第百五十三夜【0153】2000年10月19日
Seigow's Book OS /
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ギュンター・グラス
『ブリキの太鼓』
1968 集英社
Gunter Grass : Die Blechtrommel 1959
高木研一 訳 |
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集英社版世界文学全集。60年代後半を鮮やかに飾ったこの文学全集はぼくの世代の快挙であった。
20世紀の文学作品だけで飾ったこの全集で、ぼくはヘンリー・ミラーの『ネクサス』を、レオーノフの『泥棒』を、フォースターの『ハワーズ・エンド』を、ベケットの『モロイ』を、知った。いずれも本邦初訳であった。貪り読んだ。『泥棒』では吹雪のマーニカに惚れた。『ハワーズ・エンド』にはゲイ文学に原点というものがあることを告知された。
が、最もぼくを驚かせたのはギュンター・グラスの『ブリキの太鼓』だったのである。
2段組で532ページもあるこの作品を読みはじめて数分、誰も名前を知らなかったグラスがこの一作でドイツ文学のゲーテ以来の根本的伝統を蘇生させ、しかも誰も書きえなかった少年の屈折した魂と市街生活の光景を徹底して描きえたということは、すぐ伝わってきた。これはすごい、これはすごいと思いながら、ぞくぞくしながら読んだものだった。読みおわって、当時、編集をしていた「ザ・ハイスクールライフ」というタブロイド新聞に、すぐに書評を書いたことが懐かしい。
『ブリキの太鼓』の主題は何か。誰もそのことを批評していないようだが、これははっきりしている。「壊れやすさ」「傷つきやすさ」というものである。フラジリティである。
グラス自身がしばしば作品の中で「こわれやすい美」という言葉をつかっている。しかし、そのフラジリティは都市や部屋や事物の細部で色彩をこめ、匂いを放ち、内側に向かっている。ここがグラスのものすごさである。それは大半が「狭さ」というものをもっている。しかも二重化され、玩具化されている。
それは、むろん主人公オスカルが打ち続けているブリキの太鼓に象徴されている。オスカルは3歳のときに地下室の階段から落ちて成長が止まった絶対少年であり、かつまた30歳まで生き続けた絶対大人でもある。グラスはその主人公にまつわる詳密で猥雑な出来事をあらわすにあたって、「ぼく」と「オスカル」という二重主語を駆使することにした。このアイディアが功を奏した。読者はその二重主語の告白によってまんまとグラスの術中に嵌まっていく。ぼくが読みはじめて5分で嵌まったのも、そのせいだ。
もうひとつ、グラスが仕掛けたのは「匂い」と「スカートの中」という感覚装置である。これも完璧だった。
匂いを多様する作家は多い。マルセル・プルーストもフェルディナンド・セリーヌも香りや悪臭を利用する。有臭作家と無臭作家と大別できるほどに、ヨーロッパの文学は匂いを使ってきた。けれどもグラスの匂いはぎりぎりになって現れる。そしていったん現れたら、その匂いがこびりつく。その文章上のタイミングが重い。そこがこの作品を重厚にした。
スカートはこの作品では「抉られた小劇場」である。そもそもオスカルの祖母が4枚のスカートを穿いているのが、読者を分厚いスカートの中に世界があることを暗示した。そのため、読者は作品に女が出てくるたびにスカートを想うことになる。加えて、オスカルたちは「スカート」とよばれるトランプゲームを頻繁にやる。それなのにスカートの中の女の描写はまったく現れない。
このスカートだけが存在するという感覚は、オスカルの意識を追う使命をもたざるをえない読者に異常な効果をもたらした。
ダンツィヒという町を舞台にしたのも成功した。この物語はナチス台頭の1930年代の、グラスの言葉によれば「涙のない世紀」におかれているのだが、その、燻っていて、矛盾に満ちた時代のきしみがダンツィヒの町の細部の意匠によって全面的にうけとめられている。
客観的に町の描写をしている箇所はない。不具者オスカルが目にした町のごく一部分だけが露出する。それがダンツィヒを時代の影にする。その計算が徹底してうまいのである。町をこのように使うのも小説では珍しくないことだが、グラスのダンツィヒは不具の町として心に残るものになっている。
しかし、このような指摘は『ブリキの太鼓』の特質のほんの表面的なことなのである。
この作品がドイツ現代文学の頂上を極めるのは、この作品の全体性と部分性の質量の配分が、かつてドイツ文学がゲーテからマンにいたる流れのなかで到達した密度をめざしたということにある。なぜ、こんなことをグラスはやってのけられたのか。
残念ながら、ぼくにはグラスの奥に蠢く底意地のようなものは、わからない。おそらくはドイツ文学の中にひそむ森のようなものがぼくの意識の奥で掴めていないからだろう。ぼくには伊勢物語や曾根崎心中や三四郎が示した日本文学の意味は分かっても、そのへんのドイツの意識はかんじんのところが掴めない。
グラス自身は、『ブリキの太鼓』がたった一夜でセンセーションをおこしたあとのインタビューに答えて、この作品の背後にある蠢きが、グリンメルスハウゼンの『阿呆物語』やゲーテの『ウィルヘルム・マイスター』やケラーの『緑のハインリッヒ』と同質のものであることを否定しなかった。ぼくも当時はそのインタビュー記事でだいたいのことは了解できたのだが、やはりそれ以上ではなかった。それに、それ以上のことを掴むには、『ブリキの太鼓』をもう一度読む必要がある。それは今回はしていない。
われわれは、同じく第二次世界大戦をおこしたドイツと日本でありながら、その体験における決定的な差異というものを感じているはずである。きっとギュンター・グラスを理解するには、この差異にまで深入りすることが要請されるにちがいない。ギュンター・グラスやペーター・ヴァイスを読むということは、そういうことなのである。
参考¶グラスの『ブリキの太鼓』は1979年にフォルカー・シュレンドルフによって映画化された。たいへんよくできている。カンヌのグランプリも取った。ぼくは3度見て、3度とも泣き、3度とも腰が抜け、3度とも深い反省をした。なぜ反省したくなるのかは、はっきりしない。なお、グラスはその後も『みじめな年月』『ひらめ』などの奇妙な味の作品を書いている
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