル・セイゴオ―ペーパーロードシンポジウム出演記(2)


 「ペーパーロード・紙的想像の道」シンポジウムは朝の10時20分に開演し、夕刻まで3つのセッションが行われるという長丁場のプログラムでした。そのうちの2つのセッションとともに、「想像アジア・相生アジア」というテーマで約30分のソロトークを受け持つセイゴオは、前夜の歓迎食事会で中韓のデザイナーたちのセイゴオへの関心の高さに触れ、日本で準備していたレジュメの内容を大きく変えて臨むことになりました。

 会場は大型複合施設COEX内の450人収容のカンファレンスルーム。受付開始後、申し込みが殺到して早々に満席になるなど、注目度の高いシンポジウムだったようです。しかも会場を埋め尽くしていたのは、20代~30代の若いデザイナーやデザイナーの卵たち。すでに中国・韓国のデザインは日本を凌駕していると数年前から語ってきたセイゴオも、ウィークデイの午前中から熱心にシンポジウムに参加する韓国のデザイン界の活況ぶりを目の当たりにし、しきりに感心していました。

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Report ソウル・セイゴオ―ペーパーロードシンポジウム出演記(1)


 5月7日、ソウル三成洞のCOEXで開催されたシンポジウム「ペーパーロード・紙的想像の道」にセイゴオが出演、ソロトークとともに2つのセッションに参加しました。
 このシンポジウムは、日・中・韓のグラフィックデザイナー約100人のポスターやブックデザインを集めた展覧会のオープニングにあわせて企画されたもので、日本からはセイゴオのほかに原研哉・中垣信夫さんが参加。セイゴオも、李御寧・カンタイクン・呂敬人さんなど中韓の研究者・デザイナーとの交流を深めつつ、「紙」をめぐる歴史・文化とともに、デジタルメディア時代における「本」や「文字」の未来についても、さまざまな刺激を受けて考察を深めた1日となったようです。

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 以下、「ペーパーロードシンポジウム」レポートを全3回にわたって、セイゴオのソウル初体験の観察記もまじえてお届けします。

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2012年2月11日


Report NARASIA2011 うた・こころ・ものがたり


 2012年1月28日(土)、品川インターシティホールで、セイゴオの企画・モデレーションによる「NARASIA2011 うた・こころ・ものがたり 日本の源流と東アジアの風」が開催されました(主催・奈良県)。2010年末に奈良で開催された「NARASIAグランドフォーラム」の第2弾という位置づけであるとともに、今年が古事記編纂1300年であることにちなみ、記紀万葉の世界観をまったく新しいスタイルで見せるというトーク&パフォーマンスイベントです。

 ゲストは古代日本の歌や物語に深く通じる歌人の岡野弘彦さん、NARASIAグランドフォーラムでも音楽監督をつとめた作・編曲家の井上鑑さん、ダンサーの田中泯さん。3人は今回のイベントが初顔合わせとなりましたが、いずれも松岡とは相思相愛の異能者とあって、たちまち熱いテンションで結ばれたようです。岡野さんとセイゴオが記紀万葉の歌を詠じ、井上さんが曲をつけ、田中さんがそれを踊りにするというチャレンジングなセッションを次から次へと披露しました。
 演出および裏方は、藤本晴美さん率いる百戦錬磨のプロ集団「藤本組」。和歌ひとつごとに照明・映像・グラフィックを切り替える鮮やかな演出によって、ホールからあふれた立ち見客までを包み込むまほろば的異世界を出現させました。

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岡野弘彦さん・セイゴオの言葉と井上鑑さんの音と田中泯さんの踊りによって、記紀万葉の古(いにしえ)のこころが未知なる記憶として蘇りました。

↓裏方スタッフによるとっておきフォトレポートはこちら

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2011年11月15日


Report 連塾ブックパーティ 巻3 速報


 11月12日(土)、南青山スパイラルホールで、「連塾ブックパーティ」巻3が開催されました。総勢9人もの出演者が入れ替わり立ち代わりステージに登場し、セイゴオとの対談とともに、「本を聴きたい」というテーマに合わせて、それぞれが選んだとっておきの本や自作の和歌や詩を朗読。午後1時から8時までの長丁場ながら、280人もの塾衆が詰めかけ、ホワイエの「本市」、二次会の「本宴」ともに、大盛況でした。

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連塾会場となったスパイラルホールエントランス。
松丸本舗に寝転んで選本中のセイゴオの特大写真がお出迎え

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オープニングでは「本を聴きたい」というテーマに込めた思いを語る。
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セイゴオとゲストの著書が並ぶホワイエの「本市」もおおにぎわい。


以下、当日の記録写真とともにミニレポートをお届けします。

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2011年11月 4日


Report 法然と親鸞 講演会レポート


 10月28日(金)、特別展「法然と親鸞 ゆかりの名宝」展を記念して、東京国立博物館・平成館大講堂で、セイゴオの記念講演会が開催されました。浄土宗宗祖の法然と真宗宗祖の親鸞の二人を取り上げる展覧会は史上初とあって、講演会も応募多数のために1週間以上前に申込み受付が終了、当日も開場前から多数の聴衆が列をなすなど、人気の高さをうかがわせました。
 また、この日は講演会場で、セイゴオの新著『法然の編集力』(NHK出版)も初売りされ、好評でした。

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 特別展「法然と親鸞 ゆかりの名宝」展 記念講演会(抄録)は下記をご覧ください。

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2011年1月17日


Report 2011年「卯」年、セイゴオ早くも快走中。


松岡正剛事務所の2011年は、このセイゴオ筆の年賀状から始まりました。

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“公的”には、1月7日が仕事始めだったものの、例年同様三が日から今春出版予定の原稿執筆や、新年早々の「千夜千冊」の仕込みのための読書に追われていたセイゴオ。そのうえ今年は、1月2日から松丸本舗で特別企画「本の福袋」を売り出すとあって、正月気分もどこへやら。その甲斐あって福袋は完売し、幸先のよい1年のスタートとなりました。

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2010年12月26日


Report グランドフォーラムNARASIA2010(その1)


12月18日(土)~19日(日)の二日間、奈良県文化会館国際ホールで、平城遷都1300年記念祭を締めくくる「グランドフォーラムNARASIA2010」が開催されました。

セイゴオは、このフォーラムを主催する「日本と東アジアの未来を考える委員会」の幹事長として、また2009年からさまざまな活動を展開してきた「弥勒プロジェクト」の総合ディレクターとして、本フォーラムの構成とモデレーションを担いました。

1300年の時空をまたいで奈良とアジアをつなぐ言葉と音と映像とパフォーマンスの饗宴が繰り広げられた二日間を、2回にわたってフォトレポートいたします。

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羽織袴で登場したセイゴオと、初日のナビゲーターをつとめた、いとうせいこうさん。
舞台の左右には、二日間のプログラムを象徴する漢字アイコンのバナー。

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2010年11月 9日


Report 連塾ブックパーティスパイラル「本の風」速報


 11月6日(土)、南青山スパイラルで「連塾ブックパーティスパイラル 本の風」が開催されました。
 「連塾」は2003年のスタート以来8年目・第4期目を迎えましたが、「本」をテーマに展開する新シリーズの第1回目とあって、プログラムも趣向も、演出もこれまでから一新され、さらにバージョンアップされました。セイゴオがモデレートする約6時間のトークセッション「本談」(ほんだん)をスパイラルホールで、出演者が選りすぐったおススメ本の展示や松丸本舗の出張販売を行う「本市」(ほんいち)と出演者と参加者が交流する「本宴」(ほんえん)をスパイラルガーデンで展開。本と人が集い交わり「知」が騒ぐ、3つのブックパーティがスパイラルの全面協力によって実現しました。
 以下はその端的レポートです。

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青山通りにはためくスパイラル正面の連塾バナー

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2010年11月 1日


Report アカデミーヒルズ「言語のイノベーション」講演


 9月30日(木)、六本木のアカデミーヒルズで毎月開催しているリレーセミナー「VISIONARY INSTITUTE(ヴィジョナリーインスティテュート)第6回」にセイゴオが出演、「言語のイノベーション―未来が出現する編集技法」と題して講演を行いました。
 セイゴオは、このテーマについて語るにあたって、「千夜千冊」から数十冊分を選び出し、それをもとに独自のシナリオを組み立てました。会場ではそのWEB画面をスクリーンに出しながら、言語の発生や文字の発生、東西の言語のイノベーション、その奥にある生命と意識の問題まで、90分をハイスピードで語り通しました。

 聴衆は学生からビジネスマン、経営者まで約200人。熱心にノートやPCに書き込む姿が多く見受けられました。

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2010年9月28日


Report 世界宗教者平和会議で「まほろば」を説く


 9月26日(日)、奈良県新公会堂・能楽ホールで開催された「世界宗教者平和会議」で、セイゴオが「まほろばの心と宗教者の貢献」をテーマに、基調講演を行いました。

 世界宗教者平和会議(WCRP)は1970年にスタートし、人権・環境・難民・紛争など世界が抱える問題の解決・協力のために、諸宗教の代表が一堂に会して対話を重ねてきた歴史ある国際会議です。40周年となる本大会では、平城遷都1300年を迎えた奈良で開催されることにちなんで、日本の調和の精神を象徴する「まほろば」をキーワードに、これからの宗教者の役割や連携のあり方がさまざまに議論されました。

 セイゴオは平城遷都1300年記念事業の柱である「日本と東アジアの未来を考える委員会」幹事長、および「弥勒プロジェクト」総合ディレクターの立場もふまえつつ、基調講演では「まほろば」を過去・現在・未来をつなぐ場として捉えなおす新しい切り口を提示し、本大会で採択される宣言文の内容にも大きな指針を与えました。

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2010年7月29日


Report 『松岡正剛の書棚』刊行記念ソロトーク


本を一人ぼっちにさせないために、僕は本たちの止まり木を作ってみた。

 7月22日、『松岡正剛の書棚』(中央公論新社)刊行記念のセイゴオのソロトーク&サイン会が、丸善丸の内本店内の日経セミナールームで開催されました。『情熱大陸』放送以来さらに話題を呼んでいる「松丸本舗」について、セイゴオがオープン以来初めて生トークする企画とあって、書籍購入者先着100人に配布を予定していた入場券は告知とほぼ同時になくなるという盛況ぶり。
 炎暑のなか、会場には出版関係者も多数つめかけ、開演前から熱気も最高潮。そこへ、松丸本舗で販売中のブックポシェットを肩からさげたセイゴオが登場しました。

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2010年4月 1日


Report 明大国際日本学部「劇薬」ソロトーク


 3月30日(火)、明治大学国際日本学部主催による、セイゴオの特別講演会「世界と日本の見方―神と仏と鬼と夢」が開催されました。

 講演に先立ち、まず仕掛け人でありセイゴオの旧くからの友人でもある高山宏さんが冒頭の開演挨拶で、「学部ができて2年目の総括として、松岡さんから“国際日本”の捉え方を聞きたかった」と、独得の高山節によってセイゴオを紹介しました。
 70年代に「遊」をがぶ呑みするほど読んだという高山さんは、「当時、学際を取り払う技術はみんな松岡正剛をモデルにした」と語り、バブルが崩壊した90年代以降のセイゴオの一連の「日本語り」は、「学際から国際へという季節の変わり目に、次の季節を提示する」試みだったことを示唆しました。
 「際(キワ)から際(キワ)へと向かう松岡正剛こそキワモノである。今日の講演会はひとつの事件である。そういう認識で聴いてもらいたい」と、学部生をアジテーションして締めくくった高山さんの紹介を受けて、セイゴオは日本の「キワ」にまつわる話からゆっくりと語り始めました。

 この日のために用意した歴史ビデオ(セイゴオが監修した「XYZ日本史」「新代表的日本人」)を上映しながら、大航海時代の日本のキワを入り口に、いったん古代グローバリズムのなかの日本のキワを見つめ、そこから一挙に明治維新というキワに迫るという、高山さん好みなアクロバティックなトークが展開していきました。

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セイゴオの講演要旨はこちら。

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2010年3月 4日


Report エバレット&セイゴオ『日本力』トーク


今年1月に出版された『日本力』が好評の、エバレット・ブラウンさんとセイゴオの出版記念トークとサイン会が、丸善丸の内本店内の日経セミナールームで開催されました。書籍購入者先着100人に配布を予定していた入場券があっというまになくなり、当日は150人を超える入場者が詰めかけ大盛況となりました。

エバレットさんとセイゴオの出会いは1994年の「ゑびす曼荼羅シンポジウム」にさかのぼります。日本の神話や物語に描かれた数々の「欠けた英雄」たちをテーマに、花田春兆氏をはじめとするハンディキャッパーが次々と登壇し、点字や手話を駆使して論議をするという催しで、唯一“健常者”ながら出演依頼を受けたセイゴオも、おおいに感銘を受けたと語り草になっているものです(この日、会場にその仕掛け人の坂部明浩さんもお見えになってました)。

エバレットさんはこのシンポジウムで撮影をされていたのですが、セイゴオは撮影中のエバレットさんの「間合い」に感じ入るところがあり、以来、たびたび会ってはさまざまなことを話しこんできたと言います。

二人のトークは、そんな出会いのエピソードから始まり、会場のステージ横に展示されたエバレットさんの3枚の写真をめぐりつつ、『日本力』に込めたメッセージを来場者に刻印するように展開しました。

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2009年12月22日


Report 連塾 JAPAN DEEP 4 年末の胸騒ぎ、日本の武者震い。


日本列島を寒波が襲った2009年師走の19日、「連塾JAPAN DEEP」の最終回が開催された。会場は寒空に聳え立つ新宿パークタワー。ゲストは勅使川原三郎・高山宏・川瀬敏郎の三人。「年末の胸騒ぎ、日本の武者震い。」という予告に集った塾衆は総勢330名にのぼった。

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2009年12月14日


Report 松本清張記念館講演「事件にせまる」


 11月12日(木)、セイゴオが北九州の松本清張記念館で講演を行いました。北九州小倉市は松本清張が育った地、そしてセイゴオにとっては今年4月の「ぼくの九州同舟制」講演に続いての九州入りです。

 冒頭では、松本清張の作品をもとにセイゴオが映像の企画構成を行い、1984年から全25回にわたって放送された『ニュードキュメンタリードラマ昭和』より、『昭和20年8月15日・終戦の日の荷風と潤一郎』(新藤兼人監督)『下山総裁怪死事件・マイレイルロード』(長谷川公之・堀川弘通監督)が上映されました。本ドキュメンタリーのシリーズには清張さんご自身が毎回出演されたこともあり、この地での講演はセイゴオにとってひときわ感慨深いものとなったようです。

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2009年10月23日


Report 松丸本舗、いよいよ開店


10月23日(金)の松丸本舗(丸善・丸の内本店4F)のグランドオープンに先立ち、前日の10月22日(木)夕刻から関係者向け内覧会および記者発表会が行われました。

セイゴオ・編集工学研究所スタッフをはじめ、丸善本部と松丸店員の皆さん、さらにイシス編集学校のブック・ショップエディターの皆さんたちは、先週から連日の徹夜体制で本棚構成やディスプレイのディテールの仕上げに追われていましたが、その甲斐あって内覧会には、多数の招待客が詰めかけ大盛況。

らせん状に本棚が配置された松丸本舗の迷宮的な空間に足を踏み入れ、独自の書棚構成やメッセージ性にあふれたサインやディスプレイに触れるうちにたちまち購買意欲を刺激されたのか、内覧会にもかかわらず買い物カゴを持ち歩くお客様も出てくるなど、レジカウンターも盛況でした。本の分類よりも“つながり”を重視し、あえて知的な騒がしさを演出した本棚についても、「自分の家にいるみたい」「松岡さんの書斎に迎え入れられたみたい」と大好評。

夜にはセイゴオと丸善社長・小城武彦氏によるマスコミ向け発表会が開催され、そのまま閉店すぎまで新聞・雑誌・テレビ局の取材や撮影が続きました。

以下、松丸本舗の空間と内覧会のようすをフォト・レポートします。

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2009年7月16日


Report 平城遷都1300年記念経済フォーラム


2010年からの経済社会~日本と東アジアの未来を考える

 7月8日、奈良県と日本経済新聞社主催による「平城遷都1300年経済フォーラム」が開催され、セイゴオがモデレーターをつとめました。ゲストは小林陽太郎氏(富士ゼロックス元取締役会長)、中谷巌氏(多摩大学ルネッサンスセンター長)、武藤敏郎氏(大和総研理事長)。会場は丸の内マイプラザホール。

  なお、このフォーラムの詳細な採録は、7月下旬の日経新聞に掲載される予定です。

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2009年6月 3日


Report 連塾 JAPAN DEEP 3 異能にたずね、異界をさぐる


■法華経に徹して「連塾」に入る

 5月27日、第1300夜を達成する節目の「千夜千冊」に長文の『法華経』をアップしおえたセイゴオは、「さあ、いよいよ連塾だなあ」と息を吐いた。
 3日後に控えた「連塾」の準備はすでに3ヵ月以上も前から始まっていた。5月に入ってからは、進行管理の和泉佳奈子、事務局を取り仕切る渡辺文子からもたらされる大小のジャッジメントに追われ続けてもいた。編集工学研究所の太田剛らの映像チームやグラフィック担当の美柑和俊も着々と制作物を仕上げていた。しかし、本番の舞台の上では7時間ものトークライブをたった一人で仕切らなければならないセイゴオ自身の“支度”は、まだ何も手がつけられていなかった。
 第1300夜は法華経にする。「連塾」前に第1300夜を書きあげる――。誰に約束したわけでもないことなのに、『法華経』を書き終えないかぎり「連塾」を迎えることができないとでも言うように、みずからを呪縛しながら一人書斎に籠って夜を徹する数日が続いた。「うーん、3回書き替えることになったなあ。宗教テキスト論にしたくなかったんでね」。

 「さ、いよいよ連塾だ」。
 法華経が手離れするなり、いつものようにレジュメづくりが始まった。萩尾望都・松本健一・横尾忠則の3人のゲストとの対話のために、それぞれの作品や著作に目を通しながら、そこに顕在するキーワードと潜在するイメージを探っていく。メディアの対談とは違い、ライブの対談はつねに予測不可能性を孕んでいる。セイゴオが深く信頼し敬服する異能者たちが相手であるからこそ、その凄みをステージ上で余すことなくプレゼンテーションしてもらうことができるかどうかは、セイゴオの質問ひとつ、相槌ひとつにかかってくる。そのために必要な空間づくりは、演出・照明の藤本晴美さんがプロフェッショナルなセンスと技術で預かってくれているのだが、その空間に比類ない言葉を刻印していくことを、誰よりも藤本さんがセイゴオに強く要請し続けている。

 前日の5月29日は仕込みとリハーサル。午前9時から総勢70人近くの全連塾スタッフが、大量の機材・備品とともに会場の品川グランドホールに結集し、設営が始まった。午後4時、セイゴオが会場入りしたときには、品川スカイクレーパー街の中の無機質なホール空間は、すっかり「連塾」にふさわしい密度と陰影をもった「異界」に変わっていた。それでもやはり、最後に残されるのはセイゴオの舞台支度に合わせた演出の詰めである。途中、会場下見に訪れた萩尾望都さんとの段取り確認を含め、照明・音響・映像チームとの緻密なリハーサルが10時過ぎまで続いた。

 「結局、昨夜はあまり眠れなかったよ」。
 5月30日、午前10時。セイゴオが数十枚にもおよぶレジュメと資料を手に、再び会場入りした。気遣うスタッフたちの半数も、昨夜のうちに生じた段取り変更や制作物の修正で徹夜しているはずだ。みんな短いコトバでしか合図をしないが、けれどもこれこそが、「連塾 JAPAN DEEP」本番直前の、いつもの光景なのである。

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■異能が迎え、異界に誘う

 グランドホールのエントランスには、恒例の、申込者一人一人の名前を記載した特製ファイルが並ぶ。その数、350部。駅のコンコースのように広いホワイエ空間には、「連塾」の6年間の時空を物語るポスターや記念写真、千夜千冊などが展示され、ホールへの導線の入口には、セイゴオの手による幽遠な「異能」「異界」の書が並び立ち、結界へのアプローチを示している。
 午後1時40分、ホール開場とともに、参加者が続々と照明を落とした「異界」へと吸い込まれていった。

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 満席のホールに坂本龍一の「アダージョ」が流れ始める。4分40秒にわたってピアノ音が聞こえるだけの静かなオープニングに続き、「連塾 JAPAN DEEP」第1回・第2回のダイジェストが高速でプロジェクトされる。舞台に地明かりが入ると、上手(かみて)に「異能にたずね、異界をさぐる」、下手(しもて)に「連塾」の、黒地白ヌキのバナーが浮かび上がる。ここで連志連衆會代表理事の福原義春さんが登壇。
 来年80歳を迎えるという福原さんは、20年にわたって松岡正剛の虜になっていると語る。「今の日本は顔を失ってしまった。今の日本はつまらない。“日本という方法”を松岡さんとともにもう一度さぐること、それがこの連塾の狙いです」。

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 福原さんのメッセージを受けて登場したセイゴオは、「かつて私たちの社会にはたくさんの異界があった。今や異界は映画や物語の中にしか見つけられないものになっている」と語り、昨今の「フラット化する社会」に疑問を投げかける。スクリーンには、どこか異様で懐かしい映像集が流れる(タルコフスキー、グリーナウェイ、デレク・ジャーマン)。
 続いて黒板に甲骨文字を描き、「異」という字は鬼が走り過ぎざまにバッと正面を向き手を上げた姿をあらわすと説く。「異」は人々に「畏れ」をもたらすが、ここに「羽」を加えれば「翼」という字にもなる。「異なるものがいつか変化し翼を持って飛び立っていくことを、私たちはすっかり忘れてしまったのではないか」。

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 一人目のゲスト萩尾望都さんの迎え入れはスクリーンいっぱいにプロジェクトされた愛猫レオ君の写真。ネコ好きの萩尾さんに和んでもらうための藤本演出だ。デビューまもないころの『塔のある家』から最新作『バルバラ異界』までの萩尾ワールドが、作品画像とセイゴオのインタビューによってじょじょに繙かれていく。
 萩尾さんは、フィリップ・K・ディックの「世界が消えていく」という世界観や手塚治虫の「救いに至らない物語」に強く惹かれたという。じつはその奥にはずっと親への愛憎があったのだという。しかし萩尾作品のもつ普遍性・神話性は、親子の葛藤という個人体験をはるかに超えたものに昇華されている。その秘密は、やはり異界と親しむ異能性にあるようだ。
 「だって、人間は、言語と数字と神様をほぼ同時期に獲得しているんですよ。人間は何かを埋めるために神をつくったのではないでしょうか」。自分の生み出したキャラクターたちに、父殺しや子殺しや神殺しといった人類の宿命を負わせてきた萩尾さんだが、その語り口は終始やわらかく、ふくよかな声音はまるで大地母神を思わせる。

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 松本健一さんはセイゴオが今もっとも深く話し込みたい異能者である。藤本さんがセイゴオに要求してきたトップギアのスピード感に松本さんを引きずり込むかのように、「なぜ北一輝に関心をもったのか」という直球の質問で対話が始まった。早くも孟子の「湯武放伐論」が俎上に上った。しかし松本さんは萩尾さんの話に触発されたのか、「美しく死ぬこと」に憧れて「スプートニクの実験犬にしてほしい」とソ連大使館に手紙を書き新聞沙汰になったという意外な少年時代のエピソードを明かしもした。
 少年のデカダンスはやがて「散華の美学」を求めて保田與重郎との出会いに、さらにそれを超えていくための自己否定から竹内好との出会いに転じていった。加えて、群馬の米軍基地近くで育った幼年期に芽生えていたナショナリズムとパトリオティズムの未分化な感情は、やがて高度成長期の日本の経済ナショナリズムを見つめるリアリズムの精神へと転じていった。
 北一輝の発する光源を「草莽」(そうもう)の志から読み解きながら、昭和天皇と三島由紀夫と司馬遼太郎のトライアングルを独自に喝破する松本日本論を、セイゴオは時間の許すかぎり加速させ続けた。

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 午後5時。濃密な二組の対談が終わり、ホールを埋め尽くしていた参加者がいっせいにホワイエに流れ出る。長丁場の「連塾」に集中しつづける参加者のために、スタッフが選りぬいた軽食が供される。これもまた恒例の「交換おつまみ連餉」。この日のメニューはとんぶりをあしらった蕎麦、鴨ロースト、つくね、小芋煮、くずまんじゅうなど。また、6月6日の書店販売を前に『平城遷都1300年記念出版 NARASIA』が特別に先行販売され、さっそく買い求めた方々がセイゴオ畢生の「見開き(ダブルページ)主義」に見入っていた。

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 「交換おつまみ」のにぎわいからホールに戻った参加者は、ここでまたしても藤本演出のどんでん返しによって連塾異界へとあっという間に連れ去られる。真っ赤な照明に染め上げられたホール内にSEALの「スタンド・バイ・ミー」が響き、ステージの上ではゆっくりと大きな白布と異様な太縄が吊り上げられていく。トークイベントへの出演を拒み続けてきた横尾さんが、連塾出演を承諾するにあたり、盟友の藤本さんに唯一所望したものが、この「首吊り縄」だった。
 「死と再生へのイメージはグラフィックデザイナーのころからあったものなのか」という質問に答えて、死に対する恐怖感とともに、夭折の画家への憧れもあったというアンビバレンツを吐露する横尾さん。三島由紀夫に「横尾の無礼は天下の無礼」とまで言わしめた独特の存在美学を、セイゴオは「あえて愚問を差し出す」という奇策で迎えようとしていた。横尾さんが自分の作品について、どれくらい真意を語ってくれるかという賭けでもあった。これは画家が好んでやることではない。
 あろうことかレーザーポインターまで持ち出し、作品のディテールを指しながら横尾さんを誘いこむセイゴオに対し、ときに言葉に詰まり「もう説明したくない」と言い放ちながらも、横尾さんはしだいにタブロー対話という新ゲームに深入りしながら加担していった。

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■未知なる菩薩と走る鬼

 午後8時。7時間におよんだ「JAPAN DEEP」がいよいよ暮れていく。3人のゲストの異能を調弦しつづけたセイゴオのテンションもいよいよ限界に近づいている。しかし、ホール内は清澄な空気で満たされ、客席の集中力は開演時よりも増しているかのようだ。その空気感に抱かれながら、ラストのソロトークが始まる。


 3日前、「千夜千冊」1300夜を『法華経』で達成しました。書きたかったことは二つだけ、ひとつは前半の「迹門」(しゃくもん)と後半の「本門」のあいだに蝶番のように現れる「地湧(じゆ)の菩薩」の覚悟の意味。そして「常不軽(じょうふきょう)菩薩」という、常に軽んじられている不思議なキャラクターの意味です。
 いま日本は差異ばかりを問題にしすぎています。でも本来のオリジナリティは“似たもの”を選定するところから生まれます。未知なる菩薩は差異を超えて何かをもたらしているはずなんです。
 「千夜千冊」は2年前に全7巻の全集にしました。その第1巻は「遠くからとどく声」というタイトルで、私が少年時代から今日まで感じてきた「異界」を文芸作品を通して表してみたものです。「銀色のぬりゑ」「少年たちの行方」「遠方からの返事」「ノスタルジアの風味」「方舟みちあふち」といったこのチャプタータイトルには、すでに今日の「連塾」の思いのすべてを込めていました。
 今日は、走る鬼が正面を向き、手を挙げるその瞬間のように、3人のゲストを通して「異」なるものを瞬間瞬間に発現させ、それをタブローやマンガの1コマやダブルページにおさめるようにプロジェクトしてみたかったんです。
 では最後に、「連塾」をいつも撮影してくれている異能カメラマンの中道淳さんが、今日一日を撮ってくれた異界写真を見ながら締めくくります。私もいま、初めて皆さんといっしょに見るものです。
 
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(写真撮影:川本聖哉)

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2009年2月13日


Report ハイパー企業塾高野山合宿抄録


 ハイパーコーポレートユニバーシティー[AIDA]は、次世代リーダーたちのために編集工学研究所が主催する企業塾。セイゴオを塾頭として、格別なゲストとスペースとプログラムで実施する。一貫したテーマは“あいだ(間)”。2005年にスタートして以来、歴史・科学・宗教・哲学・伝統芸能などのさまざまなジャンルを跨ぎながら、その“あいだ”にある関係性に注目してきた。

 2008年10月に開講した第4期は、第1講でセイゴオが粘菌世界から理論物理までを一気に駆け抜け、第2講でカオス研究第一人者の合原一幸さんが「法則はあるのに予測できない」という複雑系の魅力をたっぷり語った。第3講では連塾「浄土に焦がれて羅刹に遊ぶ」に全員参加し、いとうせいこうさん・川崎和男さん・藤原新也さんを相手にセイゴオが引き出す苛烈な「知」の“殺陣”を全身に浴びた。

 そして年明け早々の1月17~18日、空海密教の聖地・高野山を訪ねて期に一度の合宿が行われた。商社・銀行・代理店など大手企業約10社から集った塾生23名にとって、ほとんどが高野山は初体験である。宿坊は、セイゴオと30年以上の親交が続く蓮華定院。ゲストは、金剛峰寺第412座主・高野山真言宗管長の松長有慶さんと、密息という日本古来の呼吸法を自ら探しあてた尺八奏者の中村明一さん。息も凍りそうな厳修の空間で、心身に密教と密息の「方法」を体得する2日間となった。

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■1月17日(土)1:30 オリエンテーション(蓮華定院)
 東京から約6時間かけて入山した塾生たちは、蓮華定院に到着するなり、息つく暇なく上段の間に集合した。編集工学研究所大村専務の開会スピーチ、添田住職の挨拶を受けて、セイゴオによる密教ガイダンスが始まった。しだいに、緊張と寒さでこわばった塾生の表情に生気が取り戻されていく。

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セイゴオ:高野山には日本を越えたものがあり、かつ日本の本質もここにある。ぼくの最初の本『自然学曼陀羅』(1979年)は、密教がつくりだした「曼陀羅」で自然科学を捉えようという試みだった。「曼陀羅」はシステムであり方法である。
 密教の特徴は、複雑性、多様性、言語性、象徴性、官能性、身体性。これだけ多岐にわたる密教だからこそ、現代にふさわしいメソッドが見つかるはずである。

■1月17日(土)3:00 松長有慶氏の説法(金剛峯寺)
 蓮華定院から雪道を歩くこと約20分、金剛峰寺に向う。金剛峯寺は全国に約3600ある高野山真言宗の総本山。壮麗な桧皮葺の主殿に案内され、本山の重要な儀式が行われるという大広間に着座したところへ、紫衣の松長有慶氏が片手に水晶の数珠を携えて登場。

松長:“比叡山天台宗の最澄”と“高野山真言宗の空海”。両者の違いは、比叡山と高野山という地形から物語ることができる。天台宗は比叡山という山頂がある山地地形に根を下ろし、トップダウン型ヒエラルキーに基づいて発展を遂げた。一方真言宗はそもそも高野山という山はなく、蓮華八葉にたとえられる八つの峰に囲まれたおおらかな盆地地形。どんな宗派も思想も哲学も全てを包み込みながら発展してきた。多種多様な価値観を包含して、それぞれを雑多なままで一つの統一体を作りあげる密教の思想は、価値観が多様化した現代社会に対して意義深い指標をあたえる。密教には公式も模範もない。そのため一人一人が受信機となって宇宙が発する情報をしっかりとキャッチしなければならない。自分自身のアンテナを常日頃から研ぎ澄ますことが必要で、それが修行というものである。

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■1月17日(土)5:30 瞑想体験(蓮華定院)
 再び蓮華定院に会場を移し本堂に集合。真言宗に伝わる「阿想観」と呼ばれる瞑想修行を約1時間体験する。呼吸を通して全宇宙との一体感を獲得する修行である。「瞑想は呼吸に始まる」という添田住職の声に導かれながら、塾生たちは目を閉じて姿勢を正し呼吸を整えた。高野山の凛とした空気が身体の隅々まで行き渡ったところで、精進料理を頂いた。

■1月17日(土)7:30 中村明一氏 密息ワークショップ(蓮華定院)
 密息とは呼吸法の一つ。一度の呼気量や吸気量が非常に大きく、かつ吸い込みにかかる時間が非常に短いのが特徴である。中村さんは尺八を通してこの呼吸法に出会ったという。試行錯誤のすえ10年かけて体得すると、尺八の表現力の深さと豊かさがそれまでとは異なる次元になったと感じたそうだ。
驚くべきことに「密息」は特別なものではなく、日本人が古来ごく自然に行っていた呼吸法であり、日本人の身体には今も「密息」の記憶が残っているという。塾生は実際に身体を通して「密息」の入口を体験し、そこから展開していく独自の中村日本論に耳を欹(そばだ)てた。

中村:日本は、山地が多く、傾斜がきつく、湿潤で土が軟らかく、草木が多い国土を持つ。とにかく明治までの日本は足場が悪かった。そのため腰を落とし、膝を曲げた姿勢で安定を保っていた。また男性の着物の帯は、下腹部が前に張った状態で安定するようになっている。日本独自の自然条件と生活スタイルが生んだこの体勢こそ「密息」の基本姿勢である。日本人は普段から「密息」をしていたのだ。
 コツは3つで、腹を張り気味に保つこと、骨盤をいつもより後ろに保つこと、息を吐くときにできるだけ静かにゆっくり長く吐き出すこと。ごくシンプルな身体の使い方さえ分かれば、「密息」の記憶を呼び起こすことができるはずだ。
 「密息」によって体が静止した状態を保てるようになると、速度、温度、音量、空間、感触、香りなど、さまざまなパラメータに対して敏感になる。同時に、必要な情報だけを選り分ける極めて研ぎ澄まされた意識状態がつくられる。

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セイゴオ:中村さんが尺八という日本独特の楽器を通して感じ得たもののすべてが、本来の「日本」である。尺八のルーツは中国の縦笛(リコーダー)。世界的な傾向としては、縦笛は次第に横笛になり、穴を小さくして指で覆いやすくした。ところが、日本は縦笛のまま、口の部分をもっと太くし、穴ももっと大きくして、あえて指でふさぎにくくした。そのため、オンとオフのようなデジタル式に音が出ないかわりに、中間音を操る技を芸術の域まで巧みにした。尺八の音は、多元のひろがりと無限の組み合わせをもつ。

■1月18日(日)6:00 朝勤行(蓮華定院)~奥の院参拝
 夜明け前に本堂で「朝勤行」が始まる。夜更かしして中村氏を囲んで談義をしていた塾生もスタッフも連座し、添田住職ほか4人の僧侶が唱える「理趣教」にひたすら集中する。「理趣教」とは真言宗の常用経典で、人間の自性浄化を説くものとされる。その効あってか、住職の声がけで焼香が始まると、所狭しとランダムに座っていた塾生たちは、互いの気配を察知しながら整然とふるまっていた。
 朝の精進料理をいただいたあとは、約2キロの石畳の参道を歩いて、空海入定の地・「奥の院」へ。
 杉木立の参道の両脇には、雪を頂いた約30万基もの墓石や供養塔が林立している。織田信長や豊臣秀吉といった歴史ヒーローの供養塔にまじって、ロケットや福助やコーラのビンを象ったユニークな形の企業墓もあり、塾生たちも興味津々。ようやく空海の御廟にたどりつき、神妙な顔つきで揃って手を合わせる。

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■1月18日(日)10:30 中村明一氏 尺八演奏(蓮華定院)
 塾生たちが奥の院詣出をしているあいだ、蓮華上院では一人中村さんだけが精神統一のため控室に籠もっていた。奥の院から戻った塾生たちが大広間に集い、息をつめて見守る中、静かに障子が開き、紋付羽織袴姿の中村さんが登場。静かに尺八を構えたかと思うと、寂びた音色がたちまち空間をふるわせる。曲目は、「獅子」。次第にテンポが激しくなりながら、獅子が頭を振って舞い狂う情景が表現される。続く「鶴の巣籠(すごもり)」では、親子鶴の情愛と子別れという一篇の物語が超絶的な奏法によって綴られた。さらに、尺八よりも一回り大きい法竹に持ち替え、虚無僧伝承曲の「心月」「薩慈」。密息と循環呼吸の技術が駆使され、音なのか息なのかその境界を往来するかのような演奏に、セイゴオも塾生もすっかり酔いしれた。いつまでも鳴り止まない拍手を受けながら、中村さんは予定外にもう一曲「打破」をプレゼントしてくれた。

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■1月18日(日)1:30 セイゴオ ソロトーク(大師教会)
 昼食後、真言宗本部がある大師教会へ移動。智拳印を結んだ大日如来の巨大な掛軸を背景に、セイゴオが締めのトーク行った。高野山開創1200年を7年後にひかえた今、密教関係者のみならず日本人がしておくべきことを、いくつかのポイントに絞り込んで話した。

松岡:密教にかぎらず、宗教は完全に「方法」だと思ったほうがいい。会社、生活、思想、思考、技術のためのヒントにするものだと思うべきだ。金融恐慌で不安定な時代だからこそ、密教が重要視する「教相(きょうそう)」と「事相(じそう)」を方法として取り出してみるとよい。教相とは真言密教の理論で、事相とは真言密教を実践する方法のこと。この「教」と「事」の“あいだ”にこそ、今日の企業社会が注目すべき方法がひそんでいる。

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 じつはセイゴオは高野山入りするまで咳や微熱でいまひとつ体調が万全ではなかった。スタッフたちは「万が一」に備え、大量の市販薬を持ち込み、冬山登山なみの防寒具を手配し、付近の病院も調査していたほどだった。
 不思議なことに一泊二日のプログラムを終えると、セイゴオはすっかり回復していた。ほかでもない空海が今も生きていると信仰される地で、瞑想や密息や中村さんの尺八、さらには塾生たちのすぐれた感度によって心身がすっかり浄化されたようだった。

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2009年1月23日


Report 平凡社新書『白川静』8万部突破!


 昨年11月の刊行直後から全国書店で新書売上1位になるなど大好評の『白川静―漢字の世界観』。年が明けてからも勢いづいて増刷を重ね、ついに8万部を突破。多くの新聞・雑誌の書評欄でも「初の白川漢字学入門書」として絶賛されています。
 もっともセイゴオは、「かつて白川さんの著書が学会からも出版界からも黙殺されてきたことを思うと、自分の入門書が話題になることに複雑な思いがある」とも。これを機になんとか白川さんの著書が新しい世代の日本人に受け入れられていく一助になればと、いたって謙虚な心境のようです。その思いをあらわすかのように、今週から書店に出回り始めた第3刷は、重版のニュースを聞くなりセイゴオが随所に手を入れ直したニューバージョンとなっています。

 昨年12月20日に出版された『連塾・方法日本1-神仏たちの秘密』(春秋社)も、早くも年末年始と立て続けに版を重ね、昨年から手掛けていた『多読術』(ちくまプリマー新書)はいよいよ4月刊行が決定。以降も続々と新刊を控え、今年も全国書店の「松岡正剛フェア」が常設状態となることはまちがいなさそうです。

■初版『白川静』にセイゴオが書き込んだ加筆・修正は100ヵ所以上におよぶ。

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■これまでに取り上げられた『白川静―漢字の世界観』書評(一部)

「ORICON BiZ」12月8日号 「白川研究の第一人者として知られる白川静氏、待望の入門書」
「週刊朝日」12月12日号 「白川漢字学は丁稚奉公と夜学から始まった」(永江朗氏)
「東京新聞」12月14日 「文字から立ち上がる古代」(水原紫苑氏)
「東京新聞」12月15日 「大波小波―白川静・入門」
「週刊現代」12月27日・1月3日合併号「初めての白川学入門書」(嶺崇史氏)
「新潮45」1月号 「漢字の究明は、日本の心の探究である」(稲垣真澄氏)
「朝日新聞」1月4日 「字のちから 成り立ちにこもる人々の思い」(大上朝美氏)
「週刊読書人」1月9日 「売行好調の一冊・白川静への最高の入門書」
「日経ビジネスNB online」1月14日 「神と人をつなぐもの」(尹雄大氏)
「望星」2月号 「待望の白川漢字学ガイド」(丸山純氏)

そのほか「日経新聞」「週刊東洋経済」「読売新聞」」「墨」をはじめ、各誌の新刊・新書紹介欄、書店売上レポートなどで紹介されています。

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「東京新聞」12月14日

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「週刊朝日」12月12日号

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2009年1月19日


Report 平城遷都1300年「弥勒プロジェクト」発進へ


 2010年に奈良県で開催される「平城遷都1300年記念祭」に向けて、事業推進の要となる「平城遷都1300年記念事業推進委員会」(以下「推進委員会」)、「日本と東アジアの未来を考える委員会」(以下、未来委員会)、「東アジア地方政府会合実行委員会」の3つの委員会の合同設立総会が、1月15日、グランドプリンスホテル赤坂で行われ、政界・財界のリーダーおよび有識者ら153人が集った。

 これらの委員会は、平城遷都1300年を機に日本と東アジアの恒久的な交流事業を創出していくためにつくられたもので、松岡正剛は「推進委員会」委員とともに「未来委員会」幹事長に就任、事業の柱の一つとなる「弥勒プロジェクト」を率いていくことになっている。

 総会では、「推進委員会」会長・御手洗冨士夫氏、同委員長・下妻博氏、「未来委員会」委員長代行・川勝平太氏、「地方政府委員会」委員長・石原信雄氏がステージに立ち、それぞれ設立趣旨や決意表明をスピーチ。また出席者を代表して自民党の青木幹雄氏、民主党の鳩山由紀夫氏、公明党の冬柴鐡三氏からの応援演説があった。
 松岡は、「未来委員会」幹事の野田一夫氏とともに壇上に立ち、幹事長として次のように抱負を語った。

 「日本という国は奈良平城京にはじまり、その平城京は東アジア交流を礎に誕生した。今日、グローバル・キャピタリズムの矛盾が世界を席巻しつつあるが、本来のキャピタルとは文化経済装置のことだった。今からちょうど120年前、岡倉天心がアーネスト・フェノロサとともに奈良で夢殿を開き、日本および東アジアの国家都市(ナショナル・キャピタリズム)の誕生に思いを走らせた。そして“Asia is one”(アジアはひとつ)という大きな展望を持つにいたった。しかし、今日のアジアは決してひとつではない。多様な共存体と見るべきである。[弥勒プロジェクト]は、アジア性とともに独自性をもつ日本が、今一度奈良という礎に立ち戻りつつ、1300年をひとまたぎして、これからのアジアのキャピタリズムのための100年の構想と展望をシナリオ化していくもの。その名前にふさわしく、東アジアと日本の懸け橋になっていくことを祈念している」

 総会は約30分の歓談の後、すべての仕掛け人である奈良県知事・荒井正吾氏の挨拶で締めくくられた。引き続き、隣接する会場で「未来委員会」の第一回会合が開催され、知事・幹事メンバーとともに約50人の委員が出席。昨年末、松岡が中心となってまとめあげた90ページにもおよぶ「弥勒プロジェクト」マスタープランが全員に配布され、松岡みずからその概要を説明。2010年までに推進する3冊の記念出版事業をはじめ、壮大な知財アーカイブ構想「NARASYS」など、その骨格を明らかにした。

 今後、松岡は、「未来委員会」メンバーとともに、いよいよ「弥勒プロジェクト」の実行計画を進めていくことになっている。さっそくその成果が、記念出版本の第一弾として5月に上梓される予定だ。

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野田一夫氏とともに壇上で
「未来委員会」と「弥勒プロジェクト」の意義を語る

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経済界のリーダーたちと円卓で歓談。
セイゴオの隣は福原義春氏。

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「未来委員会」には、安田登氏・ワダエミ氏など、
伝統文化の一人者やアーティストも加わる。

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奈良女子大学学長の久米健次氏は、
「千夜千冊」の熱心な愛読者らしい。

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鳩山由紀夫氏は応援演説で
松岡から参画要請を受けたエピソードを明かした。

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「未来委員会」の幹事席は最強の論客揃い。
松岡の隣は委員長代行を務める川勝平太氏。

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「弥勒プロジェクト」のヴィジョンとともに、
事業概要を説明する。

投稿者 staff : 23:05

2008年12月27日


Report 連塾JAPAN DEEP2 師走日本の浄土と羅刹


セイゴオが切り結んだ3人のサムライたち

 12月20日、満艦飾のクリスマスイルミネーションが喧しい原宿表参道のクエストホールで、「連塾JAPAN DEEP2」が開催された。 「浄土に焦がれて、羅刹に遊ぶ。」「斬ります、日本。」というコピーとともに、川崎和男・いとうせいこう・藤原新也という稀有な顔合わせが実現するとあって、前評判も上々。「連塾」としては過去最高の300人の塾衆が参加した。
 
 オープニングは、日野皓正のトランペットをBGMに、今年出版された約300冊の本の表紙が次々と連打される3分間の高速映像。そこへセイゴオが登壇し、行き過ぎた資本主義から金融恐慌へと、日本が巻き込まれながらころがり落ちてきた1年間を振り返る。「けれどもそんなことは、ずっと起こってきた」と切り返したところで、一人目のゲスト・いとうせいこうさんが、まず映像で登場。1993年に二人が「物語とマルチメディア」をテーマに対談をしたテレビ番組である。このときセイゴオは若きせいこうさんの思考と解釈の編集スピードに舌を巻き、以降何度も互いの番組やイベントに招きあっては「セイゴオ・せいこうコンビ」を組み対話を重ねてきた。
 今回の連塾のための事前打ち合わせでは、せいこうさんは「後半は誰もついてこれない話を松岡さんとぶっちぎりでやりたい」と話していたというが、トップスピードで応酬する15年前の映像に刺激されたのか、登壇するやいなや「すべての意識は事後認識ではないか」という最近の思索テーマをセイゴオに投げかけ、たちまち二人のあいだで、意識と言葉、意味とメディアをめぐる掛け合いが加速していった。
 さらに、せいこうさんによるミャンマーの軍事政権に抗議するポエトリーリーディングの映像を挿入しながら、話題は「表現と形式」「鍵と鍵穴」という、セイゴオの編集工学的世界観にとっても重要なテーマにさしかかる。小説、ラップなどさまざまな表現手法を手掛けてきたせいこうさんは、つねに新しい形式をつくることをめざしてきたという。セイゴオはそんな精神のパフォーマンスに深く共感を示し「鍵と鍵穴は一挙につくるべきだよね」と語る。「ぼくたちは、ゲームをしながらゲームをつくるのが好きなんだね」。
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 2人目のゲスト・川崎和男さんは、傾斜のなだらかな長い長い特別製の「花道」を、車椅子に乗って登場。まず、デザインスタジオのスタッフとともにこの日のために用意した50分間のマルチ画面の活動紹介映像とともに、軽妙な語り口によるソロトークを披露。ただしその内容は、世界を相手に「右翼日本人」を豪語して一歩も引かない喧嘩師・川崎さんの舌鋒の鋭さが発揮されていくというもの。
 みずからの交通事故をきっかけに車椅子のデザインを、さらに心臓病をきっかけに医学博士号を取得し人工心臓のデザインを手掛けてきた川崎さんは、アメリカ大統領選で話題となったペイリン氏のメガネで一躍「時の人」となった。これをチャンスに国連に働きかけ、現在は「PKD(Peace-Keeping Design)プロジェクト」を推進している。その奥には、いつも郷土福井の先人・白川静や橋本左内や梅田雲浜、そして緒方洪庵の精神を継承したいという思いがあったという。
 セイゴオはそんな川崎さんの「おいたち」について、またアートとしてではなく「生老病死」に向き合うためのデザインをめざした経緯について、さらに聞き出していく。「デザインには存在学が必要だ」と考えるセイゴオは、川崎さんはデザインをナラティビティに置き換えることができる日本では稀有なデザイナーなのだと言う。そこには「言語道断」という方法があるのだと語る川崎さんもまた、かつて「遊」を愛読しいまなおセイゴオの深い理解者であろうとする敬慕の念を隠さない。
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 3人目となった藤原新也さんとの100分間は、それまでの二人との加速感とはまったく違う「いろりばた」のような間合いで展開した。二人の出会いは二十数年前、写真雑誌の対談がきっかけで、以降、家を訪ね合うほど親交を結んできたが、公開の場で対話をするのはこれが初めてである。いつもの二人の気遣いのないぶっきらぼうな会話を時折ステージ上で垣間見せながら、少しずつセイゴオは藤原さんの写真と文章の秘密に迫っていく。
 セイゴオによると「紀行独白体」ともいうべき独自の文章を写真に重ねた藤原さんのスタイルは、『印度放浪』以来、どんな文章家も写真家も持ち得なかった「書物としての力」を時代に刻印してきた。それは、最新作『日本浄土』でもセイゴオを震撼とさせ、それが今回の「JAPAN DEEP」の起興(ききょう)になっていたとすら語る。その『日本浄土』から藤原さんが新たに選び、新たに言葉を加えた写真がスクリーンに映し出される。
 藤原さんは、「いつも写真と言葉から逃れたい」と考え、「フォトジェニックを壊したい」と考えてきたという。今は「自分すらそこにいない」写真へと到達し、春に四国八十八ヵ所を撮影して回ったときには、文章未然の単語ばかりが浮かんだのだという。「もしそんな単語だけ並べた写真集をつくったら、はたして成立するだろうか? どう思う?」。やにわに問いかける藤原さんに、セイゴオは「うーむ」と唸って、「言語は生まれるものだけど、消えるべきものでもあるね」と答える。 
 最近、日本を歩くのは苦行になっている。日本の風景は壊れている。整って壊れている。写真のセオリーは、見ようとすれば逃げるということ。向こうから「見られた」ときが撮りどきなんだけど、日本でそういう機会に出会うことは少ない。まるで大海で針を拾うようだ。言葉少なくも、研ぎ澄ました一語一語を紡ぎ出す藤原さんの横で、セイゴオは深くうなずいてみせた。
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 約6時間にわたって3人のサムライたちと集中した連談を終えたセイゴオは、さすがに疲労困憊していたようだが、会場に満ちる高揚感に支えられるように、ラストトークのためにステージに立ち、「千夜千冊」の『冬の紳士』(大佛次郎)の一節を朗読。
 「この小説は[冬の紳士]と呼ばれている尾形祐司が主人公になっている。この紳士は大佛が紙背に置いていった燠火(おきび)なのである」。そして、 『冬の紳士』は「気の毒なほどのダンディズムの断片だけで書かれた小説」であり、こんなふうに燠火を置く「炭男」にずっと憧れていたのだと語る。
 最後に、「4人の炭男たちをもう一度ご覧いただきたい」と、スクリーンにいとうせいこう・川崎和男・藤原新也、そしてセイゴオの4人のモノクロームの肖像写真が映し出された。前日のリハーサルからこの日の開演前までに、中道淳さんによって撮影されたものである。
 この炭男たちの写真こそが、セイゴオにとって、「JAPAN DEEP」な一日を刻印する「燠火」となったようだ。

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(モノクロ写真撮影:中道淳/カラー写真撮影:川本聖哉)

投稿者 staff : 16:28

2008年12月 8日


Report 本を書くこと・本を読むこと


 11月15日、神田の東京堂本店で真行寺君枝さんとセイゴオが「本を書くこと」と「本を読むこと」をテーマに、それぞれソロ講演。このイベントは真行寺さんの初著書『めざめ』(春秋社)の刊行記念に行われたもので、セイゴオがアドバイザーとしてかかわっていたこと、また折しも『白川静-漢字の世界観』(平凡社)の発売日が重なったことにより、セイゴオが友情出演するとともに、新著のサイン会も行うことになりました。
 真行寺さんは、自分の中に潜む言葉や文字に真正面から取り組み1冊の本を書き上げたことが、知性と理性の「めざめ」につながった心境などを切々と語りました。
 真行寺さんの語りを受けたセイゴオは、白川漢字学を取り入れながら、1冊の本が生み出されるためには「場」が必要であるという、日頃あまり公開したことのない編集思想のごく一部を明かしました(下記はセイゴオの講演の一部)。

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■読書でおこす「興」と「蕾」
 真行寺さん、『めざめ』の刊行おめでとう。偶然にも今日は私の新著『白川静-漢字の世界観』の発売日ともなりました。そこで、白川静さんにちなんで、二つの漢字で真行寺さんをお祝いしたいと思います。
 一つ目の漢字は「興」(きょう)です。「思いを興す」という意味で、独自の漢字学を打ち立てた白川さんが一番重要視した漢字です。白川漢字学をごくごく簡潔にまとめると「文字は世界を憶えている」ということ。世界が文字をつくったのではなく、文字が世界をつくったということです。
 福井の貧しい家に生まれた白川さんは、丁稚奉公をしながら、一生涯本を読むために中学校の先生を目指しました。やがて中国最古の詩集『詩経』と日本最古の歌集『万葉集』を同時に読むことを自分のライフワークと定め、96歳まで実行しました。白川さんにとって『詩経』と『万葉集』が「興」だったわけです。
 真行寺さんに贈る二つ目の漢字は「蕾」(らい)です。「つぼみ」のことですが、サンスクリット語ではスポータと言う。この言葉は、実はスポーツの語源でもあります。
 種に籠もった「蕾」の力は、双葉をめばえさせ、茎を育て、つぼみをつくり、やがて大きな花を咲かせる。真行寺さんが本を書くこと読むことによって「めざめ」にいたったように、書物の奥にも言葉の奥にも「蕾」があるのです。
 書物の中で「興」を興しながら「蕾」にむかった白川さんや真行寺さん。その渾身の取り組みから、私たちも読書や執筆への覚悟と方法を学ぶことができると思います。

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■書くことの闘い-文脈自由と文脈依存のあいだ
 「興」を定めて「蕾」にむかう覚悟を決めた文章家や読書家を待ち受けているのは、「文脈依存(コンテキスト・ディマインド)」と「文脈自由(コンテキスト・フリー)」という二種類の悪魔です。文脈依存と文脈自由は、文字や言葉が世界を憶えているために起こります。
 どういうことかというと、言葉も文字も一度それを持ってしまうと、それ以外の言葉や文字が持てないようにできているのです。たとえば「ここは神田です」と言うと、「ここ」を「神田」という言葉が占有してしまう。「東京です」と言えば「東京」が押し寄せてくる。こうして言葉や文字を使えば使うほど、私たちは文脈依存していかざるを得なくなる。
 さらに、文章を書くことには読むこと以上の困難があります。ドイツロマン派の詩人ノヴァーリスは「人は一生に一度聖書を書くチャンスがある」と言っています。けれども「一生に一度の聖書」を書きたいのであれば、占有してしまった言葉や文字がすでに織りなしている世界や、言葉と文字に潜む既成の「知」と闘って、自分なりの文脈を作っていかなければなりません。
 それがあまりに大変なので、たいていの人はつい文脈自由の日記やブログに向かい、勝手なことをただ書き綴ってしまう。しかし文脈自由な世界であっても、やはり言葉と文字を使うことになる。そして、言葉も文字も本来は世界を憶えているため、どんなに自由にやっているつもりでも、結局、どこかで文脈依存に戻らざるを得なくなる。
 このようにして、多くの文章家が文脈依存と文脈自由のあいだで、振り子のように惑っているのです。

■書物のための「場」の創造
 文脈依存と文脈自由という悪魔に捕らえられないためには、その両方を含んだ読書や執筆のための「場」というものを自分の中で想定し、そこに読み深めたい本や書き表したいことを落としこんで、自分なりの文脈を作っていく必要があります。
 冒頭で話したように、白川さんは『詩経』と『万葉集』がもつ世界を「場」と想定することによって、白川さん独自の文脈を作っていかれたのでしょう。
 私もこれまで40年以上にわたって、さまざまな編集エクササイズを試みながら、文脈を作るということをやり続けてきました。その一つが「千夜千冊」になり、あるいは編集学校となりました。
 読むことも書くこともあくまで自己体験の世界です。しかし自己を離れて客観に立ちながら、「場」に引き寄せていく、「場」に投企していく。そうして自分なりの文脈を興してみる。最初は小さな「場」でもいいのです。ぜひそこから書くこと、読むことを始めてほしいと思います。

■書物と現代資本主義を編集する
 いま、書物を取り巻く環境は世界中できわめて厳しい状況に追いやられています。フランスの社会学者ピエール・ブルデューは、資本主義の未来は書物とともにある、これ以上出版文化を看過すれば資本主義は書物とともに解体するであろう、と言っています。
 すでに資本主義の問題点が露わとなっている現在、本を書くこと読むことを根本的に問う時期に差しかかっていると言えるでしょう。そのためには出版社や書店の努力も必要ですが、現状の出版文化は価格という単一法則のみに縛られています。
 元来書物はいきいきした「興」と「蕾」を持って作られたはずです。たった1冊の本が、その周辺の30冊を変えてしまうこともある。あるいは組み合わせによって、時代すら変える可能性を持っているのです。
 1冊の本が孤立することなく、「場」によって豊かな書物世界をあらわす。著者が文字や言葉と闘いながら生み出してきた文脈ごと立ち上がらせる。そんな書店や社会を、愛書家の皆さんとともに作っていきたいと思います。


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投稿者 staff : 22:43

2008年10月28日


Report 日本の美学と茶の湯


ル・ベイン・デザイン塾で講演

 10月4日、内田繁さんの主宰する「ル・ベイン・デザイン塾」でセイゴオが2時間のソロ講義を行った。この塾は現代のデザインと生活文化をめぐって多彩な講師を招いて行われているシリーズで、今年4年目を迎える。今シリーズでは「茶の湯の今日~道具をめぐって」というテーマで竹内順一氏(永青文庫館長)、矢部良明氏(人間国宝美術館館長)、倉斗宗覚氏(裏千家今日庵業躰)、それに内田さんとセイゴオという豪華な顔ぶれが講師陣をつとめている。

 セイゴオの講義タイトルは「日本の美学」。貴重な映像資料をいくつか組み合わせて上映しながら、古代アジアとの文化交流にひそむ日本の“おおもと”から茶の湯の世界観を照らし出す内容となった。

【講演抄録】

 茶の湯を理解するには、なんといっても和歌や連歌のことを知っておく必要があります。つまり、藤原定家がわからないとお茶というものはわからない。
 また、茶の湯の奥には日本の「座」の文化もある。「一座建立」ともいいますが、これは古代中世の歴史、社会文化からおこったものでした。たとえば、室町時代には武家や貴族が集う「会所」がさかんに開かれていましたし、ムラ社会のなかでもいろいろな「座」が組まれ、寄合や祭りをおこなっていた。そういった「座」の文化と和歌や連歌の文化が重なり、さらにそこに中国から禅宗がもたらされ、薬効としての茶が加わったことから、やっと茶道というものがスタートをきった。

 それらのことを通していちばん重要なことは、「和漢」ということです。私はいまの「和ブーム」も茶道もまったくつまらないと思っています。それは「和漢」というものがふまえられていないからです。もっといえば、「和」というものが成立する背景に、中国や朝鮮がどのようにかかわっていたのか。ここを押さえておかないと、茶の湯はもちろん、日本というものについて何もわかったことになりません。
 「漢」とは中国由来の文化のことで、かつての日本にとっては「漢」こそがいまでいうグローバル・スタンダードでした。そしてその「漢」と対比させながら作られてきたものが「和」だった。
 たとえば、平城京も平安京も、公式な政治の場である朝堂院は徹底して唐様、すなわち「漢」によってつくられていました。朝堂院は瓦葺きで丹塗りで、天皇や上流貴族たちは椅子に坐って政治をおこなった。ところが一方、天皇のプライベート空間である内裏の清涼殿などは、檜皮葺で白木の建物でした。ちなみに「朝堂院」というのは、政(まつりごと)を朝おこなっていたことからきた呼びかたです。そして一日の切り替わりである夕方(旦)以降は、内裏のほうでことが進む。このように、かつて日本では「和漢」という二つのスタイルが使い分けられていたのです。
 侘び茶の創始者である村田珠光はそれを「和漢のさかいをまきらかす」と言って、和漢の境目をはっきりさせないという価値観を初めて提唱しました。そこから茶の湯が生まれたわけですが、この珠光の考え方を理解するためにも、それ以前の、和漢をデュアルスタンダードにしていた時代の様式を知っておく必要がある。

 一言でいうと「漢」はフォーマル、「和」はカジュアルです。ただし「カジュアル」といってもラフという意味ではない。「和」では神殿や高床式の社の作り方が踏襲されていたので、中国的様式からすればそれはカジュアルですが、日本的にはそれがあくまでフォーマルだった。そういう二重性があった。そして、この和漢というものを使い分けながら、次第に「和」というものを自立させていったのが日本文化です。そこには何人ものすぐれたディレクターの活躍がありました。そのひとりが紀貫之です。

 ご存知のように貫之は「古今集」を編纂した歌人ですが、私は貫之こそ日本の文字革命を起こした重要人物だったと見ています。というのも、「古今集」には漢文による「真名序」と平仮名による「仮名序」の二つの序文があった。内容的にはほぼ同じことを書いていますが、プロトコルが違えばそこに表現されるものは変わってきます。貫之は、当時は公文書には必須だった漢文とともに、平仮名による序文をつけることで、「和漢」というデュアルスタンダードを明確に示したわけです。
 貫之はまた「土佐日記」を書いています。「おとこもすなる日記というものをおんなもしてみんとてすなり」と書いて、なんと男である貫之が女のフリをして日記を書いた。当時、日記というものは漢文で書くものでした。またそもそも日記は貴族の役人たち、すなわち男たちが書くものだった。だから女が日記を書くこと自体が革命であり、さらにそれを平仮名で書くというのは、誰も思いもつかないことだった。
 平仮名は女文字とも呼ばれ、女房たちがつかう文字でした。貫之は男ですから、あえて女文字である仮名文字で日記を書くためにトランスジェンダーしてみせたわけです。なぜそのようなことをしたのかといえば、仮名文字を使うことによって漢文では表現できない日本というものが表現できるからです。貫之はそういうことを早くも見抜いていた。
 
 そもそも平仮名というものはどうやって誕生したか。中国の美というのはだいたい左右対称でシンメトリーです。ところが日本はそれらをとりこむとアンシンメトリーに崩していく。宝相華文様や咋鳥文様のような文様もそうでした。たとえば咋鳥文様は日本では松喰鶴になって、左右対称性を崩して自由なレイアウトにしてしまう。
 漢字を取り入れたあとに日本がしたことも同じでした。きっかりとした楷書で書いていたものを、だんだん崩して行書にし、さらに崩して草書にする。草書になると漢字のかたちもどんどん崩れて、ついにはそこから平仮名というものが生まれていった。
 茶の湯にも「真・行・草」があります。利休が大成した草庵の茶が今日の茶道になっているわけですが、そのおおもとにはもちろん「真」というもの、「漢」という中国的な世界があったわけです。だとすると、利休はそれをどのようにして崩したのか、そこにはどんな方法がひそんでいたのか、そのことを知るべきです。

 先ほど話したように、茶道を知るためには日本の「座」も重要です。ところが、この「座」というものも今日の日本ではなかなかわかりにくくなっている。「座」というのは、メンバーシップによって場所や権利を占めるものですが、ただしそれは何かの価値を互いにシェアし共有するためのものだった。たんに自分たちの利益を守るためではなかった。
 ここで、今日はちょっと珍しい映像をお見せしたい。大正8年、御殿山の益田鈍翁の邸宅で、「佐竹本三十六歌仙絵巻」という美術品がばらばらに切断され断簡にされるという大事件がありました。佐竹本はいまの価値に換算すれば50億円は下らないだろうと言われるほどのものでした。当時はまだ国宝という制度はありませんでしたが、今なら国宝の最高峰になっていたでしょう。
 いったいなぜそのようなものが、ばらばらに切断されてしまったのか。

 「佐竹本」は切断されてどうなったかというと、その場に集っていた財界人たちやコレクターたちにくじ引きで分けられ買い取られていきました。そしてそれぞれ掛軸に仕立てなおされ、新しい価値をもつことになった。じつはこの断簡事件は、たった一人で占有することが困難なほど高価な「佐竹本」を、日本人の数寄者たちが分有するということを、益田鈍翁が乾坤一擲で決断したものだったんです。もしそうしなければ海外のコレクターに奪われかねなかったのでしょう。
 益田鈍翁というのは三井財閥の大番頭として名を馳せ、番年は明治を代表する数寄者として多くの美術品をコレクションした人物です。その鈍翁に声をかけられ佐竹本を分有したのも、阪急の小林一三、野村証券の野村徳七、ビール王とよばれた馬越恭平、住友財閥の住友吉左衛門、三井財閥の団琢磨など、そうそうたる財界人だった。
 当時の財界人というのは、みんな50歳にもなるとビジネスをリタイアして、日本美術や茶道に財力をそそいだ。余生を数寄者として過ごすという美意識をもっていた。そういう人々が買い集めた美術品が、今日の根津美術館や三井美術館となっているわけです。
 このシリーズでも講義をされた熊倉功夫さんは、「近代数寄者を失ったときに、日本の茶道は崩れた」というふうに見てらっしゃいます。私も同感です。戦後GHQたちによって真っ先に財閥が解体されたように、今日ではあのような大金持ちの存在は誰もがよく思わなくなっていますが、しかし当時の益田のような人たちがいったい日本の何を守ろうとしていたのかということは知っておくべきです。

 「座」をもって価値をシェアすること、それによって何かの価値を維持すること、さらにはそこに新しい価値を生み出していくこと。こういうことは今日の自由主義社会や市場主義社会とは相いれないものかもしれません。けれども私は、本来の文化、本来の価値というものはこういうかたちでしか維持できないのではないかと考えています。
 そして、その本来の価値というものの奥に、中国的な美というものがあった。明治の数寄者たちの時代まではそのことも継承されていたはずです。

 最後に、その中国的な美意識をもちつつ、日本の逸格というものをみごとに生み出した人物を、やはり映像で紹介しておきます。その人物とは、川喜多半泥子です。半泥子も明治の財界人でした。若くして百五銀行の頭取をつとめ、50代にはリタイアし、そこから陶芸にのめりこんでいった。
 半泥子のつくった茶碗は、「大吹雪」「松の内」「たつた川」など、いわゆる茶の湯でいわれる茶碗の基本からははずれたものばかりです。けれども、そこには中国の水墨山水がもっとも重視したコンセプトである「気韻生動」がみなぎっていた。すばらしいものです。
 中国では「気韻」には「神・能・妙」という三段階があるとされ、のちにそこに「逸」が加わった。日本はこの「逸」をもっとも重視し、中国にはなかった独自の山水画を生み出していきました。「逸」というのは逸脱であり逸格です。しかし「気韻」というものにはつねに「品」というものが重視された。それが「神・能・妙」である。この、中国本来の「品」と、日本流の「逸」をひとつの茶碗のなかにみごとにあらわしたのが半泥子だった。私はそのように見ています。

 いったいなぜ半泥子にこのような作品がつくれたのか。半泥子の陶芸は誰の弟子になるわけでもなく自学自習によるものでしたが、朝鮮を訪ねて土や釉薬や窯の研究をし、あるいは当時廃れつつあった備前焼の窯元を訪ね、そのなかで金重陶陽と知り合い日本の古い焼き物の技法を共同研究するなど、その方法は徹底していました。近代日本が失ったもの、あるいは失いつつあるものを、半泥子はかなり正確に見抜いていたわけです。

 私が半泥子の作品のなかでももっとも好きな「一声」。これこそ、失われた日本の奥にあるものを探求しつづけた半泥子の到達点だと思います。とてもシンプルなものですが、ここには、日本文化の目利きであった白州正子さんが最後に須恵器に行きついたことと共通するものを感じます。
 能を演じることをやめて能を綴る決心をした白洲さん。財界をリタイアして佐竹本を断簡にすることで守り抜いた鈍翁。日本の奥にある「漢」を忘れずに逸格と品をめざした半泥子。
 いまの日本にはこの半泥子の茶碗ひとつに匹敵するものが何もない。いったいこれからどうすればいいんでしょうね。ぜひみんなで考えていきましょう。

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投稿者 staff : 00:48

2008年9月 6日


Report 速報:「遊書擬画展-【ダブルページ】」オープン


9月6日(土)、セイゴオの「遊書擬画展-【ダブルページ】」がオープンしました。会場のギャラリー册(千鳥ヶ淵)にはレセプションパーティ開演前から、多くの来場者が詰めかけ、セイゴオの新作の書やドローイングに熱心に見入っていました。

今回のテーマ「ダブルページ」は、書物の「見開き」という様式を意味しています。和紙、木板、銅板、タイルなどさまざまな素材に、墨書やペン画、淡彩、文字彫と多種多様な技法を駆使して表現した遊書や擬画の、すべてが見開きの本に見立てて仕立てられています。どの作品も購入可能で、しかもこの世にたった一冊のセイゴオお手製の「本」とあって、初日から売れ行きも好調でした。

9月28日(土)までの会期中、12日(金)、15日(月・祝)、18日(木)の夕刻以降はセイゴオが必ず必ず会場にいますので、当サイトをご覧いただいている皆様も、ぜひお誘い合わせのうえ、ご来場ください。


遊書擬画展【ダブルページ】
会期:2008年9月6日(土)~9月28日(日)
   *休廊日は、8日(月)、16日(火)、22日(月)です。
会場:ギャラリー册
    千代田区九段南2-1-17 パークマンション千鳥ヶ淵1F
    九段下駅2番出口徒歩10分
    TEL:03-3221-4220 FAX:03-3221-4230
    地図→http://www.satsu.jp/kudan/satsu.html#kudan


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「両頁主義」を高らかに宣言する会場バナー。
左は二曲仕立の「十二神将像・その1」。

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不思議な味わいの杉の古木に文字彫を施した、
「甲骨書立・東西」(右)と「甲骨書立・言告」(左)。

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漆黒のクロスで特別製本した「蘇東坡」。
木板に漢詩「午窓坐睡」を文字彫してある。

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星座のようなセイゴオ図解「世界バッグ」。
アルミのミニアタッシュケース入り。

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全28ページに円相を現した「円状本」。
まさにこの世にたった一冊の本。

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桐の板目を生かした精妙なドローイング「天地玄黄図」。

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「ほんの手遊びばかりを展示しています」と言いつつ、
仕上げの1ヶ月間の集中ぶりが、セイゴオの表情にありありと。

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ミュージシャンのPANTAさんと「BOKUDEN」編集長の早川義輝さん

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今年3月にNHKでロング対談した談志師匠とは、
話しても話しても話題が尽きない。

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しりあがり寿さんとNHK出版鵜飼泰宏さんが
「十二神将像」の前で記念撮影。

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松本清朝記念館の藤井康栄館長と、懐かしい思い出話など。

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浅葉克己さんは、セイゴオ図解「縁際バッグ」がいたくお気に入り。

投稿者 staff : 22:47

2008年7月19日


Report 連塾「JAPAN DEEP1」ダイジェスト


 2008年7月5日(土)、松岡正剛が塾長をつとめる「連塾」の新シリーズが開幕しました。

 「連塾」は、「日本という方法」を伝授する場として2003年にスタートしたハイパートークイベントです。第1期では、全8回・のべ50時間の圧巻のセイゴオソロ講義が話題を呼び、第2期では総勢25人ものゲストとパフォーマンスを交えた多彩なセッションを全4回にわたって展開。「特定少数」のための塾として、当初は50人ほどに限定されていた塾生は、回を追うごとに増え続け、昨年末(2007年12月22日)草月ホールで開催した「浮世の赤坂草紙」では、300人近い塾生が会場に詰めかけ、大盛況でした。

 そして、いよいよ「連塾」6年目第3期を迎えるにあたり、セイゴオは第1期・第2期とは趣向を変えて、格別なゲストたちと存分に語り合い、方法日本の底辺を探るディープなプログラムを企画。これを題して「ジャパン・ディープ」と名づけました。

 その初回である7月5日の会場となったのは、ドイツ文化会館内のちょっとレトロなOAGホール。ここは赤坂稲荷坂上を拠点とするセイゴオにとってはなじみの“御近所さん”で、毎年末、会館内のレストラン「葡萄屋」で編集工学研究所が納会を行っているほどです。が、連塾第1期から演出と照明を担当している藤本晴美さんと、藤本さん率いるテクニカルチーム(藤本組)が、前日から入念に仕込んだ“マジック”によって、セイゴオも驚くような「JAPAN DEEP」な空間が、煉瓦造りの日独文化交流の城の中に出現しました。


◆森鴎外の見つめた「於母影」に寄せて

 「連塾」では、第2期以降、セイゴオの好みを反映して、ステージ上に本や書棚が絶妙に配置されるようになっているが、今回も、数十冊のセイゴオの蔵書がディスプレイされた。さらに、オブジェランプが林立して灯され、その真ん中には特注の鉄製のディレクターズチェアが置かれた。眼に入るものすべてが黒に統一され、微量の赤が映える見事なステージデザインだ。

 やがて、黒地に赤字の大胆な「JAPAN DEEP」のロゴがスクリーンに浮かびあがり、ディートリッヒのけだるい歌声が流れ出す。これを出囃子に、黒いスーツのセイゴオがゆっくりと登壇した。

 ちょうど120年前の明治21年7月5日、ドイツ留学を終えて日本に帰ってきたある人物がいる。陸軍二等軍医としてベルリンに渡った森林太郎、すなわち森鴎外である。若き鴎外の肖像画の前で、帰国後の鴎外が発表した訳詩編『於母影』に触れつつ、セイゴオはたちまち「JAPAN DEEP」のおおもとにある日本の面影へと言葉を加速させていった。


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黒と赤。藤本晴美さんが演出したステージデザイン。

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若き森林太郎のこの眼に惹かれてセイゴオが選んだ肖像写真

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「連塾」では毎回、手元に十数枚のレジュメを用意して精妙な語りを展開する


◆さまよえる魂の歌―岡野弘彦さん

 一人目のゲスト、岡野弘彦さんは今年84歳になられる当世随一の歌人。セイゴオにとって長年の憧れの人物だったが、ちょうど1年前、念願かなってプライベート対談が実現した。開口一番、「日本にはビン・ラディンがいない」と嘆く岡野さんに、セイゴオはますます憧れをつのらせたものだった。
 もちろん、公開の場での対談は、この日が初めてである。セイゴオはまず、三十五代つづいた三重の山奥の神主の家に生まれ、神宮皇學館で記紀・万葉集に目覚め、國學院大學で折口信夫に出会うまでの、岡野さんの半生記を、つぶさに聞き出していった。

 岡野さんは、23歳のときに折口信夫の内弟子となり、7年にわたって国文学・民俗学・和歌の方法を直伝され、その死を看取った人物としても知られている。次第に、岡野さんの語りは、折口と過ごした日々のエピソードを交えつつ、折口の精神や「さまよえる魂」をめぐる極点へと進んでいく。さらに、折口が、学徒出陣を命じられた弟子たちに、「一人でも多く生き残り、国学を再生してほしい」という思いを歌に託して贈ったというエピソードには、セイゴオも胸を射ぬかれたような表情で深く頷いていた。

 後半は、岡野さんが、土岐善麿、齊藤茂吉、釋超空(折口信夫)の短歌と自選句を、折口仕込みの独特の節回しで朗詠するという、とびきりの「JAPAN DEEP」が展開した。かつてそのようにして短歌は詠じられるものだったと語り、最後は自作の旋頭歌「若葉の霊」を、せつせつと、染み透るような声で披露した。戦場で散った少年飛行兵たちの鎮魂のためにつくられたという。

 世の末の むごき戦に 命ほろびぬ
 隠り世は あまりさびしと 泣きしづむらし

 悔い多き 世をながらへて 老いに到りぬ
 怒らじと こころは思へど 死にがたきかも

 湧きあがるような満場の拍手を浴びて降壇する岡野さんを見送ったあと、セイゴオはすっかり胸が詰まってしまったのか、しばらく絶句したまま、ステージの真ん中にたたずんでしまうというハプニングがあった。
 

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岡野さんの著書を紹介しながら対話が始まった

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遠州流家元の小堀宗実さんがさっそうと登場し、岡野さんに呈茶

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「年のせいで声も枯れてしまってますが」と言いつつも艶やかな84歳

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少年飛行兵への鎮魂。自作の旋頭歌をせつせつと詠じる

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しばらくステージで言葉を失ってしまったセイゴオ

◆日本アニメの秘術は残る―押井守さん

 2人目のゲストである押井守さんは、8月公開予定の最新作「スカイ・クロラ」の、圧倒的な飛行戦闘シーンの映像のなか、セリでゆっくり舞台に登場した(この押井さんの登場シーンに合わせて会場を照明で真っ赤に染めるために、「藤本組」は前日から10回以上ものリハーサルを繰り返していた)。

 押井さんとは何度目かの公開対談であるが、アニメ監督としての押井守誕生のエピソードを詳しく聞き出したのはセイゴオもこの日が初めてだったろう。年間500本以上もの映画を見続けていた押井青年は、タツノコプロに入社し、TVアニメ「ヤッターマン」を担当し、得意とは思っていなかったギャグが受けたことをきっかけに、プロのセンスを身につけて行ったという。

 インタビューの展開にあわせて、スクリーンでは、代表作「天使のたまご」「攻殻機動隊」「アヴァロン」「イノセンス」のエッセンスを凝縮した特別編集映像が大音響で上映される。セイゴオが対話中に折々強調したように、ハリウッド映画がいかに押井さんの手法を盗み続けてきたのかということが、この日初めて押井作品に触れた人にも如実に伝わったことだろう。

 押井さんは、近年、自分の仕事の秘密はCG技術ではなく、「秘術」にあるのではないかと気づいたと語る。アニメーターたちの仕事はいわば宮大工の仕事のようなものではないかという。いずれアニメーションという技術は廃れるかもしれないが、「かつてそこまで到達した技術が存在していた」ということはきっと残るはずだと不敵に微笑む押井さんの言葉に、またしても「JAPAN DEEP」が極まった。


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顔を合わせればたちまち本題に突入し加速していく二人

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押井さんの代表作「攻殻機動隊」のハイライトシーン

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多軸絶妙なインタビューで押井さんの「秘密」を聞き出していく

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「日本人はモノに魂が宿ることを自然に受け入れる民族です」


◆数寄の手文庫がお目見え―交歓おつまみ連餉

 この日の東京は朝から30度を超える酷暑となり、設備もレトロな会館とあって、空調がフル稼働しても、客席では無数の扇がせわしなく煽がれていた。それでも、ゲストとセイゴオの深まりゆく対話に耳傾ける約200人の塾生の表情は、汗だくながらも真剣そのものだった。

 そうして岡野さんの120分、押井さんの90分が終わったところで、ここで「連塾」恒例の、軽食交歓タイムとなった。ドイツ文化会館ロビーには、セイゴオも懇意のレストラン「葡萄屋」が腕をふるって、山盛りのドイツ・ソーセージやプレッツェルを用意してくれた。

 ロビーの一画には、セイゴオが“棟梁”となって制作した、「組子手文庫」の完成作品も展示された。文庫本を収納するのにぴったりの小さな書函なのだが、その意匠は連子格子の引戸や姫棚が付けられた精緻なもので、コンセプトは「極小の新しい数寄屋」である。セイゴオのこのようなモノづくりを支えるために、今年3月に、連志連衆會を母体とする合同会社「品組」も立ちあがっている。

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連塾では全出席者に名前入りの特製ファイルが用意される

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大好評だった本場ドイツのプレッツェルとソーセージ

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「組子手文庫」は秋田杉の「SUKIYA」とウォールナットの「RANGA」の二種類

◆セリフは日本語で綴りたい―井上ひさしさん

 この日、3人目にして最後のゲストは井上ひさしさんである。つねづね「ぼくよりも100倍編集力のある人」と井上さんを敬愛するセイゴオは、「連塾」に御本人を迎えるにあたり、井上さん率いる劇団「こまつ座」のビデオを多数入手し、井上編集術の至高がわかる場面をよりすぐって、それを上映しながら対話するというプログラムを組んだ。

 『藪原検校』劇中の、脚韻を駆使した尽し歌や数え唄。シェイクスピア全作品を織り込んだ驚異の作品『天保12年のシェイクスピア』では、ハムレットのセリフ「to be or not to be」の明治以降現代までのあらゆる翻訳が、たたみかけるように連打される。「なぜここまで徹底されるんですか」というセイゴオの問いに、井上さんは、「ここまでやらないと仕事をした気がしないんです」と笑いを誘いながら、日本語の成り立ちや特徴に根ざした方法論を明快に語る。

 さらに話題は、芝居を成立させるための舞台と観客の間合いというとっておきの話にさしかかる。ある劇場に居合わせた5人の観客たちを例にしながらたちまち物語を仕立てていく軽妙な井上トークに、客席から何度も打てば響くような笑いと拍手が起こる。「宇宙のなかで起こるたった一回限りのできごとを共有する。それが芝居を見るということ」。そう語る井上さんも、「連塾」の観客たちとの一期一会をおおいに楽しんでいるようだった。

 外来語を安易には使わない、できるだけ和語でセリフを綴ると語る井上作劇の魂が披露されたところで、最後に、セイゴオが『きらめく星座』の舞台映像を紹介した。これは井上さんがはじめて、みずから演出を担った記念碑的な作品である。日本の戦争というものを今も見つめ続ける井上さんの「JAPAN DEEP」な精神と、それを笑いと涙に変える編集術のクライマックスが、またしてもセイゴオの胸を揺さぶったようだ。そして、そんなセイゴオの感極まった気分に、井上さんもすっかり感染してしまったようだった。

 夏木マリが「青空」を熱唱する『きらめく星座』のラストシーン。突然、空襲警報の鐘が鳴り、舞台が暗転する。スクリーン中央に「演出・井上ひさし」の文字が浮かび、ストップモーション。黒いステージに地明かりが灯る。スクリーンを見上げていた井上さんとセイゴオが、顔を見合わせる。そのまま立ち上がり、言葉少なく、固い握手をかわす。スクリーンがライブ映像に切り替わると、心なしか二人の眼がうるんでいるようだった。

 「森鴎外の於母影。日本の面影。ゲーテはそれを“BILD”(ビルト)と呼びました。それは単なる日本のルーツやノスタルジーなどではありません。橋掛りのように、何かを超えてやってくるものなのです」。

 万感の籠ったセイゴオのラストメッセージに拍手が響く。そこにまた、ディートリッヒの枯れた声がかぶさり、7時間にも及んだ「DEEP JAPAN 1」が、真っ赤な照明で染め上がり、終演した。


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ライブ映像技術も第3季にあわせて格段にバージョンアップ

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随所で笑いを取りつつ日本語の芝居へのこだわりを明言する名人トーク

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長丁場を締めくくるラストトーク。少し疲れを見せつつも会心の表情

*写真撮影 川本聖哉

投稿者 staff : 21:40

2008年6月18日


Report 母校早大で「千夜千冊」を語る


 5月某日、セイゴオは、母校の早稲田大学でゲスト講師として、「本の読み方」をテーマに約90分の講義を行いました。これは、田原総一朗塾長による「大隈塾」の1コマで、毎回さまざまなジャンルのプロが学生たちに“本気の話”をする人気講座です。ちなみに、塾長代行の高野孟さん(『インサイダー』編集長)は、セイゴオの早大時代の同級生。田原さん・高野さんは『世界と日本のまちがい』を読み、その方法論に感銘を受け、今回の講義を企画されたそうです。

 会場となった早稲田キャンパス中ほどの14号館地下(セイゴオ在学中はまだなかった校舎らしい)の大教室には、200人を超える生徒が詰めかけ、満席でした。7割が男子学生で、この日はとりわけ院生・卒業生たちも熱心に聴講していたようです(セイゴオの時代に比べると、ずいぶんオシャレな学生が多かったらしい)。

 講義に先立って、高野さんがセイゴオを紹介しながら、熱弁を奮いました。

 「私はあまり人を尊敬することが少ないんだけれど、今日お呼びした松岡さんは、私がとうていかなわないと思っているスーパー編集者です。みなさんのなかにはジャーナリストを志望する人も少なくないと思うけど、新聞の論調にだまされて、マスコミの文脈に魂を吸い取られているような読み方をしているようでは、何の役にも立たない。今日、松岡さんに話してもらうテーマは[本の読み方]です。自分の文脈を発見しながら読書するという、松岡君の方法をぜひ学んでほしい。では、ウェブに[千夜千冊]を書き続けてガンになってしまった、でも今は元気に復活された、本きちがいの松岡さんです」。

 ステージ上のスクリーンに「千夜千冊」のウェブ画面が映し出され、そこに登壇したセイゴオ。冒頭で「“本きちがい”の松岡です」と笑いを誘いながら、「このなかに、[千夜千冊]を覗いてくれたことのある人はどのくらいいるかな」と訊ねると、40~50人ほどの手が挙がりました。「結構読んでくれてるんだね」と満足しながら、次に「このなかで、自分の本棚を持っている人はどれくらいいるのかな」と質問。今度はほとんどの学生が手をあげました。「最近の学生はCDラックは持っていても本棚を持っていないと聞いてましたが、みなさんは違うんですね」と、しきりに感心。

 今日の講義について、「千夜千冊」を通して「本の読み方」を語るというアウトラインを示し、最初にまず読書の基本的なスキルについて話を始めました。

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■本気で本と接する

 皆さんは、本とはどういうメディアだと思いますか。テレビやブログやグーグルに比べると、古いメディアだと思っていませんか。私は、本というものは、2000年以上にもわたってフォーマットを変えていない、最強のメディアであると考えているんですね。
 本のフォーマットには二つの大事な特徴があります。一つ目は、コンテンツが“ダブルページ(見開き)”の単位になっているということです。すべての知のクラスターがあのダブルページに収まっている。じつは、人間のアイスキャニングのスピードや、両眼で見渡したときにキャッチできる情報量を考えると、ダブルページというのは高速に情報を読み取るのに最適なフォーマットになっています。
 二つ目は、本がどんなコンテンツも入れられる“器”であるということです。表紙と背と裏表紙があり、バインディングされた頁のなかには、ギリシャ神話も革命もカップラーメンも、政治も哲学も科学も、ありとあらゆるものが盛り込めるわけです。
 こういった永遠のフォーマットのなかに、著者と版元と編集者、さらには取次や書店までが加わって、膨大なコンテンツを組み立ててきたものが、本という世界です。

 「本の読み方」を身につけるには、こういった本の特徴やフォーマット、また本の造られ方までよく知っておくことがまず重要です。その上で、書店に並んでいるたくさんの本の中の1冊と、本気の出会いをしてほしい。
 今では文庫や新書のようなコンパクトで便利なものがたくさん出回っていますが、本当に本の世界に触れたければ、絶対に単行本を手に入れるべきです。また、単行本を買うときには、表紙のデザイン、本文の紙質やフォント、レイアウトまでよく見て、スタイルも含めて選ぶ気になるといい。そうすれば、ファッションを選ぶときと同じように、自分の肌に合う一冊がきっと見つかります。


■目次を見る・書棚を読む・マーキングする

 次に、実際に目当ての本や好みの本を手にしたときに、まずどうするか。
 ここでぼくがとくにお勧めしたいのは、「目次読書法」です。すぐに中身をパラパラとめくって見るのではなく、まずは目次をじっくりと見てほしい。
 目次というものは、著者と編集者がコンテキストを結晶化させたものです。何よりも確かなディレクトリなんですね。これを使わない手はない。そこに書かれている章タイトルや見出しを見て、「他民族の文化」って何だろうとか、「ブルースの崩壊」って何のことだろうとか、頭の中に疑問を想起させながら内容を想像してみる。これをしておくだけで、実際にページを繰って本を読みはじめたときに、おのずと読むスピードが速くなるはずです。また、少々内容の手ごわい本でも、著者のロジックに引っ張られずに、自分のペースで読むことができるようになります。もちろん、目次を見て想像したことよりも内容がつまらなさそうなら、そんな本は買わずにもすむ。

 それから、書店で本を選んだときには、必ずその両脇の本も見るようにする。これを続けていると、その分野の本の地図のようなものがだんだん自分のなかにできあがっていきます。とくに今は、グーグル検索社会であり、“親指一発ケータイ主義”社会です。いくら検索エンジンの性能が上がって便利になっても、このような社会に浸かっていたのでは、知識情報の基本マップがいつまでたっても自分の身に付かない。
 その点、書棚のように関連情報が上下左右にも並んでいる空間ではチャンスです。書棚まるごとを本の目次を見るように眺めるといいわけです。が、とりあえずは、目当ての1冊の両脇を見ておくだけでも、ずいぶん本の読み方が変わってくるはずです。

 もうひとつ、本をノートのようにつかう「マーキング読書法」もぜひ勧めたい。読書には楽しみも多い反面、重大な欠陥があって、それは読み終わったとたんに、内容を忘れてしまうということです。マーキングはその解決策になるんですね。
 ぼくは学生のころ、レーニンの岩波文庫版の『哲学ノート』(岩波文庫)を見て、レーニンがどういうふうに本に痕跡を残したのかを見て、すごく憧れました。以来、自分なりにいろんなマーキングや書き込みを試して、本をノートのようにする、本を徹底的に汚すということを実践しています。


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■千夜千冊で伝えたかったこと

 では、今日の話の本題に入ります。ぼくがどのようにして「千夜千冊」を書いてきたかということを、お話ししたい。「千夜千冊」というのは、「本を読むこと」を、そのまま「本を書くこと」につないでいくという、ぼくなりの編集エクササイズだったわけですね。著者の組み立てたコンテキストを紹介しながら、そこにぼくの実感的な読書体験も加えて、新たなコンテキストに組み替えていくということを毎晩毎晩やり続けました。

 「千夜千冊」は、2006年に全集にもなりました(スクリーンに映像)。このとき、自分の書いた1144冊分の「千夜千冊」の原稿に手を入れて、場合によっては書き直しもし、さらにシャッフルして組み変えて、7巻というフォーマットに組み立てしました。今から、それぞれの巻の構成についてちょっと説明します。それによって、ぼくが「本の読み方」を通して、どのような世界観をもってきたか、すなわち、世界の読み方・見方をしてきたのか、ということを話します。

1)第1巻・遠くからとどく声

 わたしたちの世界は、「ここ」(here)と「むこう」(there)からできています。自分が属しているところが「ここ」だとすると、「むこう」というのはどこか遠い町や国のことですが、書物の世界ではそれが浄土と呼ばれたり、ユートピアと呼ばれたりしてきました。あるいは、ヨーロッパ人の描く世界では、つねにアジア的なものも「むこう」とされてきた。今は「ここ」にあるもの、自分の周りにあるものが文学やファッションやスタイルになっていく時代ですが、かつては「むこう」の世界こそが、膨大な書物のなかで繰り返し繰り返し語られてきたんです。
 第1巻「遠くからとどく声」は、いつのまにか忘れられてきた「むこう」の声を、微かなささやきやざわめきとして、「ここ」に届けてくれる文学的作品を集めた巻です。
 たとえば第2章「少年たちの行方」と第3章「リボンの恋」には、少年少女が憧れた遠方の世界がいろいろと出てきます。スティーブン・キング『スタンド・バイ・ミー』の鉄橋を越える少年たち、船でミシシッピー河を渡るハックルベリー・フィン、あるいは樋口一葉の『たけくらべ』などを通して、幼な心が初めて見染めた“むこう”の感覚を、かなり充実させてあります。

 なぜ少年少女は遠いものに憧れるのか。いったい「むこう」とは何なのか。いまのハリウッド映画はたいてい宇宙から未知のものがやってくるという話になってしまっていますが、本来は何か「むこう」というものを感じる、そこに思いを馳せることで、ふとしたときに、「むこう」から名状しがたいメッセージがやってくるのではないか。「むこう」からやってくるものは、こちらから投げかけたことへの返事なのではないか。
 そういう遠方からやってくるものをまとめたのが、第5章「遠方からの返事」です。ここには上田秋成『雨月物語』や折口信夫『死者の書』のように正体不明の兆しを扱った本から、A・C・クラーク『地球幼年期の終わり』、J・G・バラード『時の声』のような、“未知との遭遇”を描いたSFまでを収めてあります。

 このような“ここ”と“むこう”のメッセージの往来から、空間を超えた時の連なりが生まれていきます。第6章「時の連環記」は、仏教的な世界観を元にした幸田露伴の『連環記』をかわきりに、夏目漱石『草枕』、ローデンバック『死都ブリュージュ』、夢野久作『ドグラ・マグラ』のような迷宮的な世界にまで入っていきます。
 こうして、最後は、誰もが帰るべき場所に戻っていく。ただし物語の世界では、たいてい故郷というのは次第に遠のいていく世界、失われていく世界です。これが第9章「ノスタルジアの風味」に凝縮させた感覚です。ここにはエリアーデの『聖なる空間と時間』から、アンドレイ・タルコフスキーの評伝までが入っていますが、ぼくはこういう感覚を、「ハイパー・ノスタルジア」と呼んでいます。そういう感覚を喚起させる本ばかりを集めた章です。
 そして結局、自分の魂が帰っていくところは、見たこともないどこか遠くの町である、ということで、第10章「忘れがたい町」へつながっていく。最後の「方舟みちあふち」という章は、西行や良寛といった漂泊の精神や、澁澤龍彦『うつろ舟』で締めくくっています。
 
2)第2巻 猫と量子が見ている

 第2巻にはサイエンスの本を集めました。はじめの第1章「理科の黒板」は、ぼくの少年・青年時代の科学との出会いを凝縮させた章です。とりわけ、『俳句と地球物理』の寺田寅彦には、ぼくは大きな影響を受けています。トラ猫やシマウマの模様に「割れ目」を発見し、昼下がりの喫茶店で、ふと宇宙線が通過したことを感じるような“粋”な感覚の持ち主です。ぼくに「読書する科学」という見方を教えてくれた人です。
 それは、やがて第3章「数学的自由」に書いたような考え方にもつながっていった。数学というのは難しいものだと思われてますが、本来は「自由」のための方法だったんじゃないか。そういう視点で、ここにはラプラスやゲーデルやフェルマーの定理といった本が並んでいますが、皆さんにもぜひ勧めたいのは岡潔の『春宵十話』ですね。きっとこれを読むと涙ぐむと思います。
 岡さんは、自然というものは人間の心のなかにこそ属しているのではないかと考えた人です。数学者が「1」を考えるときには、何か抽象的な基準がある。けれども人間はそんな「1」では生きていけない。たとえば、「春の泥」というものがある。そういうものを「1」では表現できないではないか、と言うんですね。そうして、「ある」を考えるには、自然に「ある」ことと心に「ある」ことの二つを考えるべきである、春の野に咲くスミレのような数学こそが必要である、と説きました。

 第4章「光と量子の物理学」、第5章「時空をつくる紐」には、ケプラー、マッハ、アインシュタインから、スティーブン・ホーキングまでの、古典から現代までの天文学や物理学の本をずらっと揃えてあります。ぼくは、若いころから今にいたるまで、宇宙物理学についてはだいたい最新の本を追いかけて読み続けてきました。
 宇宙の見方というものは、今もどんどん進んで、複雑なものになっています。最近はスーパーストリングス理論、ひも理論といって、物質の究極の姿を「11次元のひも」としてとらえ、その物質イメージと宇宙の成り立ちを重ねるという方向になってきていますが、こういう科学の方法は、私がふだん携わっている編集の仕事にもさまざまなヒントをもたらしてくれるんですね。
 科学になじみのない人でも、ハイゼンベルクの不確定性原理などは、ぜひ一度ご覧になるといい。これは20世紀のもっともおそろしい理論です。物質の姿というものは我々人間には観測ができない、知ることもできない、不確定性であるというものです。こういう科学の世界観を取り入れておくことは、社会や人間の見方にも、決定的な影響をもたらしてくれると思います。

 ぼくはまた、生命科学や動物学の本も折々読むようにしています。第7章「ジーンとミーム」、第8章「虫の耳・象の胸」にはそうやって最近読んだ本も含めています。たとえば、遺伝学ではジェノタイプ(遺伝系)とフェノタイプ(表現型)といった二つの見方をするんですが、こういう考え方は本を読むときや思想を学ぶときにも、たとえばもともと奥にあった文化の層と、ある時代に表現として出てきた文化の層を分けてみるといったように、たいへん役に立つんですね。あるいは生物多様性というものは遺伝子のプリントミスによって生まれたものですが、こういう話も、文化多様性や言語多様性と重ねて見ていくといいと思います。
 この巻の仕上げの第10章「オブリックな複雑系」では、世界の知というものを思いっきり斜めに切り取るという方法を、いろいろと紹介しています。


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3)第3巻 脳と心の編集学校

 ぼくの専門である「方法=メソッド」と「編集=エディティング」に関わる本を集めて、ごく身近な入口から広い出口までを順序だてて紹介した巻です。「脳と心」というのは、ヴィトゲンシュタインが「カタル」(語る)と「シメス」(示す)を分けない哲学を探究したことに、ぼくなりの敬意を表した表現です。
 人間は編集する動物であり、人間を取り巻く環境も編集された情報で成り立っています。なぜそうなっているかというと、人間が言葉と文字を持ったからですね。第2章「文字の国の消息」では、白川静『漢字の世界』やリービ英雄『日本語を書く部屋』など、われわれ日本人が漢字文化圏に住んでいるということを思い起こさせる本を、取り上げています。

 第3章「声と手のテクスト」と第4章「脳の現象学」では、中世に活版印刷技術が登場したことによって、それまでの音読社会が黙読社会に変化したという、人類の編集文化史の重大事件を核にしています。かつてはヨーロッパでも日本でも、文字というものは音読されるものだったんですね。つまり聴覚的な回路を通して文字が読まれていた。
 聴覚を通さずに黙読で文字を読むようになると、たいへん意外なことが起こりました。人間が「無意識」を持つようになったんですね。第5章「あやしい意識の正体」ではフロイトとユングとラカンを取り上げてその「無意識」の正体を探っていますが、そもそも人間の脳と心は、「言葉」と「文字」によって作られ、変化してきたということが言えるわけです。

 ここまでがぼくの世界観の前提としている書物の紹介で、ここからが書物という世界観、さらには編集的世界観を案内するための本です。第6章「書物と本棚の悦楽」、第7章「エディターの仕事」、第8章「物語という秘密」というふうにしてあります。なぜここに「物語」が入っているのかというと、ぼくは、物語こそが古来このかた編集的世界観を劇的に保存してきた様式であると考えているからですね。


■「本の読み方」から「世界の読み方」へ

 この調子で話していると、7巻全部の説明は無理ですね。残り5分になってしまいました(笑)。ここから先は、ごく簡単に紹介しておきましょう。
 第4巻「神の戦争・仏法の鬼」は世界的な時代展望を指し示した巻です。『ヨブ記』からドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』、そしてアントニオ・ネグりの『構成的権力』までを取り上げています。
 第5巻「日本イデオロギーの森」では、この国の奥をみるために必要な本を集めました。はじめに中国の側から日本を見て、だんだん混合文化を受け入れてきた日本の方法に目を移し、最後は司馬遼太郎の『この国のかたち』で締めくくっています。
 第6巻「茶碗とピアノと山水屏風」は、古今東西のアーティストを勢ぞろいさせた巻です。絵画から写真、古典芸能からポップミュージック、枯山水から現代建築まで、ほとんどのジャンルを網羅しています。
 第7巻「男と女の資本主義」は、編集途中で広辞苑よりも厚くなってしまい、東京中のどの製本屋さんでもつくれないと言われて苦労した巻です。結局、本文紙を薄くすることで何とか一冊にまとめました。「欲望と社会」をテーマに200冊ほどの本を劇的に並べてあります。政治もメディアもフェミニズムもネット社会も、すべて欲望社会に取り込まれてしまったのではないか、という辛口の視点を込めています。

 途中から駆け足になりましたが、これがぼくの「千夜千冊全集」であり、これがぼくの本の読み方、そして世界の読み方です。皆さんも、本を読むことを特別な行為とか知的な行為と思いすぎずに、もっと自由にいろいろと工夫して読んでみてください。

投稿者 staff : 22:35

2008年5月 2日


Report 日韓文化の渦と潮


日韓女性親善協会総会で講演

 4月22日、日韓女性親善協会総会で、セイゴオが「日韓文化の渦と潮」と題して特別講演。
 この協会は、日韓両国の友好を深める目的で、相馬雪香さんを会長として1978年に設立され、さまざまな交流・交換事業を展開してきた。この日は協会理事や会員による年次総会が行われ、続く講演会には200人近い一般聴衆が参加。約100分の高速なセイゴオ・トークに熱心に聞き入っていた。

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■「怨」の国・「恨」の国

 折しも李明博(イ・ミョンパク)大統領が来日し、日韓のシャトル外交がスタートした。日韓関係の展望を「嵐にも揺るがない地中に深くしっかり根差した木」にしたいと語る李大統領は、盧武鉉(ノ・ムヒョン)・小泉時代に疎遠だった日韓関係を、今後は成熟したパートナーシップに格上げするという明確な意思を表明した。

 日本では韓流ブーム・ハングルブームが続いているが、両国の関係はさまざまに難しい問題を抱えてきた。また日韓は歴史的に見てさまざまな相似性がある一方で、決定的な違いもあり、文化から見ても比較することが難しい。が、これからは日本が日本のことを知るためにも、韓国との相違点を知ることは大変重要になるだろう。

 私自身、これまでに『知の編集工学』や『情報の歴史を読む』など4冊の本が韓国で翻訳されている。また今は仁川大学から韓国における地方文化のアーカイブ化について相談も受けている。そういうこともあって日韓の祭りの相違について研究をしはじめた。

 よく韓国は「恨」(ハン)の国、日本は「怨」(エン)の国という言い方がある。「恨」とは歴史的現在に立った今の感情であるが、「怨」は時間的推移を経た感情である。そのことは、韓国のシャーマニック型の巫祭と、日本の御霊会との違いなどに顕著に表れている。

 また韓国および朝鮮半島の文化は、英語では「渦」(ボルテックス)とメタファーされてきた。これに対し、宮本常一や柳田国男は、日本文化は「潮」であるという。今日の講演タイトルを「日韓文化の渦と潮」としたのにはそんな背景がある。


■渦と潮の一衣帯水・同床異夢

 日韓文化の「渦」と「潮」を比較するにあたり、「一衣帯水」と「同床異夢」の二つの側面から見ておきたい。つまり日韓を一つのものとして見る見方と、日韓は違うという見方である。

 「一衣帯水」のほうは、対馬と釜山がわずか50キロメートルの距離であることに象徴されている。国土の7~8割が山地であること、住居が瓦・土壁・木造であること、そして顔もよく似ている。同じ仏教圏儒教圏の国であること。そして重要なこととして、古代の建国神話が似ているということがあげられる。

 このように共通する風土や文化を持ちながらも、日韓には「同床異夢」がある。韓国の家では門がシンボルとされるが、日本では玄関が“顔”となる。マダン(内庭)を重視しオンドル(床暖房)を使う韓国に対し、日本は奥座敷を重視し炬燵を使う。ちなみに住居でオンドルを使う韓国では生け花が発展しなかった。
 日本にとってわかりにくいのは韓国が今も重視する「族譜」(チョクボ・家系の記録)である。また韓国朝鮮では、姓の数がわずかに250しかなく、中でも金、李、朴、崔、鄭の五大姓が圧倒的に多い。これに比べ日本の性は10万とも言われるほど多様である。現在も新しい姓が生み出されている。

 これほど近接した二国でありながら言語体系も大きく違う。日本語には母音は5つしかないが、韓国語には母音が7つ、複合母音が11もある。聞いていて、ああコリアンだなと感じるのはこのせいだ。また同じ漢字文化圏であるが、平仮名・片仮名を併用する日本と、近年はもっぱらハングルを用いる韓国との違いは大きい。
 言語と文字の違いはオラリティー文化とリテラシー文化に根本的な違いをもたらす。たとえば日本には「先生に叱られた」とか「女房に逃げられた」といった受け身の語法があるが、韓国は「先生が叱った」「女房が逃げた」という表現が普通で、こういったことを受け身で表現することがない。ということは、日韓では議論の仕方も大きく違うのである。

 そのほか野菜をまぜるキムチと野菜を混ぜないお新香の違い。伎楽面のように頭からすっぽりかぶるマスク(面)の違いと、能面のように顔に小さめにつけるマスク(面)の違いなどもある。
 韓国ではキリスト教徒が1000万人もいるということも日本との精神文化の違いを象徴的に示しているようである。

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■日韓の歴史の見方

 ここからいったん歴史を古代まで遡って、韓半島と日本列島の交流と変遷を見ておく。

 古代の日韓関係は中国との関係を抜きにしては語れない。高句麗(コグリョ)・百済(パクチュ)・新羅(シルラ)が台頭したいわゆる古朝鮮(コチョンソン)と倭国・日本との関係は、中国の漢王朝が力を失い、三国時代という不安定な時代に移ったところからスタートを切った。おそらく初期の古朝鮮と倭国はまさに一衣帯水の関係にあり、まじりあっていたと見た方がよい。実際に日本には多くの韓半島からの渡来人がきて、秦氏や蘇我氏のように日本の古代文化を担った人々もいた。

 6世紀になると中国に隋、続いて唐という巨大帝国が登場。唐・新羅が手を結んで高句麗・百済を圧迫しはじめると、百済が当時友好関係にあった斉明天皇時代の日本に応援を求めてきた。斉明天皇は大和政権の拡張や辺境経営に関心の高い女帝だった。外交センスもあったようで、すでに百済にもいくつかの拠点を持っていたが、百済が敗れたことをきっかけに、韓半島への出兵を決断する。これが有名な「白村江の戦い」である。
 斉明女帝はみずから北九州に赴いて指揮を取ろうとするが筑紫で突然亡くなり、その意を汲んで中大兄皇子が白村江に水軍を出兵させるが、唐・新羅連合軍に敗退してしまう。

 この「白村江の戦い」は日本の歴史上重要な戦争だった。これに敗戦したことによって、日本は「日本」の自覚を高め、国内政治を充実させていくことになった。
 一方、新羅もまたその後唐の圧力を押しのけて、初めて半島統一を成し遂げ、やがて「高麗」(コリョ)を建国する。

 ここで、日本と高麗とは大きな政治的選択の違いを見せている。高麗は戦乱を好まない国だったため、中国に服従を誓い冊封国となった。そして中国の制度を取り入れ、以降400年にわたり「両班」(ヤンパン)による文民政治を続けた。これに対して日本は、同じく中国の律令制度を取り入れながらも、冊封国にはならなかったのである。
 日本は鎌倉時代以降、武家政権となり、明治にいたるまでそれが続いたが、韓国では近世にいたるまで、武官が政権を握ったのはわずかに40年間ほどしかない。

 朝鮮半島においては、武家政権の力が一度も大きくならなかったということは、日韓の歴史のなかで特筆すべき大きな違いであろう。


■李氏朝鮮と秀吉の半島遠征

 古代の高麗を古層として、14世紀末に李氏朝鮮がつくられる。いわゆる「李朝」である。朱子学を取り入れ、自分たちの国を「東華」とか「小華」(小さい中国)と呼ぶ事大主義の国、中国王朝に正面から向き合う国だった。

 この李朝時代につくられた家具や民画や陶磁器が、のちに柳宗悦によって再発見され、日本で民芸運動の潮流が沸き起こっていった。柳は李朝の工芸に「無相の美」を発見したのである。ただしそれは日本人の無常観に根ざした解釈だった。そのためこの柳の見方について日韓のあいだで論争が起こってしまう。
 李朝に注目したのは近代以降の日本人だけではない。桃山時代の茶人や職人たちは、李朝の青磁や白磁に強いあこがれをもっていた。しかしその頃はまだ日本に磁器の技術がなかった。そのため陶器の技術で青磁・白磁を真似ようとして、なんと黄瀬戸と志野を生み出すことになった。いずれも日本を代表する国焼となったものである。

 その後、半島から多くの技術者が日本に渡来し、ようやく日本でも北九州を中心に磁器生産が始まった。そのきっかけが、じつは秀吉による半島遠征だった。
 秀吉の行為は明らかに侵略だった。しかも秀吉は中国侵出までをめざしていた。中国皇帝と天皇を婚姻関係で結ぶというとんでもないプランももっていた。ちなみに日本ではこれを「文禄・慶長の役」というが、朝鮮では「壬申丁酉(イムジン・ウェラン)の倭乱」と呼ぶ。今でも秀吉は韓国人に嫌われている。
 結局、秀吉軍は李舜臣(イ・スンシン)の水軍に大敗し、間もなく秀吉も亡くなって、この戦乱の“戦後処理”をするところから、日本の徳川時代が始まるのである。
 
 家康がとった政策は一言でいえば内政充実型だった。幕藩体制を敷いて鎖国を行った。ただし、朱子学を取入れ李氏朝鮮の「東華」思想と同じようなイデオロギーを、中国に朝貢することなく、独自に確立していく。また朝鮮通信使を招き、大陸や半島の情報を取り入れた。この徳川の儒学型イデオロギーへの反動として、のちに独自の国学が生まれることにもなっていった。
 ちなみに、韓半島では「国学」は生まれず、また仏教文化も次第に途絶えていった。このあたりから日韓の同床異夢が大きく隔たりを見せていくのである。


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■近代日本のまちがい

 近代になると、日本も韓半島も、しだいに封建社会の行き詰まりが目立ち始め、機を同じくして世直しを叫ぶムーブメントが起こっていく。
 その一方、列強のパワーポリティクスが東アジアにどんどん迫ってきた。ロシアが不凍港を求めてどんどん南下し、アヘン戦争に勝利し清王朝を抑えたイギリスをはじめ、強大な軍事力をもつアメリカやフランスが、ロシアに対抗しながら日韓の開国を迫った。
 
 先に開国をしぶしぶ決断したのは日本だった。もちろん列強の軍艦は韓半島にも迫っていたのだが、朝鮮は徹底した抵抗力を見せなかなか開国しなかった。朝鮮というのは戦乱を好まない国でありながら攻められると強いのである。
 しかし列強がめざすところはあくまでアジアの全土、大陸である。その窓口として韓半島を開かせることが絶必となっていた。そこで列強側は、開国後急進的に列強の仲間入りをしたがっていた日本にその役割を果たさせようとした。

 こうして、明治日本は李朝に軍艦を差し向け開国を迫っていく。まさにペリーの黒船とそっくり同じ砲艦外交である。そしてついに朝鮮半島は日本によって開国させられていく。
 
 今も日韓のあいだで議論することが困難な「征韓論」は、このような列強の思惑や、またそれに従った日本の半島経営の野心から起こっていった。またここから日清・日露戦争への道も開かれてしまった。
 日清戦争は日本と清との戦争だが、そこには、清朝のなかで起こりつつあった「文明開化運動」(洋務運動)、李氏朝鮮のなかでの覇権争い、そこに端を発して日本が朝鮮の騒乱を収拾するために朝鮮半島に軍隊を派遣したことなど、中・韓・日のそれぞれの事情や要因がいろいろにからんでいた。

 詳細は省くが、こうして日清が朝鮮半島を舞台に戦争し、その結果日本が勝利した。下関条約によって、多額の賠償金を清からせしめ、また朝鮮国の独立を清国に承認させると同時に、遼東半島や台湾などを日本に割譲させた。日本は列強によるアジア近代化の片棒を担ぐことで、国民国家を成立させたのである。
 しかし、そこにロシア・フランス・ドイツから三国干渉が起こったことから、日本は次の日露戦争への道をひた走っていく。いよいよ朝鮮半島を舞台にロシアとの戦争に挑み、運よく勝利を収めた日本は、韓半島を保護する名目で、伊藤博文のシナリオによって、ついに日韓併合をしていくのである。

 この、開国後の日本が欧米の植民地主義さながらに韓半島に侵出していった経緯や歴史を、今の日本は何も説明することができなくなっている。


■21世紀の日韓文化の結び目

 以上、ざっと古代から近代までの日韓の歴史を大急ぎで振り返ってみたが、最後に、これから21世紀の日韓文化をつなぐための視点をいくつか提案しておきたい。

 ひとつは、日本も韓国も、かつての新羅という古層を共同で研究すべきではないか。たとえば、花郎(ファラン)という弥勒信仰の青年結社の動向や、「契」という共同単位、また「郷歌」(ヒュンガ)と呼ばれる詩歌のスタイルは、その後の日本の仏教の需要や共同体の作り方、あるいは『万葉集』の成立に影響をもたらしたのではないかと思われる。
 残念ながら今は韓国もそういった新羅の文化を忘れているのではないか。

 それから、柳宗悦が再発見しながらうまく重なることができなかった李朝の美意識についても、たとえば日本の無常観とパンソリの慟哭との関係も含め、もう一度重ねて見つめなおしてみるとよいと思う。

 また、日韓が共同で建国神話を研究すべきである。加羅(伽耶)の金首露王神話と天孫降臨神話の類似性や、朱蒙(ジュモン)の高句麗伝説と神武東征神話の類似性などを両国が協力して解き明かすことで、二国の「同床異夢」の奥にひそむ、「一衣帯水」の日韓の関係が見えてくるはずである。

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投稿者 staff : 23:54

2008年2月23日


Report 隈研吾さんとめぐる東京建築バスツアー


■ハイパーコーポレート・ユニバーシティー第5講

 2月9日、ハイパーコーポレート・ユニバーシティー第3期の5講が建築家の隈研吾さんを迎えて開講された。隈さんの建築をめぐりながら、日本の戦後建築史を駆け抜け、現代建築が抱える“グローバリズム”と“ゲニウス・ロキ”のAIDAを考えた。

 集合場所は等々力渓谷近くの村井正誠美術館。館内には日本のモダニズム絵画のパイオニアである村井正誠画伯のアトリエがそのまま入れ子式にとりこまれている。また生前の愛用品や愛車も展示保存され、外壁や塀には旧宅の廃材も利用されている。昭和初期から創作し続けた村井氏のおもかげをそのまま包み込んだ、真っ白な吹き抜けの展示室で、「隈さんがこの場所をスタートに選んだ意味を考えてほしい」とセイゴオが塾生に問いかけた後、いよいよ隈さんの建築をめぐるバスツアーへ出発。道中セイゴオと隈さんが日本現代建築史談義をおこなった。

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松岡:隈さんは坂茂や竹山聖などとともに、戦後日本建築界で第4世代とよばれている。丹下健三、磯崎新、安藤忠雄を経たこの世代は、最初から矛盾を引き受けざるをえなかった。
隈:木や紙や土などやさしい素材を使った日本の建築は、世界に誇れるものだった。しかし第二次大戦ですべてを壊され、アメリカをモデルとした強い都市だけが理想となった。建築は時代の影響を強く受けることを避けられないが、第4世代の社会背景が自分にとってはよかったと思っている。
松岡:戦後の混乱から今日に至るまで、グローバリズムの競争にかまけて「日本という方法」を省みなかった結果が建築のあり方にまで及んでいる。吉田茂から田中角栄のあいだに、建築史もさまざまな矛盾を抱えることになった。これは企業の問題にも通じている。分母(土地・歴史)を問いながらフィギュア(建築物)を見直す必要がある。

隈:「ONE表参道」ではやわらかい都市を復活させたいと考え、ルーバーを木で覆い内部はガラスクロスで半透明の壁・天井・家具を作り、受付は壁を照明にした。すでに山も森もなく、“土地の霊”を感じられなくなった東京で建築物をつくるのは本当に大変。しかしそういう意味ではやりがいも大きい。
松岡:隈さんの建築は、素材の力やゲニウスロキ(土地の力)がこめられている。
隈:梅窓院はアプローチを竹林にみたてた。そこを通ることによってお寺にむかう心身の準備をおこなう。お寺は地域の文化施設でもあり、梅窓院は青山の文化的中心だった。この「本来」を取り戻したいという施主の希望を受け、ホールを祭礼だけでなくイベントやコンサートにも使えるようにした。
松岡:アプローチは東京のホールでもきわめてユニークだ。連塾にも使わせてもらい、そのときは長谷川等伯の「松林図」を壁面いっぱいに投射した。
隈:ミッドタウン全体の建築はアメリカの大手不動産が引き受け、日本をテーマにしている。個別には「21_21」を安藤さんが、「サントリー美術館」を僕が設計した。収蔵品の陶器や磁器のイメージからセラミックパネルを使い、フラジャイルな建築を目指した。
松岡:和紙から透けるおぼろな灯りや、空間を自由に動かせる格子の間仕切りが心地よい。日本人はひとつの敷居や一枚の暖簾を使い、関係性に合わせて自由に仕切りを“創発”してきた。場所の大小にかかわらず大いに遊んでほしい。

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隈:今回僕のいろいろな建築を見てもらい、皆さんには課題として自分の家を撮影しプレゼンしてもらったが、空間や建築を見せるというのは自分を見せることと同じだ。何を選び何を説明するかが自分の能力、センス、さらには思想や経済力まで語ることになる。もっとそういう目で空間や建築を見てほしい。
松岡:普段から仕事場や住居にも関係ごとナラティビティや企画性をもちこみ、語れることを増やすとよい。隈さんはそれをおこなっている。
隈:今日のプログラムを村井美術館から始めた理由は、あの美術館が高度成長期では建てられることのない枯れた時代の建築であり、それこそが僕の時代の建築だからだった。
松岡:建築には素材、予算、人、環境、技術、そのすべてが入ってくる。それらを精緻し、さらにモノには還元できない思想を加えて仕上げる。断絶された現代において、人やモノとの関係性を増やし、境界をまたぐ力を身につけたい人は、もっと建築家と出会うべきだ。

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投稿者 staff : 00:05

2008年2月21日


Report 21世紀の空海密教を語る


 2月7日(木)、セイゴオは群馬県伊香保温泉で行われた高野山真言宗東日本地区教師研修会に呼ばれ「弘法大師と21世紀」というテーマで2時間のソロ講演を行いました。聴衆は約130名の高野山派の僧侶たち。2日がかりで準備した15枚のレジュメを手にステージにあがり、中央に掲げられた弘法大師の大きな肖像に手をあわせてから話し始めました。

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■高野山開創1200年に向けて

 今日は快晴に恵まれ榛名山もきれいですね。身が引きまるような風に伊香保の奥行きを感じながらここまでやってきました。ただ一つだけ残念だったのは、群馬のタクシーも禁煙になってしまったこと。ヘビースモーカーの私としては、せめて榛名山のふもとを通るときくらい気持ちよくタバコを吸わせてほしい(笑)。 
 近ごろの日本は本当に最悪です。偽装や企業合同が相次ぎ、続々とグローバル・ルールに準じてグローバル戦争に突入しています。このままでは日本はきっとダメになってしまいますよ。

 このような時代のなかで、7年後の2015年(平成27年)に高野山は開創1200年を迎えます。おめでたい年ですね。みなさん、そのころの日本を予想できますか。7年間というのは、ちょうど安政の大獄から明治維新まで、日中戦争の盧溝橋事件から原爆まで、まして真珠湾攻撃から敗戦まではたったの4年です。あまり時間はありません。いったい仏教や密教はどのような立場で1200年を迎えるべきなのでしょうか。

 ぼくが密教に出会ったのはちょうど日本の言葉に関心をもった18歳くらいのころでした。現代の感覚では読めない古代語や経典に強くひかれ、次第に“禅”と“浄土”と“密教”にふれ空海の言語哲学にどんどん傾倒していきました。その後、雑誌「遊」をつくるにあたって世界中の70歳以上の知識人に会いに行こうと決心し、密教研究者である那須政隆(なすせいりゅう)さんと出会いました。以降45年、自分なりにお大師像を模索しながら『空海の夢』(1984年)を書き、ビデオ「蘇える空海」をつくりました。
 こういったかたちで空海を見つめてきた私が、つねづね思っていることは、密教こそターニングポイントを迎えた時代や社会に対してかなり親和性が高いということです。

■21世紀に有効な密教の五柱

 高野山開創1200年をむかえるにあたって必要なものはソフトです。箱物でもイベントでもありません。しかも、そのソフトは密教の中に既にある。ただそれを21世紀という時代向けに読み替えることが必要です。今日は、総合性、象徴性、行動性、多元性、官能性の5つの側面から21世紀の密教について話します。ちなみに、この5つがバランスよく傷つかずに継承されていることは密教が誇るべき底力です。

1)総合性
 密教は、自己と他者を分離しないという総合的な視野をもっています。すなわち真言宗のなかでもっとも大切な言葉「而二不二」ですね。善と悪、理屈と情念、知恵と慈悲などを対立するものではなく、切っても切れない一対の関係と捉える。これこそグローバリズムの根底に流れる二分法を越えた思想です。これからの時代は、ピラミッド的なヒエラルキーやたった一つの答えを求めないやり方が必要です。

2)象徴性
 密教には、イメージでコミュニケーションする方法があります。とくに空海はイメージをマネージすることを発見した超本人です。たとえばムドラーや羯磨曼荼羅や尊像などはイメージだけでつくられたコミュニケーションツールです。これらをインターネットのアイコン時代に使わなかったらもったいないと思います。さらには新しい梵字をつくり、シンボルやマークにすべきです。あるいはまた、カードの認証がこれだけ必要な現代ですから、横文字を真似せずに花押のようなものも復活してみたらどうか。

3)行動性
 密教は、動きのなかで物事を認識することを重視します。つまり三密喩伽行のことですが、英語で言えばインモーションです。空海はこの能力に長けていました。私の専門の編集工学で言えば「情報を多様に言い換えて動かしていく」ということです。たとえば、ここにコップがありますが、これを30回言い換えてみます。みなさん、どうですか。言い換えられますか。容器、製品、商品、ペン立て、金魚鉢、虫篭、水差し・・・。このように動的にコップ見ることで様々な見方が生まれますね。これはまた言い換えている自分と言い換えられている他者を分けずに見たままの状態を関係性ごと認識するという密教の方法にもつながります。部分的な要素だけに目が行きがちな現代に杭を打てると思います。

4)多元性
 密教は、もともと多元的な「デュアル・スタンダード」という価値観をもっています。弘法大師が高野山を開創するときに狩場明神と丹生都比売の二人の神々を祀ったことにも通じます。これから密教を波及していくためには、密教が異質を排除せず異教の神々を包摂しているということをもっと全面にアピールしていくべきでしょう。密教が神仏の両方を大切にしていることを堂々と示すべきです。日本の神祇と仏教はもっと手をたずさえるべきです。これは密教以外のほかの宗派ではなかなかできません。ぜひリードしていって下さい。

5)官能性
 密教はまた、「大欲清浄」という価値観で煩悩を押しつぶさずに社会にうまく持ち出す方法に長けています。これからも人の欲望を wants や needs に読み替えて、理趣経を上手に語っていく必要があります。「愛適」にひっかかったり拘わったりしていては、今の時代に取り残されますよ(笑)。私は密教がここを伏せてしまったからオウム真理教が生まれたのではないかとさえ思っています。
 けれども、今、実力も人気もある作家たち、たとえば江国香織や川上弘美を見ても、愛を語るのにセックスを必要としていないのです。こういう態度や立場はどこか理趣教っぽいと思います。21世紀の密教にとって人間の欲望とどう対面するかは大きな問題です。


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■空海密教を再発見した先人たち

 高野山開創1200年を目前に、以上の5つの核を社会に打ち出していくときに、ぜひともやっていただきたいことがあります。それは、明治以降、弘法大師を復活させた先人たちに光をあてて、その方法を継承してほしいということです。これからの密教をどうしたいかということを考えるには、空海とともに立ち上がった人々におおいに学ぶべきです。

 御存じのように、明治初頭、空海や空海密教はひどい扱いを受けました。当時の代表的知識人である福澤諭吉や中江兆民は密教を淫祠邪教と断じ、空海の評価もかなり低いものになっていました。
 けれども、そういった偏見には屈せず、弘法大師に注目した先駆者たちもいたのです。今日はその中から8人の人物を取り上げてみます。

 まず1人目は幸田露伴です。露伴は近代日本で一番最初に空海に注目した。2人目は内藤湖南です。湖南は空海の書に着目しました。
 そして3人目は南方熊楠です。この熊楠と空海はぜったいに切り離さないでください。熊楠は密教界を代表する土岐法竜と800通もの文通を交わして独特の密教観とも言える「ミナカタマンダラ」を構想し、萃点(すいてん)を発見しました。
 4人目は岡倉天心です。天心を語らないでどうして密教を語れますか。天心は『東洋の思想』で密教に触れています。いまこそ「Asia is one」というのであれば天心とともに空海にふれるべきです。ちなみに『茶の本』の内容の半分は道教で、半分は『秘蔵宝鑰』です。
 5人目は新渡戸稲造。『武士道』をみればわかると思いますが、かなり空海の影響をうけています。6人目は大村西崖。西崖は密教美術史全5巻をつくったことで知られていますが、じつは東京美術学校の教師であり天心の弟子なのです。
 7人目は菊池寛です。弘法大師入定1100年を記念して『十住心論』を書いたことで有名ですね。そして8人目は岡本かの子です。『秘蔵宝鑰』と『即身成仏義』を大絶賛しています。きっと岡本太郎の作品もかの子の影響が大きかったことでしょう。

 いわゆる仏教や密教を研究するのはもちろん大事ですが、近代日本の知をつくった人々が空海にこれだけ傾倒していたということに、もっと注目するべきです。

■父なる大師、母なる空海

 ところで、現代の日本はグーグル検索社会です。キーワードを打ち込めばピンポイントで検索され、情報がランキングされてでてきます。私はこの検索社会には問題があると見ています。情報が単なるランキングにしかなっていない。なんとかしてこの状況を変えなくてはいけません。私は、密教的な世界観にその可能性を見出しています。密教の得意手をつかえば、ゆらぎながら幅広く対象物に向うことができます。すなわちソフトアイとハードアイの併用です。

 私は、21世紀にもっとも重要となるキーワードは「mother」だと思います。motherとは「母」という意味もありますが、母国語(mother-tongue)や母国(mother-land)という言葉が象徴するように、「母なる国家」としての「母」の意味を強く感じてほしい。そしてまた弘法大師がおこなったこともまさに「マザープログラム」の構築です。
 2年間の中国滞在を経て、東寺をつくり、伏見稲荷のような他者を巻き込み、利他と自利を交換し、熊野とも関係を深め、高野山で天神地祇を招き、狩場明神や丹生都比売を祀り、『十住心論』で認識と意識の根本的なプログラムをつくって、それを『秘蔵宝鑰』でダイジェストし、また言語哲学としての『声字実相義』を書き、辞書をつくり、綜芸種智院を無料で開放しました。このすべては空海による母国日本のためのマザープログラムだったと考えたいのです。だからこそ「父なる大師」でもあるけれども「母なる空海」と言いたい。

 昨年末に、私は『世界と日本のまちがい』という本を出版し、いろいろな問題を再認識しました。そのうえでやはり密教に託したいこと、密教を志す軍団に立ち上がってほしいという想いが募っています。これから7年後の高野山開創1200年にむけて、声を大にして空海を立ち上がらせて下さい。冒頭にものべましたが、7年という歳月は短いようでかなりのことができます。なんといっても空海が中国に滞在したのはたったの2年でした。その4年後には嵯峨天皇に日本のマザープログラムを提出し、それが定着するまでもきっと8年くらいだったことでしょう。


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投稿者 staff : 17:59

2008年1月31日


Report 江戸のAIDAをめぐる


■「いき」を体感-舞踊・地唄・川柳

 ハイパーコーポレート・ユニバーシティ[AIDA]は、企業の次世代リーダーに「日本という方法」を伝授する連続塾。セイゴオを塾頭に、毎回各分野の第一線で活躍するゲストを迎え、会場と次第を変えて開催する。また期に一度、伝統芸能を体験する合宿がおこなわれる。

 2007年10月から始まった第3期では、第一講が岡倉天心をめぐるセイゴオのソロ講義、第二講は格闘家の前田明さんをゲストに迎え武士道を体感、年末には連塾「浮世の赤坂草紙」も聴講し、いよいよ1月19日~20日、東京都内で一泊二日の合宿を行った。ゲストは江戸研究家の田中優子さん、花柳流舞踊家の花柳千寿文さん、邦楽家の西松布咏さん。

 一日目、集合場所の小石川後楽園に集まった塾生は全員和装。これが合宿に参加するにあたっての、“日本”をどう着るかという塾頭セイゴオからの宿題である。そのセイゴオもこの日は道着姿。一同は公園入口にある朱瞬水の肖像画に目をとめてから、早くも梅が咲き始めた園内をしばらくめぐった。

 セイゴオ「後楽園は水戸光圀が招いた明の儒学者・朱瞬水が命名した。明という大国の衰亡を憂い、再興の志を抱いた朱瞬水は徳川江戸社会の思想形成に大きな影響を与えた。この、明と江戸の[AIDA]を考えてほしい」。
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 その後、都内ではめずらしい本郷の和風旅館に場所を移し、桜の大枝を活けた座敷へ。花柳千寿文さんに『黒田節』の踊りの稽古をつけてもらった。最初は手足がバラバラだった塾生も、花柳さんの熱心な指南で、最後は西松布咏さんの唄と三味線にあわせて全員で武士の心意気を踊りおさめた。
 さらにその後は、花柳さんが西松さんにあわせて、情感たっぷりの地唄舞『黒髪』を披露。花柳さんの雪の冷たささえ感じるような指先のしぐさと、二人の阿吽の間合いに、セイゴオも塾生も田中優子さんも深深と酔いしれた。

西松「演奏中は千寿文先生の姿はほとんど見ません。衣ずれや足のすり音で間をはかっています」。
花柳「西松先生とはお互いに慮って稽古を何度も繰り返してきました。すると自然に二人だけの間合いが浮かびあがってそれが芸になるのです」。
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 二日目は、両国の江戸東京博物館に場所を移し、特別展の北斎を鑑賞後、課題の自作川柳の発表会。縞の着物を粋に着こなした田中優子さんが“グローバル”や“サブプライム”が読み込まれた塾生の作品を一つ一つ丁寧に講評した。

田中「川柳は観念的につくると面白くない。日常の瞬間が具体的に目に浮かぶように五七五にし、そこに笑いを含めること」。
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 最後は、千夜千冊の九鬼周造『「いき」の構造』を取り上げて、セイゴオと田中さんが[間]のはかりあいの極地ともいえる「いき」について、またその精神を共有する「連」という江戸のコンセプトについて存分に対談。

田中「人と同一化せず無関係にもならないのが連句の精神。“連”は関係の中からしか生まれない」。
セイゴオ「西洋の構造的文化ではなく、“連”のような小さな集団が文化を作り動かしてきたのが日本。安易にグローバルを目ざすのはまちがっている」。

 岡倉天心から始まったハイパー第3期は、三人の師匠の格別な稽古を身体に通したことで、近代日本が育んだ「意気」の方法論の共有にいたったようだ。
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投稿者 staff : 02:26

2008年1月14日


Report セイゴオ回郷―京都篇(番外)


セイゴオちゃんねる更新200回記念特別企画
セイゴオ回郷―京都篇(番外)

■編集後記-風の又三郎の帰京を追って

 最後に、本編で紹介しきれなかった取材中の写真をまとめて紹介するとともに、企画・取材・インタビューに携わったスタッフの感想も記しておきたい。

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セイゴオ回郷に合流してくれた、小学校時代の同級生・中村晋造さんと、
中学校時代の同級生・茶木哲夫さん

 今回の企画のために、セイゴオには二日間かけて思い出のトポスを訪ねながら京都時代を振り返ってもらった。出生の地―横田病院も、修徳小学校も初音中学校も、綾小路の住まいも高倉の家もなくなってはいたけれど、いまもセイゴオが住んでいた当時の、半世紀も前の佇まいや面影を残している路地や界隈や老舗などをめぐることができたのは、やはり京都ならではのことだったろう。
 セイゴオが京都に在住したのは実質的には8歳から15歳までの、わずか7年間足らずのことだった。ただしそれは、セイゴオの生い立ちのなかでももっともかけがえのない7年間だった。もちろん、誰にとっても多感な少年期の思い出は香ばしくかけがえのないものだろう。けれどもセイゴオは、その香ばしさを誰もおよびもつかないほど高純度に結晶化し、たんなる少年期や京都に対するノスタルジーではない思索や思想をそこから紡ぎ出してきたのである。
 インタビューのなかでは、幼少期に「母の不在」への強烈な寂漠を抱えていたという話があかされた。セイゴオ少年の痛々しいほどの感受性が推し量られるエピソードである。そのままでは「生きていけない」ほどに鋭い感知力だったというべきかもしれない。セイゴオのお母さんが見抜いていたのもきっとそのことだったのだろう。
 そんなセイゴオの感受性や感知力を好奇心に変え、外部世界へと向かわせ導いてくれたのが、母のあふれる想像力であり父の際立った判断力だったようだ。そしてその外部世界とは、変化に富んだ京都の自然であり、奥行の深い京都の歴史文化だったにちがいない。おそらく、この父・母、そして京都なくしては、セイゴオは松岡正剛たりえなかったことだろう。
 思い出の場所を訪ね歩くセイゴオは、楽しげだけど沈着だった。インタビュー中も、失われた風景への望憶や、残されたものへの懐古をうかつに口にすることはなかった。望憶も懐古もそれ自体、松岡正剛にとっては、父・母、そして京都から授かった「思想の方法」として表現されるべきものなのだ。本企画を「望郷」ではなく「懐郷」でもなく、あえて「回郷」と名付けたのは、そんなセイゴオの姿勢を汲んでのことである。

 さて、本編にも紹介したように、セイゴオは初音中学校を卒業後、朱雀高校に進学したが、ここで父の大胆な決断によって一家は横浜元町に転居、セイゴオも東京九段高校に転校させられてしまう。しばらくのあいだ京都への思慕を募らせ、一人で京都に帰ることがしばしばあったという。そんなとき、帰京しても帰る家のないセイゴオを迎えてくれたのは、京都弁の幼馴染たちだったらしい。

 今回の取材中、修徳小学校跡地を訪ねた足で突然立ち寄った呉服店の中村晋造さんもその一人だ。中村さんの店ではこの日、お得意さんのために展示会を開催中だったのだが、以降の回郷探訪に同行し、半日以上つきあってくれた。出生地である横田病院探しにも、いっしょに奔走してくれた。また初音中学時代の友人の茶木哲夫さんも会いに駆けつけ、室町で昼食をふるまってくれた。
 ただしその後は、茶木さんに請われて、着物姿の中村さんを伴ったまま下鴨の茶木さんの骨董店を訪問するという予定外の展開になり、ようやく店を辞したあとは、セイゴオと中村さんが茶店でくつろいでしまい、その茶店に追い掛けるようにしてまた茶木さんが現れるというように、日暮れ前に取材を敢行したいスタッフ泣かせの、珍道中さながらのできごとが次々と起こってしまった。案の定、取材時間がずれこんで、めざす老舗が閉店してしまったり、夜間撮影で記録写真が真っ暗になるという不運に見舞われてしまった。
 それでも、茶木さんの店で、セイゴオの手元から失われていた中学校の卒業アルバムを見せてもらえたことは幸いだった。そのアルバムに、1994年にセイゴオが手掛けた「平安建都1200年記念フォーラム」のチラシが大事にはさまれていたことも、そのチラシを見た中村さんが「わしも行ってたんやで」とすかさず口をはさんでいたのも、ほほえましかった。
 きっと中村さんにとっても茶木さんにとっても、セイゴオは、たんなる幼馴染以上の存在、非日常性を連れてくる不思議なマレビト、風の又三郎みたいなものなのだろう。

 「セイゴオちゃんねる」では今後も、セイゴオの生い立ちに沿ってゆかりの地を訪ねる特別取材企画を続ける予定である。次回は更新250回達成ごろに、日本橋人形町・芳町あたりの回郷篇を、ついでは横浜篇をお届けしたい。乞うご期待。

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河原町の六曜社珈琲店は、セイゴオが帰京したときに、
幼馴染たちと集った喫茶店。

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松原通りの家並みを眺めながら、
修徳小学校の級友たちの面影をたどる。

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昔と変わらない大喜書店を見つけておおはしゃぎ。

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中村晋造さんの店で、先祖代々の肖像画を拝見。
「ぼくの家にも確かこういうものがあった」。

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高倉の家があった場所は、もとは足利尊氏の邸宅および菩提寺(等持寺)だった。
碑文をしげしげと眺めるセイゴオ。

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寺町を散策中。
すっかり少年の顔に戻っている。

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高倉時代にしょっちゅう訪れた若林書店。

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母のお使いでよく来ていた一保堂。
番茶「青柳」が指定銘柄だったらしい。

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寺町の「げてもの屋」はお気に入りの店だった。
今も古道具が店の内外にあふれている。

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イノダコーヒーで好物のフレンチトーストを食べる。
ほかに、ゆずシャーベットもよく食べたという。

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二日間の回郷を終えて、祇園で一服。

投稿者 staff : 14:30

2008年1月12日


Report セイゴオ回郷―京都篇(七)


セイゴオちゃんねる更新200回記念特別企画
セイゴオ回郷―京都篇(七)


■父との思い出―コーヒーと脂粉の香り


 セイゴオの父は歌舞伎や踊りといった伝統芸能ばかりでなく、映画やスポーツも好んで見ていた。家族全員で観劇を楽しむこともあったが、もっぱらセイゴオ一人を連れて出かけることが多かったらしい。そうやって、一流のもの、本物を見る目をセイゴオに身に付けさせようとしていたのだろう。
 今回の企画のために、セイゴオに、家族や父といっしょに行った京都市中のスポットを訪ねてもらったが、名店や老舗ほど当時の佇まいのまま残っていることが多かった。とくに、堺町三条の老舗イノダコーヒーには、現在のメインフロアーに隣接して、セイゴオがしょっちゅう父に連れられて来ていたころの店がそっくり保存されていて、ひさしぶりに訪れたセイゴオも感激していた。この店に41年勤めているという松本さんに話を聞くと、9年前に火事を出してしまったが、1年をかけてほぼ元通りに復元したのだという。
 父はまたセイゴオを、先斗町に連れ出すこともあったという。父のなじみだったお茶屋さん「初音」―セイゴオがかすかに憶えている連子格子の二階屋を探して、人が行き交うのも困難なほど混雑した先斗町を歩いてみたが、とうとう見つからなかった。
 人ごみを避けて、賀茂川を見下ろし煙草をくゆらせながら、セイゴオがつぶやいた。「ああ、父は都踊りより鴨川踊りが大好きだったんだよ」。
 
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セイゴオが父と通った堺町三条のイノダコーヒー。
当時の店がそのまま保存されていた。

Q:家族みんなで出かけるときは、どういうところへ行ってたんですか。

S:もちろん京都だから、お寺や神社、いろんな行事とか、あと南座の歌舞伎にもよく行った。東宝映画館にもよくみんなで行った。映画は父が選ぶので、ジョン・ウェインの西部劇とか、山本富士子の「夜の河」とか、子供にはあんまりおもしろくないような映画だった(笑)。たしか中学3年のときにフェリーニの「道」を見た。ぐしょぐしょに泣いたからよく憶えてるよ。
 南座に行ったときは東華菜館で中華料理を食べるのが恒例だった。映画の帰りにはよく寺町の「スマート」という喫茶店に行った。ぼくと妹はクリームソーダとかシャーベットとかを食べさせてもらった。

Q:堺町三条のイノダコーヒーは、当時の店構えがそのまま残されてましたね。やはりよく家族で行ったんですか。

S:イノダに行ってたのは父とぼくだけ。母はコーヒーを飲まない人だったと思う。父がイノダに行くのは、テレビを見るのが目的だったんだよ。ぼくのうちにはずっとテレビがなかった。横浜に移ってから初めてテレビが入ったくらい遅かった。そろそろどの家にもテレビが入り始めてたけど、父はなぜか、人の大勢いるところに行ってテレビを見るのが好きだったな。相撲と野球をよく見ていた。

Q:そういうときは、お父さんと二人でどんな会話をしてたんですか。

S:テレビに熱中するから、そんなに会話はなかったと思うよ。だいたいぼくはあんまりしゃべる子供じゃなかったしね。でも、父はテレビを見ながらも、いつも、相撲なら相撲の、どういうところを見なさい、というところを教えてくれた。「この仕切りをよく見ておきや」とか「信夫山は右手から双差に行くさかいな」とかね。それは日本橋にいたころからそうで、落語でも歌舞伎でも踊りでも謡曲でも、舞台であろうとテレビであろうと、いつもそうだった。「井上八千代さんの、あの左足がすっと上がるところ、見ときや」とか。
 父のそういう話はとてもおもしろかった。父はなんといってもナマの芸人たちにも会っていたからね。
 でもときどき困ることもあった。歌舞伎を見ていると「ほらセイゴオ、ここでドメキをやれ」とか急に言われる。恥ずかしいから小さな声で「な、成駒屋」とかいうと、「なんや聞こえへんで」「ほれ、次は播磨屋やで」とか言われて、おちおち見ていられない(笑)。

Q:ラグビーにも連れて行かれてたんですよね。

S:そう、お正月ともなると、普通の家なら「炬燵でミカン」なのに、ぼくたちだけは寒い花園や西京極でラグビー観戦(笑)。しかも、父は試合が終わるとグラウンドに降りていって得意そうに選手にわあわあ声をかけるんだよ。必ずぼくも連れていって、「ほれセイゴオ、ボール投げてもらい」と言ったりしてね。選手のほうも小さな子供相手に困ってたよ(笑)。父ももと選手だったし、借金をしてて余裕のない時期でも豪勢に寄付したりしてたから、ラグビー協会のなかでは一目置かれていたようだけどね。
 バスケットの観戦にもよく行った。ぼくも中学校のときはバスケをやってたから、このときは楽しかった。当時は大学リーグでは立教がトップだったんだけど、立教の応援歌が流れると父も大きな声で歌ったりしてね。センターの斎藤というエースなんかにすぐに声を掛けに行ってた。父はそういうことにはいっさいひるんだり遠慮したりしない。平ちゃらだった。声は大きいし押しが強いし、体も大きかった。

Q:お父さんは先斗町にまで幼い松岡さんを連れて行ったんでしょう。

S:父の行きつけの「初音」というお茶屋さんによく連れて行かれた。それも芸妓さんたちがまだ支度中で、スリップ一枚で動き回っているような時間から出かけるんだよ。で、父が遊んでいるあいだ、ぼくは帳場みたいなところにちょこんと座らされて、芸妓さんが着物を着付けてお化粧を整えていくところとか、女将さんがそれらをいっさい取り仕切っているようすなんかを見ていた。芸妓さんたちの脂粉の甘ったるい匂いをよく憶えてるよ。たしか照子さんという芸妓さんがいた。
 お客さんがだんだん増えてくる時間にはぼく一人が家に帰された。京都の花街には男衆(おとこし)さんといって、芸妓さんたちの身の回りの世話をなんでもする男性たちがいて、よくその男衆さんに家まで送ってもらった。女将さんが必ず“すぐき”の漬物とかをおみやげに持たせてくれてね。「帰ったらこれ、お父さんからお母さんに、とちゃんと言うのよ」と言い気かされながら(笑)。母の好きな漬物をお茶屋の女将がちゃんと心得ていたんだね。そういった支払いも女将さんが全部負担している。もちろん、あとでちゃんと父親も相応のことをしていたはずだけどね。

Q:父子でお茶屋通いだなんて、お母さんは平気だったんですか。

S:もちろん父が先斗町に行っていることも、ぼくをダシにしていることも(笑)、母はちゃんと知っていたよ。父もそういうことはまったく隠さなかったしね。だいたい母はそういうことに焼きもちを焼いたりする人ではなかった。それくらいやらないと男の肥やしにならない、といった昔堅気な心得をしていたんだろうね。父も行き過ぎた遊びはしなかったし、あくまで一流の旦那としてやっているという意識だっただろう。
 そういう意味では、タブーのない家だった。礼儀やしつけには厳しかったけど、性のこととか社会的なタブーは気にしない家だった。東京に出てからは、家族全員で日劇のストリップに行ったこともある(笑)。武智鉄二さんに招待されたときだったと思う。

Q:お父さんが自分の好きなものをすべて家族にオープンにするところも、明らかにいまの松岡さんに引き継がれてますね。

S:そうだね。きみたちスタッフに対してもね。いいと思ったものは何でもオープンにしてるよね。それに何も隠さないでしょう。トイレに入っているときもドアすら閉めないものね(笑)。

Q:今回の企画「セイゴオ回郷」で思い出の京都をめぐっていただき、いろいろお話をうかがいましたが、今日の松岡さんの源泉が、お父さんとお母さんにあったということがよくわかりました。

S:それはぼくの両親が特別な人たちだったとか、破格だったということではないんだよ。もちろんぼくにとっては父も母も格別だったんだけど、親子の関係って基本的にはそれほど変わらないものでしょう。何かがずっと繰り返されるものでしょう。だから母親や父親に対してムッとするのも、グッとくるのも、だいたい同じようなことだったりする。
 ただ、ぼくの場合みんなとちょっと違うのは、そういう父や母との格別な出来事や場面、うれしかったことも悲しかったことも強烈なものとして結晶化して、何を思索するときにも、必ず回路がそこを通るようにしてきたことなんだと思うね。
 ぼくはものすごくたくさんのことをやっているように思われているけど、むしろ何度でも同じ回路を通すことで、どんなものでも取り込んでいくことができると言ったほうがいい。「千夜千冊」を書くときも、『世界と日本のまちがい』のような本を書くときも、書やドローイングをするときも、いつもそんなふうにしているんだよ。
 ところでこの「セイゴオ回郷」はこのあとも続くの? 日本橋にも行く?

Q:もちろんです。ぜひ続けたい。日本橋は次回ですね。鵠沼とか横浜の家にも行かなくちゃ。

S:京都以上に、もう何も残ってないと思うけどね。まあ、ぼくも楽しみにしているよ。

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イノダコーヒー前には、デリバリー用の自転車が並んでいた。
年期の入った古い自転車も残されていた。

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41年間イノダで働いているという松本さんに話をうかがう。
セイゴオが通っていた時代はそれよりも古いのだが。

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「このテレビだよ。父とぼくが相撲や野球に熱中したのは」
テレビ台もそのころのものらしい。

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家族4人で行くことの多かった南座。

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東華菜館の待ち合い。「さすがだね。何も変わってない」。
南座の帰りは必ずここでご飯を食べた。

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寺町の喫茶店「スマート」も、家族との思い出の場所。
クリームソーダが楽しみだった。

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先斗町の人ごみを避け、賀茂川の夜景を眺める。
父と通った「初音」は見つからなかった。

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河原町に家族でお出かけ。


投稿者 staff : 00:43


Report セイゴオ回郷―京都篇(六)


セイゴオちゃんねる更新200回記念特別企画
セイゴオ回郷―京都篇(六)


■科学と哲学への憧れ―初音中学校

 1956(昭和31)年、セイゴオは姉小路東洞院の初音中学校に入学した。
 中学時代のセイゴオのアルバムを覗くと、セイゴオの顔つきが同級生たちに比べてどんどん大人びていくようすがわかる。急速に思索や表現を深めていた時期なのだろう。科学や哲学など、それまでの父や母の導きから来るものではない読書世界も開きつつあった。これには数学の赤井滋雄先生や、国語の藤原猛先生、富永二郎先生の影響が大きかったらしい。
 初音中学校も平成5年に閉校となり、統合によって京都御池中学校に吸収されている。ただし当時の校舎は一部増改築されているものの、外観はほぼそのまま残され、不登校児のための特別学校が開かれているという。

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改修はされていたものの、当時の外観そのままの初音中学校の校舎。

Q:中学校に入学したときのことは何か憶えてますか。

S:すごく新鮮な感じを受けたことを憶えてるよ。修徳小学校の級友たちとは学区がちがったから、初音中学にはひとりも知り合いがいなかったけど、さびしいという感じはなかった。半ズボンが長ズボンになったしね。
 ただし、入学して半年後に、猩紅熱で高木小児科病院に隔離入院させられるという事件があった。猩紅熱は法定伝染病だったから、ぼく一人のせいで学校中がDDTで真っ白に消毒された。だから退院して学校に戻ってくるとすっかり有名人になっていた(笑)。
 でも中学時代の3年間は、精いっぱいおもしろく過ごした。そのあとの東京の九段高校時代に比べれば、ずっと楽しかった。

Q:今回、松岡さんは高木小児科病院がまだ残っていないか、熱心に探していましたね。病院はなくなってたけど、その場所だけは特定できた。

S:そうだったね。病院があった場所が空地になっていたね。猩紅熱で入院してたときに看護婦さんたちに性的ないたずらをされたりしてね、思い出深いんだよ(笑)。あのころの看護婦さんも、もうすっかりおばあちゃんになってるだろうね。
 高木病院はぼくの妹の敬子もお世話になった。妹はぜんそく持ちだった。死にかけたことがあった。「もう覚悟してください」と医者に言われて、父も葬式をどうしようと言い出すくらいに危なくなった。それを、高木病院の副院長先生が、一睡もしないで妹につきっきりで奇跡のように直してくれた。そんなこともあったんだよ。
 妹のぜんそくは横浜に引っ越してからも続いてたけど、妹は自分で乾布摩擦と山登りによってそれを克服した。それでものすごい頑丈な身体になった。で、結婚し、子供を二人産んで、仕事も続けて、完璧な人生をいまも歩み続けている。妹は頭もいいし、決して逸脱しない。しっかりした女性だよ。ぼくはずっと逸脱しっぱなしなのにね(笑)。

Q:知的なおいたちとしては、中学生時代はどんな時期だったんですか。文章を書き始めたりしていたんですか。

S:俳句はたくさんつくっていたし、表現することへの関心はどんどん高まっていたけど、まだ文章には目覚めてなかったと思う。日記を書くくらいだった。でもその日記は『あるがままの記』というタイトルをつけて、毎日見出しもつけて、書体も内容によって変えるという凝ったものだった。学研の雑誌の俳句欄に入選して贈られた万年筆を使うのがうれしくてね。ペン先を寝かしたり立てたりして、いろんな書体を工夫していた。
 ぼくの作文能力に注目してくれたのは、国語の藤原猛先生だった。難聴者でね、いつもものすごい大きな声でしゃべる先生だった。ぼくの日記をおもしろがって、いつも教室のうしろに貼り出すので、ちょっと困ったけど。

Q:でも何か作文くらいは書いたでしょう。

S:学校で1回だけ中学新聞をつくることになって、何か書いてくれと頼まれたことがあった。それも藤原先生が「松岡に書かせるといい」と顧問の先生に言ったらしい。でも何を書けばいいのか、そもそも「書く」って何をすればいいのかが、よくわからなかったよ。
 いろいろ考えて、比叡山の「中西悟堂の会」のことを書いた。中西悟堂というのは鳥類学者で、比叡山に集まってみんなで鳥の声を聞こうという会だった。そこで体験した一夜のことを書いたんだけど、比叡山というのはみんなが思っているイメージとは違って、じつは鳥の山である、といったことを、中西先生という人物のことを重ねて表そうとした。すでに編集的な発想はしてたんだね(笑)。
 やっぱり、ぼくが本当に文章に目覚めたのは、九段高校の新聞部以降だったと思う。中学校時代はまだ、「書く」ということに目標をもてなかった。

Q:クラブは科学部でしたね。そこでは何をしていたんですか。

S:最初は「郷土部」と言ってた。化石とか鉱物が好きだったので、そういう採集とかをやってると聞いて入ったんだけど、二年生になると名前が「科学部」に変わった。担当の“チョーク”というあだ名の吉田先生が「科学的な実験をしなさい」というので、いろいろやったよ。ガリレオの落体実験みたいなこととか、「尿の研究」とか「ほこりの研究」とか。「ほこりの研究」は、京都の科学実験コンクールに入賞した。実験を組み立てたりするのはおもしろかった。
 この科学部でいっしょだったのが茶木哲夫君。君たちも知ってる骨董屋さん。

Q:絵を描いたりドローイングをしはじめたのもこのころですか。

S:科学部にいたからスケッチはよくやっていたけど、絵に関心をもったのはいつごろだったかな。影響を受けたのはぼくの叔父の日本画家だった。池田洛中という人で、横山操のいた青龍社に所属していた。その叔父から日本画のことも洋画のこともいろいろ教えてもらったんだね。叔父が写生をするときの目の配り方とか筆の持ち方とかもよく観察して、見よう見まねをしてた。キリコやダリも教えてもらった。でもやはり母の写生の線、ドローイングの速さのほうが、ぼくには影響が大きかったかもしれない。
 そのころはむしろ版画と粘土のほうが好きだった。版画はちょっとうまかったし、粘土はなんでも器用に作った。動物とか学校の友達とか、保津川下りの場面を粘土で細かくつくったこともある。川をつくって船をつくって、船頭さんをつくって長い串を櫂にして。母は「おもしろいものをつくるなあ」と感心してた。子供がつくるものとしては変わってたね(笑)。あと、鳥カゴを粘土で作ろうとしたことがあったけど、それはうまくいかなかった。あの細い骨組を粘土で組み立てようとしたんだけど、すぐにぐにゃっとつぶれて失敗した(笑)。

Q:そろそろ将来何になりたいとか、考えることはありましたか。

S:まったく考えてなかったね。あんまりそういうことを気にしない子供だった。将来なりたいものを聞かれても、車掌さんとか水泳選手とか、虫の王様になりたいとか空を飛びたいとか(笑)、そういうばかばかしいことしか答えられなかった。
 中学2年生のときにふと哲学者がいいな、と思った。ただし哲学って何をするのかよくわからなかった。ただ言葉としてぱっと「哲学者」と思ったんだ。

Q:哲学者に憧れるきっかけはあったんでしょう。

S:2年生から国語を教えてくれた富永先生があるとき授業で、誰か『ファウスト』を読んでいるかと聞いた。そうしたら、クラスでいちばんおとなしかった女生徒が静かに手を挙げて、カバンの中から岩波文庫の『ファウスト』を取り出した。そのとき『ファウスト』を初めて知った衝撃も大きかったけど、ぼくは「岩波文庫」というものにびっくりしちゃったんだね。小さな茶色い本で、表紙の題字も茶色。それまでぼくが手にしてきた本のような挿絵も色も何もないのに、どんな本よりも不思議なものに思えた。
 そうか、こういう本のなかに先生のいう「ファウスト」のようなすごい世界が入っているのか、きっとそれが「哲学者」というものなんだと思いこんでしまったんだね。それで、岩波文庫のデカルトだったかショーペンハウエルだったかカントだったかを、自分で初めて買った。どれが最初だったかは覚えてないけど、何冊目かがデカルトの『省察』だった。「なんじゃ、これは」と思ったね。抽象的なことばかり書いてあってさっぱりわからない(笑)。でも、けっこう読んだね。

Q:哲学に憧れるというよりも岩波文庫というものに憧れたんですね。

S:それはまるで見たこともない鉱物を目の前にしたときのようにぼくの中に入ってきた。その鉱物のなかに描かれている文様が、デカルトでありファウストであり哲学ってものなんだという、そういう感じだったろうと思う。
 でも、哲学にしても科学にしても、そういうぼくの見方は今も基本的には変わってないんだよ。少女のチュチュや浴衣と同じように、おとなしい女生徒のカバンから取り出された岩波文庫のほうが、ぼくの記憶にとっては大切で、それを切り離して哲学や科学だけ扱うことには関心がないんだ。

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校舎は増築され、校庭は小さくなっていた。

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建物内のようすはすっかり変わっていた。

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セイゴオが通っていたころの初音中学校正門(卒業アルバムより)

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セイゴオが所属した科学部。後列左端がセイゴオ。
前列左側はいまも親交のある茶木哲夫さん。

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学芸会で上演中の「七年目のイリサ」。右端がセイゴオ。
7人の神々の頭目のような役だった。

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友人の茶木哲夫さん・宮武剛さんと。

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朱雀高校1年生のセイゴオ。級友よりもおとなびていた。
このあと東京・九段高校に転校し、疾風怒濤時代が始まる。

投稿者 staff : 00:39

2008年1月11日


Report セイゴオ回郷―京都篇(五)


セイゴオちゃんねる更新200回記念特別企画
セイゴオ回郷―京都篇(五)


■四生同堂―高倉押小路の家

 1953(昭和28)年、セイゴオ9歳のとき、ようやく父が京都に戻り、松岡一家は高倉押小路の蔵付き2階建ての家に転居した。ベンガラ格子とはね床几のある典型的な町屋普請だった。それまではもっぱら家の外で一流を遊んでいた父は、この家にさかんに数寄や風流を持ち込み、旦那衆の矜持を存分に発揮しはじめた。庭の土蔵をつぶして隣の帯屋と庭を共有工事して、不審庵見立ての茶室がつくられた。贔屓の芸人や役者たちを家に招くことも多くなった。
 おそらく高倉の家こそが、セイゴオの京都時代の記憶にもっとも鮮やかな色彩と克明な陰影をもたらしているトポスだろう。しかし、この高倉時代も長くは続かなかった。修徳小学校から初音中学校に進学し、さらに朱雀高校へと進んだ6年後の1959(昭和34)年、父は横浜元町への出店を決心し、またしても一家は京都を離れてしまうのである。以降のセイゴオは、しばらくのあいだしきりに京都への思慕を募らせていたという。
 いまの高倉押小路は、もちろんセイゴオの知る風景からは様変わりしていたが、わずかに松岡家と付き合いのあった仕出し屋や、家族で通った銭湯や、何軒かの家だけが、当時の面影を残していた。
 
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家族で通った高倉通の初音湯。もちろん建物は建て替わっている。


Q:やっとお父さんが東京から戻って、家族そろっての暮らしが再開したのが高倉の家だったんですね。

S:そうだね。しかも高倉に越してから、すぐには店は開かなかった。東京の店をたたんで2年間くらいしてから、ようやく店を開いた。だからその2年間というのは、父とぼくの最大の蜜月期だった。父はずっと家にいたし、どこかに出かけるときにはいつもぼくを連れて行ってくれた。
 父も母に苦労をかけているのがわかっていたんだろうね。だから高倉の家には母方の親戚たちがよく遊びに来ていた。もちろん父方の親戚たちも。そうすると父は大盤振る舞いをして、みんなで俳句大会をやったりして遊んだ。そういうときの父のもてなし方は際立っていたよ。ぼくも新しい遊びを考えて、親戚たちみんなでそれを遊んだりした。今思うとエディトリアル・エクササイズみたいな遊びだった。「20の扉」もそのときからやってたよ。
 父は京都一商の出身で、ラグビーの全国優勝したときのフルバックだったから、ラグビー仲間もしょっちゅう来ていた。もちろん呉服屋で悉皆屋だったから、生地屋さんや染屋さんや小物屋さんたちとの交流もあった。京都で商売をやっていくためには、それだけの多様な交流が必要だったんだろうね。

Q:初代中村吉右衛門も遊びに来ていたんですよね。

S:水谷八重子とか花柳章太郎とかもね。父は「吉右衛門さんは白梅が好きやから」と言って、近江の植木屋から見事な白梅を取り寄せて植えたりしてた。そういうことにお金を使うのを惜しまない人だった。庭の蔵をつぶして、隣の高木さんという帯屋といっしょに不審庵見立ての茶室をつくったりもしてた。京都の四季や文化が家のなかにまで、坪庭や蹲にまで一気に染みてきたという感じだった。
 神棚や仏壇や床の間があり、庭や縁側があり、父母や店員たちがいて、ウグイスがいて、そこに多くの客たちが出入りしていた。まさに四生同堂の家だった。

Q:小学生や中学生が学校生活で体験することに比べると、お父さんが家にもたらす文化はかなり高度で大人びたものだったでしょう。違和感はなかったんですか。

S:ぼく自身はそんな隔たりはまったく感じてなかったよ。家で体験する大人文化と、学校での遊びや探索の、両方が充実した時期だった。父はよくお客さんの前で、ぼくに俳句や読経を披露させたがった。母は「そんなことさせんでもよろしいがな」と言ってあきれてたけど(笑)。父はぼくに観世流の謡曲の先生をつけたりもした。覚えたての謡曲も、すぐにお客さんの前でやらされた。

Q:小学生に観世流ですか。

S:謡曲は京都の旦那衆としての教養だからね。どこの呉服屋だって、そのくらいのことをしていたと思う。でも、さっきも言ったように、父はぼくを溺愛していたし、やっぱりこの子に何かを託そう、ちゃんと身に付けさせようと思っていたんだろうね。でもぼくは嫌で嫌でしょうがなかった。それに謡いの先生が「これ西塔のおぉ」とか言って唸るのを聞いていつも笑いころげてたから、さっぱり身に付かなかった。

Q:ほかにはどんな習い事をしてたんですか。

S:京大生の英語の家庭教師もきていたよ。ソロバンを習いに行かされたりもした。でも、やっぱりそういうものにはぜんぜん乗れなかった。抵抗はしなかったけど進んではやらなかった。それにソロバンはヘタくそすぎて、話にならなかった(笑)。

Q:お父さんはがっかりしませんでしたか。

S:それはなかったよ。父は習い事をさぼるくらいのことでは怒らなかった。でも、何か大事な場面でぼくがだらしなくしているときには、厳しかった。
 ぼくがよく話すエピソードだけど、野球のグローブを放りっぱなしにしてたら、「正剛、包丁もってこい」と言って、その場でグローブを切り裂いてしまったとか、ウグイスの餌やりを忘れたときには、ぼくの目の前で鳥籠を開けてウグイスを逃がして、籠をバシャンとつぶしてしまったとか。強烈だよね。それくらいのことをされると、ほかのことも気をつけなくちゃと思うもの。それが父の教え方だった。それに答えられないなら、こいつはダメだ、というくらいのことは考えていたんだろう。
 でも父に叱られたという記憶も、その2回くらいしかない。あ、1回だけ口論したことがある。大学生のときに、ぼくが学生運動ばっかりやっているのを咎めて「ベトナムへ行って頭カチ割られて来い」と怒鳴られた。ぼくがきっとなにか生意気なことを言ったんだろうね。

Q:俳句もやらされたんですよね。

S:父も母も「京鹿子」という俳壇に所属していて、3年生か4年生くらいのときからぼくも妹もいっしょに句会に連れて行かれた。でも俳句は好きになって、自分から進んで作ってたよ。今のぼくよりうまかった(笑)。何度も入選して、ぼくの句が俳誌に載ったりした。
 父と母は俳句の作り方も対照的だったけど、教え方も対照的だった。母は、その句がいいとか悪いとかはぜったい言わない。「庭の沈丁花を読んだんやなあ」とか言って、「色はこれでいいの」とか、「匂いは季節で変わるんよ」とか、言葉は少ないけれど、イマジネーションはいくらでも表現になりうる、いろんな可能性がある、ということを的確に教えてくれた。父はまったく違ってて、「これはええな」とか「なんや、このヘタクソ」とか「アホみたいな句やな」というような言い方をする(笑)。
 でも、父のよいところは、まったく後を引かないところ。いかにグローブを裂こうと、きついことを言おうと、その場でずばんと終わる。そういうところは、ぼくも受け継いでいると思うよ。でもいろんな可能性を発見する母の気質も受け継いでいる。

Q:お父さんもお母さんも、松岡さんのことを子供扱いしないで導いてくれる人だったんですね。

S:早くから自立的に扱ってくれたと思う。「男の子なんだから」とか「一人でがんばれ」みたいなことも言わなかった。
 父と母が晩婚だったことも大きかっただろうね。若いお父さんお母さんだったら、子供を育てながら自分も成長するといったことはあるかもしれないけど、たぶんぼくの両親はそういう段階はすでに終えていたんだよ。子供が生まれたからといって、自分の価値観や判断が揺らぐようなことはなかった。
 それに京都では、四季があり行事があり、神社や寺院や庭があり、そういう装置がいくらでもあった。家のなかまで京都そのもの、日本そのものだった。父や母がそんなに必死にならなくても、子供のためにわざわざおもちゃや学習教材を用意する必要もなかった。

Q:このころの写真を見ると、松岡さん、朗らかでやさしい顔をしてますね。

S:そうかなあ。そういえば母からはよく「お前のようにやさしい子は生きていけない」と言われてたよ。母は少し心配症なところがあった。何が母の心配かというと、ぼくがよそのお嬢さんに迷惑をかけること(笑)。「よそのお嬢さんに迷惑をかけたらあかんで」としょっちゅう言われた。なぜそんなことを思ってたんだろう。好きな子がいても声もかけられないほうだったのに。
 
Q:やさしいだけじゃ、女心にとって罪なばあいもありますよ(笑)。きっと松岡さん、すごく女の子にもてたんでしょう。

S:そういえば、中学時代にこんなことがあった。御池通り沿いの散髪屋にいたら、なぜか表に女生徒たちが集まって、ぼくのことでキャアキャアしていた。そのときにちょっとだけ、こういうのはよくないな、気をつけなくちゃいけないな、と自覚した(笑)。高校生のときも文化祭の企画で投票があって、女子生徒の人気ベストワンになったことがある。こういう話、なんか歯が浮くようで自分でも困るんだけど(笑)、いろんな子に告白されたりもしたよ。でもそんなときも、ぼくはうれしいとか「しめしめ」なんて思うどころか、どうしていいのかわからなかった。
 だいたい、ぼくは自分に影響力とか人を動かす力とかがあるなんて、一度も感じたことがない。当時もむろんそんなこと自覚していなかったけど、今のような仕事や立場になって振り返ってみると、母は、ぼくにはそういうものがあって、それがぼくが思っている以上に人に強い影響を及ぼしてしまうということを、見抜いていたのかもしれないね。

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ここが思い出深い、高倉押小路の家があったところ。

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向かいの本龍寺の境内でよく遊んだという。
「こんなに小さいお寺だったっけ」。

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松岡家と付き合いのあった仕出し屋の松長が残っていた。

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高木小児科病院は跡形もなかったが、
この榊原歯科医院は建物ごとそっくり残っていた。

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高倉の家の玄関前で。父はバスケットボールを持っている。

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松岡家の客の間ではしばしば句会が催された。
父母にはさまれ幼いセイゴオと妹も作句中。

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親戚・いとこたちと記念撮影。前列左がセイゴオ。
千鳥の欄間はセイゴオのお気に入りだった。


投稿者 staff : 22:49


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セイゴオ回郷―京都篇(四)


■男の子・女の子―室町新町松原通

 京都下京の室町といえば、村田珠光の茶の湯発祥の地。そこを貫く室町通りには、かつて呉服関係の問屋や商店が立ち並んでいたという。修徳小学校はこのあたりを学区としていた。室町通りを軸に、並行する新町通りや、交差する松原通りあたりが、修徳小学校に通う子供たちの通学路であり遊び場であり社交の場だったのだろう。
 しかし、あまりにも記憶が覚束ないのか、それとも街並みが変わりすぎたのか、学校周辺を散策するセイゴオには、当時の思い出につながるトピックがなかなか見つからないようだった。セイゴオは4年生のときに中京区の高倉押小路に引っ越したので、市電で烏丸通りを南下して学校へ通っていた。そのため、学校周辺の店や寺や祠にはあまりなじみがなかったのかもしれない。それでもわずかに見憶えのある建て物や看板が、ところどころには残っているようだった。旧友の苗字の表札が今も掛っている家もあった。
 右見左見しながら室町通りを歩いていたセイゴオが、とつぜん一軒の町屋にずかずかと入って行った。修徳時代の友人の中村晋造さんの呉服店である。まるでその場所だけ時間が止まったかのように、店構えもタタキも柱も庭も、何もかもが当時のままだという。
 呉服店主らしい着物姿の中村さんが玄関先に飛び出してきて、「よう来たな、あがってあがって」とセイゴオを迎え入れてくれた。昔よく遊んだという蔵のなかで、しばし旧友の溝川陽子さんや杉山依子さんのことなどを交わしていた。

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松原通りにたたずんで、学童のころを思い返す。


Q:中村さんとおしゃべりするときに、松岡さんは京都弁に戻ってましたね。

S:ははは。ぼくの京都弁、珍しかったかな。中村はみんなからからかわれてばかりいる変なやつだったよ(笑)。むこうもぼくのことを東京からきた変な子と思って、親近感をもってたらしい。それにしても中村の家は昔のままだった。あれじゃ、変わらなさすぎるよ(笑)。

Q:中村さんは、松岡さんのお父さんがいっしょにキャッチボールをして遊んでくれたときのことを強烈に憶えているそうです。

A:商売をやっている家で父親が子供と遊んでくれるという光景が珍しかったんだろうね。中村の家も呉服屋だったから、よけいにそう思ったんだろう。父にはそういうところがあった。どんなに忙しいときでも、いったん引き受けたら、たとえ相手が子供であっても、本気で遊ばせる。
 ぼくが大学生のときに、中学校時代の同級生の女の子が東京に遊びに来たことがあってね。そのときなんか父は「それならいっぺん家にきてもらいなさい」と言い出して、ああだこうだとデートコースをこと細かく口出ししてね(笑)。日比谷のあそこでご飯を食べて、どこでお茶を飲んでというふうに、とても大学生が行けないような一流のところばっかり(笑)。でも、そんなふうにして、ぼくのボーイフレンドでもガールフレンドでも、同じように大事にしてくれた。

Q:小学校時代の友達の家がほかにも残ってましたね。よく遊びに行ったりしてたんですか。

A:あんまり家に行ったりしてなかった。杉山依子ちゃんの家にテレビが入ったと聞いて、みんなで見に行ってたけど、ぼくは行かなかったなあ。やっぱり母のいる「うち」が一番いいと思ってたんだろうね。
 松原通にあった花井君の家にはときどき行ってた。花井君というのは、いっしょに電気倶楽部を作った仲間で、お父さんが大工さんだったから、よく工作を手伝ってもらったよ。

Q:中村さんや田中依子(杉山依子)さん、あと北川陽子(溝川陽子)さんも、いまでもよく松岡さんの講演を聞きにきてくれますね。

S:みんな同じ「ろ組」の仲間だよ。だいたいぼくのこと一番はやしてたのミゾチン(溝川さんのこと)。「あんた、きのうお母さんと女風呂行ったやろ」とか言い出すんだよ。まだ小学校3年とか4年なんだから、女風呂に入ったっておかしくないよね。あれっ、おかしいかな(笑)。

Q:眼鏡の竹原先生のあとに、好きになった女の子とかいなかったんですか。

S:「は組」の山添さんという子と「い組」の麻山さんという子が、学芸会のときにチュチュを着てバレエを踊ったことがあった。それがものすごくきれいに思えた。あとから写真を見てもきれいな子だったんだけど、そのときぼくは初めてバレエというものを見たんだね。いままで見たこともないものだと思った。だから、麻山さんと山添さんが好き、というんじゃなくて、バレエを踊っている二人にものすごく気持ちが反応したという感じだった。
 ぼくはそのころ、『ノンちゃん雲に乗る』の映画を見て鰐淵晴子にも夢中になったんだけど、それも鰐淵晴子の全部が好きだったわけじゃなくて、あくまで「ノンちゃん」の鰐淵晴子だけ、池の中の雲に飛び込んでしまう、あのノンちゃんであることが重要だった。

Q:寝ても覚めても好きというような女の子はいなかったんですか。

S:中学生のとき、夏に八幡さんのお祭りがあって、1年後輩の内貴登代子ちゃんと言う子が浴衣を着ていた。それがすごくよくて、初めて、何度もその子に会いたくなった。その子のうちを探しに行ったりしたよ。「内貴」という表札のかかった格子戸のある大きな家だった。京都でも有名な大素封家の内貴清兵衛の孫か曾孫だったんだよ。その子にはいつも学校で会っていたんだけど、その浴衣姿を見て変わっちゃった。だから一目惚れというのともちょっと違ってたと思う。
 ぼくはいまでもそうなんだけど、「これがすごくいい」と思ったものは、すぐに価値観の真ん中に置く。チュチュを着た二人も、浴衣を着た内貴登代子ちゃんも、ぼくにはいまも変わらず「すごくいいもの」なんだよ。だからいっぺんダリアって花がいいと思うと、ダリアに代わる花はなかなかなかったりする。松葉ボタンがいいと思うと、宇宙のことだって科学のことだって松葉ボタンから語ろうとする。

Q:一度好きになったものに対して、ずっと評価が変わらないんですか。

S:ぼくの気持ちが動かされた、その場面をずっと大事にするということだね。だからそこまで行かないものに対しては評価もしない。これはね、ぼくが母の不在へのさびしさというものを、いっさい伏せようとしなかったこととも関係あるんだ。今のぼくの思想の根本にあるフラジャイルとかノスタルジーとか「負」とか枯山水と、どこかでつながっているんだと思う。
 一度好きになったものも、失いたくなかったのに失ってしまったものも、何度でも想起して再生してずっと持ち続けるということをやってきたんだ。

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「これはきっと、そのころの看板だね」。

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松原同祖神社は学校の行き帰りに寄っていた。
こうして拝むことを「アンする」と言っていた。

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中村晋造さんの呉服店の蔵で昔語りを交わす。
「ぼくの家にもこんなふうに色とりどりの反物がたくさんあったよ」。

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「中っかん、ソロバン使えるんか」「あたりまえやがな」。
京都弁でからかいあう姿は小学生時代のままらしい。

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前列左から2人目がセイゴオ、後列左から一人目が中村さん。

投稿者 staff : 22:35


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セイゴオ回郷―京都篇(三)

■永遠の学び舎―修徳小学校

 日本橋の東華小学校からセイゴオが転校した修徳小学校は、明治2年に日本初の町組立下京第14番組小学校として、つまり町衆の手によって創立されたという、京都ならではの歴史をもつ学校である。残念ながら近年進む小学校統廃合政策によって、修徳小学校も平成4年に廃校となってしまった。現在その跡地には特別養護老人ホームや下京区図書館などの複合施設が建てられ、校庭だった場所は市民公園となっている。
 1953年(昭和28)年、4年生になったセイゴオは、吉見昭一先生と出会う。「千夜千冊」に『虫をたおすキノコ』(461夜)を取り上げて綴っているように、当時は大学院を出てまだ2、3年の青年先生だったが、その自由で活動的な授業が、セイゴオの探索力や表現力や行動力に大きな影響を与えたようだ。

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取り壊される前の、セイゴオが学んでいた校舎(「京都の小学校」より)

Q:修徳小学校跡地を訪ねてみて、当時のまま残っているものは何か見つかりましたか?

S:何もなかった。校庭にみんなでメタセコイアの木を植えたことを思い出したんだけど、それも残ってなかった。修徳小学校の校舎も校庭も大好きだったので残念だよ。あの空間、あの空気感。油でモップをかけてつやつやになった木の廊下の匂いとか、今でも蘇ってくるんだけど。もちろんぼくは3年生の半ばまでは日本橋の東華小学校にいたし、東華小学校の校舎もすばらしかったけれど、ぼくにとっての校舎、校庭は、やっぱり修徳小学校だね。

Q:修徳小学校のなかで、いちばん好きだった場所はどこですか。

S:そうだねえ。標本室とか保健室とか音楽室とか。標本室には骸骨の模型とか鉱物や化石の標本とかチョウチョや虫の標本があった。それと理科室にあるような実験道具の一部が置いてあった。小学校だからどれもちょっとずつしかないんだけど、ぼくの模型好き、標本好きのルーツはあの標本室にあったよ。それから作法室といって畳の部屋もあった。畳は珍しいものじゃないけど、学校のなかに畳がある風情がよかった。
 それとなんといっても図書室かな。そういえば5年生か6年生のときに図書委員をやっていた。それでしょっちゅう図書室に行ってた。

Q:図書委員って何をしてたんですか。

S:さてね。何をしてたんだろうね(笑)。確か、返却された本がいっぱい積んであって、それを棚に戻したり、閲覧カードを本に戻したりしてた記憶がある。そうそう、ぼくは閲覧カードを見るのが大好きだった。カードを一枚一枚見て、この本は誰が借りてたのかなとか見てたんだろうね。
 もちろん本もよく読んでたよ。『三銃士』とか『トム・ソーヤの冒険』とか『ハックルベリー・フィン』とか、シャーロック・ホームズのシリーズとか。いかにも男の子向けの本ばっかりだね(笑)。そういう本は母が買ってくれなかったんだよ。母が買ってくれるのは、名作を子供むけに編集した本とか、偉人伝とか、世界一尽しのシリーズ、ナイヤガラの滝とかサハラ砂漠とかが紹介されている本だった。

Q:修徳小学校の近くの大喜書店は残ってましたね。松岡さんが初めて本を買った書店ですよね。

S:自分で買ったというよりも、吉見先生が学級文庫をつくって、「好きなものを買っていい」と言ってくれたんだ。教室のなかにガラス戸のついた本棚があって、そこにクラスのみんながそれぞれ選んだ本が置かれていた。ぼくが選んだのは『太閤記』とか『砂漠の女王』とか『鉄火面』。偕成社か講談社の児童文学のシリーズだった。あとは「ミツバチのひみつ」とか「セミの一生」といった本だったかな。京都の自然に触れて、虫や鉱物を採集したり探究することに急速に目覚めてた時期だったからね。

Q:虫や鉱物への目覚めは吉見先生の影響も大きかったんでしょうね。

S:ものすごく影響を受けた。先生のことは千夜千冊の『虫をたおすキノコ』(461夜)にくわしく書いたように、南方熊楠の弟子の弟子で、のちに日本一のキノコ学者になった人だった。腹菌類の専門家だね。もちろん大の自然派で、雪が降れば雪合戦、夏日であればみんなで水浴び、雨が降れば泥遊びをさせてくれた。
 だから図書室にもよく行ったけど、放課後はむしろソフトボールとかドッジボールとか、S形という陣地ゲームとかばかりやっていた。だいたい吉見先生は子供たちを教室のなかでじっとさせておかない先生だった。「子供は風の子やろ」と言ってね。

Q:それでも松岡さんは転校してから吃音になったんですよね。なかなか京都弁になじめなかったんでしょうか。

S:東京弁をはやされたりしたからね。でもそんなことが深刻だったとは思えない。吃音になったのはどうしてかなあ。
 それより弱ったのは、杉山依子ちゃんという子と愛愛傘に名前を書かれたり、しょっちゅう「杉の木、松の木、サンショの木」ってはやされたりしたこと。べつにその子と何かあったわけじゃないし、ただ「杉」と「松」でゴロがいいからくっつけられたんだね。子供たちって他愛もないことですぐ人をはやすでしょう。まあでも、それもべつに悩むほど弱ってたわけじゃない。
 ぼくはすでに、いちばんおもしろいもの、いいものにだけ反応するように育てられていた。嵐山がいちばんきれいに見える午後の光とか、法然院の椿とか、お母さんの微笑とかね(笑)。父の一流主義と母の想像力、大好きになった京都に包まれて、学校で何があったからとか、何を言われたからって、そんなにぐらぐらと揺らがない子供になっていた。
 ぼくにはいまだに、いじめるとかいじめられるとか、誰かを許せないとか悔しいとか、悪意を持つとか持たれるとか、そういう感情がまったくないんだ。がまんして抑制しているのではなくて、もともと、ずっと、ない。
 
Q:松岡さんは精神年齢のすごく高い子供だったんでしょう。京都で2番目か3番目くらいだったんですよね。

S:当時、精神年齢テストというのがあってね。ぼくは京都で3番目に精神年齢が高い子供だったらしい。どういうテストだったかよく憶えてないけど、IQテストとはちょっと違っていたと思う。京都が率先して導入したけど、その後中止されたと聞いている。
 テストの結果のことは、吉見先生がうっかりぼくにしゃべっちゃったんだよ。先生はぼくがクラスのなかでいじめられていると思って、慮ったつもりだったんだろう。あるとき一人だけ呼び出して、「お前がいじめられるのは、この前のテストで京都で3番という成績やったからや。やっかまれてるんや」みたいなことを言った。

Q:えっ、松岡さんやっぱりいじめられてたんですか。

S:そうじゃなくて、先生のいう「いじめ」というのは、「杉の木、松の木」の一件のことだよ。先生が何か過敏に考えすぎたらしい。だから先生からそういう言われ方をして本当に困った。だいたいぼくは何かに集中したり熱中したりするのが好きで、努力家のほう。なのに、「もともとみんなとはデキが違うんだ」みたいなことを言われても、うれしくないよね。だいいち、それを何に生かせばいいのかもわからない。
 その後、何に夢中になっているときも、そのこと(精神年齢)となんの関係も感じなかったし、その後引きずったりもしなかったけどね。あんなことは聞かされたくなかったね。

Q:でも学校の成績はよかったんでしょう。

S:そんなことないよ。成績はだいたいクラスで3位から5位。なにかの科目でトップだったというのも、高校のとき国語がずっとトップだったことを除いては、まったくなかった。
 ぼくよりも妹のほうが優秀だったよ。小学校の卒業式で総代をやったくらい、ほとんどトップだった。妹は与えられたことを徹底的にマスターするタイプで、おとなになってからも、パソコンでもプログラミングでもすぐにこなしていた。ぼくなんて、つるかめ算がまったくできなくて、半泣きになって母親に教えてもらってたよ。いまだに暗算がヘタだしね(笑)。

Q:つるかめ算が苦手だったんですか。松岡さんからそういう話を聞くとなぜかほっとします(笑)。では、松岡少年は何が得意だったんですか。

S:解釈力と想像力はものすごく進んでいたと思う。それから一人遊びを工夫するというのが得意だった。それと、やっぱり自分で問題をつくって自分で解いていくようなこと、かな。だから夏休みの自由課題とか工作とかは、がんばってたよ。反対に妹はそういうクリエイティビティが苦手だったから、いつもぼくがやることをマネしていた。
 小学校5年のとき、自由課題で「日本列島の姿」という一冊本をつくった。白い紙を重ねてそれを彫りこんで等高線を作ったり、ページを開けて行くと川から見る日本とか、産業から見る日本とかが見えるようにした。そうしたら、妹もそれとそっくりなものを作って提出してた(笑)。

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修徳小学校の沿革を記す記念碑

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元校庭は市民公園になっていた。
「古いポンプだね。これは当時のものかなあ」。

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「確かここにみんなでメタセコイアを植えたんだけど」。

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学級文庫づくりのために通った大喜書店。
アルミサッシに変わった以外は、店構えも看板もほぼ当時のまま。

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吉見昭一先生と、4年ろ組の生徒たち。
1列目左から四人目の斜め後ろがセイゴオ。

投稿者 staff : 22:31


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セイゴオちゃんねる更新200回記念特別企画
セイゴオ回郷―京都篇(二)

■母との蜜月時代―綾小路室町の家

 京都に生まれながら京都を知らないまま、尾鷲、日本橋、鵠沼を転々とさせられたセイゴオは、1949(昭和24)年、日本橋人形町の東華幼稚園に入学。めざましい復興を遂げる東京で、松岡一家はようやく4人家族が一つ屋根で暮らせる安定期に入りつつあった。翌年には東華小学校に入学、すっかり東京弁を身につけ、メンコや凧あげや童話や絵本に夢中な日々を送っていたセイゴオに、またしても父の方針で転機が訪れた。1952(昭和27)年7月、母とセイゴオと妹の3人だけが、京都に戻ることになったのである。
 住まいは綾小路室町。親戚の帯屋の小泉商店に間借りして、母子3人のつつましい京都暮らしが始まった。父の不在という不安定を抱えながらも、セイゴオはたちまち東京とは対照的な京都の自然や文化に親しみ、あふれる好奇心を満たすことに忙しい少年時代の輝きを獲得していった。それはまた、大好きな母との蜜月時代でもあったようだ。

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セイゴオ母子が間借りした小泉商店は立派なビルに建て替わっていた


Q:京都に戻ってきたのは8歳のときですよね。子どもごころにとって京都はどんな印象でしたか。

S:それはもう衝撃だった。美しかった。焼け跡の東京というのは、日本一破壊された風景だったからね。京都は街並みもすべて残されているし、すぐそこに山があり川がある。東山なんて春夏秋冬、朝も昼も夕方も色が違う。ホタルもいるし、セミも鳴く。驚いたよ。母も「お前は京都へ戻って変わったね。よかったね」とよく言っていた。「こんなに自然があってよかったね」と。
 でも、きっと京都に戻れていちばん母が喜んでいたはずだ。母は京都が大好きだった。ぼくはきっとそんな母に感応して、そういう様子を見せていたんだろうと思う。

Q:お母さんと松岡さんと妹さんが間借りした小泉商店が、いまも同じ場所に残ってましたね。

S:でもビルに建て替わってたからね、やっぱりなんの感慨もないよ(笑)。隣の奈良漬屋さん(田中長)は変わってなかったけど。ぼくたちが住んだのは、小泉商店の裏のわずか一間か二間の小さい部屋だった。ときどき父が京都に帰ってきたけど、いっしょに寝るスペースもなかった。きっと、そのころ父の商売はうまくいってなかったんだろう。なんとかしようと思って、とりあえず家族だけを先に京都に戻したんじゃないかな。

Q:お父さんとはどれくらい離れ離れだったんですか。

S:高倉押小路の家に移るまでの2年くらい。でも当時はそんなことはまったく気にならなかった。きっとどこかでは不安は感じていたんだろうけど、すぐに京都での暮らしになじんでいったしね。それに、父がいつも必ずお寿司とかケーキとか、おみやげを持ってきてくれるのが楽しみでね。鵠沼のころもスイカを下げて訪ねてきた父のことを、よく憶えてるな。なんだろうな。このころの父のことは、「あばらかやん、えっせんらん」という“あやし言葉”と、おみやげのことばっかりよく憶えてる(笑)。

Q:お父さんは子煩悩だったんですか。

S:礼儀とか作法には厳しかったけど、ぼくのことを溺愛してたと思うね。ぼくをよくベロベロ舐めた(笑)。体を触りたがるし、しょっちゅう肩車をしてくれた。スキンシップなんていうときれいごとすぎる。もっと猛獣が子供をベロベロ舐めるような感じ(笑)。両親は晩婚だったからね。結婚したときに父はもう40歳に近いか超えてたか、母も35、6歳だった。
 父は仕事熱心で遊び熱心だったけど、家をほったらかしにする人ではなかった。一言でいえば、豪胆な人だった。にぎやかなことが大好きで、自分はあんまり酒を飲まないけれど、誘われればいつも応じていた。でも、ずるずるだらだらするのが嫌いで、わっとその場を盛り上げて、ぱっと切り上げる。家族やぼくに対しても、いつもそんなふうにしてたよ。だから帰ってきても、ぼくをひとしきりベロベロ舐めたら、ぱっと切り上げる(笑)。

Q:お母さんはどういう人だったんですか。

S:母はほんとうにやさしい人で、ものすごく頭がよかった。文章も俳句もスケッチも水彩画も書もうまくて、創造力がすぐれていた。女学生のときにラジオのドラマコンクールで優勝したくらいの人だったよ。父とはある意味で正反対の価値観をもっていた。母は徹底して自然派で、写生派。父は完全に人工派だった。これは父と母の俳句の出来で、よくわかる。
 父は洋服も食べ物も好みも、本物、一流のものでないと気がすまない人だった。店員の前掛けは本藍染、自分の洋服は英国屋、ホテルは帝国ホテルというふうに。母はそういう権威にはまったく関心がない。イマジネーションに生きている人だった。非常に澄んだ人だった。父のことを馬鹿にはしてなかったと思うけど、多少合わないところもあっただろうね。

Q:そんなに対照的な夫婦だと、ケンカをすることとかなかったんですか。

S:母は決して口ごたえしたりグチを言ったりする人じゃなかったけど、とにかく表現力が豊かで、いつもなにかがあふれていた。それがなにかのときに、父には気に入らないこともあったようで、そういうときには父は厳しく叱っていた。なにせ「蚊帳を吊るときは蚊帳になれ」「飯をつくるときは飯になれ」というのが父の美意識だからね。母はちゃんと心得てはいたけど、「はい、はい」と適当にあしらうようなことができない人だった。父にはそれが見えてしまうんだろうね。
 母は普通の主婦でおさまるのはもったいないような女性だったんだよ。それに、子供にとってはこんなに慈愛に満ちた、きれいな人はいない。ぼくの誇りだった。

Q:松岡さんのほうがお母さんを溺愛してました?

S:かなりね(笑)。ぼくの根本的な問題は、母がいないと悲しくてさびしくて、どうしようもなくなることだった。台所にいるはずの母の姿がちょっと見えないだけでも、もうだめだった。むちゃくちゃにメソメソになった。母が死んだ夢を見て、泣いて目が覚めるということが何度もあった。母の不在は子供のぼくにとって徹底的な寂漠だった。
 どうしてそんなにも母を失うことを恐れてたんだろうね。たんに「お母さんだから」という理由だけだったと思えないんだよ。
 母の言葉にも描く線にも鉛筆の削り方にも、にこっとした微笑にも、なにか永遠に失いたくないような澄明さを感じていたんだと思う。レオナルドのマリア像とか、ベルニーニの彫刻とか、オキーフの花とか、常盤津の艶やかな声を聞いたときに、「ああ、これはいいな」と感じ入るときがあるでしょう。ぼくはそれに近いことを、母に対して感じていたんだろうな。

Q:男の子はみんなそんなふうに母親像をもっているんでしょうか?

S:そういうものなんじゃないかな。普通は。やがてそれが誰かほかの女性に移行していくはずなんだけど、ぼくの場合はなかなか移行できなかった。たとえば、東京から京都の修徳小学校に転校したとき、担任の竹原恵美先生がすぐ好きになった。眼鏡を掛けてて、とてもきれいな歯でにこっと笑ってくれる。その「にこっ」が、とても母に近いと思った。でもそのうち、やっぱりどこかお母さんとは違うと思っちゃうんだね。そうするとまた母に戻ってしまう。そんな調子で、なかなか母を凌駕する女性が出てこない。
 母が永遠のマドンナだなんて、女性たちからすると困るだろうね(笑)。
 

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隣の奈良漬屋・田中長は当時とまったく変わらない店構え

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「ああ、この匂いが懐かしいねえ」。田中長の店内で。

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そのころこの綾小路の一画は空地で、サーカスや相撲巡業をやっていたという。

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3~4歳ごろのセイゴオ。父、母、妹と。

投稿者 staff : 14:02

2008年1月10日


Report セイゴオ回郷―京都篇(一)


セイゴオちゃんねる更新200回記念特別企画
セイゴオ回郷―京都篇(一)

 2007年末、当「セイゴオちゃんねる」は200回目の更新を達成しました。これを記念して、特別企画「セイゴオ回郷―京都編」をお送りします。セイゴオが、生まれてから15歳までを過ごした京都のゆかりのトポスを訪ねながら、当時の思い出や心境を語る当サイトならではの企画です。これから全7回に分けてお届けします。


■出生の地、横田病院を訪ねて

 一億総進撃の大号令が喧しい太平洋戦争まっただなかの1944年1月25日、セイゴオは、父太十郎・母貴久の長男として、中京区富小路の産婦人科・横田病院で生まれた。「ぼくは戦中生まれ」をしばしば口にするセイゴオだが、むろん赤ん坊だった当時の記憶があるわけではない。それどころか、生まれてまもなく父の方針で東京日本橋に移ってしまったために、セイゴオの原初の記憶は戦後の焼け跡の日本橋から始まっているのである。
 原初の記憶から京都が消えてしまったセイゴオにとって、横田病院こそは京都生まれという事実、そして戦中生まれという事実をつなぎとめる貴重なトポスだ。
 京都を離れてから約半世紀になろうとしているセイゴオが、初めてその出生地である横田病院を訪ねてみた。幼少時に父母から聞かされた記憶や、京都の友人の情報を手掛かりに、ようやく探し当てたその場所は、錦市場のすぐ近く、柳馬場と蛸薬師通の交差点に位置していたが、残念ながら横田病院は7年前に閉院し、消え去っていた。セイゴオの記憶に残るレンガ造りの建物もなくなって、その跡地には武田クリニックという看板を掲げた白いタイル貼りビルが建っていた。

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往時の横田病院を知る住民に話を聞くセイゴオ


Q:出生の地、横田病院を訪ねてみて、どんな感慨がありました?

S: その横田病院がなくなってしまってたからね。立て替わった建物を見ても、感慨なんてないよ(笑)。たしか黄色っぽいレンガ色の建物だった。もちろん生まれたばかりの記憶はないから、あとから「ここが正剛の生まれた病院よ」と言われたりしたときの記憶だね。小ぶりの産婦人科病院だった。たいへん評判のいいお医者さんだったようだ。街並みもだいぶん変わっていた。もちろん京都だから、ほかの町に比べれば、まだまだ昔の面影は、それでも残っているんだろうけれど。

Q:松岡さんが生まれたときのエピソードはありますか。お父さんやお母さんからいろいろ聞かされた話とか。

S:それがね、あんまりないんだ。父も母も、そのころのことをあまり語りたがらなかった。なんといっても、ぼくが生まれたのは昭和19年でしょう。日本が南方戦線で負け続けて、それでも戦争をまだやめられないという、日本史上でも最悪の年だった。父も母も余裕のあることなんて何もできなかったんだと思う。「お前を負ぶってどうのこうのした」とか「大変やったんやで」といった話くらいしかしなかった。
 それにしても、父と母がどこで結婚したのかも聞いていないし、ぼくが生まれたとき、家がどこにあったのかも知らない。ただぼくが横田病院で生まれたということしか知らないままなんだ。うっかりしてたよ。ちゃんと聞き出しておけばよかった。
 母は殿定という大きな老舗呉服店の娘だった。もとは池田といった。父は近江長浜の出身だった。父も京都を大変愛したけれども、やっぱり京都の町屋の雰囲気は、母がもっているものだった。だから横田病院を選んだのはきっと母だったんだろう。

Q:松岡さんは京都に生まれたけれど、すぐに東京に移ったんですよね。

S:それが1歳くらいだったか、1歳半くらいだったか、やっぱり正確にはわからないんだけど、東京に行く前に、母と二人で尾鷲(三重県)に疎開していた。結果的に京都は爆撃されなかったけど、当時は京都も危ないと言われていたからね。赤ちゃんに焼夷弾が当たったら大変だというんで、たぶんぼくが生まれてすぐに父が疎開させたんだろうな。
 で、日本が敗戦して、すぐに東京の日本橋芳町に移った。どこもかしこもまだ焼け野原で、闇市がどんどん立ち並んで、車が乱暴に走ってまだ荷馬車もパカパカ町を動いていた、誰もが殺気だっているような状況だった。ぼくの記憶はそのあたりから始まっている。それ以前の記憶はまったくないんだ。

Q:なぜお父さんは、そんな殺伐とした東京に移る決心をされたんですか。

S:父はものすごいやり手だったから、たぶん焼け跡の東京で一旗あげて生き抜いていこうと決心したんじゃないかな。それでいったんは京都を捨てる決心をしたんだろう。で、何人かの若い仲間たちと芳町に呉服店を構えた。でも、そんなところでは子供をちゃんと育てられないと思ったのだろう。それで今度は母とぼくと二人だけで湘南の鵠沼に住むことになった。日本橋の東華幼稚園に入る前までのことだから、鵠沼にいたのもほんの1年か1年半くらいかな。そのころ妹の敬子が生まれた。
 そんな調子で、ぼくは生まれてしばらく、まったく居所の定まらない数年を送っていたわけだ。でも当時の日本では、田舎の人たちを除けば、みんなそういう状態だったんだよ。

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横田病院跡地に建つ武田クリニックの前で

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セイゴオ一歳のころ

投稿者 staff : 18:18

2008年1月 7日


News セイゴオの初講話は曇り空


 2008年1月7日、年末28日の納会後10日ぶりに編集工学研究所・松岡正剛事務所のメンバー全25人が一堂に会して、恒例の年始の儀が行われた。枡酒で乾杯し、各チームリーダーが今年の抱負や指針をスピーチしたところで、セイゴオからもとっておきの初講話。ただし、新著『誰も知らない世界と日本のまちがい』をふまえての時代予測に始まったその内容は、スタッフたちのハレの気分を一気に脱色するような、緊張感に満ちたものだった。

 「2010年まではまだまだ日本は悪くなる。新自由主義はますます進み、政治も社会も文化もことごとくオーダーを失っていくだろう。すべての価値観は平均化され定番化され定常化されていくだろう。」
 
 セイゴオの暗澹たる時代予測を振り払うためなのか、専務・大村巌のはからいで、例年ならばこのあと全員で近所の氷川神社に行くところを、今年は山王日枝神社に切り替え。すでに元日に同神社に初詣出をしたというセイゴオには二度目の日枝詣りとなったが、正殿前で丁寧に手を合わせ、何ごとかを念じていたようだ。

 ちなみにこの日から、都内のタクシーは一斉に禁煙となった。そのことも、セイゴオの年始の気分に影を落としているのではないかと、スタッフたちはひそかに噂をしている。

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投稿者 staff : 19:59

2007年12月28日


Report 連塾・絆走祭「浮世の赤坂草紙」フォトダイジェスト


 12月22日冬至の日、連塾第二期「絆走祭」は赤坂の草月ホールで大団円を迎えました。外題は「浮世の赤坂草紙」。ゲストは、アートディレクターの浅葉克己さん、ミュージシャンの井上鑑さん、服飾デザイナーの植田いつ子さん、インテリアデザイナーの内田繁さん、場の研究所所長の清水博さん、漫画家のしりあがり寿さん、邦楽家の西松布咏さん。
 本来の浮世でも、また憂世ですらないかもしれない最近の日本に、せめてひとときの浮世草紙を結びたいという願いをもってこの日を迎えたセイゴオ。意匠・文様・戯画・音曲をつぎつぎに連打しながら、連塾で一貫して見世事にしてきた「日本という方法」を、いっそう絢爛な序破急に仕立てました。
 会場の草月会館は、舞台はもちろんのこと、ロビーもホワイエも、総勢60人のスタッフ・関係者が手を尽くして連塾仕様にしつらえ。2003年7月にカナダ大使館で開催した連塾第一回から、今年6月築地本願寺で開催した通算第11回までのクロニクル展示やダイジェストビデオ上映、来年からはじまるセイゴオ好みのモノづくり「時分」の第一弾として「組子の手文庫」と「印染の風呂敷」も特別披露。
 さらにまた、年末にもかかわらず過去最多の320人もの参加者が集い、7時間の長丁場を驚くべき集中力と感度で堪能している様子が、「乱世に巌根を繞らしたい」と息を巻いていた亭主セイゴオにはなによりも快心の出来事だったようです。

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連塾コンテンツがびっしりつまった80ページの特製ファイル。
参加者一人一人のお名前入り。

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ホワイエには過去11回分の連塾集合写真も並んだ。
のべ2000人近い塾生の顔ぶれが圧巻。

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舞台上には、セイゴオの書斎の本棚の一角が再現された。

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草月会館の歴史を象徴する緞帳に、草紙の文字が投影される。
藤本晴美さんによる大胆な演出。

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開幕を告げる金子郁容さん、黒澤保樹さん、新宅正明さん。
この3人がセイゴオに連塾という大プロジェクトを決断させた。

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ステージ奥の搬入扉がゆっくり開き、赤坂の街並みからセイゴオが登場。
前代未聞のオープニング。

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冬至の意味とその背景にあるオシリスとイシスとセトの神話をかわきりに、
浮世草紙をひもとく。

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内田繁さんとともに、昨今のデザイン界に一撃を加えつつ、
「弱さのデザイン」という一枝を立てる。

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しりあがり寿さんと、代表作『弥次喜多in DEEP』の
シュールな「ふりだしの畳」を、セリフ読み。息もぴったりで妖しげ。

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「誘導合致」「懸待一如」など、生命科学と日本論を重ねる清水博さん。
来場者の多くが、わずか30分の「講義」に胸を打たれた。

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めくるめくトークと映像で、客席の集中力とテンションもどんどん高くなる。

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口三味線の「年の瀬」でたちまち会場を魅了した西松布咏さん。
地唄「伽羅の香り」など絶品な4曲を披露。

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セイゴオ好みの逸品を制作中の若き職人もステージに。
秋田の木工職人・高階隆志さんと京都の印染め職人・掛札英敬さん。

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組子の手文庫「SUKIYA」と「RANGA」。
印染め風呂敷の「旬」と「色」。

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「交歓おつまみ連餉」タイムでは、冬至にちなんだ軽食と、
ご近所・豊川稲荷の家元屋の稲荷寿司が供された。

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緞帳前に福原義春さん(左)と小堀宗実さん(右)が登場して、
縁側談義のような日本語りで第2部開演。

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卓球120本打ちから始まった、浅葉克己さんによる、
汗だくのタイポグラフィック・ショータイム。

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4時間を費やして仕込んだドレープを傍らに、
知られざる日本のオートクチュールを静かに語る植田いつ子さん。

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「黒織部」「Return Home」「Soundings」をソロ演奏する井上鑑さん。
プロたちがこぞって憧れる超絶的なアレンジがホールを包んだ。

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ラストのセイゴオ・ソロトーク。
「グローバリズムの直植ではなく、苗代という方法を取り戻したい」。

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締めは本邦初披露の、「踏旬歌集(=冬春夏秋)」。
作詞・松岡正剛、作曲・井上鑑。

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ステージ前に全出演者と全来場者が並んで、
中道淳さんによる恒例の連塾集合写真撮影。


◆これまでの連塾絆走祭レポートもあわせてご覧ください。
第一祭「数寄になった人」 2006年7月22日 時事通信ホール(2006年7月25日記事)
第二祭「風来ストリート」 2007年1月27日 明日館(2007年2月2日記事)
第三祭「牡丹に唐獅子」  2007年6月16日 築地本願寺(2007年7月3日記事)

撮影 川本聖哉

投稿者 staff : 23:47

2007年12月12日


Report 「森の奥なる柔らかきもの」


南方熊楠のネンキン問題と賞味期限問題

 12月8日、セイゴオが「森の奥なる柔らかきもの」と題して南方熊楠(1867~1941)について2時間のソロトーク(会場は南青山の梅窓院)。ワタリウム美術館で会期中の「クマグスの森」展の特別企画である。セイゴオは2005年にもワタリウムの依頼で熊楠について講演をしており、そのときは、柳田国男や折口信夫との民俗学の「方法」の違いによって熊楠の独自性をクローズアップした。
 今回は、「クマグスの森」展で展示中の膨大なスケッチなどを紹介しつつ、とくに粘菌の研究に没頭した熊楠の視点をセイゴオ流に読み解いた。

 冒頭、「今日の話はネンキン問題です」と観客を笑わせたセイゴオ、続いて熊楠は少年のころから「モーラの神」と出会っていたのではないかと聞きなれない言葉を語り始めた。「モーラ」とは「網羅」のことで、セイゴオの編集工学の奥にある、“夢中な網羅精神”をさす。じつはセイゴオの網羅精神は、小学校時代の恩師・吉見昭一先生からの影響だった。吉見先生は、日本を代表するキノコ学者であり、南方熊楠の孫弟子だった。セイゴオ少年の「モーラの神」は、熊楠少年の「モーラの神」と遠縁だったのである。

 熊楠のきのこ、粘菌を含む菌類図譜は約10000余点に及ぶ。そのうち約3000点は彩色がほどこされ、単なるスケッチではなく美しい絵として完結している。また、襞一枚一枚、胞子一つ一つまでを精緻に描き、余白を埋め尽くすように小さな文字で視覚、味覚、触感などを書き連ねている。
 そこには「今日の科学は因果は分かるが縁がわからない」と言った熊楠の科学に対する姿勢が滲み出ている。すべてを網羅し、すべてを筆写する。それによって観察している世界の分岐や結節を自分で体験していく。熊楠はつねに自分の関わりごと対象を把握して、周りとの関係性ごと理解していたと語るセイゴオ。

 では、なぜ熊楠は、とりわけ粘菌に夢中になったのか。粘菌は、いまも動物か植物かをめぐって議論のある謎の生命体である。その“生活”を観察すると、驚くべき変性のドラマを展開する。おそらく熊楠は粘菌を網羅することで、変遷し循環しつづける「森」そのものと向き合っていたのだろう。
 それはまた、海外留学で培ったグローバルな知識を携えて、ローカルな熊野の森に分け入った熊楠の姿とも重なる。熊楠にとって「世界」は「熊野」と相似であり、「熊野」は「粘菌」と相似だった。
 熊楠は、ドクター・ユニバーサルと呼ばれたライプニッツの言葉「一切知」を掲げ、森羅万象を関係づける「南方マンダラ」を構想した。その複雑によじれ重なりある世界線の真ん中には、「生命」と「物質」をつなぐものとして「萃点」が書き込まれている。熊楠の世界は、萃点に向かってすべてが集中し、萃点からすべてが発生する。
 まさにそれは、熊野の森の粘菌である。
 こうしてセイゴオは、さまざまな映像資料も使いながら、熊楠が凝視した「ネンキン問題」を提示して、講演を締めくくった。

 それから6日後の13日夜、今度はNHK教育テレビ「視点・論点」に出演、再び「クマグスの森」について語った。故郷の田辺に暮らし熊野の森に入って、グローバリズムを体現した熊楠、粘菌を追究することで生命宇宙の循環を見つめ南方マンダラに行きついた熊楠。番組の最後にセイゴオは、人為的な賞味期限ばかりを問題にする日本は、このおおいなる循環を忘れているのではないか、と指摘した。

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投稿者 staff : 11:48

2007年11月28日


Report 田中優子×セイゴオ対談「日本を語る」


 11月12日(月)、田中優子さんが5年にわたって塾長をつとめている「神田明神塾」にセイゴオが出演、今期の締めくくりを二人でぜひという田中さんからのたっての希望で、「日本を語る」をテーマに縦横無尽の対談が行われました。
 最初に、「今日は全部ひっくるめた日本を徹底的に話したい。松岡さんの雰囲気にすっと入り、頭をめぐらして聞いて下さい。知識を超えたなにかが伝わると思います」と、1年間熱心に通い詰めた120人の塾生たちに語りかける田中さん、紫紺の着物も艶やかに、絶品のナビゲーションでセイゴオの紹介から話を始めます。

■セイゴオ流「場の編集術」
田中:10年前にライプツヒ大学の日本学部長に頼まれて「松岡正剛論」を書いたとき、松岡さんのことを知らないドイツ人に紹介するために、「平安遷都1200年記念フォーラム」(1994年)のことから始めたんですね。
セイゴオ:あの「松岡正剛論」には驚きました。ぼくのことをぼく以上にうまく書いてくれた(笑)。
田中:2年間かけて「もてなし」「ふるまい」「しつらい」をテーマに3つのフォーラムを行って、最後に宝ヶ池の京都国際会館で3日間のグランドフォーラムがあったんですが、すべて松岡さんが総合監修された。
セイゴオ:グランドフォーラムには田中さんにも出演してもらいましたね。
田中:「みやび」をテーマに、いろんなジャンルの方々が出演するセッションが5つほどあったんですが、いちばん驚いたのが、書家の今岡徳夫さん、華道家の川瀬敏郎さん、陶芸家の樂吉右衞門さんが出演したセッション。松岡さんは最初に書家の今岡さんを登場させましたね。しかもその場で大きな紙に書を描くところからスタートした。
セイゴオ:大きな筆でね。確か最初は「宴」という一字を書いてもらった。今岡さんは当時京都を代表する前衛書家で、あのとき使った墨には大量のボンドを混ぜていた。
田中:あんなふうに書家が大きな紙と格闘する姿に驚きました。「みやび」を伝えるために松岡さんはこういう仕掛けをするのか、と思った。で、そのことをドイツ人のための論文に書いたわけです。
セイゴオ:書というのはまさに「場」の世界なんですね。「伏仰」といって、筆を運ぶときに必ず「伏せて」、筆を返して「仰ぐ」んですが、それは日本の「場」の作り方そのものなんです。ぼくはあの会場に、どうしても「場」を作り出したかった。
田中:今岡さんは「宴」の次に「遊」を書いて、最後に「雅」を書かれましたね。その次に樂吉左衛門さんが登場した。てっきり茶碗の話をするのかと思ったら、しばらく松岡さんと書の話をされました。あのあたりも、まさに“その場”ならではの連続性があった。
セイゴオ:うん、うん。樂さんも今岡さんに触発されてましたね。
田中:そうして、最後に川瀬敏郎さんが出てきて、その場で花を立てた。それがまたすごくて、竹と椿だけを使って、「真」と「草」を立て分けた。みごとでしたね。3人のアーチストを迎えて、この順番でこの流れで展開しながら「場」がつくられていく。「これが松岡さんの編集なんだ」と感じました。照明の演出も徹底してましたね。

■「おとづれ」を待つために「席」を空ける
田中:松岡さんのイベントには私もよく出させていただきますが、いつも出演者がたくさんいらして持ち時間がせいぜい10分とか20分とか、とても少ないんです(笑)。でも、出演者の一人一人が松岡さんの編集によって「場」を作っている、そのような「場」に自分もかかわっているということをすごく感じるんです。
セイゴオ:ぼくがフォーラムやイベントを演出するときは、「乗りかえ」「着がえ」「持ちかえ」をすごく重視してるんですね。テーマだけが大事なのではない。むしろそこにどのように乗るのか、何を持ち出すのか、どういうモードに着替えるのか、その組み合わせ方が、まさに「日本という方法」だと思っている。
田中:松岡さんは『知の編集工学』に「あらかじめ決められたところに話をもっていくのは談合だ」と書いてましたね。私もつい対談やシンポジウムでは、筋書きを全部考えるような準備をしてしまう。松岡さんによく「それだけはやめたら」と言われました(笑)。
セイゴオ:準備はしていいんですよ(笑)。ぼくも準備はしつこいほどやる。でもそうしたうえで、それを捨てたほうがいいんです。そうすると自分でも予想していなかった展開が向こうからやってくる。
田中:まさに神様が降りてくるように。
セイゴオ:そうです。まさに何かがやってくるために「席を空ける」。これは日本の最大の編集術です。西洋ではゲストとホストの席はつねに決まっていますが、日本では状況に応じて席が変わる。「人の文化」「神の文化」と「席の文化」を組み合せていくんです。
田中:イベントも祭りも、なにかが訪れるための場をそこにかかわる全員でつくっているわけですね。
セイゴオ:「後成的風景(こうせいてきふうけい/エピジェネティック・ランドスケープ)」という言葉があります。これはウォディントンによる生物学の用語ですが、日本文化を説明するときによく使うんです。まさに準備されたものが組み合わさって、場の中で後成的にストーリーやイメージが作られていく。ぼくはいつだってそういう「場」に浸っていたいんです。

■江戸と科学の縁側文化
田中:松岡さんは今のように、日本を語るときにもよく科学の用語を使われますよね。
セイゴオ:意識的に使っているところがある。ぼくにとって、文化を考えるときに科学からヒントをもらっていることがすごく多い。もちろんいろんな国の神話などから学ぶことも多いんですが、科学と神話はどこか似ているところがある。
田中:江戸の国学者も日本を考えるときには、まず言葉にこだわった。でもいま日本のことを考えている人々は、あまり日本語のことを考えなくなってますね。
セイゴオ:グローバルスタンダードな概念やカテゴリーだけを使いまわししているもんね。
田中:日本語だけを見ても、ずいぶんおもしろいことがたくさんあるんです。たとえば「縁側」というのは言葉そのものであり、目に見える空間でもある。こういった感覚の「縁側」がないと、江戸文化そのものも成り立たないんです。
セイゴオ:まさに江戸は縁側だらけですからね(笑)。
田中:たとえば「自分を縁側状態にしておく」という言葉があります。するとそこにふっと誰かが入ってきて、かかわりが生まれて、物事が起こっていく。
セイゴオ:じつは、いまそういった縁側感覚と先端科学が近づいてきてるんですよ。「複雑系」の科学を扱う研究者たちのあいだで、「カオスの縁(ふち)」という言い方もされるようになっている。たとえば、あんなに巨大なジャンボジェット機が、ビス一つ緩むだけで落ちてしまう。ほんの小さな部分に起こったことが、全体に影響を及ぼしてしまうわけです。
田中:おもしろいですね。まさに縁側の出来事が大きな物事を動かしていくんですね。
セイゴオ:しかもそれが文化や感覚の問題だけではなく、たとえば宇宙のでき方といった大きなシステムにおいても重視されているんです。

■主語的自己から述語的客観へ
田中:「自分を縁側状態にする」と、言うのは簡単ですが、実践は難しい。自己意識もあるし価値観もある。どうしても「私」という個人がいることが気になります。よく松岡さんは主語的なものよりも述語的なものが大切だとおっしゃいますが、どうしても主体を捨てきれない人間が述語的になるにはどうすればいいんでしょうか。
セイゴオ:「私のものだ」と決められる範囲は、自分が思っている以上に少ないことを自覚することです。30年くらいまえに、NHKが「松岡正剛の世界」という特集番組をつくってくれたことがありましてね。そのときにぼくは、うんこの話をして(笑)、主体から離れてトイレで流されていくうんこを、いつまで「自分のもの」と言えるかと問いかけた。
田中:ふつうは「自分のもの」なんて主張しません(笑)。
セイゴオ:これは汗や涙などでもいえることで、もっといえば言葉もそういうものではないですか。思想も意思も愛情もそうではないですか。それが「私のもの」である時期は確かにありますが、いつまでも主体が離さずにいると他者には伝わりません。だから「私」すらも、述語的なものにゆだねることが大切だと思うんです。
田中:まさに縁側の存在学ですね。

■翻訳不可能な日本語の「主語」
田中:もともと日本語というのは、文章になったときでもあえて主語を省きますね。ところが翻訳されたものを読むと、かならず「I」とか「He」と書いてある。たとえば芭蕉の連句(『猿蓑集』)にある「ただ突拍子に長き脇差」といった言葉は、「ただ突拍子もなく長い脇差だ」と言っているだけなのに、翻訳では「彼は変な人で、突拍子もなく長い脇差をさしている」となって、突然原文にはない「変な彼」がでてくる。
セイゴオ:余計な解釈ですよね(笑)。
田中:翻訳者たちも苦労しているんでしょうが、ではなぜ私たち日本人は、主語がないのに俳句や和歌を理解して味わえるのか。どうもそこには「読み手」が入っているんじゃないかと思います。たとえば連句はいくつもの主語をはらんで進んでいく。少し勘違いしながらも前の読み手を受けて句をつなげていくものなんですね。
セイゴオ:それと、やはり「場」のかかわりです。とくに連句は「場」を重視して、だからこそいろんな主語が選択可能な状態になっている。水の音を聞いているのは「私」かもしれないけど「蛙」かもしれないし、「風」ということもありうる。
田中:はい。それでもまったく問題ないんです。さきほどの芭蕉の連句でいうと、次に「草むらに蛙こわがる夕まぐれ」と続きます。これが英語に翻訳されると、こわがっている人は「She」となっているんです。蛙を怖がるからこれはたぶん女性だろうと(笑)。
セイゴオ:「human」は人間一般を意味するけど、元来は「男」をさしているように、西洋の言葉は「性別」をもっている。加えて複数か単数か、過去か現在かということを揺るぎなく明示する必要がある。
田中:日本語だと、草むらで怖がっているのは一人か数人かもわからない。
セイゴオ:蛙の数だってわからない(笑)。
田中:反対に英語を日本語に訳すときは、「自分」をあらわす言葉が多すぎて困るそうです。英語なら「I」だけで済む。
セイゴオ:たぶん主語のレイヤーが違うんだと思う。西洋では天上の神と地上の人間が対置されていて、ずばっと主語を下ろします。ところが日本では、主語をつねに棚の上にたくさん並べて、仮置きしてあるんです。

■補いながら取り入れる
田中:西洋の日本学者たちは基本的に「どんな日本語も翻訳できないはずがない」と考えている。けれども、翻訳不能ということこそ日本語のおもしろいところだと思うんですね。そういう感覚ごと、わかってもらう方法が重要ではないか。
セイゴオ:いろいろ補うしかないんです。ぼくは同時通訳の会社に10年ほど携わったのですが、ものすごくおもしろい体験でした。当時のトップクラスの同時通訳者たちが、ぼくの日本語の知識に学びたいといって集まってきたんです。ぼくはそのころから、ジョン・ケージやスーザン・ソンダクを相手に話すときも、「うつろい」や「おもかげ」といった言葉を日本語のままどんどん使っていた。それを、彼らが苦労して、いろいろな言葉を補って通訳してくれたんですが、そのときに交わしたことは、どんな学者の神道論よりおもしろかった。
田中:「おもかげ」みたいな日本語の訳語ってあるんですか。
セイゴオ:ないんです。「あこがれ」とか、日本人の思う「なつかしさ」という言葉も感覚も、英語にはぴったりした言葉がないんです。だからぼくは外国では、「寂しい」が「さび」になったとか、「侘しい」が「わび」になるといった話を、どんどんするようにしてます。そうすると、もう独壇場です(笑)。そういうことがわかると、向こうの人たちも日本語の「さび」や「わび」をそのまま使おうという気になってくれる。それでいいと思うんです。我々だって「システム」とか「デリバティブ」といった言葉をそのまま使っているんですから。

■近代日本の忘れもの
田中:じつは、江戸や明治時代の文学の、日本語の現代語訳もひどいんです。たとえば樋口一葉の『たけくらべ』は語り手が特定されないまま、吉原の情景を外から丁寧に描写するところから始まります。ところが現代語訳では、「私は」から始まっていて、しかもその「私」は一葉のことだという。
セイゴオ:『たけくらべ』に一葉がでてきたら邪魔ですよ(笑)。大江健三郎あたりから日本語の言語感覚はどんどん英語に近づいてきたんです。それと、ロラン・バルトあたりから物語の「話者」や「語り手」が絶対視されすぎるようになった。
田中:日本のつくってきた文化は「話者」の文化ではないはずです。書いている人が「自分が書いている」という感覚をもっていない。
セイゴオ:柿本人麻呂が天皇の心を代作して歌を詠んだり、紀貫之が女性のふりをして日記を書くといったように、話者や作者は何かに仮託して物語を編んでいくものだった。そうやって内なる奥の声を物語に偏在させる文化があった。そういうことが明治の頃までは守られていたのに、いまはすっかり崩れてしまった。
田中:松岡さんは著書で、「近代以降の日本の忘れもの」についてよく問うてますね。「話者が奥の声を偏在させる文化」も、大きな忘れものですね。
セイゴオ:他にもたくさんあります。神仏分離や廃仏棄釈もそう。天皇だって国家の元帥にしてしまったために、「遊君」の文化が失われてしまった。こういうことがいまでも日本にかなりの痛手を残しています。
田中:天皇は言葉の司祭でもあったのに、定位にこだわり役割を限定してしまったんですね。

■文化の苗代を育てる
セイゴオ:今年の年末に、『世界と日本のまちがい』(春秋社)という本を出します。その最終章に、日本に「苗代」がなくなったということを書きました。「苗代」は日本特有の文化で、苗を直植えしないで仮の場所で育ててから植え換えをする。この「仮置きの文化」や、「苗代」のような小さいエージェントを作る能力が、日本から失われてしまったということです。
田中:江戸文化はまさに「苗代型」でしたね。たとえば琳派は、江戸中期にいったん廃れてしまったんですが、酒井抱一が100年後に尾形光琳を蘇えらせたんですね。でも抱一は光琳の指導を受けていないばかりか、琳派との師弟関係もなかった。もともと宗達と光琳も活躍した時代が違うんですが、光琳が宗達を苗代にし、その光琳を抱一が苗代にして、王朝復古的でしかも前衛的な文化をつくりあげていった。私も苗代づくりをしないとまずいかな(笑)。苗代としての江戸文化はまだまだ使える宝の山ですから。
セイゴオ:なんだか早乙女みたいですね(笑)。
田中:櫛や簪をいっぱいつけて、二人でぜひ早乙女をやりましょう。

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最初にそろって明神さまに正式参拝

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笑顔と名調子で座を盛り上げる田中塾長

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塾生の中には1年間皆勤した人も多数

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絶品のナビゲーションに遊ぶセイゴオ

投稿者 staff : 17:59

2007年11月20日


Report 第6回織部賞その2 記念トーク編


 11月4日に岐阜県多治見市のセラミックパークMINOで行われた第6回織部賞授賞式。メインイベントである正賞・副賞授与式のあとは、5人の受賞者と選考委員・特別ゲストによるトークやパフォーマンスが、国際会議場と展示ホールの2カ所で次々と繰り広げられた。来場者は、受賞者の作品展示や過去の授賞式の映像を楽しみつつそれぞれのトーク会場に足を運び、たった1日だけの、しかも1日では体験しきれないほど盛りだくさんなプログラムを、思い思いに楽しんでいた。


■「ぼくの朗読会」―高橋睦郎

 「女神よ、私は、女たちの優しさを、名もない死者たちを、そして虫たちや草たちを詠い、称えようと思います」。

 もともとホメロスの時代には叙事詩を読む前に必ず女神に祈りを捧げていたという。その古代の詩人たちにならい、女神に呼びかけながら、高橋睦郎さんのソロプログラム「ぼくの朗読会」が始まった。

 はじめは、織部賞受賞を記念してつくったという未発表の詩 「天上の木-古田織部を祀る」 。朗々とした声が会場に響き渡る。

 葉は喩えようなく香ばしく香る
 地に生えるが、天に属するからだ
 人はこれを噛み 煮て汁を嗜む
 石臼に挽き 粉にして糊で固める
 固めて餅のかたちにしたものは
 海を渡って 東の果ての島にも伝えられた
 これを砕き湯を濯いで飲むのに満足せず
 種子を招来して 懇ろに播き懇ろに育てた
 その香り高い緑の粉を迎えるのに
 特別の壷 特別の碗をもってした
 壷や碗は貴ばれ しばしば一国に価した

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 続いては今秋急逝された二人の“女神”、美術研究家の若桑みどりさんに捧げる「階段をのぼって若桑みどりに」と、山口小夜子さんに捧げる「小夜曲 サヨコのために」を立て続けに朗読し、さらに、あの世の人がたくさん住んでいるという高橋さんの自宅に捧げる「この家は」を披露。それぞれの詩にまつわるエピソードを織り交ぜた語りも味わい深く、観客とともに受賞者たちも聞き入っていた。

 最後は、現代の日本に向けてのラディカルなメッセージ「地獄はどこにあるか」。

 生きている人間のためだけの民主主義は不完全だとおもっている。
 含死者、含未来人、含生物、含無生物のための民主主義じゃなければいけない。
 体裁のいいものだけではなく残酷さもみつめたものでなければいけない。


■「メディアとアート」―岩井俊雄

 岩井俊雄さんはスクリーンに写真や映像を映しながら、アーティスト活動の原点である子供時代の思い出から話を始めた。

 小学校1年生の誕生日に両親からもらった図鑑、放課後に読みふけっていた物理化学のマンガ、ある日突然「もう玩具は買いません」と宣言した母親、海へ山へと遊びにでかけ手作りの遊び道具をつくってくれた父親。そして少年時代の発明ノート「工作ブック」。各ページにアイディアの見取り図や仕組みを書くだけではなく、目次やレイアウトにこだわっていたという岩井さん。また余白を見つけてはパラパラマンガを書いていた。大学時代になると、工作への興味にグラフィック技術が融合し、それが「時間層Ⅱ」をはじめとするアート作品になった。

 一方で、岩井さんはオルゴールと出会い、五線譜ではない音楽のあり方を発見。音楽はメロディーだけではなく、音と音のバランスや関係性が大切であることに気がついた。以降、音と光、映像と音を結びつける研究に拍車がかかった。それが最新作の新楽器「TENORI-ON」(ヤマハと共同開発)に通じたという。

 ここで会場が暗転し、岩井さんが両手で「TENORI-ON」を巧みに操作しながら、音やリズムを次々に打ち込んでたちまち音楽を作りあげていくパフォーマンスを披露。わずか30センチ四方の板状の楽器が音に合わせて発光しながら、次第に重層的な音色を響かせていくクールでファンタジックなライブに、会場に詰めかけた岩井ファンの若者から年配の観客までが魅了されていた。


■「数寄の文化」―林屋晴三×鯉江良二

 授賞式前日、織部賞記念茶会でも腕を振るった林屋晴三さんは、第3回織部賞受賞者で陶芸家の鯉江良二さんを相手に、ちょっと辛口の“林屋節”を利かせた焼き物談義。当代きっての目利きと現代を代表する作り手が、核心をつきながらも笑いのあるやりとりで観客をおおいに沸かせた。

林屋:日本の茶碗の歴史は桃山時代から始まるけれど、もともと鯉江さんが共感を得た焼きものは何?
鯉江:高麗の手乗り茶碗だね。一瞬にして心を奪われた。なんともいえない軟らかさがあって、茶碗が生きているように見えた。あの“はんなり”した感じは手作りでなくちゃできませんね。
林屋:でも、ぼくが触った鯉江さんの茶碗のなかで“はんなり”したものってあったかな(笑)。
鯉江:これはまいった(笑)。ぼくも林屋さんくらいの年齢になったらきっと力具合のちょうどいいものがつくれるようになるかな。はははっ。

林屋:鯉江さんは水気のある軟らかい土を使うけど、これはほかの陶芸家にはあまり見られないやり方です。土が軟らかいままロクロをまわして、すぐに箆(へら)を使って形にしちゃう。あのスピードはすごい。500個も1000個もあっという間でしょ。
鯉江:昔は1個のお猪口を15秒で仕上げてた。茶碗は“赤ちゃん”のようなものなんだね。落としても割れない感じがする軟らかい茶碗に魅力を感じる。

林屋:「土」と「塗」と「焼」で重視するものは?
鯉江:やっぱり「土」だね。土の魅力は陶芸家にとってたまらないものですよ。一筋縄では扱えないだけに挑戦心が掻き立てられる。自分の足で取ってきた土は、特に格別だね。
林屋:ふん、ふん、なるほど。加藤唐九郎さんなんか、いい土を探すのに、土を食べていたらしいね。でも、ぼくはね、焼きものの個性は「焼」で決まると思う。
鯉江:ありゃ、意見が食い違った(笑)。そりゃ「焼」のほうがおもしろいですよ。おもしろすぎて、ついはまっちゃいますけどね。


■「日本の発見」―山田脩二×磯崎新

 山田脩二さんのお相手は、1960年代からのつきあいという選考委員長の磯崎新さん。山田さん相手に酒なしではしゃべれないという磯崎さんたっての希望で、急遽、地元多治見の「千古乃岩」の酒がステージに差し入れされた。

磯崎:山田脩二の写真は、一見するとシロウト写真なんだけど、写しているものが実に不思議で魅了されてしまうんだよね。普通は、写真は芸術になるかならないかという際(キワ)が勝負だけど、脩ちゃんが撮るとふっと力が抜けて、日本にこんなものがあったのかということに気付かされる。
山田:普通は、カメラマンになるためには、カメラの撮影技術とか焼き方とかを学習をするんだろうけど、ぼくの場合は日本中を巡り歩いて「押す」と「呑む」をひたすら繰り返した。一回シャッターを押しては、二回グビグビッと呑む(笑)。このやり方で山田脩二の日本発見を永遠と続けてきた。

磯崎:正統と前衛の葛藤を越えて新しいことに挑む人に織部賞を贈っているんだけど、じつは脩ちゃんだけはどうもそこに入らない(笑)。度を過ぎた通俗でありながら、しかもキッチュに見えない妙な感覚をもっている。群集を撮った写真を見るとよく分かる。
山田:ぼくは「うつろい」を写しているんだと思う。引いて撮るか、寄って撮るかの感覚が普通の人とちょっと違うんでしょうね。
磯崎:確かにそう。普通は「対象物に近寄れ」というけれど、修ちゃんは引いて撮る。この引き方が絶妙で実におもしろい。

山田:瓦屋になって25年、日本で粘土を一番多く焼いた人間だと自負しています。磯崎さんは別府にあるビーコンプラザの屋根にぼくの瓦を大量につかってくれました。7500㎡分なので東大寺クラスの枚数ですよね。
磯崎:そうそう。ただし、高いところにあるからこの瓦はぜんぜん見えない(笑)。瓦のあとに炭焼きも始めたでしょう。そのことにもぼくは関心ある。
山田:日本全国の隅(スミ)から墨(スミ)まで炭(スミ)焼きを見て回りましたよ。だから、ぼくの人生は、光を紙に焼いて、土を焼いて瓦にして、木を焼いて炭をつくって、それが灰(ハイ)になって、それではみなさま、ハイ、サヨナラっていうことですね(笑)。その日のためにも、いい酒をたくさん呑まなくてはいけない。
磯崎:ぼくは山田脩二の焼いた炭でいつか茶会をしてみたい。


■「コスチューム革命」―ワダエミ×松岡正剛

 織部賞記念トークの締めくくりは、グランプリのワダエミさん。松岡正剛が聞き手となって、衣装に関心をもった経緯、アカデミー賞最優秀衣装デザイン賞に輝いた黒澤明監督映画『乱』の裏話、そして今の日本へのメッセージなど、貴重な話の数々を引き出した。

松岡:エミさんの衣装プランはどうやって生まれていくんですか。
ワダ:シナリオを読んだときにほとんどの衣装イメージができあがります。あとはそのイメージが成立するかどうかの検証をする。日本一の知識人である松岡さんには何回も夜中に長電話しましたね(笑)。
松岡:エミさんの質問はいつも鋭い。あの場面にでてくる人物の持ち物がズタ袋でいいのか、もしズタ袋であればいったいどれくらいの網目にしようかということまで考え抜いてから電話をしてくる。答えるほうもたじたじです(笑)。
ワダ:とくに資料がないときの衣装づくりは悪戦苦闘します。映画『HERO』では、監督のチャン・イーモウが「歴史は戦に勝ったほうの資料は残るけど、負けたほうの資料は残らない。その無いほうのイメージをぜひ手がけてほしい」とリクエストされました。
松岡:資料が無いものを生み出すときはどうするのですか。
ワダ:まずは同時代の既存の資料に片っ端から目を通します。中国の秦の時代はもちろんのこと、日本の古代、韓国の古代、中国のほかの時代まで。それらをミックスしてイメージをつくるんです。
松岡:今では、あの衣装イメージを中国側もいろんな映画で盛んに利用してますね。
ワダ:それから、エンターテイメントなアクションが多い『HERO』では、衣装のイメージをより際立たせるために、動きをとことん研究してシーンごとに袖の長さを変えました。同じ衣装を12着つくった。一着について12メートルの布が必要だったので、結局500メートル分、同じ生地が必要になりました。

松岡:エミさんが衣装に関心をもったのはどうしてですか。
ワダ:私の家は京都の呉服屋でしたが、着物だけではなく洋服もつくっていました。その影響を受けて、着るものは作るものという意識は子供のころから身体にしみこんでいました。
松岡:影響を受けた人物はいますか。
ワダ:中学生のときの絵の家庭教師ですね。ただし、影響を受けたのは絵ではなくて、絵を教えるという名目のもとで先生が連れて行ってくれたコクトーの映画やサルトルの芝居でした。
松岡:かなりアバンギャルドな世界に触れていたんですね。
ワダ:京都生まれなのに洋風な家にいたし、歌謡曲は全くダメで、クラシックが好きな子供でした。そのころの感覚は今も役に立っています。それから京都市立美術大学(現・京都市立芸術大学)のときに演出家の和田勉さんと結婚し、次第に彼の仕事を手伝うようになったのが舞台衣装や舞台セットをてがけるきっかけでした。

松岡:黒澤明監督の『乱』の話を聞かせてください。どういうところから衣装作りが始まりましたか。
ワダ:まずは私がデザインした衣装を創ってくれる職人さんを探すところからスタートしました。技術的な問題はもちろんですが、もともと型がある能衣装とかだと「この衣装は型破りだから創れません」と端から断られたこともありました。けっきょく当時で一着250万かかった。
松岡:とくにこだわったのはどういうところですか。
ワダ:糸の選定にこだわりましたね。もう少し太い糸で、しかも練ってくださいとお願いしたりしました。『乱』はフランス人のプロデューサーでコストにうるさいシステムだったから、糸1メートルいくらかといった予算見積りも自分で作った。すると足軽の衣装が一着75000円かかるんです。この価格では高すぎるということになって、風呂場で自分で染めることにしました。これなら一着9000円の見積もり(笑)。
松岡:足軽っていわばエキストラですよね。その衣装をすべてエミさんが手染めしたんですか。
ワダ:1000着、すべて自分でね。Sサイズ、Mサイズ、Lサイズの3サイズ用意して。染め上がると近所のコインランドリーにある10台全てをつかって乾燥。しかも使い込んだ色に見せるために二ヵ月半天日干し。
松岡:そういうフィニッシュに対する確信はすごい。
ワダ:黒澤さんの映画にかぎらず、カメラチェックをすると見えちゃだめなところを写されることがあるから、本当は1000人のエキストラに1200着の衣装をつくるのが理想なんです。200着の余分があればどこを写してもカメラに耐えられる。じつは「乱」では、ワンカットだけ、見えてはいけない直垂が映っているんです。私が現場でにいれば、絶対にそういうところは映させなかったのにと今でも後悔しています(笑)。
松岡:エミさん以外の誰も気づいてないと思いますけど、すさまじいエピソードですね。
ワダ:『乱』で初めて手がけたことの一つに衣装のエイジングがあります。登場人物がだんだん歳をとっていくので、同じ衣装でも最低4着は準備しました。ただ、こういうこだわりや衣装への関わり方はたくさんあるけど、映画は最終的には監督のものだと思っているので、やるべきところはやったという達成感だけが頼りですね。終わったらすべてを忘れてしまう。

松岡:最後にひとつだけ。今の日本の体たらくについて、ぜひ痛烈なメッセージを。
ワダ:いい観客もいい作り手もいるんだけど、いいプロデューサーがいない。一回当たるといつも同じ戦略になってしまう。同じことの繰り返しはダメです。見たいと思っている観客に対してちゃんとしたコミュニケートしなければいけない。かつての日本映画が世界に影響を与えたようなレベルに今の現状が及んでいないということが本当に残念です。
松岡:まさに衣装で世界をつくっているワダエミさんでした。来年の6月にはCFで現代版『七人の侍』の衣装をてがけ、またピーター・グリーナウェイとはいよいよ『雨月物語』を手がけるそうです。期待しています。

(撮影:川本 聖哉)

投稿者 staff : 16:41

2007年11月19日


Report 第6回織部賞その1 授賞式編


美濃の地に、21世紀のオリベが勢ぞろい

 11月4日(日)、岐阜県多治見市のセラミックパークMINOで第6回織部賞授賞式が開催された。グランプリに選ばれた衣装デザイナーのワダエミさんほか、メディアアーティストの岩井俊雄さん、詩人の高橋睦郎さん、菊寛実記念智美術館館長の林屋晴三さん、淡路瓦師で写真家の山田脩二さんたち5人の受賞者が一堂にそろい、 華やかな祝祭が朝から夕刻まで、たっぷりと繰り広げられた。
 演出構成は第1回から織部賞総合プロデューサーを担うセイゴオと、照明家の藤本晴美さん。会場デザインは織部賞選考委員でもある内田繁さん。今回の会場「セラミックパークMINO」の設計者である磯崎新委員長のアイデアによって、参加者が館内のさまざまな施設を回遊しながら展示や映像も楽しめる、これまで以上におおがかりな織部賞となった。

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■名品と名人の饗宴―織部賞記念茶会

 授賞式前日の3日夕刻、セラミックパークMINO内の茶室「懸舟庵(けんしゅうあん)」で、受賞者を迎えて織部賞記念茶会が開かれた。「懸舟庵」という名称は、設計者の磯崎新委員長が、この特別な茶会に合わせて命名。丘陵の地形を生かしたダイナミックな三段の滝の上に、浮かぶようにして茶室がつくられていることにちなむ。
    
 席主は受賞者の林屋晴三さん。日本一の茶数寄の目利きである林屋さんによって、小間には茶入「宗長棗」「千利休作竹二重切花入」「利休型真塗手桶」「長次郎作赤楽茶碗」など利休好みの逸品が並べられた。また大寄せの茶をふるまう広間には井上有一筆の書「月」や江里佐代子風呂先「截金萬象文」、辻村史朗作伊賀壺の花入など現代作家たちの作品が飾られた。茶会の段取り一切を仕切った熊倉功夫委員も驚いたという、まさに一期一会の大胆な取り合わせである。

 織部賞記念茶会にふさわしく、茶碗は、過去の受賞者である楽吉左衛門さんの黒楽をはじめ、鯉江良二さんの黒織部、加藤孝造さんの瀬戸黒が用意され、さらに人間国宝の鈴木蔵さんの志野が加わった。しかも鯉江・加藤・鈴木さんが相伴客として列席し、受賞者・選考委員・古田知事とともに、林屋さんの点前と数寄談義をおおいに楽しんだ。正客は紅一点のワダエミさん、濃紫の着物に合わせた15歳のときにはじめてつくったという縦縞の帯が、凛と映えていた。

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■「織部」と「秀吉」―ワダエミさんの衣装を特別展示

 一夜明けた4日は晴天に恵まれ晩秋とは思えない陽気に恵まれた。午前10時、セラミックパークMINOオープンとともに来場者が訪れ、総面積1600平米の特設会場にしつらえられた記念展示をゆっくりと鑑賞する姿が見られた。

 展示の目玉は、会場の最奥に飾られたワダエミさんデザインの衣装「織部」「秀吉」「北政所」。勅使河原宏監督映画『利休』のために作られ実際に映画で使用されたものである。とくに、歴史的な史料が残っていない「織部」の衣装は、袖無し羽織に織部焼の柄を染め抜くという、ワダさん独特の想像力が発揮されたものとなっている。また、山田脩二さんが500枚の瓦を使って1日がかりでオブジェ作品「淡路の瓦の散歩道」を制作・設置し、当日は来場者がその上を靴のまま歩いて楽しんだ。ほかに岩井俊雄さんがヤマハと共同開発した新楽器「TENORI-ON」、高橋睦郎さんの直筆原稿やドローイングなど。

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 さらに、内田繁さんデザインによる色とりどりのモニターボックスが設置され、過去10年全5回の織部賞授賞式や記念イベントの名場面の数々とともに、早くも昨夜の織部賞記念茶会の記録映像を上映。そこで使われていた道具もすべて、そのまま茶室「懸舟庵」で公開され、茶道や焼き物に関心の高い熱心な地元客が、展示ホールと茶室をさかんに行き来していた。

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■オリベごよみが迎える―授与式開演

 正午過ぎになると、段ボール製の大きな招待状を携えた来場者が次々に国際会議場に集まってきた。一枚ずつ形も柄も違う招待状は、選考委員の日比野克彦さんが発案し、岐阜県民が制作したもの。来場者が持ち寄ったものを組み合わせると、ジグソーパズルのように2m×6mの大きな作品「オリベごよみ」が出来上がるという趣向。

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 そのほとんどのピースが揃うと同時に、いよいよ織部賞授与式の開幕である。軽快な音楽とともにスクリーンにこれまでの織部賞をダイジェストした映像が流れ、会場の祝祭ムードが早くも高まっていく。司会の平松亜希子さんの進行で、古田肇岐阜県知事、そして今回はトロフィーデザインも手掛けた磯崎新委員長が挨拶。

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 この、毎回新しくデザインされるトロフィーも織部賞名物のひとつとなっている。これまで、選考委員のアンドレア・ブランヅィ、内田繁、石井幹子、日比野克彦さんたちが岐阜県の伝統技術とのコラボレーションによって、ユニークなトロフィーを制作してきた。
 磯崎委員長デザインのトロフィーは、多治見で200年の歴史をもつ幸兵衛窯によって焼かれた花器ふうのオブジェ。2本の立方体が突き出したような不思議な形である。その制作意図について磯崎委員長は「利休の時代から茶室では一輪挿しと決まっているが、織部賞なのだから、あえて二輪挿しはどうかと考えた。古田織部の逸話には南蛮と切支丹がからむ。そこで、私のこだわる立方体のうえに、クロスを描いてみた。それが、二本の塔の組み合わせになった」と語った。

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■オリベの魂に贈る言葉―伝統の名場面

 織部賞授賞式のハイライトはなんといっても一人一人の受賞者を紹介し正賞副賞を授与するシーンである。1年にわたって選考会に携わってきた委員たちがプレゼンターとなって、受賞者の作品を映像で見せながら、それぞれの「オリベらしさ」をアピールしながら祝福するというスタイルは、いわば織部賞授賞式の「伝統」となっている。今回は坂根厳夫委員が岩井俊雄さんの、セイゴオが高橋睦郎さんと林屋晴三さんの、磯崎委員長が山田脩二さんとグランプリのワダエミさんのプレゼンターをつとめた。

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 古田知事が読み上げる賞状も、もちろん一人一人文面が違うもの。大胆破格な受賞者たちもこの賞状の喝采の言葉には思わず目を潤ませていた。
 「貴殿は、最先端のテクノロジーと幼いころの感覚を絶妙に融合させ、多くの人々に創造的に遊べるメディアを提供してこられました。そこにはつねに映像と音楽と光の境界が揺れています。」(岩井俊雄さんへの賞状)
 「貴殿は、詩人といて、歌人として、俳人として、西はギリシアから東は古代日本まで、つねに古今東西の言霊の消息をみごとに綾なしてこられました。」(高橋睦郎さんへの賞状)
 「貴殿によって、日本の“好み”は大いに変貌し、より深く発展してきました。その伝統と前衛を大胆に出会わせた極上の目を称えて、ここに第6回織部賞を贈ります。」(林屋晴三さんへの賞状)
 「貴殿は、現代の日本人が忘れた原風景を慈しみ、その魂を、写真に、瓦に、炭に、すぐれた職人の技をもって注いでこられました。」(山田脩二さんへの賞状)

 授与式の締めくくりはワダエミさん。華やかなピンクのジャケットに身を包み、磯崎新委員長から受け取ったトロフィーを手に、「日本国内でいただく初めての賞です」と静かな声で語るスピーチに、満場が引き込まれていた。

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◎岩井俊雄さん

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「作家を志した原点にいる両親に感謝し、この喜びを昨年他界した父とこの会場にいる母に一番に伝えたい」

◎高橋睦郎さん

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「古田織部の名に恥じない“困った芸術家”になりたい。これからもっと理屈くさくなる覚悟でおります(笑)」

◎林屋晴三さん

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「私のこの羽織袴はまったく織部的ではありませんが、このような賞をつくられた岐阜県への敬意を表したかった」

◎山田脩二さん

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「この先も三筋四筋の人生を織部賞の誇りとともに楽しみたい」。

◎ワダエミさん

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「いろいろ不義理をしてきた私ですが、これまでの仕事を見ていてくれる人が日本にもいたということが何より嬉しい」。

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(撮影:川本 聖哉)


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2007年11月13日


Report ラグジュアリーの本質


日本の「粋と奢り」を解く

 2007年11月10日(土)、京都服飾文化研究財団主催の連続セミナ―「ラグジュアリーの本質」で、「粋と奢り」をテーマにセイゴオが講演(会場は京都国立近代美術館)。

 チーフ・キュレーターの深井晃子さんから「知の糸を無限に吐き出すお蚕さん」と紹介を受けたセイゴオ。最初に、京都服飾文化研究財団がおもに近代以降の洋服をコレクションしていることにちなんで、ヨーロッパにおける「ラグジュアリー」感覚、「レクサス」というものは、18世紀後半、王侯貴族などの“クラス”の誕生とともに定着したという話を入口に、日本の「レクサス」の発生と変遷について話を展開。
 
■日本のダブルスタンダード
 日本においても、江戸時代に身分や分限などの“分”(ぶん)の社会が成立したことによって、贅沢という価値観が生まれ、それがモードを生み出す原動力になった。ただし、日本の贅沢は必ずしも華美とは限らない。日本では“派手”と“地味”という美意識が、対立しつつも補完しあいながらラグジュアリー感覚を磨いていった。

 その“派手”と“地味”のおおもとに、「荒魂」(あらたま)と「和魂」(にぎたま)の二項対比があり、王朝時代にはそれが「みやび」と「ひなび」になり、武家の時代には「金閣の北山文化」と「銀閣の東山文化」になった。日本はこのようにつねにダブルスタンダードを立てる国だった。
 戦国時代の終わりには、「黄金」と「侘び」、すなわち秀吉の黄金の茶室と利休の草庵が両立する。そこには、カブキの精神と数寄の精神が同時代に成立していったという背景がある。過差なふるまいをするカブキと、ひたすら好きなものに執着していく「数寄」。

■悪場所が日本のレクサスを生んだ
 ではそのなかから、日本の「レクサス」はどうやって誕生したか。カブキ者たちの風俗から出雲阿国の女歌舞伎が生まれ、さらに少年たちによる若衆歌舞伎が生まれた。それらが幕府に禁じられたために、男たちだけで演じる野郎歌舞伎となって、今日の歌舞伎のような女形の芸が生まれ、一世を風靡した。このとき、日本の「レクサス」感覚が誕生した。「悪所」と呼ばれた歌舞伎小屋が、ファッションやモードの発信地となっていくのである。同じく「悪所」と呼ばれた吉原もまた、江戸の「レクサス」の発信地だった。日本の「ラグジュアリー」は、歌舞伎や島原や吉原のように、禁止やタブーがなければ生まれないものなのだ。
 そのような感覚を代表した人物の一人が、絵師の英一蝶。一蝶は伝統的な狩野派に入門しながら浮世絵を描いたために破門され、吉原に転がり込んで幇間となって風俗画を描き続けた。ところが将軍家に対してタブーを犯した咎で三宅島に流罪となる。三宅島時代に一蝶が描いた作品は「島一蝶」と呼ばれ、今日非常に高く評価されている。値段も高い。
 一蝶が描いたものは吉原時代に見聞していた世界、吉原の「面影」である。面影を描こうとするから見立てと風刺が効いた。そのため、三宅島から吉原に戻った一蝶は二度と風俗画を描かなくなってしまう。

■「表」と「裏」をまぎらかす
 一蝶はタブーを冒し続けたことで、「ウツ」(虚)と「ウツツ」(現)の間、バーチャルとリアルの間、「表」と「裏」の間に、新たな画境を見出した。この、二つの極の境目を“まぎらかす”ことが、江戸のレクサスの真骨頂であり、その後の「粋」や「通」の美意識にもつながっていく。
 もう一人、そのことを成し遂げた人物が同じく絵師の酒井抱一。抱一の最高傑作「夏秋草図屏風」は、もともと尾形光琳の「風神雷神図屏風」の裏に描かれていた。抱一はまた光琳没後100年に、「光琳百図」を出版している。そのころすっかり忘れられていた光琳の作品を抱一が筆使いまで真似て写したものである。この、「ウツシ」こそは、本歌に対する引用、オリジナルに対するバージョンという形で、日本が古来重視していた方法だった。
 抱一は「表」と「裏」、「ウツツ」と「ウツ」を、メディアを変換することによって両立させるという方法を発見したのである。

■振袖火事と着物革命
 一方、江戸時代には着物革命が起こる。もともと下着だった小袖が表着となり、キャンパスに絵を描くように自在に絵柄が表現できるようになったうえ、技法的にも「織」から「染」への大きな転換があった。じつはここに、江戸市中のほとんどを焼き払った大災害が関係していた。明暦の大火、いわゆる「振袖火事」である。家財一切を失った江戸の町民のあいだで着物需要が急増し、そのことが京都西陣の隆盛を呼んだ。このときに完成されたのが宮崎友禅斎らによる型染めの技法である。
 着物に贅をつくす美意識の裏には、災害に立ち向かう意気地が重ねられていたのである。それが日本の「粋」であり「奢り」である。それはまた、表と裏、生と死の両極を行き来する人間の生きざまでもある。

■松茸の傘ほどの可能性
 のちに九鬼周造がこのことを深く考察し、『「いき」の構造』を著わした。九鬼は母の初子と岡倉天心のスキャンダルのなかで生まれ、出生の疑惑に苦しみながらヨーロッパに留学し、西洋哲学と出会う。が、神との同質性を理想とする西洋哲学では、自分の抱えた問題が解決できないと悟り、帰国。祇園で芸妓を身受けし、京都帝大に人力車で通う日々のなかで、「粋」や「通」や「意気地」や「張り」を「偶然性と可能性の哲学」として組み立てた。
 『「いき」の構造』のなかに「松茸の崩落」という文章がある。松茸の傘ほどの、いまにも崩れ落ちそうなわずかな可能性を身を張って支えようとすること。それが「いき」であると九鬼はいう。私が大好きな文章である。


 英一蝶、酒井抱一、明暦大火と友禅染、さらにはラグジュアリーの極みともいえる歌舞伎「揚巻」の衣裳を映像で見せながらのセイゴオの語りは、静かながらもしだいに熱を帯び、終わったときには、予定されていた2時間を20分超過。
 その後は会場に駆けつけてくれた未詳倶楽部や編集学校のメンバーたち十数人と洛中のいずこかへ。さらにその後はこっそりと“御ひいき”を伴い、祇園の奥の路地あたりにお忍びで出かけたらしい。


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2007年10月 4日


Report 本に溺れて浮いてみる


読書革命のための読書術

 9月14日、新宿紀伊国屋ホールで『千夜千冊 虎の巻』刊行記念講演会「本に溺れて浮いてみる」が開催されました。ロビーには『虎の巻』『千夜千冊全集』とともに、『虎の巻』から生まれた「セントラ屋」「千冊座」などのセイゴオの版画9枚が飾られ、訪れたファンをお出迎え。
 「セイゴオ流読書術」について講演する機会が増えているセイゴオ、この日はちょっと意外な、読書の妄想という話題を挿入しながら、次のように話を進めました。

■確立されていない読書術

 最近、読書術を話したり書いたりする機会が増えています。読書は誰もがしているのに、定評のある「術」も「方法」も代表的なモデルもなく、読者と本のあいだでは何がおこっているのか、読んだ本は読者の中でどうなっているのかよくわかっていません。本来読書は自由に楽しむものです。が、自由に楽しむためには、読書にはたくさんのモデルがあることを知ったほうがいい。そうしないと、本にひそんでいる知へのアプローチがわからなくなり、自分を見失う危険性すらある。微力ながらもそういった読書の方法を伝えなければというミッションを最近は強く感じるようになっています。
 今回の講演タイトル「本に溺れて浮いてみる」は少し変わっていますが、これこそ私の実感なんです。読書は溺れたままではだめで浮かなくてはいけません。今日はいくつかの本やモデルを使いながら「溺読・浮読」(できどく・ふどく)を案内したいと思います。

■不足を補う読書と妄想を呼ぶ読書

 最初に取り上げる本は、ドイツの作家ヴィルヘルム・イェンゼンの『グラディーヴァ』です。イェンゼンというのはだいたいカフカと同時代の作家です。物語は、主人公の考古学者が「歩く女」が刻まれた石膏のレリーフを手に入れたことから始まります。彼女のことが気になりやがて夢にまでみるようになった学者は、その女性の由来をいろいろ調べて、ポンペイの女神だったことを知り、彼の地を訪れる。そこでまさにレリーフから抜け出たような女性に出会い、「これは夢かまぼろしか」と思いながら、逢瀬を重ねていく。ちょっと不思議な物語ですが、ここには私が伝えたい「読書」というもののイメージが見事に現されているんですね。
 日本にもこれと似た小説があります。川端康成の短編『弓浦市』です。ある日、川端自身がモデルと思われる作家の家に妙齢の女性が突然尋ねてきて、弓浦市での二人の思い出を話しますが、作家にはまったく覚えがない。最後に「あの時結婚したいとおっしゃったわね」と言われて怖くなり、女性が帰ったあと地図を調べてみたところ、日本中のどこにも「弓浦市」という名の場所は存在しなかったという話です。

 この2つの物語は、私たちはアタマのなかで、つねにあるできごとの不足を補っているということを前提にしています。私たちは、瞬間瞬間に情報を処理し、つねに何かを補いながら、バラバラのできごとに文脈をつけながら生きている。実は読書中も脳の中でこれと同じことがおこなわれています。しかも、読書は一瞬で終わりません。何かを思い出したり暗示を受けたり葛藤を覚えたりするといったことが、1冊の本と向きあっている間に連続的に凝縮して起こっていく。考古学者がレリーフの女神と現実の女性をあいまいに重ねてしまったようなことや、作家を訪ねてきた女性が自分で物語をつくってしまっていたようなことが、読書中には頻繁に起こっているんです。このとき、無自覚に本に溺れてしまうと、「補い」を自分でおこなっているのか著者が語っているのかわからなる。そうなると妄想と現実の区別がつかなくなってしまいます。

 実は私もそうしたあやしい“読者の物語”に巻き込まれたことがあります。ある日突然、ミュージシャンの大槻ケンヂから電話がかかってきて「松岡さんは岩井寛さんの『森田療法』の序文にボクのことを書いてますよね」と言われました(笑)。大槻君は当時あることを悩んでいたらしい。その後、誤解は解けて彼とは親しくなりましたが、大槻君も『ボクはこんなことを考えている』という著書で、突然訪ねてきたファンのおばさんに「今、日本には陰謀が渦巻いている。これを救えるのは大槻さんと天地茂だけだ」と言われたことを告白しています(笑)。
 本来読者にとって著者は遠い存在なのですが、読書に溺れてしまうとその距離感がわからなくなってしまうんですね。またおもしろい本ほど読者をそこまでもひきつけてしまう。しかし、本を読むたびに著者との接点を感じすぎたり、現実と妄想の区別がつかなくなるようでは困ります。

 では読者はいったいどこに入っていけばよいのか。私のおすすめは、読書と著者のあいだに入ってみることです。読書中におこる勝手な「補い」を現実にそのまま持っていけば妄想になりますが、“別の場所”にもっていけばいくらでも安心して溺れることができるんです。私はこの“別の場所”を「読書空間」と呼んでいます。「読書空間」を上手に使うことができれば、本に浮くこともできるようになります。

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■本棚を読書空間にする

 私が読書空間や本のための場所を強く意識するようになったのは「岡倉天心」「南方熊楠」「折口信夫」「三枝博音」の全集を無理して買った30歳の頃でした。それらの全集の堂々たる存在感は圧倒的でしたが、その頃住んでいた安アパートにはどうしても間尺が合わなかった。そこで安い板を買ってきてそれぞれの全集のサイズに合わせた専用の本棚を自分で作り、何度もその組み替えを試みました。そうしてみると、私のアパートの本棚は、私の頭の中が外在化されたもの、つまり知が図形配置されたものになり、それによって書物の中に意識が出入りしやすくなったんですね。さらには、全集はなにも一揃いずつ固めて並べなくてはならないものではなく、バラバラにして入れ子にしてもいいし、また全集の中にほかの単行本を挿しこんでおいてもいいということに気がついた。

 そもそも本というものには、タイトル、目次、背表紙、見返しといった構造があり、一冊ごとが知のパッケージとして、フォーマットとして完成されたものです。どんなにパソコンやモバイルが発達しても、本のもつフォーマットの普遍性には到達できないことでしょう。さらに、それらを組み込み合わせて配置することによって、一冊一冊が「知のインデックス」になり、本棚全体が意味や文脈や構造をもった読書空間になるわけです。1冊の本の構造と本棚の構造が相似律のように関係性をもつ。こういう本棚を意識してつくれるようになると、書店や図書館で本を目にした瞬間、手にした瞬間から、自分の本棚と照応させながら知の図形配置を意識して読書に入っていくことができるようになるんです。

 また本棚というのは新たな1冊の本と出会うたびに組み替えや置き換えをしていくといいんですね。私は今も本棚の組み替えをしょっちゅうやっています。工作舎時代は年に2回スタッフ総出ですべての本を並び替えてましたし、今赤坂にある編集工学研究所の5万冊の本もことあるごとに組み替えています。自分や仕事場の本棚ばかりではなく、最近は本棚のある空間をプロデュースしてほしいと頼まれることも増えています。千鳥ヶ淵の「ギャラリー册」というところでは、文庫本を並べるための空間「糸宿房」(ししゅくぼう)を作りました。ここでは壁面すべてが天井まで文庫本のための本棚で構成されていて、その本棚は縦横のモジュールごとに交換できるようになっています(「ギャラリー册」を映像で紹介)。

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■読書体験がつながる街

 読書空間を持つこと、自分でそれを組み立てることは「溺読・浮読」に欠かせませんが、それでもなお本と本のあいだには隙間があきます。ではその隙間をどうやって埋めるのか。
 私がそのために試みたことの一つが「千夜千冊」です。1日1冊、千日かけて、私が経てきた「読書の記憶」を綴ってインターネット上に発表していきました。2000年2月に中谷宇吉郎の『雪』から始めて、2004年7月の『良寛全集』で千冊を達成したんですが、「やめるのは惜しい」といろんな人から言われ、その後もずっと続いています(9月14日現在1199冊となっている)。また、去年はそのうちの1444冊を組み替えて全7巻の『千夜千冊全集』にして、さらにはその全集の構成をガイドする『虎の巻』も出版されました。全集をつくるときに発起人になっていただいた山口昌男さんや岩波書店の山口昭男社長からは、「千夜千冊を読むことによって、松岡さんの読書体験を通して全人類の読書空間と行き来できるようになった」といわれました。これはうれしい言葉でした。

 私は読書というものは「アルス・コンビナトリア」(結合術)であるべきだと思っています。個人にとっての「読書の記憶」が、構造をもって組み立てされることによって「類」の読書になる。読書というのはただ個人が没頭する行為なのではなく、個人と歴史、個人と類の記憶がつながりながら、知の時空間を共有していくものです。
 そのように自由にだれもが出入りできる共有読書空間を、実際につくってみたい思ってスタートしたのが「図書街」という構想です。「千夜千冊」を毎日書き続ける一方で、ひそかに自分でその設計図も書き始めました。そうしたらなんと東京ドーム4杯分の広大なものになってしまったので、「図書館」ではなく「図書街」と呼ぶことになった(笑)。また現実につくるには膨大な予算がかかるので、インターネット上の仮想空間としてつくっていくことになりました。
 この「図書街」にはたくさんの街区や路地があって、詳細な知のマッピングをエリアごと、本棚ごとに組み立てました。またすべての本棚はそこに置く本のイメージや時代背景にふさわしいデザインを施したいと考えています。今はこの構想に関心をもってくれた国の機関(NICT)と北大・京大・慶応大との共同プロジェクトとして、私の描いた設計図をもとに「図書街」がつくられつつあります(映像で「図書街」を紹介)。

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■ブッククラブから革命を

 私がこんなふうに「本」というものに溺れ、また本と本をつないでいきたいと思うようになったきっかけは、小学生の頃に吃音だったことが関係しているようです。アタマの吹き出しの中には言いたいことがたくさん湧いているのに、いざ言葉にしようとするとうまくしゃべれない。非常に歯がゆい思いをしました。ところが、いざ吃音を克服してみると、あいかわらず思っていることのすべては表現できないことを実感し、さらにショックを受けたんですね。言葉や話し方をいくらスキルアップしても埋められないものがあることを思い知った。
 そんな体験から、私はもともと自分のアタマの中にある空間のようなものを、言語のような限られたツールだけではなく、もっといろんなツールによって外在化したいと思うようになりました。そして“あいだ”をまたぐことや“あいだ”を動く思考の動きに興味をもつようになり、やがて編集工学を志すようになった。
 最初に言いましたが、現在も読書の基本的な方法や術が確立されていないのは、本の中身や本のコンテンツの研究ばかりが重視され、その奥に動いているものが取り出されていないからなんですね。これからはもっと読書のミームやプロセスに向かうべきです。そのこと自体を解き明かし、空間として共有すべきです。これは大学で細分化された学問を学ぶことよりもうんと重要です。「読書空間」というものは、誰もが体験可能であり、活きた知として取り入れやすいはずなんです。

 そのためにも、私は、今の日本には「ブッククラブ」が必要だと思っています。たとえば、私たちが本を入手するときには、書店で新品を買うか、古書店で古本を買うしかありません。しかも再販制度によって書店では一律の値段でしか本を売ることができず、また古書店では汚れた本や書き込みのある本は価値が下がることがほとんどです。でも、もっと自由におもしろく本を入手したり交換したりできる仕組みがあってもいいのではないか。一冊の本がいろんな人の手をまたいだヒストリーが、裏書として残されていってもいいと思います。井上ひさしさんが読んだ本とか、司馬遼太郎さんが読んだ本を、そのプロセスごと受け取れるとか、有志を募って特別な本を仕立てて付加価値をつけクラブ財として共有してもいい。ワインのように読書のソムリエがいてもいい。
 こういった新しい本とのかかわり方を提案するブッククラブがあれば、おそらく書店や出版市場に変化を起こすことでしょう。実際に欧米ではブッククラブが出版社の戦略を左右する大きな力をもっています。“セイゴオ流読書術”だけでなく、みんなが読書体験を持ち出し合って交換してもいい。誰もがストーカーにも被害者にもならずに(笑)、読書に溺れながら浮かび合って互いに交わし合える場が必要なんです。

 最初に話したように、もともと読書というものはゆがんでいます。読者の勝手な「補い」に満ち満ちています。しかしそういった「補い」を妄想に持ち込まず、あえて自分の中にゆがんだまま残して、組み直して置き直してほしいと思うんですね。私はそこから新たな物語の出現が起こる可能性があると考えています。そして自分の中にひそむ“あやしさ”や“ゆがみ”を言葉ではなく、手のストロークによって補うことを試み始めています。この夏、「ギャラリー册」で李白、ゴーゴリ、ドストエフスキー、マラルメ、コクトーなどの物語と出会った体験を絵にし、それを「ハイパープリント」という高度な電子技術によって版画にしてみました。今日ロビーに飾ってある“擬画”もその一例です。「千夜千冊全集」の各巻を線やかたちによって補ってみたものです。

 書物の世界、読書の世界は一番古い歴史をもちながらいまだ革命がおきていません。だからこそこれから誰もがその革命に参加できる可能性を持っています。ここに集まった皆さんでぜひ読書革命を起こしましょう(拍手)。

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2007年9月 5日


Report 感門之盟 ―科学の分母に乗って―


「型」を学ぶ[守]、「抜き型」を学ぶ[花伝所]

 8月26日、上野の東京国立科学博物館で、ISIS編集学校第18回感門之盟が開催され、第16期・17期[守](編集の「型」を学ぶ基本コース)と、第7期[花伝所](師範代養成コース)の学衆、師範、師範代、あわせて約150名が、柱も壁も飴色の光沢をもつノスタルジックな講堂に集合しました。
 まずは司会の大川雅生頭取が「編集学校で人生が変わる人も多いのですが、宮坂さんもその一人」と、今回のパートナー宮坂千穂師範を紹介すると、あでやかなチャイナドレスをまとった宮坂師範は「編集学校で学ぶうちに、歴史や千夜千冊の謎を追う楽しみに目覚めてしまいました。今は明の儒学者“朱舜水”に夢中です」と笑顔で挨拶。

 続いてセイゴオ校長が珍しくスーツにネクタイ姿で登場。「編集学校にはいろんなものが待ち構えています。師範や師範代もいれば、歴史上の人物もいる。明治の頃、上野の森には東京音楽学校と東京美術学校という二つの学校があり、西洋の技法を取り入れて、古くからあった日本の“型”を今日的な“型”に編集し、多くの才能を育みました。たとえば“日本画”は美術学校の創始者、岡倉天心が作った新しい日本の“型”でした。上野の森は学の森となって多くの人が集い、方法や“型”が習得され、そうして知が結集し編集された。今いる科学博物館もその一つの成果です。編集も博物学と同じで、世界中から情報を集め、未知の関係性を発見することから始まります。ちなみにぼくは今日、この講堂に来てから、科学博物館の売店にあった恐竜のネクタイに着替えてみました。これも編集です(笑)」。
 ステージうしろの大きなスクリーンにセイゴオのネクタイが大写しになり、会場がなごんだ笑い声に包まれたところで、16期・17期[守]の卒門式へ。

 富澤陽一郎学匠が卒門を迎えた師範代と学衆へのお祝いのメッセージを贈り、「3月に開講した16期と、4月に開講した17期が、適度に交じり合いながら切磋琢磨し、そこから新しいルールやロールも生まれました」と成果報告。続いてセイゴオから18人の師範代に、ルイス・キャロル『不思議の国の論理学』、矢川澄子『父の娘たち』、宮本常一『空からの民族学』、高山宏『近代文化史入門』、エルヴィン・シュレーディンガー『わが世界観』など、恒例の「先達文庫」を授与。また8人の師範には、それぞれの“遊書”をしたためた色紙を贈りました。

 第二部は[花伝所]7期の放伝式。田中晶子所長が、新たに師範代になる放伝者(花伝所の卒業生のこと)にむけて「学んだ型を方法と混ぜ合いながら、梳いて透いて数寄にさせることが編集指南です」と激励のメッセージを贈り、また[花伝所]の指導陣9人の寛厳自在な師範ぶりとともに、「編集指南千本ノック」も展開したというエピソードも披露。そんなベテラン師範たちも、セイゴオからねぎらいの「花伝扇」と『日本数寄』が授与される瞬間は緊張の面持ちに。ちなみに第二部のセイゴオは、恐竜ネクタイから虹色のド派手なイッセイミヤケのベストに着替えて登壇、またもや会場を沸かせていました。

 次に登場したのは京都大学教授でメディアアーティストであり第15期[守]卒門者でもある土佐尚子さん。「感門之盟」で初めてのゲストスピーカーとして、セイゴオと共同開発した「i-Plot(アイ・プロット)」をデモンストレーション。これは、任意の言葉を二つ入力すると、そこから連想的につながる新たな言葉が次々とデータベースから呼び出され、まったく新しい連想語ネットワークがどんどん増殖していくというインタラクティブシステムです。しかもISIS編集学校が伝授する“編集思考素”(編集の型)とともに、学衆たちの回答5000件が基本データとして組み込まれているために、たんなる類語などではない非常にユニークで跳躍的な連想ネットワークが生成されていきます。土佐さんは、「内側から生まれた言葉や思考が外側の言葉や概念と出会うとき、その「際」(きわ)で何が起こっているのかを表現していきたい」と、今後のさらなる構想を語りました。

 この日、3度めの“お色直し”で、ようやくジャケットにGパンといういつものスタイルに戻ったセイゴオ、いよいよ一日の締めくくりの校長講話で、編集工学研究所の最大テーマでもある“ISIS(インタラクティブシステム・オブ・インタースコア)”について語りはじめました。

 「インタラクティブシステム」は相互作用をかたちにする仕組みであり、「インタースコア」はそうやってかたちにしたものをスコア(記譜)にして互いに交換し合うという意味です。そのふたつをつないで「インタラクティブシステム・オブ・インタースコア」すなわち[ISIS]をインターネット上に出現させるというプロジェクトを構想したことから、ISIS編集学校が生まれました。
 じつは、すべての歴史は[ISIS]によって作られ伝承されてきました。それだけではなく、もともと生物や生命も[ISIS]と深くかかわっています。このことを最初に見抜いた人が千夜千冊でも取り上げたフォン・ユクスキュルでした。動物も虫も人間も、それぞれの知覚世界というものを持っています。その知覚世界は個々の生物の内側から発生するのではなく、自然世界に押し付けられて型抜きされて出来上がったのではないか、すべての生物は自然界による「抜き型」によって世界を認知しているのではないかと、ユクスキュルは考えたんですね。
 生命のおおもとは宇宙からやってきた情報プログラムです。この情報が、まだドロドロの粘土状態の原始地球に印圧されて生命の“型”ができあがった。すなわち「抜き型」によって最初の生命プログラムが誕生した。やがて生命は、自分の内部環境を守るために外部環境とのあいだに「生体膜」をつくり、この膜を通して外部と内部の関係を調整し始めました。これがインタラクティヴィティのスタートです。
 生物たちはまた、それぞれの生きる環境の「抜き型」によってそれぞれの知覚を発達させながら、多様な形態に進化していった。ということは、生物たちの姿かたちも、「抜き型」であるということです。さらに人間はこの「抜き型」を意識的に自然のなかから取り出して、外部にそれを再現したり表現するようになりました。これが言語や文字やデザインやアートのスタートであり、インタースコアのはじまりです。
 いまの私たちは「抜き型」としての[ISIS]の方法を忘れています。言葉や表現が内側から生まれてくるものと思いすぎている。自然や環境との関係の取り方がヘタになっている。しかし編集学校では、宇宙に始まった生命の全歴史、人間の全歴史とつながる、本来の[ISIS]を取り戻していきたい。
 今日は、宮坂さんは朱舜水、ぼくは岡倉天心の話から始めました。こういう人たちもみんな[ISIS]です。みなさんも何かが気になったら、何かを好きになったら、ぜひそこから[ISIS]取り出してほしい。そして、皆さんにも[ISIS]になってほしい。

 上野の杜の科学博物館で、生命史にたちもどってセイゴオが語ったISIS編集学校のスコープは、学衆にも師範代にも事務局スタッフにも、新たな“方法の目覚め”を促す最高の贈物になったようです。

 なお、この日も休憩時間中は、恒例の「落册市」が開催されました。赤坂の蔵書から選び出した102冊の本は、いずれもセイゴオのサインやマーキングが書き込まれた希少品。ルールは、欲しい本に、購入金額を記したポストイットを貼って競り落とすという簡単なものですが、あっというまにすべての本に5枚、10枚とポストイットが貼り重ねられていきました。とくに争奪戦が激しかったのはたくさんのマーキングが記された本で、定価よりも高い値段で落札されたほどの加熱ぶりにはセイゴオもびっくり。

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名調子の大川頭取とチャイナドレスで華を添える宮坂師範
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珍しい恐竜柄のネクタイでセイゴオ校長登壇
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高萩健師範代への「先達文庫」はシュレーディンガー『わが世界観』
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なぜか校長が「ヘンなおじさん」と愛称する平山智史師範には遊書「叔」
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セイゴオも競り値が気になる「落册市」
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ベテランの花伝所師範たちに「花伝扇」を授与
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[ISIS]の意味とスコープを説くとっておきの校長講話
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上野の学の森に結集したISISの精鋭たち

撮影 猪又直之

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2007年8月15日


Report ヒミツの多いセイゴオ式読書術のヒミツ


 8月5日、リブロ池袋本店で『千夜千冊 虎の巻』刊行記念講演会が開催されました。愛知から駆けつけたという10代の高校生から、ライバル書店の熟練スタッフ、料理雑誌編集長まで、読書意欲の高い聴衆を前に、著者であり編集者でもあるセイゴオならではの「読書奥義」をたっぷりと披露しました。

◆速読術より「セイゴオ式」

 今日のテーマは「セイゴオ式読書術」です。読書術というと、“速読術”のような話を期待する人もいるかもしれませんが、速読術なんて読書の役にはたちません(笑)。それよりも、「読書をする」とはどういうことなのかを今日は話したい。
 私たちにとって本はスポーツや料理や天気と同じくらい身近な存在ですが、残念ながら本についての情報には、スポーツや料理に比べるととても偏りがあります。せいぜいブックレビューがある程度ですね。人気レストランにあたるような書店ランキングも、天気予報のような本の予測情報もない。まして、人々が本をどう選び、どう読み、どう扱っているかという情報はまったくないし、研究も分析もされていない。有名な『オーデン・わが読書』に書かれていることも本の中身のことですしね。そこで今日は、ぼくがどんなふうに本と関わっているのかという話を織り交ぜながら、皆さんにおすすめの「読書術」を紹介したいと思います。

◆本を特別扱いしない

 読書というのは、どうやって1冊の本と出会うかというところから始まります。ということは、読書術は本屋さんにいるあいだからスタートを切るべきなんです。
 ここはリブロ池袋書籍館の8階ですが、皆さんは会場に来るまでにイルムス館というインテリアショップを通ってきたことでしょう。いろんなインテリアを目にしたことでしょう。ところで、皆さんがそうやってインテリアを見ているときの眼と、本を見ているときの眼は同じですか?
 ぼくは、インテリアショップで家具を見ることや、ブティックで洋服を選ぶことや、レストランでメニューを見ることと同じような感覚で、書店で本を見るべきだと考えています。書店とは「知の商品」を並べている場所だと思うといい。ブティックに入ってハンガーラックに掛かった洋服をざっと見たとたんに、その年の流行感覚や自分の好みと合うかどうかが肌で分かるような、ああいう感じで書棚を見ればいいんです。
 本を特別なものだと思わないこと。読書を特別な行為だと思わないこと。これが究極の読書術です(笑)。

◆まず本の前に書棚を読む

 次に書店でこころがけてほしいことは、書棚と本の並びをよく見ること。書店はそれぞれ独自の書棚づくりや本の配列をしているものです。書店員というのはおおむね書棚づくりに命を懸けている。残念ながらいい加減な本屋さんもありますが、少なくともリブロはがんばってますね(笑)。
 ぼくは、かつて「遊」という雑誌をつくっていたとき、ロジェ・カイヨワやピエール・ド・マンディアルグやスーザン・ソンタグやルイス・トマス、ジョン・ケイジといった欧米の知識人やアーティストにどんどん会いに行きました。彼らの家やオフィスを訪ねると、それぞれ素晴らしい書棚を構えていて、ぼくはそれを見るだけでも会いにいった甲斐がありました。そして、書棚こそがその人の思想を表すのだという確信を得たのです。それ以降、たった1冊の本を選ぶときにも、まずその棚全体を見るようにしています。そこには、誰かが意図して並べた本と本との関係性が潜んでいるからです。
 ぼくの仕事場には約5~6万冊の本がありますが、それらは1冊ずつ単独で存在しているのではなく、ある文脈に沿って書棚に配置しています。これらの本はぼくのスタッフたちもしょっちゅう使っていますが、彼らには「本を1冊取り出すときには、必ずその両脇にある本を見るようにしなさい」と教えています。
 ぼくは編集工学者として「情報は一人でいられない」ということをモットーとしてますが、本こそがその典型です。1冊の本を手に取れば、少なくとも10冊以上の本と、もっといえば大いなる知の森の一部とかかわったことになるんです。そのことをぜひ意識してほしい。書棚の本の前後左右の文脈のつながりを意識することによって、グーグルや親指一発ケータイの検索では得られない知識の蓄積ができるし、読書の幅が広がります。

◆パラパラ読まずに目次を読め

 そうやって書棚や並びを十分に見ながらようやく1冊の本を手にとったら、パラパラとページをめくりたいのをちょっと我慢して、5分だけ目次をじっくり読みましょう。
 たとえば『千夜千冊 虎の巻』の目次の4章のところには「ドストエフスキーとフロイトがなげかけた謎」という見出しが書いてありますね。これを読んで「ドストエフスキーとフロイト?」「謎ってなんだろう」というふうに、ちょっと思いをめぐらしてみる。この前段階をふむことで、あとから本文でこの第4章をよんだときに格段に理解しやすくなるはずです。
 たとえば、TVをつけたら野球の中継をやっていたとします。その試合がいまどんな状況になっているのかは、ぱっとはつかめないことでしょう。でも、点数がどうなっているか、三回裏なのか九回表なのか、塁に出ている選手はいるのかといったことが把握できてくると、とたんに試合の中身に入っていけますね。
 読書も同じです。まず目次によって大筋をざっくりつかんでから、本文に当たり、個々の文脈とつかんだ大筋とを組み合わせながら読むようにすると、一気に読書というものをハンドリングできるようになる。もっと言えば、読書というのは目次さえしっかり読めば、80%は終わったも同然です(笑)。それに、目次を5分かけて読んだときの感想と、まるごと1冊を1ヶ月かけて丁寧に読んだときの感想は、実はほとんど大差ない(笑)。ウソだと思うなら実際にやってみるといい。それほど、本の内容を把握して自分のものにするということが、みんなできていないんですよ。だからむしろ一時の好奇心の高ぶりとともに一気に鷲づかみにしたほうが、自分のなかに残るものも多いんです。

◆本は「取り扱い注意」

 いよいよここからは、本を読んでいる最中のポイントです。
 じつは、本に書いてあることは「絶対」ではありません。本は麻薬であって毒薬であって裏切り者でもある。そう思ったほうがいい。だから、読む側が本との付き合い方をコントロールしないと、著者の勝手な意図に引きずられるだけです。それでは自分の読書体験というものにはならない。本というのは「取り扱い注意」商品なんです(笑)。
 本は著者のためにあるのではない。読者が著者に合わせる必要なんてないんです。ときにはワインを飲むように、ときにはむさぼり喰うように、あるときは全速力で走りこむように、たまにはコソコソしながら、というふうに、自分が接したい方法で接するべきです。
 けれども多くの人が読書については一様なスタイルしかもっていない。通勤電車で読むとか、寝る前にベッドで読むとか、喫茶店で読むとか、せいぜいそれくらいでしょう。これではいけない。もっと読書モードのバリエーションを増やすべきです。こうなってしまう原因は、読書が一人でする行為であること、読書している姿を誰かに見られるチャンスが少ないことにあると思います。でも、洋服や食事が毎日同じでかまわないと思う人は少ないでしょう。その日の気分や場所によって「変えたい」と思うものですね。それと同じ感覚を、読書にも入れるといいんです。

◆著者を過信してはいけない

 もうひとつ重要な本のヒミツを教えます。じつは著者というのは文章がヘタだと思ったほうがいい。だから、本は鵜呑みにしてはいけない。これは著者であるボクが言うんだから絶対です(笑)。
 著者というものは、アタマで思い描いたことの3割程度しか書けていないのが現実です。考えたことのすべてを書けている著者なんていないはずです。仕方がなくて“あたかも”とか“まるで”などといったレトリカルな表現で、なんとかそれに近いことを文章にしているだけなんです。文章というのはまさに装飾です。どのようにでも書けてしまうものです。だから本というものを、著者というものを過信してはいけない。
 ただし、そんなふうにだらしのない著者を、読書するにあたってはひとまず許容しなければいけません。そういう意味で、読書というのは「交際」なんですね。だから著者の言葉にベタにつきあうのではなく、その本がいったいどんな経緯で書かれたのか、といったことを、一歩引いて思いめぐらしながら、あえて著者を受け入れてみるようにするといいんです。過信は禁物ですが、反発していたのでは充実した読書にはなりません。
 そのようにして、本の前で自分が裸一貫になるのではなく、ある時空間をもって本とつきあってみることが大切です。実感としてはその著者と会っているかのような意識をもつようにするといいでしょう。

◆読書モデルをつかって読む

 著者の書いたことに引きずられないためには、自分のなかに読者モデルを持つといい。ボクは、つねに2つのキャラクターを立てて本を読んでいます。「著者になり代わる自分」と「著者ではない自分」。それぞれにまたモデルがあって、前者には科学者モデル、文学者モデル、アーティストモデル・・・など、さらに科学者モデルのなかには、ホーキングモデル、寺田寅彦モデル、湯川秀樹モデル・・・など、たくさんストックしてあります。また、後者には、「ある女性に惚れている自分」モデル、「やましい自分」モデル、「幼い自分」モデルなど、こちらも多様にある。それらのモデルを1冊の本を読むあいだに、入れ替わり立ち代わり照合させて、どのモデルで読むといいのかを使い分けています。

◆もっと本を汚しなさい

 読書とは“本”という旅に出ることと同じです。だから、旅先での感想を日記や手帖に書き込んで帰ってくるように、本にも大いに書き込みをするといいんですね。気になったところにマーキングを入れたり、そのときに考えたことを走り書きしたりする。これが、ぼくがお勧めの「マーキング読書法」です。ちょっと面倒に思うかもしれませんが、慣れると「速読術」なんかよりずっと速く本が読めるようになります(笑)。
 ぼくのマーキングの一例を紹介すると、たとえば見方Aと見方Bという2つの視点をもとに話が展開されている文章があったとすると、Aに関わるところにはA、Bに関わるところにはBと書き込んで読み進める。すると、あとで読み直したときに、自分がそこをどんなふうに通過したのかがマークを見るだけで再現できます。あたかも旅先の記憶を写真を見て蘇らせるように、ですね。
 さらには、自分がぐんと加速できたところ、失速してしまったところなども書き込むとよい。自分が知というものにさしかかっていくときの感覚を覚えていくわけです。そうすれば、車を運転するときに、どのあたりでハンドルをきると曲がりきれるのか、どこでブレーキをふめば定位置で止まれるのかをだんだん習得していくように、自分のコンディションと本との関係をコントロールできるようになる。
 ちなみに、よく本に傍線を引く人がいますが、あれはだめですよ(笑)。少なくとも、著者の主張に関心したところと、表現に関心したところは同じ線でマークすべきではないし、疑問をもったところも線を変えて残しておくべきです。
 ま、マーキング読書術の詳細は、『千夜千冊 虎の巻』に書いてありますので、ぜひ買って読んでください(笑)。

◆2つの「A」で読書体験を意識する

 読書をするときにもうひとつお勧めしたいのが、「二つのA」を使った読書法です。一つ目の「A」は、アフォーダンス(affordance)です。扇子を持とうとするときに手の形を扇子の要(かなめ)に合わせようとしたり、コップを持とうとするときに手をコップの円筒形に合わせた形にしますね。このように、「アフォーダンス」というのは、私たちの身体が扇子やコップに「アフォード」されているという考え方です。つまり私たちの手は「扇子ハンド」とか「コップハンド」というものになる。
 本に向かうときも同じです。本というものに自分がアフォードされて、なんらかの構えを取っているということを意識するといいんです。うまく読書に入れないときには、ちょっとその構えを修正して入りなおすといい。
 もう一つの「A」は、アブダクション(Abduction)です。これは、演繹・帰納にならぶ推論の方法の一つで、ごく簡単にいえば「仮説形成」のことをいいます。本を読んでいる最中に自分のなかに生まれつつある「仮説」を使って、文脈を解読していくようにするといいんですね。つまり、そうやって読書をしている最中の体験を、自分にフィードバックさせることが大切です。これができるようになると、読書は受身の行為ではなくなる。自分なりの世界をつくっていくために読書をすることができるようになります。

◆読書は編集である

 かくして最後に申し上げたいことは、「読書は編集である」ということです。文章を書くことも本を作ることも「編集」ですが、読書をするということも「編集」なんです。つまり、著者や編集者が時間をかけて行った編集プロセスを、もう一度読者としてかかわることによってリバースエンジニアリングするのが読書なんですね。また、そうやって本を読むという行為を通して、1冊の本と自分の記憶や知識を自在に照らし合わせ、組み替えていくこともできる。読書というのは自己編集でもあるんです。
 さらに言えば、読書というのは相互編集でもある。読書体験というものを、誰もがお互いに共有し交換することができるわけです。
 いま私たちは普通、本を黙読していますが、12~13世紀までは世界中が音読社会でした。もともと本というものは声に出して読まれていたものなんです。読書する空間というのは聴覚的な空間だった。これはヨーロッパの古い図書館のキャレル(読書ブース)の作り方や、日本の絵巻を見るとすぐにわかります。「源氏物語絵巻」にも、巻子を読んでいる源氏の声を御簾の影で聞いている女御の姿が描かれています。当時の日本が音読社会だった証拠です。
 残念ながら、音読社会から黙読社会に変わったことによって、読書というものは一人の行為、1冊の本のなかに閉じ込められてしまい、共有空間としての本というものが成立しにくくなってしまいました。欧米ではいまだに「ブッククラブ」というものが出版業界を動かす強い力をもっていますが、日本では読者の側から新たな共有空間やコモンズを作るということがまだ始まっていません。でも、ぼくはそういったものが生まれる可能性はあると思っていますし、相互編集のための読書空間というものを、自分でも創ってみたいと思っています。
 ぼくは、世の中には「ヘンなおじさん」と「きれいなお姉さん」と「そのいずれでもない人」の3種類しかいない、と考えてます(笑)。どういう意味でしょうね。そして、皆さんは、そのうちのどの人といっしょに読書してみたいですか。これが、「セイゴオ流読書術」の本当のヒミツです(笑)。

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気温34度にも負けないセイゴオの熱弁

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「もっとカジュアルに本と向き合うといい」

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講演後はサイン会も行われた

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2007年7月24日


Report ギャラリー册で、幼なごころと物語を語る


 7月20日、「擬画遊書展」開催中のギャラリー册で「夜のサロン」が開催され、セイゴオがソロトーク。作品テーマ「物語の出現」にちなんで、自分自身の生い立ちを振り返りながら幼なごころと本や物語との出会いを語るという本邦初の試みとなりました。
 来場者全員に「千夜千冊全集」第8巻に収録されている「松岡正剛二万二千夜譜」の0歳から18歳までの全36ページが資料として配布され、セイゴオの物語はその冒頭の、1944年1月25日の出生のエピソードから始まりました。
*下記の文中の作品は、すべてギャラリー册で展示中の、松岡正剛によるハイパープリント(版画)作品です。

◆欠けてしまった戦争と京都の記憶

 ぼくは戦時中の昭和19年1月25日に生まれましたが、戦争を体験したという記憶はありません。最悪の時代に京都で生まれて、記憶のない嬰児期を過ごして、気がついたときにはぼくは日本橋芳町にいた。昭和19年生まれというのは、ぼくにとって欠如した日本の宿命そのものであって、「戦争体験」について自分が何も書き込みできていないということが、ぼくの考え方や思想に大きな影響を与えているんです。
 ここにぼくが書いた遊書「数寄」が展示されています。こういう書を書くときにも、「欠如している記憶」がかならず蘇ってくる。体験できていないことだからこそ、蘇ってくる。
 たとえばたった今、夜空に星を見たとします。でもその星の光は何億光年もかかって、今やっと地球にいるぼくの目に届いたものです。つまり宇宙というのは大過去です。仮にその星たちが地球にうんと近づいてきたとしても、ぼくが見ているのは5億年前、3億年前、1500万年前、あるいは500年前の光というふうに、つねに過去のものですね。たとえ手の届くところまで星の光が近づいてきたとしても、ぼくが見る光はほんのわずか過去のものである。つまり、今生まれたばかりの星の光を、ぼくは同時に見ることはできない。
 だとしたら、自分が同時代的に何かを体験したかどうかということに、いったいどんな意味があるのか。それよりも宇宙の大過去から「今」という時間までの連続性を体験しているのだと考えたほうがいいのではないか。自分の記憶や思考や表現には、そのような大過去すらもがかかわっていると思うべきではないか。
 ぼくはここにある遊書や擬画に取り組むときに、呼吸や手のストロークをなんとかコントロールしようと格闘し続けながら、ずっとそのことを意識しました。そうして生まれてくるものを、「物語」と呼んでみたかったんです。

 私の母は、京都で一番大きな呉服屋の娘でした。父は長浜の呉服屋の分家筋で、昭和初期の日本を席巻した近江の繊維商人の末端だった。父母は見合いで知り合い、母が大きな老舗から、新興商人の父のもとに嫁ぎ、そしてぼくが生まれた。
 ところが、2歳のときに父の方針で東京に引越しました。ですからぼくの記憶にある原体験には、戦争も敗戦もない上に、生まれた場所である京都もない。ぼくの記憶は泉鏡花や永井荷風の日本橋から始まっているんです。
 なぜ父が敗戦直後に京都から東京に動いたのか。しかも京呉服屋なのに、東京の呉服のメッカである日本橋に移ったのか。たぶん京都よりは東京のほうが混乱がましだと考えたんでしょう。でも、あとにして思えばそういう奇妙な父の行動が、いまの私にも反映しているようです。

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◆ピアノと幼稚園がきらいだった 

 父母とぼくが移り住んだのは日本橋の芳町で、近所から三味線の音が聞こえてくるような芸者の町、川上貞奴が育った町です。貞奴といえば6歳のときに伊藤博文に惚れられて、のちに日本人ではじめて海外で女優として認められた女性です。そういう女性たちのいた日本橋の記憶が、いまのぼくにとても根強く残っている。
 2歳のときに妹が生まれて家族は4人になりましたが、3歳のときに、突然母と僕と妹だけが湘南の鵠沼に転居しました。これも理由がよくわからなかった。おそらく日本橋で京呉服店を立ち上げるという父の大胆な計画がなかなかうまくいかなかったんでしょう。しかたなく、闇市で軍用品の販売なんかを手がけていたようです。そして母と子供たちだけが、鵠沼に転居させられた。
 鵠沼は当時の“湘南”のイメージを代表する高級住宅地でした。どこの家からもピアノの音がし、どこのお姉さんもドーナツをつくっている。まるで敗戦なんかとは無縁のようなへんな町でした。しかも生粋の京女の母までが、何を考えたのか、ぼくにピアノを習わせたりした。そのピアノの先生がひどかった。芸術家気取りで、耐えられない先生。ぼくはそのせいで、後にグールドやチック・コリアやセロニアス・モンクに出会うまで、ピアノとの関係をふさいでしまった。きっと誰にもこういう経験はあることでしょう。少女期・少年期の“不幸な出会い”によって、塞がれてしまったもの、奪われてしまったものがある。
 そのかわり、ぼくはハーモニカが好きになってよく吹いていました。あるときハーモニカの金具で唇を切って、ハーモニカが血で染まってしまったので、それを庭のホウセンカの元に埋めた。ちょっとシュールな子どもですね(笑)。お配りしたぼくの年譜にそのことを書いたエッセイの引用があります。

 その後、家族そろって日本橋に戻り、人形町がぼくの最初のにぎわいの体験になっていきます。まだまだバラックのような町並みでしたが、店先のきらきらした花火やブリキのおもちゃが気になっていた。
 ぼくは母に手を引かれて歩きながら、脇見したくてよそ見したくてしかたなかったけど、いつも「いけません」と言われていた。ある日とうとう、ひとりでそれを見に行ってしまった。水天宮まで歩いて行ってしまった。おとなには大した距離ではなくても、4歳の子どもにとっては大冒険です。「おうちがだんだん遠くなる」という童謡みたいに、とてもさびしい気持ちになった。子供のぼくの知覚の単位が、それまで知らなかった単位に出会ったんですね。いまもぼくは、そういう幼なごころの単位を大事にしています。
 ここにある9枚仕立ての版画「物語の出現」も、古代オリエントや小アジアの遺跡や神話を取材しているときに、自分がはまった単位を再現しようとしたものです。何度も何度も紙と墨とを合わせて、押し付けたり剥がしたりスクラッチして、それを再現しました。

 5歳になると、日本橋の東華幼稚園に行きました。「幼稚園に入ったその日に大人社会に連れ去られてきたと感じたものだった」と、ぼくはそのときの体験を千夜千冊『日本の幼稚園』(第562夜)に書いていますが、幼稚園というのはぼくにとって“すでにできあがってしまった社会”でした。ちょっとみんなから遅れて中途入園したこともあって、なかなかなじめなかった。そもそも初めて行ったその日がお遊戯の日で、母や先生がいやがっているぼくを無理やり輪のなかに入れようとする。「こんなのいやだ。こんなスキルアップされた世界になんか入りたくない」とか思ったんですね(笑)。
 そこにまたヨコシマタカコちゃんというおしゃまさんがいた。彼女のやさしさとおせっかいによって、ぼくの反抗心が増幅されてしまったようです(笑)。それはまた、母や妹以外の女性との出会いでもあった。

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ハイパープリント「物語の出現」シリーズより「ミノア」

◆父の教えと3つの物語との出会い

 そうやって社会との軋轢を体験していく一方で(笑)、父が徹底してぼくに一流のものを見せようとした。この父の方針は今でもありがたかったと思っています。
 芸者も落語も歌舞伎も、建築もホテルもレストランも一級品だけを見せようとしてくれた。父は相撲の琴錦や歌舞伎の先代吉右衛門や落語の桂三木助のタニマチをやってました。旦那衆で遊び人だった。しかも一人で遊ぶだけじゃなくて、ぼくをどこへでも連れて行ってくれた。ここぞという場面で「播磨屋!」と「どめき」をやらされたりした。
 日本橋の家は、落語の末広亭から5分の場所だったので、落語にもしょっちゅう行きました。当時はまだテレビなんかなくて、落語も漫才もラジオでしか聞けない時代でした。父のおかげで、いろんな芸人たちの顔を知っていることがその後ぼくの自慢になったものです。

 日本橋の東華小学校に入り、そのころ絵本や童話との出会いも始まった。とくに夢中になったのが『クリのおてがら』『フリップ物語』『ノンちゃん雲に乗る』。『フリップ物語』は長いあいだタイトルを忘れていたんですが、千夜千冊で『日本の絵本史』を取り上げたときに再会して思い出しました。ベルギーの小さな町の物語で、家々の屋根の風見鶏たちのなかにひとつだけ“風見馬”がある。これが主人公のフリップです。フリップは鳥になれないけれど、町に降りてきて冒険をします。そういう物語に夢中になった。『クリのおてがら』のほうは、夜中に悪さをするネズミをやっつけようと野菜たちがミーティングをして、クリが立ちあがってクーデターを起こす話です(笑)。『ノンちゃん雲に乗る』は石井桃子さんの童話で、ご存知の方も多いでしょう。ノンちゃんが、池に映った雲があまりにきれいなので枝に登ってよく見ようとして池に落ちてしまう。池に落ちるとそこはふわふわの雲の上、ノンちゃんはその雲に乗って、いじわるなガキ大将に会いに行ったりいろんな体験をしていく。最後に、おかあさんの声でやっと目が覚めるという話です。
 この3つの物語が、ぼくの原点です。最後には翼をもったペガサスとなって天空を駆けるフリップ。野菜たちのリーダーになってネズミと闘うクリ。池に落ちて、自由に空を飛びまわるノンちゃん。とくにノンちゃんは、人間の知覚は水たまりのなかに太陽も宇宙も映せるということ、言い換えれば、メディアがなければ人間は自然も宇宙も知覚できないという今のぼくの考え方にも、影響を与えています。

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ハイパープリント「物語の出現」シリーズより「語り部」

◆吃音体験と、日本文化への反抗

 8歳のときにようやく一家は京都に戻りました。綾小路室町、祇園祭の鶏鉾(にわとりぼこ)という鉾町でした。このころぼくの次の原体験が連続して起こりました。はじめてホタルを見て感動したり、はじめてブヨにさされたりした(笑)。日本橋から京都に移って、ぼくはやっと「自然」というものを体験したわけです。比叡山や東山の緑など、絵に描こうとしても描けない緑だった。東京にはない色だった。
 もうひとつ、ぼくが体験した大きなものが「吃音」です。京都に生まれながら東京に育ったせいで京都弁がまったくしゃべれない。転校した修徳小学校で、みんなに言葉をからかわれた上に、「さしすせそ」が発音しにくかった。それで吃音になってしまったんですね。頭のなかのフキダシには話したいことがつまっている。なのに言葉が出てこない。そのことに悩みました。結果的に吃音は克服はできたけど、直ってみるとかえってがっかりした。頭のなかにあることの100分の1も言葉にすることができない。日本人が英語を話せても、ろくな話ができない、思想がしゃべれないのと同じです。そのことを、ぼくは吃音に悩んでそれを克服するという体験のなかで強く感じた。

 一方、父も母も京都に戻れてうれしかったんでしょう、こぞって二人がかりでぼくと妹を京都文化に染め上げようとした。
 そもそも母は文才のある人だった。女学生時代にラジオドラマ・コンクールで優勝するほど演劇好きでもあった。また母の兄は日本画家で、ぼくに宗達とキリコをいっしょに教えてくれるような人だった。父もますます本領を発揮して、京都新聞の社主や南座前の伊沢屋や河原町の宮武時計といった旦那衆と遊んだり、隣の帯屋といっしょに庭に不審庵見立ての茶室をつくったりしていた。
 そんな父と母がぼくに対して熱心になればなるほど、ピアノのときの拒否感と同じことが、またしても起こってしまったんです。京都文化や「和」に対する拒否感が生まれてしまったんですね。それが最初に出たのが、謡曲だった。観世流の師匠のところに行かされたんですが、これがまた耐えられなかった。だいいち、あんな大仰な声で意味のわからないことを謡うのがおかしくて耐えられなかった(笑)。父が友人の旦那衆たちと遊ぶお茶や芸能には自由な気風があったけれど、家元と呼ばれるような人々はみんなつまらないと思ったし、そのせいで長いあいだ「和」というものに反感を持ってしまった。そういう世界にのちのち自分で出会い直すまで、それが続いてしまった。でも、現代の茶にも謡曲にも、あいかわらずぼくが出会いたかったものはやっぱりないんです。
 ぼくは30歳半ばごろに、謡曲もお茶も書も三味線も、何がだめでどれがいいかが見えてきたように思うんですが、最初にそのことを自分で意識できたのは、写真でした。20代のときに、オリジナルプリントでなければ写真でないということを知り、ヴィンテージのプリントをたくさん見た。いまの日本でオリジナルプリントで見られる写真家はわずかしかいないことも知った。そのときに、自分が写真を見る目は、じつは京都にいたころ、あるいは鵠沼で、自分の拒否感によって失いながらその後自分で取り戻したものによって培われてきたことを、はっきりと認識したんですね。
 日本美術の多くもいまはだめです。美術批評もだめ。コンセプトメイキングができなくなっている。和も同じです。いまのままではだめです。むしろ椎名林檎に謡曲の間拍子のいちばんいいものが兆していたりする。そういうことをもっと日本に広めていかなければと思っています。

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ハイパープリント「物語の出現」シリーズより「母と子」

◆伏せられたもの開かれたもの

 父母は京都の「京鹿子」という俳壇にも小学生のぼくと妹を入れてしまった。俳句はまったく拒否感なく入っていけたんですが、このころつくった俳句を越えるものを、その後はつくれなかったように思います。小学生にしてぼくは俳壇でもてはやされてしまったんです。小学校4年で「木の箱にいちごの赤ののこりけり」、中学生のときに「秋深し薄くとじたるまぶたかな」なんてませた句をつくり(笑)、それをオトナたちが絶賛してくれた。それがぼくの俳句をダメにしたんですね。
 のちに雑誌「遊」をつくって、若者の教祖とかカリスマとか言われるようになったときに、ぼくはそれを拒否しました。CMや映画に出演してほしいといった話もあったけど、全部断りました。ぼくは早すぎる名声というものは人をダメにすると思っています。チャンスはあとからくればいい。自分から点を取りにいったらだめ。点を取る気もないのにやたらと褒められるともっとダメになる。
 俳句に関しては、ぼくはもう一度原点に戻らないといけないと今も感じています。

 小学校4年生のとき、ぼくが最大の影響を受けた吉見昭一先生と出会いました。京都大学出身でキノコ学者で、のちに腹菌類研究のリーダーになった先生です。雪が降ると授業を中止して雪合戦をさせる先生だった。学級文庫をつくって子どもたちに本を自由に買わせてくれたり、社会科のときには、あるものとあるものを比較させてどちらが好きかを必ず子供たちに議論させた。市電派とバス派とに分かれて議論させられたりした。そうやって子供たちに考えさせつづけた人でした。
 ぼくはその吉見先生によって日記を毎日書かされたことから、自分のなかにあるものに気がつきます。先生は子供たちの日記にいろいろ線を引いたり書き込みをしてくれた。いま思ってもその書き込みはおもしろかった。
 
 そのころのぼくは病弱でした。擬似結核になって、そのせいで母が過保護になり、体育を休まされたりした。これもぼくの心がマスキングされてしまう大きなもののひとつになってしまった。一方、父は学生時代に全国優勝したラグビーチームのフルバックだったこともあって、すばらしい体格だった。お正月は必ずラグビーを見に花薗に連れて行かれた。ぼくはラガーマンたちに憧れながら自分の身体の弱々しさを強く感じていました。のちに「フラジャイル」というコンセプトと出会い、そのことを本に書くまで、そのズレをずっと抱えていました。

 10歳を越えたころになると、やっと四生同堂、つまり家族とともに家のなかの仏壇や神棚やウグイスやメジロたちとかかわりはじめ、そういうもののなかに死生を超えたものがあるということに気がつきはじめました。
 初音中学に入ると、今度は化石や鉱物や科学現象に関心を深めました。また父がそのころ創刊された「週刊新潮」を絶賛していたことに影響を受けて、ぼくもメディアやその作り手に関心をもつようになりました。俳句に入選してもらった万年筆がうれしくて、ペン先の角度を変えて、いろんな書体で日記を書き分けるということもやりはじめた。

 世界文学というものと出会ったのもそのころです。ぼくにとってそれは「岩波文庫」との出会いでもあった。富永先生という人が、授業で『ファウスト』の話をしてくれた。「誰か読んでいる人はいるか」と先生が聞くとと、それまでまったく目立たなかった女生徒がたったひとり手をあげたんです。それが衝撃で、ぼくはその女生徒のもっていた、あのクリーム色の表紙の岩波文庫というものともはじめて出会うことになった。その翌日、さっそく若林書店(かつて梶井基次郎が書棚に檸檬を置いていった丸善のあったところ)へ行って、岩波文庫を探し、どきどきしながらデカルトの『方法序説』を買いました。なんでデカルトなんか買ったのかは憶えてませんが(笑)、それが、ぼくが初めて自分で買った本です。

 13歳のときに、父に連れられて花街にも行きました。筆下ろしのために連れて行かれたんですが、ぼくは何をすればいいのかわからないので、ずっとお姉さんとおしゃべりをして終わってしまった(笑)。父がそれを聞いてあきれていました。
 父の遊びの世界をいろいろ体験させてもらっていたけど、まだまだ普通の少年でした。野球少年でもあった。

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ハイパープリント「ドストエフスキー」

◆京都から引き離されて
 15歳になって京都朱雀高校に入ったとたん、父が突然、横浜に移転を決めてしまいました。母は大反対したし、ぼくもすっかり京都になじんでいたので横浜になんか行きたくなかった。ところが、繊維不況のせいで京都では商売が立ち行かなくなると考えた父は、またまた大胆にも横浜元町に京呉服店を出すというとんでもない計画を実行してしまった。
 しかも父が借りた家は山手町の外人墓地の近くの洋館でした。大家がゲラシモフというロシア人で、どこもかしこもペンキ塗りの真っ白な家で、見たこともない西洋式トイレに母も妹も難儀していました。
 でも父は大きな夢を見ていたんです。外人やホステスに京呉服を売ると本気で思っていたようです。でもやはり失敗しました。元町で京呉服なんて売れっこなかった。やがて家は没落し、父は多額の借金だけを残して、ぼくが大学生のときに、がん死してしまうんです。

 いま皆さんのうしろにハイパープリントで、ゴーゴリの『外套』に取材した作品を展示しています。背景に注連縄があって、黒い外套がハンガーにかかっているという絵です。なんでそんなものを描いたのかというと、ひとつはぼくが京都で出会った神社や注連縄に感じていた不思議な感覚をあらわしてみたかった。京都では年末になると煤払いをするんですが、それが終わると家中の十箇所以上に注連縄が出現するんです。明治20年くらいにつくられた古い町屋なかに、小さな神聖空間が突然たくさん出てくる。それは結界やヨリシロというよりも、もっと生活に近いものだった。
 それと、高校時代にゴーゴリを初めて読んだときの記憶も重なっています。ロシア人のゲラシモフの家から九段高校まで通っていた京浜東北線や、キリスト教に関心をもって通っていた富士見町教会の思い出とともに蘇ってくるゴーゴリが、ぼくの手に重なってこういう擬画になりました。

 思想もアートも人生の一角を占めるものです。それと出会ったときに、自分がどこで何をしていたかということがはずせないんですね。つまりゴーゴリの『外套』を読むとき、アカーキー・アカーキエヴィッチの物語に向き合うときにも、自分が体験していた風景とのマッチングやそのころの記憶の陥入が起こるわけです。
 
 今日は、ぼくが幼少期から少年期を経て青年時代までにどんなふうに物語の出現を感じていたかをちょっとだけ話してみました。こんなふうに話したのは初めてです。時間が足りなくて15歳くらいまでで終わってしまいましたが、この続きは、またいつかどこかで。

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ハイパープリント「ゴーゴリ」


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2007年7月20日


Report 「門」を感じる感門之盟 


岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ

 7月13日、港区芝にある建築会館ホールで、ISIS編集学校第17回「感門之盟」が開催されました。台風4号が接近していた影響で関西から種子島にいたる一部の地域の参加者が急に来られなくなったほかは、遠くはベルギー、カルフォルニアからもかけつけ、応用コース“破”(15期)と専門コース“離”(3季)の師範・師範代・学衆あわせて約130人が集合。受付をすませてイシス学林局発行「感門通信」を手にした同志たちはそのまま会場へ。十数週間にわたってインターネットで編集稽古・編集指南に明け暮れていたとあって、リアルな場で校長を囲み、恩師や愛弟子と「卒業」を祝う喜びはひとしおのようでした。

 ハレのステージは、水紋をあしらった「感門之盟」というスクリーン文字を中央に、上手(かみて)に「突破」、下手(しもて)に「離 退院式」というセイゴオの大きな書が彩りました。「感門之盟」の編集エンジンを担う司会進行は、大川雅生頭取と小清水美恵師範。5代目の女性司会となる小清水師範は、普段は人気オーガニックレストランの経営者です。女将風の着物姿で「以前から校長の賄いに雇ってほしいとお願いしているのですがなかなか願いがかなわなかったので、このような場でお役に立てて嬉しいです」。この日は日頃の手腕を発揮して絶妙な“包丁捌き”を披露。「みなさん、火であぶられる覚悟でご参加ください」という大川頭取との息もぴったり。

 はじめに校長の挨拶。「今日は、同門に入り、難問にあたった諸君が、感門する日です」と話し、百人一首から一句を引用。「瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ」。生まれ落ちた一滴の水が集まり、とうとうと流れて別れてまた集う歌です。“早瀬”に立ち向うこと、渡りきれない瀬に挑むこと、“瀬”に対する姿勢が大切だとセイゴオは粛々と語りました。

 15“破”の授与式では、まず木村久美子学匠から、今期の“破”が過去最多の学衆数だったことが紹介され、続いて4ヶ月にわたる編集指南の奮闘の余韻を表情に湛えた5人の師範と11人の師範代を称えました。スタートは「望気雲流教室」「レキオちゃんぷる教室」「まちかどラーセン教室」担当の、赤いポケットチーフを胸にしたお洒落な田中俊明師範のチーム。師範代には師範から渾身のメッセージが書かれた感門表が贈られ、校長からはメッセージ入りの先達文庫(せんだつぶんこ)が2冊づつ手渡されます。さらに、師範には一人一人のイメージに合わせて書き下ろしたセイゴオの書画色紙が贈呈されました。ラストは「酔道恋道教室」「シンドロ六甲教室」担当の、赤いバンダナでキリリと決めた海賊ルックの林十全師範のチームでした。

 休憩時間のおやつは「シウマイと大福」。この不思議な組み合わせは15“破”の校長校話がヒントです、と司会の大川頭取が種を明かし、つづいて小清水師範がその校長の言葉を噛み砕いて説明。「シウマイはシウマイ、大福は大福であるように、シウマイの皮がよくできているからといって、そのシウマイの皮の中に何でも入れようとしてはいけない。中身に“型”があるのであって、形のほうに“型”があるんじゃない。別のものを入れたいならば、皮ごと変えましょう」。そして、休憩時間のもう一つの楽しみは赤坂ZEREの蔵書を100円からオークションする「落册市」。今回はすべての本にセイゴオのサインやイラストが入っていたこともあり、100冊すべてが落札されました。

 そのあとはいよいよ第3季[離]校長直伝プログラム「世界読書奥儀伝」の退院式。ここで、離学衆の女性たち8人が舞踏会のようなあでやかなドレス姿で入場し、会場が騒然となり大拍手が沸きました。

 [離]校長直伝プログラムは年1回、30人限定で、セイゴオがこの講座のために書き下ろしたテキスト「文巻(ぶんかん)」をマスターする特別講座です。受講期間中は徹夜続きという伝説が広まっているほど大量の課題が毎日配信される厳しいものですが、今季は32人が受講し、そのうち「万酔院」15人と「放恋院」14人の計29人がみごとに“退院”を果たしました。ちなみに「“退院”とは「教室」にあたる「院」を無事に卒業することを意味します。
 8人の女性たちの堂々たるドレス姿は、何度も迷い何度も立ち止まりながらも、文巻を道しるべにとにかく前へ突き進んできたことへの確固たる自信と、「退院」に到達した喜びがどれだけ大きなものだったかを物語っていたようです。

 壇上では、離学衆一人一人の名前が呼ばれ、校長から退院証が手渡されます。また、会場が息を呑んで静まり返った中、関係と関係をつなぐような編集的活躍の著しかった者に贈られる「別当賞」(3人)と「総匠賞」(1人)が発表され、さらにセイゴオ直伝の「世界読書奥儀」を確実に修得したことを認定する「典離」(5人)が、太田香保総匠から発表されました。「典離」は、ISIS編集学校の最高の栄誉です。選ばれた離学衆には「典離額」とよばれるセイゴオ直筆の黒板画が贈られました。

 こうして約7時間に及んだ感門之盟は、再び校長講話によって締めくくられました。「いまの時代は“賞味期限”を問う時代。そんなたった一つの基準に社会が縛られている。ただ、人の想像力や創造力には賞味期限もなければ使う時期も決まっていない。いつでも“時分の花”がありうる。自分で賞味期限をつくりなさい。アソシエーションを駆使して好きな目標を掲げなさい。「守」で型を学び、「破」で型を使い、「離」で世界と対応する編集学校は、仕切りを自由に設定できる場所です」。
 校長はさらに編集学校の可能性を語り続けます。「『虎の巻』の第7章・男と女の資本主義の核となる“レベッカの資本主義”。司会の小清水さんも読んだときに打ち震えたそうですが、“レベッカの資本主義”を一言で言えば、営利の起源、資産の起源とは何かという問いです。キリスト教のはじまりから今までつづく資本主義の根本的な仕組みとは、相手の何かを暴いて人を押しのけて社会にのし上がっていくというもの。じつは、編集学校は、レベッカの資本主義を無視することなく全資本主義を相手どるくらいの知の相転移をおこせるかもしれない学校です」。

 参加者全員の胸に、境界線をつくり、早瀬を渡り、どんな臨海値も超えていこうという校長のメッセージが届いたところで閉会。そのあと、セイゴオも感門の余韻をいつまでも楽しみたかったのか、中華「周の家」での熱気むんむんの懇親会、さらに西麻布でのカリビアンな二次会にも顔を出し、とうとう明け方まで、師範や師範代や離学衆たちと語り明かしたようです。

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総合司会の大川頭取の今回のパートナーは小清水師範
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このあと二回の衣装替えをした校長
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林十全師範からシンドロ六甲教室の赤松師範代へ感門票が贈られる
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ポケモンカードを世に出した赤羽師範への色紙は「尾」
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落冊市は100円からオークションできます
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第3季「離」を率いた相京・倉田・太田別当ほか指導人10名が勢ぞろい
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典離額を手にしたベルギー在住のダンサー日玉さん
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真紅のドレスで典離額を受け取る大音さん
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会場を沸かせた華やかな「離」の貴婦人たち
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編集学校には、「番匠」という新たなロールも誕生
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多種多彩の花をさかせてハイ、チーズ!

撮影 川本聖哉

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2007年7月 6日


Report 擬画遊書展オープン!


 7月6日夕刻、ギャラリー「册」で「松岡正剛・擬画遊書展」がオープン。120センチ四方の大きな遊書から、葉書サイズほどの擬画まで、趣向を尽くした多彩な作品に見入る来場者たちで、会場はたちまち大混雑。とりわけ今回初挑戦した「ハイパープリント」は反響が大きく、原画作成から刷り上りまで、数週間にわたって苦心し続けたセイゴオも、ほっとしたようすでした。

 ギャラリー「册」のキュレーター新見隆さん、オーナーの北山ひとみさんとともにスピーチをしたセイゴオは、「ぼくはアーチストではない。これらの作品はほんの手遊びです」とことわりながら、今回の展覧会では、人間のなかに「物語」がどのように立ち現れるのかということを表現してみたかったと語りました。またそのために自分の手のストロークとメディア(画材)との関係を重視したこと、さらにはハイテクによる版画という新しい技法と出会い、イマジネーションやアイデアが触発されたことなどを明かしました。

 「擬画遊書展」では、版画はもちろんのこと、一点ものの遊書も一部を除いてすべて購入可能。また7月20日に行われるギャラリートークはすでに満員のため受付は終了していますが、7月12日(木)、7月21日(土)、7月28日(土)には、セイゴオと会場で会えるチャンスあり。千夜千冊」ファンはもちろんのこと、古今の物語世界を表現したかつてないセイゴオの作品に、ぜひ触れてください。

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会場に吊るされた和紙バナー。左右の遊書はもちろんセイゴオ手書き。

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今回の展覧会中、最大の遊書作品「器」。

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北山ひとみさん、和紙人形作家の内海清美さんと。

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スピーチで、作品に込めた思いなどを語る。

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ハイパープリント作品に見入るオートバイデザイナーの石山篤さん。

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会場照明で特別協力してくださった藤本晴美さん。

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「册」のなかの一画「糸宿房」には、行灯作品「四天燈」が吊るされている。

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作品とともにディスプレイされたセイゴオの本に見入る人も。

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写真家のエヴァレット・ブラウンさんとアーチストの菊池慶矩さん。

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真っ白な衣裳がひときわ華やかな真行寺君枝さん。

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緻密なドローイング作品「ランボー/ボードレール」に見入るのは、
春日大社の中東弘さん。


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岡山から駆けつけた招き猫美術館館長の虫明昭夫さん。

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セイゴオが仕組んだ絵解きを楽しむアスキー編集長福岡さんと、
邦楽家の西松布咏さん。

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会場では『千夜千冊虎の巻』も販売中。
その場でセイゴオにサインをもらう来場者も。


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2007年7月 3日


Report 連塾絆走祭「牡丹に唐獅子」フォトダイジェスト


 6月16日、築地本願寺で開催された連塾絆走祭「牡丹に唐獅子」は、セイゴオのモデレートによって8人のゲストが次々と登場し、トークや映像やパフォーマンスを披露、全7時間におよぶ破格のイベントとなりました。
 「牡丹に唐獅子」は、連塾を主催する連志連衆會理事長の福原義春さんの命名によるタイトル。それを受けてセイゴオは、日本の「アワセ・キソイ・ソロイ」などのマッチングのメソッドと、アナロジーやアブダクションといった編集工学の基本メソッドを組み合わせて「次第」を構成。3ヶ月以上にわたり、演出・照明の藤本晴美さんとともに、出演者の皆さんと入念な打ち合せを重ねてこの日の本番を迎えました。

 連塾は参加者の顔ぶれも破格です。今回も、アーティスト・企業人・政治家など各界のリーダーから、伝統技術職人・老舗のご主人まで、全国から250人の多彩な方々が集い、セイゴオとゲストが展開する絢爛プログラムを堪能していました。

 以下、その一大イベントのようすを、写真とともにダイジェストでご紹介。

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第1部会場の蓮華殿に飾られたセイゴオの書「唐獅子」。
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参加者全員に、名札と特製ファイルが配布される。
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開演前、ロビーで参加者をお出迎え(右はワダエミさん)。
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「迷走日本から絆走日本へ」。オープニングから加速するセイゴオ。
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カルチュラル・コンピューティングの可能性を語る土佐尚子さん。
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高野明彦さんはコーパスが生み出す意味検索システムをデモ。
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坂井直樹さんのプロダクツはまさに「牡丹に唐獅子」。
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森村泰昌さんによる「三島由紀夫」のパフォーマンス。手には自作の檄文巻物。
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歴史と時代を引き受けることの意味と重さを語り合うMとM。
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休憩時間には、目にも鮮やかなディスプレイで串料理が振舞われた。
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築地本願寺の本堂に会場を移して第2部が開演。
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厳かに進む遠州流家元・小堀宗実さんによる献茶。
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初顔合わせとなった俳人の黛まどかさんと書家の矢萩春恵さん。
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畳4枚分の大パネルに黛さんの俳句を朱墨で書く矢萩さん。
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真行寺君枝さんが自作の台本による渾身の「日本語り」。
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180インチスクリーンに杉浦康平さん構成のアジアの図像が躍り出す。
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複合獣からマンダラへ。東洋のマッチングの意味を独自に読み解く杉浦さん。
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「日本は母なる知を取り戻すべきです」。7時間に及んだ絆走祭を締めくくる。
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250人の「絆」を迎え入れ、見送った、セイゴオの手書き立て看。

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2007年6月27日


Report 脳の由来と未来を語る


 6月10日(日)、理化学研究所・脳科学総合研究センター(BSI)主催のトークセッション「脳の古今東西~脳科学の由来と未来」が東京国立博物館・平成館大講堂で開催され、パネリストとしてセイゴオが出演。
 理学博士の佐倉統さんのナビゲーションで、京都大学霊長類研究所所長の松沢哲郎さんが、チンパンジーの研究を通して脳機能の獲得と喪失のトレードオフ仮説を解説。次いで鎌田東二さんが、中国の内経図や笛を使いながら宗教学の視点から身体と脳の関係を語った。
 セイゴオは二人の話しを受け、脳と表現について、さらには脳と科学の見方について話し、脳研究は科学の諸ジャンルによってもっと多様な軸から取り組まれるべきものであることを示唆した。下記はその要点。

■古今東西の脳-2つのキーワード
 文学も哲学も科学もすべて、あらゆる表現は脳を通して生まれたものであり、人間が考えてきたことの本質は変わらない。人間の歴史は脳の問題に取り組んできた歴史ともいえる。ではなぜ脳は多様な表現方法を持ったのだろうか。このことを考えるとき「時間」と「場所」が重要なキーワードになる。 
 人間は言葉を獲得したことによって、長期記憶を可能にした。「意識」は「記憶」となり、それによって時間という概念が生まれた。記憶は場所や地域に深く関係している。言葉がさすイメージは、地域や国によって大きく違う。たとえば日本では心や感情を現すときに「気持ち」や「気分」や「気心」など「気」を多用するが、インドや中国では「気」は呼吸として捉えられている。

■脳の仕組み-2つの「A」
 脳の仕組みを「アソシエーション」と「アブダクション」という二つの「A」をキーワードに考えてみる。アソシエーションとは組み合せや連想という意味。アブダクションとは類推や仮説形成のことをいい、わかりやすく言うと連想を含んだ「当て推量」に近い。ちなみに、日本文化の方法である「アワセ・キソイ・ソロイ」はアソシエーションであるし、シャーロック・ホームズの推理はアブダクションである。私たちは、常に「二つのA」によって、物事や事象の隠れたつながりや関係性を発見しながら、歴史的現在に立って思考や判断をしているのである。普段の生活の中でも、仕事の場面などで論理的な言動をするときも「二つのA」が働いている。
 科学的思考をするときも例外ではない。たとえばラットやマウスを使って実験や観察によって最新の脳の現象を何らかのデータに表したとしても、そこには科学者や実験者のアタマのなかに働いたアソシエーションやアブダクションが反映されているはずである。ということは、「二つのA」は科学というものの成り立ちそのものに深く関係しているとも言える。脳科学もまた例外ではない。
 にもかかわらず、この二つの「A」の仕組みはまだまだ解明されていない。脳科学はもちろんのこと、あらゆる領域で議論すべきテーマである。
 
■脳科学の未来-2つの視点
 さらに、これからの脳科学は二つのことを大切にするべきだ。一つは「コンピュータネットワーク」と脳との関係を考えること。現代はコンピュータと共存する社会である。ただし「今」を考えるためには、太古からの問題をすべて一緒に捉えることが必要である。もう一つは脳そのものを考えるのではなく、「道具」を介した脳の仕組みや可能性を考えること。人間の進化もコミュニケーションも道具を介しておこなわれてきたということをもっと注目すべきだ。

 さらには、研究対象として普遍的な「人類の脳」を考えると同時に、個人個人に潜む脳の特性も考えるべきであろう。すなわち「類」としての脳と、「個」としての脳という問題である。難しい問題ではあるが、脳科学者はもちろん、あらゆる分野の科学者に、そこでおおいに遊んでほしい。
 「遊び」というものは、不足や矛盾のあるところから生まれる。思考がロジカルにいかないときにおこる。けれども、知性の萌芽はいつだって「遊び」の中にこそあるのである。

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2007年4月26日


Report 椿座最終講「日本の物語に選ぶ」


8本の千夜千冊を横断するモノがたり

 4月18日、九段のNIKIギャラリー「册」で、椿座の最終講が行われました。これまで、日本の古典、音楽、調度を案内してきたセイゴオは、ラストを「日本の物語」で締めくくり。そのために、「千夜千冊」から物語を取り上げた8本を選りすぐり、朗読と解説によって日本の物語の構造や秘密を超高速で解き明かしました。
 以下、8本のラインナップとともに、講義内容の抄録をお届けします。


(1)『浦島太郎の文学史』 千夜千冊第635夜

 日本の物語の「モノ」は「物」と「霊」の2つの意味をもっている。つまり日本のモノカタリとは、人が語るものではなく、モノに潜むストーリーを語らせるもの。「千夜千冊」の『浦島太郎の文学史』は、乙姫が浦島太郎に贈った玉手箱の謎を追いながら、古代から近世の浦島伝説の変容を、中国神仙譚や仏教説話との関係を織り交ぜて解いたもの。ぼくは玉手箱を「負の装置」と読み替えてみた。


(2)『雨月物語』 千夜千冊第447夜

 千夜千冊全集では「中国と日本をつなぐ恐怖」というタイトルを付けた。江戸時代、日本は中国離れをしつつあったが、文芸は中国を忘れなかった。荻生徂徠による中国の擬古が、江戸の文芸に「聖人の人情」と「狂儒の意識」という二つの立場をもたらした。秋成はその後者から出た。ただし秋成は心を狂わせるのではなく、言葉に狂い、スタイルを狂わせた。


(3)『死者の書』 千夜千冊第143夜

 (黒いクロス貼りの原本を見せながら)、「したしたした、こうこうこう」という音から始まるこの一冊こそ、ぼくにとっての珠玉の物語である。かつて「志斐語り(シイガタリ)」という語り口をもった一族がいた。語り部ごとに語り口が違い、物語の解釈も変わる。折口は、一人の化尼を語り部に仕立て、物語の冒頭に「死者の耳」を置いた。この折口の方法だけが、古代の魂の物語を知る唯一の縁(よすが)ではないか。


(4)『日本橋』 千夜千冊第917夜

 明治以降、日本の幻想は露伴と鏡花が一手に引き受けた。しかし自然主義やリアリズムの波が、芸者の哀切を描く鏡花に「時代遅れ」の烙印を捺した。鏡花はそんな「野暮天」な社会に対して、得意の美のアナクロニズムと、壮絶な「逆悪魔」によって逆襲した。そして『日本橋』の芸者お孝に「これで出来なきゃ日本は闇だわ」と啖呵を切らせた。この鏡花と共闘したのが、フランスから帰ったばかりの永井荷風である。


(5)『赤いろうそくと人魚』 千夜千冊第73夜
(6)『五番町夕霧楼』 千夜千冊第674夜

 『赤いろうそくと人魚』はガルシア・マルケスに匹敵する物語である。しかし未明童話は呪術的呪文的すぎると批判され、いったんは日本の文学界から完全に忘れられてしまった。「千夜千冊」の附記に、未明による「童話作家宣言」を紹介しておいた。ぜひ読んでほしい。小川未明が復活しなければ日本は闇です。
 鏡花、未明、折口をいったい誰が継承しているか。ぼくはその一人が水上勉だと思っている。


(7)『産霊山秘録』 千夜千冊第989夜

 浦島文学がその後どのように日本に継承されたか。そういうつもりで今日はこの一冊を選んだ。ぼくが20代後半に夢中になった物語であり、この書きっぷりの奥にある半村良の日本の見方がおもしろい。「ヒ」一族は、日本の秘密を握る一族なのである。ぼくはいつか「アヤの一族」という物語を書いてみたいと思っている。


(8)『枯木灘』中上健次 千夜千冊第755夜

 この中上の物語も結局、浦島伝説なのである。それをうんと短くすれば「赤いろうそくと人魚」になる。こういう物語はいま語られなくなっている。『三丁目の夕日』や『東京タワー』がウケる日本なんてくだらない。もっと「名状しがたいこと」を語るべきだ。いつかアヤの一族が物語を救ってくれることを、願いたい。

*「椿座」は、連志連衆會会員のためのクローズドな日本文化サロンです。今年新たに、第2期がスタートする予定です。

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2007年3月26日


Report 「21世紀のISIS~想像力と映像」押井守氏と対談


「21世紀のISIS~想像力と映像」をめぐって押井守氏と対談

 3月10日(土)、岐阜県の未来会館で、第一回織部賞受賞者の押井守さんと織部賞選考委員を担うセイゴオが対談。これは「織部賞が生んだ“縁”と“演”~水木しげる・押井守~展」の特別企画として開催されたもので、朝から行列ができるほどの盛況でした。うち8割がすでに押井さんの監督作品『イノセンス』(2004年)を見ているという熱心なファンたち。そのファンの気持ちを代表するように、押井作品を貫く思想やアニメーションの可能性など食い入るようにセイゴオが問いかけました。

■物語の外部を描く

押井:アニメーションには2つあって、ひとつは僕みたいに物語とは関係なく「アート」に徹するものと、もうひとつは「物語」でひっぱっていくもの。

松岡:見る人はそこに物語があると思いがちだから、アートに徹すると分かりにくいと言われる。

押井:ぼくは、表現それ自体をつかって物語の「外部」(外の世界)を描くことにしか興味がない。最初にそのことを意識してつくったのが『天使のたまご』(1986制作)。

松岡:あれはまさに「観念」の映画。観念の具体化だね。情緒がまったくない。

押井:ぼくは、タルコフスキーのようなことをアニメーションでやりたい。ガラスの瓶にただただ水がたまっていく様子を描き続けるとか。実写だと「外部」は「外部」にならざるをえない。アニメーションだと「外部」に気付かれなで「気配」を表現することができる。

松岡:今日のテーマでもある「イシス」は、まさに神であり観念であり外部。これは『イノセンス』のテーマにもなっているのでは。

押井:『イノセンス』は『天使のたまご』以来、20年ぶりにとことん「外部」にこだわった。リラダンとダンテの世界を非常に意識した。

松岡:「世界定め」が並々ならない計算で仕上がっていた。ぼくは千夜千冊のリラダン『未来のイヴ』で『イノセンス』のことを書いた。場面を徹底して構造化して、細部にいたるまでトポグラフィックに仕立てている。

押井:ぼくは、限定した世界をピカピカにしたい。ピース(部分)一つ一つを磨きたい。
部分に「魂」が宿って、はじめて全体ができる。ディテールと全体は等価だと思っている。

松岡:押井さんの作品は、つねに部分と全体が相依相存するように作られていて、どんな場面にも空気の密度がある。

押井:作品は、テーマである「魂」が宿るべき器。どれだけ精緻に作りこむかが勝負。

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■人間とロボット

松岡:『イノセンス』には、人間の肉体を持った人がほとんど登場しない。ほとんどが機械。表情を殺した人間人形を動画にするのはきわめて困難でしょう。

押井:ぼくは、人間をパーツとして認識している。ロボットを人間に近づけるのは無意味だと思う。人間がロボット化することのほうがより人間的。

松岡:18世紀にフランスの哲学者ラメトリーが発表した「人間機械論」を思わせる。足は歩く筋肉であり、脳髄は考える筋肉であるという話。

押井:日本人は、昔からリアルな身体よりも、むしろ幽霊とか妖怪とかロボット的なものを重視しているのではないか。

松岡:確かに、十二単衣も鎧も文楽もロボット的。人間というものは、仮面を付け替えるように多様な個性を持ち、入れ替え可能とみるほうがいい。

押井:コンピュータは人にかなわないと言われているけど、ぼくは人間の脳をコンピュータ化したほうがいいと思っている。

松岡:手塚治虫から押井守まで、漫画家やアニメーターたちは、「外部」を入れて人間人形を表現してきた。もともと人間の細胞自体がミトコンドリアという外部を含んで成立している。

押井:まさにそのミトコンドリアが大事。ぼくは意識された世界に興味が無い。「無意識」を相手にしたい。とくにアニメーションは「無意識」そのものだと思っている。

松岡:活版印刷が発達して社会が音読世界から黙読世界に移り変わったことで「無意識」が誕生したと言われている。以降、「無意識」を刺激してきたのは蓄音機や映像、現代では無意識に対するアニメーションの影響力も大きい。ところが、アニメーターがこれを意識していない。

押井:書きたいキャラクターを描く探求心は旺盛だが、その奥に潜む無意識の存在に疑問をもたないアニメーターが多い。

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■すべてアニメーション

押井:ぼくは、アニメーションを「動く絵」だと定義している。動きがなければアニメーションじゃないというのは違うと思う。

松岡:縄文土器もクルクルまわせばアニメーションになる。着物もアニメーションに近い。

押井:実写映画もコマ撮りまでさかのぼって、フレーム単位の写真の連続と考えれば、アニメーションになる。人間には、昔から自分が記憶したものを対象化したいという欲求と、動く絵が見たいという欲求がある。

松岡:あまりにも精巧にできたCGは、人の想像力をかきたてなくなるのはどうしてか。

押井:フレーム数が増えれば増えるほど、ものすごく生々しくなって、人は見るに耐えられなくなるからでしょう。画面の情報量はスカスカなくらいが調度いい。

松岡:あえて人の認識がついていけるように、ノイズをいれる必要もある。

押井:「イノセンス」では、人間の情報吸収レベルにあわせるため、仕上がった映像に特殊加工をしてあえて劣化させた。映像のリズムやテンポをCGの世界に支配されてしまわないように。アニメーションの本質は「感覚の再現」です。リアルである必要はない。絵は記号であればいい。

松岡:漫画とアニメーションの違いはどう思う。

押井:アニメーションはフレームの大きさが決まっている。いまテレビに慣れすぎて、漫画が読めない子供がでてきている。番号をふらないと漫画を読む順番が分からない。

松岡:確実に、漫画の認識レベルが落ちている。一方で、アニメーションは世界で評価されている。漫画もふくめ何か独自なものが日本にあるのだろうか。

押井:日本人の美意識でしょう。正確だとかリアルだとかを問う前に、気持ちのいいことが重要という見方をもっている。それから、日本人は輪郭を大事にする。

松岡:歌舞伎の見得や、それを絵にした浮世絵がまさにそう。片仮名や平仮名も漢字の輪郭を生かしてつくられた。どちらも漢文を筆写するうちに略字化・省略化して自立したもの。たとえば「安」から「あ」へ、「牟」から「ム」へ。

押井:日本の文字には古代の言葉のイメージがちゃんと残っている。

松岡:ところで、押井さんは、どうしてそんなに犬が好きなのですか。

押井:「犬」は、ぼくの人生にとって最初に感じだ「外部」で、ぼくの生涯で一番の「外部」なんです。

松岡:アリスター・ハーディの『神の生物学』に「人間が神を想定するようになったのは、犬が人間を神のようにみなしているのに近い現象だ」と書いてある。

押井:基本的に人間にとっての「外部」は、動物であることが多いと思います。

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2007年3月12日


Report 神々の国「宮崎」を訪ねる


 シスコシステムズ主催「第3回エグゼクティブ・フォーラム」が陽春の宮崎で開催されました。シスコシステムズユーザー企業数十社のリーダーたちが集う半年に一度の「和座」(WAZA)という催しで、連塾の発起人でもある黒澤保樹社長が司会進行役をつとめ、セイゴオと呉善花氏が毎回ゲスト講師として招かれています。今回の呉善花氏のテーマは「日本人のアイデンティティ」、セイゴオのテーマは「日本の情報文化とその技」。

 日本に根付く「調和」の意識を体系化することに世界の未来があるという善花氏の講演をうけて、セイゴオは、懐石料理に見る器の組み合わせ、茶会における道具の取り合わせなど、日本の調和に異種配合という特殊性があることを示し、次のように話を展開しました。

 日本は、八百万の神々といわれるように、多神の国であり、しかもそれらは客神です。フォーラム開催地である宮崎は、ニニギノミコト(瓊瓊杵尊)が“天孫降臨”をした地として知られますが、この神話は日本の国づくりの始源に外来神、すなわち外来の一族が深く関わったことをあらわしています。
 日本各地でおこなわれている多彩な祭りは、この客なる神を迎えてもてなすことで、神話の描く日本の始源をもどいています。とくに宮崎には古くから受け継がれてきた貴重な祭礼行事が多く、その代表が神を迎え送るまでの一切の段取りを素晴らしい舞いで表現する「高千穂神楽」。
 高千穂神楽にはまた和事(わごと)と荒事(あらごと)、和魂(にぎたま)と荒魂(あらたま)という日本のコンセプトモデルがひそんでいます。

 このモデルをつかった芸能が「能」。何もない空間である能舞台、そこに橋掛かりを超えてやってくるシテ。能はまさにワキの存在する現実世界に、神としてのシテを呼び招きます。そして世阿弥の夢幻能は、移り舞いによって目には見えないはずの神や魂の“面影”(おもかげ)とその“うつろい”を出現させる仕組みを大成しました。この目に見えない“面影”がうつろうことで日本がかたちづくられてきたのです。

 セイゴオは、今こそ“日本の面影”の歴史を感じて欲しいと願いをこめて講演をしめくくりました。

 講演終了後、参加者との交流を楽しんだ翌日、セイゴオはイザナギノミコト(伊邪那岐命)とイザナミノミコト(伊邪那美命)を祀る江田神社、楠の大木にかこまれた神武天皇ゆかりの宮崎神宮、そして神武東征ゆかりの美々津の海と立磐神社をめぐったのち、25年ぶりに天孫降臨神話がのこる“高千穂”を訪れました。宮崎市内から車でひた走ること約3時間。

 最初に向かった先は、アマテラスオオミカミ(天照大神)を祀る天岩戸神社。社殿は厳かな雰囲気を漂わせる素朴な造り。社殿裏の谷をはさんだ対岸にはアマテラスが身を隠したと伝わる洞窟「天岩戸」。つきっきりで案内してくれる神主がまるで祝詞のような口調で語る天岩戸伝説に、セイゴオはじっと耳を傾けていました。

 つづいて、ニニギノミコト(瓊瓊杵尊)を訪ねて槵觸(くしふる)神社へ、さらにニニギノミコトを道案内したサルタヒコ(猿田彦)とウズメノミコト(鈿女命)を祀る荒立神社へ。そしていよいよ高千穂88社の総社でもある高千穂神社へ。樹齢800年の秩父杉に迎えられ、重厚な佇まいの本殿に拝礼し、山里にある境内をしばらく逍遥。

 神社めぐりのあとは、ニニギノミコトが天から降り立ったと伝わる古えの二上山(ふたがみやま)を探すため、国見ヶ岡へ向かいました。高天原(たかまがはら)に降り立った神々がここから各地を眺めたことに由来する丘で、高千穂随一の眺望。大きな地図をひろげ四方八方を見渡し、方角、標高、山肌、山容から二つの峰がそびえ立つ特に秀麗な山を発見し、あの山だろうと推測。折りしも、夕日が高千穂の風景を染めはじめ、神話の里がしだいに夕闇に沈んでいく様子をセイゴオは無言で見つめていました。

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夢幻能と現在能の間をうつろう面影の話
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イザナギノミコトが禊ぎをした御池ちかくにある江田神社
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神武東征で海上安全の祈願をした立磐神社の御神木
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荒立神社の神楽殿で面を拝借し舞を舞うセイゴオ
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社殿背後にある天岩戸に向かって深々と拝礼
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国見が丘から高千穂の集落を一望

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2007年2月 2日


Report 「連塾」第2期「伴走祭」・第二祭開催


高速疾走の第二祭「風来ストリート」

 1月27日(土)、池袋の自由学園・明日館で、「連塾」第2期「絆走祭」開催。連塾の魅力は毎回語りの調子を変える、多様なセイゴオのソロ講義。加えて第2期はタイトルにぴったりなゲストが登場し、多彩なトークやパフォーマンスを繰り広げる。
 第二祭となる今回のタイトルは「風来ストリート」。セイゴオとゲストが、まさに風を巻き起こし6時間を疾走した祭りとなった。照明・演出は第一祭に引き続き、藤本晴美さん。  

 会場である自由学園・明日館は、学園の創立者羽仁吉一・もと子夫妻の依頼で、建築家フランク・ロイド・ライトが大正時代に設計した重要文化財。モダンクラシックな講堂のステージにセイゴオの「風来」の書が吊るされ、150人の塾生を出迎えた。
 登壇したセイゴオはまずライトと日本の関係から語り始め、日本の遊民や風の文化へと話を展開。そこへ大倉正之助さんの大鼓にとともにオートバイデザイナーの石山篤さんを迎え、風の中を人機一体となって走るオートバイのエロスとタナトスについて語りあった。
 ついで田中泯さんが客席後方から登場。仮設の黒い花道を踊りながらセイゴオの待つステージに登り、踊りは「外」から訪れて観客との関係のただなかに成立することを身体であらわした。続くフォトジャーナリストのエバレット・ブラウンさんは1~2年の間に日本中を撮った140枚以上の写真をスクリーンに投影しながら、これからの日本への思いを語った。 
 3人のパフォーマンスや語りを受け取ったセイゴオは、もともと日本は外来魂の国であり、外部の目が浮世絵や桂離宮など日本の美を発見してくれたこと、そして我々の先人たちが海を渡ってきた文化コードを風のように感じながら自分たちがもっていた文化と合わせてモード編集してきたと、第1部をまとめた。

 ここで30分の休憩。明日館自慢の手作りのあんぱんやケーキ、クッキーが暖かい飲み物とともに供せられ、塾生はしばしの歓談を楽しんだ。

 第2部では、遠州流宗匠・小堀宗実さんが椿を活けた本棚・「燦架」(セイゴオ監修・山中祐一郎デザイン)と、ライトの弟子・遠藤新が大正時代にデザインした机と椅子がステージに配され、藤本さんの青い照明が第1部とは趣のちがう空間を作りだす。そこに再び登場したセイゴオが、資生堂名誉会長である福原義春さんを迎えた。
 連志連衆會の会長でもある福原さんは、連塾の第1講とともに昭和という時代を合わせて振り返りながら、明治維新、世界大戦、そして資本主義とグローバリズムによって日本が見失った方法を、もう一度考え直す会にしようと塾生たちに呼びかけた。
 4人目のゲストは、詩人であり俳人であり歌人でもある高橋睦郎さん。セイゴオと二人で「言葉」と「型」と「おさなごころ」について、高橋さんの人生や多様な著書を交えながら絶妙な調子で語りあった。
 最後は小堀宗実さんが風呂敷包みを提げて登壇。旅先に持っていくこともあるというお道具一式を茶箱から取り出して、茶人の「好み」としての「風」が「流」になっていくことについて、また風が通るゆとりの大切さについて語りあった。

 締めはセイゴオのソロ講義。日本には「荒魂と和魂」「荒事と和事」のように、一対以上の関係をあわせる方法があった。たとえばお茶で使われるふくさにも、同寸もあれば異寸もある。これを「間に合わせ」や「持ち合わせ」のように「アワセ」といった。
 本来「アワセ」は「キソイ」の前にあった。そこには侘び茶でいう「わびの精神」があり、相手を思いやる気持ちがある。しかし市場価値だけですべてが判断されるようになると競争だけになり、「アワセ」がなくなってしまった。このような社会は自由競争社会と言われるが、そこには本来の自由はない。
 最後に「風来」の達人として井伏鱒二と徳川無声の映像を流しながら、井伏や無声の価値が伝わらない現代の日本では、交換不可能な価値を一度作らないと市場価値のレートはこわれない。連塾ではそのことを皆さんと遊びたいと、結んだ。

2007020201.jpgセイゴオ「 “風”はメッセージでありメディアです。“風来”にはそれ自体にメッセージがある。」

2007020202.jpg石山「若い頃に3~4年間ほど、風癲して(笑)、ようやくマシーンを通してオートバイのエロスが表現できました。それが人機一体のはじまりです。」

2007020203.jpg石山「日本人は縄文のころから“ものづくり”が好きな民族だと思う。楽しみながら心をこめて部品やメカニズムをつくる文化が日本にはある。」
セイゴオ「オートバイのサイズも日本人に合っていると思います。茶室や能舞台のように日本人が得意とするミニマル・ポシブル(消極主義)があるのかもしれない。」


2007020204.jpgセイゴオ「泯さんっていつから踊っているんですか?」
「46億年・・・。だったらいいな(笑)。」


2007020205.jpg「どういう場所にも踊りはある。ただ、私たちはそのすべてを見ることはできない。だからぼくはいつも踊りを探しているんです。」

2007020206.JPGエバレット「日本に照準をあわせたのは父が日本の写真を持っていたから。ひっかかるものがあった。特に宮島の鳥居が人生最初の謎になって、その疑問を抱きながら日本にやってきた。」
セイゴオ「エバレットの写真は出会っていくことの方が重要で、写真があとからついて来る。まるで風のように。」


2007020207.JPGセイゴオ「外から日本にきた外国人たちは海のウェーブやリズムのなかから日本の何かを発見してくれる。エバレットはこれからどんな日本を探そうとしてますか?」
エバレット「19世紀の日本、明治に戻ります。日本人が置き忘れたものを探しにいきたい。湿版写真を使って日本を撮っていきたい。」


2007020209.JPG福原「日本の企業は昭和から平成になってまた一段とおかしな方法に進んでいる。世界的に見ても、資本主義は最終段階に入っているし、もう得られるものよりも副作用のほうが大きくなった。」

2007020210.JPG高橋「言葉に目覚めたのは、ぼくが生まれてすぐに死んだ父の影響です。父は小学校しか出てないのに万巻の書をもっていて、親戚の家をたらいまわしにされて地獄を味わっていたぼくは、いつも言葉たちと遊んでいました。」

2007020211.JPGセイゴオ「“死者”とか“あの世”に対して、高橋さんほど自由に書ける人はいない。」
高橋「ぼくにとっては死んだ人も生きた人もまったく同等。詩とは遠くにあるもので、詩は書くものではなく探すものなんですよ。」


2007020212.JPG小堀「今日は、自作の竹の花入れに椿をあしらいました。あの割れ目は“雪割れ”と言います。小堀遠州の教えにある“満つれば欠くる”の世界です。」
セイゴオ「“損ないもの”というのは日本の美の発見のメソッドですよね。満足の美ではなくて不足の美。」


2007020213.JPG小堀「茶室に床の間をつくるように、日本人はなにか場所に拠り所をつくる習性がある。この茶箱の蓋は言わば床の間なんです。だから雪月花を見立てて装飾している。ここに“好み”が出ます。」
セイゴオ「“好み”とか“数寄”は、“一客一亭”や“主客”といった自分と相手との関係によってなりたつ。つねに相手に向かって渡すつもりで、ちょっとした、寄せやテイストやスタイルをつくる。」


2007020214.JPGセイゴオ「分析的な欧米思考だけではつかめない日本というものがあります。耳をそばだてて目を凝らして“日本”という方法を見つめて、つなげていきたい。」

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2006年12月 7日


Report ニュークリア・フォビアに棲む思考形態


「多価値化の世紀と原子力」フォーラムで語る

 12月6日のTBS「日本をさがしに行こう!」放映時間中、セイゴオは原子力利用に関する学術フォーラムでの講演のため、大岡山の東京工業大学・百年記念館にいた。機械学会やAI学会や情報処理学会などさまざまな学会で講演をしてきたセイゴオも、「原子力」をテーマに語るのは初めてのこと。

 この講演をアレンジしたのは東工大の原子炉工学研究所の澤田哲生さん。“核の平和利用”をめぐる科学技術の将来と、“核の恐怖”にねざした忌避感の歴史のあいだで、「原子力」や「核エネルギー」はどのように語られるべきか。専門領域を超えた議論の土壌が必要と考える澤田さんの依頼を受けて、そのための多軸的で編集的な視点を提供することがセイゴオの講演のねらい。集まった約100人の聴衆はフォーラムメンバーの研究者や技術者、企業人に加え、約半数が一般申込み。

 セイゴオはこの講演のために15枚にもおよぶレジュメをほぼ一晩で用意。しかし物質の原点ともいえる「核」と、それをめぐる人間意識を語ることは、セイゴオの編集的世界観の最深に触れることにもなるとあって、本人曰く「行きつ戻りつ、思考の分岐を自分で確かめながら」の、言葉とイメージの機微を追い続けるような語りとなった。

 動物が新奇なものに出会ったときに起こる反応には、「ネオフィリア」(新奇嗜好症)と「ネオフォビア」(新奇恐怖症)の二つがある。人類に当てはめてみた場合、たとえば一神教の世界では「悪」を造形することによって「善」や「聖」の造詣を対比的に強調した。東洋とりわけ日本では浄土と穢土を対比させ、末法到来への恐怖心からさまざまな浄土美術の造形を生み出した。このような「フォビア」に根ざした東西の世界観や方法の違いをどう見るか。

 近代以降の社会は、宗教ではなく科学によって「フォビア」を徹底的に管理し監視しコントロールしてきた。しかし人類から「フォビア」がなくなることはない。「完全」という擬似的な幻想モデルが重視されすぎている今日、かつての宗教に変わる「方法」をどのように見いだしうるのか。

 NPT(核拡散防止条約)体制が陥っている、核兵器廃絶と恒久的核兵器国温存という矛盾。小型の大量殺戮兵器による「自爆テロ」を撲滅するという大国のアジテーションにひそむ欺瞞。個人の生存権と国家というホッブス以来の問題をどう考えるか。

 そもそも生命には核エネルギーに対する「フォビア」があったのかどうか。おそらくはなかったはずである。しかし、そのことに答えるためには、ビッグバンとその後の光と物質の交代劇という宇宙創生モデルと、生命誕生の序章(パンスペルニア説)をつなぐ「シナリオ」が必要である。まだ誰もそのことに着手していない。

 このように、「原子力」と「核」を語るための“前提”となる視点をさまざまに示唆し、最後にセイゴオはそれを「ニュークリア・フォビア」を考えるための「9つのポイント」として整理して提示した。その8番目は「宇宙も生命も“方法”である」ということ、9番目は、そのようにして「方法」を主語にしながら構築する「編集工学的世界観」についてだった。

 珍しく聴衆の前で思索の航跡をあきらかにさせながらの90分間の講演だったが、セイゴオの思考の彷徨とそこから紡ぎだされた言葉に、新鮮な感動を覚えた聴衆たちがいたようだ。終了後の懇親会には30人ほどが押し寄せ、澤田さんによると「こんなに聴衆の目が輝き、懇親会にこんなに多くの人が殺到した講演会は初めて」のことだったらしい。

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2006年12月 6日


Report 『松岡正剛千夜千冊』刊行記念セミナー「読書の極意」


◆書物と知覚のあいだ

 12月1日(金)丸善・丸の内本店で、『松岡正剛千夜千冊』完成記念セミナー「読書の極意」が開催された。3F実用書フロアの奥にある会場は本を手にしたビジネスマンやセイゴオファンで埋め尽くされ、急遽椅子が追加された。
 満員の会場に紺のスーツに薄緑のハイネックで登場したセイゴオ。「千夜千冊」を通してセイゴオが日々実践し、また改めてつかんだ読書の極意を語り始めた。

 本を読むとはいったい何なのか。読書人口は多いがまったくといっていいほどわかっていない。読書という行為のプロセスは未だ不明で、現代の脳科学でも解明できていない。本を読むということは目で見る刺激と意味を解釈する刺激がある。しかしこれは半分で、あとの半分は読書をしながらも違うことを考えている。

 読書は目ではページの順番に連続的に読んでいるのだが、脳のなかでは思考が連続ではない。これを「非線形読書」という。ここに読書の醍醐味があり、不思議がある。では読書という行為は人間の行為としてどういうものであるのか。

 ここで重要になってくるのが読書法の変化である。近代では声を殺した読書、黙読をするが、16世紀までは世界中で書物は音読されていた。長いあいだ人間にとって読書は声の文化としてあった。今でも幼児が絵本を読むときや小学校で初めて読書を習うときは声を出して読む。読書のメカニズムの根本に声があった。つまり読書には声の文化と目の文化があったのだ。このようにプロセスだけを考えると、読書を説明するのは難しい。しかし読書はおもしろい。
ここでセイゴオはもっと読書をおもしろくするために日々実践・編集し続けているユニークな読書術を紹介。

 読書にはレパートリーとカウンターとパレット、3つの領域がある。広大な本の世界には数多くのレパートリーがある。まず最初に心がけることは、レパートリーである書店や図書館で本を選ぶときに、これだと決めた一冊の左右の本を絶対に覚えること。それから本を手に取りまずは1~2分、目次だけをみる。これを「目次読書法」という。ここで自分のカウンターで作業するように、今までの読書体験や自分の経験などをマッピングしながら、自由に本の中身を想像する。そしていよいよ自分のパレットに本の世界を描くように読む。このときセイゴオは“傍線”や“囲み”や“記号”をタグをつけるように本に書き込む。これを「マーキング読書法」という。

 書き込むことによって、本はノートにもなる。マーキングしたページは再読のとき内容が浮かび上がってくる。こうすれば何度でも本の中に入っていける。
さらに読書をおもしろくするためには、読書という行為をしないことだとセイゴオは言う。読書は学びであるが、まず遊びである。そこには喜びがあり、何度でも本に入っていくことによって、その時々の喜びを交歓することができる。

 人間の知覚と書物という知のかたまりの間にはなんでも入る。書物には著者・編集者・版元が知の総動員をかけている。だからこそ読書には自分の総動員をかけたほうがいい。この戦いはいくらでもおもしろくなるが、まだまだそうなっていない人が多い。ブティックでジャケットやセーターを試着するように、もっと自分にあった「本の着心地・脱ぎ心地」を試してみるべきだ。

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「非線形読書」と「3つの領域」を解説するセイゴオ


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2006年11月28日


Report セイゴオ霜月NNレポート


 11月のセイゴオは西へ東へ大忙し。初旬はまず奈良と那須に招かれて、それぞれ趣のちがう対談を行いました。

◆奈良から「ゼネティック・コンピュータ」と「電子図書街」を発信

 11月4日、奈良県立図書情報館の開館一周年記念として、セイゴオとメディアアーティストで京都大学教授の土佐尚子さんが公開対談。テーマは「ゼネティック・コンピュータと電子図書街」。2人が共同開発中のカルチュラルコンピューティングの最先端の話が展開しました。ちなみに、会場の情報館は日本最古の図書館といわれる「芸亭院」の跡地に立っています。

 約2時間のセッションの冒頭で「ゼネティック・コンピュータ」のデモビデオが紹介されました。東洋思想とコンピュータが初めて融合したインタラクティブシステムで、3次元山水画と禅問答によって、ユーザーを未知の物語に誘います。コンピュータグラフィックス分野で世界的な「SIGGRAPH2004」でデモを行い話題になりました。

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セイゴオ:「ゼネティック・コンピュータ」は、ゲーム特有の“勝敗”や“目的”や
“結論”を重視していないから、いい。どこにも“正解”を求めていない。

土佐:このコンセプトとエンジンによって、日本にかぎらず世界各地の途絶えてしまい
そうなローカルな文化を、コンピュータで再現できるかもしれない。


 続いて、200万冊の書物でうめつくされた「電子図書街」を紹介。人が街のかたちを認識して暮らしているように、書物も書棚ごと頭のなかに入ってくるようなものがあれば知の領域をより自在にコントロールできるのではないかというセイゴオの考えから生まれた大構想です。現在も金子郁容さんがリーダーとなって編集工学研究所、北大、慶応大、京大とともに開発プロジェクトが進んでいます。

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セイゴオ:図書街では、図書館の分類とは異なり、書籍同士、本棚同士がリンクされて横のつながりを持っている。一冊一冊の本がもつ多様な文脈がユーザーにどうアフォードしていくのか。街のいたるところで相互編集状態がたちあがることに興味がある。

土佐:コンピュータ上では“本”というものの単位を自在に扱える。本を情報化するこ
とで、それぞれの無意識下にあった本との関係性を他人と交換したりつないだりしてい
ける。


◆那須で、脳科学者・茂木健一郎さんと12時間対談

 11月11日~12日は、つい先日「七石舞台」の御披露目を開催したばかりの那須の「二期倶楽部」で、脳科学者の茂木健一郎さんと12時間におよぶロング対談。コーディネーターは、MCプランニングの薄羽美江さん。晩秋の二期倶楽部の風景のなかで2人の思考が交じり合い、日本という方法と生命論がたくさんの関係線で結ばれました。この対談は、薄羽さんのプロデュースにより文藝春秋からの書籍化が予定されています。

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茂木:ロボット工学にはまだまだ身体論が足りない。結局ぼくたちは生命を捉えきれないでいるんです。
松岡:AI(人工知能)も、グーグルやアマゾンみたいな検索システムも、これからは人間の“身体モデル”をもっと適用すべきなのにね。

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茂木:松岡さんのいう“ウツ”に興味がある。節分ひとつとっても、日本では“鬼”を排除しないで、わざわざ“鬼”を呼び込んでから祓いますよね。この“ウツ”の概念で生命を捉えてみたい。
松岡:それにはテンプレートをどう考えるか。ちなみに、嫌気性生物がのちの好気性生物の真逆の生き物だったように、生命の最初の状態を逆鋳型と捉えることもできる。

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松岡:普遍性は、情報をつまんで貼り付けるカットアップ型か、情報を織り込むホールドイン型の二種類。つまり世の中には編集的現実性しかないということ。
茂木:たしかにコドン(遺伝情報の暗号)の世界も、普遍的な方法をもちながら結果の約半分がミスプリントで成立するわけだから、もともとネット社会は生命体とよく似た体質をもっていることになる。


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2006年11月 7日


Report 「イサムの和・ノグチの洋」


 セイゴオがイサム・ノグチに引き寄せられて四国を訪れたのはかれこれ十回以上に及ぶ。前回は10月14日に御披露目した「七石舞台」の石を選びに,晩年イサム・ノグチが住み着いた牟礼をおとずれ、弟子の和泉正敏さんの案内を受けた。3年ぶりとなる今回は、高松市美術館で開催中の「イサム・ノグチ展」の記念講演会に招かれての来訪。和泉さんや高松市美術館学芸員の毛利直子さんはじめ,四国・関西の編集学校メンバーの手厚い歓迎が待っていた。

 講演開始は午後2時。会場にはイサム・ノグチを最近知ったという学生から長年のファンまで、約200人以上が詰めかけた。高松市美術館の講演会としては、過去最高の入場者数となり、急遽補助席が準備された。田村館長の紹介を受け「イサムの和・ノグチの洋」の大きなタイトルバナーを背にして、ノーネクタイの白シャツと黒いスーツ姿のセイゴオが壇上に立った。

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◆二極の間を生きたイサム・ノグチの運命

 はじめて牟礼に行きイサム・ノグチのアトリエで放心したときのこと、もともとコンスタンティン・ブランクーシが好きでその流れでイサム・ノグチを知ったことなど、セイゴオがイサム・ノグチに魅かれていったエピソードをゆっくりと話はじめた。
 本題に入ると場面転換するかのようにドキュメンタリー映像をさしはさみ、スピードをあげて一気にイサム・ノグチの人物像に迫っていく。

 父は日本人の詩人・英文学者の野口米次郎、母はアメリカ人作家・教師のレオニー・ギルモア。1904年ロサンゼルスに生まれ、2年後日本に渡る。
 イサム・ノグチが生涯抱えたもの、それは東西の血をもつ二重国籍という宿命。和と洋の間に身を置き、天と地を軸にして極大と極小を抱えもったイサム・ノグチが、これほどまでに素晴らしい作品を残せたのはどうしてなのか。

◆清沢満之と西田幾多郎とイサム・ノグチの共通点

 いま日本では、プリント浴衣が流行り、民芸調のアクセサリーが好まれ、雑誌でもテレビでも「茶道」や「華道」が日本の文化としてとりあげられ、さまざまなところで「和」のブームがおこっている。しかし、はたして日本はこれでいいのだろうか。
 日本人はいまこそイサム・ノグチの精神をあらためて知る必要がある。ただ、イサム・ノグチのような境遇は珍しい。誰もが体験できることではない。継承したくてもできないことがある。では、私たちはイサム・ノグチから何を感じとるべきなのでしょうか。

 イサム・ノグチの精神については、私は明治の宗教哲学者・清沢満之や哲学者・西田幾多郎といっしょに語りたい。日本という国は、陽と陰、大と小、善と悪、天と地、正義と犯罪、合理と非合理といった相反する概念が混在している国である。その両者は入れ替わり、ときに部分が全体を凌駕する。
 清沢満之は「二項同体」というユニークな考えかたを提唱し、矛盾を矛盾のままいかす思想を唱えた。「二項対立」を前提とするヨーロッパ哲学の洗礼をうけた清沢は、あえてその「二項対立」に立ち向かうことで日本を発見した。
 西田幾多郎が提唱した「絶対矛盾の自己同一」も同じことを言っている。自己と他者も、主観と客観も、精神と物質も、ヨーロッパ的な対立的・対比的な関係にしないということ。まさに、これがイサム・ノグチなのである。イサム・ノグチは「絶対矛盾」を本気で表現した人物だった。


◆日本の庭園がイサム・ノグチに衝撃をあたえた

 コンスタンティン・ブランクーシ、アルベルト・ジャコメッティ、そしてイサム・ノグチ。この3人こそ20世紀を代表する彫刻家だと思う。なかでもイサム・ノグチがイメージする“彫刻”は、当時の人々が思い描く“彫刻”よりもはるかにスケールが大きかった。
 彼はヨーロッパの彫刻を見つくしたうえで「石」と「彫刻」と「自分」の矛盾を解決するものが日本にある、日本の「庭園」にこそ自分が求めていた世界があると気がついた。こうして1969年にイサム・ノグチ(65歳)は香川県の牟礼にアトリエを構えた。
 日本の庭には“神庭”と“斎庭”と“市庭”という3つの種類があるが、どの庭についても膨大に見てまわり、「日本の庭園は彫刻そのものだ」と言った。そして「地球を彫りこむ」という有名なメッセージを残した。

 イサム・ノグチは日本庭園の何に彫刻を見たのか。平安時代の造園書『作庭記』にこんな一説がある。「石の乞はんにしたがひて立つべき也」。
 日本の庭園では石ひとつの置き所を決めるのにも石に耳をそばだてなくてはいけない。ここにイサム・ノグチが思い描く彫刻と通じる精神があったのだろう。また、石、砂、樹木などで山水を表現した日本独特の庭園様式「枯山水」は、水を感じさせるためにあえて水を使わない、いちばん欲しいものを引き算するという斬新なものだ。これこそ、「日本の方法」であり、これこそイサム・ノグチが見た日本だった。


◆二つのものの関係が「意味」を決める

 イサム・ノグチの作品のなかには『見えるものと見えないもの』や『マイナスイコールプラス』のように、相反する両極端のものを両軸にとった作品がある。日本の言語にも、陰イメージと陽イメージをいっしょにしてつくったものが少なくない。
 たとえば「加減」という言葉は、「加えることと減らすこと」ではなくて「ほどよいところで止めること」を表す。その場に依存した関係が「加減」という言葉の指し示すものを決めている。同じような言葉に「去来」や「結構」がある。そこには意味の「出入り」がある。
 じつは、人を飽きさせない普遍的なアートの秘訣は「出入り」ができるかどうかにかかるところが大きい。それは、和洋、大小、天地など、二軸の間をどう動くかということだ。


◆和の本質は「不足」にある

 日本人は「満足」ではなく「ちょっと足りない」ところに美をみつけてきた。日本には「粗相」や「粗品」といって、自らをへりくだる言葉がある。ここで注目すべきところは、へりくだっていることではなく、足りないことは承知のうえで今の状況ではこれが精一杯であるという「侘び」の心なのである。それを「持ち合わせの美」や「事足りぬ美」という。満足しきれていないところに美を見出すのだ。この「不安定」つまり「インスタビリティ」こそが、イサム・ノグチの永遠性を支えた。
 彼は作品「ウォーターストーン(蹲)」が完成したとき、不均一に水が溢れ出すことを指摘した記者に対して、「完璧なものは面白みに欠ける」と言い放った。こんなアーティスト今はいない。

 「不足」や「不安定」に関する日本の美意識は、イサム・ノグチ以前に岡倉天心も気づいていた。天心は「あえて仕上げずして、想像力によって完成させる。これが日本である」と言った。
 もっと遡れば『徒然草』でもすでに「不足」や「不安定」の美についての記述がある。たとえば「全集は揃っていないのがいい」「製本はほつれているのがいい」「葵祭りは終わってからがいい」「大文字は火が消えてからがいい」など。
 イサム・ノグチはこのような小さな美の世界を小さいままの表現で終わらせなかった。彼は、小さな世界をダイナミックな世界に仕立てた奇跡のようなアーティストだった。手の平に乗せられるくらいの小さなもの(構想)から宇宙にひろがる大きなもの(構想)まで、「二項同体」を実現した人だった。


◆「私はここにいます」

 最後は、牟礼のイサム家の縁側で「私はここにいます」と語るイサム・ノグチの映像が流された。
 いまこそわたしたちはイサム・ノグチが抱えた矛盾を格別なものとして捉えなおすべきである、と再び強く語るセイゴオ。わたしたちは、あまりにも彼を知らなすぎる。だからといって「イサム・ノグチ」を主語にして語ろうとしなくていい。わたしたちが抱える問題の解決の糸口をイサム・ノグチに見つけようと試みることが、彼を知ることになる。
 一生涯矛盾を抱えながらも「私はここにいます」と堂々と言えるイサム・ノグチこそ、今日みなさんにお伝えしたいイサム・ノグチでしたと締めくくり、1時間半のセイゴオトークは終了した。

 次の日、セイゴオは牟礼の和泉正敏さんの工房をおとずれた。和泉さんが守りつづけるイサム・ノグチ庭園美術館と武家屋敷を移築してつくられたイサム家をひさびさに堪能した。その佇まい、そのしつらい、その間合いは、何度浸ってもセイゴオの胸を揺さぶるようだ。イサム・ノグチが抱えた矛盾と、それを乗り越える構想が押し寄せてくるのだろう。秋晴れの空のもとセイゴオはイサム・ノグチが眠る丘に行き、石のモニュメントにしずかに手を合わせていた。

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高松市美術館学芸員の毛利さんの案内をうける

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和泉正敏さんがセイゴオをとっておきの作業場に案内


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2006年10月23日


Report 七石舞台「かがみ」御披露目


音と言葉の共演が、石と鏡を結び寿いだ

 10月14日(土)、那須のリゾートホテル二期倶楽部で七石舞台「かがみ」の御披露目公演が開催された。七石舞台は、二期倶楽部敷地内を流れる清流「二會川」を見下ろす小高い丘陵に設置された、野外劇場である。四国の庵治から運ばれた巨大な7つの石と、それらをつなぐ鏡面ステンレスによってつくられた、前代未聞の文化装置である。

 石は、建築家の内藤廣さんとともにセイゴオが石彫家の和泉正敏さんを訪ね、その膨大な石のコレクションの中から選び抜いた。重さ30トンを超える巨石を分割しそれを鏡面スチールでつなぐアイデアは内藤さんから出されたもの。石という普遍的な時間の重さから、舞台空間を解き放つために考え抜いたと内藤さんは語っている。

 年間を通じて雨が多く、また冬は雪に閉ざされてしまう那須高原のきびしい環境のなかで、七石舞台の工事は難を極めた。ようやく七石舞台が完成したのが今年3月のこと、以降も「行道」(花道)や周辺設備の工事が休む間もなく続けられた。また照明家の藤本晴美さんと音響の金森祥之さんが加わり、あらゆるパフォーマンスを可能にするための最新装置が設置された。

 いよいよ10月13日、セイゴオはこけら落のパフォーマンスを演じるアーチストたちとともに、二期倶楽部に入った。七石舞台エリアを囲いこむ二重幔幕の取り付けが内藤事務所を中心に急ピッチで行われ、万が一の雨天対応用のテントや雨用具の準備までが進められるなか、初めて七石舞台を目の当たりにして興奮するアーチストたちとともに、セイゴオは宵闇とともにつのってくる寒さに耐えながら熱心にリハーサルを続けた。

 じつはこのときセイゴオは大きな問題をひとつ抱えていた。出演者の能楽師の安田登さんが師匠の舞台の代役をつとめなければならなくなり、第1部冒頭に予定している石開きのための謡曲次第が演じられなくなったのである。セイゴオは安田さんとも相談のうえ、急遽二期倶楽部のクラブハウスを借りて、安田さんに謡を録音してもらうことにした。その作業は深夜まで続いた。

 14日当日はあいにく曇天で明けたが、午前中からセイゴオと全出演者および照明の藤本さん、舞台監督をつとめる飯島高尚さんらが舞台に集い、入念な打ち合せとリハーサルを行った。二期倶楽部側でも、総支配人の中野さんの指揮のもと、来場者を迎えもてなすための室礼が着々と準備された。

 午後2時、石舞台の100席の観客席のキャパシティをはるかに超える170人もの来場者が詰めかけ、固唾を呑んで開演を待ち続ける。折りしも雲の隙間から青空が広がりはじめた。その青い空と木立の鮮やかな緑を映しこんで、七石舞台「かがみ」はますますその耀きを増していた。第1部オープニングパフォーマンス「挿頭」(かざし)が、いよいよ開演する――。

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左:リハーサル中の安田登さん
中:近藤等則さんとも入念な打ち合せ
右:前代未聞の七石舞台を前に、期待を募らせる観客

*写真はすべて戸澤裕司氏撮影(以下同)

七石舞台【かがみ】御披露目
第1部オープニングセレモニー「挿頭」(かざし)


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左:安田登さんの声だけによる開口次第が始まり、羽織りをかざしてセイゴオが登場
中:栗林祐輔さんの能管の調べが冴える
右:安田さんの不在を詫びつつ、石と鏡の舞台開きを告げる

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左:晴れやかな表情の北山ひとみさん、内藤廣さん、和泉正敏さんがご挨拶
中:木漏れ日のなかで、近藤等則さんの複雑妙技の電気トランペットが響きわたる
右:客席から登場した土取利行さんが、観客に二つずつ石を手渡していく

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左:観客もいっしょに石を打ち鳴らして、近藤さんのトランペットとセッション
中:南インドの古典楽器ガタムを軽快に打つ土取さん
右:第1部を終えてほっと一息、観客に手を振るセイゴオ

七石舞台【かがみ】御披露目
第2部オープニングパフォーマンス「際立」(きわだち)

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左:夕闇が迫るなか石舞台は藤本さんの照明によって昼間とは違う表情を見せる
中:鈴を鳴らし「梁塵秘抄」を歌いながら桃山晴衣さんが行道を進む
右:七石舞台にちなみ7つの三味線音楽を弾き分けて、宮薗節で締めくくる

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左:寒気を震わせて、土取利行さんのグラスサウンドの神妙な音が響く
中:シャーマニックなヴォイスパフォーマンスを繰り出す土取さん
右:近藤等則さんがコズミックサウンドを高らかに吹き鳴らす

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左:音と声と響きの共演を受けて、セイゴオがこのあと続く「夢十夜」について語る
中:音取を演奏しながら、客席うしろから登場する能管の栗林さん
右:安田登さんが揚幕から登場、道行の謡を謡いながら次第に物語に入っていく

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左:盲目の我が子を背負って闇を進む―石舞台が夏目漱石「夢十夜」の世界に転じる
中:100年前の人殺しの記憶が蘇るクライマックス
      「背中の子が急に石地蔵のように重くなった」
右:渾身のパフォーマンスを終えて汗びっしょりの安田さんを称えるセイゴオ

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左:安田さんが石舞台の四方を謡い清め、近藤さんと土取さんが即興で加わり大団円
中:すべての演目を終え、感慨を込めて一日を締めくくるセイゴオ
右:七石舞台の周囲には無数の青竹の松明が焚かれ、観客を見送った

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2006年10月13日


Report 『松岡正剛千夜千冊』完成記念講演


「六年千冊七巻仕立」-めくるめくブックコスモスの秘密を語る- 

 「千夜千冊全集」刊行を間近に控えた9月30日、新宿・紀伊国屋ホールで、セイゴオの特別講演会が開催された。ロビーには完成した赤いカバーの七巻仕立+特別巻が、予約特典のセイゴオ直筆サインとともにディスプレイされ、ひときわ来場者の注目を集めていた。  

 講演会に先立ち、求龍堂の全集担当編集者・鎌田恵理子さんがステージに立ち、七巻の部立に仕立てあげた2年間の、セイゴオと編集者の苦闘を振り返った。6年前に「一著者一冊の本」を唯一のルールにウェブで始まった「千夜千冊」。書籍化にあたり新たに144冊が書き加えられ、組は横組からタテ組へ変更。全ページに徹底的な推敲と加筆修正がおこなわれた。

 鎌田さんの紹介で、セイゴオがステージに登場すると満員の会場から暖かい拍手が寄せられた。「一夜に一冊を取りあげていくことが自分自身に新たにこんなにも何かをもたらしてくれるとは思わなかった」。
 毎晩書物と向かいあい、見出しをつけていく作業は何ごととも比べがたいと語るセイゴオ。書物からは著者の真摯な思いが浮かびあがってくる。それはおろそかにできないことで、セイゴオにとっても身の引き締まる思いであったと言う。
 「全集を七巻仕立てにするということは求龍堂の決定ではあったのだが、そのための作業は想像を絶する楽しみであり、苦闘の日々でもあった。今日はどうしてこの七巻の部立になったのかを話したい」。

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2006年10月11日


Report 100回更新記念・セイゴオ内々インタビュー(2/2)


Report 100回更新記念・セイゴオ内々インタビュー(2/2)

 セイゴオちゃんねる100回更新特別企画「セイゴオ内々インタビュー」の後半部分をお届けします。

セイゴオ内々インタビュー
その2 セイゴオの好みに触れる

聞き手:太田香保・和泉佳奈子


◆知を出し入れしつづける

和:相手のいいところを即座に見つけるのは松岡さんの得意で特異なところですが、「千夜千冊」でもつねに新しい関係を発見して著者や著作をアプリーシエイト(賞賛)されてきましたね。全集刊行のために取り組んだ7巻の部立(ぶだて)づくりではどんな新しい発見がありましたか。

松:部立の構成は1ページから通して読んだときのおもしろさはもちろん、各巻の厚みに差がでないようなシナリオづくりに徹したんだね。もちろん新たな関係の発見もあったけど、なによりも並べ替えた書名を通して見てみると、ある領域とある領域のキワが欠けているのが見えてきた。「やっぱりここにニーチェをいれなきゃ」とか、「三島由紀夫が欠けている」とか。
 そうやって欠けているものを足していくと、新たに300冊ちかく書く必要があった。でもそんな時間はないからそのうちの半分くらいだけ追加して、あとは一夜一夜にかなりの手を加えて前後のつながりをつけていった。そうして文章を削ったり増やしたりしていたらゲラが真っ赤になっちゃった(笑)。トイレに行くときも東京駅に向かうタクシーのなかでも朝方自宅に戻るときも、いつもゲラと一緒だった。精興社でもこんなゲラは見たことがないって興奮していたようだね(笑)。

香:並べ替えの作業で「千夜千冊」のリンクを新たに張りなおしたように、松岡さんは普段も人や本や出来事に出会うと、自分の知のデータベースを引っ張り出して新しいリンクをそのつど付け直していますよね。

松:そうだね。ぼくはつねに「知」を出し入れするよね。貯めるのが嫌いなんだね。

香:最近とくに力をいれている分野はどこですか。

松:すぐに思いつくものでも3つくらいあるかな。まず1つ目は、日本の儒学と国学のあたり。朱舜水や本居宣長や吉田松陰がどんな重なりや交わりや狭間のなかで「日本の本来」を見ようとしたのかをもっと徹底して知りたい。明王朝を追われながらも日本に望みをかけて明の再興を図った朱舜水、「いにしへごころ(古意)」に迫るために「からごころ(漢意)」と向き合った本居宣長、そして開国と討幕の時代のなかで「諫死思想」をめぐって大和魂を問うた吉田松陰。この3人に、キリスト教徒でありながら断固たる日本人であろうとした内村鑑三の「二つのJ」(JesusとJapan)にあたるものを見つけたい。きっとそれぞれの立場で苦悩し追い詰められながら「日本の本来」を求めたに違いないからね。
 2つ目は、脳と脳の外部装置の関係、その間を埋めているネットワークとアフォーダンスの関係かな。ぼくは、ノーム(nome)とニーム(neme)の関係で脳が動くと思っているんだよね。ノームとニームについてはミンスキー(千夜千冊第452夜『心の社会』)が巧みに説明している。ノームというのはその情報を出力したときに一定のエージェントに決められた反応をおこせるようになっている情報デバイスのこと。これに対してニームは、その情報の出力によって心の中の状態がばらばらではあるけど、断片的に表現できるような情報デバイスのこと。でもそこにオートポイエーシスな自律性がかかわっているはずなんです。そこを見極めたい。
 3つ目は言語の発生についてもっと知りたいと思っている。若いときからずっと興味があるテーマなんだけど、きっかけは従兄弟の真知子ちゃんが記憶喪失になったときに、おばさんに頼まれて彼女の記憶回復の過程にかかわったこと。彼女を昔の小学校に連れて行ったりして、どうやったら言葉を発するようになるのかということに真剣に取り組んだ。これからは、このあたりのことももっと深めていきたいと思っている。
 ただし言語学者や脳科学者は自分の体験をあまり重視しない。ぼくは小さな頃からいろいろ体験が多かったので、そこを生かしたいんですね。

和:少年時代に松岡さんは仕立屋の失聴のおばさんとか、全盲のおじさんからも大きな影響を受けたんでしたね。

松:そうそう。ぼくに言語の表現力を教えてくれた中学の国語の藤原猛先生も難聴者だった。


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◆科学を再編集したい

香:松岡さんは、時間がとれたら「科学の本」をゆっくり書きたいとおっしゃっていますが、とくにどのあたりに注目しているのですか。

松:たくさんあるけれど最も関心があるのは、物質世界で一番小さな素粒子とかクォークとかスーパーストリングスレベルのものが宇宙の最初の数秒間に誕生したということですね。つまり一番小さなものが一番古いものであるという関係について、ぼくはずっと関心をもっているということです。
 ところが、現在のどんな「万物理論」もそこをうまく説明できていない。まだどうも納得できない。これは理科の根本的なところに踏み込むことになるし、「ア・プリオリ」(先験性)とは何かということの結着も必要だね。時間の幅や時間の進み方についてもいろいろな仮説を考え直さなくちゃいけない。
 ぼくたちの社会はたいていのことは近似値ですませられるようになっているんだね。たとえば、コンパスで描く円はまるいとか、時速100キロの車が目の前を通りすぎたとか。でも、コンパスの円は紙の上でデコデコしているし、車のスピードは微妙にゆれている。どんな現象もそれをどのように感知するかというときに、いろいろなフィルターがかかっているわけだよね。では、そのフィルターは自然に属しているのか、観測方法に属しているのか、それとも知覚に属しているのか。そこが大事なところなんです。
 ぼくはそこには「鍵」と「鍵穴」の関係がつきまとわっていると思っている。その「鍵と鍵穴の関係」を司っているハイパーフィルターのようなものもあると思っている。そうすると、物質や時間の究極の姿も、いま想定しているものとはちょっと変わってくるんではないか。ひょっとしたら、いまは“ずれ”とか“ゆがみ”にすぎないものも、新たな“実体”かもしれないというふうになってくる可能性もある。ぼくは、その“ずれ”や“ゆがみ”を含めて語れる一つの「科学」を描いてみたい。

和:理科系を文化系と分断しないで語ってきた松岡さんにこそ、ぜひ書いていただきたい分野ですね。

松:そうだね。千夜千冊全集第二巻「猫と量子が見ている」の第四章「光と量子の物理学」と第五章「時空をつくる紐」のメタ話をいつか書いてみたいね。
 ここ数年はスーパーストリングとM理論(「千夜千冊」第1001夜『エレガントな宇宙』で紹介)がでてきたことで量子力学の原理で語られてきた宇宙の世界が11次元で再定式化されようとしているでしょう。もしかしたら、すべての自然法則を包み込む統一理論がうまれるかもしれないといわれている。そのあたりの追究は科学者たちにまかせるとして、ぼくは、バークリー、ケプラー、コペルニクス、クザーヌス、さらにはダンテのほうへと降りていく流れで科学を語りたいね。もうひとつは東洋的な科学観ですね。たとえば古代インドのヴァイシェーシカやニヤーヤの自然学や論理学を探りたい。

香:「千夜千冊」第377夜のケプラー『宇宙の神秘』には、松岡さんを20代後半に科学の世界へ駆り立てたのは、科学には「正論から逸脱へ」という道があるのではなく、むしろ「逸脱から正論へ」という道こそが中央にあることに気がついたからだったと書いていましたね。

松:実は、ケプラーだけではなく、けっこう多くの天才的科学者が最初に「逸脱」することによって、かえって新たな構想に達しているんだね。ラマルク、ヘッケル、ウェゲナー、ド・ブロイ、ディラック、ゲーデル、ウィナー、ニコラ・ステラ、湯川秀樹、南部陽一郎・・・。みんなそうだね。去年、ノーベル物理学賞をとったデビッド・ポリツァーなんかも、まずクォーク理論を逸脱することから始めていた。


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◆アルセーヌ・ルパンになりたかった

和:このへんで、ちょっと松岡さんご自身のことに迫ってみたいんですが、松岡さんは自分の肉体や性格について、どういうところがチャーミングだと思っていますか(笑)。

松:えっ、そうきたか。そんなこと意識したことないよ(笑)。とくに外見に関しては、自宅に大きな鏡があるけどほとんど見てないね。

和:へぇ~っ。反対にコンプレックスをもっているところはありますか。

松:それも意識したことないよ。それより、質問のつくりがよくないな(笑)。ぼくは、ひとつのことをスタティックにとらえるということをしないんだよ。つねに手続きとか関係の中でものを見る。これはこういうものだと決めてかかると思考が止まるでしょう。よく、声がいいとか手の動きがいいとか言ってくれる人がいるけど、それはどういう状況で聞いた声なのか、何を触っているときの手つきなのかという関係性においてのものだから、単独の魅力ということではないだろうし、そういうことには関心がないんだよ。

和:書斎にだれかの絵を置いたりとか、ある音楽を流し続けたりしていないのも、そういうところからきているんですか。

松:そうだね。いつも微妙なところに感覚を置いて、関わるものによって多様にものごとを掴むようにしているから“好き”と“嫌い”が大きく振れたりしない。コンプレックスも定常的になんか、ない。だって、一冊の本を読んでいたって、コンプレックスは微妙に出入りするからね。これについては第756夜の『ゲシュタルトクライシス』をぜひ読みこんでほしい。あそこに家で飼っていた犬と猫がいかにぼくの認識にとって重要なフィルターになっているかということを書いておいた。そして「からみあい」とか「回転扉」が大事だと書いた。回転扉というのは、向こうから来るものとこちらから出るものが、くるりと入れ替わるでしょう。あれが、ぼくです。ようするにヨーロッパの哲学のような「二項対立」を前提にした二分法ではくて、清沢満之がいう「二項同体」的な見方をしているんだね。つまり二つの極を消してどんな軸にも属さない。
 で、この見方をぼくは「日本という方法」にもあてはめているんだね。そのことを清沢満之は「消極主義」とか「ミニマル・ポシブル」と言っていたけど、内村鑑三の「ボーダーランド・ステイト」やさっき話した「二つのJ」にも重なる部分があるよね。もともと日本には対立や矛盾をあえてつなげあう方法があったからね。

和:9月30日に刊行されたNHKブックスの『日本という方法』にも「てりむくり」がとりあげられてましたね。

松:「てりむくり」は「照り」と「起くり」をつなぎあわせた日本独自の曲線だね。こういう方法が近くにあるのに、いつまでも情報を単に並べているようじゃまだまだだよ。“突起”とか“繋がり”を見なくちゃ。それが編集工学の基本です。

香:最近は「生涯一編集者」という松岡さんのモットーは、この世にたった一人ぼっちになっても編集者でありつづけるというほど、松岡さんの激烈な表明だと思うようになっています。でももし松岡さんが「編集」という職業につかなかったら何になっていたでしょうね。「編集」を知る前はどんな職業にあこがれてました?

松:中学のころは哲学者になりたかった。あとエジソンみたいな発明家。それから「お侍さん」になりたかった(笑)。宮本武蔵は好きじゃないけど、鞍馬天狗とか千葉周作に憧れてたね。飛行機乗りにもなりたかった。これは中学校のときに数学の赤井先生が話してくれた坂井三郎(「千夜千冊」第568夜『大空のサムライ』)の話の影響が大きいかな。足穂さんを知り始めたのも飛行機の話からだったからね。

和:松岡さんはスポーツ少年だったんですよね。スポーツ選手にあこがれたりはしませんでしたか?

松:野球選手は好きだったけれど、なりたいとは思ってなかったなぁ。そうそう、探偵と泥棒にもなりたかった(笑)。ホームズとかルパンの世界ね。あの計画性とかっこよさはたまらなくいいね。しかも、ルパンはつまらないものは盗らないもんね。

和:なんとなく松岡さんにアルセーヌ・ルパンに近いものを感じますけど(笑)。

松:はははっ。そうかもね。一度盗んでもピンと感じるものがなければ返しちゃうとかね。

香:松岡さんのダンディズムの起源はルパンだった!

松:ぼく自身というよりは、ぼくは誰かにダンディズムを感じて評価するようにしている。ダンディだなとおもう人が多かった。
杉浦さんも足穂さん泯さんもダンディだよね。そのうち自然に自分にも多少はダンディズムを取り込めるようになったんだろうね。


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◆オトナになったセイゴオ少年の秘密

和:松岡さんが関係の中でしかものを見ていないということを承知のうえで、あえてお聞きします。好みの俳優をぜひ教えてください。

松:懲りない質問するね(笑)。たくさんいすぎてねぇ。まず、ピーター・オトゥール、テレンス・スタンプは格別だね。10年くらい前からはジョニー・デップ。あと、なんといっても高倉健。それから山崎努、成田三樹夫、原田芳雄、松田優作とかも好きだよ。そうそう学生のころは森繁久弥が大好きだった。女優では、ジャンヌ・モロー、八千草薫、森山加代子、斎藤チヤ子、あと緑魔子かな。

和:もっと最近の人はいないんですか?

松:あっ、古かった? だって学生時代までの好みだもんね。そうだねぇ。オダギリジョーとヒロシ、それとオセロの中島知子とかモダンチョキチョキズの濱田マリとか。

和:えっ、チョー意外ですね。

香:女優の好みは、どうやら猫好きなことと関係がありそうですね。

松:それはどうかな。たしかに猫は飼い続けているけど。あの勝手な動きや邪険なところ、それとしなやかな体にひそむ気品には惹かれます。

香:男優の好みは、一貫して「危い」タイプ。ちょっとニヒルな好みですね。

松:黒澤明の「七人の侍」の中でも一番好きだったのが宮口精二だったからね。

香:子供の頃からませてたんですね(笑)。

松:ませているというのか、キツイ憧憬というのか。父は一流のものを見せてくれたし、母は美しいものを教えてくれたけど、この好みに関してはきっとぼく自身の好みだね。だって花は松葉ボタンだからね。

香:『千夜千冊全集』の特別巻用に松岡さんの年表をつくっていたときにも感じましたけど、中学生のころに読書量が急激に増えて一気に大人びたような印象を受けたのですが、何かそういうニヒルなものに惹かれていった原因があったんですか。

松:中学生のころに猩紅熱(しょうこうねつ)になって隔離病棟に入ったでしょう。あれは法定伝染病だったので学校中に消毒がまかれた。ぼくのせいで家族も学校も大騒動に巻き込まれたような感じがした。そのあとも腎臓の病気になって一年ほど無塩醤油の料理ばかり食べさせられた。そういう病気体験が自分に大きな影響を与えたんだとおもう。「人は突如として一人にさせられる」という体験ですね。それがニヒルの起源かな。

香:病気で寝ていたときはどんな本を読んでいましたか?

松:句集をたくさん読んでた。そのとき山口誓子とか川端芽舎が好きになった。もともとは小学校四年生のときに『京鹿子』という俳誌の最年少同人になったのがきっかけで俳句をつくっていたんだけど、だんだん理屈っぽいものしかつくれなくなったから、そのかわりに俳句をたくさん見るようになった。それから萩原朔太郎とか中原中也とかの詩。これじゃ、そのまま暗い青年になってもおかしくないよね(笑)。
 でもそうはならなかった。たしかに思想的にはニヒリズムとか孤立に魅かれてきたけど、ぼくは友達が一人でも十人でも関係なく楽しめる性格なんだ。それに、ときどきしか会わない人でも、逆に深く関わるようになった人でも同じような関係を保つから、人間関係で暗くなったり考えこんだりすることは一度もなかった。この前「セイゴオちゃんねる」に登場した修徳小学校の友人の中村晋造なんか、今はめったに会えないけど、会えば当時のようなやりとりで話せるんだよね。


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◆夜にひそむ不思議な力

和:松岡事務所にきてから最初に驚いたのは、松岡さんがほとんど1年365日、昼夜逆転した日々を送っていることでした。松岡さんの夜型生活はいつごろから始まったんですか。

松:小さいころ、親に「早く寝なさい」って言われなかった? おとなしく部屋に入ると隣の部屋から食器ががちゃがちゃする音とか楽しそうな笑い声とかがして、幼な心にものすごい妄想がふくらんで、大人たちは自分が知らない夜の世界をもっていると信じ込んでいた。高校生になって自分も受験勉強や読書とかで自然に夜型になったけど、子供のころ期待してたほどいいことはなかった(笑)。
 ただ、そのころから寝る前に日記をつけるようになった。「誘眠幻覚」といってだんだん眠くなって意識が朦朧としてくる状態が好きで、それを感じるために眠くなってから日記を書いた。眠くて眼くて仕方ないという状態でも力を出せるように訓練したんだね。そういう状態になると普通では考えられないことができちゃう。

和:松岡さんが締切りに関係なく自分に鞭打つように徹夜をされるのはどうしてかなと思っていましたが、臨界値を超えてからじゃないと出てこないそういう力があったんですね。

松:むかし杉浦さんに「歳をとったらいくらでも寝られるんだから、若いときはなるべく覚醒していたほうがいいよ」と言われたことも、まるで神のお告げのように確信しつづけている(笑)。40代半ばまでは電車の中で寝たことは一度もなかった。おかげで、きっと経験がある人も多いだろうけど、まもなく目的地に着くというときに一気に読書が進んだり、プランがまとまったりするんだよね。だから昼夜逆転というより、ずっと夜にいたい、ルナティックでいたいということだろうね。

和:はぁ、なるほど。そのルナティックななかで、思考が加速する状態をつくって、時間をかけすぎずに執筆や仕事を進める方法はぜひ伝授してほしいです。

松:そうだねぇ。まず第1に、自分の思考や表現が加速する状態をよく知ること。野球でいえば、いいバッティングをしたときのピーク・エクスペリエンスをちゃんと自分で自覚することです。第2に、そのピークにどのように向かえばいいかどうかを訓練する。野球でいえば何度も素振りをしたり、バッティング練習をする。イチローや松井がバッターボックスでいつも微妙な調整で構えているのと同じだ。ここまでは、わかりやすいよね。で、第3に、編集はいつもピッチャーとはかぎらないから、相手(つまり仕事や職能のこと)をすばやく観察して、その特色をつかみ、その特色に応じて自分の能力が出やすくなる方法を身につけていくことだね。
  この第3段階のためには、また3つの秘密がある。①好奇心を旺盛にする。②よく調べる。③必ず目的に辿り着くと思う。これだね。ぼくの場合は、この③のところをちょっと変えて、「必ず目的より少し先まで行く」というふうにしてますね。つまり、必ずオーバーランすること。これがけっこう大事なんですね。これでいい?

和:はい、よく分かりました。さいごの「オーバーランの話」はとくに心に刻んでおきます。たしかに松岡さんのゴールは一通過点と変わらないことが多いです。『良寛』(「千夜千冊」第1000夜)を書き上げたときも、『海上の道』(「千夜千冊」第1144夜)を書き終わったときも、喜ぶというよりは手続きがいつもよりも慎重なくらいでした。何をするにも手を抜かずに準備をしてフルバージョンで相手を観る訓練にはげみます。それを考えると、今日は何度も出来の悪い質問をしてしまいすみませんでした(笑)。

香:近ごろ「セイゴオちゃんねる」をいつも楽しみに読んでくださる人も増えているようです。今回の「内々インタビュー」はきっとそんな皆さんにもサプライズになったことでしょう。
 これからも松岡さんが書かないような松岡正剛論やセイゴオ・レポートを載せていきますので、どうぞ松岡さんも楽しみにしてください。

松:うん。


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2006年10月 2日


Report 100回更新記念・セイゴオ内々インタビュー(1/2)


 2006年1月27日にオープンした当サイト「セイゴオちゃんねる」が、このたび100回目の更新を迎えました。そこで、「セイゴオちゃんねる」ならではの記念企画として、日ごろセイゴオと活動をともにしている松岡事務所の太田香保と和泉佳奈子による、セイゴオ内々インタビューを、全2回に分けてお届けいたします。

セイゴオ内々インタビュー 
その1 セイゴオの身体感覚に触る

聞き手:太田香保・和泉佳奈子


◆身体感覚を共有させる

和:松岡さんの活動に欠かせないものといえばタバコとお茶。松岡事務所では新人が来ると真っ先に教えることが「この二つを欠かすな」ということなんですが、そのほかにも、書斎の机にはキンカンとサロンパスも必ず常備している。こういった身体に摂取するものについて松岡さんがもっている感覚や好みを改めて聞いてみたいんです。

松:ひとことで「身体」といってもいろいろあると思うよ。歩く感覚とか、手を動かす感覚とか、人に見られる感覚とかも「身体」でしょう。とりわけぼくは知的な感覚と身体の感覚を分断しないというということを大事にしていた。そのために、仕事の仕方についても空間のあり方についても組織感覚についても、あるいは映画や音楽を楽しむときも、なるべく個人化しないようにしてきた。

香:体験や感覚や好みを一人占めしない、ということですか。

松:そう。ぼくのもっている編集力からすれば、組織的にはぼくがみんなの先頭に立って君臨したほうが物事がスムーズに進むはずなんだ。それにぼくは、企画や構想を立てることだけじゃなくて手足を動かす作業も嫌いじゃないからね。「遊」の創刊号のダミーを手作りしたときは杉浦康平さんも驚いていた。こんなにダミーを作りこむ編集者なんて初めてだと言っていた。
 でも、ぼくの場合は一緒に仕事をする相手にかなり幅がある。トップクリエイターやアーティストから政治家や企業家まで、もちろんプロの編集者から編集工学研究所の若手スタッフたちもいる。かなり多種多様だよね。だから相手のレベルに関わらずそれぞれが持てる力を存分に発揮できるようにすることをいつも考えている。それには、ぼくが君臨しないというルールを決めておく必要があった。その上で身体感覚も共有できるようにしていくわけだね。

香:そのことは「遊」を見るとものすごく感じます。「遊」ではもちろん松岡さんが核になっているんだけど、工作舎のスタッフの皆さんの存在感がキラキラとして見える。

松:工作舎には最初、誰もプロがいなかった。いわば素人集団からスタートを切ったようなものでね。たまたまぼくが、よいものと悪いものを見分ける眼をもっていて、感覚的にも知的にも突出して先頭切ることができたから、「遊」もできたし多くの本を出版することもできた。でもぼくにとってはそれだけじゃ不満で、みんながあるレベルに達するような共通のメソッドをつくろうということはずっと考えていたし、実践していた。
身体感覚というのも、それと同じだね。知的にぼくができることをみんなが身体でも感じられるように、あえて誰かにコピーをしてもらったりトリミングをしてもらったりして、現場を共有していくことが必要だった。ぼくのほうも、そうやって他者といつでも連動できるような身体感覚を持とうとしてきたしね。

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◆揮発性の哲学

和:松岡事務所や編集工学研究所でも松岡さんが身体感覚を共有できる空間や空気をつくっているということは、すごく実感できます。でも、あんなにサロンパスやキンカンをつけまくるのはちょっと共有できない(笑)。あれはどういう感覚ですか。

松:あはは。どうしてもサロンパスが気になるか。あえてぼく個人の身体感覚に絞って言うと、たぶんその6~7割は皮膚感覚だろうと思うね。しかもその皮膚感覚のうちの3~4割が揮発感覚。小さいときからセメダインとかサロメチールとかサロンパスなんかが大好きだった。メンソレータムもね。耳元やおでこにサロメチールを塗って、風を切って走りまわってスースー感を味わったりしてた。

香:何か少年時代に特別な体験があったんですか。

松:きっとあったんだろうね。基本的に昔からメンソールが好き。でもミント入りのアイスとかミントティーが好きなわけじゃない。あくまで皮膚に触れるスースー感がいい。もしかしたらぼくの体に毛がないことに関係があるかもしれないな。

和:「毛」がない?

松:ほら、ぼくって体毛が薄いでしょう。腋毛もほとんどないし(笑)、胸毛もない。髭も伸びにくい。

和:そういえば腕や足もすべすべですね。だから人一倍、皮膚が敏感なんですか。

松:そのせいだかどうだか、フラジャイルなものが微妙に皮膚を刺激しているというのが好きなんだね。いま思い出したけど、母親が鼻のあたまをぼくの鼻にくっつけてクチュクチュしてくれるのが好きだった。ニコニコしながらスキンシップしてくれる母親だった。あとね、父親がしょっちゅうぼくの頬のあたりを舐めるんだけど、それはちょっとイヤだった(笑)。

香:松岡さんがスキンシップ好きというのは、ようく知ってます(笑)。編集学校校長がハグハグ大好きというのは、いまや師範・師範代たちのジョーシキです。

和:でもその話ではサロンパスのような刺激物を、背中に15枚も20枚も貼ったりする理由がわかりません。

松:ちょっとだけ理屈をいうと「撥無」という禅の言葉があって、ハイデガーも西田幾多郎もつかっている言葉なんだけど、ぼくの揮発の哲学はその「撥無」とも関係がある。でももちろんあまりに肩が凝るから、というのが一番の理由だよ。工作舎のころからずっとスタッフに肩を揉んでもらってたしね。結局ぼくは、人から関わられることが大好きなんだね。触ってほしいんだね。ぼくの身体感覚の一番の特徴はそれかもね(笑)

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◆越境感覚をあえて接種する

香:「千夜千冊」を読んでいるとよく思うんですが、松岡さんはたくさんの人に出会っていろんな影響を受けながら知を広げている部分と、あえて自分に「これは取り入れなくちゃ」と思って課しながら知を深めている部分がありますね。「千夜千冊」第1070夜『闇の奥』の冒頭にもコンラッドやフォースター、アラビアのロレンス、フォークナー、ヘミングウェイなどは、免疫注射のようにあえて身体に接種してきたと書かれていました。この「あえて接種する」ということにも、何か皮膚感覚をともなっているんですか。

松:ともなっているだろうね。一番ふつうに言えば、学習意欲が旺盛なんだと思う。どんなこともあんまり差別しないでおもしろがる。好奇心がとんでもなく強い。たとえば鉱物とか流星に関心を持つとする。最初は好奇心で入るし、もちろん学習もするんだけど、ちょっとそこにさしかかると、普通の知識っていうのは簡単に到達できちゃうわけだ。今でいえばウィキペディアのレベルには誰でもあっというまに到達できてしまう。でもそこで終わりにしてしまうと、一日二日とたつうちにウィキペディア程度の世界よりも自分の得たものがどんどん小さくなってしまう。これじゃつまらないよね。
 ぼくの場合は、ひととおり普通の知識に到達したらそのまま一気に連関とかリンクとかの世界に入っていく。それがタンポポのことでも、ビートルズのことでも、どこかの町のことでもね。すると、ある好奇心ではじまった知識の領域がどんどん拡張されて、新しい関係性の中に情報を置くことができるようになる。 
 もうひとつは、最近に入れた感覚や知を忘れないようにもしたい。そのため注射の針が最初にチュッと刺さったときを忘れないようにしている。「千夜千冊」でもその最初の接種感をよく書きました。
というわけで、こうしたことが織り交ざって、コンラッドやロレンスのようにぼくがたまたま行ったことがないアフリカや砂漠のような地に行った人々の体験や思索を刷り込むことによって、さらにはそれをヘミングウェイを読むときに重ねていくというメソッドにもなっているんだね。

香:「千夜千冊」には、そういう壮大な方法のリンクも編みこまれているんですね。

松:だから与謝野晶子を初めて読むとしても、鴎外や漱石や子規といった周辺の人々がすでにマッピングされているなかで晶子を見ることができる。それが繰り返されるから、だんだんとすごいハイパーリンクになる。そのうちに一回一回刷りこまなくてもすむから、スピードもあがるし、一目でつかむ情報も多くなるし、知の塊もいろいろな形状になる。レイヤーをつけたり、奥座敷があったり、襖をあけると初めて見えてくるみたいな手続も必要なかたちになって生まれてくる。

香:自分の体験ではない他人の体験を取りこむことで、身体感覚をともないながら知的に越境していく方法というのは、松岡さんにおいてのゲイ感覚とかジェンダーについても成立しているように見えます。

松:おそらく関係あるだろうね。知的であるのと同時に、フィジカルつまり身体的な刷りこみもできるのはなぜかということでしょう。それは漫画とか映画とかを見るときや、美空ひばりや椎名林檎が歌っているとき、フィル・コリンズが歌っているのを見るときに、やっぱり何かを入力しているんだと思う。
 たとえば『南方録』とか熊倉功夫さんの本を読むときは、誰かがお茶を飲んだり立てたりしているときの手つきというものが体の感覚として刷りこまれる。高名な写真家のSさんに千宗室さんの写真を撮ってもらったことがあるんだけど、できあがった写真を見てみるとまったく撮れていなかった。Sさんが高速でシャッターを切って撮り続けていたものよりも、ぼくがその場で気付くことのほうがはるかに多かったわけだ。

和:どういうことに心がければ、そういうものの見方ができるようになりますか。ぜひ知りたい。

松:まずは相手の気配やアフォーダンスの半径の内側に入ろうとしなくちゃだめだね。目の動きから話し方、足の組み方、手の動き、あらゆる面をするどくチェックして、その場にひそんでいる情報を立ち上がらせる。とくに写真はものすごく集中してないと撮れないんだよ。「千夜千冊全集」の8巻に載せる写真を撮るために十文字さんがぼくを撮影に来たでしょ。あのときも一瞬にして松岡という人物像をとらえてグッとぼくの半径を写真にしてくれたよね。ぼくはめったにカメラを持ったりしないけれど、ふだんもそれくらいの集中力で人を見ているんだよ。

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◆触りあう以上の関係とは

和:松岡さんて「私生活」とか「プライベート」をほとんど持っていないですよね。いまも活動のほとんどをスタッフと共有している。それで疲れることはありませんか。

松:それが、ないんだよね(笑)。赤坂に来る以前はスタッフと一緒に暮らしていたし、そもそもプライベートというものがない。とくに隠すところもない。でもオープンな人というわけではないよ。必要以上に抑圧するのが嫌いなだけ。さっきも言ったように自己と他者の境界を感じたくない人間だから、壁やガードをつくるようなものは基本的に好きじゃない。

和:長いあいだ松岡さんの周りにいるスタッフにも、そういう考え方について何か共通するものがあるんでしょうか。

松:それは君の諸先輩に聞いたほうがいい質問だけど、あえて言えば、彼らのなかに共通点があるのではなくて、彼らの個性のままにぼくがおもしろいものを見つけて、それを認めているから長いあいだ続いているんだとおもう。高橋君とは35年、木村さんとは30年、澁谷さんとも25年以上だからね。共通点を見いだすというより、異なったものがリンクしあうということが大事なんです。クローンのようなものが増えるというあり方にはぼくは関心がないし、そんなのは大嫌いだね。

香:松岡さんは私たちにとっては、父であり、母であり、先生であり、兄貴のようなものでもあるんですが、誰かにとっては父で、誰かにとっては兄貴というんじゃなくて、誰にとってもそれくらいのいろんな在り様を感じさせるんでしょうね。

松:ときにはみんなの子供になったり、不思議な叔父さんになったりね(笑)。それはスタッフだけじゃなくて、ぼくがいっしょに仕事をしてきた人たち、たとえば杉浦康平さんや藤本晴美さん、天児牛大さんや小堀宗実さんや田中泯さんも、西松布咏さんもワダエミさんも石岡瑛子さんも山口小夜子さんも、みんなそう感じているんだろうね。
 でもぼく自身は多様な役割を演じ分けているわけではない。相手のいいところをいち早く見つけて、そういうところと向き合おうとするから、どんどん多様になっていくだけです。ぼくがその「いいところ」に向けていく要望に対して、皆さんもどんどん受けてやってみせてくれる。そうなるととても快い関係性が成り立つ。一人一人はまったく別々の考え方や領域や表現性を持っているんだけど、“よさ”という点でぼくとつながるし、ぼくがそれをつないであげられる。しかもぼくは、本人が気づいてない“よさ”を見出すことができるのかもしれない。阿木耀子さんや村上陽一郎さんからそういうことを言われたことがあるけれど、これはぼくが一番自慢できる才能だと思う。

和:だから松岡さんにインタビュアーをしてほしいという依頼が多いんですね。

松:「千夜千冊」第776夜で『天才セッター中田久美の頭脳』を取り上げたんだけど、じつはあの本のインタビューには不満がある。セッターはいつも右手を後ろにして合図を出しているわけだけど、なぜ右手なのかといったことまでは聞いていない。ぼくが中田さんにインタビューするならそういうことを聞くね。みんな自分の頭の中のことでしか聞いてないんだよ。ぼくは自分の知らない体験を持っている人や、自分で刷り込みたいと思っている人に対しては、格別の尊敬があって、だからこそ徹底して相手のほうへ入っていく。それはお互いに触りあう以上の快感があるんだよ。

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◆松岡正剛をどう触るか

香:松岡さんが快感を覚えるほどツボに触ってくれるようなインタビュアーとか取材ってなかなかなさそうですね。

松:そうなんだよ。残念なことだけど、みんなレッテル型にしかぼくを見ない。ぼくのなかの共鳴感覚を誰かのほうから揺すぶられるということは少ないんだなあ。これはぼくの宿命かもしれない。
 でもまったくいないわけではないよ。たとえば北大の津田一郎さん。科学については、かなりぼくの知をフル動員させるような思考と言語をいつも投げかけてくれる。岩井寛さんもそういう人だった。精神医学の立場からえぐるようにしてぼくを刺激してくれた。もちろん杉浦さんもそうです。杉浦さんは早くにぼくのそういう能力に気付いてくれた人だね。
 自己と他者を超えたいと思ってインタービーイングしようとしている姿勢は、必ずある表現力にともなって出てくるものなんだよね。だからある程度、言語とか文章とかヴィジュアリティとかを、それなりにやり続けてきた人でないとなかなかそこまではいかないと思う。たとえば、「松岡さんの本棚ってすごいですね」という人は多いけれど、そこに踏み込んでぼくが驚くような質問をするとか、感応して絵を書いてくれるような人は皆無だよ。

和:反省します(笑)。どうすればそんなふうになれますか。

松:そういう質問をしているうちは、まだまだなんだなあ(笑)。あのね、まず憧れの対象を偶像化したら責任をとること。偶像の奥にあるものに自分から接していかなくちゃいけない。そのためには自分であれこれ調べたりして持ち出せるものをふやすのは当然のことだね。松岡正剛というのは、ほかの偶像よりも多様だし複雑だから大変だろうとは思うけどね(笑)。だからいったんはぐっと絞ったところから松岡に入って、そこからとことん奥まで行くべきだろうね。ダンスと物理学とはまったく違っているわけだけど、奥の奥は繋がっているというところを発見できるところまでやらないと、なかなか松岡正剛には触れられないと思うよ。ところで、本気でぼくに触る気があるのかな。

和:サロンパスを貼るだけじゃなくて、もっとその内側に触りたいと思ってますよ。

松:うん、ぼくももっと触ってほしいね。

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(「セイゴオ内々インタビュー」その2に続きます)

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2006年9月 5日


Report 「負の想像力」という方法


岡倉天心『茶の本』の100年シンポジウム 

 “THE BOOK OF TEA”(茶の本)は 1906年(明治39年)に岡倉天心によって英語で著され、今年でちょうど100年目を迎える。9月2日(天心の命日でもある)、有楽町朝日ホールで財団法人三徳庵とワタリウム美術館の主催で「岡倉天心国際シンポジウム『茶の本』の100年」が開催され、700人の聴衆が詰めかけた。

 主催者である三徳庵の田中仙道さんの挨拶に始まり、第一部として、ボストン美術館のアン・ニシムラ・モースさん、磯崎新さん、セイゴオ、熊倉功夫さん、マンフレッド・シュパイデルさんの5人がそれぞれ30分ずつ基調講演を行った。
 モースさんは、ボストン美術館滞在中に“THE BOOK OF TEA”を著した天心は、西洋における東洋思想の受け入れに大きな役割をはたしたと語り、続いて磯崎新さんは、「空虚な空間」と題して、フランク・ロイド・ライトが『茶の本』を読んだことで「箱の崩壊」へ向う確信を得たこと、さらには東洋と西洋の建築空間観の違いを、100年前と現代とを比較しながら語った。

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身振り手振りをまじえ「負の方法」を説くセイゴオ

 三番目のパネリストとして登場したセイゴオは、千夜千冊第75夜でも取り上げた『茶の本』は象徴的でエポック的で忘れがたい一冊であり、千夜千冊を書くときにも何度も『茶の本』に戻り、西行、世阿弥、芭蕉、コクトー、プルーストなどと比較した、と語り始めた。

 磯崎さんの話した『茶の本』における「空虚」とは何か。これは英語では“vacant”または“nothing”と言って、「その場所が空いている」「席が空いている」という意味である。日本語では、「埒」(らち)という言葉の使い方に、日本人の空間意識がよくあらわれている。
 「埒」という概念は訳しにくい。あえて訳すと“space”(空間)とされる。ただしこのスペースは本来空いているものであり、“occupy”(占領・占める)されていない。西洋ではスペースは何かに占められるものであるが、日本では「埒を空ける」と言うように、本来そこは空けるもの、空けたいものなのである。それが日本の場所であり空間であり、また時間でもある。

 このような日本の空間の捉え方を示しながら、セイゴオは『茶の本』の第四章に入っていく。この章では茶室が取り上げられ、空間的・建築的な視点から吟味されている。そこには天心の三つの視点がある。
1. 茶室は仮であり、仮住まいである。そこには何かが常駐しておらず、常ではない。日本語では中世の時代より、これを「無常」と言った。
2. 茶室は装飾をしていない、非装飾的空間である。わかりやすくいうとシンプルである。
3. 茶室は空家であり、数奇屋でもある。“vacant”であり“nothingであり“occupy”されていない。そして茶室を人々は「パッサージュ」する、通過する。

 ドイツの哲学者であるウォルター・ベンヤミンが、『パサージュ論』というすばらしい本を書いている。ベンヤミンは、人は都市に住み込もうとしていない、パッサージュしていると書いている。これは現代思想の重要な考え方の一つと言ってもよい思想であるが、このことを天心は『茶の本』でまさに「茶室」がそうであると言っているのである。

 さらに「故意に何かを仕立てずにおいて、想像のはたらきでこれを完成させる」という天心の言葉がある。なにかが不完全、未完成であることによって、そこに想像力が働く。これが茶であり茶室であり、さらに日本であると天心は言っているのである。そこにはあえて仕上げない、完成させない「不完成の美」がある。これを最初に読んだときセイゴオは非常におどろいたと言う。日本の美術や音楽、水墨画、神社建築などを見るようになると、そこには天心の言う「完成させない美」が多様にあることに気づいたと言う。

 またセイゴオは重要な問題としてフェノロサと天心の違いを挙げた。
 フェノロサは天心の師でもあり、フェノロサによって天心は日本の美に目覚めたということになっている。フェノロサは進化論の研究者でもあるので、文化についても進歩主義の立場をとった。しかし天心はそのフェノロサを継承しながらも、違う見方も発見した。それが「負の想像力」の発見、すなわち「負」「虚」「無」から日本を見る方法ではなかったか。
 たとえば枯山水は、水を感じさせるために水を抜く。天心が気づいたように、茶や茶室も、あるものを感じさせるために、あえて「ないもの」を作るという枯山水的方法に近いのではないか。

 実はこの方法には早くから日本人は気がついていた。たとえば道元は「冬の美」を発見した。冬の風景には何もない。だからこそ花や緑や紅葉を、春でも秋でも自由に想像できることになる。
 春と秋を感じるために道元は、あえて冬に日本の美を見出そうとした。これは連歌師・心敬の「冷えさび」にも通じる。心敬は本当の「さび」や「わび」、また数寄も「冷えさび」から始まるともいった。これは劇的な美の発見の方法である。つまり「ないもの」に美を感じる。「ないもの」をあえて造るという方法である。

 日本の茶の湯を完成させた村田珠光・武野紹鴎・千利休の三人が、茶の心を代表する和歌として愛唱したのが、藤原定家の「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」である。定家の見た風景は何もない浜辺。だが、何もないからこそ花と紅葉を感じることができできる。こういう心が天心の不完全への崇拝にもつながっているのではないだろうか。

 この方法を一言でいうと「引き算」である。うまく引くことによって何かが立ち上がる。
 イスラエル出身のサイードという哲学者が、「プレゼント・アヴセンティーズ」(そこに存在する不在)と言っている。本来いるはずなのにいない。するとその人の面影が浮かんでくる、そういう意味だ。
 今日になってようやく民族や国家において、「プレゼント・アヴセンティーズ」が大きな問題になってきたが、しかし実は以前から小さな枯山水や茶室などで、我々日本人はそれを発見していたはずなのである。
 そう考えてみると、天心が東洋および日本の覚醒を説いた意味が、単なるナショナリズムで片付けられなくなるのではないだろうか。

 フェノロサは狩野派に注目した一方で、文人画を批判した。このこともあって、明治時代に文人画は廃れてしまった。これに対し天心はむしろ文人画に注目した。そこには日本には「書き込まない美」があるという天心の思いがあった。天心はそういう手法の中に、世界に問うべき日本の美の方法・メソッドを見出したのではないだろうか。
 江戸時代の絵師土佐光起は『本朝画法大全』で、「白紙も模様のうちなれば、心にてふさぐべし」と述べている。白紙からは今まさに模様が出ようとしているのだから、あえて何もかかなくても、心で描けばよいではないかという意味である。日本の美とはまさにこれではないだろうか。そしてこの思いは、天心の発見した「故意に何かを仕立てずにおいて、想像力にてこれを完成させる」といった手法に通じている。

 最後にセイゴオは、天心が作った雑誌『國華』に掲載された長谷川三郎の文章を紹介した。長谷川は、イサムノグチの次のような言葉を書き留めている。「日本人はフェノロサと天心の違いを発見することがこれから課題になるのではないですか」。
 日米両方の血を分けたイサムノグチにして、フェノロサと天心の違いは最大の課題だったのだろう。その課題は今も我々日本人にとって重要なテーマなのである。

 30分という短い時間に、天心の見つめた「日本の方法」の核心を説いたセイゴオに大きな拍手が寄せられた。

 その後も熊倉功夫さんの「茶道論の系譜から見た『茶の本』の異質性」、マンフレッド・シュパイデルさんの「天心とブルーノ・タウト」と二つの講演が続き、第一部が終了した。第二部は内外の研究者によるパネル・トーク「『茶の本』再考」。
 およそ半日にわたったシンポジウムは、天心の思想、そして日本の空間をめぐる濃密な展開となった。

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控え室で天心の空間に思いをはせるセイゴオ・磯崎新さん・和多利志津子さん


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2006年7月25日


Report 「連塾」第2期「絆走祭」スタート


空前絶後の第一祭「数寄になった人」

 7月22日(土)、銀座の時事通信ホールで、「連塾」第2期「絆走祭」が開演。第一祭のテーマは「数寄になった人」。文字どおり、日本の数寄文化をめぐるセイゴオのソロ講義と、セイゴオの大好きな人々が次々と繰り出すトークやパフォーマンスとによって、全8時間におよぶ濃密苛烈な祭となった。照明・演出は第1講に引き続き、藤本晴美さん。

 今回の連塾は、「千夜千冊全集」出版記念という位置付けもあり、この日に合わせて特別につくられた全集の本文入り見本全7巻と特別巻がホワイエにディスプレイされ、約180人の来場者を迎えた。

 ホールでは、高さ6メートルの天井にセイゴオの「絆走」「数寄」の二本の書が立ち上るように吊るされ、その書に寄せながら、近江の左義長祭や下関の先帝祭など日本各地の祭の映像からソロ講義が始まった。「祭」と「数寄」はアソシエーションの文化であり「編集文化」であると語りながら、遠州流の茶数寄と、歌舞伎衣裳と忌野清志郎の風流(ふりゅう)感覚を映像で見せる絶妙な展開に、金子郁容さんが加わり、柳家花緑さんが登場して落語の「間」を演じて見せる。それを引き取り、セイゴオが「千夜千冊」テキストをスクリーンに投影しながら「数寄」の生い立ちを語り、会場に駆けつけた杉浦康平さん・森村泰昌さん・清水博さん・甲斐大策さんの4人のセイゴオの“思い人”に特別メッセージを送った。ここまでが第1部。

 続く第2部は、ステージの上に内藤廣さんによる巨大な屏風スクリーンと、遠州流の立礼卓がしつらえられ、福原義春さんを正客、内藤さんを次客に、家元・小堀宗実さんが点前を披露、三人三様の「日本の方法」が静かに談義された。内藤さんはセイゴオと進めている二期倶楽部の「七石舞台」プロジェクトの秘密を明かす映像も公開。ここで舞台が暗転し山口小夜子さんが登場、内藤屏風に二台のプロジェクターから映像が投射され、そのなかで巧みに「影」をあやつりながらの「陰翳礼讃」朗読パフォーマンスである。セイゴオもゲストも来場者も、その凄絶な演出と演技に息を呑んだ。

 第3部は、北山ひとみさんのプロデュースによる大夕食会。第2部の最中にどんでん返しが行われたホワイエには、長大なテーブル席が用意され、特製の吉兆弁当と那須から届けられた有機野菜が並べられた。来場者がさかんに舌鼓を打っている間、今度はホール内で大模様替え。24台の本棚「燦架」(セイゴオ監修・山中祐一郎デザイン)を組み立てて、真っ赤なカバーデザインの「千夜千冊全集」をディスプレイし、その周りを取り囲むように180客の椅子を馬蹄形に整然と並べ直した。「ここまでやるか」と驚き顔の来場者を迎え入れ、金子郁容さんの進行で第4部の開演。十文字美信さんが登場して口絵写真「本の貌」を映写しながら、写真家の眼でみたセイゴオの世界を語り、アートディレクションを担った福原義春さんとともにセイゴオが、感慨深げに全集完結の思いを語った。ラストシーンは都はるみの「好きになった人」。こうして長丁場だった連塾第一祭が締めくくられた。

 その後、時事通信ホール近くで行われた懇親会では、感動した、涙が溢れた、圧倒された、という感想がにぎやかに交わされた。セイゴオ自身、何度か胸を詰まらせ、言葉を失った忘れがたい場面の数々もあったようだ。

 この日、裏方をつとめたのは、編集工学研究所・松岡正剛事務所の全スタッフはもちろんのこと、藤本さん率いる照明・音響のプロチームをはじめ、遠州流の皆さん、屏風製作に携わった内藤事務所の皆さん、燦架制作チーム、求龍堂、さらにISIS編集学校の有志などなど、総勢なんと80人。しかも全員がボランティアである。この裏方軍団の情熱が、空前絶後の構成・演出・仮設の数々を実行推進し、まさに「一客一亭」の破格の「祭」を実現させたのである。

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「絆走」と「数寄」のセイゴオの書が第一祭をいろどった

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「セイゴオさんの“間”のとりかたを意識しています」と語る花緑さん

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アルヴァ・アールト作のガラス器を水指につかう小堀さん

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「陰影礼賛」を朗読しながら舞う小夜子さん

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長さ50メートルの食卓で特製弁当の饗宴

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「“本”という外観にとことん迫った」と語る十文字さん

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2006年7月13日


Report 「千夜千冊展」ギャラリートーク第2弾


セイゴオ読書術教えます

 7月13日(木)、NIKIギャラリー「册」で、セイゴオが2回目のギャラリートーク。「読書術」をテーマにした今回は、ワークショップも取り入れながら、たった15分で本を読むための秘術を特別に伝授。

 15分で本を読むといっても、ただページを走り読みするような「速読術」とはわけが違う。セイゴオ読書術とは、いわば読者の側の編集スタイルを確立することによって、本との関係を自由なものにしていくための、きわめてアグレッシブなメソッドなのだ。
 「そのためには、書店や図書館で一冊の本を選ぶときから心がけるべきことがある。また本を選んだら、本文を読み出す前にやっておくべきことがある。」

 「册」のフロアーを埋め尽くした約50人の受講者に、一人一冊ずつ「册」の所蔵する文庫本を配布し、具体的にその手ほどきをする。「まだだよ、まだ本文を読んではだめだよ」と制しながら、「はい、ではまず目次を開きなさい。1分かけて目次をよく見なさい」。これがISIS編集学校などでも奨励している「目次読書法」である。

 続いて目次読書とともにセイゴオが日々実践している「マーキング読書法」。20代のころ武田泰淳の書庫に出入りしてすべての本に赤線が引かれていることに興味をもったセイゴオは、レーニンの『哲学ノート』の書き込みなども真似ながら、 “傍線”や“囲み”や“記号”を駆使した独自のマーキングを開発してきた。

 参加者の手元に『フラジャイル』の見開き2ページ分のコピーが配られ、セイゴオの音読に合わせて、実際にマーキングを体験してもらう。「本はこのようにしてどんどん汚しなさい。そうして自分のものにしなさい」。そのドローイングのスピードが、認知速度と関係するのだという。

 こうして、予定の2時間をあっという間に駆け抜け、締めくくり。「読書」を知的行為だと思いすぎてはいけない。著者に従わなければいけない読書なんて不自由すぎる。もっとブティックで洋服を選ぶように本を選び、アスリートのように自分の調子を高めながら本に向き合ってほしい。知を足し算・引き算するのではなく、差分を生み出すような「非線形読書」をめざしたい。

 なお、トークの詳細は後日の「いとへん」のレポートをお楽しみに。ただし本気で修得したいなら、ISIS編集学校へ。

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左)七夕飾りの短冊を本に見立てて書棚の心得をとく
右)銅版表紙の『機械学宣言』をつかって本の構造を解説

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左)展示中の「一汁一冊」
右)「千夜千冊控帖」

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左)册をデザインした建築家・内藤廣さんもワークショップに挑戦
右)セイゴオマーキングに目を見張るアーティスト・土佐尚子さん

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左)「まずは表紙を見なさい」というセイゴオ読書術を実践中の女優・真行寺君枝さん
右)トーク後、デザイナー・植田いつ子さんと歓談


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千夜千冊控帖をひろげて記念撮影
左から小澤かすみさん、能勢伊勢雄さん、三橋順子さん、真行寺君枝さん、田實碧さん


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2006年7月10日


Report 「千夜千冊展」でギャラリートーク


全集誕生までの6年間を振り返る

 7月8日、「千夜千冊展」を開催中のNIKIギャラリー「册」で、セイゴオの記念トークイベントが開催された。

 セイゴオは2004年の「册」のオープン以来、書棚計画や展示企画、季題の監修をしているが、ふだんは工芸作家の作品が並ぶ棚に自分の書画作品が並ぶ光景は、どうにも落ち着かないらしい。「つい並べ直しや書き直しをしたくなる」という。そんな話題を入り口に、Webでの連載開始から全集誕生までの6年間のエピソードと、いよいよ刊行を待つばかりとなった「千夜千冊」全集の全容を明かすトークが展開した。

■「千夜千冊」誕生のきっかけ 

 もともとはインターネット上に「編集の国」を作るという壮大なプロジェクトを計画していた。それは資本主義や市場というものに対してのぼくの疑問を解決するためのプロジェクトで、たとえば、知財についての新しい評価軸を作って、賞味期限付きのトークンのようなものを流通させるといった実験的なことをいろいろと試みようとしていた。

 ところが、周囲の専門家やオタクたちに聞いてみると、ネットで勝負するなら、せめて3日に一度、できれば毎日情報を更新しないと話にならないと言う。それで、結局言い出しっぺのぼくが毎日何かをしようということになって、一日一冊の本を取り上げて書くということを思いついた。

 ぼくの編集キャリアからすれば、毎日文章を書くといったことはべつにたいして難しいことではない。始めたばかりのころは一夜分の文章も短かった。それでも、ネット上で読むに耐えうるテキストというのはどうあるべきか、ということは真剣に考えた。その上で、せめて3年間は続けなくてはと思ったので、一日一冊取り上げれば、3年間で1000冊になる。よし「千夜千冊」でいこうということになった。まあ、最初はかなりたかをくくってた(笑)。

■ルールを決めて書く

 第1冊目に中谷宇吉郎の『雪』を選び書き始めたが、どういう人々が読んでくれるのか、読者というものがまったく想定できない。手応えがなかなか感じられない。たぶん最初のころは30人くらいしか読んでいなかったと思う。でも200冊を超え、300冊を超えると、ある特定の本にアクセスが集中するということが起こるようになってきた。
 たとえば『ゲバラ日記』や寺山修司を取り上げるとものすごいアクセス数になる。見えない相手に対して書いているという感覚には変わりなかったが、次第に反応が見えてくるようになってきた。そのころから「千夜千冊」に目を済ませている、指を触れている人々がいる、という感じがしてきた。それが30人から300人、300人から3000人と、どんどん増えていった。

 こうなってくると、どうもこれはただごとではないと思い始めた。横着に書くのが恥ずかしくなってきた。書きなぐってはいけない。もっと苛重なルールをつくらなければいけない。
 それまでも、一著者一作品に限るとか、古典が続かないようにするとか、同じ出版社が続かないようにするといったルールは決めていた。そこへ、もっと自分の書き方やスタイルについてのルールも加えていった。たとえば寺山修司について書いたときは、手紙スタイルにした。J・G・バラード『時の声』では映画のシナリオ風にした。こういった手法は、一度使ったら二度とは使わないと決めた。

 ぼくはもともと、編集をするときにアフォーダンスということをたいへん重視している。対象やモノにアフォードされながら言葉を選んだりスタイルを決めていく。アートを見るときも、モノに対してふるまいがどのように変化するか、というところを敏感に見ている。書物に向かうときにも同じなのだ。ぼくは本からアフォーダンスを受けている。「千夜千冊」ではそのことをきちんと表わすような文章にしようと思った。

■読書体験を再現する

 書評を書きたかったわけではない。批評を書くなら簡単だ。しかしそういうことには関心はない。たとえば、ぼくが折口信夫の本と出会ったのは、脳圧昂進で入院していたときだった。学生時代にデモの先頭に立って、日比谷公園で押し倒されて延髄を痛めたことが原因で、しばしば脳圧が上がって激しい頭痛と吐き気に襲われるという症状が出るようになった。それで入院をしたときに、折口信夫を読んだ。そういう状況で出会ったときのアフォーダンスをどうすれば再現できるか、表わせるか。「千夜千冊」を書き続けることによって、そのことを苛烈に実験しなければならない、と考えるようになった。

 本来、ぼくにとっては読書そのものが「再生」のための実験なのである。本を読んでいる最中と、読んだことを再生するときとではズレが起こる。読んでいる最中は、本の内容だけではなく、そのとき周りで起こっていることや自分の体調や、さまざまなものが出入りする。読書体験を再生するには、たとえば漱石の『草枕』であれば、その『草枕』をめぐる時間そのものを再生すべきだ。またそういう時間を、「千夜千冊」では案内したい。

■胃痛を抱えて千日書峰

 こんなことを毎日続けているうちに、「知の千日回峰」とか「千日書峰」などと騒がれて、ぼくもだんだん篭って修行しているような気分になっていった。900夜をすぎてからは、ISIS編集学校の皆さんがいろいろな応援をしてくれた。毎晩ブログで感想を書いてくれる人、小池純代さんのように一夜に一首ずつ歌を寄せてくれる人も出てきた。残り10冊に何が入るのか予想クイズで盛り上がる人もいた。ただしこの予想クイズはぼくにとってはプレッシャー(笑)。『源氏物語』がきっと入るはずだとか、三島由紀夫が入らないはずがないとか、ニーチェは入れないんですかとか、外野からいろんな声が聞こえてくる。余計なお世話だよね(笑)。

 それから、950夜を超えたあたりから、ぼくは体調異変を感じていた。もともとストレスを感じない体質なのに、きしきしと胃が痛む。一方で、そのころは「册」のオーナーの北山ひとみさんと、那須の二期倶楽部で新しいプロジェクトも進んでいた。「册」のオープンも重なっていた。そういうこともあって、千冊目達成は、七夕に照準を合わせるようにした。

 990夜を過ぎてからは、ライプニッツ、ホワイトヘッド、王陽明、『南総里見八犬伝』、『オデュッセイアー』というように、大物ばかりを気が狂ったような状態で書き続けた。でも、最後の最後まで、自分としては、冴えに冴えた状態で走りぬくことができたと思う。

 そうして2004年7月7日、第1000夜を良寛で終えた。その後、原宿のクエストホールで「千夜千冊」達成記念イベントがひらかれて、いとうせいこう君がすばらしい司会をして、たくさんの著者の皆さんが駆けつけてくれた。続いて「册」のオープンを迎えた。ところが、その「册」オープンの朝、ぼくはかかりつけの医者から癌の告知を受けてしまったのだ。

■癌で中断した「1001夜」の長い夢

 「千夜千冊」は終えたけれど、自分のなかにはまだ尾を引かれるものが残っていた。だいたいぼくは稲垣足穂の『一千一秒物語』に惹かれて、こういう仕事を始めたのだから、やっぱり「1000」で終わりにするのではなく、「1001」までやるべきだろうと(笑)。それで、長い長い、いつ終わるともしれない一夜『エレガントな宇宙』を千夜のあとに綴り始めた。

 それが、胃癌のためにばっさりと中断されてしまった。ああ、こういう宿命なのかとあきらめたのだが、入院中にたくさんの方々から見舞いのメッセージをいただいた。それがすばらしかった。何か御礼をしなくてはと思った。そこで中断した1001夜のなかに「見舞御礼」という一文を入れた。おかげで「千夜千冊」はなんだかわけのわからないものになってしまった(笑)。さらには、いったい「千夜千冊」をこのあとどうやって終わらせればいいのか、ますます困った。

 そこへまた新たなことが持ち上がった。
 ぼくは「千夜千冊」と平行して、数ヶ月に一度「連塾」という会で日本の話をするという活動をしている。「松岡の日本の話に学ぼう」という有志たちが準備してくれた会で、福原義春さんを中心に中間法人「連志連衆會」も作られている。その「連塾」の皆さんが、「千夜千冊」を出版すべきだと言い出し、福原さんが求龍堂と話をつけてくれたのだ。

■「千夜千冊」は終わらない

 最初は迷った。「千夜千冊」を全集にしてくれるなんてありがたい話だけれど、なんだかムダのようにも思えた。ぼくにとってはすでに終わったことなのに、それを今さら本にするなんて、「千夜千冊」が無用の長火鉢のようなもののように思えてきた(笑)。

 これではいけない。なんとか自分の気持ちを切り替えなければ、とても全集にするなんて作業はやっていけない。だから、全集はWeb版とは違うまったく新しいものにしようと決断した。そこで求龍堂の意向にしたがって「千夜千冊」を7巻組に再構成するという作業に、ものすごく集中してみた(本当はぼくは15巻くらいにしたかったのだけど)。巻ごとにテーマを立てて、部立てを考えて、まったく新しい配列で千冊の本を並べ直していった。そうしたら、その間にどうしても入れるべき本で、まだ取り上げていない本が次々と見えてきた。そこで、新しく「千夜千冊」をどんどん書き足すことにもなった。

 こうして結局、1002夜以降の「千夜千冊」を書きながら、全集のために徹底的に文章を再編集するという日々が始まったのである。

 じつは、「全集」の作業はほぼすべて終えたのだけど、Web「千夜千冊」のほうは第2期「遊蕩篇」として続けることにした。誰に聞いても「続けるべきだ」と言われるので、「千夜千冊」は終わらないことにした(笑)。これからもずっと本のことを書き続けたい。取り上げたい本もまだまだある。そこに自分の思想も愛情も込めていきたい。


*以降、セイゴオのトークは「千夜千冊全集版部立集」(会場で販売中)を使って全集の第1巻から第7巻までを案内するという後半戦に入りましたが、その内容は、会場においでいただいた方だけの「とっておき」とさせていただきます。あしからず。

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「全集版部立集」を片手に本の並びから立ち上がる物語に聞き入る参加者たち
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北海道からかけつけてくれた書家・樋口雅山房さん

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2006年7月 7日


Report 千夜千冊展、七夕飾りで幕開け


オープニングレセプション、大盛況

 7月7日夕刻、千鳥ヶ淵のNIKIギャラリー「册」で、「松岡正剛・千夜千冊展」のオープニングレセプションが開催された。大きな七夕飾りがしつらえられた会場は、あっという間に来場者で埋め尽くされた。

 2000年にはじまった「千夜千冊」は、ちょうど2年前の2004年の7月7日、『良寛全集』によって千冊を達成したが、直後にセイゴオは胃癌の手術を受けている。幸い癌は完治したものの十数キロも体重を落とし、しかもその後は全集出版のために以前にも増して激務を続けてきた。

 そんなセイゴオの2年間を心配しながら見守り、また応援してくださってきた方々には、とりわけ多様なスタイルで描き分けた書画や、独自のオブジェ作品やドローイングは新鮮だったようだ。途中、「手遊びの数々をこういう形で皆さんにご披露することになりました。お恥ずかしい気持ちでいっぱいです」と挨拶をしたセイゴオ、またそれを受けて「松岡さんがこのような作品世界をもっていらしたことに改めて驚いています。松岡さんにもっともっと遊んでいただきたい」とメッセージを送った「册」オーナーの北山ひとみさんに、大きな拍手が寄せられた。

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セイゴオの手すさびがならぶ「册」の棚
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書画のなかには早くも「売約済」のシールが
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中央の展示棚におかれた「観音イシス」

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左・・・工作舎の中上千里夫さん(左)とオートバイデザイナーの石山篤さん(中)
中・・・サックスプレイヤー坂田明さん
右・・・ギャラリー「册」オーナーの北山ひとみさん(右)と千夜千歌の小池純代さん(左)


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左・・・十文字美信さんと求龍堂の鎌田恵理子さん
中・・・千夜千冊全集の産みの親・福原義春さん
右・・・現代日本画家ミヤケマイさんと詩人高橋睦郎さん


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左・・・求龍堂ご一行さま/嶋社長(左)、営業小俣さん(中左)、足立会長(中)、田代元社長(右)
中・・・ピアニスト山下有子さんとデザイナー羽良多平吉さん
右・・・地唄の西松布咏さん(中)とマネージャーの加藤さん(左)


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左・・・デザイナーで画家の菊地慶矩さん
中・・・グラフィックデザイナー平野湟太郎さんと奥様
右・・・尺八奏者の中村明一さんとマネージャー慶野さん


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左・・・未詳倶楽部の松井夫妻と高野さん
中・・・写真家・中道淳さんと千夜千冊タイポグラファーの中山禮吉さんと小学館の長澤潔さん
右・・・建築家・内藤廣さん(中右)と美術評論家・新見隆さん(中左)、内藤事務所の小田切さん(右)、蘆田さん(左)

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「七夕には本当に縁があります。1000夜達成も7月7日でした。」

 

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2006年5月31日


Report 「日本文化」の真髄に迫った未来のCEOたち


多摩大学ルネッサンスセンターで6時間講義

 5月28日(土)、セイゴオは多摩大学ルネッサンスセンター「40歳代CEO育成講座」で6時間におよぶ「日本文化講義」をおこなった。受講生は、日本を代表する企業リーダー30名(第5期生)。昨年12月第4期生のために行った2時間講演が好評だったこともあり、今回は大幅な時間増の講義となった。

 講義開始は午前10時。5分前には受講生全員が席につき、課題図書の『情報の歴史』や『花鳥風月の科学』について交わしあうメンバーもいた。事務局の紹介をうけ、いつもの低い声で「おはようございます」といって講義席についたセイゴオ。会場後方には学長の中谷巌氏の姿もあった。

 前夜、ついつい途中まで見ていたという「朝まで生テレビ」の話題から始まった。番組では「日本はアメリカの属国か」が議論されていたが、これについてどう思うか、日本は独立独歩の国だと思うかという問いを投げかけ、また教育基本法の議論で取り沙汰されている“愛国心”についてどう思うかなど、タイムリーなキーワードを持ち出していく。ハンチントン『文明の衝突』(千夜千冊第1083夜)でいう「儒教・イスラム教対ユダヤ・キリスト教」についてのセイゴオの見解などを交え、日本の多くの企業が取り入れたアメリカ流のMBAは、仮想敵国を攻略するゲーム理論(ナッシュ均衡)にもとづいているが、果たしてそのような方法だけで日本はうまくいくのか、これほど世界情勢が読みにくい「複雑性」の時代だからこそ、日本文化にひそむ方法を振り返るべきではないかと問題提起を重ねながら、本題に入った。

 この講義でも、セイゴオは「日本の方法」をわかりやすくするための映像資料をさまざまに用意してきた。日本の古代、中世、そして近代を、映像にのせながら、一気に駆け抜け、「日本」という方法の際(キワ)を示した。

 欧米の方法と日本の方法の違いのおおもとは、一神教と多神教の違いに見ることができる。古来から多神多仏を敬ってきた日本は、砂漠で育まれた一神教の思想ではない考え方によって、文化や社会をつくってきた。とくに日本の「神」は常住している「主神」ではなく、外からやってくる「客神」だった。その神を迎え交わるために行われてきたのが「祭」である。「祭り」にはそれぞれ物語があるが、そのルーツとなっているのが「日本神話」である。日本のことを考えていくときに、我々がどうしても立ち戻るべき場所は日本神話の中にある。そして、「日本」という国の成り立ちを考えるときに、神話によって伝承された「天孫降臨」の謎を考えてみるべきだ。ここに、「外からやってくる神」のヒミツがひそんでいる。

 ホワイトボードいっぱいに日本神話の構造図をえがいて解説したところで午前の部が終了。午後の部は「編集工学」について解説しながらの、セイゴオ直々の編集ワークショップから始まった。受講者たちのイメージとコトバの感覚がほぐされたところで、ひきつづき映像を使っての日本文化講義を再開。

 日本は「天津神」と「国津神」の二つの神の世界を編集した。そして無文字社会だった日本に中国から漢字が入ってきたときには、「漢と和」の二つのプロトコルを編集した。この日本の方法をあらわすキーワードが、「アワセ・キソイ・ソロイ・カサネ」である。欧米の原理が「キソイ」だとすると、日本的方法は「アワセ」を原理とする。異質なもの、矛盾するものを、競わせるのではなく、まず合わせてみる。合わせておいて、技芸を競い、方法を深化させていく。
 このような方法論で、日本の神話や伝承、芸能を再編集したものが、たとえば観阿弥・世阿弥の「能」だった。世阿弥は「複式夢幻能」という新しい様式によって、「現在と過去」「あの世とこの世」を合わせた。「アワセ」を極めることによって、「能」は日本の象徴性、あいまい性を方法として際立たせたのである。

 ここで会場を暗くして能舞台の映像を見せながら、摺り足や能面の驚くべき技法を紹介。そこから、時代を一気に近代に移し、「明治」を生きた人々が苦悩した「日本」を見つめていく。

 長らく「漢と和」を合わせてきた日本は、明治維新によって「洋と和」をどう合わせるのかという新しい課題にぶつかっていく。この問題に悩みぬいたのが、明治を代表するキリスト教者である内村鑑三だった。内村は「二つのJ」のあいだで葛藤する。「二つのJ」とは、JesusのJとJapanのJ。内村は、生涯をキリスト教に捧げる一方、断固たる日本人であろうとした愛国者であり、日本の「本来」を問い続けた。そしてついに著書『代表的日本人』』(千夜千冊第250夜)に、日蓮、中江藤樹、二宮尊徳、上杉鷹山、西郷隆盛の5人が、キリスト教におけるバプテスマのヨハネの役割を果たした日本の代表的な指導者であると記すにいたった。同時期、『武士道』を著して世界に発表した新渡戸稲造も「武士道にはキリスト教精神の80%がある。武士道にはないあとの20%のもの、それは愛である」と綴った。

 いまの我々は、このような内村や新渡戸の方法を失っているのではないか。両極に引き裂かれるような二つのテーマ、二つの世界に身を置きながら、その間を一気に詰めていく、このような方法が、いまもう一度取り戻されるべきではないか。内村は、日本は大国に伍することを目指すのではなく、小さな国であるべきだとも語った。そして、「ボーダーランド・ステイト」(境界国家)というニューコンセプトさえ提案していくのである。

 もう一度、我々も和魂のルーツをたどり、和魂にあう洋才・漢才を探すべきである。しかし、今の日本や日本人がそのような苛烈な編集を果たしてできるだろうか。明治以降、わたしたちは、ブルーノ・タウトやラフカディオ・ハーン、コンドルやフェノロサといった外国人の眼によって「日本の方法」に気付かされてきた。このままでは21世紀になっても日本は同じことを繰り返すのではないか。

  セイゴオの問題提起に刺激を受けたのか、講義後も活発な質疑応答が続いた。「だれも教えてくれないことにこそ、挑むべきだ。ただしそれは自分でたどるしかない」「手がかりをつかんだら決して離してはいけない。」「分かりにくいことにこそ身を呈するべきだ。分かりにくいものは分かりにくいまま丸呑みしなさい。」「もっと聞き耳をたてなさい。」すべての質問に対して、ときに檄を飛ばしながら答えていくセイゴオ。講演後も控室で、中谷学長や指導陣とともに、しばし「日本の現在」を憂える談義が続いていた。

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2006年5月16日


Report 立正佼成会開祖記念館オープン


現代の宗教者の人間性に迫るミュージアム

 立正佼成会の開祖・庭野日敬氏の生誕100年を記念して、杉並区和田の大聖堂改修工事落慶式とともに、新たに設立されたミュージアム「開祖記念館」の内覧会が、5月14日に開催された。2年前にこのミュージアムの計画について相談を受け、基本計画から展示制作までを監修してきたセイゴオは、前日の13日に、大聖堂に隣接する大ホールで全国の教会長300人を相手に記念講演を行い、また当日は落慶式で記念スピーチ、またその後現会長の庭野日鑛氏らとともに、記念館のテープカットを行うなど、二日間にわたる大仕事を果たした。

 庭野開祖は世界史上初めての世界宗教者平和会議を実現させた人物として、広く知られている。セイゴオも長らく庭野開祖に一目を置いてきたが、実際に知り合ったのは、平成7年、卒寿記念ビデオの制作に監修者としてかかわったときだった。すでに車椅子が不可欠なほど高齢となっていた開祖に故郷の新潟県菅沼に来ていただき、思い出の道を「みずからの足で歩いてほしい」という注文をセイゴオが出したという、立正佼成会でいまも語り草となっているビデオである。立ち上がることすら無理だと関係者から聞かされていたにもかかわらず、にこにこと微笑みながら菅沼のあぜ道を歩く庭野氏の姿がロングショットで残された貴重な映像となった。その4年後、庭野氏は92歳で入寂した。

 このビデオ制作時の手腕が再び求められ、今回の開祖記念館計画に携わることになったセイゴオは、一貫して「庭野開祖の宗教観と人間性」を重視し、それをコンセプトに据えた。また展示計画は、明治・大正・昭和・平成の日本のクロニクルに重ね、激動の時代を経てきた宗教者の生き様を、ゆかりの品々と、残された言葉や書によって表現するというものにした。さらに、現会長や家族、また当時を知る教団関係者へのインタビューを重ねることによって、庭野氏のおおらかな宗教観と人間性を、映像やインタラクティブな展示手法によっても浮き彫りにしていった。設計と展示制作は丹青社が担った。

 庭野開祖が生まれた菅沼は日本有数の豪雪地帯である。ミュージアムのエントランスは、その菅沼の雪をイメージした真っ白な空間から始まる。そこに展示された庭野氏愛用の「杖」に誘われて展示空間に進むと、中央に蓮のモチーフが描かれた大きな青い円盤(記憶の水盤)が待ちうけ、天井には菅沼の四季折々の風景の映像が投影される。
 この記憶の水盤を取り囲みながら、明治から大正・昭和、さらに平成へと、庭野氏の生涯の物語が、遺品・映像・グラフィックパネルや、タッチセンサーつきのシステムによって展開していく。
 圧巻は、晩年の庭野氏が胸に抱き続けた霊鷲山・天台山・比叡山の「三霊山」を映し出すシアターと、存命中の庭野氏が過ごしていた執務室の調度から愛用品までを、生活感そのままに移管して再現したコーナー。内覧会でもこのコーナーに長時間立ち尽くす人々の姿が目立った。

 「開祖記念館」は、6月4日以降に一般公開も予定されている。昭和を飾った庭野日敬氏の人間性と、セイゴオが「絶品」と称えるその笑顔にぜひ出会ってみてほしい。

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左)ヘルメットをかぶって工事現場を下見(3月)
中)工事告知看板前で、担当の小高利之さんと(3月)
右)庭野開祖の執務室展示を最終調整(5月11日)



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左)庭野開祖の生涯をめぐるグラフィックと展示。
中)霊鷲山・天台山・比叡山を現す「三山シアター」
右)佼成出版会の展示コーナーで。



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左)全国教会長を前にミュージアムの意図を講演(5月13日)
中)落慶式で記念スピーチ(5月14日)
右)庭野日鑛会長をミュージアムに御案内(5月14日)

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2006年4月 5日


Report 南方熊楠の面影を語る


日本の民俗学と熊楠の森に分け入って 

 4月1日、ワタリウム美術館主催「熊楠の森を知る」シリーズのプレミアム講演会で、セイゴオが「民俗という想像力」というテーマで2時間のソロトーク。もともと50人ほどを対象に美術館のホールで開催予定だったが、申込者が殺到し急遽会場変更が行われる異例の講演会となった。しかも新会場となった「日本青年会館」を訪れると、「講演会場は会議室からホールに変わりました」という二度目の変更告知の張り紙が。

 そのホールに、開演40分前から熱心な熊楠ファンとセイゴオファンが詰めかけた。あっという間に用意された150席が埋まり補助椅子まで並べられた会場に、珍しく明るいオレンジ色のシャツを着たセイゴオが登場(熊楠ファンにはピンときたかもしれないが、じつは熊楠ゆかりの“安藤蜜柑”にちなんで選んだシャツだった)。

 会場の半分を熊楠ファンのツワモノが占めていることを見てとったセイゴオは、「いったい人類とは何か、日本人とは何か、われわれは日本人としての記憶をたどることができるのか、どうしたら日本人であることを思い出せるのか」と、スコープの広い導入から話を切り出した。
 日本人が日本人の起源を問題にしはじめたのは、明治時代になってからのこと。しかも明治日本は列強に伍するために、アジア諸国を包含する「多民族国家」として日本を位置づけようとしていた(のちに五族協和、大東亜共栄圏などにつながった考え方)。このことに真っ向から立ち向かったのが、南方熊楠(1867~1941)、柳田國男(1875~1962)、そして折口信夫(1887~1953)の3人の民俗学者だった。彼らはまだ「民俗学」という言葉さえ定着していな時代に、日本の記憶を取り出す方法をそれぞれに発見していくのである。

 セイゴオは日本の民俗学の黎明期のなかで熊楠を位置づけた上で、この日のために用意した映像を使いながら、熊楠の人物像に分けいっていく。
 20代でアメリカに出奔しさらに英国へ遊学をした熊楠は、イギリスで出版されたばかりのフレイザーの『金枝篇』を読み、西洋的な民俗学の方法に目覚め、やがて日本のための民俗学を志して1900年に帰国。和歌山県の田辺を本拠地に熊野の原生林に入り、森のなかで培われている生命連鎖宇宙に着目。そこから、「南方マンダラ」と呼ばれる独自の世界モデルを構想していく。
 ところがここで大事件が起こる。明治政府が神社合祀という政策を打ち出し、当時和歌山県だけでも3713社あった神社が800社にまで激減、各地の鎮守の森が破壊されていった。熊楠は「森」を守るために神社合祀反対運動に奔走。今でいう「エコロジー」の先駆けともなる活動だった。熊楠にとって、森こそが世界であり、熊野こそ全世界だった。まさに熊楠は熊野にいながらにして「世界民俗学」を体現していたのである。

 このような熊楠に対し、柳田国男は日本に固有の「一国民俗学」をめざした。セイゴオは、柳田についても資料映像を見せながら、柳田の方法と熊楠の方法の違いをあぶりだしていく。
 農商務省官僚だった柳田は農村調査にたずさわりながら、日本人はどうして米をつくるようになったのか、注連縄の形にはどんな意味があるのか、鹿踊りの太鼓のリズムはどこからきているのか、またその衣裳は何を継承しているのか、といった日本人のルーツに関心を深めていった。そして、定住して農事とともに祭事をいとなむ「常民」の民俗学を確立していく。
 そんな柳田に「民俗学」の方法を指南したのは熊楠だった。熊楠は一日に三通以上にもおよんだ往復書簡のなかで、『金枝篇』や西洋の民俗学の体系を柳田に惜しげもなく教授している。ところが「世界民俗学」を唱える熊楠と「一国民俗学」に迫る柳田の間に論争が起こり、ついにその濃密な関係性に亀裂が入ってしまった。

 二人に次いで、民俗学に新たな方法をもたらしたのが柳田の弟子である折口信夫だった。ちなみに、千夜千冊第143夜にも書かれているように、折口の『死者の書』はセイゴオにとっての「珠玉の一冊」であって、セイゴオが20代から着手した日本文化研究も、折口が入り口だった。熊楠は「生命」に民俗のルーツをもとめ、柳田は「先祖」に民俗が継承してきた意伝子を探ったが、折口は「神話」や「和歌」を入り口にして目には見えない日本人の深層にある意識の解明を志した。そして「常民」ではなく「遊民」に着目し、「マレビト」というコンセプトを生み出した。

 ここまで熊楠と柳田と折口を対比させながら超スピードでその方法の違いを解いてきたセイゴオは、最後に再び熊楠の世界へと聞き手を誘った。しかも、ちょっと珍しい映像資料によって。
 今よりも顔つきの鋭いセイゴオと、ぶ厚い眼鏡をかけた荒俣宏が、気楽な会話をかわしながら熊野本宮に参詣し、その後熊野川の河原で延々と熊楠の世界観について談話をしはじめる。これは1994年にBSテレビで放映された「南方熊楠」のノーカット版映像なのである。
「こんなふうに荒俣君といっしょに熊野や熊楠に浸ってみたのが、僕には貴重な体験でした」。
 この番組では、セイゴオが円形の透明アクリル板にホワイトマーカーで板書をしながら「南方マンダラ」を解説するという実験的な収録も行われた。そのシーンのさわりも、紹介された。

 「では、今日の締めくくりです。僕はこの熊楠の面影をこそ皆さんに伝えたかった。泣いてください」と前置きして、セイゴオは会場を真っ暗にし、ある映像を流した。
 昭和4年、昭和天皇の南紀行幸の折、熊楠がご進講をつとめることになった。このとき熊楠は一計を案じて、天皇に小さなキャラメル箱を贈った。なかには熊楠が生涯をかけて研究をした粘菌標本が入っていた。キャラメル箱は熊楠からの「小さきものの中に世界がある」というメッセージだった。
 さらに熊楠は天皇に「神島」への行幸を勧め、それが果たされた。小さな無人島である神島こそ、熊楠が愛した生命の森の象徴だったのである。熊楠の死後、昭和天皇は再び白浜を訪れ、和歌を詠んだ。その歌碑が今も熊楠記念館前に立っている。「雨にけふる神島を見て紀伊の国生みし南方熊楠を思ふ」。

こうして、キャラメル箱に込められた熊楠の思いと、昭和天皇が偲んだ熊楠の面影を伝えて、2時間のセイゴオトークマンダラが締められた。


   
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ツワモノ熊楠ファンを前に面影を説く


投稿者 staff : 03:13

2006年3月28日


Report 未詳倶楽部「遊躍母系伝説」次第 其之二


桜な言葉を刻んで結んで

 未詳倶楽部「遊躍母系伝説」二日目は、次第8段目のセイゴオのソロレクチャー「にっぽんイデオロギー抄」ではじまった。近世日本が、「漢と和」という両界をどのように編集したのか、またそれが現在の日本にどのような問題を投げつけてきたか。朝9時からいきなりの高速歴史塾となった。語るセイゴオも聞く会員たちも明らかに寝不足顔なのだが、昨日の高揚が残っているのか目が爛々。

 続く第9段は、講義のなかで語られた水戸光圀と朱舜水ゆかりの枝垂れ桜のもとで花見弁当を広げ、さらに第10段目ではうってかわって「プリンティング・ワークショップ」の次第へ。訪れた印刷歴史博物館では、ずらりと白髪妙齢の印刷工たちが待ち受けていた。たちまち博物館の一角にある印刷工房に案内され、黒い前垂れを着け文選箱を持たされて、壁面いっぱいに分類整理された鉛活字の前に立たされる会員たち。その場で俳句をひねって、それを自分で活字を組んで栞に刷るというワークショップなのである。

 すでに当サイトの記事「金属サーカスの日々」で紹介したように、金属活字と印刷工は編集者セイゴオにとっての原風景であり、また杉浦康平さんとの出会いの原点である。そのことを体感してもらいたいというのがワークショップの意図。キーボードを打てばわずか数十秒で印字できてしまう五七五の十数文字を、1時間かけて活字を組んで印刷する。12ポイントの金属活字の感触を味わいながら小ゲラに組んで、印圧を確かめながらプレスする。

 指導にあたった印刷工たちも、40人もの団体に「漢字カナ交じり文」を組ませるのは初めてとあって必死である。通常の体験コースは英文の「ことわざ」を見本どおりに組むだけなのだ。英文ならば26文字しか使わないで済むが、「漢字カナ交じり文」ともなると文字を拾うだけで大仕事。未詳倶楽部の行くところ、会員たちにとってつねに未知の冒険なのだが、迎え入れる側もたいていこのような無謀な試みに立ち会うことになる。

 しかし心配されたほどの混乱もなく、それぞれが思い思いに詠んだ句が、1時間ほどで清楚な栞になった。インクが多すぎて文字がにじんだり、インクが不足してかすれたものも多かったが、「それが活字印刷のいいところなんだよ。それぞれに味がある」と、亭主もうれしそうに会員に声をかけていた。

 思わぬワークショップに精根を込めたそのあとは、第11段、江戸川橋を抜けて都内屈指の密教寺院・護国寺へ。夕日に映える八分咲きの桜に導かれ、元禄年間に造営された本堂の中に進むと、そこには昨日の杉浦ワールドを髣髴とさせる五十数体もの密教イコンたち。内陣にまで足を踏み入れ、普段は非公開の本尊「如意輪観音」を特別に拝ませていただく。

 こうして約27時間におよんだ「遊躍母系伝説篇」は、護国寺本坊内の和室「八葉」でいよいよ締めくくりの第12段を迎えた。まず会員たちが栞に刻印した俳句が披露されると、無定形も字余りもなんのその、いずれも杉浦コスモロジーに桜色の気分を重ねた力作揃い。
 最後は亭主セイゴオがしみじみと語った。
「杉浦さんのハイパーイコノロジカル・トークを聞いている最中から、ずっと眉間のあたりに杉浦さんの声や言葉やイメージが漂っている。このことをどんなふうに言えば皆さんに伝わるだろうか。杉浦さんが未詳倶楽部のために尽くしてくれたことはあまりに大きかった。僕はまだまだ手を抜いているな、ということを感じて反省している」。

 亭主の意外な告白が「八葉」の間に立ち去りがたい余韻を残したのか、散会してもしばらくはセイゴオと会員たちの談話が続いた。床の間には、その光景を見守るかのような大日如来の掛け軸。両手が結ぶのは、もちろん智拳印である。

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朝9時から猛烈講義       再び未詳軍団大移動      活字の迷路で立ち往生
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印刷工の技に真剣なまなざし   さよなら三角また来て四角   大日如来に見守られ    

投稿者 staff : 17:19

2006年3月27日


Report 未詳倶楽部「遊躍母系伝説」次第 其之一


ついにお目見えの“あの人”

 3月25日~26日の二日間、東京で未詳倶楽部春季例會「遊躍母系伝説」が開催された。未詳倶楽部は松岡正剛の思索や活動に関心のある人々が集うプライベートクラブで、年に数回、全国各地で例會を開催している。モットーは未知・未定・未満・未萌・未了なるものに敬意を払い勇気を発揮すること。そのため、例會の案内状には集合時間と集合場所しか記されない。毎回あっと驚くゲストが登場するが、その名前も事前には知らされず、プログラムの一切が伏せられたまま進行する。
 ところが今回の例會では珍しく、開催告知でゲスト名が明かされた。それもそのはず、かつてから会員からのリクエストも多く、とりわけセイゴオが未詳倶楽部発足以来8年間、ずっと「いつかはぜひ」と思い続けてきた“あの人”がついにお目見えとなったのだ。“あの人”とは、ほかでもない、杉浦康平さんである。

 ゲスト名は明かしてもプログラムはやはり未詳。しかも今回は初の東京一泊二日コース。セイゴオと事務局スタッフが念入りに準備した次第は、なんと9箇所を廻る全12段構成。第1段は、東京のど真ん中の桜並木のあるリバーサイドカフェ。近郊在住会員はもちろんのこと、札幌・長野・静岡・名古屋・岐阜・京都・大阪・下関・福岡ほか、全国から集ってきた会員たちを、まずはセイゴオ亭主がお出迎え。

 紬、バティック、チュニック、短パンサンダルなどなど、思い思いのハレの衣裳の会員が、坂と文人と芸者で名高い町をそぞろ歩いて、案内されたのはその名も「鳳凰」という名の会場。いよいよ「遊躍母系伝説」の開演、いよいよ杉浦康平さんの登場である。花見気分を切り替えて、持参したノートやメモ帳をたちまち取り出す会員たち。

 未詳倶楽部の面目は、亭主セイゴオの趣向に負うところが大きいが、じつは会員たちのこの学習熱心さにある。未詳例會に招かれたゲストがたいてい「生涯で最高の演奏ができた」「こんなに気持ちよく講義ができたことはかつてない」と驚嘆し感謝するほど、一途な面々が揃っている。だからこそセイゴオはいつも、自分の好みや憧れや敬慕をこの倶楽部に遠慮なくもたらしてくることができた。

 しかし、杉浦康平さんは、そんなセイゴオと会員たちの濃密な空気感さえも、たちまち圧倒してしまった。杉浦さんは未詳倶楽部のために数週間を費やして、膨大なアジア図像コレクションの一大編集をし続けていたのである。図像の組み合わせと組み直しが何度も何度も重ねられた結果、最終的にスライド400枚を2台のプロジェクターで映写する超絶プランになっていった。「それでね、全部やると5時間かかりそうなんだけど、大丈夫かな」とセイゴオに相談の電話が入ったのが三日前のこと、このような長丁場は、杉浦さんといえども初めてのことなのだという。杉浦さんは、未詳亭主セイゴオが愕然とするほどの、未知なる冒険に挑もうとしていたのだ。

 講義に先立ち、杉浦さんは、会員たちに、できるだけ2台のスクリーンの近くに寄って見てほしいと声をかけた。2.5メートル四方の2台の巨大スクリーンに次々と投影されるアジアの図像と杉浦さん独自の図像解読コンセプトワードを全身に浴びながら、また時折身ぶりをまじえて「かたちの意味」を解く情熱的な語りの姿を眼前にしながら、セイゴオも会員たちも、その「知」の懐の大きさに、陶然と包まれていった。

 講義は3部構成で、第1部ではシヴァ神とシャクティ神の合体神にはじまる両性具有のイコンの数々が紹介され、対極するものを融合させるアジアのイメージと生命観が語られた。そのなかで古代ギリシアのヘルメスのシンボルと不動明王のシンボルの擬同型という驚くべき東西のイメージ連想も開示された。
 第2部もまた、男女・日月・生死などの二つの世界をまたぐ「まだら」のイコン・文様から、「マンダラ」の構造図解へといたる、大胆緻密な構成。大日如来の印相である智拳印を実際に手ほどきしながらの「二にして一 一にして多」という杉浦コスモロジーの真骨頂を堪能させられた。そして第3部は本邦初と杉浦さんが言う「ハート地図」図解。これは杉浦さんが神戸芸術工科大学の授業で学生たちに書かせた「ハート形」をモチーフとする図解を、独自に読み解いていくもの。

 滔々とした杉浦ワールドに浸った至福の5時間を終えると、未詳次第は場所を移して5段目の円卓食宴へ。ここでは主客を入れ替えて、興奮の冷めやらぬ会員たちが、ひとりひとりマイクを手に講義の感想をスピーチ。杉浦さんはその一言一言に何度も頷きながら、じっと耳を傾けていた。どんな場でも誰が相手でも、イメージと知への礼節を湛えた杉浦さんの存在が、いっそう会員のなかに染み渡った。
 杉浦さんを拍手で見送った後も、次第は6段、7段と続き、最後は宿泊先のホテルの一室で3時すぎまでセイゴオと会員たちが、体のなかをめぐり続けるアジアの六塵をかわしあっていた。


   
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亭主の手厚いおもてなし       未詳軍団大移動        「鳳凰」に飾られた亭主の書

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智拳印の実践講義     めくるめくハイパーイコノロジー   まだらになって記念撮影

投稿者 staff : 13:37

2006年3月20日


Report 感涙・感激・感門之盟


ISIS編集学校の師範・師範代を迎えて

 2006年3月19日、広尾のレストラン「シェ・モルチェ」でISIS編集学校「感門之盟」が開催された。「感門之盟」は、師範・師範代への感謝と慰労のための修了祝。松岡校長直筆の書と、庭に咲き乱れる草花が特設ステージをいろどり、会場に次々と到着する面々は早くも顔が紅潮している。インターネット上で苦楽をともにした学衆たちも、ナマの師範代と校長に会えることを楽しみに駆けつけ、あっという間に会場はワインでほぐれた100人の歓喜と笑い声でいっぱいになった。

 司会の大川頭取が挨拶に立つと、来場者はいっせいにステージ前の椅子席に移動。いよいよ感門の次第に入っていく。まず13期「守」の師範・師範代のオンステージから。
 最初に「守」運営統括者である富沢陽一郎学匠が「師範代の成長が著しかった。3回、4回と脱皮を繰り返しながら編集指南の技を磨いてくれた」と13期を振り返った。続いて、師範から師範代へメッセージをしたためた「感門票」の贈呈。「女は武士道」がモットーの小清水美恵師範から、「仕事のほかにこれだけ人生をかけられる場所があるものか」と言い切る森美樹師範まで、6人の個性豊かな師範が、心尽くしの言葉を師範代に贈った。その愛情の深さに目をうるませる師範代たち。校長からも、一人一人の師範代に合わせて選んだ文庫(「先達文庫」とセイゴオは名づけている)が、さらに師範たちには直筆の文字絵の色紙が贈られた。

 続いて12期「破」の次第に入ると、校長松岡は紋付の羽織に衣裳替え。「破」の学匠をつとめる木村久美子から、75パーセントという過去最高の突破率(全番回答をすることを「突破」と呼ぶ)の達成が報告された。「破」は応用コースとあって、師範代にはいっそう編集技量が求められる。そのぶん、修了祝いの「先達文庫」も上下巻2冊ずつとボリュームアップする。林雅之師範代には「これからは“逆対応”を習得すべし」というメッセージを込めた『西田幾多郎全集』が、編集学校の“秘密”を追及したい」という渡部好美師範代にはブルフィンチ『ギリシア神話と英雄伝説』が贈られるなど、選本もそれぞれへの編集課題や期待を込めたものになる。

 「感門之盟」の名物は、なんといっても師範・師範代の感きわまった言葉と涙である。ネットの学校でありながら「教室」があり、日々ドラマが起こるリアルな体験を通して、絆を深めてきた師範と師範代。それを暖かく見守ってきた校長や学匠たち。学衆たちはこの日初めて、ISIS編集学校の懐の深さを目の当たりにし、師範や師範代への憧れをいっそう募らせるのである。

 「守」「破」の次第が終わると、2月26日に開講したばかりの「離―校長直伝プログラム・世界読書奥義伝」の担当総匠・太田香保と相京範昭・倉田慎一別当師範代がステージへ。3週間目を終えてすでにメール発言数3000件近い編集稽古と指南の応酬が展開している激闘ぶりがホットに報告された。さらに、師範代養成学校であるISIS花伝所の佐々木千佳所長が登壇し、30人もの受講生を迎えた第3期の成果を報告、編集指南術を指南するという高度な任務を果たした9人の師範たちを紹介した。花伝所師範には、その名前にふさわしく、校長から書画入りの扇子や著書『ルナティックス』が贈呈される。この贈り物には、ISIS編集学校の奥義の芳しさが象徴されている。
 いよいよ3月20日に開講する14期「守」の担当師範代と教室名も披露され、最後は松岡正剛が「校長講話」で締めくくり。編集学校のなかでかわされ、培われている「目に見えない」絆について、「不確定性理論」や、宇宙の「ひも理論」などを引き合いにしながら、多中心世界モデルを持ち出しながら語るうちに、ついついスピーチが熱をおび、40分にもわたるミニレクチャーとなっていた。

 ISIS編集学校は、間もなく開校から7年目を迎える。第1期から蓄積されてきた「知と方法」の伝統はますます深まり、しかも次々とニューフェイスがニューウェーブを生み出していくエネルギーは衰えることがない。松岡正剛がISIS編集学校を愛してやまないのは、師範・師範代が発揮する「一途さ」と「多様性」がかけがえがないもので、類例がないからなのだ。

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2006年3月13日


Report  金沢・クラブ・篝火組


「倶楽部型創造都市」にエールを送る

 3月11日(土)、セイゴオは午前の便で金沢へ飛んだ。金沢市主催の「文化芸術振興プラン策定に向けた市民フォーラム」で基調講演のため。

 このフォーラムは、金沢市が2年越しで進めてきた「金沢市文化芸術プラン」の策定のために広く一般市民からの意見を募るという位置づけのもの。2月に記者発表も行われている。

 セイゴオの演題は「都市とクラブと編集文化」。
 現代の情報経済社会は、18世紀ロンドンのコーヒーハウスから始まった。すなわち、クラブ・サロンの場から、保険・株式会社・小説・新聞・広告・政党などが生み出された。金沢には、そのようなクラブ型の編集文化を、新しく生み出す下地が十分にある。それらに、どのような名前をつけるかが重要だ。
 150人が入る会場は補助椅子まで出て満員。金沢在住の人間国宝から商店街の店主まで、つめかけた老若男女が熱心にメモをとる姿が見られた。続いて、セイゴオは日本の文化や芸術が、歴史的にどのように発生し派生していったかという話に入っていった。

 日本文化の担い手の多くがハンディキャッパーや下層の人々だった。こういう人々は公家や武家による社会制度の外側で独自なネットワークを形成し、政治経済のトップたちと緊密な関係を築いていた。文化や芸術は、1つのしくみやシナリオからは生まれない。もっと重層的な関係シナリオが必要である。セイゴオの話にいっせいに大きく頷く場来場者たち。「きわどさ」「あやしさ」「色っぽさ」がある金沢らしいプランを期待している、とエールを送って締めくくると、熱気に包まれた会場から拍手が沸いた。

 そもそもこの「金沢市文化芸術プラン」は、山出保市長との会談の中でセイゴオが提案した「倶楽部」というコンセプトにはじまった。その後、座長の佐々木雅幸氏(大阪市立大学大学院創造都市研究科長)と副座長の福光松太郎氏(金沢経済同友会副代表幹事)が中心となった策定委員会で議論を経て、編集工学研究所がとりまとめをしたものだ。その名も「倶楽部型創造都市の創出」という、松岡編集工学メソッドを使った画期的なプランになっている。来年度以降の展開が楽しみだ。

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 フォーラム終了後は、福光氏のコーディネートによって、にし茶屋街で大樋年雄氏(陶芸家)、藤舎眞衣氏(横笛奏者)らとともに、懇談会。加賀友禅に島田の髪が艶やかな芸妓衆の舞踊を堪能しながら、「金沢は、東京の粋(イキ)と京都の粋(スイ)の間にある。それをなんと呼ぶか」というセイゴオからの謎かけをめぐって、女将さんまで加わっておおいに盛り上がった。

 懇談会が終わると、雨の中、香林坊へ駆けつけるセイゴオを待っていたのは、ISIS編集学校金沢支部こと「加賀篝火組」メンバー。元新聞記者のマダムが仕切るカフェで、黒糖生姜湯をいただきながら、引き続き町づくりの手法をめぐって熱く語り合った。「10人の会議で7人が賛成なら、そんな企画はやらない。3人が賛成でも考え直す。もし賛成者がたった一人なら、その企画はいける。そいつと徹底的にやる」というセイゴオのプランニング奥義の話には、篝火組一同唖然としつつも、おおいに勇気づけられたようだった。

投稿者 staff : 21:30

2006年2月28日


Report 甲府・桜座・面影の国


失われた日本の方法をめぐって


 2月25日、セイゴオが甲府「桜座大学」の第1回ゲストとして出演、2時間にわたって「日本人の面影」を語った。

 桜座は、江戸時代から明治にかけて甲府の文化拠点としておおいににぎわった芝居小屋「櫻座」が、昨年の6月、75年ぶりに中心街の旧ガラス工場の空間に復興されたもの。以来、多くの文化人やアーティストが出演し、内外の交流とともに、独自の文化発信力を育んできた。
 
 開講にあたり桜座プロジェクト・リーダーで舞踊家の田中泯氏が「少しずつ変わりつづける劇場をめざしている」と挨拶。この日のために、昨夜から徹夜で桟敷席がしつらえられたことも明かされた。その席を、地元の桜座ファンと遠方から駆けつけたセイゴオファンが埋め尽くしている。

 トークに先立ち、昨年山梨放送が制作し田中氏が出演したテレビ番組「いつになったら―詩人金子光晴」が上映された。金子の詩「富士」を手がかりとしながら、田中氏がゆかりの地を訪れ富士と対峙し、金子の反骨精神に触れていくドキュメンタリーである。帝国日本の象徴となった富士を憎みつつ、家族とともに反戦を貫き富士の麓に暮らした金子の生きざまを、田中氏が言葉少なくも鋭くえぐりだしていく。

 上映後ステージに登場したセイゴオは、まずその映像の感想を導入に、なぜ「日本人の面影」を語るのか、面影とは何なのかを語りながら本題に入っていった。

  金子光晴が、そして田中泯が教えてくれることは、私たちは何かに直面するのが困難であるということ。人間には最初につけてしまった仮面(ペルソナ)というものがある。直面するためには、その仮面を引き剥がさなければいけない。
  金子は、「一億一心」を唱える大日本帝国に対し「一億二心」をもちだした。1億人が一心であるならば、自分はそれではない一心を持ち出すのだと言った。国家に対して、あるいはいまの日本に対して、何か異議を申し立てるなら、金子のように、直面(ひためん)になって、存在において拮抗するしかないのだ。


 ここから、昨年出演したNHK人間講座「おもかげの国うつろいの国」を特別編集した映像を使いながら、日本が発揮してきた編集文化をとりあげていく。

  私は20世紀までは主題の時代だったが、21世紀は「方法の時代」であると考えてる。日本はいま、日本を語り、日本を考える方法を失っている。日本の面影を取り出せなくなっている。面影とは、目の前のモノが去っても、なおそこに残るもののことである。
  「面影」はうつろいゆくものである。「うつろい」の「うつ」とは、「移」であり「映」であり「写」でもあって、そして「空」でもある。そのようにして変化していく面影をとらえ、うつろいを美意識にした方法が「数寄」である。「数寄」とは、「漉く」であり「透く」であり「鋤く」であり、「好き」でもある。
  日本はこのような和語的連想世界のなかで「面影」を継承してきた。中国から漢字が入ってきたときには、それを中国語で読むのではなく、漢字に和語を当てはめて読んだ。あるいは万葉仮名のような独自の文字文化をつくった。漢字のもつ意味と、和語の意味とを重ねることで、さらに連想的方法を多重化した。あるいは漢字の意味からは離れ、その字形をうつろわせて変化させ、仮名文字というオリジナルの文字さえ生み出した。いま私たちは、このような方法を失ってしまっている。

 映像のなかの松岡正剛と、ステージの上のセイゴオ。編集された語りと、いま編集しつつある語りが交差していく。後半は、方法を失った日本に警鐘を鳴らし、あるいは存在として屹立した明治~昭和の人々がとりあげられていく。

  島崎藤村は実父をモデルにした小説『夜明け前』で、日本の“あるおおもと”を問うた。内村鑑三は、「二つのJ」すなわち「ジーザス」と「ジャパン」に引き裂かれようともその両方を愛すると言い切り、日本的キリスト教を模索した。
  金子光晴は、あえて「異邦人」「棄民」の立場に身を置いて日本を凝視した。野口雨情は、「赤い靴」「雨降りお月さん」「青い目の人形」といった寂しい歌詞の童謡を次々とつくり、それによって日本の本来と将来を子供たちに伝えようとした。
  九鬼周造はハイデガー、フッサール、ベルグソンというヨーロッパ随一の哲学者に学びながら、西洋的な「同一性」の哲学では解き得ない日本的心性を見つめた。
  このような日本人たちが見つめた日本の面影というものは、名状しがたく、また考えることすら困難なことである。しかし私は、何かを声高に言うのではなく、このような困難にこそ立ち向かいたいと思ってきた。これからもそうしていきたいと考えている。


 予定時間をはるかに過ぎてトークが終わったが、田中氏に促されて客席から二つの質問があがった。

Q:世界の情勢を見ていると行き過ぎた民族主義がもたらす問題の大きさを感じる。他者を排撃する民族主義は日本的ではないと感じた。

セイゴオ:そのとおりだ。日本を考えたり、持ち出したりするには、自分を際どい場所に置くことだ。一坪の茶室でも世界を覆すことができるのだ。それから、日本の「おおもと」は高速に扱うこと。縄文時代まで一挙に立ち戻り、そこから現在へ高速で戻ってくる。

Q:日本人の面影というのは、具体的にいつの時代くらいの、どこからのものを思えばいいのか。

セイゴオ:日本のばあい、たどるべき「おおもと」がかなり漠然としている。また、その「おおもと」は一つのものと考えるべきではない。アマテラスまで戻るならスサノオにも戻る。必ず「対」というものを考えるとよい。ひとつの「おおもと」があると考えるのは一神教的価値観である。

 最後に田中泯氏が、「今日の松岡さんは、言葉のひとつひとつを踊っているかのようだった。想像を絶する努力と好奇心を持ち続けること、それが日本の本来というものではないか」と、セイゴオに手向けた言葉で締めくくった。
 田中氏と甲府の人々とともに呼吸し続ける桜座。白熱トークを終えたセイゴオもひさびさに深呼吸をしたあとのように清々しい表情だった。

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投稿者 staff : 01:07

2006年2月20日


Report 修善寺に極まった「日本の間」


布咏・正之助・セイゴオの直伝講座

  2月18~19日、松岡正剛が塾頭をつとめる次世代リーダー養成塾「ハイパー・コーポレイト・ユニバーシティ“AIDA(間)”」の合宿が行われた。横山大観や芥川龍之介、初代吉右衛門もたびたびおとずれたという修善寺の老舗旅館を舞台に、日本の“間”をテーマとする濃密なプログラムがひらかれた。

  1月14日に開催された前回は、インテリアデザイナーの内田繁氏を迎えて「目に見える文化」と“間”の関係をめぐった。今回は「目に見えない文化」にひそむ“間”を伝えるため、セイゴオは特別ゲストとして二人の名人を招いた。一人は、地唄を専門にしながら長唄も端唄も小唄も絶品の邦楽家・西松布咏氏。もう一人は、大蔵流大鼓方にしてバイク乗りでもある能楽師・大倉正之助氏。

  西松氏の艶と張り、大倉氏の響きと拍子。それぞれのソロ演奏を堪能したあとは、塾生たちに三味線、小鼓、大鼓を持たせての実技篇。二人の“師匠”からのビシバシ稽古のあとは、西松氏と大倉氏による記念セッションのプレゼント。北園克衛の詩に西松氏が三味線の曲をつけた「黒い肖像」と「BLUE」に大倉氏が大鼓を合わせた。二人が詰める見えない日本の“間”にセイゴオも塾生も聞き入った。

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三味線と大鼓のセッション(左)と3人の語らいのセッション(右)

  締めくくりは松岡正剛のレクチャー。山本常朝の『葉隠』を取り上げて、対立するモノ、矛盾するモノの「あいだ」に身を「奉り置く」ダンディズムの精神を語った。

松岡「わたしたちは目に見えないところにも“日本”を感じる。それは“音”の世界だけではない。日本特有の“仕切り”の文化が、目に見えない日本を感じさせている。」
松岡「日本流はつねに二つで一つ。正負、去来、加減、神の送り迎え、キヨメとケガレ、ウツとウツツ。それらは相反し矛盾していていい。ただし、その二つを持ち出すタイミングを間違えると“日本”ではなくなる。」

 せつなさとはかなさと揺ぎない意気地をもつ西松さんと、礼儀と覚悟とみなぎる生命感をもつ大倉さんに、和魂(にぎたま)と荒魂(あらたま)を感じた2日間だった。
 

投稿者 staff : 01:57

2006年2月 8日


Report  田中泯さんと初の公開対談


言葉未然の場所と存在をめぐって

2月8日、早稲田大学演劇研究センター主催によるシンポジウムで、田中泯氏とセイゴオが対談。二人が公開の場で話すのは、30年近い交友関係のなかでもこれが初めてのこと。70年代から最近までの田中氏の貴重な記録映像をもとに、踊りについて、身体について、場所について、存在について、約100分にわたって深深とした話がかわされた。

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シンポジウム冒頭の40分のソロトークのために田中氏が念入りに準備をした映像は、裸体で踊り続けた70年代をかわきりに、噺家などの言葉の使い手とのコラボレーション、ガタリの精神病院でのパフォーマンス、政情不安定な時代のモスクワでの“非合法”公演、トスカーナでの白馬との偶然の競演などなど。身体の速度について、「振り」ということについて、当時何を考えていたのかということを研ぎ澄ませた言葉で語りながら、幼いころの思い出やエピソードを織り込んでいく。

映像の途中で、「このあとは松岡さんとともにかわしたい」というコールに答えて、ゆっくりステージに上ったセイゴオは、そこまでの語りを受けて「泯さんはつねに、“存在”の前で踊りたいと言ってましたね。“存在において”踊る、ではなかったんですよね」という話を切り出した。「憧れないと生きていけない。そして、私が私にとってもっとも重要な例題でありたい」と返す田中氏。

二人の出会いは、「遊」創刊号のセイゴオの処女エッセイ『場所と屍体』を読んだ田中氏が、工作舎を訪ねたことがきっかけだった。父の死をめぐって若きセイゴオが思索した「存在と場所」をめぐるエッセイである。この日、映像を紹介しながら田中氏は、幼年期に警察官の父親から数多くの死体写真を見せられたというエピソードを明かしていた。

「父と屍体」という共通する源泉をもつ二人には、もうひとつ共有してきた“父なるもの”があった。土方巽である。

田中:「土方さんが舞台で放っているものがショックだった。そこに近づきたいと思った」。
松岡:「土方さんから受けたものはあまりにも大きな“借り”だった。ああ、これが“親父”というものだと思った。」

田中氏が「果たして踊りを“見る”ことはできるのか。踊りとは何なのか」という迫真の問いを発し、セイゴオは「あえて初歩的な質問から重ねてみます」と断りながら、徐々に田中泯の秘密へと迫っていく。

田中:「少年時代、祭り囃子が聴こえると胸騒ぎがした。あのときのようなマグマのような生命のうねりを感じていたい。たくさんの“事態”というものを抱えていたい」。
松岡:「田中泯は威儀を正すという姿勢を貫いてきた。それは相当な犠牲を払わないとできなかったことのはず。僕はそれを宇宙的礼節という言葉で呼んできた」。

深く考え込みながら言葉を発していく田中氏から、さらに核心の言葉を導き出そうとするセイゴオは、対談中に椅子を数十センチずらして二人の位置をぐっと近づけた。踊っている身体に出入しているもの、そこに生成していくものは何なのか。田中氏も、その松岡正剛の腕に触れて見せて、「当事者同士が感じあう相即入があるのではないか。踊りはこうして肌に触ることもできる」と答えた。

「それでも、言葉の世界がさまざまなメディアを獲得したことに比べると、身体は“ここ”という場所から持ち運びはできない。そこはどう考えていますか。」と問いを重ねると、田中氏は「いつだって、自由に居場所を変えることができますよ。」と即答。セイゴオが「まいりました」と頭を垂れて見せたところで、二人の持ち時間いっぱいとなった。

シンポジウム終了後、主催者側の用意した懇親の席でも、壇上と同じ近さで並びあい、何事かをかわしていた田中泯と松岡正剛。二人の対話は、今後もまだまだ公開の場で、あるいはそれぞれが育んでいく「場所」で、互いの主客を入れ替えながら、これからも続いていくことだろう。


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対談後の二人の笑顔

投稿者 staff : 00:19