千夜千冊を読んでいただいているみなさん、「一尾」を突然に中断して、ご心配をかけました。
9月25日土曜日、築地の国立がんセンター中央病院を退院しました。なんだかメガロポリス市街地の片隅にあるらしい異星人のエアポケットに収監されて、ふいにそこから出てきたようなスタートレックな気分です。但し、おなかがあまりにも痛い。
この日はもともとは、古都で未詳倶楽部の面々とひとしきり遊ぶ予定の日でした。けれどもそれはかなわず、家人、太田香保、和泉佳奈子に付き添われての、たった一人の未詳倶楽部になりました。国立がんセンターは築地中央市場の目の前、朝日新聞社本社の隣にあるので、帰途、そこから近いお台場から東京湾が見えるところまで車で運んでもらって、トーキョーの海を見て未詳倶楽部してきたのです。そのベイ・エリアの光景は入院中、18階の病室からずっと眺めていたものでした。
いまは自宅で、切られたおなかを真っ白い腹帯で締めつけながら、ちょっと所在ない日々を送っています。
お見舞い、いろいろありがとうございました。
かなり多くの方々から言葉や花や品物を頂戴いたしました。できればお一人ずつに短歌一首を添えたお礼をしたいのですが、いまはそれはできそうもありません。この場を借りてお礼を申し上げます。
とくに最初のころISIS編集学校の諸君から次々に寄せられた言葉には、それぞれ胸迫るものがありました。その感想の一端はISISサイトの「方庵」にアップロードしておきました。安藤忠雄、いとうせいこう、高橋睦郎、堀資栄さんからは早々とすばらしい言葉を貰いました。ベッドではそういう言葉が鰹節本だしのように身に染みます。
田中泯は「顔を見るまでは安心しない」と言ってくれました。たしかに顔は落ち窪み、体重も7キロほど減りましたが、癌はいなくなったのです。
手術は9月3日の午後でした。麻酔までに30分、手術は5時間半。
内臓が相互に癒着していて、その分離に1時間を費やしたようです。これは20年前に胆嚢を全摘したときの名残りらしく、胃・肝臓・十二指腸・膵臓がくっつきかかっていたと聞きました。
胃癌の正体は胃の内側の粘膜内の分泌細胞に生じていました(胃癌はたいてい粘膜に発生します)。5〜7センチのヨコに広がりつつあった早期癌で、深達度をもった進行癌はなく、リンパ節への転移もなかったようです。それにしても、よくぞ早期発見できたものです。ぼくは数ヶ月にわたった潰瘍の痛みに堪えかね、中目黒の足高・森クリニックの森先生のところに駆けつけ内視鏡で覗いてもらったところ、癌を発見されたのですが、これが天の扶けでした。胃癌と潰瘍はしばしば併発するようです。癌細胞が胃液でただれてしまうせいですね。
ともかくも数センチの胃癌状態で、それも中央部でしたから、そのため胃の出口にあたる幽門を残す手術となりました。胃の中央部を3分の2ほど切除して、噴門部分と幽門部分を縫合したわけです。
外科手術というもの、当人は全身麻酔で何も記憶していないのですが、麻酔がさめた瞬間に我が身に処置された異様な事態の渦中におかれた状況は、やはり相当に意想外のもので、「窮余の身体」をゆっくり実感することすら、できません。
腹がタテ真一文字に20センチ(おへそをよけて)ほど切り裂かれて、胃袋が真ん中でチョン切られて縫い合わされている。これはどうみても、食えないマグロです。そういう異様な体のあちこちに、酸素マスク、鼻から2本の管、背中から硬膜外の塩酸モルヒネ・カテーテル、消化液や胆汁を排出するための脇腹から不気味に出ている2本のドレーン、尿道に突き刺さったパイプ、手首から絶えず注入されている3袋の点滴液の管、これらがひっきりなしに外挿かつ排出されているのですから、どう見ても、みてくれの悪い人工昆虫です。
これはしかし、大胆かつ慎重に緊急造成されたほぼ完璧な「医療的人体」というものなのです。けれどもそれとともに、外科のベッドの上でしか想定できない絶体絶命の状態でもあります。何かが間違えばすぐに死の危険もあるはずなのに、この緊急人体をまさに水際立って救済してしまうんです。。その方法は呆れるばかりに水際立っています。
第836夜に書いておいたように、外科手術というものは「合法的に患者にくだされた異常なダメージ」にほかなりません。医者たちはこのことをしばしば「侵襲的な医療」と言っています。患者を目的に向かって侵し、合法的に襲うこと、それが内臓手術です。
ぼくの雑駁な印象でいえば、暗闇で辻斬りに会って腹をばっさり切られ、手をつっこまれて胃を奪っていかれたという感じです。これがあっというまにおこった。何も口に出せないし、どんな躊躇もそこにはおこっていない。気が付けば、酸素マスクをつけて、体中にパイプを出入りさせている。そういう事態です。
なぜこんな羽目になったかといえば、ぼくの体に「異質な他者」が発生していたからです。これは自己ではなく「非自己」の介入です。むろんこの「異質の他者」と共存する手もあるし、癌をゆっくりと消していく内科的な方法もあるわけですが、ぼくは森先生と相談し、国立がんセンターに自分を預けることにしたのです。
むろん、おこった外科事態は尋常ではありません。すこし正確にいえば、ぼくがうけた胃癌の3分の2の切除の開腹手術とは、次のようなものでした。
まず、前日には胃に内視鏡によってクリップを打ち、執刀医が指先で患部を触知できるようにします。胃に数本のピンを打って、患部の領域をわかるようにするのです。あとで切除部分のカラー写真を見せてもらったところ、ぼくの場合はけっこう大きな3本のピンが棒杭のように打たれていました。
当日は朝から毛を剃られ、浣腸などによって胃腸をすっからかんにしておきます。ついで鼻から2本のパイプが挿入され、筋肉弛緩剤が打たれ、ストレッチャーで手術室へ運ばれます。このストレッチャーで運ばれていく速度はものすごく速く感じます。おそらく病院の光景が過ぎ去っていくのを仰向けに見ているからで、視界が過(よぎ)る光景感覚がふだんと違っているからでしょう。18階からオペ・フロアーの9階まで見送りに来た者たちの話では、実際にはけっして速くない。しかし、患者にはまるで死刑台のエレベーターに乗せられるような観念とともに、何かが高速で動いていくのです。
手術室に着くと、「お名前と血液型を言ってください」と言われ、それに答えるとすぐに全身麻酔です。麻酔薬が血流に入って中枢神経に運ばれ、ぼくの意識はあっというまになくなります。
これで無痛状態が生まれるのですが、無痛なだけでなく、中枢神経の支配下にあるいっさいの反射がなくなるので、第836夜に驚愕をもって書いたように、このとき、ぼくの呼吸もすっかり停止してしまうのです。
これは、神経と筋肉の接合部分の刺激伝達を遮断するべく、麻酔薬とともに強力な筋肉弛緩剤が加えられたためにおこることで、呼吸作用に必要な横隔膜の活動が停止してしまうからです。当然、ただちに人工呼吸が始まり、最初はマスクで、ついで口を大きく開けられて気管内挿管がさしこまれます。それでもまだ足りないので、麻酔医たちが酸素バッグを握ったり緩めたりして、呼吸を調節する。
ようするに開腹手術では、ぼくは仮死状態ないしは擬死状態なのです。人間は5分の呼吸停止でかんたんに死にますから、まさにぼくはいったん“殺された”んですね。その人工殺害をおこす瞬間に、国立がんセンターの磨きがかかった医療技術がぼくの人体に結集し、この5時間にわたる仮死状態めがけて、内臓癒着整理と胃癌部分切除とリンパ節郭清をやってのけるのです。
首尾よく患部周辺をメスで切り落とせば、次は縫合です。内側を溶ける糸で縫い合わせ、おなかの外側の皮膚のほうはホッチキスをバチバチと打つ(この傷痕を見ると、さすがに気分が悪くなるほど不気味です)。そうしつつ、今度はぼくの「術後人体システム」というものが次々に装着されていくのです。
管だらけの人体が、こうして仕上がると、手術の経過を名状しがたい気分で待っている家族に、館内PHSで、「松岡さん、無事、手術が終わりました」。
こうして、ぼくは「18F5という生きた医療システム」になったわけです。18F5はぼくの病室コードでした。
術後は誰もがそうでしょうが、こんな侵襲医療的人体になった自分をとりまく人為環境には、さすがにへこたれそうになります。なんとも情けない。
けれどもそういう実感をもつ余裕はまったくなく、麻酔が切れた直後から、医師や看護師が入れ替わり立ち代わり激励と支援をしつづけてくれるので、ついつい、もう少しだ、もう少しだという、10分ずつ、1時間ずつの苦闘の佳境を前進せざるをえません。
いまはどこでもそうなのかもしれませんが、国立がんセンターでは麻酔が切れて数時間後に、よいしょと立ち上がらされ、たとえ数歩でも歩かさせられます。これは合併症を避ける最大の措置らしく、内臓が癒着しないようにすること、肺炎を併発しないようにすること、胃液・胆汁などの逆流を防ぐこと、いろいろの効果があるようです。
塩酸モルヒネが背中から注入されているとはいえ、これはなんとも辛い。やりたくない。体中がギシギシ悲鳴をあげます。しかし、このときの看護師(看護婦)さんこそ、翼がはえた達人です。観音菩薩か吉祥天かミューズのような笑顔と声で、ぼくを抱き抱えるように動かしてしまうのです。とうてい彼女らの献身を断れない。このとき、裸足で集中管理病室のリノリウムの床を歩いたひんやりした感触は、いまでも忘れられません。
入院中に最も納得させられたのは、管だらけの昆虫人間を緊急に造成しておきながら、これらの管を1本ずつ、適確に抜いていく断乎たる速度です。
ぼくの人体はいったん生ける人工システムになるのですが、それを今度は解除していくんですね。最初は尿道に突き刺さった透明パイブの除去でした。次が酸素吸入パイブ。そして硬膜外カテーテル、脇腹から出ているチューブ‥‥というふうに。最後の最後に抜かれたのが点滴チューブです。
いったん緊急人工事態をつくりあげておいて、次にこれらを徐々に解除する。あとは、さあ、松岡正剛、おまえの傷だらけの生身が残ったぞ、という具合です。
もっとも、それでも血液検査やCTやレントゲンで、体はデータ観察されつづけます。ぼくの場合は白血球の値が術後2週間で9000となり、さらに12000となって、何かが炎症になっていると判断されたのですが、これは原因不明のまま下がったため、退院が許可されました。
いずれにしても、これで自分がすべて生身に戻ったとは思えないものの、手術の前後とはこのようにシステムの構築と解体が一斉集中して図られたということです。
国立がんセンターが、「癌との戦闘」をコンセプトにしている病院であることは、深く思索することはできなかったものの、ぼくにいろいろのことを感じさせました。
脳梗塞や糖尿病や神経症を治すのではなく、数千人のスタッフがひたすら癌細胞のみと闘っているのですから、これは特別のミッションをもった壮大な戦闘部隊なのです。
なにしろ出入りする患者のすべてが癌患者で、19階建の巨大な病院(それ以外に大きな研究棟や管理棟がある)そのものが、あらゆる癌の一挙手一投足に固唾をのんでいるのですから、そういうところに入院するということは、ぼくも自分の体を巣食った姿の見えない癌を凝視せざるをえません。他のことなど許されない。
ぼくの担当は、主治医が愉快で決断の速い深川剛生先生で、レジデントが真摯で剛直な29歳の山田敬教先生(担当医)、手術にはもう一人布部先生がかかわられました。深川医師も山田医師ともよく話しましたが、なかなか味がありました。そのほか、入院前に福原義春さんが垣添忠生総長に「松岡さんをよろしく」というご丁寧な一報を入れていただいていたので、病室には総長もときどき見えました。
これらの医師や看護師たちと交わす会話は、ぼくにとっては唯一の「社会」です。しかしどんな会話をしても、かれらは癌と闘う戦闘部隊の一員なのです。いっときではあれ、自分がかかわった「社会」が癌とのみ向き合っている場所だなんて、めったにあるものではありません。そういう意味でも、ぼくは25日間にわたって、珍しい社会体験をしたわけです。
そのほか体験したことはいろいろあります。それらについていつか感想を綴ることもあるでしょう。
そのうちのひとつですが、実は手術直後の2〜3日、ぼくは自分の意識が瞬間的に錯乱していることを感じていました。激痛に堪える自分とモルヒネに宥和されている自分と高熱の自分とが、瞬間的なことではあるのだけれど、三つ巴で交錯しながら意識を擾乱させているのです。どうも何人かの自分が争っている。これはなんともヤバイ感覚で、「しまった!」とさえ思ったほどです。
深川先生にそのことを言うと、「手術直後はいろいろ幻覚を見る人もいるんです」。まあ、そうかもしれないが、ぼくにとってはほとんど初めての体験で、さて、こいつを(擬装自己)追跡するか、うっちゃっておくかが、問題なのです。
が、この瞬間的錯乱は、一夜のうちに紛れていったようで、なんとも奇妙な記憶だけがフラッシュのように残響して終わりました。
もうひとつ、手術直後のレントゲンで、ぼくは肺炎の併発が警告されました。60本以上の煙草を30年間吸ってきた報いということらしいのですが、この「脅し」は参った。のべつまくなく痰を出すように言われるのですが、それがうまくできない。出そうとすると、おなかが跳び上がるほど痛いのです。それでも一日、5回の吸入をして、なんとか痰を出しつづけたのですが、「これで大丈夫ですね」と言われるまでは、さすがに煙草の味も忘れていたものです。
胃が3分の1になったというのは、自分がまるで“ニワトリ人間”になったようなもの、なんであれ食べるとすぐ胃がつかえてしまいます。
入院中はすべて粥でしたが、食べ物が柔らかいか堅いかということはそれほど関係がない。堅ければよく噛めばいいのですが、それより、ちょっとでも急いで食べると胃がつかえてしまうのです。量のとりすぎも悪い。わかりやすくいえばコンビニのおにぎりの3分の1をこえると、食後、1時間以上は胃がつかえたまま、調子が落ち着きません。
医師の説明では、こういう状態は半年ほど続き、完全に復調するには1年がかかるという。それでも消化の悪いものでなければなんでも食べられるというのはありがたいこと、ニワトリになったりジュウシマツになったりしながら、ぼくは1日の食事を3回から5回に“ちび分け”しはじめているところです。
現在の必修日課は、散歩です。これまで散歩などしたこともなかったのですが、胃を動かすため、これもやむなくイマニエル・カントになって、しています。まだ前傾したままの亀のような歩行ですが、そのぶん町や植木の細部に目がとまります。
白状すると、煙草も吸いはじめた。散歩のあとに喫茶店に入り煙草をすわないと、いったい何を好んでこの一日を迎えているのか、わからなくなるからです(笑)。
だいたいこんな状況です。麻酔中に喉に突っ込まれた2本のテューブのため、声帯膜が傷ついて、いまだに声が嗄れたままなのですが(それゆえ、いまはナガシマ状態の声)、これはいずれ元に戻るそうです。
ともかくもすべては他人に助けられて、ここまで来ました。他者の総意が他者(癌)の延命を切り取ったのです。ぼくの努力など、ほとんどないといっていいでしょう。
入院中も入院前後も、松岡正剛事務所のスタッフと編集工学研究所のスタッフに支えられました。とくにMのスタッフは献身的でした。これもぼくの力をこえたことです。
次は「一尾」の続きを仕上げることになるでしょうが、実はキーボードを打つのは、いまのところ30分でギブアップです。おなかよりも背中がじりじりと痛んでくるからです。腹筋の切断とは、かくも各所に無理を強いる。背に腹は代えられないけれど、腹は背を抱きこもうとしているのです。もう少し調子がよくなれば、「千夜千冊」のラストランニングにまわれるでしょう。
国立がんセンターの脇には、シイの木とタブの木が交互に植えられていました。こんなところにタブかと思って、散歩中、何度も立ち止まって眺めていました。
実は『遊』創刊の直前に、三宿の井福病院に入院したとき、ぼくは折口信夫全集に立ち向かったのですが、そのきっかけは全集の口絵のタブの写真に魅せられたからでした。あれから30数年、ぼくはふたたびタブに気を惹かれて蘇ったようです。
みなさん、お見舞い、どうもありがとうございました。数人を除いて、病室へのお見舞いを遠慮させていただきましたが、勘弁してください。心配をおかけしました。
なかで見舞いに来られた野田一夫さんは、「松岡君のことは、親以上に心配している」と言っておられたそうで、病室に横たわっているぼくを見るなり、「おお、こんな美しい病人を見たことがないな。これはねぇ、しばらく世の中に姿を見せないほうがいいね」と大声を放たれました。
みなさんの万感の配慮が、すべて、この野田先生の一声に響いていました。嬉しかったです。お言葉に甘んじて、いささか姿を隠しますが、いつまでもというわけにはいかないでしょう。では、みなさん、10月中旬までには、どこかでお会いできることと思います。えっ、早すぎる?
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