六百四十一夜【06412002年10月18日

Seigow's Book OS / WERE
堀辰雄
『風立ちぬ』
1977 野田書房・1991 集英社文庫

[表紙]『風立ちぬ』
©野田書房

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堀辰雄

堀辰雄


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

軽井沢の別荘

軽井沢の別荘



綾子が入院していた富士見高原療養所

綾子が入院していた富士見高原療養所



節子のモデルとなった矢野綾子

節子のモデルとなった矢野綾子









 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 










 

 

 

 


 どのように他人の不幸にかかわれるのか。
 こんなにも魅惑の淵がひらいていて、こんなにも困難で、こんなにも誤解をうけやすいことはない。できれば他人の不幸などにかかわらぬほうが楽に決まっている。けれども、どんな他人であれ、他人の不幸と無縁な日々など、どこにもありえない。

 九段高校の3年のときである。IFという女生徒に「堀辰雄は読んだ?」と問われた。訊かれたのではない。問われたのだ。IFは続けた。「『曠野』とか『風立ちぬ』とか、それから『聖家族』や『菜穂子』ね」。
 なぜ問われたと思えたかというと、ぼくはその女生徒に仄かな慕情を抱いていた。雀斑(そばかす)のある小柄な女生徒だった。ところが彼女のほうは、きっとそんな素振りを見せたのであろうぼくに対して、ただ「堀辰雄を読んだ?」と言ったのだ。
 これではまるで、私に何かを寄せたいのなら、まず堀辰雄を読んでからのことよと言われたも同然だった。それに国語の教師が言っていたことなのだが、IFほど小説を読んでいる生徒はめずらしいとのことだった。これは、突破口を小説におくしかない。

 しかし堀辰雄など、読むはずがなかった。こんなもの軟弱な結核文学の亜流だとおもっていた。
 堀辰雄を読むくらいなら、朔太郎か芥川を読むほうがいい。堀が最初は萩原朔太郎に、ついで芥川に夢中だったのは知っていた。そのころのぼくは、そのうちでも朔太郎の『詩の原理』や『新しき欲情』を読んでいた。そうでなければそのころ読み始めたばかりのプロレタリア文学か、安部公房や倉橋由美子だった。すでに芥川には飽きていた(と思っていた)。
 が、好きな女生徒に言われたのならしょうがない。堀辰雄を読むことにした。それに、なぜその女生徒IFが堀辰雄をあげたのか、その理由が知りたかった。
 最初に『聖家族』を読んだのだと記憶するが、ラファエロの聖母子像をめぐって細木夫人と娘の絹子が「芥川の亡霊」のようなものを擬いていく話には、どうも乗れなかった。芥川に憑かれている河野扁理に思いを寄せた絹子が、「頭痛がしたのを愛の徴候だと感じた」という件りで、がっかりしたものだ。いったいIFは何を読ませたかったのか。
 次に『菜穂子』だった。これは集中して読めなかった。構成がおもしろいとはおもえない。加えて、菜穂子が自身を偽って10歳も年上の会社員と結婚したこと、喀血した菜穂子が八ヶ岳の療養所で生き返ったおもいがしたこと、ついに上り列車に乗ることにした菜穂子の確信のようなもの、そのいずれがIFの示唆したかったことなのか、どうにもわからない。
 受験勉強をほったらかしにして堀辰雄ばかり読むのはいかにも気がひけたが、ともかくもこうして『風立ちぬ』を読んだ。

 またまた八ヶ岳のサナトリウムが舞台である。主人公の「私」から「お前」とよばれているフィアンセの節子は、すでに死の淵にいる。私はその付き添いにやってきている。
 冒頭に、ポール・ヴァレリーの「海辺の墓地」の一節、「風立ちぬ、いざ生きめやも」が提示され、この作品全体が生の一刻を死の間際から綴ろうとしていることが証かされる。ヴァレリーにぞっこんだったぼくは、ふうんと思いながら、小説の途中ながら「あとがき解説」を読んでみた。
 堀辰雄は矢野綾子と軽井沢で知り合って、1934年に婚約をしている。しかし翌年には綾子の肺結核がすすみ、自分もまた同じ病気で臥せりがちになっている。意を決した堀は綾子を伴って八ヶ岳山麓の富士見高原療養所に入る。堀の症状は回復し、綾子はその年の暮れに死を迎えた。この綾子が節子なのである。
 話は短いものながら、「序曲」「春」「風立ちぬ」「冬」というふうに淡々と節子の死に向かって進行する。そして最後に「死のかげの谷」がある。解説によると、この最終章を堀は書きあぐんで、それでもなんとか綾子への鎮魂歌を綴ろうとして、この章を書きあげたという。リルケの「レクイエム」が挿入されていた。
 ヴァレリーとともにリルケにも弱いぼくとしては、ここで突如として堀辰雄の課題に直面できたようにおもえた。ひとつは「哀泣」とは何かということである。そしてもうひとつが「他人の不幸」とともにいるとは何かということだった。

 しかしながら、「哀泣」と「他人の不幸」で堀辰雄を読めたとしても、ぼくにはIFが投げた謎はまったく解けなかった。
 さんざん悩んだすえ、ぼくにはIFに恋心を寄せるのは無理だということ、あるいは、あなたは私に思いを寄せることより大事なことがあるでしょ、それを堀辰雄は書いているでしょと言われているのだろうという、まことにまことに寂しい結論を得た。

 卒業後、IFが商社に入社して男と遊びまわっているという噂が届いてきた。
 あまりに信じがたかったので、ある日電話をかけてみたら、「あら松岡さん。懐かしいわ。会いましょう」という思いがけない返答である。ぼくはその1週間のあいだ毎日のように、当日のデートコースを練りに練って、その日に臨んだ。日生劇場のラシーヌを奮発したのだ。市原悦子の主演。けれどもこれは最悪の選択だったようで、IFは途中で「私、帰るわね、ごめんなさい」と言って、風のように席を立ってしまった。
 ぼくは呆然としたまま、どうしていいか何もわからなくなっていた。雪のような冷たい恋だった。その夜、ぼくは初めて作詞作曲をした。それが『比叡おろし』という曲である。
 そのうち、IFが何かの業病に罹っているという噂がまた流れてきた。友人に電話をしてその噂を確かめてみると、「なんだお前、知らなかったのか」と言われた。比叡おろしか、風立ちぬ。IFどこに隠れて、いざ生きめやも。










 






 

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[目次]

1144

『海上の道』柳田国男

1143

『異装のセクシャリティ』石井達朗

1142

『日本人の自画像』加藤典洋

1141

『稲と鳥と太陽の道』萩原秀三郎

1140

『猿と女とサイボーグ』ダナ・ハラウェイ

1139

『カムイ伝』白土三平

1138

『江戸の枕絵師』林美一

1137

『ゲイ文化の主役たち』ポール・ラッセル

1136

『悪徳の栄え』マルキ・ド・サド

1135

『非常民の性民俗』赤松啓介

1134

『日本創業者列伝』加来耕三

1133

『市場の書』ゲルト・ハルダッハ&ユルゲン・シリング

1132

『女帝の手記』里中満智子

1131

『日本/権力構造の謎』上・下 カレル・ヴァン・ウォルフレン

1130

『多文明共存時代の農業』高谷好一

1129

『木村蒹葭堂のサロン』中村真一郎

1128

『江戸商売図絵』三谷一馬

1127

『性的差異のエチカ』リュス・イリガライ

1126

『インターネット資本論』スタン・デイビス&クリストファー・マイヤー

1125

『ボランティア』金子郁容

1124

『アヴァン・ポップ』ラリイ・マキャフリイ

1123

『笑いの経済学』木村政雄

1122

『ぼくの哲学』アンディ・ウォーホル

1121

『百物語』杉浦日向子

1120

『女性の深層』エーリッヒ・ノイマン

1119

『北条政子』永井路子

1118

『ネット・ポリティックス』土屋大洋

1117

『T.A.Z.』ハキム・ベイ

1116

『江戸の身体を開く』タイモン・スクリーチ

1115

『資本主義のハビトゥス』ピエール・ブルデュー

1114

『猫と小石とディアギレフ』福原義春

1113

『江戸の市場経済』岡崎哲二

1112

『田中清玄自伝』田中清玄・大須賀瑞夫

1111

『黒い花びら』村松友視

1110

『昭和という時代』鈴木治雄対談集

1109

『澄み透った闇』十文字美信

1108

『市場対国家』ダニエル・ヤーギン&ジョゼフ・スタニスロー

1107

『負ける建築』隈研吾

1106

『未来派』キャロライン・ティズダル&アンジェロ・ボッツォーラ

1105

『写真ノ話』荒木経惟

1104

『建築的思考のゆくえ』内藤廣

1103

『バイ・バイ・キップリング』ナム・ジュン・パイク

1102

『コンセプチュアル・アート』トニー・ゴドフリー

1101

『モダンデザイン批判』柏木博


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