八十三夜【00832000年7月3日

Seigow's Book OS / CORE
マーティン・ガードナー
『自然界における左と右』
1971 紀伊國屋書店
Martin Gardner : The Ambidextrous Universe Left,Right,and The Fall of Parity 1964
坪井忠二・小島弘 訳

[表紙]『自然界における左と右』
© 紀伊國屋書店

Amazon
オンライン書店 bk1
 
 1957年は物理学の事情が一変した年にあたる。リーとヤンとがベータ崩壊の研究のあげく、「パリティが保存しない」ということを発表したからである。
 このことを知ったときから、ぼくは一種のパリティ・ハイともいうべき意識状態になってしまい、まだ物理学の常識さえ知らぬころから、パリティに関する記事だけは追うようになっていた。
 もともとパリティは数学者が偶数と奇数を扱うときにつかっていた言葉であった。考え方だった。次のような事情がおこっているときに、パリティという言葉がつかわれていた。二つの整数が両方とも偶数か、両方とも奇数であれば、その二つの整数は同じパリティをもつといい、一方が偶数で、他方が奇数ならばこのあいだのパリティは反対になる。

 これをもうすこし拡張すると、パリティが保存されるような現象の進み方と、そうではない進み方があるという例にお目にかかれる。
 たとえば10円銅貨をオモテにして3枚並べ、これをどんな順序でもよいから1つずつ裏返しにしていくとすると、これを偶数回くりかえしているかぎりは、その結果のパターンは最初のパターンを必ず含むものとなる。このとき「パリティは保存された」と考える。逆に、奇数回ばかり裏返していると、最初のパリティと最後のパリティはさかさまになる。このとき「パリティは壊れた」という。
 ぼくはこのことに異常に興奮してしまったのである。ここには、ある現象を左右反対に映し出す“現象上の鏡像関係”とでもいうべきものがひそんでいて、その“関係”こそが自然界の秘密と、われわれがそれを観察しているときの“見方の関係”というものの秘密とが、同時に隠されているとおもえたのである。

 リーとヤンによるベータ崩壊に関する実験は、「パリティは壊れた」というものである。
 このことが何を意味しているかは、にわかに認識することは難しい。そこで、このメッセージを「宇宙には鏡像関係が成立しない現象がある」というふうに読みかえてみると、とたんに不思議な気がしてくる。鏡に写しても左右が入れ替わらない現象が、どこかにあるということになる。
 もっと簡単にいえば、宇宙のどこかに文明人がいたとして、そこにむけて地球から一枚の絵を送っても、その絵のどこが上下で、どこが左右かがわからない可能性があるということになる。10円銅貨の話が伝わらないことになりかねない。

 なぜ、こんなことが重要かというと、物質はどこかでつながってつくられているからである。
 酸素と窒素のちがいは、物質にひそむ“手”のつながりかたによって決まっていく。鉄と銀とのちがいは“手”のつなぎかたのちがいである。例の亀の子の形からいろいろな“手”が出ている分子構造や化学式は、そのことを示している。
 この“手”の奥にあるものをずっと追求していくと、そこには“手”の究極をつくっている何かがあるにちがいない。それは電子や陽子のレベルの、つまりは素粒子やそれ以下の現象のレベルでおこっているもともとの“ルール”のところで、何かが決まっているということになる。そうでなければ、何によって手を結ぶか、結ばないかが、わからない。
 そのように考えていくと、物質の動向の究極には手を結ぶか結ばないかという問題に関するもともとのそのまたもとの“ルール”があるはずだということになる。それはいいかえれば、左右の手を結ぶ問題とは、何かということになる。そして、それがはっきりしないかぎり、宇宙の文明人は、地球から送られてきたメッセージの左右について、最終的な結論が出せないはずだということになる。
 これがパリティ問題である。
 ひらたくいえば、勝手の問題である。左勝手とか右勝手とかという、あの勝手だ。つまりパリティ問題とは、「物質における最終的な勝手の問題」ということになるだろう。
 ところがリーとヤンの実験は、その物質の究極の勝手の動向のところで、パリティ(すなわち勝手)は壊れているかもしれないと言い出したのだった。いったい、これは何を意味しているのか。では、物質はいったいどこのレベルで左右を決めているのか。ぼくは気になって気になってしょうがなかったのだ。

 しかし、こうしたパリティの問題を納得のいく方法で描いている本はなかった。詳細は数式をつかって説明される以外はなかった。
 そこで当時は、ヘルマン・ワイルのようなすぐれた数学者によるシンメトリー論のようなものばかりが、ぼくの読書の対象になっていた。ワイルにはそうとうにお世話になったものだ。けれども、それで合同や相似のしくみはわかっても、パリティの問題は解けなかった。
 そのときに登場してきたのが、この『自然界における左と右』なのだ。著者は「サイエンティフィック・アメリカン」の数学部門の編集長である。のちにぼくはこの人に会いに行くのだが、当時は、なんとすばらしい思考と表現ができるものなのか、まったくうっとりするような気分になれた。
 科学者や数学者で、このような表現ができるのは、たいそう珍しい。専門分野をつかいながらも、その本質的な問題を拡張しつづけて、しかも本質的な問題の根本をはずさない。ジョージ・ガモフ以来の手際なのである。
 しかもガードナーは、この問題を、「鏡で左右が入れ替わるのはなぜか」という、誰もが知っていながらちゃんと答えられない問題から始めている。そして、その疑問をたくみに解きながら、自然界におけるあらゆる対称性の出現と保存のありかたについて、次々に問題を投げかけ、これに明瞭な説明を加えていった。
 信じられない手際なのだ。

 こうして、ぼくはすっかりパリティの謎の内奥にひたることになる。
 そして、自然というものを科学的にとらえる思考方法の新しい訓練をうけたのである。その訓練は、ポアンカレやガモフやディラックやワイルからうけた訓練とは、またちがっていた。何というのか、そこには思考の自由に関する翼の広げ方のようなものがあった。
 おそらく、この本を精読したことが、その後のぼくの科学に対する見方を変えていったとおもう。それはちょうど『遊』を創刊する年にあたっていた。








 






 

RSSを表示する

 
松岡正剛の最新情報はこちら
いつでも見たい、松岡正剛
 

書名、または著者名からバックナンバーを検索できます

Web www.isis.ne.jp


千 夜 千 冊 BACK NUMBER

[目次]

1144

『海上の道』柳田国男

1143

『異装のセクシャリティ』石井達朗

1142

『日本人の自画像』加藤典洋

1141

『稲と鳥と太陽の道』萩原秀三郎

1140

『猿と女とサイボーグ』ダナ・ハラウェイ

1139

『カムイ伝』白土三平

1138

『江戸の枕絵師』林美一

1137

『ゲイ文化の主役たち』ポール・ラッセル

1136

『悪徳の栄え』マルキ・ド・サド

1135

『非常民の性民俗』赤松啓介

1134

『日本創業者列伝』加来耕三

1133

『市場の書』ゲルト・ハルダッハ&ユルゲン・シリング

1132

『女帝の手記』里中満智子

1131

『日本/権力構造の謎』上・下 カレル・ヴァン・ウォルフレン

1130

『多文明共存時代の農業』高谷好一

1129

『木村蒹葭堂のサロン』中村真一郎

1128

『江戸商売図絵』三谷一馬

1127

『性的差異のエチカ』リュス・イリガライ

1126

『インターネット資本論』スタン・デイビス&クリストファー・マイヤー

1125

『ボランティア』金子郁容

1124

『アヴァン・ポップ』ラリイ・マキャフリイ

1123

『笑いの経済学』木村政雄

1122

『ぼくの哲学』アンディ・ウォーホル

1121

『百物語』杉浦日向子

1120

『女性の深層』エーリッヒ・ノイマン

1119

『北条政子』永井路子

1118

『ネット・ポリティックス』土屋大洋

1117

『T.A.Z.』ハキム・ベイ

1116

『江戸の身体を開く』タイモン・スクリーチ

1115

『資本主義のハビトゥス』ピエール・ブルデュー

1114

『猫と小石とディアギレフ』福原義春

1113

『江戸の市場経済』岡崎哲二

1112

『田中清玄自伝』田中清玄・大須賀瑞夫

1111

『黒い花びら』村松友視

1110

『昭和という時代』鈴木治雄対談集

1109

『澄み透った闇』十文字美信

1108

『市場対国家』ダニエル・ヤーギン&ジョゼフ・スタニスロー

1107

『負ける建築』隈研吾

1106

『未来派』キャロライン・ティズダル&アンジェロ・ボッツォーラ

1105

『写真ノ話』荒木経惟

1104

『建築的思考のゆくえ』内藤廣

1103

『バイ・バイ・キップリング』ナム・ジュン・パイク

1102

『コンセプチュアル・アート』トニー・ゴドフリー

1101

『モダンデザイン批判』柏木博


各ナンバーをクリックすると、別ウィンドウで一覧が表示されます。
クリックするとランダムにバックナンバーが出現します。
電子の自由が選んだ一冊を、あなたに。




 
 
 

 ISIS

© Copyright Editorial Engineering Laboratory.
All rights Reserved.
│ ISIS編集学校 │ いと◎へん