第百三十二夜【0132】2000年9月19日
Seigow's Book OS /
PIER |
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ノヴァーリス
『青い花』
1929
岩波文庫・1949 角川文庫・1983 国書刊行会 他
Novalis : Heinrich
von Ofterdingen 1799-1801
薗田宗人・今泉文子 訳 |
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読書というものには偶然が関与する。夜中に街を歩いていて、ふと見上げた星々の何に目をとめたかという偶然だ。いつ、どこで、どんな本に出会ったか。そのなかには、一連の星座をかたどる本のうちの一冊に出会うような偶然もある。
たとえばドイツ・ロマン派にいつ出会えたか。これはその後の読書海図のひとつの運を決めている。彷徨する海上でどんな星に出会えたかということに近い。その星も、ゲーテでは大きすぎるし、ヘルダーリンではあまりに微に入りすぎている。
ホフマンかノヴァーリスか、あるいはジャン・パウルかティークか。これらは北斗七星やオリオン座といった星座である。一度、目についたら全天はこの星座から始まっていく。ちょっと冬めく書籍の夜陰なら、アルニムかブレンターノというところ、これはさしずめスバルや猟犬座であろう。運がよければ最初からシュレーゲル兄弟という連星に出会うということもある。
ドイツ・ロマン派に出会うこと、それは、読書においてどのように「夜の思想」に出会えたかということであり、どのように「夢」と「電気」と「彗星」を同時の刻限に観相できたかということを物語る。その同一刻限に見るロマン派の光景というものは、出会ってみなければ決してわからない結晶的な雰囲気というものを伝える。
ぼくにはそれがノヴァーリスの『青い花』からだった。
当時、というのは高校3年のころのことだが、読む前からこんなに読むことを憧れていた作品はなかった。読む直前にすでに胸がはちきれていたといってよい。
ノヴァーリスという作家がいること、父親はハルデンベルク男爵でザクセン製塩所の長官であったこと、そのノヴァーリスが『青い花』というドイツ浪漫派を代表する魔法のような、この世のものともつかない作品を書いたこと、原題は「ハインリッヒ・フォン・オフターディンゲン」という主人公の青年の名であること、ノヴァーリスには14歳で婚約したゾフィーという少女がいたこと、そのゾフィーはすぐ重病に罹って死んでしまったこと、ノヴァーリスもまたわずか29歳で死んでしまったこと。
そういうことを下を向きながらまるで秘密をあかすかのようにぼくに教えてくれたのは、四谷の予備校で知りあった橋本の綱ちゃんだった。
彼女はノヴァーリスだけではなく、海老を紐に結わえて散歩させていたネルヴァルのことや、いくつものシャンソンや、アーデンに旅をしたランボーのことなども、小さな声で教えてくれた。そんなことを知っている女学生がいることは驚嘆のかぎりではあったが、何も知らなかったぼくには、そのことが驚嘆すべきことであることも、わからなかった。そうした秘密の作家たちの菫色の事情の数々を告げてくれた彼女は、いま大学でフランス語を教えている。
それから『青い花』がずうっと憧れだったのである。けれども、それに出会ったのは大学2年のときだった。
だからこれをを最初に読んだときは、あまりに気分が高揚しすぎていて、まるで夢遊病患者のようだった。浮き浮きしすぎて、話にならなかったのである。
そのときの印象をまずは書いておく。岩波文庫の小牧健夫訳だった(その後、斎藤久雄訳も読んだが、ここでは都合により国書刊行会のドイツ・ロマン派全集「ノヴァーリス」に入っている薗田宗人訳をとりあげておいた。英訳も手にしてみたが、これはハインリッヒがヘンリーになっていて、とうていノヴァーリスのものには思えなかった)。
ようするに夢なのだ。「まどろみ」の中の逆旅(げきりょ)なのである。暗い森を抜けていけば出会える幻想の象徴があるとしたら、それが青い花なのである。
読みはじめてすぐに自分がハインリッヒ・フォン・オフターディンゲンになってしまっていた。読み方もおかしかった。ひたすら電気的で結晶的なフレーズを探して読んでいるようなもので、その言葉がどんな前後の脈絡をもっているかということなど、まったく意に介していなかった。ひたすらに見知らぬ夢を、いちずに見果てぬ夢を見られれば、それでよかったのである。
作品のどこからどこまでが夢で、どこが地の描写かということもはっきりしないまま読んだ。なにしろ父といい、商人といい、老人といい、ハインリッヒといい、登場人物がみんな夢の話をするのだから、それも長い夢の話ばかりがひしめいているので、まるで幻覚剤をのんだまま映画を見ているようなのである。
ノヴァーリスがそうした夢と現実の境界に、ほとんど溝を引かなかったということもある。ノヴァーリスはどこが出来事で、どこが夢であるかなどということを分別などしたくなかったのである。それがノヴァーリスのやりかたであり、ぼくはそのノヴァーリスに園丁のごとくに従った。
そうした夢の話のなかでは、クリングスオールの物語が圧巻だった。とくに神のような婦人がギニスタンに渡された紙片をうけとるたびに、それを水に浸し、それを引きあげるたびに文字が消え残っていくというくだりにさしかかってからは、たいへんだった。ファーベルの所作のひとつひとつがただならない。
ともかくも、ざっとそんなふうに夢の中の住人のように読んできたものだから、『青い花』が第2部「実現」の半ば、霊感と寓話が重なって鉱物世界の円頂である天界からの啓示をうけようというまさにそのとき、ぷっつりと未完におわってしまったことが信じられなかった。ぼくは橋本の綱ちゃんに、『青い花』が未完の物語であることを聞いていなかったのだ。
さて、いったんノヴァーリスに出会ったということは、ヘッセの『車輪の下』や漱石の『三四郎』を読んでヘッセや漱石をつづけて読みたくなるというような、そんな生易しい冒険ですませられる後日談を用意してくれはしない。
ノヴァーリスは、いったんその輝きに出会ったら、もはや忘れることのできない星座のひとつの星なのである。
まずはノヴァーリスの只中に入リ、『日記』『断片』『ザイスの学徒』を読み耽る。これでノヴァーリスとハインリッヒがぴったり重なると、次はノヴァーリスを生んだ時代の哲学に入っていく。ここで天界の旅をおえられればまだ軽症である。が、とうていそんな程度ではおわらない。
ぼくもそうであったのだけれど、ようするにアルベール・ベガンがのちに解説した「ロマン的魂と夢」という世界の中へ、すなわちリヒテンベルクにおける「内気な神秘主義と虚無の関係」に始まって、ティークのセレーネ幻想とアルニムの北極星の鏡をへて、ホフマンの悪魔の霊液によって砂男になりきってしまうというような、そういうドイツ・ロマン派的遍歴を通過しつづける巡礼者になるしかなくなってくるわけなのだ。
しかし、それがなんとも快楽なのである。ディシプリンなのである。ドイツ・ロマン派との密約とはそういうものである。ただし、以上の最初の熱病によってホフマンやティークやノヴァーリスの何かが“理解”できたかというと、そういうことはない。ただただドイツ・ロマン派の宇宙ウィルスによる天の麻疹(はしか)に罹ったというだけなのである。
ノヴァーリスだけについての特別な熱病もある。ノヴァーリス・ウィルスというものだ。
英語圏で最初にこの麻疹に罹ったのはトマス・カーライルであった。カーライルはノヴァーリスを“ドイツのダンテ”というよりも“ドイツのパスカル”と呼びたいと書いて、とりわけ『ザイスの学徒』の数学的神秘を漂わせる哲学に酔った。『ザイスの学徒』はぼくが『遊』の時代にいちばん傾注した作品である。
ハインリッヒ・ハイネにあっては、ノヴァーリスはどんな生命をも鉱物的結晶にしてしまうアラビアの魔術師である。『青い花』については、この作品で出会うすべての登場人物が、ずっと以前から一緒に暮らしたことがあるように思えてくる不思議について、しきりに感心してみせた。
メーテルリンクはノヴァーリスを精神の究極の表現者と名付け、ニーチェは「経験や本能にひそむ聖なるものはノヴァーリスによって発見された」と見た。ふだんは口うるさい連中もこぞって熱病に罹っていった。たとえばゲオルグ・ルカーチは「ノヴァーリスだけがドイツ・ロマン派の唯一の、そして正真正銘の詩人である」と絶賛し、ヴァルター・ベンヤミンは「精神的形象における観察の理論の樹立者」とさえ呼んだ。そんななか、ノヴァーリスに最大の心理学的実相のすべてを見出そうとしたのはディルタイである。ディルタイは「ノヴァーリスの自然は世界心情そのものである」と結論づけた。
ところでノヴァーリスの『青い花』を読んだ者は、たいたいが未完におわった第2部「実現」を空想したくなる。その作業に最初にとりくんだのは同時代人のフリードリッヒ・ティークだが、以来、多くの文学者が第2部の構想を予想した。
ぼくにもいまやだいたいの見当はつく。ハインリッヒ・フォン・オフターディンゲンは戦火のイタリアにおもむき、戦場の先頭にたち、そこで名も知らぬ皇帝の息子と出会ってギリシアに旅をするはずなのだ。しかし、のちのネルヴァル同様に「東方への憧れ」こそ癒しがたく、ハインリッヒは東方の知に向かい、エルサレムの神秘とペルシアの童話とバラモンの少女に「青い花」を求めてひたむきになるにちがいない。
そしてハインリッヒは帰還する。ハインリッヒはオデュッセウスなのである。ただし、ドイツのオデュッセウスであった。そしてマティルデの死に出会う。ファーベルと電気石とがその驚きを伝えたはずだった。悲しみにくれるハインリッヒはさまようが、ここでハインリッヒに一冊の古文書が渡される。これを渡したのはおそらくは皇帝である。
そこには「青い花」に関する最後の謎が書いてある。その場所は果てしない場所である。そこへ行くには長い旅が必要となる。そこは地上の植物も鉱物も見られない国である。しかしながら、そここそが「青い花」の国なのだ。
ハインリッヒはここで「青い花」を摘み、マティルデの呪縛を解くことになるだろう。あらゆる石が歌をうたい、木々が古代文字になる。マティルデは蘇り、ハインリッヒは天界に詩を読んでいく。その詩こそ、かつてハインリッヒが見知らぬ男から最初に聞いた夢の中の「青い花」なのである。
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