六百二十八夜【06282002年09月30日

Seigow's Book OS / PIER
コナン・ドイル
『緋色の研究』
1960 創元推理文庫
Arthur Conan Doyle : A Study in Scarlet 1887
阿部知二 訳

[表紙]『緋色の研究』
©東京創元社

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『シャーロック・ホームズの生涯 ガス燈に浮かぶその生涯』(W・S・ベアリング=グールド著 河出文庫)
『シャーロック・ホームズの生涯 ガス燈に浮かぶその生涯』
W・S・ベアリング=グールド 著 
1987 河出文庫












『シャーロック・ホームズ百科事典』(マシュー・バンソン編著 日暮雅通監訳 原書房)

『シャーロック・ホームズ百科事典』
マシュー・バンソン 編著
日暮雅通監訳
1997 原書房






項目3500・引用文8000以上を網羅した『シャーロック・ホームズ事典』(ジャック・トレイシー著 各務三郎他監訳 すずさわ書店)

項目3500・引用文8000余を網羅した『シャーロック・ホームズ事典』
ジャック・トレイシー 著
各務三郎 他監訳
2000 すずさわ書店







ヴィクトリア朝の文化に項目を多く割いた『シャーロック・ホームズ大事典』(小林司・東山あかね編 東京堂出版)
ヴィクトリア朝の文化に項目を多く割いた『シャーロック・ホームズ大事典』
小林司・東山あかね 編
2001 東京堂出版
 元「タイム」部長のウィリアム・スチュアート・ベアリング=グールドに『シャーロック・ホームズの生涯』という本がある。1962年の刊行で、コナン・ドイルの伝記ではなく、シャーロック・ホームズの伝記である。
 ベアリング=グールドは14歳でホームズの虜となって、さまざまな編集の仕事をしながらも、有名なホームズ・クラブ「ベイカー・ストリート・イレギュラーズ」の会員となり、ついにホームズ研究の第一人者となった。しつこいようだが、ドイルの研究ではなくホームズの研究である。
 だいたいシャーロッキアンというのは、「ベーカー街221番地Bから一番近い酒場はどこか」「いったいワトスンは何回結婚したのだろうか」「ホームズの背広の襟の幅は何センチなのか」というような問題に真剣に取り組んで、これを仲間とともに気取って楽しめなくてはいけない。
 そんな凝った連中ばかりのシャーロッキアンのなかで筆頭に位するには、気取りに加えて、全世界のホームズ・カルトを出し抜けるほどの教養と機知がなければならないのだが、ベアリング=グールドにはその資格が存分にあった。

 シャーロッキアンは、ホームズが担当した60の事件を扱った9冊の書物を嬉しそうに「キャノン」とよぶ。
 これは「聖書」に匹敵するもので、実際にも英語圏では「聖書」に次いで大量部数が読まれてきた。
 ところが、この60の事件は9冊のなかにばらばらに書かれていて、年代順にはなってはいない。それも当然のことで、ドイルはこんなにホームズ探偵がのちのちまで当たるとは思っていなかったのだから、またシャーロッキアンたちがホームズ研究団体を結成し、そのための集会や学会を開いたりするなどとも毫(すこし)も想っていなかったのだから、好き勝手にホームズがかかわった事件を綴っていたわけである。刊行順にいえば『緋色の研究』『シャーロック・ホームズの冒険』『シャーロック・ホームズの思い出』『バスカーヴィル家の犬』『シャーロック・ホームズの帰還』『恐怖の谷』『最後の挨拶』『シャーロック・ホームズの事件簿』というふうに。
 しかし、それではシャーロッキアンは我慢できない。
 そこでいろいろの研究が進んだのだが、事件の年代が書いていないものもあり、また、ホームズの幼少期やライヘンバッハでの死闘後の3年間や晩年のことなど、まったく見当がつかない時期もあって、ホームズの活動と事件を順に並べる決め手を欠いていた。
 それをベアリング=グールドは「キャノン」以外のすべての関係資料にもあたり、ほぼ完璧なまでの年代記を作り上げたのである。いわば彼こそはそれまでだれもが就任できなかったホームズ情報調査研究所のホームズ所長になったのである。 かくて勢いがついたホームズ研究は、ドゥ・ワール編集の『ホームズとワトスンに関する世界文献目録』では、ついに6221の文献を列挙するまでにいたった。こうなると、シャーロック・ホームズはそのへんのどんな実在する人物よりも、確かに歴史を歩いた実在者だったと考えるしかなくなってくる。

 このような信じがたいほどの徹底ホームズ研究によると、ホームズがかかわった事件にはちゃんと順番がつくことになった。しかもそのことごとくが実際の歴史の中に組み込まれていた。 その60の事件のすべてを紹介するわけにもいかないが、試みに、前半の有名な事件だけを適当にピックアップして、そこにホームズの“伝記的事実”を挟み、さらにはコナン・ドイルその人の実年代事績をちょっとだけ加えた複合略年表をつくってみた。
 ぼくもこういう作業が好きなようでは危ないのだが、案の定、ノートをつくっているうちに、シャーロッキアン独得のぞくぞくするような脈動が、体のどこかのルートを動きはじめてきて、困ったものだった(実はここに掲げた略年表の20倍ほどの年譜をつくってしまったのだ)。
 それにしてもよく見てもらうと、いろいろのことが発見できるにちがいない。★印はコナン・ドイルの実際の事績、『◇◇』がドイルの作品発表年、そのほかが作品の中の出来事である。ドイルとホームズは、まるで折り重なるように世紀末から新世紀のあいだを動き回っていたのである。

1854・1・6
ウィリアム・シャーロック・ホームズ誕生   
1859・5・22
★アーサー・コナン・ドイル誕生
 :
1872
モリアーティ教授、家庭教師として来る
1872・4
ワトスン、ロンドン医科大学に入学
1872・10
ホームズ、クライストチャーチ・カレッジに入学
1874・7・12
「グロリア・スコット号」事件
1876
★コナン・ドイル、エディンバラ大学医学部入学
1877
★ジョセフ・ベル博士(ホームズの原型)を知る
1877・6
モンタギュー街に私立探偵を開業
1879・10・2
「マスグレーブ家の儀式」事件
1879・11
ホームズ、アメリカ旅行
1880
★ドイル、蒸気捕鯨船で船医として北氷洋へ
1881・12・31
ワトスン、陸軍病院へ
1881・1
ベイカー街221番地Bに部屋を借りる
1881・3・4
「緋色の研究」事件
1882
★ドイル、ポーツマス皆と郊外に医師として開業
1883・4・6
「まだらの紐」事件
1884・1
ワトスン、アメリカ旅行
1885
★ドイル、ルイーズ・ホーキンと結婚
 :
1887・10・29
「赤毛組合」事件
1887・11・19
「瀕死の探偵」事件
1887
★ドイル『緋色の研究』発表
1888・1・7
「恐怖の谷」事件
1888・9・12
「四つ署名」事件
1888・9・18
「バスカーヴィル家の犬」事件
1889・5・1
ワトスン、メアリー・モースタンと結婚
 :
1892
★ドイル『シャーロック・ホームズの冒険』
1893・6
ホームズ、モンペリエ研究所で誘導体研究
 :
1900
★ドイル、ボーア戦争に軍医として従軍
1902・10・4
ワトスン、三度目の結婚
1902
★ドイル『バスカーヴィル家の犬』
1909・7・27
「獅子のたてがみ」事件
1914・8・2
「最後の挨拶」事件
 :
1930
アーサー・コナン・ドイル死亡
1957・1・6
シャーロック・ホームズ死亡

 こうしてみると、ホームズはなんと103歳まで生きていたことになるが、この晩年はまだ謎に包まれている。一方、作者のドイルはホームズより27年も前に死んでいる。これはまことに奇っ怪きわまりないことで、ふつうならどうしても考えられないことがおこっていると言わざるをえない。
 しかし、ドイル=ホームズ世界ではこういうことはありうることなのだ。ここには、またしてもシャーロッキアンの不思議な活動があるわけなのである。
 まずドイルを敬愛する推理作家の巨匠ジョン・ディクスン・カーがドイルを研究して(ホームズではなくて)、『アーサー・コナン・ドイル卿の生涯』を書いた。これが1962年のことだった。
 この記述はドイルの息子アドリアンを感服させたほどよくできた伝記だったので、二人は意気投合してしまった。そしてよせばよいのに、二人は1954年に『シャーロック・ホームズの功績』という作品を書いて、ホームズを復活させてしまったのだ、合作で6篇、アドリアンが6篇を書き、結局ホームズはドイルより長生きをすることになった。
 なんだかドイルが作ったホームズが舗道を歩いていて、そのホームズが歩いた舗道をわれわれがまた歩いているうちに向こうからホームズがパイプを咥えて歩いてくるという、はなはだネステッドな関係なのである。
 しかし、このような仕掛けが次々におこるかもしれないような予兆は、すでに処女作『緋色の研究』にあらかた用意されていたともいえる。それほどにドイルにとってもホームズにとっても、シャーロッキアンにとってもわれわれにとっても、『緋色の研究』はよくできていた。
 ぼくは少年時代に何を最初に読んだかは忘れたが、そのころ血湧き肉躍ったのは『バスカーヴィル家の犬』なのだが、あらためてふりかえって読んだとき(ようするに大人用を読んだとき)、やはり『緋色の研究』の用意周到に脱帽したものだった。

 ところでドイルについても言いたいことはたくさんあって、ドイル以前にデュパンという探偵の原型をつくっていたポーや、やはりルコック探偵を仕立てた当時の流行作家ガボリオや、『月長石』で有名なウィルキー・コリンズに対するドイルの辛辣な見方はどうして生まれたかとか、すでに第508夜のシービオクの記号論に紹介したように、いったいドイルが発見した「推理という学」というものはどんな意味をもっているのかとか、またボーア戦争で見せたドイルの熱狂的な愛国主義者ぶりは何をあらわしているのかとか、さらには晩年の神秘主義に対する異常ともいえるほどの傾倒は何であったのかとか、単なる推理作家ではないドイルの驚くべき側面もいろいろ書きたいのだが、ここでは割愛することにする。
 ひとつだけ書いておくとすれば、どうもドイル家には妖しい血とカリカチュアの血との両方が流れていたのではないかとおもうことである。
 祖父ジョン・ドイルが風刺画家で、父親も絵を描き、伯父が「パンチ」の挿絵画家だというのは、カリカチュアの血のほうで、ドイルが心霊術にやたらに凝って『新しき啓示』(1918)や『心霊術者の彷徨』(1921)や2巻の『心霊術史』(1926)まで書いたというのは妖しい血のほうである。
 この二つの血が交じって、それが凝固もせず生き生きとしたシャーロック・ホームズになった。しかしドイルに流れていた二つの血はホームズを作り出すだけでは満足できなかったともいえる。ドイルはもともと別の狙いももっていたようで、それがいまではSF古典として“通”たちに知られる『失われた世界』(1912)や『霧の国』(1925)の作品群になっていったのである。南米ギアナの高地をヒントとした『失われた世界』は、そうしたもう一人のコナン・ドイルを知るにはもってこいである。

 ついでに、もう一言だけ。
 ドイルの推理学はそもそもが「写真」と「似顔絵」から出てきたのではないかと、ぼくはおもっているということだ。21世紀のシャーロッキアンはそこを掘りこんで、いわば「視覚的ホームズ研究」に取り組むとよいのではあるまいか。
 本書『緋色の研究』については何も言及しなかったけれど、それもまあ、いいだろう。シャーロック・ホームズはこう言って、この作品を閉じたのだ、「これがね、われわれの緋色の研究だったんだよ」と。

参考¶シャーロック・ホームズものについては省く。新潮文庫が一番揃っているが、それなりに各文庫になっている。本文に採り上げたウィリアム・スチュアート・ベアリング=グールドの架空のホームズ伝記『シャーロック・ホームズの生涯』は邦訳されて、『シャーロック・ホームズ=ガス燈に浮かぶその生涯』(小林司・東山あかね訳)という本になっている。いまは河出文庫で手に入る。絶対にお薦めだ。実はこれ以外にも河出文庫から「シャーロック・ホームズ・コレクション」という“通”のためのシリーズが出ていて、これは『シャーロック・ホームズ17の愉しみ』『シャーロック・ホームズの生まれた家』『シャーロック・ホームズの私生活』『シャーロック・ホームズの見たロンドン』、はては『ホームズ贋作展覧会』『シャーロック・ホームズ対ドラキュラ』といった垂涎ものが料理されている。覗かれたい。







 






 

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千 夜 千 冊 BACK NUMBER

[目次]

1144

『海上の道』柳田国男

1143

『異装のセクシャリティ』石井達朗

1142

『日本人の自画像』加藤典洋

1141

『稲と鳥と太陽の道』萩原秀三郎

1140

『猿と女とサイボーグ』ダナ・ハラウェイ

1139

『カムイ伝』白土三平

1138

『江戸の枕絵師』林美一

1137

『ゲイ文化の主役たち』ポール・ラッセル

1136

『悪徳の栄え』マルキ・ド・サド

1135

『非常民の性民俗』赤松啓介

1134

『日本創業者列伝』加来耕三

1133

『市場の書』ゲルト・ハルダッハ&ユルゲン・シリング

1132

『女帝の手記』里中満智子

1131

『日本/権力構造の謎』上・下 カレル・ヴァン・ウォルフレン

1130

『多文明共存時代の農業』高谷好一

1129

『木村蒹葭堂のサロン』中村真一郎

1128

『江戸商売図絵』三谷一馬

1127

『性的差異のエチカ』リュス・イリガライ

1126

『インターネット資本論』スタン・デイビス&クリストファー・マイヤー

1125

『ボランティア』金子郁容

1124

『アヴァン・ポップ』ラリイ・マキャフリイ

1123

『笑いの経済学』木村政雄

1122

『ぼくの哲学』アンディ・ウォーホル

1121

『百物語』杉浦日向子

1120

『女性の深層』エーリッヒ・ノイマン

1119

『北条政子』永井路子

1118

『ネット・ポリティックス』土屋大洋

1117

『T.A.Z.』ハキム・ベイ

1116

『江戸の身体を開く』タイモン・スクリーチ

1115

『資本主義のハビトゥス』ピエール・ブルデュー

1114

『猫と小石とディアギレフ』福原義春

1113

『江戸の市場経済』岡崎哲二

1112

『田中清玄自伝』田中清玄・大須賀瑞夫

1111

『黒い花びら』村松友視

1110

『昭和という時代』鈴木治雄対談集

1109

『澄み透った闇』十文字美信

1108

『市場対国家』ダニエル・ヤーギン&ジョゼフ・スタニスロー

1107

『負ける建築』隈研吾

1106

『未来派』キャロライン・ティズダル&アンジェロ・ボッツォーラ

1105

『写真ノ話』荒木経惟

1104

『建築的思考のゆくえ』内藤廣

1103

『バイ・バイ・キップリング』ナム・ジュン・パイク

1102

『コンセプチュアル・アート』トニー・ゴドフリー

1101

『モダンデザイン批判』柏木博


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