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8月14日に小夜子が逝った。愕然として、呆然となり、何も手がつかなくなった。
一昨夜の9月19日夕刻から、「山口小夜子さんを送る夜」が築地本願寺本堂で催された。ぼくは最前列で三宅一生さんと福原義春さんに挟まれて、ずっと万感の思いを去来させていた。9月19日は小夜子の58回目の誕生日だった。
この日に小夜子を偲ぶ会をしようと決断したのは、藤本晴美さんだった。われわれはペコちゃんと呼んでいる。ペコちゃんはそれを決めただけでなく、友人代表をまとめ、いっさいの準備と構成を手掛けた。ぼくも駆り出された。みなさんへの案内状の文章をしたため、みなさんへのお礼状を小夜子の言葉から選び、並べなおした。築地本願寺のファサードの二つの門柱には、ペコちゃんに頼まれて、いろいろ考えたすえ「さよなら小夜子」という書を書いた。
書のほうは大書だったが、いくら書いても納得できず、ほとんど泣きそうになりながら、仕上げた。
小夜子が亡くなって、あきらかにぼくの何かがぽつんと欠如しているのだ。それは取り戻せないものとなりつつある。せめて「千夜千冊」にその何かを探せるようなものを書いてみようと思ったのだが、何も思いつかない。念のため『小夜子の魅力学』や写真集『小夜子』なども見てみたが、これじゃない。何かが、どうもちがっている。それに、失ったものが大きくて、なんだか落ち着かない。
それで、「ランティエ」の連載の締切りまぎわに「夜」という文字を小夜子を想って書いてみたりはしたのだが、それでも所在がない。
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「山口小夜子さんを送る夜」
(9月19日・築地本願寺) |
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こうして「さよなら小夜子」の夜を迎えてしまったのだった。仕事があって夕方4時過ぎに築地に着いてみると、本願寺の前庭にはキャンドルJUNEの入れ墨蝋燭がことのほか美しい。ぼくが書いた「さよなら小夜子」も、とても綺麗な照明が当たって、澄んでいた。
大きな階段を上がり、本堂に入ると、ペコちゃんは最後の仕上げに余念なく、最後のマネージャーとなった近藤女久美さんは静かに微笑んでいる。久々に一生さんといろいろ話した。
ペコちゃんに呼ばれて、また外に出てみると、東京暮色が瑞々しく広い。前庭で立ち話をすることもなく、オレンジの照明に浮かび上がる伊東忠太の本願寺を見上げていると、そこに浅葉さんが交じり、福原さんが加わり、大出さんが佇んだ。みんな何を話していいかは、わからない。
やがて雅楽と松原輪番の高音の読経が始まり、生西康典君と掛川康典君の小夜子の影絵の映像が大きく映し出されて会場に流れると、たくさんの参会者が啜り泣きながら、次から次へと献花をつづけた。真っ赤なカーネーションだ。1000人を超えていただろう。でも、ぼくはとんでもなく落ちこんでいた。隣りの一生さんは何度も何度も溜息をついていた。たった2時間なのに、長い長い夜だった。小夜子は、「ね、ほらね、やっぱりそうだったでしょ」と言っていた。
小夜子の朗読の声が流れた。パイプオルガンは58回目の誕生日を奏でる曲に変わっていた。それでおしまいだ。プログラムはもう、おしまい。「小夜子組」と名付けたスタッフのみんなにお礼を言うと、ぼくは打ち上げもそこそこに、こそこそ帰ってきた。
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夜になると本堂全体がライトアップされる。 |
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小夜子さんの舞う姿が
スクリーンに影絵で映し出された。 |
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築地本願寺から仕事場に戻ると、さすがになにもかもが脱力していた。自分の足を感じない。喋る気もしない。何もする気がおこらない。真夜中、誰もいなくなった仕事場で、ふらふらと一階の書棚を見にいった。真っ暗だ。ちょっと明かりを入れて、書棚を眺めていた。これまたとうてい所在のないことだったのだが、ふいに『ヘルダーリン 省察』の背文字が目にとまった。
ああ、ヘルダーリン。そうか、ヘルダーリンがいた。ヒューペリオンが待っていた。いや、舞っていた。ああ、そうか、これかもしれないと思った。
それからまた一夜がたった。どうしようかと迷いながら、いまヘルダーリンの数冊を開けている。小夜子、そんなことなので、今夜はちょっとだけヘルダーリンを贈ることにするね。しばらく、何も考えないで綴るから、そばで聞いていてください。
遠くからわたくしの姿が
あのお別れのおりに まだあなたにわかるとき
過去が
おお わたくしの悩みにかかわりをもつものよ
あのね、フリードリッヒ・ヘルダーリンという詩人がいたんです。ぼくが早稲田時代にハイデガー(916夜)に導かれて、傾倒した詩人でね、いつか書きたいと思ってきた。ヨハン・クリスティアン・フリードリッヒ・ヘルダーリン。とてもいい名前でしょう。
1770年に南ドイツのネッカール川のほとり、ラウフェンというとても小さな町に生まれた。
このあたりはシュヴァーベンといって、シュトットガルトの森とともに、とても美しいんだね。ケプラー(377夜)もシラーもヘッセ(479夜)もね、ここに育っています。シュヴァーベンは宗教的にも敬虔な風土をもっていた。
ヘルダーリンはここで育ったんだけれど、2歳でお父さんを亡くしているから、父親の記憶というものがないんです。小夜子もお父さんとお母さんを亡くしたよね。しかも小夜子は一人っ子。子供の頃は横浜のお墓で遊んでいたんだよね。一人っ子の遊びって、特別だものね。でも、ヘルダーリンには妹がいた。こういうちょっとしたちがいが、どこか人生のロマネスクやアラベスクを、そしてジャパネスクを変えていくんだよね。
その後、ヘルダーリンはテュービンゲン大学の神学校でゆっくり精神を磨いていく。ちょうどパリではフランス革命の狼煙が上がったころのことだね。その神学校でヘーゲルとかシェリングと知りあっていく。
それからラテン語の学校に行ったり、僧院学校に入ったりして、寮生活をおくっている。ヘッセもそういうことをいっぱい書いたけれど、ドイツのギムナジウムの寮って、なんだか不思議だね。禁欲的であって、でも精神は、みんな聖人のように淫らになっている。
森を出て春の野へさすらいゆく
こよなく美しい姿をした女神の子
その威厳ある似姿(にすがた)を与えるために
女神は劫初(ごうしょ)におまえを選んだのである
青年のころのヘルダーリンは、ピアノやヴィオリンやフルートも愉しんだようだね。でも一番に好きだったのは読書だったらしく、古典のほかに、シラー、シューベルト、クロプシュトック、オシアンなどを耽って読んでいる。
なかでもクロプシュトックが好きだったみたい。クロプシュトックは日本ではほとんど知られていないけれど、そのころの文芸界で最も予言者的な詩作品を書いていて、「生と神」とをつないでいく言葉を尽くしていた人ですね。そのクロプシュットにヘルダーリンは心の底から震えたようなんだ。びり・びり・びり。バリ・バリ・バり。
実は、このころすでにゲーテ(970夜)が有名になっていたんだけれど、なぜかヘルダーリンはゲーテにはそんなに捉えられなかったようだった。
それからヘルダーリンは、同じ歳のヘーゲル、5つ下のシェリングとよく議論するようになっていった。シェリングは飛び級で同学年になった天才だね。とてもアタマがいい。いま読んでも、たいへんに切れ味がいい。そのシェリングを含めて、どうも、この3人が竹馬の友だったみたい。ヘーゲルはそのときすでに「おやじ」と呼ばれていたというんだから、笑っちゃうよね。
で、この3人はいつも同じ議論をするのが好きだったんです。それはね、何だと思う? 「一にしてすべて」ということなんだ。ラテン語で「ヘン・カイ・パン」という。「一・に・し・て・す・べ・て」。それを何度でも議論したらしい。
3人にとって、その「一にしてすべて」に向かっていくことが生涯の夢だったんですね。いい言葉だよね。小夜子の「一にしてすべて」は、どんなものでも着てしまうということだったよねえ。
高く わたしの精神は昇ろうとした
しかし愛は やさしくそれを引きもどす
悩みはもっと強い力で その軌道を下にたわめる
それがわたしの生の行路の 虹だ
こうしてわたしは 大地から出て 大地へもどるのだ
ま、そういうことで、神学校を中心にした若き日々はヘルダーリンにいろいろのものをもたらしたんだね。そしてこのあと、しだいにギリシアに向かっていくようになった。古代のギリシア。もう世界から消えかかっているギリシア。これはヴィンケルマンの『古代の芸術の歴史』とシラーの『ギリシアの神々』を読んだのがきっかけでね、この当時の詩人はみんなこの2冊を読んでいたものです。やっぱり、まずはプラトンに畏敬をもったみたい。
さあ、そんなヘルダーリンも、いよいよ学校生活を離れて就職しなくちゃいけなくなってくる。お母さんは聖職者になることを希望していたようだけど、ヘルダーリンは僧服だけの人生をおくる気はないんです。小夜子がいろいろな服を着たように、一種類だけの人生をおくりたくはなかったみたい。
そこでホームマイスターになる。家庭教師だね。当時はホームマイスターといえば、ほぼ住み込み。ヘルダーリンもテューリンゲンの貴族っぽいフォン・カルプという家に入り、そこを終えると、さらにフランクフルトの銀行家ゴンタルト家に入ります。このとき構想したのが、かの傑作『ヒューペリオン』ですね。
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17世紀のフランクフルト
(メーリアンの銅版画) |
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『ヒューペリオン』はヘルダーリンの唯一の小説でね、「ギリシアの隠者」という副題になっている。ギリシアの隠者なんて、かっこいいでしょう? インジャ、ニンジャ、ナンジャ、ナジャ。
独立を志すギリシアの青年ヒューペリオンの物語で、ディオティーマという女性に理想的な愛を捧げようとするんだけど、ディオティーマは病いで死んでいく。悲嘆にくれたヒューペリオンは祖国にも失望し、しだいにギリシア風の隠者になっていくという、そういう、ちょっと悲しい話です。青年ニーチェ(1023夜)が愛読したね。
光のなか 空高く
しなやかな床に歩をはこぶ 浄福の霊たちよ
きらめく神の微風は
霊たちへ かろやかにそよぐ
楽を奏でる乙女の指は
神聖な絃にふれるかのように
ヘルダーリンが『ヒューペリオン』に登場させたディオティーマは、フランクフルトのゴンタルト家の夫人ズゼッテがモデルだったんだね。まあ、はっきりいえば不倫の恋をした。
だって一つ家の中にずっといたんだもんね。禁欲は淫らなんです。でも、夫がヘルダーリンを詰(なじ)ると、それはどうやらたった一回きりのちょっとした言葉だったらしいのに、ヘルダーリンは深く、深く、傷ついていく。
こういうところ、ヘルダーリンがとてもフラジャイルだったところだね。だからズゼッテ夫人に対する慕情をもちながら、淡々と身を引いていくんです。もちろん心の中は嵐が吹いている。
そういえば小夜子は生涯を独身で通したけれど、男の人とはどうだったんだろうね。ぼくは一、二度、聞いたことがあるけれど、そして相手の名前も聞いたことがあるけれど、「男の人が、ほら、男性になろうとするとね、困るのよね」と言っていたっけね。そのときはちょっと笑っていたのかな。二人でずいぶん煙草をすった。
ま、いまさらそんな話はどうでもいいや。で、傷心のヘルダーリンは『ヒューペリオン』の第1部を書いたところで、こっそりイエーナに移ります。ところが、そのイエーナでフィヒテ(390夜)の講義を聞いた。『ドイツ国民に告ぐ』という激越なもので、ここでヘルダーリンもドイツ人の魂をゆさぶられるんですね。当然だよね。小夜子も日本が好きだった。ヘルダーリンはというと、『ヒューペリオン』の第2部に、祖国に対する激情を書きこんだ。
このイエーナでの体験は、ヘルダーリンには大きいものだったようなんです。そこでは、『若きウェルテルの悩み』のゲーテとも『民族の声』のヘルダーとも出会ったし、なによりもノヴァーリス(132夜)にも紹介された。みんな、みんな、ドイツ・ロマン派の綺羅星だよね。そういう時代だったんだ。
親しみのある家に
選ばれた者はすべて
運命が遠くに呼び出すときも
涙する
ただひとり残った者は
苦しみを背負い
友のない道をいく
その後のヘルダーリンは、フランクフルトからそれほど遠くないヘッセン・ホルブルク伯の居城というところに、魂を休ませるために出向いている。そこにヘルダーリンの孤独と詩情とを、篤い気持ちで絶賛しつづけたイザーク・フォン・シンクレアがいた。宮廷の参事官。
宮廷の参事官なのに、この人はヘルダーリンの生涯で特筆に値する。そもそもヘルダーリンは、決して数は多くはないんだけれど、生涯にわたって三種類の友を大事にしているんだね。「詩の友」「知の友」、そして「時の友」。ヘルダーリンとシンクレアの関係は、この「時の友」。ということはヘルダーリンにとっては「時の神」だったんだ。
ヘルダーリンがヘッセン・ホルブルク伯の居城にいるときのすべてを、シンクレアが包んでくれた。
その友情はぼくなんかが見ても、羨ましいほどでね。ヘルダーリンの失った恋情をそっとしつつも、癒しつづけたようでした。まあ、男の友情でしょう。『ヒューペリオン』に出てくるアラバンダという人物がその面影をもっている。
こういう友達は、人生にとって欠かせない。大事だね。小夜子は40代後半になってから、若い友人に囲まれていましたね。とてもすばらしいクリエイターたちだった。小夜子もかれらを大切にしつづけた。かれらは小夜子をミューズと思っていた。みんな6月の「連塾」のとき、集まったよね。9月19日の映像や音響は、かれらが全部準備してくれたんだよ。小夜子にこそ、その出来上がりを見せたかった。
ああ ミューズの力に高められ
心は酔ったごとくに目印を見つづける
聞け 大地よ 天よ
かのミューズの永遠の司祭たることを!
睦まじい兄弟の盟約に加わりたまえ
地上の千万の友よ
新たなる至福の天職に 加わりたまえ!
詩人ヘルダーリンのことだけれど、そもそもヘルダーリンの詩には、「オーデ」と「ヒュムネ」と「エレギー」があるんだね。オーデは頌歌、ヒュムネは讚歌、エレギーはエレジーのことだから、つまりは悲歌のこと。
これらをヘルダーリンはみごとに書き分けた。のちにアドルノとベンヤミン(908夜)が絶賛して分析したことなんだけれど、それによると、ヘルダーリンの詩には「パラタクシス」というものがあるというんだね。パラタクシスというのは、文節やフレーズが対同して連なっていくという方法で、どんな部分も主述的な従属関係になっていずに、互いが互いを照らしあうようになっている。
これって、たいへんに技量がいることです。だって、どんな言葉も光りあっていなければならないんだものね。だからヘルダーリンの詩は、文学でありながら、とても音楽っぽい。ある研究者は、ベートーベンの弦楽四重奏に似ていると言った。日本語訳ではちょっとわかりにくいけれどね。
でも、これは『省察』を訳した武田竜弥さんが言っていることなんだけど、ヘルダーリンには言葉を「原・分割」する才能があって、そこからパラタクシスが発しているらしい。それをヘルダーリン自身は「最も深い親密性」とか「聖なる精神の生きた可能性」というふうに感じていたらしい。そうだとしたら、これはやっぱりたいへんな才能です。
言葉を書きつけながら、言葉が言葉を自己編集するように書けるということですからね。
それにしてもヘルダーリンは、どうしてこんな才能をもてたのか。どうしてあんなふうに詩が書けたのか。ちょっと考えてしまうよね。でも、小夜子ねえ、きっとこういうことだったと思うんだ。
それはね、ヘルダーリンが、存在というものを「うつろひ」の渦中でとらえることができたからなんじゃないかと思うんだ。きっとヘルダーリンは、存在は、過ぎ去りゆくものがその過ぎ去っていくというその渦中でちょっとだけ振り返るというときに、そのときだけにあらわれてくるということを、よおっく知っていたんだよ。
あらわな荒野を はるかにさまよい
昏れゆく淵のふところ深く
谷川の巨人の歌がなりひびき
雲の闇がわたしを閉ざしたとき
強い波濤の浪さながらに
山々を吹き抜ける嵐が近くを通りすぎ
空の焔がわたしを包む
あのとき
あなたはあらわれたのだ!
早稲田時代、ぼくは「ヘルダーリンの彷徨」ということを考えていたんだね。そのことにとても憧れていたんだけれど、実はその意味がさっぱりわからないままにいた。
そういうことって、よくあるよねえ。なんとなく「それがいい」ってわかっているのに、どうしていいのかが、なかなかわからないと。ヘルダーリンの彷徨は、そういう感じ。いや、ヘルダーリンその人が、そういう詩人なんですね。
けれども、その後、いろいろヘルダーリンやその周辺のことを知るようになると、ぼくにも少し「ヘルダーリンの彷徨」が見えてきた。それはヘルダーリンの「精神の薄明」ということだったんだ。ホーコー、ハクメイ、ホーカイカンカク。
実は、ヘルダーリンは歳をとるにつれ、「一にしてすべて」ということを自身の精神の衰弱にもちこんでいきたかったようなんだ。それをつまらぬ研究者たちは、神経衰弱とか精神病理とか、ひどいときは鬱病だとかと言うんだけれど、ぼくはまったくそうは見ていない。
ヘルダーリンは、あるときホンブルクの居城を出て、「時の友」のシンクレアから去っていくんだね。黙ってね。これは親友に対してまことに非情な仕打ちのようだけれど、だからこそ「時の友」だったんでしょう。ぼくはそう思いたい。そしてシュトットガルトに出向くと、そこから漂泊の旅に出る。
その最初の行く先というのが、スイスの寂しいハウプトヴィルという寒村だった。そしてそこで、その後のヘルダーリンを決定づける「永遠の山脈」というものに出会うんです。
これこそ「一にしてすべて」との出会い。だったら、そこに向かいたい。ヘルダーリンは、そう思う。山脈は、精神が薄明にすすんでいくのを託すにたりる威容だったんだねえ。そこからヘルダーリンの詩は、いわゆる「ヘルダーリンだけのアルペン・スタイル」と文学史が呼ぶものになるんだけれど、そんな程度のことじゃないでしょう。これこそが、ヘルダーリンの彷徨の回答だったんです。面影の正体だったんです。
いくたびも探しもとめ
そしていくたびも諦めました
それでもせめて
その面影を大切にもっていたいと思っていました
あのね、小夜子の最後はどうだったのか、ぼくには知る由もないんだけれど、ヘルダーリンは自分の最後を「アポロに撃たれる」と言っていたんです。「アポロがわたしを撃った」というんだね。
これは、予言だろうね。自分の薄明を予言したんでしょう。もしそうでないとしたら、薄明がヘルダーリンを予言した。ヘルダーリンはとっくに死を知っていたんだろうと思う。だから、最期に近ずくにつれて、ただギリシアの悲劇を訳しつづけ、その注釈に没頭していった。
これって、「生成のなかに消滅していく」ってことだろうね。生まれるもののなかに向かって消えていくってことでしょう。
さあ、ぼくはまた現実に戻ってしまったようです。9月19日は小夜子の誕生日だったねえ。ぼくたちはその夜に小夜子を送ることに決めたんですよ。とてもたくさんの人が、その送り火を見送った。パイプオルガンがいっそう巨きな響きに膨らんでいましたよ。よかったよ、小夜子さん。ぼくは、次の夜にはヘルダーリンの言葉をキング・クリムゾンにのせて流したい。
林のなかで精霊たちがざわめくとき
月のあかりをほのかにあびて
静かな池に皺ひとつふるえぬとき
わたしは あなたの姿を見て会釈する
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