千六十三夜【10632005年10月7日

Seigow's Book OS / CORE
ウンベルト・マトゥラーナ&フランシスコ・ヴァレラ
『オートポイエーシス』
1991 国文社
H.R.Maturana & F.J. varela : Autopoiesis and Cognition 1980
河本英夫 訳


表紙:『オートポイエーシス』
©国文社

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オンライン書店 bk1

 

ウンベルト・マトゥラーナ

フランシスコ・ヴァレラ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『知恵の樹』ウンベルト・マトゥラーナ,フランシスコ・バレーラ

『知恵の樹』
ウンベルト・マトゥラーナ&
フランシスコ・バレーラ 著
管啓次郎 訳
1987 朝日出版社

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『自己言及性について 』ニクラス・ルーマン

『自己言及性について 』
ニクラス・ルーマン 著
土方透,大沢善信 訳
1996 国文社

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

河本英夫

『オートポイエーシス―第三世代システム』河本英夫

『オートポイエーシス―第三世代システム』
河本英夫 著
1995 青土社

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『オートポイエーシスの拡張』河本英夫

『オートポイエーシスの拡張』
河本英夫 著
2000 青土社

『メタモルフォーゼ―オートポイエーシスの核心』河本英夫

『メタモルフォーゼ―オートポイエーシスの核心』
河本英夫 著
2002 青土社

『オートポイエーシス2001』河本英夫

『オートポイエーシス2001』
河本英夫 著
2000 新曜社

『システムの思想』河本英夫

『システムの思想』
河本英夫 著
2002 東京書籍

 

 

 魅力に富んではいるが、問題作である。円環的であるけれど、閉じている。閉じているのに、自律的でダイナミックである。発売されてすぐに世界中でも話題になったけれど、本書の意図がどれほど正確に伝わったかは、わかりにくい。最初に読んだとき、このような印象をもった。いくつか理由があるが、気がかりな印象のことから話しておきたい。
 マトゥラーナとヴァレラが提案しているのは、トポロジカルな理論生物学によって推理できる自律的・自己言及的・自己構成的なシステムはどういうものでありうるのかということである。このシステムのことを「オートポイエーシス・システム」というのだが、まずもって驚かされるのは、二人が(とりわけマトゥラーナが)このシステムを「閉鎖系」とみなしたことだった。
 本書が書かれた1980年前後といえば、生物学や生物物理学がいよいよ生命系を「非平衡開放系のシステム」として解読を進めていた時期で、ちょっと気が利いた研究者ならば生命システムを閉鎖系として扱うなんてことは絶対にしなかった。それをマトゥラーナたちが平然と、自律的で自己言及的で自己構成的なシステムは閉鎖系であると言い出したのだ。一瞬、目を疑ったほどだった。
 そこで、オートポイエーシスとは何かということを理解するには、まずもってこのシステムがなぜ閉鎖系とみなされたのかということから始めざるをえない。

 本書がオートポイエーシス・システムの特徴として、くりかえしあげているのは次の4点である。(1)自律性、(2)個体性、(3)境界の自己決定、(4)入力も出力もない。
 この特徴だけから、このシステムが閉鎖系であることは導き出しにくい。生物を開放系のシステムとして捉えるばあいも、生命システムは環境の影響をうけつつもすべてを自己調整し自己維持しているのだから、そこからいえば当然に(1)自律的であり、そうした生命は遺伝情報の継承と物質代謝によって自己同一性を保つようにしているのだから、多くのばあいは(2)個体性をもっている。また、外界とはあきらかに一線を引いて摂取や排泄をおこなっているのだから、まさに(3)境界を自己決定している。
 このように点検してみると、ここまでは開放系としての生物がすべておこなっていることなのである。だから閉鎖系とはみなしがたい。ところが次の、(4)の入力も出力もないというのが奇妙なのである。入力も出力もないのならまさに閉鎖系であろうということだが、どうみても生物は入力と出力をしているはずで(食物を摂取し排泄していることも新陳代謝をしていることも)、何をもって入力と出力のない系を想定したのかが、すぐには理解しがたいのだ。いったい何が閉鎖的で、かつ自律的なのか。
 このことを理解するにはウンベルト・マトゥラーナの専門研究の内容をちょっとだけでも知っておく必要がある。

 マトゥラーナはチリ大学で医学を修め、その後はアメリカやイギリスで「認識の生物学」をめざして神経系の研究に携わってきた。そのマトゥラーナの神経系モデル(ニューロン・ネットワークのモデル)は決定論的なシステムとして完璧なまでに論理化されている。つまりマトゥラーナは神経系のモデルによってオートポイエーシス理論を組み立てたのだ。実際にも本書で例証されている"科学"は神経系(神経細胞論)だけである。神経系以外ではない。
 では、その神経系モデルはそれほど一般化や普遍化が可能なものなのか。そう考えるしかないとマトゥラーナは決断した。
 どんなモデルだったかというと、マトゥラーナは、ニューロン(神経細胞)を「自己言及する代謝と遺伝の単位」とみなした。すなわち、ニューロンはそれ自身の作用(これをオートポイエーシスの初期の発現というのだが)を通じて自己の境界を決定しているとみなした。ついで、そのようなニューロンの組み合わせで成立している神経系を、動きを受け入れる集積器領域(樹状突起と軸索の一部が構成する領域)と動きを生み出せる効果器領域(シナプス領域の広がり)に分けた。用語はいかめしいが、ここまではそれほど特別の見方ではない。
 しかし、ここからがオートポイエーシス理論にとっての重要な規定になるのだが、この二つの領域でおこっている求心的な作用(これが「入力」にあたる)と遠心的な作用(これが「出力」にあたる)とは、両者が有機的につながりつつも、互いに自己決定をするためのカップリング・システムになっているという。
 これは何を意味しているかというと、ニューロン・ネットワークはそのどの部分をとっても内部も外部もないということ、つまりは入力も出力もしていないということ、いいかえればニューロン・ネットワークはどの部分にも原因をもたず、そのシステムはシステム自体の作動をもってすべての特徴としているということなのである。もしそうなっているのだとすれば、ニューロン・ネットワークはなるほど閉鎖系なのである。つまりは閉鎖的に自律しているがゆえに、神経系はオートポイエーシス・システムなのだ。

 マトゥラーナ自身の説明によれば、こうなる。科学の言葉がほとんどなくて、システム理論の言葉ないしは社会哲学用語になっているのがわかりにくいのだが、どうもマトゥラーナはあえてそのように神経系を記述することをこそ目標にした。こんなふうだ。
























ニューロンの特性、その内的構造、形態、相対的位置が、神経システムの連接を規定し、神経システムをニューロンの相互作用する動的ネットワークとして構成する。
ニューロンの特性が有機体の個体発生とともに変化するさい、この特性はニューロンの内的規定と神経システムの構成素としての相互作用の結果とに依存するので、神経システムの連接は有機体の個体発生とともに再帰的に選択されて変化する。
神経システムの連接は、それを構成するニューロンをつうじて、それじたいが統合する有機体のオートポイエーシスに動的に従属する。
システムの作動という点では、神経システムは相互作用するニューロンの閉鎖的ネットワークである。
つまりニューロン・ネットワークとしての神経システムには、内部も外部も存在しない。
神経システムの状態変化の起源という点で、内的原因と外的原因の区別が成り立つのは、有機体を単位体(ユニティ)としてとらえ、境界を特定することによって内部と外部を定義する観察者にとってだけである。
神経システムは関係とだけ相互作用する。

 かなり大胆な説明である。しかもこれだけの説明でピンとくるならいいけれど、神経系が閉鎖的で自律的な相貌をもっていることは、少しでもニューロン・ネットワークの細部を研究してきた者たちから言わせると、なぜそのことばかりを強調するのかが、わからない。
 だいたい、こんな説明は科学の言葉ではない。というよりも多くの生物学者にとっては、神経系を粗視的にわざわざ閉鎖系とみなしたり自律系とみなしたりする程度のことが、いったい何の役得があるのかがわからなかったのである。ぼくも長らくそのようにみなす理論的なメリットを感じにくかった。
 しかしマトゥラーナは(ヴァレラも)、そのような反応にはいっさい答えなかった。ひたすら神経系モデルで萌芽したオートポイエーシス・システムを細胞全般の上に、生命過程の全般に、さらには社会システムにまで適用しようとする。神経系のモデルはたちまちすべてのシステムに拡張されていったのだ。二人がふたたび共著した『知恵の樹』がその試みの拡張を告げていた。

 ともかくもこうして、システムを生命理論に特有な非平衡開放系と捉えるのではなく、むしろ自律的閉鎖系であると捉えることの魅力が次々に議論の俎上にのぼっていったのである。そこでは神経系のことは、もう棚に上げられていた。そして、構成素が構成素を産出するシステムが、自己産出系というシステムが、システムを自己構成するシステムが、つまりは新たなシステム理論の相貌の特色が、もっぱら俎上にのぼり、熱っぽく語られていったのだ。ぼくは唸らざるをえなかった。
 これでマトゥラーナとヴァレラの意図ははっきりした。二人は「生命システムは有機的な機械だ」とみなしたのだ。オートポイエーシス・システムとはオートポイエティック・マシンシステムだったのである。

フランシスコ・ヴァレラが1974年につくった「オートポイエーシス」のモデル
ひとつひとつの要素は、隣の要素と相互作用するだけであるが、
全体的に内側と外側を分けるような不思議なふるまいが現れる

 オートポイエーシスという概念は、マトゥラーナとヴァレラが1970年代半ばあたりにおもいついた造語だった。アリストテレスが設定した認識学習と行為表現のための重要な3つのスコープ「テオリア・プラクシス・ポイエーシス」のうちのポイエーシスに注目して、そこにオートがくっついた。
 テオリアは「観察・観相・認識」を、プラクシスは「実践・行動・実行」を、ポイエーシスは「制作・生産・創作」をあらわしていた。だからそのポイエーシスにオートがくっついたオートポイエーシスは、直截には自己制作性とか自律的制作性を意味するものとなった。
 アリストテレスにとって、もともとポイエーシスはテクネーやアルスがかかわるもののすべてのことをさしている。技能から芸術までがポイエーシスに入る。アリストテレス自身は詩作を眼目に入れていたが、制作・生産・創作のすべてがポイエーシスなのである。
 制作というからには基本的には自己制作であるが、チームで制作してもそこに「想定された自己」がないかぎりは制作にならないので、ポイエーシスには「一人の」とか「単独の」いう意味はない。しかし、特別にオートの意味が強調されているわけではないので、マトゥラーナとヴァレラはあえてオートポイエーシスという造語に踏み切ったのだったろう。自動制作性とか自律産出性とか自己構成性といったニュアンスがある。

 さて、こういうふうなオートポイエーシス・システムの仮説的正体がだんだんあきらかになってくると、マトゥラーナとヴァレラの無謀とも頑迷ともいうべき仮説は、あれよあれよといううちに話題になった。とくに、それまでまったく顧みられることがなかった「システムの自己言及性」の雄弁性を強調することになった。
 従来、自己言及性の出現はその系(システム)の自己撞着や無限ループをあらわすものとおもわれていた。情報が自己再帰するばかりでは何も産出するものがないと考えられてきた。わかりやすくいえば、その系に自己言及ループが生じてしまうときは、その系の"設計"は失敗したとみなされたのだ。
 ところが、オートポイエーシス理論に光があたりはじめたのは、システムが自己言及性をもつ可能性こそが注目されたからだったのである。オートポイエーシス・システムが閉鎖系であるメリットがあるとすれば、この自己言及性を特色にすることがメリットになるということだった。まっさきに社会学者のニコラス・ルーマンがそのようなオートポイエーシス理論の社会学的効用を強調した。これについてはルーマンの『自己言及性について』で読める。
 ルーマンはマトゥラーナらの仮説を知って、自己言及する個体こそが個体の独自性だということに、突如として気がついたのだ。個体が個体であるのはそこに自己言及があるからだということに気がついたのである。社会が社会であるのはそこに自己言及が前提されているからだということに気がついたのである。そして、生命や社会は自己言及システムの特別な一例だと考えたのだ。ぼく自身はこうしたルーマンの食いつきにはあまり関心がないのだが、オートポイエーシス理論が一躍脚光を浴びたのはルーマンのおかげだった。
 ともかくも、このようにして閉鎖系という特色はシステム理論の新たな地平を告げたかのように見えてきた。話はとっくに神経系を超えてしまったということだ。

 こんなところで、オートポイエーシス理論がどのような特徴を傑出させるために仮説されたのかという気がかりなところの説明をとりあえずおえるとして、では、このような仮説が何に有効なのかということである。この答えはとりあえずは簡単だ。自律的システムの理論を追求している向きにとって有効だったのである。
 自律的システムの理論とは、生物の活動を支えている生命系はどのような自律性をもってそのシステムを調整しているのか、それを説明するための理論のことをいう。
 生命系は物質系や機械系とちがって、自己修正や自己調整を自律的にするシステムをもっている。物質や機械は自分で自分を修繕しないけれど、多くの生命系は細胞をとりかえ、負った傷を治し、新陳代謝をし、子供という生命そのものを生む。なぜ生命系がこのような機能をもっているのかについては、科学や哲学がつねにその謎解きに挑んできた。
 ごく初期には水車や時計のような持続的運動をする仕掛けがメタファーにつかわれて、生命系のメカニズムの解明が議論されていた。たとえばデカルトは時計をメタファーにした。こうした推理の方法を「機械論」という。まさにメカニズムをメカニックに解こうとする。
 これに対して、メカニックな解き方では説明できない"何か"がそこに潜んでいるという見方が18世紀末から登場してきた。ビシャやミュラーやリービッヒに始まってドリーシュやベルグソンに及んだこの見方を「生気論」という。そこでは「エンテレヒー」に代表されるような生命力・生気力・有機力といった生命に宿る"見えない力"が想定された。
 しかし、機械論も生気論も生命系の自己構成性や自己成長性をうまく説明しきれない。環境との相互作用も形態形成も説明しきれない。そこで、キュヴィエ、サンチレール、ラマルク、カント、シェリングらは、今日なら「システム」とよぶところの「オーガニズム」(有機的構成体)を想定するようになり、そのオーガニックなしくみが発生や分化や進化の鍵を握っているというふうに考えるようになった。これをメカニズム派に対するにオーガニズム派とよぶことにする。オーガニズム派は有機体がどのようなシステムをもっているかという推理に一斉に向かっていった。
 かくて、こうしたオーガニズム派の要請を最初に統合したのが第521夜に紹介したフォン・ベルタランフィの『一般システム理論』なのである。ベルタランフィの理論は自律的システム理論の最初の統合仮説であった。
 しかし、ここからが理論の発展にからむ冒険と難産がつづくことになる。

 ベルタランフィ以降の自律的システム理論の展開を整理するのは、なかなか難しい。面倒でもある。実にいろいろの仮説が出てきては消え、いくつもの仮説がくみあわさって、ときに隘路にはまり、ときに突飛に遊びすぎ、それでも一途な編集がされつづけてきたからだ。その流れをわかりやすく説明するのは容易ではない。
 そこで、ここでは本書の翻訳者である河本英夫の卓抜な解読力を借りることにする。河本は翻訳者にはとどまらない。日本におけるオートポイエーシス理論の第一人者であるだけではなく、マトゥラーナ、ヴァレラ、ルーマン以降のワールドワイドな議論を一気に抜き切った稀有な理論家であって、ぼくが見るに、いまのところオートポイエーシス・システムの展望について河本以上の成果をあげている者はどこにもいないといっていい。
 その河本が『オートポイエーシス・第三世代システム』という本のなかで、いまのべた自律的システム理論の歴史と変遷をまことに明快に分析してみせていた。いまはその要約論旨を借りようとおもう。河本は自律的システム理論の変遷を第一世代、第二世代、第三世代と分け、第三世代システムとしてオートポイエーシス理論を位置づけてみせたのだ。ぼくなりの補足を加えて、手短に案内する。

 第一世代のシステム論は「動的平衡システム」である。ここでは、有機体は外部の環境と物質代謝やエネルギー代謝をしながら自己を維持しているシステムとみなされる。環境条件がかなり変動しても、この自己維持はなかなか壊れない。
 これをいいかえれば、動的平衡システムとしての生命系は、入力と出力の流れのなかで持続的に「ゆらぎ」を解消しながら自己維持するシステムたらんとしているということになる。
 たとえば、はやくもサンチレールはこのようなシステムには「相互位置不変の原理」「相互補償の原理」「平衡の原理」がはたらいていると見た。キュヴィエは各器官が共通の機能をおこなうように協働作用がはたらいていると見た。カントもこの見方の一人で、生命系の各構成要素は全体を維持するための目的によってそれぞれの位置と機能が示しあわせていると見た。そこには「部分は全体に関与することによってのみ機能する」あるいは「すべての部分は互いの原因とも結果ともなっている」という見方が萌芽していた。
 これらの先駆的な見方に決定的な特徴を与えることになったのは、ウォルター・キャノンが提唱した「ホメオスタシス」という概念である。有機体にそなわっているだろう恒常性の維持という機能をホメオスタシスと名付けたのだ。生命系はセット・ポイントというものをもっていて、つねにそのポイントにシステムを安定させようとするという見方である。暑ければ汗をかき、寒ければ鳥肌をたてるというのがホメオスタシスだ。これは第175夜に紹介したクロード・ベルナールが血液の循環などを観察して仮説した「内的環境」という概念をさらに発展させたものだった。
 内的環境としてのホメオスタシス概念の確立は自律的生命システムを解くのにあたって重要な寄与をした。なぜなら、この概念によって生命系が外部環境のなかで自分自身で「自己の境界」を決定しているということがしだいにあきらかになってきたからである。ベルタランフィの『一般システム理論』は、いってみればこれらの成果を統合したものだった。

 有機体がホメオスタシスを通じて動的平衡を確保すると、そのシステムには安定した層のようなものが生じてくる。階層区分ができてくる。ベルタランフィはそのような階層が多階層になっていることに気がつき、その各層ごとにオーガニズムが機能しているとみなした。
 そこまではいい。しかし、その説明だけではかなり足りなかったのである。一番の問題は各階層間の関係が説明できないことだった。そこでアーサー・ケストラーがその代表的な理論家の一人なのだが、各階層のあいだには一方における自律的な関係と他方における従属的な関係とが同時にはたらいているのではないか、その同時にはたらく機能をもつ何かがそこに動いているのではないか、そういう見方をするようになってきた。ケストラーはこのような特徴を「ヤヌスの双面」とみなして、その自律性と従属性を担当している「ホロン」という要素単位を想定した。ぼくが工作舎時代に出版した『ホロン革命』とは、この仮説集にあたる。のちに清水博がそれを「関係子」に発展させたことについては第1060夜にのべておいた
 こうして、おおざっぱにいうのなら、第一世代のシステム論は動的平衡を保つためのオーガニズムに関する理論と階層間を関係づける理論とを組み合わせるという方向に進んでいくのだが、ここに新たな視点が誕生してくることになる。それが第二世代のシステム論というものになる。

 第二世代のシステム論は「動的非平衡システム」を対象とする。システムを開放系とみなして、外部環境と物質代謝とエネルギー代謝をしながら、システムの形成を通じて周辺条件を有利に変えていくシステムのことである。
 このシステム論では、第一世代の理論が克服できなかった階層間の関係の問題を「階層は自律的に生成される」というふうに考えた。階層生成論に変えていったのだ。ただし、二つの仮説が分かれた。ひとつは「前成説」というもので、生成のプロセスによって生じたものは当初から微妙なかたちで潜在していたという見方をした。もうひとつは「後成説」である。そもそも未分化だったものが生成のプロセスのなかで徐々に秩序だったものに形成されていったとする見方をいう。
 後成説を提案したのはぼくがいっとき傾注していたコンラッド・ウォディントンで、このようにしてできた生命系を「エピジェネティック・ランドスケープ」(後成的風景)とよび、そのように生成のプロセスが進むことを「カナリゼーション」(運河化)と名付けた。そして、生体はこれらをアロステリックな酵素がはたらいて、自律性を活動させるようにしていると見た。
 理論の趨勢は後成説のほうに進んだ。しかしながら、このような見方はまだ発生学の特定のレベルにとどまっていて、生命系が外部環境とどのような関係をもっているからそのようになったのか、いったい何が未分化の要因をのちになって活性化させているのかが説明できず(ウォディントンは酵素を候補にあげたのだが)、とりわけ生成のプロセスに階層的な飛躍と見える現象、すなわち「相転移」がおこることと、生物たちが「自己の境界」を絶妙に変動させていくことを説明しきれなかった。
 オーガニズム派はいったん立ち往生をする。そこへ意外な方角から強力な援軍がやってきた。イリヤ・プリゴジンやヘルマン・ハーケンやマンフレート・アイゲンたちである。かれらは物質現象の分子的解明を進めるうちに「自己組織化」のしくみに気がつき、それをしだいに生命系の理論に適用していった。

 プリゴジンがあきらかにしたことは、自己組織化現象が熱力学的な平衡状態から十分に隔たった非平衡な開放系でおこるということである。開放系というのはシステムがつねにエネルギーの流れにさらされているということを示す。そこでは大エントロピーの増大に反して、「負のエントロピーを食べる」(シュレディンガー)というような秩序の形成がおこるとみなされた。この秩序形成はシステム内部の「ゆらぎ」を動因としている。
 ハーケンがあきらかにしたことは、第1060夜にも書いておいたように、相転移がおこっているときには分子間に協調的なシナジーが動いているということだ。相転移はやはり「ゆらぎ」がきっかけだった。アイゲンがあきらかにしたことは「ハイパーサイクル」の発見を通して自己触媒システムが作動していることだった。階層が安定しているとき、生成のプロセスの産物そのものが生成プロセスを自己触媒的に調整しうるというのがハイパーサイクルで、ここでは自己複製的な構成要素の自己とシステム全体の自己とが重なってきて、そのことが階層分化を促している。
 これらの自己組織化理論は、「ゆらぎ」によって新たな秩序の形成がおこるということ、階層は自己生成されているということ、そのようなことが可能になる自己の境界の決定には非平衡開放系という状態が関与しているという見方が有効であることを天下に知らしめた。それはまさに太陽-地球に生じた生命系がおこなっている自律的システムの特色をみごとに言い当てていた。
 第二世代としての「自己組織化する動的非平衡システム」がさらにどんな理論的特色をもっているかは、省略する。今夜はその話をしたかったのではない。今夜は、これら第一世代システムと第二世代システムの考え方になんらかの不十分なものを感じたマトゥラーナが、第三世代のシステム理論としてオートポイエーシス理論を組み立てた背景が理解できればいいからだ。そこで、さらに河本英夫を借りて、第三世代のシステム論としてのオートポイエーシス理論を、あらためてまとめておくことにする。

 もう一度言っておくと、オートポイエーシス・システムは、システムを自己決定しているシステムである。すなわち、みずからの構成要素と相互作用しながら作動する自己言及システムであって、そのように作動することでみずからの構成素を次々に産出しているシステムである。
 では、このような見方をとる理論はどこが第一世代や第二世代のシステム論とちがっているのか。3つに絞ろう。
 第1に、オートポイエーシス・システムは産出するプロセスそのものなのだから、階層をつくる必要がない。階層ではなくて「プロセスのネットワーク性」があるばかりなのだ。
 第2に、オートポイエーシスが自己言及しているということは、実は、あえていうなら同義反復によってシステムを作動させているということなのである。ということは、産出プロセスのネットワークが構成素を産出し、構成要素が産出するのは産出プロセスのネットワークなのである。つまり自己が自己を生んでいる。まさに自己創出システムなのである。こういう見方は、自己があって組織化が進むシステム理論とは異なっている。オートポイエーシスの自己は作用主体ではなく、システムの作動そのものを自己としているシステムなのだ。
 第3に、オートポイエーシスは空間や時間に煩わされていないということがある。第一世代のシステム論も第二世代のシステム論も、そこには時空間の領域との疎密な相互作用が前提になっていた。だからこそ熱力学的な非平衡性や不可逆な時間の条件が想定されてきた。しかしオートポイエーシスではそうした空間条件や時間条件すらシステムの産出プロセスが自己決定してしまう。

 この3つの特徴は、今日の生物学があきらかにしている生命系の条件から見ると、理解しにくいかもしれない。今日の生物学の多くがオーガニズム派に属していて、メカニズム派では説明できないことを説明する努力を払ってきたからだ。
 ところがオートポイエーシス理論はあえてメカニズム派に戻るかのように、徹底的な機械論を復活させた。オートポイエーシス理論は機械的決定論なのである。しかし、少なくともタンパク質と核酸をシステムの重大な構成素としてスタートをきった地球生命系では、こうした機械論はもはや適用しにくいと考えざるをえない。けれどもオートポイエーシス理論は、その考え方に別れを告げるのだ。タンパク質や核酸ではなくて、もしも鉄のイオン交換を用いてオートポイエーシスが成立するのなら、そこに別個の構造をもち別個の産出プロセスをもつ有機体が成立したっていいはずだと、そう、判断するのである。

 いったい、このことは何を示唆しているのだろうか。それとも、もはや理論のための理論だけを弄んでいるのだろうか。誰もが考えつかないようなことを考えてみただけなのか。
 そういう可能性もありうるだろうけれど、今夜はあえてそこに理論としての価値を見いだすとするのなら、すなわちオートポイエーシス理論がもし何かを示唆しているとすれば、それはおそらく「創発」とは何かについてのまったく新しい示唆をもたらそうとしていると考えるしかないだろうとおもわれる。
 もう一度、第一世代と第二世代の見方と比較していうのなら、動的平衡を前提とする第一世代のシステム理論では、創発は稀な偶然から生じて、それがゆくゆくシステム全体が組み替わってしまうような構造転換におよぶとみなしていた。それはそれでひとつの見識だった。また、動的非平衡の第二世代のシステム理論では、たまたま紛れこんだノイズや「ゆらぎ」がシステムに秩序をつくるのではなく、システムがそもそも抱えもつ取り除くことのできない「ゆらぎ」そのものがシステムの創発をもたらすと考えられた。それを自己組織化とよんだのだった。 これもきわめて魅力的な見解だった。
 ところがオートポイエーシス理論では、創発そのものがシステムの本質なのである。そう、みなしたのだ。創発は新たな発現なのではなくて、(そういうものがあるとすれば)創発の構造をネットワークとするシステムが生じたとみなしたのだ。それは文字どおりの(つまり生粋の)自己創発システムだったのである。

 さあ、こんなような、創発それ自体をシステムとするネットワークがありうるのかどうか。しかもそれは自己の境界を自己のネットワークで決めているわけである。そして閉じているわけである。そこでは中身がどうであろうと創発しかおこっていないというのだ。こんな奇妙なことがどこでおこっているかどうかべつとして、マトゥラーナとヴァレラが言い出したことをそのまま延長させて考えてくると、こういう示唆を受信していくしかないのである。
 では、ここで、諸君に問うてみたい。このように境界を自己決定して、その内部で創発あるいは創発をもどきをくりかえすかに見える自己創出ネットワークって、たとえば諸君がよくよく知っているウェブ社会そのものと似ているのかどうか、ということを――。インターネットは創発をくりかえすと思いこんで自己言及をしつづけているネットワークかどうかということを――。今夜はこの編集稽古をもって閉じることにする。はい、ヘイサケイ。

インターネットのリンク構造の例
ウェブページをノードとし、ハイパーリンクでリンクされるネットワーク



附記¶マトゥラーナとヴァレラの共著には二人の公開講座を著作にした『知恵の樹』(朝日出版社)がある。いっときニューアカのあいだで読み継がれた。ニクラス・ルーマンについては『自己言及性について』(国文社)、『社会システム理論』(恒星社厚生閣)のほか、土方透『ルーマン・来るべき知』(勁草書房)などを、自己言及性についてはスペンサー・ブラウン『形式の法則』(朝日出版社)、大澤真幸『行為の代数学』(青土社)などが参考になる。河本英夫のオートポイエーシスをめぐる著作は本書の解説にはじまって、『オートポイエーシス・第三世代システム』『オートポイエーシスの拡張』『メタモルフォーゼ・オートポイエーシスの核心』(いずれも青土社)、さらに『オートポイエーシス2001』(新曜社)、『システムの思想』(東京書籍)などがある。最新のシステム思想や生命科学思想の訓練にふさわしい。








 






 

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千 夜 千 冊 BACK NUMBER

[目次]

1144

『海上の道』柳田国男

1143

『異装のセクシャリティ』石井達朗

1142

『日本人の自画像』加藤典洋

1141

『稲と鳥と太陽の道』萩原秀三郎

1140

『猿と女とサイボーグ』ダナ・ハラウェイ

1139

『カムイ伝』白土三平

1138

『江戸の枕絵師』林美一

1137

『ゲイ文化の主役たち』ポール・ラッセル

1136

『悪徳の栄え』マルキ・ド・サド

1135

『非常民の性民俗』赤松啓介

1134

『日本創業者列伝』加来耕三

1133

『市場の書』ゲルト・ハルダッハ&ユルゲン・シリング

1132

『女帝の手記』里中満智子

1131

『日本/権力構造の謎』上・下 カレル・ヴァン・ウォルフレン

1130

『多文明共存時代の農業』高谷好一

1129

『木村蒹葭堂のサロン』中村真一郎

1128

『江戸商売図絵』三谷一馬

1127

『性的差異のエチカ』リュス・イリガライ

1126

『インターネット資本論』スタン・デイビス&クリストファー・マイヤー

1125

『ボランティア』金子郁容

1124

『アヴァン・ポップ』ラリイ・マキャフリイ

1123

『笑いの経済学』木村政雄

1122

『ぼくの哲学』アンディ・ウォーホル

1121

『百物語』杉浦日向子

1120

『女性の深層』エーリッヒ・ノイマン

1119

『北条政子』永井路子

1118

『ネット・ポリティックス』土屋大洋

1117

『T.A.Z.』ハキム・ベイ

1116

『江戸の身体を開く』タイモン・スクリーチ

1115

『資本主義のハビトゥス』ピエール・ブルデュー

1114

『猫と小石とディアギレフ』福原義春

1113

『江戸の市場経済』岡崎哲二

1112

『田中清玄自伝』田中清玄・大須賀瑞夫

1111

『黒い花びら』村松友視

1110

『昭和という時代』鈴木治雄対談集

1109

『澄み透った闇』十文字美信

1108

『市場対国家』ダニエル・ヤーギン&ジョゼフ・スタニスロー

1107

『負ける建築』隈研吾

1106

『未来派』キャロライン・ティズダル&アンジェロ・ボッツォーラ

1105

『写真ノ話』荒木経惟

1104

『建築的思考のゆくえ』内藤廣

1103

『バイ・バイ・キップリング』ナム・ジュン・パイク

1102

『コンセプチュアル・アート』トニー・ゴドフリー

1101

『モダンデザイン批判』柏木博


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