第百九十八夜【0198】2000年12月25日
Seigow's Book OS / WEAR |
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いとうせいこう・みうらじゅん
『見仏記』1・2・3
1993 中央公論社・1997 角川文庫
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仕立てが楽な服なのに、これは傑作だとおもえるカジュアルウェアにときどき出会うことがある。しかも自分で着ていなくても、他人に似合っていれば、その感じがつかめる。この本はその口だ。ぞんぶんに楽しめる。しかも考えさせる。なのに肩が凝らないし、それでいてギョッとする。
「中央公論」の連載中、たまに読んでいたときは、そうは思わなかった。堅い大理石の総合雑誌という神殿の一隅で、手描きのパネルでお土産を売っているような感じがあった。それが単行本になって俄然光りだした。やはり本には揃ってなんぼ、続いてなんぼという内的連続構造感がある。
仕掛けはみうらじゅんに導かれていとうせいこうが各地の仏像を訪ねる、いや「仏像に尋ねる」というもので、その“見仏道中”を、みうらがイラストエッセイに、いとうが詳しい見聞記にする。それだけである。
が、これがなかなか見ごたえ読みごたえがある。そもそもみうらが京都出身で、小学生のころから仏像大好きで、コツコツと寺のパンフレットを切り張りスクラップして、丹念な解説までつけていたという奥深い背景がある。ようするにみうらは見仏のプロ。それに対していとうは見仏のアマと自称しているが、言葉の魔術の大半を心得ている作家であって、かつヒップホップを即興できるパフォーマー。とくに事態と動向の大筋と細部の関係を瞬時にはかり、これを会話にしたり文章にする天才である。
この二人が組んだ。絶妙のコンビだし、その絶妙が霊妙な仏像だけを相手にして画文を分担するというダブルな対同性が、この本の特徴になっている。なにしろ出てくるのは仏像ばかりなのである。それなのに、話題はとどまるところを知らない。しかもいとうのエッセイは、みうらが仏像を前にして現場で喋ったり考えこんだりしている姿をどんどん実況放送して、ルポにもしているため、読者はいとうの目でみうらじゅんとともに仏像に擦り寄っている気がするようになっている。
『見仏記』巻1は、興福寺・東大寺・法隆寺の奈良に始まり、京都・九州・東北を見仏する。そのいずれもが寺へのアプローチの場面、仏像の前にたたずむショット、仏像から大胆にそれていく会話報告、別れのシーンなどで構成されている。そして、ときおり「仏像にわびさびを入れてはならないよね」「東北は伝来嫌いである」「中尊寺にはアバが似合うなあ」「浄瑠璃寺の九体阿弥陀はロイヤルストレートフラッシュだ」「小谷寺の如意輪観音からはロリータのフェロモンが出ている」といった、寸鉄が豆腐を突き刺すような感想がまじる。ときに羅漢がジャック・ラカンに飛び火する。
巻2は「仏友篇」というもので、滋賀から四国遍路に踏みこみ、さらに北越・佐渡にまで脚をのばしている。いとうは湛慶の毘沙門天を見てロックバンドこそがこの仏像ファッションを見習うべきだと確信したり、三頭身の大黒天に「コミカルな表現や省略された表現こそが魔術性に富んでいる」という発見をしたりする。みうらは大日如来のムドラーが最も気分が落ち着くことを確認するかとおもえば、四天王に踏みつけられた天邪鬼の被虐に官能してしまう。
二人が佐渡の荒れはてた慶宮寺で悲しくなって、つい中尊のために堂内に外光を入れ、おもわずめったにしない合掌をする場面など、『見仏記』もいよいよ佳境にはいったことをおもわせた。
巻3は一躍雄飛する。韓国・中国・タイ・インドにおよぶ「海外篇」なのである。内容はますます濃くなっていき、たとえば多くの韓国仏像が金ピカに作り直されているのを見て、なぜ日本では仏像が荒んでいってもお色直しをしないのかを考える。
いとうの仮説は、日本には仏像が外からやってきたものだという観念があるのではないか、韓国には「外部性」の観念がないのではないかというものである。これはけっこう当たっている。日本人にはもともと仏像は蕃神であり、外来神だった。つまり客なるイコンというものなのだ。それが朝鮮半島ではどんどん身近なものに接近していった。
しかし、古代はどうかというと、やっぱり海東の仏像はおそろしいほどに洗練されていた。みうら・いとうの御両人はとくにその完成度を扶余の博物館の中で見る。弥勒像である。
この現地のミームにひそんで多くを語ろうとはしない仏像民俗が醸し出すケミストリーは、タイのワット・シーチュムでさらに純化する。みうらは大仏に見下ろされて異様に興奮し、「かっこいい」「すっげえ」を連発しつづけ、ワット・プラシータナ・マハタートでは、ついに静寂の只中で仏像たちの音楽を聞く。
こうして二人はついに憧れのインドに上陸し、精神の沸騰がいやがうえにも増してくる。そして二人は結論をくだしたものだった。みうらは「インドの人はぶっちぎったね、文明」と言った。いとうが応える、「進みすぎたのかもね。それで現代に向かなくなった」。
ともかくここまで一気に読ませてくれる。仏像に関するベンキョー話はほとんど書いていないようなのに、既存の知識にとらわれない“見法”のようなものが生きていて、かえって仏像が動き出すかのようなのだ。たいした仕事であった。
そして、ラストシーン。みうらじゅんが帰りの飛行機で蘇生した。「涅槃像、今になってぐっと来てるんだ」と言いだした。そして、続けた、「俺、ギャグで感動止めてるだけでさ、あふれんばかりの‥‥ほんとは号泣だよ」「あそこで釈迦の手、握ればよかったって、俺、悔やんでるんだよ。だって釈迦の死に目じゃん?」。
旅の終わりの終わりで、みうらは「おじいさんの死」を語り、自分の手を握った感触の蘇生を物語る。いとうはクシナガラのパンフレットを黙って取り出して、その一文を指し示す。そこには「祖父を看取る手のようだ」という言葉が印刷されている。いとうは何か言うと大事なものが消え失せてしまうような気がして、「わかったんだよ」と言っただけだったようである。
『見仏記』全3巻、まことに饒舌、まことにすがすがしい。いやいや、これはまだ続編もあるらしい。御両人、悟りなんぞも奢りなんぞも、ゆめ開かぬように。
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