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1171夜
第千百七十一夜 2007年1月20日
Seigow's BOOK OS/MERE
原弘
デザインの世紀
平凡社 2005

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筆吉 今夜は、われわれ筆吉組が正体不明の紙蔵さんに、日本のグラフィックデザインの原点のようなものをたっぷり話してもらおうということです。
紙蔵ぼくが? 原点を? それは無理だね。ぼくの任じゃない。そのかわりに、そういう原点にかかわった人の本をとりあげるということにしようよ。
筆吉それでもいいですが、その前に、いったい紙蔵さんは、そもそもデザインをどう見てきた人なんですか。正体がわからない。
紙蔵そうだねえ、紙蔵だなんて、なんだか原田泰造とか杉村太蔵みたいだもんね(笑)。どうも紙蔵だという自覚がない(笑)。まあ、あえてふりかえってみると、おそらくはデザインをデザインとして見てきたというんじゃないね。ヴィジュアリティのなかのひとつの動向として見てきた。でも、それはけっこう小さなころからの関心だったね。
筆吉たとえば?
紙蔵ぼくの仕事は、いわば言葉全般を主たるフィールドにしているんだけれど、その一方で、ごく若い時分から「もののかたち」やそれを伝達する「しかた」や「しくみ」に興味があったんだね。これは言葉にならないものに興味があったというんではなくて、そういうものも「もうひとつの意味」に見えていた。
筆吉それってデザインの発見ですよね。
紙蔵いや、まだまだそこまでのことじゃない。デザインといっても、グラフィックデザインとか建築というはっきりしたものじゃなくて、風呂敷からホッチキスまで、本の装幀から自転車まで、みんな入るんですね。「世の中のヴィジュアリティいろいろ」ということ。ともかく日ごろ見るもので“めざましい気分”になれるものなら、何であれ好きだった。だからよくスケッチをしましたね。
筆吉スケッチするんですか。
紙蔵世の中にスクラップ派とスケッチ派がいるとするとね、ぼくはあきらかにスケッチ派です。スケッチをしないばあいはノート派。そのほうが自分が好きになったものの輪郭や表情がよく見える。自分の手を通すということ。
筆吉でもノートはともかく、スケッチするということは、絵が好きだったんですか。
紙蔵そうでもない。あたらめて思い出してみると、小学校では図画と理科的な観察と電気っぽい細工が好きで、中学校の図画工作の時間で、では夢中になってたのは何かというと、版画と粘土細工だね。必ずしも絵を描きたいというんじゃなかった。
筆吉じゃあ、なぜスケッチが多かったんですか。
紙蔵ははは、「略図的祖型」が好きだったんだね。略図のおもしろみ。いや、これは冗談。そんなことは当時はまったくわかっていなかった。おそらく鉛筆とか万年筆とか、筆記用具を動かすのが好きだったんでしょうね。
 
筆吉たしか紙蔵さんって、万年筆とか文房具のコレクションする人じゃなかったですよね。
紙蔵うん、しない。だいたいコレクションは鉱物標本を除いて、骨董であれネクタイピンであれ珍本であれ、ほとんどしません。それに筆記用具はとくに「まにあわせ」のほうがいい。
筆吉弘法は筆を選ばず。
紙蔵そうやっていつも立派に解釈してくれるのはありがたいけれど、そういうわけでもなくて、むしろ「まにあわせ」のほうが工夫する気になるってことです。何とかしようという気になる。つまり「手持ち」優先だね。世の中、結局は「手持ち」と「他持ち」だからね。イサム・ノグチだって、茅ヶ崎の家で大工さんの持っていた道具にめざめたのが大きかったでしょう。
筆吉まあ、そうですね。
紙蔵それで思い出すのは、小学校4年から毎日、日記をつけていたんだけれど、中学校からはその日の気分や出来事によって一本の万年筆を立てて書いたり、寝かして書いたり、斜めにして書いたりしていたんです。ときにかすれたり。
筆吉毎日、文字の書き方を変えていた? それって、まさにタイポグラフィとかカリグラフィじゃないですか。
紙蔵そんなだいそれたことじゃありません。ただおもしろくてしょうがなかっただけ。ちなみにその万年筆というのが、学研の「中学一年コース」の俳句投稿欄で1席だか金賞だかに入ったときに貰った賞品の特製万年筆でね、そのこともあって、この万年筆をいろいろ使ってみたかったんだね。まあ、あえて言うなら、万年筆が生み出す文字がその日によってトーンが異なっていくというのは、いまで言うなら「ツールがコンテンツをつくっていく」とか「方法と内実は切り離せない」とかということだろうね。そういうことにけっこう夢中になっていた。
筆吉では紙蔵さんにとっては、文字は絵のようなものだったんですか。
紙蔵いや、それもちょっと当たらないな。書きっぷりが変われば内容も変わるんだということが、手の先でわかったということでしょう。だいたい母の字が好きで、それをまねるために母の鉛筆の削り方を何度も何度もまねしたほうだからね。
筆吉誰かに似てますね。
紙蔵誰かって、ドクターSM? はっはっは。
  
筆吉気持ち悪いので質問を変えますが、そのSM的な紙蔵さんにとって文字とはどういうものですか。
紙蔵文字って、どんな時代のどんな民族の文字でも、誰彼(だれかれ)かの手が生み出した「タイプ」というものですよ。むろん活字もコールドタイプもね。けれどもその「タイプとしての文字」は、最初は必ず手が生み出した。誰彼かのね。しかもそうやって生まれた文字は、それを並べたとたんに「意味」を派生するでしょう。ワードやフレーズになったとたんに、意味をもつ。漢字なら一字でも意味を発揮する。そこが文字の凄いところです。
筆吉でも、そういう文字を並べるってことは、まだデザインじゃないですよね。
紙蔵いわゆるデザインではないけれど、すでにデザインに向かったイニシャル・コンディションの発動ですね。
筆吉何が発動されるんですか。
紙蔵イニシャル・コンディション。文字が並ぶというのは、それがたとえ白紙の上に自由に書く文字であっても、書道用語でいうなら「間架結構」(かんかけっこう)というものが生まれます。つまり、ちょっとした「字配り」だよね。これはデザインの最初の発動でしょう。また大学ノートに書く文字だって、たいてい罫がある。その罫はレイアウトです。まして、何かの文字群が一本の線の上にあるのかその横にあるのか、タテなのかヨコなのか、その線にくっついてあるのか、また、写真の中の白ヌキ文字になっているのか、文字に鮮烈な色がついているのか、大きいのか小さいのかによって、いろいろ表情が変わってくる。これは文字はその並びの内側から、文字のワードやフレーズがもつ意味だけではない何かを発動しているということですよ。
筆吉何が発動しているんでしょう?
紙蔵だからイニシャル・コンディション。ぼくは、それを文字そのものがもつ「意味」に対して、文字の並びや大きさや位置や色があらわす「意向」とか「意表」とかと名付けるといいと思っている。
筆吉文字そのものが意味をもち、その並びのデザインから意向や意表が出るということですか。
紙蔵まあ、そういうことです。
筆吉それはまだデザインではないんですね。
紙蔵本格的なデザインは、そうした意向や意表が「意匠」になったことをさすんでしょうね。
筆吉はあはあ、なるほど。「意味→意図→意表→意匠」という順ですか。
紙蔵順をつければそういうことになるけれど、でも、意匠はあれこれしたあげくに、フィニッシュしたあとの結果です。いわばデザインの作品性。文字というものをもっといきいき感じるには、その直前の意向や意表を大事にしたほうがいいでしょうね。
筆吉なるほど。そういうことですか。
紙蔵きれいにまとめればね。
  
筆吉それではいよいよ今夜の本題ですが、そういう文字を「意味→意図→意表→意匠」の順にいきいき感じられるデザインをした日本のグラフィックデザイナーというと、誰ですか。
紙蔵そりゃ、いっぱいいますね。
筆吉たとえば?
紙蔵中山太陽堂のプラトン社でロゴをつくっていた山六郎を筆頭に、その山に学んで資生堂時代を築いた山名文夫(あやお)、ニュータイポグラフィを研究しきった原弘、それから早川良雄・山城隆一・花森安治・佐野繁次郎に始まって田中一光・杉浦康平・和田誠・戸田ツトムにいたるまで、いっぱいいます。いまは仲条正義さんや浅葉克巳さんがかなりいいね。
筆吉はい。ほかには?
紙蔵横尾忠則、勝井三雄、平野甲賀、羽良多平吉、鈴木一誌、祖父江慎、みんなすばらしいよ。
筆吉戸田ツトム、祖父江慎は工作舎のスタッフでもあったわけですよね。
紙蔵そうでしたね。
筆吉そういう名だたるデザイナーのなかでも、文字を意識したという意味で特筆すべきデザイナーは誰ですか。
紙蔵やっぱり杉浦康平でしょう。
筆吉杉浦さんですか。そうなんでしょうね。ダントツですか。では、もっと前の人でいうと?
紙蔵杉浦さんの直前なら山城隆一だし、もっともっと原点の時代に近かったというのなら図案家時代の杉浦非水や山六郎かな。恩地孝四郎なんて人もいた。
筆吉原点そのものは?
紙蔵しつこいね。初期の黎明期を築き、その後もリーダーとし君臨したというなら、なんといっても原弘(はら・ひろむ)でしょうね。
筆吉やっと決まった。原弘ですね。名前は知ってますが、どんなデザイナーだったんですか。
紙蔵えっ、知らないの? それこそ日本のグラフィックデザインの原点に静かに仁王立ちしつづけた“生けるモノリス”です。
筆吉モノリス?
紙蔵モノリスだというのは、原さんの生んだデザインに関する考え方のプロポーションこそが、昭和デザインの解剖台あるいはミシンだったということだね。
  
筆吉それでは、今夜は原弘に決定! どんな本がいいですか。
紙蔵それが、原さん自身が書いた本というのはないんだよ。
筆吉じゃあ、作品集。
紙蔵うん、作品集でもいいんだれど、これが亡くなってからしか刊行されなかった。加えて、原弘という人は自分の考え方をけっこう小まめに書いているんで、そういうものが載っている本がいい。
筆吉でも、著書がない?
紙蔵『デザインの世紀』というのがいいかな。ただ、この本は原弘の著書というかたちをとっているんだけれど、本来の著書ではなく、石原義久を編集委員長とする多くのスタッフ、宮山峻・多川精一・永井一正・山崎登さんたちの作業によって“再生”されたものなんです。もっともそれだけに、原さんが生きた歴史的背景から原の作品例まで、めったに読めない数々の文章から当時の数々の参考写真まで載っていて、貴重なドキュメンテーションになった。そこがお勧めです。もっともそのわりにはレイアウトは、およそ原弘の洗練を反映していないお粗末なものになっている。
筆吉そりゃいけませんね。
紙蔵いけないね。ブックデザインは原弘を意識してますけれどね。ま、このさいレイアウトには目をつぶるとして、まずは原弘がどんな仕事をしてきたかということを話しておこうね。
筆吉そこをよろしく。
紙蔵その前に、ぜひ読んでおいてほしい、見ておいてほしい2冊の本をあげておきたい。ひとつは大きな原弘『グラフィック・デザインの源流』というもので、1985年に平凡社から刊行された集大成です。原さんが亡くなったあとに出た決定版作品集だね。田中一光さんを中心に、多くの関係者が協力してつくりあげたもので、江島任さんが組み立てたエディトリアル・デザインも、とてもいい。これは必見。
もうひとつは、川畑直道の『原弘と「僕達の新活版術」』というトランスアートから刊行された2002年の本です。これは原のタイポグラフィをめぐる仕事に焦点をあてて、時代背景を含めて克明精査に追っていて、未見の資料もなかなか充実している。ぼくもこれを読まなかったら、原の詳しい変遷はわからなかったという一冊です。今夜は、ときおりこれらの本の助けも借ります。
  
筆吉どこから案内してもらえますか。
紙蔵まず最初に、みんなに何の予備知識もないとして、図1の花王石鹸のパッケージデザインを見てほしい。
筆吉ああ、これは見覚えがありますね。いまでも使ってるんじゃないですか。
紙蔵これが原弘ですよ。1930年(昭和5)に花王石鹸を売っていた長瀬商会が指名コンペをしたもので、提出数が8名28点にのぼったのに、なかで原のデザインだけが翌年に採用されたという曰くつきのものです。オレンジの地に石鹸の白を暗示するような自在なタイプフェイスが躍ってますね。このパッケージをもって花王石鹸は一世を風靡する。原弘という人は1903年(明治36)の生まれだから、これは27歳のときの乾坤一擲だった。
筆吉昭和初期にしては斬新ですね。
紙蔵あのね、大正中期・昭和初期はもともと斬新なんですよ。いまだにこのパッケージを超える石鹸は出ていない。でも、これ以前にも原弘の斬新は発芽していたんです。たとえば図2の『薔薇を愛する少女に与ふるhとtを主題とせるモノグラム』(1925)。これは図1より5年前の22歳のときの習作で、水彩による構成なんだけれど、のちの原の仕事ぶりを予感させるタイポグラフィック・デザインの実験性がシンボライズされている。
筆吉hとかtって何ですか。
紙蔵hは原自身のことを、tはそのころのガールフレンドをさすようだね。タイポグラフィだけで構成されている。それなのに物語を感じさせるよね。文字を棲わせる空間もある。
筆吉ブーツのシルエットをタイプフェイスのように置いたなんて、憎いなあ。
紙蔵では、もうひとつ。図3はあまりに有名なので見た人が多いだろうけれど、1959年の「第1回日本タイポグラフィック展」のポスターです。漢字の部品だけをたった4つだけ大胆に取り出して、絶妙に組み合わせた。そこに約物のような花弁がひとつだけ、あしらってある。これ以上、何も付け加える必要がないというデザインだよね。
筆吉これは有名だから知ってましたが、あらたまって見ると、やっぱり完成されてますね。
紙蔵まさに「意向」や「意表」がある。ともかく、花王のものといい水彩モノグラムといい日本タイポグラフィック展といい、原弘はこのように「文字」を意識したデザインを出発点にしていたわけです。このへんが、ひとまずの原点だね。
 
図3 『第1回日本タイポグラフィ展』 ポスター
 
筆吉原弘は、なぜ文字を意識したんでしょう?
紙蔵原は長野県飯田に生まれたんだけれど、家業がもたらしたものが大きかったんです。
筆吉家業ですか。
紙蔵生家が「発光堂」という印刷屋だった。父親は根っからの活字職人なんだけれど、また信州独特の芸術家肌もあわせもっていたんですね。その兄貴、つまり原の伯父さんもまた信濃写真会などを設立していて、この二人で『伊那之華』という和装本を自費刊行していたような一族だった。
筆吉栴檀は双葉より芳しい。
紙蔵そういう家業の事情が原を育てた。で、15歳で上京すると、さっそく築地の東京府工芸学校に入った。いまの都立工芸高校です。ぼくも高校時代には新聞部を通して交流があった。で、原少年がここで何をするかというと、やっぱり印刷に打ち込んだ。平版を専攻し、製版印刷のすべてを学びます。さいわいにも、この印刷科目の科長の宮下孝雄という人が図案家で、このとき原にタイポグラフィやレタリングの重要性を教えた。宮下はそういうことを「文字法」と名付けていたらしい。
筆吉ええっと、どういう時代でしたっけ。
紙蔵15歳のときが1918年で、第一次世界大戦が終わったころで、日本でいえば大正7年だね。ちょうど鈴木三重吉の「赤い鳥」の童話童謡運動がおこっている。まあ、竹久夢二(292夜)野口雨情(700夜)北原白秋(1048夜)の時代だよ。それとともに大杉栄(736夜)や若き北一輝(942夜)の時代だった。
筆吉高校を出て、どこに進むんですか。
紙蔵学校へ行ったのはそれだけ。大学などには行っていないね。だいたいそのころは、デザインを教える大学なんて皆無だよ。いや、そのあと四半世紀、ずっとない。
それでそのあとは工芸学校の助手になり、自力でデザインにとりくんだ。実はその後もずっと工芸学校の教鞭をとるんです。
筆吉先生をしつづけたんですか。
紙蔵そうともいえるし、研究しつづけ、作品もつくり、後進を育てつづけたともいえる。そのあいだ、現場を捨てなかったということでしょうね。他方、つねにいろいろな実験者や表現者と交流していきますね。それも死ぬまで欠かしていない。
  
筆吉いつごろデザイナーになることを自覚したんですか。だって印刷に没入していたんでしょう?
紙蔵デザイン開眼のトリガーとなったのは、第一次世界大戦に寄せた「世界大戦ポスター展覧会」を朝日新聞社の会場で見たことだったようだね。かなり衝撃をうけている。そこへ関東大震災がやってきて、東京が焼け野原になった。1923年、20歳のときです。
筆吉うーん、そういう時代か。
紙蔵大震災のときは、原ならずとも関東在住者の全員が呆然としただろうね。だって何もない東京、瓦礫のなかに残る垂直と水平の建物だけの光景だからね。阪神大震災も凄かったけれど、それ以上の焼け野原です。原はそういう光景を目に焼き付けながら、翌年にぽっかり開館した小山内薫の築地小劇場に通うんですね。
筆吉えっ、芝居狂いになった?
紙蔵いや、これが芝居を見るためじゃないんだな。舞台装置や舞台美術のほうに魅了されて、第1回公演の『海賊』から5年間、毎回欠かさず通って、目を凝らしたそうです。表現主義的で、かつどこか日本的な舞台が原の魂をどこか突き動かしたんだね。とくに村山知義の大胆な仕掛けに驚いた。
筆吉村山知義って、あの「マヴォ」の?
紙蔵そうだね。のちに『忍びの者』(929夜)を書いた村山。こうしてこのあと、原はさっき紹介した『薔薇を愛する少女に与ふるhとtを主題とせるモノグラム』などの、一連の習作に取り組むことになるわけだ。
筆吉なんとなく見えてきました。表現主義の舞台の実験性がトリガーになって、デザインに向かうんですね。そこに子供時代からの文字意識が加わっていった。
紙蔵 そういうことだろうね。加えて、青年時代からかなり表現意欲が旺盛だったね。23歳のときには『ひろ・はら石版図案集』『原弘石版図案集NrII』というものを自費刊行してる。図4がそのなかのひとつです。来たるべき4年後の1930年代に向けて、「吾等は否定する」という強烈なメッセージを独特のタイプフェイスに意表してぶつけた習作作品です。
筆吉うーん、いいなあ。
紙蔵いまはこういうものを誰もつくれないよね。とくに23歳じゃね。
  
筆吉かくて原弘は、いよいよデザイナーとして認められていったわけですね。
紙蔵いや、原弘がデザイナーとして最初の頭角をあらわすのはやっぱり花王のパッケージ・コンペのときです。それまでは習作時代。このコンペで原は並み居るプロを、まだデザイナーという言葉より図案家というふうによばれていた時代だけど、そのプロたちを抑えて、みごと金的を射止めた。それがプロ・デビュー。
筆吉意気揚々。
紙蔵まだそんな感じじゃなかったみたい。このときの原がどんなデザイナーの卵であったと見られていたかということを物語る、ちょっとしたエピソードがあるんです。
花王石鹸のパッケージ・コンペは、当時としてはかなり画期的なプロジェクトです。これを敢行したのは長瀬商会にいた広告部長の太田英茂という男で、のちのちも日本の広告デザイン界で活躍する。牧師出身で社会主義思想にも理解を示し、大宅壮一や林房雄と出版編集もしていたという、日本広告史上でも破格の広告部長ですね。太田はのちに「共同広告事務所」を開いて、そこに若い亀倉雄策が入ってくるんだけれど、その亀倉に、太田が「河野(鷹思)クンは玄人だが、原クンというのはまだ素人だ。学者なんだね」ということを言ったというんだね。「頭で図案を描く」とも評したらしい。
この太田の評は半分、おもしろい。半分は原の将来が読めていなかったという意味で、もう半分は原の独特の理性に気がついていたという意味でね。で、注目すべきはその原の理性のほうで、その「頭で図案を描く」という理性こそ、原の“生けるモノリス”を、すなわちデザイン理性を屹立させる土台となったんですね。
筆吉ふうん、理性デザインか。
紙蔵というのは、原は当時のヨーロッパやロシアに発露していたタイポグラフィックなデザインとその理論にやたらに傾倒していった。その紹介者の一翼を担ったというくらいにね。当時のタイポグラフィックデザインはその出来もむろん目を見張るようなものだったけれど、そこには徹底した理論があったんです。
筆吉どういうものですか。
紙蔵エル・リシツキー、ヤン・チヒョルト、アレクサンドル・ロトチェンコ、ヘルベルト・バイヤーといった連中のデザインと、そのタイポグラフィ理論だね。これが原の頭に音をたてて鳴った。もうちょっと大きな括りでいえば、表現主義、構成主義、バウハウス、そして「ノイエ・ティポグラフィ」の動向ということです。ノイエ・ティポグラフィというのはニュータイポグラフィといった意味だね。まあ、図5のいくつかの例を見てもらうのが早い。
  
筆吉原弘は海外の動向にあかるかったんですか。
紙蔵最初の導入者というんではなくて、そういう人は山脇巌や蔵田周忠義や水谷武彦・川喜田煉七郎・山脇道子あたりだったんだけれど、原弘はその次のセカンドランナーでしょう。山脇巌・山脇道子と言うのは山脇学園の創始者だね。けれど、原弘も猛然と外国書を漁った。駿河台下の「カイゼル」という輸入書の本屋にさかんに通っていたらしい。ドイツ書専門店ですね。
とくにチヒョルトの『印刷造形教本』という本が、原のデザイン理性に火をつけた。サンセリフ体を重視したり、スモールレター(小文字)や約物(◆・■・▼・矢印など)の効用を強調したんですね。そこで原は工芸高校で『新活版術研究』というものをまとめて、すぐに刊行した。モホリ・ナギやチヒョルトの論文を訳出するんです。
筆吉サンセリフ体というのは?
紙蔵肉太のタイプフェイスの文字だね。日本でいえばゴシックにあたる。図6を見てください。すばらしいよね。だからニュータイポグラフィの成果を日本に導入するなら、当然、サンセリフにあたるゴシックを使うべきだということになるんだけれど、原弘はここで踏んばったんだね。ゴシックを使わなかった。
筆吉どうしてですか。
紙蔵そこが原弘の深い“まなざし”なんだけれど、当時の日本にゴシック体にいいものがなかったんですね。どう見ても明朝系のほうが出来がいい。原は工芸学校という印刷現場みたいなところにいたわけだから、そのへんはよく見切っていたんです。
筆吉日本の文字と欧米のアルファベットでは、かなりちがうものがありますよね。
紙蔵そうだねえ。そこが意外なほどの重大問題ですね。日本では明治維新のあと、日本語の表記があまりに難しいので、森有礼のように英語を国語にしようとしたり、田中館愛橘(たなかだて・あいきつ)のようにローマ字運動を広めたり、山本有三のようにカタカナを中心にしたカナモジ運動をおこしたりということが、くりかえしおこっているんだね。石川啄木(1148夜)だってローマ字で日記を書いたでしょう。では、日本語のままで行くにはどうするか。それを欧米に匹敵するタイポグラフィやレイアウトにするには、どうするか。悩ましい問題です。原弘は「書体の問題より以前に、国字の問題が巨大な壁をなして、われわれの前に立ちはだかっている」と書いてますね。
加えて、日本文字はタテにするかヨコにするかでも変わる。たとえば「一期一会」という4文字をヨコでデザインするときと、タテにするときでは配慮が大きく異なってくる。ヨコでデザインするには「一」の上が二つもスウスウするし、タテで「一期一会」とするには「一」という漢数字と次の漢字のアキが難しい。こういうことについては島崎藤村(196夜)なんかも、「前後の関係を考えて国文を綴るという骨折がある」と言ってますね。原はデザイナーとして、早くからそういうことに気がついたんです。
筆吉タテ組・ヨコ組って難しいんですね。
紙蔵みんなが想像するより難しい。たとえば1963年に雑誌「太陽」が創刊されたときは斬新なヨコ組でスタートしたんだけれど、評判が悪くてタテ組に変えたし、1970年に「週刊ダイヤモンド」がいろいろ横文字時代になったという判断で一念発起してヨコ組に踏み切ったのだけれど、これもすぐに挫折している。ファッション誌なんてさぞヨコ組が似合うだろうと思うでしょうが、これをやった雑誌はことごとく失敗している。そういうことってあるんです。
 
図6 サンセリフフォントの例
  
筆吉原弘の理性デサインとその日本化は成功したんでしょうか。
紙蔵今日のグラフィックデザインはほとんど原の理性デザインの上に乗っかっているんだから、むろん成功したでしょう。
筆吉ずっと文字を重視したわけですね。
紙蔵それとともに写真も重視した。文字と写真の組み合わせ、アソシエーションの先頭を切ったのも原弘ですね。これを当時は「ティポフォト」とか「タイポフォト」と言っている。
筆吉どんなものですか。
紙蔵チヒョルトとフランツ・ローが組んだ『フォト・アウゲ』(写真眼)とかモホリ・ナギなんかがさかんにとりくんだ写真デザイン作品の影響とか、ドイツ工作連盟が1929年にシュトットガルトで開いた「フィルム・ウント・フォト」展の流れなんだけれど、この動向に当時の若き写真家の木村伊兵衛とか名取洋之助なんかも反応するんです。そこに必ず原弘も加わっていた。
筆吉マン・レイ(74夜)なんかのフォトモンタージュのようなものですか。
紙蔵そっちではなくて、むしろ報道写真やドキュメンタリズムの新しさから来てますね。オリエンタル写真工業が創刊した「フォトタイムス」という当時の雑誌があるんだけれど、そのタイトルにあらわれているように、社会や時事や人間の事実をどうしたらヴィジュアルに伝えられるかということと関連していた。それが「ティポフォト」。
筆吉はあ、なるほど。どんな感じのものでしょう?
紙蔵図7みたいな感じだね。これは堀野正雄の写真を板垣鷹穂が構成した。図8は原弘が野島康三の写真を構成した「女の顔」という1933年に紀伊国屋ギャラリーで発表したものですが、そのころはこういうフォト・ドキュメントとタイポグラフィとが完全に一体になっていこうとしたんだね。日本のグラフィックデザイン史においても写真史においても重要な出来事です。建築家なんかもたいへんに関心を寄せた。
筆吉建築家もですか。
紙蔵そう、堀口捨己(356夜)とかね。山口蚊象が中心になった建築家集団なんかは“文字の幾何学性”を建築との結びつきを提唱するといったことさえ試みて、「創字社」というユニークなコロニーなどもつくってますね。おもしろいよ。
筆吉あまり知られていないことですよね。
紙蔵結局、表音文字によるデザインと表意文字によるデザインの婚姻をどう果たすかということが、これまでも、またこれからも、日本人のクリエイティヴィティの問題でしょうね。そのへんのことが見えてこないと、原弘の果たした役割も、たとえばブルーノ・タウトが桂離宮に感心した意味もわからない。
筆吉ん、やばい。
紙蔵それでぼくが注目したいのは、「PAC」(パアク)という集団ができたときの原弘のパンフレットデザインなんですね。PACというのは1932年に工芸高校印刷科のOB有志がつくった東京印刷美術家集団のことで、1936年に日本初のグラフィックデザイナーの全国組織で「全日本商業美術連盟」(会長・杉浦非水)というのができるときのコアメンバーにもなるんだけど、そのパンフレットデザインがとても建築的なんです。図9です。
筆吉へえっ、かっこいい。仲条正義さんみたいですね。
紙蔵いいところを突くね。いま、斬新なタイポグラフィックデザインを展開しているのは仲条さんだけれど、そのルーツはこういうところにあったんだね。
筆吉そうかあ、わが2000年代の日本はやばいっすね。
紙蔵いまの日本のデザイン業界はかなり危機的だね。でも、プロダクトデザイナーたちの一部が本気で「和」にとりくんで、やっとそのあたりにめざめはじめたようだね。
  
筆吉その後の原弘はどうなりますか。
紙蔵まだまだ先は長いんだけど、まずは日本が戦争に突入していったことが大きいね。そのなかで名取洋之助がつくった「日本工房」が浮上して、そこにかかわっていくんです。
筆吉名取洋之助ってフォトジャーナリストですよね。「ライフ」の最初の特約カメラマンで、「岩波写真文庫」をつくったのも名取洋之助ですよね。
紙蔵名取はドイツのウルンシュタイン社というグラフ雑誌の発行元にいたんだね。そこへユダヤ人排斥がきて、その煽りをくらって3カ月ほど満州事変後の熱河作戦の取材をおえて日本に帰ってきた。で、活動のステーションとしてつくったのが「日本工房」だった。1933年にできたから、ほぼPACと同じだね。
筆吉日本工房なんてずいぶんジャパンなネーミングですね。
紙蔵海外で活動した者って、かなり日本にめざめるんですよ。名取もそうで、お父さんの名取和作が三田財閥の重鎮だったからお金はあった。それで当時頭角をあらわしていた木村伊兵衛に注目して、野島康三や伊奈信男らを集めたところ、みんなが原弘がいいと言う。そこで原を加えて日本工房をつくるんだね。
筆吉ずばりのネーミングですよね。
紙蔵名取は「ジャパン」や「大日本」じゃなくて、NIPPONという呼称にこだわりたかったんだね。それでそこにドイツ語のWerkstatt(ヴェルクシュタット)の訳語を「工房」というふうにして、くっつけた。顧問に林達夫・大宅壮一・高田保が入ってます。名取は技術と技術が結びつくことが仕事だという考えの持ち主で、徹底して異種配合を試みた。前にあげた花王(長瀬商会)の太田英茂が、「木村伊兵衛と原弘を組み合わせたことが日本のデザインや写真を変えた」と言ってるね。原は原で、名取は太田につぐアートディレクターだったと、のちに述懐してますね。
筆吉日本工房はどういうことをしたんですか。
紙蔵ひとつは「組写真」によって写真と編集とデザインを合体させたことだろうね。
もうひとつは、多彩なクリエイティブ人材の交差点になったということでしょう。太田英茂がヘッドをした第2次「日本工房」という時期があって、そこには河野鷹思や山名文夫も加わったし、そこから派生した「中央工房」には(ここに原は中心を移すんだけど)、板垣鷹穂・山田耕筰・谷川徹三・小津安二郎・衣笠貞之助・堀口捨己などまで加わっている。すべて1930年代のことだね。ここで初めて「レイアウト」とか「レイアウトマン」という言葉も使われはじめた。
筆吉しかし、戦火が燎原の火のごとくアジアと太平洋に広まっていきました。いきおい、デザイナーたちも戦争協力をしていったわけですよね。
紙蔵そうだね。日本は全面戦争に入っていった。このとき日本の最前線の写真家とデザイナーが思い切った仕事をした。まず第二次日本工房が『NIPPON』という対外広報誌をつくり、ついで国際観光局が『トラベル・イン・ジャパン』をつくるというふうに、ね。そして、有名な『FRONT』になる。すべて英語などの横文字のメディア。デザイナーも写真家もおおいに腕をふるった。
原は『トラベル・イン・ジャパン』の表紙を担当するんだけれど、図10で見てもらうとわかるとおり、きわめて斬新です。今日の「和」のデザインの原点かもしれない。このあたりで原は、従来から懸案だったサンセリフ体の日本化を、ロゴタイプや写真キャプションで実現していくんです。ゴシック体の活用です。
 
図10 国際観光局の対外宣伝誌 『TRAVEL IN JAPAN』
 
筆吉『NIPPON』も『FRONT』も戦争協力メディアだということで、ずいぶん長いあいだ非難されてきましたね。
紙蔵原さんも戦後は、決してそのことを話さなかったようだね。しかし、どのようにしてそういうメディアが生まれたかを、いまこそ正確に知っておくべきだね。
筆吉どういうふうに出来たんですか。
紙蔵詳しいことはまたベンキョーしてもらうとして、ぼくは1936年に「ライフ」が創刊されたことを、大きな背景として見るべきだと思いますね。つづいて「ルック」が創刊され、世界はグラフ・ジャーナリズムの時代を迎えた。いわゆるピクチュア・マガジンだね。ここに多くの写真家とデザイナーが登用されていった。そのなかで第二次世界大戦が広がったんだね。そういう順番です。だからソ連も有名な『USSR』(建設中のソ連邦)というグラフ・ジャーナル誌をつくった。リシツキーなどが中心になった大胆なレイアウトのものです。『NIPPON』や『FRONT』はそれに呼応している。そういう時代だった。
筆吉『FRONT』は東方社というところが発行しましたよね。あれは何ですか。右翼っぽい感じですよね。
紙蔵いや、むしろ当時は赤っぽいとも言われた。何がどのように見えるかなんて、ちゃんと見ないとわからないものです。
そもそも東方社というのは、1941年に岡田桑三が陸軍参謀本部の意向をうけて設立したもので、理事長が岡田、理事に林達夫、民族学の岡正雄、漢学の岩村忍たちが就いて、そして制作部門のリーダーとして写真部長に木村伊兵衛が、美術部長に原弘が入ったんですね。最初は対ソ戦を想定して『東亜建設』というメディアにするつもりだったようだね。
筆吉それが『FRONT』になった?
紙蔵そのころの原のアシスタントをした多川精一さんが最近書いた『戦争のグラフィズム』によると、1942年に真珠湾攻撃の成果をうけて海軍を全面にとりあげる創刊号をつくる段階で、『FRONT』に改題したようだね。原がアートディレクターで、多川精一がアシスタントをした。写真部には木村の下に浜谷浩や菊地俊吉らが入って、エアーブラシの名人といわれた小川寅次が大活躍してますね。最初はグラビア2色刷だね。図11が創刊号の表紙。
筆吉ページの中身は戦争万歳主義ですよね。
紙蔵まさにそうだね。それを年来のノイエ・ティポグラフィと新来のグラフ・ジャーナリズムでどういうふうにするかが、制作陣の腕だったんだろうね。ここに亀倉雄策とかもかかわっていくわけです。そのほか当時はね、内閣情報部の『写真週報』とか、日本写真工芸社の対米宣伝メディアを意図した『VAN』、財団法人日本写真協会の『2600』なんてのもあった。紀元2600年を記念した広報誌。『2600』は原がレイアウトしていますね。
筆吉戦争協力をしていることは気にならなかったんですか。
紙蔵何もしないならともかく、創作意欲のある連中が何をするかということは、その表現の技法から見ていかなくちゃわからないんじゃないかな。たとえば軍用飛行機を製造する連中は、戦争協力かどうかではなくて、その技術が完遂できるかどうかでしょう。しかも当時の日本人にとって、東京裁判のようなものが待っているとは誰も思えなかったわけだ。
筆吉わかりました。では、技法的にはどのへんがポイントですか。
紙蔵そうだなあ、まとめていえばトリミングとレタリングということでしょう。あとは自分で考えなさい。
  
筆吉では、いよいよ戦後ですが、原弘はどのような活動をしていくんでしょうか。
紙蔵今夜、それを話しはじめるとキリがないよ。いくつもの角度で見る必要があるからね。グラフィックデザイナーとして、装幀家として、武蔵野美術大学の先生として、日本デザインセンターの社長として、それからグラフィックデザインのトップとして。
筆吉なかでも注目するところというと?
紙蔵装幀家原弘かな。ブックデザインは戦後になって初めてやるようになるんでね。最初に話題になったのは坂口安吾(873夜)の『堕落論』だね。なぜ原さんが装幀をするようになったかというと、さっき東方社のところで話に出た林達夫が中央公論の出版部長になるんだけれど、その林が原を起用するんだね。以来、極端にいうと毎月数冊の装幀を20年近く続ける。
筆吉紙蔵さんお薦めは?
紙蔵そりゃ、たくさんあるよ。ぼくもけっこう持っている。筑摩叢書とか、平凡社の「世界名詩集」シリーズや『世界大百科事典』とか、『南方熊楠全集』とか中公の「日本絵巻物全集」とかね。平凡社の「日本の美術」というシリーズは、これまで日本の出版社がつくった美術全集のなかで、いまなお断然第1位のブックデザインでしょう(図12)。それから中公の「自然」の表紙なんかも懐かしい。たしか毎号、ロゴの位置が動いていたと思う(図13)。
 
図12 平凡社 『日本の美術』
 
図13 中央公論社 『自然』
 
筆吉なかでも原弘らしいというと何ですか。
紙蔵豪華本じゃないかな。これは日本の高額出版の「型」を一人でつくったようなものだね。たとえば図14の『櫻大鑑』(文化出版局)、図15の井上靖と東山魁夷が監修した『日本の四季』(毎日新聞社)、吉川英治の『新平家物語』(朝日新聞社)、それから荒川豊蔵の作品集や渡辺義雄の伊勢神宮の写真集とかね。とくに図16の谷口順三の『円空』(求龍堂)なんか、何度見たかわからない。
筆吉何が原弘の特色だったんでしょう。
紙蔵全部だけれど、ともかくけれん味がない。正攻法である。主張がある。なかでも特筆すべきなのは、豪華本の装幀に関してはまず素材の選定でしょうね。原さんは竹尾栄一の竹尾洋紙店がおこした紙の開発の仕事にはやくからかかわったのだけれど、そこで色とテクスチュアをとことん追求した。そういう経験が装幀でクロスひとつを選ぶときも効いている。
でも、ブックデザイナーとしての原弘は、まずその本の定価を聞いて、その値段にふさわしい本をつくろうとしたようだね。それから判型などの本の大きさは内容から決まると考えていたらしい。だからいつも内容を吟味した。
  
筆吉戦後のグラフィックデザイン界は日宣美が大きなエンジンになったと聞いてますが、そこにも原弘はかかわったんでしたよね。
紙蔵日宣美は1951年に設立されるんだね。日本宣伝美術会。これはもともと戦後すぐの1946年に、「日本デザイナー協会」というのができるんです。京橋の交差点の近くに、原のお弟子さんの一人の大久保武が看板をあげた。大久保は同時に「形而社」というデザイン事務所も併設した。そこに原、山名、亀倉、河野たちが集った。そこからまず「広告作家懇話会」というのができて、それが朝鮮戦争で好景気になったとき、最初の広告時代がやってきて、1951年の「日本宣伝美術会」に発展するんだね。原さんが41歳のときです。その後、日宣美が解体する1970年まで、ずっとかかわりますね。
筆吉オーガナイザーとしての力もあったんですね。
紙蔵さあ、そこはぼくには詳しくはわからないけれど、みんなから推されるんでしょうね。やり手ではない。文化的総合性をもっていたということだろうね。
たとえば或る展覧会が日本の戦後デザインの飛躍をもたらしたという展覧会が1955年に高島屋で開かれるんですね。これは「グラフィック55」という有名な展覧会で、原、河野、亀倉、伊藤憲治、大橋正、早川良雄、山城隆一が横並びのスクラムを組んだんだけれど、べつだん原が仕切ったわけじゃない。でも、そのポスターも、中心人物も原弘だったんだね。
筆吉その魅力って何なのでしょうね。
紙蔵山城隆一は「知性」だと言ってますね。渡辺義雄や多川精一はすべてにおいて静かだと言っている。田中一光さんは「絶対に熱演や独演を見せないデザインだ」と言ってましたね。
筆吉そういうデザイナーは、いまはいないですかねえ。
紙蔵そんなことはないよ。原研哉だって静かなデザインを探求しているでしょう。
筆吉ああ、なるほど。でも「知性のデザイン」というと、最近は少ないですね。理性デザインとか。
紙蔵生意気なことを言うね。まあ、そうかもしれないし、知性のほうが変質してしまったともいえる。デザインって、先にデザインがあるわけじゃなくて、人や物や事態が先にあるから、そこで「知」そのものがどういうふうになっているかを凝視することが大事なんです。それによっては“暴れた知”もあれば、“頷く知”もあるわけだ。それを一義的な知性や感性にしてしまっては、つまらない。
筆吉感性もそうですか。
紙蔵そりゃそうだよ。感性こそ固有のものじゃないでしょう。いつだって揺れ動くし、相手や対象によって変わります。それをどういうふうにデザインするか。それは編集だって同じです。
筆吉編集も?
紙蔵もちろん。編集もまた、知性と感性の両方を動かすもので、自分の知性と感性だけで勝負するものじゃない。だから編集もベルベットになったり、洗濯石鹸みたいになったり、また駄菓子のようにもできるんです。
 
『原弘 −グラフィックデザインの源流』
作品集と紙見本帳がセットになっている。
  
筆吉今夜は『デザインの世紀』という本を通して、いくつかの角度で原弘を語ってもらったんですが、いったいこのあと21世紀日本のデザインはどうなっていくんでしょうか。
紙蔵いろいろでしょう。ちょっとしたアイディアは毎日生まれているよね。ただし、デザインの動向がアメージングな大きな力になっているかというと、そうはなっていない。また、デザインが隣の何かとか次の何かと新たな紐帯を生んでいるかというと、そこも少ないね。
原弘の時代は、たとえば日本語という文字の問題、写真がもつ力、デザイナーたちが組んだときの意志、そういったものをつねに生み続けていたわけです。それにくらべると、いまは「デザインはデザイン」というふうになりすぎているかもしれない。
筆吉もっと別なものと結びつくべきだと?
紙蔵それだけではなくて、デザインが科学になったって、デザインが医療になったって、デザインが植物園や子供の遊びになったっていいんです。だってすでにデザインはペットボトルになり、デザインは靴になり、デザインはスナック菓子になったりしているわけだよね。でも、その大半は商品でしょう。消費物でしょう。もっといろいろなものと関係していいんです。そういうことが少ない。
筆吉世界のグラフィックデザインと比較すると、どうですか。
紙蔵たとえばウェブデザインなどを見ると、ずいぶん低迷しているように思うね。なぜなら、ここには欧米の横文字のウェブデザインに対して、日本語のウェブデザインという問題があるわけだよね。それなのに、かつての原弘のように日本文字とウェブとのあいだで苦闘しているデザイナーはごく少数だからね。ウェブエディターだってそうだね。ブログに負けている。繭のように包まれたままだよね。そこを破っていない。
筆吉そうか、そういうことですか。
紙蔵もうひとつ付け加えておくと、もっとアジアのグラフィックデザインや編集デザインに注目しておいたほうがいい。ぼくはあと数年で中国の編集デザインが世界を制すると思うね。少なくとも漢字文化圏の日本は中国には勝負にならないほど水をあけられてしまうだろうね。
筆吉中国?
紙蔵出版物とウェブをよく見ておくといいよ。
筆吉はあ、そうしてみます。
紙蔵では、そんなところで。後半はちょっと急いだね。
 
  

附記¶上の会話に出てきたものでとくに参考にしてほしいのは、『原弘――グラフィック・デザインの源流』(平凡社)、川畑直道『原弘と「僕達の新活版術」』(トランスアート)、多川精一『戦争のグラフィズム』(平凡社ライブラリー)、そして、上には故意に出さなかったのだが、松岡正剛・田中一光・浅葉克己監修の『日本のタイポグラフィック・デザイン』(トランスアート)。ここには松岡正剛によるかなり詳細なタイポグラフィック・デザインの変遷を扱った「何が文字のデザインを躍らせてきたか」が収録されている。ほかに、山名文夫『体験的デザイン史』(ダヴィッド社)、戦前の原弘の周辺の時代を描いた嵐山光三郎の小説『夕焼け少年』『夕焼け学校』(集英社文庫)、多川精一『太田英茂』(エディトリアルデザイン研究所)、片塩二朗『ふたりのチヒョルト』(朗文堂)、今竹七郎・早川良雄・山城隆一など25人のグラフィックデザイナーにインタヴューをした『聞き書きデザイン史』(六耀社)、竹原あき子・森山明子『日本デザイン史』(美術出版社)なども目を通したい。
 




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0471『無対象の世界』カジミール・マレーヴィチ
0786 『素顔のイサム・ノグチ』田中一光
0506 『花森安治の仕事』酒井寛
1014『エットーレ・ソットサス』ジャン・バーニー
1030『伽藍が白かったとき』ル・コルビュジエ
0981 『かたち誕生』杉浦康平
0929 『忍びの者』村山知義
1148 『一握の砂・悲しき玩具』石川啄木
1106『未来派』キャロライン・ティズダル&アンジェロ・ボッツォーラ
1035『造形思考』パウル・クレー
0074 『マン・レイ』ニール・ボールドウィン
0057『デュシャンは語る』マルセル・デュシャン&ピエール・カバンヌ
0356 『草庭』堀口捨己
0873 『堕落論』坂口安吾
1101『モダンデザイン批判』柏木博
0439 『近代日本のデザイン文化史』榧野八束
1159 『I DESIGN』石岡瑛子

 
1328『世界×現在×文学 作家ファイル』越川芳明ほか編
1327『オキシトシン』シャスティン・モベリ
1326『本の現場』永江朗
1325『森田療法』岩井寛
1324『スタンツェ』ジュルジュ・アガンベン
1323『カルメン』プロスペル・メリメ
1322『常世論』谷川健一
1321『天の夕顔』中河与一
1320『書物の達人』池谷伊佐夫
1319『コスメの時代』米澤泉
1318『模倣の法則』ガブリエル・タルド
1317『スティグマの社会学』アーヴィング・ゴッフマン
1316『毎日が夏休み』大島弓子
1315『槿』(あさがお)古井由吉
1314『記憶術と書物』メアリー・カラザース
1313『弥勒信仰のアジア』菊地章太
1312『脳のなかの水分子』中田力
1311『デザインの自然学』ジョージ・ドーチ
1310『人形記』佐々木幹郎/写真・大西成明
1309『風呂で読む漱石の漢詩』豊福健二
1308『あしながおじさん』ジーン・ウェブスター
1307『メダカと日本人』岩松鷹司
1306『世阿弥を読む』観世寿夫
1305『無意識の脳・自己意識の脳』アントニオ・ダマシオ
1304『セレンディピティの探求』澤泉重一・片井修
1303『境界の考古学』俵寛司
1302『フィギュール』ジェラール・ジュネット
1301『ネルーダ回想録』パブロ・ネルーダ
1300『法華経』梵漢和対照・現代語訳
1299『出版状況クロニクル』小田光雄
1298『俗戦国策』杉山茂丸
1297『本の本』斎藤美奈子
1296『理解の秘密』リチャード・ワーマン
1295『マグダラのマリア』岡田温司
1294『ビゴー日本素描集』清水勲 編
1293『株式会社』ジョン・ミルクスウェイト&エイドリアン・ウールドリッジ
1292『無名時代の私』文藝春秋 編
1291『京の大工棟梁と七人の職人衆』笠井一子
1290『神々の沈黙』ジュリアン・ジェインズ
1289『エロスとタナトス』ノーマン・ブラウン
1288『延喜式』虎尾俊哉
1287『真珠夫人』菊池寛
1286『モノからモノが生まれる』ブルーノ・ムナーリ
1285『資本主義はなぜ自壊したのか』中谷巌
1284『浅草弾左衛門』塩見鮮一郎
1283『縄文人の文化力』小林達雄
1282『近代読者の成立』前田愛
1281『マノン・レスコー』アベ・プレヴォー
1280『忘れられた日本』ブルーノ・タウト
1279『小倉百人一首』平田澄子・新川雅明
1278『老子』老子
1277『変貌する民主主義』森政稔
1276『海の帝国』白石隆
1275『暴走する資本主義』ロバート・B・ライシュ
1274『女装と日本人』三橋順子
1273『ゲシュタルト心理学の原理』クルト・コフカ
1272『図説・小松崎茂ワールド』根本圭助
1271『神と翁の民俗学』山折哲雄
1270『星餐圖』塚本邦雄
1269『史上最大の発明:アルゴリズム』デイヴィッド・バーリンスキ
1268『インドへの道』エドワード・モーガン・フォースター
1267『ホワイトヘッドの哲学』中村昇
1266『明治の教養』武田篤司
1265『ルー・ザロメ回想録』ルー・アンドレーアス・ザロメ
1264『墨絵の譜』小林忠
1263『やちまた』足立巻一
1262『1985年』吉崎達彦
1261『イリヤ・カバコフ自伝』イリヤ・カバコフ
1260『滝廉太郎』海老澤敏
1259『日本とはどういう国か』鷲田小彌田
1258『月と農業』ハイロ・レストレポ・リベラ
1257『ミニマ・モラリア』テオドール・アドルノ
1256『世界の小国』田中義晧
1255『レンブラントと和紙』貴田庄
1254『物理学と神』池内了
1253『錯視芸術の巨匠たち』アル・セッケル
1252『守破離の思想』藤原稜三
1251『現代日本のアニメ』スーザン・J・ネイピア
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『デザインの世紀』
原弘 著
2005 平凡社


原弘
 
















































青年期の原弘
1925年頃、府立工芸築地
校舎職員室で



























 



















































































































































































図1
花王石鹸のパッケージ

図2
『薔薇を愛する少女に
与ふるhとtを主題とせる
モノグラム』
(1925)





































































































































































































 





『ひろ・はら石版図案集』
図4
『原弘石版図案集NrII』より
「吾等は否定する」







































図5
ノイエ・ティポグラフィーの例

上:ヤン・チヒョルト
表紙デザイン
中:エル・リシツキー
マヤコフスキー詩集の
ブックデザイン
下:ヘルベルト・バイヤー
表紙デザイン



























































































図7
堀野正雄(撮影)
板垣鷹穂(構成)
「大東京の性格」
図8
野島康三写真展
「写真・女の顔二十点」

図9
「PAC」 パンフレット


















































































































































































































































図11
『FRONT』 創刊号




















































































































図14
文化出版局 『櫻大鑑』


図15
朝日新聞社 『日本の四季』


図16
求龍堂 『円空』










































































































『原弘 −グラフィック
デザインの源流』
カバー
平凡社 1995




『原弘と「僕たちの新活版術」』
川畑直道 著
トランスアート 2002


『日本のタイポ
グラフィック・デザイン』
松岡正剛・田中一光・浅葉克己 監修
トランスアート 1999


『日本デザイン史』
竹原あきこ・森山明子 著
美術出版社 2003


『聞き書きデザイン史』
六耀社 2001


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