三百六十八夜【03682001年8月30日

Seigow's Book OS / CORE
ピーター・W・アトキンス
『エントロピーと秩序』
1992 日経サイエンス社
Peter William Atkins : The Second Low 1984
米沢富美子・森弘之 訳
[表紙] エントロピーと秩序
© 日経サイエンス社
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セイゴウ・マーキング術で読む本文 その1
セイゴオ・マーキング術で読む本文 その1



セイゴウ・マーキング術で読む本文 その2
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セイゴウ・マーキング術で読む本文 その3
セイゴオ・マーキング術で読む本文 その3


 

 

ルードヴィッヒ・ボルツマン
ルードヴィッヒ・ボルツマン


 
 数ある科学成果のなかでも「熱力学第2法則ほど、人間の精神の解放に貢献したものはない」とよく言われる。
 人間精神の解放とは何ぞやというところだが、たしかに蒸気機関を通して第2法則が見えてきて以来、この法則がもたらした見通しはまことに広範囲にわたった。第2法則は極大の宇宙にも極小の粒子にも深くかかわり、かつすべての生物の生と死にも根本においてかかわっている。

 こんなに重大な法則はめったにない。それにもかかわらず、これほどその解釈が難しく、また多様な真理の認識をもたらす法則も少ない。
 著者はオックスフォード大学の物理化学の教授で、いまは量子論による物質像の研究をする。62歳になった。難解な議論をまことに説得力に富んだ展開で、しかもカオスや散逸構造の議論までをナビゲートしている。数式をつかわないで熱とエントロピーの"深遠"なふるまいのすべてを、編集的というより編集工学寄りに解読した書物としては、いまのところ右に出るものはないようにおもう。米沢さんと森さんの翻訳もかなりうまい。
 そこでぼくも、アトキンスほどではないが、ちょっと捻った解説をしておく。

 熱力学というものはサディ・カルノーが蒸気機関をヒントに想定したカルノー・サイクルを前提とした知的理想機関の構想から生まれ、ジュールとケルヴィン卿とクラウジウスの3人がそれぞれに基礎を準備し、その総体を異能者ルードヴィッヒ・ボルツマンが引き受けて第2法則を発見し、全体の思想レベルを一挙に飛躍させたものである。
 ボルツマンについてはいずれ別に書いてみたい"とっておきの科学者"なので、ここではふれないが、ぼくが最も圧倒されている科学者の一人である。
 その熱力学にはこれまで4つの法則が発見されている。ごく絞っていうと、次のようになる。

 第0法則は「物質の温度が定義できる」というもので、これは前提にすぎない。前提にはすぎないが、これで物体間の平衡関係が何の気兼ねなく記述できるようになった。
 第1法則が、ケルヴィンやクラウジウスがあきらかにした「エネルギーは保存される」という普遍性が高い法則である。ここには宇宙のエネルギーは一定であるという思想が含まれる。熱力学的にいえば、熱は仕事に変換できるということだ。
 第2法則はボルツマンの天才が如何なく発揮されたもので、アトキンスは「自然には根本的な非対称がある」というふうに表現した。熱と仕事のあいだには非対称性があるということで、この見方こそがエントロピーという見方を生み、第2法則が「エントロピー増大の法則」という異名をとることにもなった。熱は仕事に変換できるが、完全にそのことがおこるのは絶対0度のときだけだという意味にもなる。
 第3法則は他の3つにくらべると法則とはいいにくいが、「極低温の物質の性質が記述できる」というもので、何度ステップを尽くしても物質は絶対温度はけっして絶対0度にはならないことを証している。
 なかで、なんといっても第2法則が語るところの内容がずば抜けている。本書も第2法則をめぐって展開される。

 第2法則は次のように定義を順に"いいかえ"てみると、その広大な内容が少しは見えてくる。

(1)「熱を完全に仕事に変換するのは不可能である」。
 熱源から熱を吸収して、それをすべて仕事に変換するだけで、あとは何の変化ももたらさないというような過程はおこりえない。
 いいかえれば、仕事と熱は、双方ともエネルギーを移動させるしかたの様式だという意味では等価だが、お互いに入れかわるときの入れ変わり方は等価ではない。

(2)「自然な過程には宇宙のエントロピーの増加が伴う」。
 これは、系を熱するとエントロピーが増加するが、仕事をしてもエントロピーは変わらないとも書き換えられる。つまり、宇宙のエントロピーは仕事には活用しにくいものだということである。
 エネルギーが分散するときには、エントロピーは増加する傾向にあるということだ。

(3)「宇宙はより高い確率の状態に移っている」。
 このことが意味している内容は深遠だが、簡単にいえば、「自然の変化がおこるたびに、世界全体のエントロピーは増えている。そしてその方向が一番の安定なのだろう」ということだろう。
 これを「宇宙や自然界には、世界全体のエントロピーが増大するという非対称性がひそんでいる」というふうに解釈したい。

(4)「熱の一部が仕事に変換されるとき、カオスが乱雑状態の中から一様な運動を引き出す」。
 ここからはエントロピーとカオスが入れ替わる。秩序だった生成物、すなわちエントロピーの低い生成物が、あまり秩序だっていない(エントロピーの高い)反応物質からあらわれてくることがありうるということである。
 ただしそのためには、系の周辺で系の内部のエントロピーの減少を補う以上のカオスが生成される必要がある。

(5)「熱を完全に仕事に変換しようとすると、そこに構造があらわれてくる」。
 有名なプリゴジンの散逸構造がどのように出現するかということである。
 ここでは、「エントロピーがより速くつくられるようになると、構造がないところに構造ができる」というふうにいいかえたい。この構造のひとつが生命なのである。

 と、まあ本書の紹介をかねて捻った言い方をしてみたが、第2法則のもつ意味をたった5ステップの「いいかえ」で、宇宙の本質や生命の誕生まで届かせようというのは、どだい無理だったかもしれない。
 しかし、第2法則がもっている意味は、急げばそういうことなのだ。そして、ついつい宇宙から生命までを、星の誕生から珈琲にミルクが交じるまでを、一気に駆け抜けたくなるものなのだ。

 本書はそのことをいくつものモデル、とくにサイクルモデルやエンジンモデルやケミカルモデルを駆使して、実に巧みにナビゲートした。熱力学やエントロピーを解説した本はいくらでもあるが、本書のように、理知的で、模式性に富んだものは少なかった。
 そのうえで、本書は科学思想的にも示唆に富む。ときどき著者が言い放つ言いまわしが得がたかったのだ。
 たとえばぼくは、「鉄を燃やす化学反応」のところで、次のような記述に出会ってギョッとした。そこにはこんなふうに書いてあった。「呼吸は血液中の鉄原子が錆びることからはじまる」!
 すでにおわかりのことだとはおもうけれど、鉄が錆びたり、血液中のヘモグロビンに変化があるということは、宇宙のエントロピーと大いに関係することなのである。








 






 

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千 夜 千 冊 BACK NUMBER

[目次]

1144

『海上の道』柳田国男

1143

『異装のセクシャリティ』石井達朗

1142

『日本人の自画像』加藤典洋

1141

『稲と鳥と太陽の道』萩原秀三郎

1140

『猿と女とサイボーグ』ダナ・ハラウェイ

1139

『カムイ伝』白土三平

1138

『江戸の枕絵師』林美一

1137

『ゲイ文化の主役たち』ポール・ラッセル

1136

『悪徳の栄え』マルキ・ド・サド

1135

『非常民の性民俗』赤松啓介

1134

『日本創業者列伝』加来耕三

1133

『市場の書』ゲルト・ハルダッハ&ユルゲン・シリング

1132

『女帝の手記』里中満智子

1131

『日本/権力構造の謎』上・下 カレル・ヴァン・ウォルフレン

1130

『多文明共存時代の農業』高谷好一

1129

『木村蒹葭堂のサロン』中村真一郎

1128

『江戸商売図絵』三谷一馬

1127

『性的差異のエチカ』リュス・イリガライ

1126

『インターネット資本論』スタン・デイビス&クリストファー・マイヤー

1125

『ボランティア』金子郁容

1124

『アヴァン・ポップ』ラリイ・マキャフリイ

1123

『笑いの経済学』木村政雄

1122

『ぼくの哲学』アンディ・ウォーホル

1121

『百物語』杉浦日向子

1120

『女性の深層』エーリッヒ・ノイマン

1119

『北条政子』永井路子

1118

『ネット・ポリティックス』土屋大洋

1117

『T.A.Z.』ハキム・ベイ

1116

『江戸の身体を開く』タイモン・スクリーチ

1115

『資本主義のハビトゥス』ピエール・ブルデュー

1114

『猫と小石とディアギレフ』福原義春

1113

『江戸の市場経済』岡崎哲二

1112

『田中清玄自伝』田中清玄・大須賀瑞夫

1111

『黒い花びら』村松友視

1110

『昭和という時代』鈴木治雄対談集

1109

『澄み透った闇』十文字美信

1108

『市場対国家』ダニエル・ヤーギン&ジョゼフ・スタニスロー

1107

『負ける建築』隈研吾

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『未来派』キャロライン・ティズダル&アンジェロ・ボッツォーラ

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『写真ノ話』荒木経惟

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『建築的思考のゆくえ』内藤廣

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『バイ・バイ・キップリング』ナム・ジュン・パイク

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『コンセプチュアル・アート』トニー・ゴドフリー

1101

『モダンデザイン批判』柏木博


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