七百十四夜【07142003年02月17日

Seigow's Book OS / THERE
ロラン・バルト
『テクストの快楽』
1977 みすず書房

Roland Barthes : Le Plaisir du Texte 1973
沢崎浩平 訳
[表紙]『テクストの快楽』
©みすず書房

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ロラン・バルト

ロラン・バルト

 

 

 

 

 

 

 

 

『テクストの出口』

『テクストの出口』
ロラン・バルト著
沢崎浩平訳
みすず書房 1987

 

『バルト テクストの快楽』
現代思想の冒険者たち21
『バルト テクストの快楽』
鈴村和成著
講談社 1996

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

女装する幼い日のバルト

女装する幼い日のバルト

 人の欲望は、セックスを視たいというアドレッサンスな夢と、物語の結末を知りたいというロマネスクな夢とに代表される。そのほかのすべての夢はこの二つの夢の代換物だ。水平に溺れたいのか、垂直に大騒ぎしたいのか、それだけだ。
 ここに動いているのは、ブリオであろう。イタリア語で「熱中」や「熱気」を意味するこの言葉に向かって、われわれはアドレッサンスな夢とロマネスクな夢とを代わる代わるに滾(たぎ)らせてきた。けれどもその大半は歪みやすく、摩滅しかねない。
 これらをもし本を読むという欲望に注ぎこむのなら、夢はふたたび動こうかというものだ。なぜなら読書行為はアドレッサンスであるか、ロマネスクであるか、結局はそのどちらかなのだ。読者はその選択の自由をもっているし、多くの忘れがたい読書はそのように成立してきたはずである。
 ただし、条件がある。そこには「そのテクストが本当に快楽なのか」という問いが待ち構えている。この問いによって、書き手の問題が横合いから突然に浮上して、読者との複雑な密約を結ぶことになる。

 ロラン・バルトがテクストを綴るときに必要としたのは、読者の人格なのではなく、空間だった。モーリス・ブランショもそれをわざわざ「読書空間」と呼んでみせた。
 しかしバルトは問い質した。そのテクストの空間には何があるべきか、それとも何もないようにしておくべきか。
 イエズス会士ファン・ヒネケンが注目したように、人間の言語活動は最初は舌打ちのようなクリック音を入れて発話していたはずである。母音だけのヒップホップのようなものだった。ところが、そのクリック音が子音となって、その民族や国語の言語構造を形成してしまってからは、テクストというだらだらした著者勝手な変なものを、どのような快楽にしていけばいいかということが難題になってきた。
 これが難題と思わない人士は、まあ放っておいたらよろしいが、しかし、バルトはそこが見捨てておけない。本来のテクストは快楽であるか、そうでないなら出口をもっていなければならなかったというふうに、見た。

 こうしてバルトが試みたテクストは、エクリチュールを悦楽の科学とし、レクチュールを身体のカーマスートラにするような、そんなとんでもない快感をめざすものだった。
 本書はそういう一冊である。『遊』の第2期に突入して「もっと活字を小さく!」と叫んでいたぼくは、本書の出現に腰を抜かし、すでにバルトの本は何冊かを読んでいたにもかかわらず、このバルトにこそ愕然とした。
 このバルト、というのは、のちに『彼自身のロラン・バルト』であきらかにされた言い方をつかうなら、「自分自身を定義されることを好まない」という、そういうバルトのことである。このバルトは、誰あろう、松岡正剛にちょっと似ていた。

 テクストを綴るとは、言葉を再配分することだ。
 再配分は切断面から生まれる。テクストはある瞬間につねに二つ以上の切り口に分岐する場をもっている。30代のころの松岡正剛はこの分岐する場の実験にさかんにブリオしていた。ご記憶の人も多少はいることだろう。
 ここでテクストが見かけの快楽に溺れたいのなら、切断面そのものを少しゆっくり観察して書けばよい。サドやフーリエやバタイユくらいには、存分にエロティックになっていく。少し控えめにしたいというなら、フローベールのように切断面に穴をあけるといいだろう。たとえば衣服は、知っての通り、口をあけているところこそエロティックなのだ。
 しかしここからテクストがメタフィジックになるばあいは、テクストの切断面にひそむ「縁」を探るべきである。導火の縁か、異質の縁か、あるいは忘我の縁を――。ここからは読むことと読まないことの織りなす中性的なリズムが生まれてくる。松岡正剛はしばらくこの3つを同時に追っかけた。
 もっとテクストの快楽を求めたいばあいは? テクストは擦り傷を感知するべきだ。
 構造にそっぽを向き、伏せた顔をすぐに上げず、関節に逸話を見い出すように、テクスト自身が薄片になっていくような、そういうテクストを綴るとよい。だから「擦り傷だけのテクスト」のような痕跡があったって、いい。それは性そのものを離脱する。

 バルトという人は争いを差異に変更した人である。バルトは決して争いを好まない。争えば、ひたすら自分が定義されるばかりであるからだ。そこで争いに代えて差異を書く。ごくごく僅かの差異をこそ稠密なテクストにする。松岡正剛はこの差異への変更を編集と呼び替えた。
 こうして、争いはコードにすぎないが、編集はモードからの出立であるということになる。
 これは、「ジェノテクストからフェノテクストに出ていったら、どうなるの?」というクリステヴァの目論みに、バルトが呼応したものともいえる。バルトはモードとモダリティと、そしてスタイルを選んだのだ。そこには、いつまでも「確かな肉体」なんぞにこだわらないで、テクストそのものの快楽に走りこみたいバルトの根っからの気質にふさわしい“モードの体系”が芽生えた。
 バルトの肉体はテクストなのである。松岡正剛がいいかえれば、「快楽に関するテクスト」から「テクストに関する快楽」へ、ということ、バルト=セイゴオ的にいえば、テクストが唯一の身体的痕跡なのである。
 もっといいかえれば? それは、簡単だ。心理にテクストを見て精神分析するなど、もうそろそろよしなさいということである。それよりもテクストの流儀のほうが大事じゃないかということだ

 そもそも社会は引き裂かれた恰好でしか、持続していない。そんなところへ “作品の市場” を持ち出してテクストの快楽を云々することがまちがっていた。
 テクストはオイディプスのさらに以前から、ヨブ記のさらにさらに以前から、とっくに漂流していたものなのである。それらの連続するテクストの、いったいどこを区切って “作品” などと僭称したいというのだろうか。
 バルトは最初からテクストのもつ忌まわしい物神性と制度性を見抜いていた人だ。物神や制度の名にかこつけた狡猾なヒロイズムを見抜いていた。そんなことをあからさまに指摘するのさえ憚ってきた。指摘する代わりに、テクストが物神性と制度性からそれていく姿を吐露してみせたのが、本書というテクストだったのである。本書は “inter-text”(相互関連テクスト性)のための書き下ろしなのだ。
 もっともバルトがのちに明かしたように、このテクストはバルトの思い付きのままに綴られたのではなかった。まずニーチェが下敷きになっていて、この原文に対応していた。ついで、冒頭から終行に向かっては、パラグラフには大小はあるものの、関節が付けられていた。Affirmation(肯定)・Babel(バベル)・Babile(おしゃべり)というふうに始まって、Isotope(等方性)・Langue(言語)・Lecture(読書)をへて、最後はValeur(価値)・Voix(声)で終わっていくように、すべての隠れ見出しがアルファベティカルに並べられていた
バルトらしい遊びだと思ってはいけない。これがバルトのインター・テクスチャーというものなのだ。

 今日、バルトをここに採り上げたのは、ぼくがきのう母の三周忌に長浜に墓参に行き、帰りの新幹線でバルトの遺著を思い出していたからだ。『明るい部屋』はバルトが生涯で一人だけ愛した母親をめぐって、「形容しがたい生命」ということを言っていた。
 そのときバルトは61歳だった。『テクストの快楽』が58歳、一番早い『零度のエクリチュール』でも38歳だから、バルトは遅咲きであり、そして遅咲きとは関係ないことかもしれないが、独身を通しつづけ、「母さん」(マム)とだけ暮らした。

 幼年時代の一枚の写真がある(写真参照)。バルトはスカートを穿き、まるでフランス人形の女の子かルノワールの少女のように指をからませて立っている。
 この写真をぼくが知ったのはバルトが交通事故で死んでからのこと、ルイ=ジャン・カルヴェの『ロラン・バルト伝』が出てからのことだった。その本はバルトのゲイ感覚についてほとんど言及していないままだった。だから、ぼくはスカートを穿いた幼年バルトがかえって忘れられなくなったのだ。
 こういうバルトをどのように読んできたかということを、ぼくは新幹線のなかで思い出していた。いくぶん戦闘的に読みすぎたかなというのが正直な感想だ。バルトが仕掛けていたとはいえ、テクストの快楽に溺れすぎたかなとも思った。
 それから妙なことに、フローベールが「ボヴァリー夫人、あれは私だ」と言ったことが思い出された。ぼうっと走り過ぎる車窓を眺めながら、そうか、バルトは「形容なき生命」かと思った。



参考¶ロラン・バルトの本は多くがみすず書房から精力的に出版されている。執筆発表順にいえば『零度のエクリチュール』『ミシュレ』(みすず書房)、『神話作用』(現代思潮社)と初期の衝撃があり、『エッセ・クリティック』(晶文社)、『記号学の原理』『物語の構造分析』『モードの体系』『S/Z』『旧修辞学』(みすず書房)と記号論が続くが、記号論的な考察はここであっさり破棄される。そして日本に来たときの印象を綴った日本論『表徴の帝国』(新潮社)、ぼくが好きな『サド・フーリエ・ロヨラ』などでバルトの独得の絶頂が築かれ、『新批評的エッセー』『彼自身によるバルト』『恋愛のディスクール・断章』『明るい部屋』(みすず書房)と終息していく。
 バルト論は数多いが、手引書としてルイ=ジャン・カルヴェ『ロラン・バルト伝』(みすず書房)、篠田浩一郎『ロラン・バルト――世界の解読』(岩波書店)、ジュリア・クリステヴァ『サムライたち』(筑摩書房)を、評論としてスティーヴン・アンガー『ロラン・バルト――エクリチュールの欲望』(勁草書房)、ジョナサン・カラー『ロラン・バルト』(青弓社)、鈴村和成『バルト―テクストの快楽』(講談社)を薦めておく。







 






 

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千 夜 千 冊 BACK NUMBER

[目次]

1144

『海上の道』柳田国男

1143

『異装のセクシャリティ』石井達朗

1142

『日本人の自画像』加藤典洋

1141

『稲と鳥と太陽の道』萩原秀三郎

1140

『猿と女とサイボーグ』ダナ・ハラウェイ

1139

『カムイ伝』白土三平

1138

『江戸の枕絵師』林美一

1137

『ゲイ文化の主役たち』ポール・ラッセル

1136

『悪徳の栄え』マルキ・ド・サド

1135

『非常民の性民俗』赤松啓介

1134

『日本創業者列伝』加来耕三

1133

『市場の書』ゲルト・ハルダッハ&ユルゲン・シリング

1132

『女帝の手記』里中満智子

1131

『日本/権力構造の謎』上・下 カレル・ヴァン・ウォルフレン

1130

『多文明共存時代の農業』高谷好一

1129

『木村蒹葭堂のサロン』中村真一郎

1128

『江戸商売図絵』三谷一馬

1127

『性的差異のエチカ』リュス・イリガライ

1126

『インターネット資本論』スタン・デイビス&クリストファー・マイヤー

1125

『ボランティア』金子郁容

1124

『アヴァン・ポップ』ラリイ・マキャフリイ

1123

『笑いの経済学』木村政雄

1122

『ぼくの哲学』アンディ・ウォーホル

1121

『百物語』杉浦日向子

1120

『女性の深層』エーリッヒ・ノイマン

1119

『北条政子』永井路子

1118

『ネット・ポリティックス』土屋大洋

1117

『T.A.Z.』ハキム・ベイ

1116

『江戸の身体を開く』タイモン・スクリーチ

1115

『資本主義のハビトゥス』ピエール・ブルデュー

1114

『猫と小石とディアギレフ』福原義春

1113

『江戸の市場経済』岡崎哲二

1112

『田中清玄自伝』田中清玄・大須賀瑞夫

1111

『黒い花びら』村松友視

1110

『昭和という時代』鈴木治雄対談集

1109

『澄み透った闇』十文字美信

1108

『市場対国家』ダニエル・ヤーギン&ジョゼフ・スタニスロー

1107

『負ける建築』隈研吾

1106

『未来派』キャロライン・ティズダル&アンジェロ・ボッツォーラ

1105

『写真ノ話』荒木経惟

1104

『建築的思考のゆくえ』内藤廣

1103

『バイ・バイ・キップリング』ナム・ジュン・パイク

1102

『コンセプチュアル・アート』トニー・ゴドフリー

1101

『モダンデザイン批判』柏木博


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