四十四夜【00442000年5月2日

Seigow's Book OS / WEAR
幸田文
『きもの』
1993 新潮文庫・1996 岩波書店
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transelater
[表紙]『きもの』
© 新潮社
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 どんな作品にもつねに未完成がつきまとう。
 レオナルド・ダ・ヴィンチやアマデウス・モーツァルトのように、あえて未完成を標榜するものもあるが、そうではなくとも、どんな作品にも未完成というものが忍びこんでいる。
 幸田文のこの作品は、生前には発表されなかったものである。短編ではない。長編小説といってよい長さがある、幸田文の最も自伝性が濃い作品といってよい。それなのに作者はこれをまるで反故にするかのようにほったらかしにしていたようだ。

 実は幸田文には、いつしか小説という様式に対して期待をもてなくなっていたふしがある。『流れる』のような、あんなにすごい小説を書けた作者があっさり小説を離れるのを訝しむむきもあるだろうが、そこが幸田文の比類ない気性というものなのだ。持ち前の「気っぷ」というものなのかもしれない。
 幸田文が小説を書くのは幸田露伴が死んでからのことである。それまでずっと抑制されてきた創造力の香気が一挙に吹き出した。ぼくは、ぼくの父が文さんと交流があったことも手伝って、幸田文という人にたいへん粋な親しみをもってきた。
 実際に、文さんが父のやっていた呉服屋で着物を買ったことがあるかどうかは、知らない。文さんの趣味からいうと、うちの呉服ではまにあわなかっただろうとも思われる。それでも、文さんは京都にくると、ときどきは父を呼び出していた。ぼくも二度ほどくっついていったことがあるが、まさに「気っぷ」のいい、声も笑顔もすばらしいおばさんだった。
 そんなわけで、青年のぼくが読むには好尚がよすぎる文芸ではあったのに、ぼくはしばしば幸田文の小説や随筆を読んできた。それはなんというのか、母の鏡台の匂いをこっそり嗅ぐようなものだった。

 この作品は明治が終わるころに生まれた主人公のるつ子が、「お母さん」に着せられた着物の一枚一枚と、るつ子の相談役でもあった「おばあさん」の目を通して、時代とともにしだいにめざめていく物語である。女性の心身が育まれる物語というふうにもうけとれる。
 そういえば、この本が単行本として死後刊行されて話題になっていたころ、ぼくは堤清二さんや下河辺淳さんと話す機会があり、当時は“旬の話題”だったこの作品のことを持ち出したところ、堤さんが「うん、あれは女性の本格的な教養小説ですよね」と言ったものだった。のちに辻井喬として堤さんが本書の解説を書いているときも、この作品がビルドゥングス・ロマン(精神の修成をたどる物語)であることを強調していた。

 たしかに着物は女性の心身なのである。それは、今日のファッションが女性の関心の大きな部分を占めていることでもわかる。
 しかし、着物は洋服よりもずっと心身を感じさせてくれる動機に満ちている。着物にはいくらでも妖精や魔物が、想像力や出来事が棲みこんでいる。いや、染みこんでいる。
 そもそも「着換えがはじまった」という一行だけを書いて、そのあとたっぷりと着換えのことを綴っていて、それで存分な小説になることが貴重なのである。それはたとえばジョルル・カルル・ユイスマンスヴィクトル・ユゴーが大聖堂やノートルダム寺院の大伽藍の一部始終を観察して、それをもって小説にしたことに匹敵することなのだ。
 幸田文は、それができることを身をもって伝えてくれた希有の「日本のおばさん」であった。
 そのやりかたは、泉鏡花が着物の柄や形を乱舞させて艶やかな女の妍を表現するという方法ではなく、また森田たまの『もめん随筆』や志村ふくみの『一色一生』のような、着物や染物が文化の腑に落ちるというための方法でもなく、いわば腑に落ちるも腑に落ちないも、そのすべてを引き取って人生を着て、人生に帯をしめていくという方法だったのである。

参考¶幸田文については、文の娘である青木玉が綴っている本、たとえば『幸田文の箪笥の引き出し』(新潮社)などを読むと、いっそうその人生の感覚と粋の細部にふれることができる。この本には文さんの着物や小物も収録されている。







 
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[目次]

1144

『海上の道』柳田国男

1143

『異装のセクシャリティ』石井達朗

1142

『日本人の自画像』加藤典洋

1141

『稲と鳥と太陽の道』萩原秀三郎

1140

『猿と女とサイボーグ』ダナ・ハラウェイ

1139

『カムイ伝』白土三平

1138

『江戸の枕絵師』林美一

1137

『ゲイ文化の主役たち』ポール・ラッセル

1136

『悪徳の栄え』マルキ・ド・サド

1135

『非常民の性民俗』赤松啓介

1134

『日本創業者列伝』加来耕三

1133

『市場の書』ゲルト・ハルダッハ&ユルゲン・シリング

1132

『女帝の手記』里中満智子

1131

『日本/権力構造の謎』上・下 カレル・ヴァン・ウォルフレン

1130

『多文明共存時代の農業』高谷好一

1129

『木村蒹葭堂のサロン』中村真一郎

1128

『江戸商売図絵』三谷一馬

1127

『性的差異のエチカ』リュス・イリガライ

1126

『インターネット資本論』スタン・デイビス&クリストファー・マイヤー

1125

『ボランティア』金子郁容

1124

『アヴァン・ポップ』ラリイ・マキャフリイ

1123

『笑いの経済学』木村政雄

1122

『ぼくの哲学』アンディ・ウォーホル

1121

『百物語』杉浦日向子

1120

『女性の深層』エーリッヒ・ノイマン

1119

『北条政子』永井路子

1118

『ネット・ポリティックス』土屋大洋

1117

『T.A.Z.』ハキム・ベイ

1116

『江戸の身体を開く』タイモン・スクリーチ

1115

『資本主義のハビトゥス』ピエール・ブルデュー

1114

『猫と小石とディアギレフ』福原義春

1113

『江戸の市場経済』岡崎哲二

1112

『田中清玄自伝』田中清玄・大須賀瑞夫

1111

『黒い花びら』村松友視

1110

『昭和という時代』鈴木治雄対談集

1109

『澄み透った闇』十文字美信

1108

『市場対国家』ダニエル・ヤーギン&ジョゼフ・スタニスロー

1107

『負ける建築』隈研吾

1106

『未来派』キャロライン・ティズダル&アンジェロ・ボッツォーラ

1105

『写真ノ話』荒木経惟

1104

『建築的思考のゆくえ』内藤廣

1103

『バイ・バイ・キップリング』ナム・ジュン・パイク

1102

『コンセプチュアル・アート』トニー・ゴドフリー

1101

『モダンデザイン批判』柏木博


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