第三百夜【0300】2001年5月25日
Seigow's Book OS /
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ハーマン・メルヴィル
『白鯨』
1952
新潮文庫 他
Herman Melville : Moby-Dick or the Whale 1851
田中西二郎 訳 |
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この大作は、ぼくがまったく持ち合わせていない才能と力量と意志で描かれている。それだけにこれを読んだ高校時代のことが忘れられない。イシュメールに逃げたのだ。
友人の安田毅彦はエイハブ船長に入っていったようだ。「松岡はスピリットが好きなんだろう」と英語の得意な安田はそう言った。そして加えた、「おれはソウルが好きなんだ」。これは痛かった。しかし、エイハブに入るとは、そのソウル(魂)を悪の起源にまでさかのぼり、そこからまさに銛でモービィ・ディックを撃つように、現実の闘争に逆上してこなくてはならない。そのうえでエイハブをイシュメールから眺めなおすということになる。
そんな強靭な読み方が安田にどうしてできるのだろうか、と驚いた。しかし安田は『カラマーゾフの兄弟』においてすら大審問官の側に立てた男だったから、あるいはエイハブの魂が痛いほどよくわかるのかもしれなかった。
アルベール・カミュの『カリギュラ』の主人公は不可能に機会を与える狂王である。カリギュラは月と闘った。そのカリギュラのモデルを、カミュはエイハブ船長から採った。
エイハブは獰猛な白鯨と闘った。白鯨が神なのであって、エイハブが神なのではない。案の定、そのエイハブのモデルは『列王記』の悪王アハブにある。そのエイハブの壮絶な闘いの一部始終を見た青年は、その名をイシュメールと名のっている。メルヴィルがこの物語に秘めたかったすべての鍵は、このイシュメールが内面で握っている。イシュメールとは『創世記』のイシュマエルが化身したものだった。
ヘブライの祖始アブラハムと正妻のあいだには子が産まれなかった。が、側室には男児が生まれた。それがイシュマエルだった。母と子は追放され、パレスチナの砂漠を彷徨しつづける。イシュマエルには追放された理由を背負うという宿命が落ちている。ユダヤ・キリスト教における逃亡のニヒリズムは、こうして歴史を貫通していった。
そういうイシュメールにぼくは加担したのだが、安田は、そういう加担は『白鯨』の読み方じゃないんだと言ったのだった。
『白鯨』は神話である。ありとあらゆる出来事や人名や場面が神話的である。原型的である。
この神話は邪悪を主題にした。「悪」である。邪悪者は白鯨モービィ・ディックではなく、エイハブである。しかし、エイハブが邪悪者になりきれたのはモービィ・ディックが残虐に見えたからだった。この関係がちょっとでも崩れたら、『白鯨』は成り立たない。読者は異常な物語からただちにスピンアウトする。だからメルヴィルはエイハブに英雄的な叙事詩の言葉を与えつづけた。それまでアメリカ文学の歴史には英雄叙事詩の伝統がまったくなかったにもかかわらず(当時は北米インディアンの歴史はほとんど知られていなかった)、メルヴィルはシェイクスピアから借りてきたかのごとき悪王の語り口をエイハブに与えつづけた。
この徹底は、物語が異常であることを設定したからというより、メルヴィルが異常を擬装できたということなのである。そこにナサニエル・ホーソーンに継ぐアメリカ文学最大の実験者が生まれる原動力があった。
けれども、そんな原動力がどうしてメルヴィルに備わったのか、当時のぼくにはまったく見当もつかなかった。ただ夢中に読んだだけだった。
メルヴィルが『白鯨』を書きあげたのは、32歳である。この年齢をどうみるか。早すぎる大成とみるかどうか。
もっとも、このことを聞いて焦る必要はない。メルヴィルは「私は25歳までなんら成長しなかった」と言っているほどの遅咲きなのである。が、この言葉も額面どおりには受けとれない。この25歳での決断には壮絶なものがあったからだ。
25歳からの8年間をひたすら物語体験に打ちこんだ。この決断がメルヴィルをつくった。そこにはむろんタネがある。ただそのタネが尋常ではない。それこそがメルヴィルの原体験である。
原体験になったのは、21歳(1844)のときに大海を航海する旅立ちをしたことにある。メルヴィルは捕鯨船の水夫や海軍の水兵として3年におよぶ航海をした。荒くれ男たちと人跡未踏の海と島とを波瀾万丈に巡航するこの3年間には、“人間”というものが見せるたいていの暴力と欲望と情熱と技術とが嵐のように集中していた。尋常じゃなかった。
このときの体験は『タイピーまたはポリネシアの生活瞥見』にまとまるのだが、そのときメルヴィルは初めて“人間”になる。それが25歳なのである。それまでは“人間”じゃなかった。そして、それからが『白鯨』という8年間にわたる神話づくりになる。
人は神話に向かえば狂気か神か、さもなくばその二つに匹敵する異常を抱かなければならないものなのだ。
メルヴィルが捕鯨船に乗っていたことが、メルヴィルの物語体験をつくった。まさにそうなのだが、そう見るのは、いかにもあたりまえすぎると思われるかもしれない。
ぼくのように少年時代に捕鯨船の記録映画を見て(小学校の校庭で揺れる銀幕に映る短編映画を見て感動してしまったのだった)、捕鯨船に憧れたような単純な者には、上の説明で何も不足はないのだが、おそらく文芸批評家や文学史としては、こんな説明は不満なことだろう。
そこでひとつの逆説の目をもちこまなければならない。
これはぼくの批評の芸当にすぎないが、メルヴィルは体験を物語化したのではなく、物語を体験化したかったからだったという逆説だ。物語の体験化というのは、人々が旅に出ようとするときにつねに実感していることで、説明するまでもないだろう。
この逆説を敢行するためにメルヴィルがしたことは、すべて『白鯨』に執拗に書いてある。それこそが『白鯨』を読むおもしろさというもので、ようするにモービィ・ディックを神として、エイハブを悪王として、イシュメールを巡礼者として、そして船員たちをユダヤ・キリスト教史に登場するあらゆる人物としてそれぞれ彫塑していくために、メルヴィルがあらゆる読書体験を駆使してあてはめた文章の知識、いわば「文知」というものである。
この「文知」には、おびただしい鯨学も含まれる。ともかくクジラに関して、こんなに濃い「文知」につきあわされるとは、物語の読者には予想もつかないことだろう。
また海洋・気象・船舶操縦の知識も含まれる。そこはぞんぶんに博物学になっている。加えて、たいしたことはないけれど、当然のことに“人間”たちの喜怒哀楽のいっさいも含まれる。
それらの量があまりにも多いため、たいていは『白鯨』は敬遠されてきた。メルヴィルが尊敬してやまなかったホーソーンもうんざりしたようだ。
ぼくが高校時代にこれを読んだのは幸運だったのだ。若気の至りでともかく平気で読めた。けれども最初にも書いておいたように、ぼくは安田のようにはエイハブ船長の魂になれなかったのである。
最後に言っておかなければならないことがある。メルヴィルが壮絶な情熱を降り注いで「文知」のかぎりを尽くしたのは、やはりモービィ・ディックとエイハブとイシュメールの三者にうねる「永遠の父なるもの」だったろうということだ。
この「永遠の父なるもの」はキリスト教の聖霊としての父ではない。ユダヤ教のエホヴァ(ヤーウェ)でもない。
どちらかといえば歴史的にはゾロアスター的なるものに近い。ニーチェがツァラトゥストラと呼んだものである。その光輝神に内属する暗黒神に近い。わかりやすくいうのなら、のちにジョージ・ルーカスが『スターウォーズ』において仮設したダースベーダー的なるものだ。ルーカスがダースベーダーを仮設できたのは、ルーカスの師の神話学者ジョセフ・キャンベルのヒントに従ったまでのことだが、さすがにそのヒントが『スターウォーズ』を宇宙世紀を舞台にした神話にさせた。
しかし、実はもっと直截にいえば、『白鯨』の「永遠の父なるもの」とはデミウルゴスなのである。創造主デミウルゴスそのものなのだ。最近は建築家の磯崎新がしきりに考えこんでいるデミウルゴスである。
デミウルゴスだとすれば、メルヴィルは工人の神でなければならない。にもかかわらず、メルヴィルの「文知」はこのデミウルゴスあるいはツァラトゥストラに対するに、グノーシスの知をもって対抗してみせた。
言いたかったことは、このことだ。第132章「交響」に、そのグノーシスの知がデミウルゴスあるいはツァラトゥストラを掌握する瞬間が綴られている。今日のぼくには、そこを紹介する気力がもはや失せているが(なにしろぼくは安田とちがってイシュメールに逃げたのだから)、諸君のうちの誰かは、少なくとも気力充実の青年たちは、この第132章だけでも取り組むべきである。そこに、この大作で初めてモービィ・ディックが姿を見せるのだ。
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