三百十七夜【03172001年6月19日

Seigow's Book OS / PIER
レヴィ=ストロース
『悲しき熱帯』
1977・2001 中央公論社
Claude L vi-Strauss : Tristes Tropiques 1955
川田順造 訳
[表紙]悲しき熱帯I
[表紙]悲しき熱帯II
©中央公論新社
Amazon
オンライン書店 bk1













[挿絵] 顔面塗飾を施したカデュヴェオ族の美女画(1895年)
顔面塗飾を施したカデュヴェオ族の美女画(1895年)


[挿絵] 或るカデュヴェオ族の女が描いた顔面塗飾の図案
或るカデュヴェオ族の女が描いた顔面塗飾の図案



[挿絵] 成女式の装いをしたカデュヴェオ族の娘
成女式の装いをしたカデュヴェオ族の娘



[挿絵] 祭りの装いをしているボロロ族の男
祭りの装いをしているボロロ族の男


[挿絵] 祭祀の主宰者、らっぱ、ガラガラ、その他、様々な飾りを描いたボロロ族の絵
祭祀の主宰者、らっぱ、ガラガラ、その他、様々な飾りを描いたボロロ族の絵
 
 冒頭に「私は旅や冒険が嫌いだ」「それなのに、いま私はこうして自分の探検旅行のことを語ろうとしている」と書いてある。長い長い記述の最後には「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう」という人類学者らしくないとも人類学者らしいともいえる言葉が出てくる。そのうえで、「ともあれ、私は存在する」と書いてある。
 実に奇ッ怪な書物である。
 本書が文化人類学の古典的な名著だということくらいで本書の書名を知っている者には、頭がクラクラするにちがいない。「ともあれ、私は存在する」と書く1ページ前には、平然と「私は人類全体の矛盾である」とも書いている。
 こんな人類学者はいなかった。まったくいなかった。
 人類学的な調査旅行を学術的ではなく旅行記のように書いた研究者ならごまんといるし、その旅行記に自在に学術的な思索をはめこんだものも、たくさんあった。むろん単なる学術的報告ならキリがない。けれども、その調査研究記録の随所に、人類と人間に関する本質的な思索と自身の根源的な省察を同時に、かつ暗喩に富んで表現できた学者など、まったくいなかった。

 レヴィ=ストロースが1930年代のブラジルを旅行し、滞在した記録を本書にまとめたことはまちがいがない。
 ところが、読み出せばすぐにわかることだが、本書はレヴィ=ストロースが最初にどんな調査目的をもってパリを発ち、どのような旅程のすえにブラジルに着き、それから逐次どのように「悲しき熱帯」を調査したか、そのつど何を感じたかというふうには、書いてはいない。
 まるで車窓に走る風景を見ながらついつい物思いに耽るように、回顧談や回想や反省がのべつまくなく入ってくる。たとえば、ユダヤ人として自分が第二次世界大戦をのがれてアメリカに行ったときの話が入る。コルネイユの『シンナ』を借りて急に自分の自画像のスケッチを試みる。インド旅行のときの話ではバングラデシュの現在に対する見方が述べられる。むろんブラジル奥地のインディオの生き方の報告が続くこともある。

 これらが時間をこえ、空間をこえ、しかも軽妙で沈着な思索の中で進行する。加えて、隠喩と換喩がおびただしい。
 とにもかくにも言葉が生きている。連想に富んでいる。目眩くというのでなく、精緻な視点で野生のワールドモデルが自在に問われつづけているという印象なのだ。
 ようするに、ブラジルのカデュヴェオ族やボロロ族の日々を見ているのは、少年に戻ったレヴィ=ストロースだったり、ドビュッシーを聞いているレヴィ=ストロースだったり、若い頃にアメリカに脱出したころの苦渋のレヴィ=ストロースだったりするわけなのである。それでいて、どこか悲しいものがある。
 こんな学問があるというのだろうか。
 あったのだ。そのような方法をレヴィ=ストロースがつくったのである。構造人類学の原型は、すべてこの『悲しき熱帯』の文章に発酵していたといってよい。

 本書を最初に読んだのは、ぼくが早稲田でフランス語を習っていたときの担当教官の室淳介さんが訳した講談社版の、その名も『悲しき南回帰線』という一冊だった。
 全訳ではなかったが、そのときの包まれるような読後感、いや、あの未知の至福にも似た読中感というものがある。それを伝えたい。けれども、それが難しい。ぼく自身がその読中感をすぐに再生してみせる方法を、ここでおもいつけないからだ。
 学術が文学なのである。きっとそういうことだろうとおもう。その逆に、文学が学術でありえた稀有の例だということでもあろう。しかしながらそう書くと、たとえばヤーコプ・ブルクハルトの『イタリア・ルネサンスの文化』やヨハン・ホイジンガの『中世の秋』とどうちがうのか、そこを言わなくてはならなくなる。あるいは柳田国男が佐々木喜善から聞いたことを『遠野物語』にしそれを理解できたのが泉鏡花くらいのものだったというようなこととの比較を、うだうだ書かなければならなくなる。
 そんなことを説明していたらレヴィ=ストロースではなくなってくる。そういうものではない。『悲しき熱帯』はどんな学業によっても、どんな報告記録によっても、けっして代行がきかない一冊なのだ。変な言い方になるが、構造主義の全体と『悲しき熱帯』のどちらを取るかといわれれば、ぼくは後者の一冊を選びたい。唯一無比とはいわないが、そのくらいかけがえのない一冊なのである。

 室淳介訳ののち、「世界の名著」にマリノフスキーの『西太平洋の遠洋航海者』とともに『悲しき熱帯』が入ることになった。川田順造の訳で、泉靖一が解説を書いた。ただし抄訳である。
 その後、1977年になって同じ川田による全訳が登場した。久々にあらためて読んでみた。同じ読中感だった。
 レヴィ=ストロースが本書で強調していることを一言でいえば、西洋の知で世界を見るなということである。が、読んでいるときはそんな安易な一言にならない苦渋と透徹の両方が、超越と均衡の両方が伝わってくる。
 そこには、レヴィ=ストロース自身がのちに何度も強調した「サンシーブル」(可感的なもの)と「アンテリジーブル」(可知的なもの)との境目をなくし、その合間に新たな均衡をもちこむという風変わりな見方が含まれている。ジャン・ルヴェルは当時、それを「特殊的でしかも普遍的な考え方の実験だ」と批評したものだったが、ぼくの言葉でいえば「抱いて普遍、離して普遍」の実験ということである。

 レヴィ=ストロースが神話世界を通して発見した方法は「ブリコラージュ」といわれている。
 ブリコラージュはもともとは「修繕」とか「寄せ集め」とか「細工もの」といった意味であるが、フランスではそのブリコラージュをする職人のことをブリコルールといって、あらかじめ全体の設計図がないのに(あるいは仮にあったとしても)、その計画が変容していったとき、きっと何かの役に立つとおもって集めておいた断片を、その計画の変容のときどきの目的に応じて組みこんでいける職人のことをさしている。
 そのためブリコラージュにおいては、貯めていた断片だけをその場に並べてみても、相互に異様な異質性を発揮する。ところが、ところがだ、それが「構造」ができあがっていくうちに、しだいに嵌め絵のように収まっていく。本来、神話というものはそういうものではないか、構造が生まれるとはそういうことではないか、そこにはブリコラージュという方法が生きているのではないかと、レヴィ=ストロースは見たわけである。

 これはぼくの言葉でいえば「編集」だ。編集というのも、だいたいこんなことをしている。
 つねに「全体」と「部分」の関係を有機的に動かしていて、どこかで決着をつけていく。その決着のときに、あとから入ってきた部分がするする育って「超部分」となり、それが「全体」の様相をがらりと変えてしまうこともある。
 レヴィ=ストロースはこのブリコラージュという方法に、もうひとつ新たなしくみがあることを発見する。それは、雑多に集めておいた材料や道具の「断片」や「部分」たちが、一応は想定していた「全体」とのあいだであれこれ"対話"を交わすのではないかと見たことだ。その対話では、その民族や部族に特有な理性的なものと感性的なものは切り離されずに、「断片と全体が対話した内容」のすべてが検討される。
 そこを『野生の思考』では、「構造体をつくるのに他の構造体を用いない」と説明をした。

 そうなのである。
 レヴィ=ストロースが『悲しき熱帯』で自分の実感をつかって試みたこととは、このブリコラージュであり、材料と計画の対話に聞き耳をたてることであり、それらすべてのプロセスにまつわる編集的叙述を実験してみることだったのだ。
 これを、「問いなき答え」と「答えなき問い」を互いに出しあう相互関係の進展にこそ「構造」が生まれていく秘密がある、というふうにいってもいいかとおもう。
 このときレヴィ=ストロースは、さらにもうひとつの方法を獲得した。それは「ブリコラージュによってつくられた神話や説話はブリコラージュによって解体できる」という方法だった。実際にもレヴィ=ストロースはその方法をもって(そのほかモースの交換論やソシュールやヤコブセンの言語論もつかったが)、構造人類学を確立していった。これはようするに神話や説話や儀式がもっている筋書きにとらわれないということだ。表向きの意味にとらわれないための方法なのである。
 こうして、たとえばブラジルのボロロ族の金属インコとその巣の話が、ジャトバの木と首長の妻殺しの話が基礎情報として部品化していって、レヴィ=ストロースがその後の数十年にわたって展開した構造人類学のために用意した編集エンジンの駆動を待って、超部分化をおこすことになったのだった。

 このようなレヴィ=ストロースの"異様な学問"は、必ずしもずっと安泰であったわけではない。
 むしろ、そうとうに多くの批判にさらされてきた。インセスト・タブー(近親相姦の禁止)を論じた『親族の基本構造』は穴だらけの議論だと批判され、『構造人類学』については神話のメッセージについての議論がなさすぎると批判された。
 ごくかんたんにいえば、構造主義は図式と機能ばかりを強調する機能主義なのではないかという批判であった。もともとレヴィ=ストロースの名が世に轟いたのは、サルトルとの論争が派手だったせいもある。「それ以前の思考」をこそ探索したいレヴィ=ストロースと、「それ以降の思考」をこそ確立したいサルトルが激突したのは当然だった。むろんレヴィ=ストロースはこのような批判を丹念に撃破していったのだが、いまなおレヴィ=ストロースの学問が学問であったかという疑問がわだかまっている。
 ぼくはこうした構造主義をめぐる論争にほとんど関心がなかったので、ろくに批判論も擁護論も読んでいないのだが、どうもこうした議論自体が不毛なのではないかとおもっている。
 それに、おそらくは『悲しき熱帯』だけは、誰も批判をしなかったのではなかったか。本書の中にレヴィ=ストロースが全部見えているというのに、議論は学問的な有効性のなすりあいにばかり進んでしまったのだ。

 メキシコの詩人オクタビオ・パスに『クロード・レヴィ=ストロース』という本がある。
 パスはこのなかで「レヴィ=ストロースを人類学の新しい流れのなかに位置づけようとはおもわない」と宣言をした。そして、その文章にはベルグソンとプルーストブルトンという異質な3人が棲んでいると言った。また、『悲しき熱帯』については、レヴィ=ストロースが関心をもっているのは「同一性」ではなく「類縁性」なのだという重要な指摘をした。
 大賛成である。
 学問とは同一性や反復性を確認したがるものである。それが対象領域と拘束条件の設定が大好きな科学や社会科学の立脚点というものだ。けれども、類縁性はそうした個別の立脚点をやすやすと越えていく。跨いでいく。それは「答えのない問い」によるオイデュプスの神話そのものなのである。「なんだか似ている」ということ、「なんとなくつながっている」ということ、そのことを考えるのがレヴィ=ストロースの学問であり、つまりは『悲しき熱帯』だったのだ。
 第16章「市場」にこんなにことが書いてある。最近になってこの文章がぼくを襲ってきて、どうにも困る。ぼくはいつまでも『悲しき熱帯』の読中感の中にいる囚人であるようだ。

 アジアで私を怖れさせたものは、アジアが先行して示している、われわれの未来の姿であった。
 インディオのアメリカでは、私は、人間という種がその世界にたいしてまだ節度を保っていた。(中略)けれども、そのインディオのアメリカにおいてすら、私ははかない残照を慈しむものである。


参考¶レヴィ=ストロースの本や講演集はずいぶん訳出されている。主には『親族の基本構造』(青弓社)、『人種と歴史』『構造人類学』『今日のトーテミズム』『野生の思考』『はるかなる視線』『やきもち焼きの土器づくり』『構造・神話・労働』(以上みすず書房)、『仮面の道』『アスディワル武勲詩』(青土社)というところ。オクタビオ・パス『クロード・レヴィ=ストロース』は法政大学出版局。







 






 

RSSを表示する

 
松岡正剛の最新情報はこちら
いつでも見たい、松岡正剛
 

書名、または著者名からバックナンバーを検索できます

Web www.isis.ne.jp


千 夜 千 冊 BACK NUMBER

[目次]

1144

『海上の道』柳田国男

1143

『異装のセクシャリティ』石井達朗

1142

『日本人の自画像』加藤典洋

1141

『稲と鳥と太陽の道』萩原秀三郎

1140

『猿と女とサイボーグ』ダナ・ハラウェイ

1139

『カムイ伝』白土三平

1138

『江戸の枕絵師』林美一

1137

『ゲイ文化の主役たち』ポール・ラッセル

1136

『悪徳の栄え』マルキ・ド・サド

1135

『非常民の性民俗』赤松啓介

1134

『日本創業者列伝』加来耕三

1133

『市場の書』ゲルト・ハルダッハ&ユルゲン・シリング

1132

『女帝の手記』里中満智子

1131

『日本/権力構造の謎』上・下 カレル・ヴァン・ウォルフレン

1130

『多文明共存時代の農業』高谷好一

1129

『木村蒹葭堂のサロン』中村真一郎

1128

『江戸商売図絵』三谷一馬

1127

『性的差異のエチカ』リュス・イリガライ

1126

『インターネット資本論』スタン・デイビス&クリストファー・マイヤー

1125

『ボランティア』金子郁容

1124

『アヴァン・ポップ』ラリイ・マキャフリイ

1123

『笑いの経済学』木村政雄

1122

『ぼくの哲学』アンディ・ウォーホル

1121

『百物語』杉浦日向子

1120

『女性の深層』エーリッヒ・ノイマン

1119

『北条政子』永井路子

1118

『ネット・ポリティックス』土屋大洋

1117

『T.A.Z.』ハキム・ベイ

1116

『江戸の身体を開く』タイモン・スクリーチ

1115

『資本主義のハビトゥス』ピエール・ブルデュー

1114

『猫と小石とディアギレフ』福原義春

1113

『江戸の市場経済』岡崎哲二

1112

『田中清玄自伝』田中清玄・大須賀瑞夫

1111

『黒い花びら』村松友視

1110

『昭和という時代』鈴木治雄対談集

1109

『澄み透った闇』十文字美信

1108

『市場対国家』ダニエル・ヤーギン&ジョゼフ・スタニスロー

1107

『負ける建築』隈研吾

1106

『未来派』キャロライン・ティズダル&アンジェロ・ボッツォーラ

1105

『写真ノ話』荒木経惟

1104

『建築的思考のゆくえ』内藤廣

1103

『バイ・バイ・キップリング』ナム・ジュン・パイク

1102

『コンセプチュアル・アート』トニー・ゴドフリー

1101

『モダンデザイン批判』柏木博


各ナンバーをクリックすると、別ウィンドウで一覧が表示されます。
クリックするとランダムにバックナンバーが出現します。
電子の自由が選んだ一冊を、あなたに。




 
 
 
 

ISIS

© Copyright Editorial Engineering Laboratory.
All rights Reserved.
│ ISIS編集学校 │ いと◎へん