五十五夜【00552000年5月23日

Seigow's Book OS / PIER
ヒュー・ロフティング
『ドリトル先生アフリカゆき』
1951 岩波少年文庫
Hugh Lofting : The Story Of Doctor Dolittle 1920
井伏鱒二
[表紙]『ドリトル先生アフリカゆき』
© 岩波書店
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ドリトル先生


先生の助手
ジップ

 

食いしん坊の
ガブガブ

 

はにかみやの
オシツオサレツ

 

チチ

 

 
 この本のことをおもうと、最初に京都河原町の志津屋で食べたシュークリームのほわほわとした幻想的な味を思い出すように、胸の奥がなつかしい。
 あまりになつかしくて、ぼくがどれほどドリトル先生の物語にいそいそしたか、とうていうまく説明できそうもないほどだ。
 そこで、このシリーズができた背景について書いておくことにする。

 ドリトル・シリーズは全部で12冊ある。だいたい似たようなファミリーが登場する。
 中心人物はイギリスの田舎バドルビーに住んで医者をしているジョン・ドリトル先生で、ある日、百歳をこえるオウムの「ポリネシア」からどんな動物にもちゃんとした言葉があるんだということを教えられ、勇躍、動物語の研究にいそしむ。
 動物語を話せるようになると、その噂を聞いて世界中からドリトル先生に病気をなおしてもらいに動物たちがやってくる。
 ところが、先生と一緒に住んでいた妹のサラは、動物ばかりに囲まれるのにうんざりして出ていってしまう。そこでメスのアヒルの「ダブダブ」が代わりの家政婦の役を買ってでる。フクロウの「トートー」は知恵があるので、先生の参謀役になる。犬の「ジップ」は先生の助手をつとめながら、ホームレスになった犬たちのホームをつくって管理人になる。
 このほかブタの「ガブガブ」は食いしん坊で愛嬌をふりまく役を、頭が長い胴体の前後についている「オシツオサレツ」は先生が疫病をなおしたアフリカのサルたちがお礼に送ってきた珍獣で、どういうわけかいつもはにかんでいる。
 こうした連中にかこまれながら、ドリトル先生は大冒険をしつづける。ともかく、動物語の研究はいくらでも奥が深いので、魚語や虫語にとりくむたびに、冒険が広がっていくのである。

 こういう愉快な設定を作者ができたのは、ロフティングがそもそもこのような物語を生み出すにいたった事情によっている。
 ロフティングはアイルランド系のイギリス人で、アメリカに渡ったのちはMITをへて土木技師や鉄道技師をしている。結婚後、第一次世界大戦がはじまるとアイルランド軍の将校として招集をうけ、フランダースに赴いた。このときロフティングの幼い二人の子供たちが戦地のお父さんの便りをほしがった。
 戦地では子供に聞かせる話はない。そこでロフティングは日頃感じていることをなんとか物語にして書くことにした。
 日頃感じていることというのは、戦争では兵隊ならばケガや病気をするとちゃんと扱われるのに、人や荷物を運ぶ馬などはケガをしたら捨てられる。ロフティングはこれはおかしい、馬にも同じような看護をしてやるべきだと思っていた。
 が、そのように馬を看護してやるには、人間が馬の気持ちを察する必要がある。それには馬語も話せるようにならなければならない。
 そのようなことを夢見ていたロフティングは、これをふくらませた話を子供たちへの便りにして、お父さんの戦地での夢物語を伝えてあげようと考えた。ついでに絵も入れた。

 子供たちはロフティングの話にとびついた。
 おまけにロフティングが負傷してアイルランドに送還され、家族がふたたび顔をあわせるようになってからというものは、子供たちは毎晩この話のつづきをせがむようになった。
 こうしてロフティングのドリトル先生が誕生していった。知り合いはこの話を聞いて出版を勧めた。その本が『ドリトル先生アフリカゆき』である。

 その後、ドリトル・シリーズは大当たりする。
 ロフティングは次々に趣向を変えてドリトル先生に冒険をさせた。2作目はクモサル島を探検する『ドリトル先生航海記』、3作目は黒人国の郵便局長になる『ドリトル先生の郵便局』、4作目は『ドリトル先生のサーカス』で、いろいろ動物助けや人助けばかりしている先生が貧乏になってサーカス団に入るのだが、やがて自分でサーカス団を結成するという話になっている。
 ぼくがいちばん熱中したのは『ドリトル先生と月からの使い』とその続篇の『ドリトル先生月へゆく』『ドリトル先生月から帰る』だったろうか。
 これは先生が、格別に複雑なしかけの聴音器というものをつくって、ガチョウ・アリ・ハチ・トンボのたてる音を研究しているうちに、ある夜、巨大なガが訪ねてケガをなおすことになる。
 どうも変なガだとおもってあれこれ研究してみると、そのガは月からやってきていたらしいということがわかる。そこで先生はガの背中に乗って月に行く計画をたてるという話である。ぼくの月狂いを準備したファンタジーだった。
 この巨大ガは「ジャマロ・バンブルリリイ」という名前をもっている。ぼくはこの名前のリズムが好きで、何度も口にしたものだった。

 ところで、本書は井伏鱒二が訳している。
 それどころか、ドリトル・シリーズの大半が井伏鱒二訳になっている。なぜ、そうなったのか、その背景にすこしだけふれておく。
 そこには一人の女性の乾坤一擲があった。『ノンちゃん雲にのる』の石井桃子の乾坤一擲だ
 昭和15年のこと、石井桃子は文芸春秋社をやめた退職金で白林少年館をつくり、当時の暗い世相を打ち破る少年少女むきの出版に単身でのりだした。その第1弾が本書であった。石井は翻訳(下訳)を自分でやり、そのブラッシュアップを、当時、近所に住んでいる井伏鱒二に頼んだ。
 井伏のブラッシュアップはすばらしいものだった。翻訳というより、ほとんど日本語の文章をこしらえた。たとえば、ドリトルもふつうに訳せばドゥーリトゥルで、あえて訳せば「薮博士」というところだが、それを日本の子供の発音でも親しめるドリトル先生にした。そのほか「オシツオサレツ」「アベコベ」などの動物たちの名前や冒険先の国の名前にも工夫を凝らした。
 ところが出版されたのはこれ1冊きりで、時代はどんどん戦火のほうへ巻きこまれていった。
 戦後、石井はふたたび決断をして、岩波書店にドリトル先生シリーズを出させる約束をとりつける。井伏にも翻訳をひきうけさせた。岩波もこれに応えて全12巻の刊行をひきうけた。
 ちなみに石井は、さらに独力で「かつら文庫」という貸本型の児童図書館をつくっているが、そこで最も読まれたのはドリトル先生シリーズだっという。子供たちは一冊読んだらやめられなくて、途中で放棄する子供は一人もいなかったともいう。
 そんな背景があったのである。

 さて残念なことに、アメリカでドリトル・シリーズを出してきたリッピンコット社では、いま『アフリカゆき』と『航海記』の、たった2冊だけしか出ていない。
 これは、本シリーズには黒人問題をはじめとする差別問題にかかわる部分が少なくないという理由によっている。アメリカらしいことだ。ただし、イギリスでは全巻が刊行されている。日本でいえば、アメリカからのクレームによる「ちびくろサンボ」や「ダッコちゃん」の禁止にあたる例なのだが、はたしてこのような問題をすべて差別問題にしてしまってよいのか、いささか複雑な心境になる。ドリトル先生にはやはり月まで行ってほしいのである。



参考¶ドリトル先生のシリーズはすべて岩波少年文庫で読める。上にのべたように、翻訳はすばらしい。ルビも多いので子供にもおおいに勧めてほしい。なお、ぼくの月狂いについては『ルナティックス』(作品社)を読まれたい。







 






 

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千 夜 千 冊 BACK NUMBER

[目次]

1144

『海上の道』柳田国男

1143

『異装のセクシャリティ』石井達朗

1142

『日本人の自画像』加藤典洋

1141

『稲と鳥と太陽の道』萩原秀三郎

1140

『猿と女とサイボーグ』ダナ・ハラウェイ

1139

『カムイ伝』白土三平

1138

『江戸の枕絵師』林美一

1137

『ゲイ文化の主役たち』ポール・ラッセル

1136

『悪徳の栄え』マルキ・ド・サド

1135

『非常民の性民俗』赤松啓介

1134

『日本創業者列伝』加来耕三

1133

『市場の書』ゲルト・ハルダッハ&ユルゲン・シリング

1132

『女帝の手記』里中満智子

1131

『日本/権力構造の謎』上・下 カレル・ヴァン・ウォルフレン

1130

『多文明共存時代の農業』高谷好一

1129

『木村蒹葭堂のサロン』中村真一郎

1128

『江戸商売図絵』三谷一馬

1127

『性的差異のエチカ』リュス・イリガライ

1126

『インターネット資本論』スタン・デイビス&クリストファー・マイヤー

1125

『ボランティア』金子郁容

1124

『アヴァン・ポップ』ラリイ・マキャフリイ

1123

『笑いの経済学』木村政雄

1122

『ぼくの哲学』アンディ・ウォーホル

1121

『百物語』杉浦日向子

1120

『女性の深層』エーリッヒ・ノイマン

1119

『北条政子』永井路子

1118

『ネット・ポリティックス』土屋大洋

1117

『T.A.Z.』ハキム・ベイ

1116

『江戸の身体を開く』タイモン・スクリーチ

1115

『資本主義のハビトゥス』ピエール・ブルデュー

1114

『猫と小石とディアギレフ』福原義春

1113

『江戸の市場経済』岡崎哲二

1112

『田中清玄自伝』田中清玄・大須賀瑞夫

1111

『黒い花びら』村松友視

1110

『昭和という時代』鈴木治雄対談集

1109

『澄み透った闇』十文字美信

1108

『市場対国家』ダニエル・ヤーギン&ジョゼフ・スタニスロー

1107

『負ける建築』隈研吾

1106

『未来派』キャロライン・ティズダル&アンジェロ・ボッツォーラ

1105

『写真ノ話』荒木経惟

1104

『建築的思考のゆくえ』内藤廣

1103

『バイ・バイ・キップリング』ナム・ジュン・パイク

1102

『コンセプチュアル・アート』トニー・ゴドフリー

1101

『モダンデザイン批判』柏木博


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