八百四十三夜【084303年09月04日

Seigow's Book OS / THERE
小松和彦・栗本慎一郎
『経済の誕生』
1982 工作舎

[表紙]『経済の誕生』
©工作舎

Amazon

オンライン書店 bk1

 

 

 

 

 

 

 

セイゴオ・マーキング1

セイゴオ・マーキング1
「共同体の欠損」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

セイゴオ・マーキング2

セイゴオ・マーキング2
「浄化とお祓い」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

セイゴオ・マーキング3

セイゴオ・マーキング3
「富を他界に差し出す」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これは対話集である。対話集だが、よくできている。成立の事情を言っておくと、ぼくが始めた無料塾「遊塾」に、同志社から参加した後藤繁雄はそのまま工作舎のスタッフとして『遊』の編集に加わった。その後藤が、やはり遊塾生をへてスタッフとなった等徹彦とともに最初に手がけた単行本が本書だった。小松和彦・栗本慎一郎という組み合わせは、かれらの発案である。
 この組み合わせがよかったのか、そのころ“旬”だった二人(栗本が41歳、小松が35歳)がいくつもの勝負球や隠し球を投げあったせいか、編集がよかったのか、本書が示唆した内容はいまなお衰えていない。きっと対談だからこういう“横超”が可能になったのだろうが、おそらくいまこそ読むといい

 話の流れは、「富と財宝の発生」「商人の源流」「呪術と市場システム」「日本人の都市観と経済」という4章立てになっている。最初に、小松が修士論文で分析した「信貴山縁起絵巻」に出てくる「飛倉」の意味が問われる。
 ぼくもこの話は「お鉢をまわす経済学」として何度かしてきているのだが、信貴山縁起は日本の中世における「都・里・山」という3つの場をまたいで、どのように「富」(経済力)が発生したのかをよく暗示している。この物語では、里の長者は山の命蓮に米を提供(喜捨)し、命蓮は都の帝(醍醐天皇)の重い病いに対して祈りを提供(祈祷)し、帝は里の長者に対して市場活動を提供(認証)する。ここにはこういう三角形が成立している。
 ふつう、市場というのは生産と消費が物品を媒介に交換されているところをいうのだが、この物語はそこにもうひとつ、「山」が関与している。すなわち、市場や宮廷になんらかの「欠損」のような問題が生じているときに、山がこれに関与してこの欠損を回復するようになっている。そこで二人が持ち出そうとしている仮説は、富の発生とは、このような欠損と回復というシステムが稼働したときにおこっていたのではないかという仮説なのである。

 ここで「富」とは、貯蓄高や貿易高のことではなく、カール・ポランニー流には、共同体の生存や力を象徴しているような価値のことをいう。この価値観は時代によって民族によって場所によって、変化しつづけている。
 しかもこの価値観は「交換」によって初めて見えるかたちをもってくる。いくら貯蓄高があったとしても、第一次大戦後のドイツのように、パンや肉が1万マルクもするようになるのでは、富の目安にはならない。また、ある者にはひどい病気を治してくれる薬の値段がいかに高かろうと、その薬を入手する力が富なのである。その病気が祈祷で治るなら、そのために支払う値段は世の中とまったく違っていてもいい。つまり、一般に公定価格や流通価格とされているような価値の目盛だけでは測れないところに、実は「富」の本質がある。健康も安全も富なのである。
 二人は広くは同じ文化人類学に属しているのだが、栗本はなかでも経済人類学を、小松は民俗学を研究してきた。話は「富」の発生をめぐって、二人の専門用語をそれぞ言い換えながら進んでいく。この二人の“交換”が読ませるところなのだ。

 たとえば小松は「支払い」とは民俗学では「お祓い」なんだと言う。お祓いとはプュリフィケーション(浄化)のことである。ということは、何かによって穢れている事態を祓うというしくみのなかに、しだいに「支払い」が発生していったのではないかとみなせるということになる。実際にも、「幣」(まい)とは神と人とのあいだの支払いをはたすものをいう。
 栗本は、そうだとしたら、共同体や社会が何を穢れと見るかというということ、すなわち何をタブー(禁忌)と見るかという価値観がそもそも生じたことが、そうした「お祓い」を「支払い」にしていくようなしくみをつくったのではないかと言う。
 では、どうして共同体に穢れやタブーが出てきたかということだが、これは、てっきり「自」と思っている共同体のなかに「他」や「異」が入ってきたと見なしたからである。それを穢れや異質なものと見た。そしてこれを取りこんだり、排除した。民族学や民俗学ではこれを「外部性の問題」という。
 しかし、このことをよくよく考えてみると、実は逆のプロセスでこのことがおこっていたのだということがわかる。つまり、外部性としての「他」や「異」をあえていったん共同体の内部に入れてみることによって、しだいに「自」が成立してきたのではないかという見方がありうる。どうも、この見方のほうが正しいのかもしれない。
 そもそも交易や商業というものは共同体の内部で確立するものではない。共同体から見て外の、いわば「異界」との交流や、その異界との何かの交換がおこることによって、経済は発生し、確立していったはずなのである。そういうものだったのではないか。

 こうしてあらためて検討してみると、日本の昔話には桃太郎や一寸法師や花咲か爺のように、妙に外の異界と交流することで最後に金銀財宝の富を得て、めでたしめでたしとなっている話が多い。栗本と小松はそういう例のひとつとしてウントク譚をあげる。
 貧しい爺さんが売れないマキやタキギを水の底の水神にあげていた。すると水の中からウントクとかヨケナイとかハナタレといった名の醜い童子が授けられる。爺さんはうんざりするのだが、ところが、この汚い童子をそれなりにちゃんと扱っているとお金や幸運がやってくる。いいかげんにしていると童子が去り、富もなくなっていく。外部性の関与が内部の富にかかわっているという典型的な話なのである。
 となると、この童子は貨幣や通貨と似た性質をもっているということになる。これはいわば動く貨幣、生きた通貨なのである。別の見方をすれば、ウントクは排泄物のようにも見える。不要物のようにも見える。ということは、ある地域にとっての不要物は他の地域にとっての必要品であったというふうにも、この物語を解釈することもできる。
 ここにはポトラッチや沈黙交易のような、一種の市場交換原理が発生しているとも考えることができるわけなのである。けれども通貨が発達していなかった時代には、いったいどうして「交換」がおこって、そこに価値が発生したかの説明がうまくできない。そこで、童子や排泄物や穢れが交換のメディアの役割をはたした考えた。それが昔話として伝承されていった。そう考えると辻褄があってくる。
 実際にも、このようなことは多くの歴史の一端の場面からもうかがえる。たとえば阿倍比羅夫が粛慎(みしはせ)国との戦いで、武器を含んだ物品をおいて退却すると、粛慎の船団から長老が降りてきて衣類と交換して帰っていった。そういう歴史的事実もある。
 南方熊楠は中国の「鬼市」に注目して、ある共同体に鬼がくると戸を閉めてしまい、鬼はしかるべき者から物品を巻き上げて帰ってくれるという例をあげ、ここには交易の原型があらわれていると指摘した。新井白石は『蝦夷志』に砂浜で交換をするアイヌの例を紹介した。
 こういう例はいっぱいある。どうやら他界や異界との交流が富の発生の原型か、もしくは富の発生を物語るにはそのような話で伝えていくルールをもっていたのだと考えられるのだ。

 こうして二人は、しだいに南近江に伝わる俵藤太伝説や小野猿丸系の語り部伝説や木地師伝説にことよせながら、近世近代の近江商人の発生などを議論する。また、さまざまな「憑きもの」とは何かを議論する。
 これらの議論のなかでそのころぼくが関心をもったのは、「マイナスの富の交換」ということだった。プラスの富を得るためにはマイナスの富ないしは富に代わるあやしげなものが先行しているということだ。
 この「マイナスの富」の考え方は、その後のぼくにいろいろのヒントをもたらした。共同体に欠損があるから、そこに流れこむ富が発生したというのは、そのひとつの考え方である。また。身体の欠陥や欠損が富をもたらしたということも多い。一寸法師や鉢かつぎ姫は、身体的な欠損が富につなかったという例である。竹取のかぐや姫のように、まさに異界からやってきて、共同体の富を失っていったという物語もある。どうやら「富と負」とは深い関係をもっているようなのだ。
 その後、ぼくはさらに「負」の役割を拡張して、『フラジャイル』では「欠けた王」の問題を提起した。そのへんのことはここでは省略するが、これらを考えるようになったのは、もとはといえば栗本慎一郎と小松和彦の奔放な想像力の“交換”によっていた。ここに記して感謝しておきたい。(なんだか本のあとがきのようになってしまったが……)。










 






 

RSSを表示する

 
松岡正剛の最新情報はこちら
いつでも見たい、松岡正剛
 

書名、または著者名からバックナンバーを検索できます

Web www.isis.ne.jp


千 夜 千 冊 BACK NUMBER

[目次]

1144

『海上の道』柳田国男

1143

『異装のセクシャリティ』石井達朗

1142

『日本人の自画像』加藤典洋

1141

『稲と鳥と太陽の道』萩原秀三郎

1140

『猿と女とサイボーグ』ダナ・ハラウェイ

1139

『カムイ伝』白土三平

1138

『江戸の枕絵師』林美一

1137

『ゲイ文化の主役たち』ポール・ラッセル

1136

『悪徳の栄え』マルキ・ド・サド

1135

『非常民の性民俗』赤松啓介

1134

『日本創業者列伝』加来耕三

1133

『市場の書』ゲルト・ハルダッハ&ユルゲン・シリング

1132

『女帝の手記』里中満智子

1131

『日本/権力構造の謎』上・下 カレル・ヴァン・ウォルフレン

1130

『多文明共存時代の農業』高谷好一

1129

『木村蒹葭堂のサロン』中村真一郎

1128

『江戸商売図絵』三谷一馬

1127

『性的差異のエチカ』リュス・イリガライ

1126

『インターネット資本論』スタン・デイビス&クリストファー・マイヤー

1125

『ボランティア』金子郁容

1124

『アヴァン・ポップ』ラリイ・マキャフリイ

1123

『笑いの経済学』木村政雄

1122

『ぼくの哲学』アンディ・ウォーホル

1121

『百物語』杉浦日向子

1120

『女性の深層』エーリッヒ・ノイマン

1119

『北条政子』永井路子

1118

『ネット・ポリティックス』土屋大洋

1117

『T.A.Z.』ハキム・ベイ

1116

『江戸の身体を開く』タイモン・スクリーチ

1115

『資本主義のハビトゥス』ピエール・ブルデュー

1114

『猫と小石とディアギレフ』福原義春

1113

『江戸の市場経済』岡崎哲二

1112

『田中清玄自伝』田中清玄・大須賀瑞夫

1111

『黒い花びら』村松友視

1110

『昭和という時代』鈴木治雄対談集

1109

『澄み透った闇』十文字美信

1108

『市場対国家』ダニエル・ヤーギン&ジョゼフ・スタニスロー

1107

『負ける建築』隈研吾

1106

『未来派』キャロライン・ティズダル&アンジェロ・ボッツォーラ

1105

『写真ノ話』荒木経惟

1104

『建築的思考のゆくえ』内藤廣

1103

『バイ・バイ・キップリング』ナム・ジュン・パイク

1102

『コンセプチュアル・アート』トニー・ゴドフリー

1101

『モダンデザイン批判』柏木博


各ナンバーをクリックすると、別ウィンドウで一覧が表示されます。
クリックするとランダムにバックナンバーが出現します。
電子の自由が選んだ一冊を、あなたに。




 
 
 

 ISIS

© Copyright Editorial Engineering Laboratory.
All rights Reserved.
│ ISIS編集学校 │ いと◎へん