第二百四十六夜【0246】2001年3月9日
Seigow's Book OS /
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| オバタリアンはこれが好き・オバタリアンはこれがきらい「1巻-023」より |
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| これがオバタリアンだ!「1巻-164」より |
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オバタリアンは電話が鳴ると、電話機に近づきながらハイハイとえらそうな声を出す‥。オバタリアンは相手次第で知ったかぶりと知らんぷりを交互に連発する‥。オバタリアンはどんな先生であれ先生という人種には必ず擦り寄る‥。オバタリアンはパジャマで運転できる‥。オバタリアンはいつも不利になると市民の権利を乱用する‥。オバタリアンは夜中に洗濯機をまわす‥。
この手のオバタリアンの“実態分析”を「別冊フリテンくん」の連載で次々に見せられたとき、ぼくはうーんと唸った。かつて上野千鶴子が『セクシィ・ギャルの大研究』で衝撃的にデビューしたときの感服に近いものがあったからだ。それとともに、こうした社会現象を揶揄しながら、ろくな分析などしないのに分析以上のメッセージを放射するマンガの加速力をうらめしくおもった。
ついでに告白すると、当時、ぼくは新幹線に乗る前には必ず「別冊フリテンくん」あるいは「かりあげくん」を買っていた。ちなみに最近は新幹線に乗るときのキオスク買い物は新聞とお茶のペットボトルとジャガリコだけになっている。
さて、堀田かつひこが労せずしてカリカチュアライズしてみせた“醜いおばさん像”は、その後、ばばシャツやユニクロの波及とともに全国的動向として日本中にあからさまになっていった。
中年女性のすべてがオバタリアンになってしまったのである。それだけではなかった。オバタリアンは“醜い日本人像”をも侵食していって、日本中がオバタリアンになってしまったのだ。
たとえば、「オバタリアンは3人でタクシーに乗るときも一人が助手席に乗って後ろを向いて喋る」「オバタリアンは入浴剤を変えすぎる」「オバタリアンはどんな粗品でもすぐに手を出したがる」といった4コマが示す“原則”は、いまやどんな日本人にもあてはまる。もはやオバタリアンはオバタリアン・ウィルスとなったかのようなのだ。
これが返りみれば1990年代だった。80年代の後半に登場したオバタリアンは90年代を席巻しつづけた。そういうことになる。で、それでどういうことがおこったかというと、コギャルがこれを受け継いだ。オバタリアンはコギャルの年齢にまで拡張されたのだ。むろん、こんな現象についていけない者たちもいた。そのかわり、かれらは外出を恐れるヒッキーになっていった。
本書が単行本になったとき、カバー表4に「オバタリアン症候群とは何か」というお触れが出た。それによると、「ずうずうしくなれる自分が嬉しい」「羞恥心がなくなっていくことと自信がつくことの区別がつかない」「なんであれ自分を正当化しつづける」がオバタリアン症状の3原則だということらしい。
またまた、うーんと唸った。いまや日本中がこんな奴ばっかりではないか。
日本人はいつごろオバタリアンになったのか。少なくともぼくの少年時代の“伯母さん”たちはそういう人たちではなかった。どこか慎ましく、かつ静かに勇気を発揮した。オヤジたちもおばさんではなかった。いまや中年男の大半がおばさん化しつつある。いったい何がおこったのか。
ネオテニー(幼形成熟)ではあるまい。ネオテニーならまだしもよかったのだ。おやじの去勢化がオバタリアンを助長させたという説もあるが、これは男たちのおばさん化を多少とも説明することにはなっても、1億総勢オバタリアン化の説明にはならない。なぜならオバタリアンはまずもって主婦であるからだ。イヴァン・イリイチのシャドウ・ワーク論は、その本質がつっこまれないうちに、主婦の怪物化をおこしてしまったのである。
おそらくは日本資本主義的な消費文化のとてつもない大驀進が奥の原因にある。オバタリアンは消費のための進軍をすべての街角とロードサイドと昼のホテルで始めたのだから、消費なきところにオバタリアンは出現しなかったはずなのだ。
子供との関係も奥の原因になっている。オバタリアンは子供を育てていたはずで、その子供との関係の軛(くびき)がどこかで外れたから暴走を始めたのであろう。そうだとすれば、子供の社会に母親の暴走をくいとめる謎がなくなったということか。また、一説にはフェミニズムと環境保護主義がオバタリアンの温床をつくったということらしいが、これはフェミニズム思想や環境思想を知らなすぎる誹謗というものだろう。
そのほか、ごくふつうに予測がつくのは、家庭にとどまる魅力がなくなったということで、そうであるならオバタリアン爆発ということは、一方で家庭における細部が摩滅したことを物語る。
しかし、どうもこれらだけではなさそうだ。そこで、結局は「男たちがだらしないからだ」ということで説明をはしょる論法が多くなっていくのだが、これではオバタリアンの圧倒的勝利が謳われるだけで、やはり話にならない。
実はひとつ決定的に欠けていることがある。それは誰もがオバタリアンを攻撃しないということだ。
漠然とオバタリアン現象をおもしろがっているだけで、誰もがオバタリアンとの対決を避けてきた。むろんオバタリアンと対峙したところで、おもしろいはずはない。疲れるだけだろう。けれども、この対決を避けているかぎり、そのうち誰もがオバタリアンになっていく。オバタリアン攻撃は誰しもの内なるオバタリアン攻撃なのである。
オバタリアンとは「ずうずうしくもつねに自分を正当化する没羞恥者たちの群」ということである。もし、ここにオバタリアンの特徴が暴露されているというなら、実は答えはかんたんなのだ。それは、オバタリアンを孤立させること、それである。ちがうか。
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