二十六夜【00262000年4月5日

Seigow's Book OS / DOOR
レイモンド・チャンドラー
『さらば愛しき女よ』
1997 早川文庫
Farewell,My Lovely 1940
清水俊二 訳
[表紙]『さらば愛しき女よ』
© 早川書房
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オンライン書店 bk1
 
 レイモンド・チャンドラーは高校二年生から大学生にかけて、いつもドキドキしながら読み漁った作家である。
 チャンドラーを勧めてくれたのは、いまは『宝島』などを発行している出版社のトップになっている石井慎二である。高校時代の先輩だった彼は、すでに当時からミステリー読みの天才だった。早口でどんなミステリーについても解説してくれた。が、ぼくはなんとなく勘でチャンドラーに目をつけた。おかげで、フィリップ・マーロウものはほとんど読むことになる。そのうち何本が映画化されたのかは知らないが、おそらくそれらも全部見た。
 それはぼくの最初のアメリカ体験だった
 貧乏だが、やたらにダンディで、女と友情に弱い私立探偵フィリップ・マーロウの歩く先、届く眼が、ぼくの最初の衝撃的なアメリカになったのだ。
 それ以外のアメリカ文学など、ポオとヘミングウェイとカポーティを除くと、たとえばフィッツジェラルドやスタインベックやサリンジャーなどは、当時はまったく読めた代物ではなかった。やっと別のアメリカもけっこうおもしろいと思い、ふたたびアメリカ人の作品を読む気になったのは、のちにドス・パソスの『マンハッタン乗換駅』に遭遇できてからのことである。
 こんなぐあいだったから、いったいレイモンド・チャンドラーの文体が好きなのか、ただひたすらにフィリップ・マーロウが好きだったのかは、わからない。おそらくごっちゃにしていたのだろう。
 ぼくはとにもかくにも、短い会話しか喋らないマーロウにぞっこんだった。そのマーロウがチャンドラーの作品に初めて登場してきたのは『大いなる眠り』だった。控えめだが大胆なマーロウは、億万長者の将軍の娘を救う依頼をうけ、雨の降りしきる夕刻に依頼主のところを訪れるのだが、すでに将軍は麻薬を打たれて全裸の死体になっていた。その唐突な場面の直後から、マーロウの周辺は急速に奇怪な事情で埋まっていく。これは楽しめた。しかもタイトルがいい。
 その次に、大鹿マロイという魅力的な犯罪者と、それよりさらに蠱惑的な悪女の見本のようなヴェルマをふんだんに登場させた本書『さらば愛しき女よ』が発表された。その二人にマーロウが絡む小気味のよい加速感と倦怠感と切れ味は、それはそれは絶品だった。これを読めば誰でもマーロウニアンになること、まさに請け合いなのである。たとえば、まあ、こんな調子だ。

 彼女が乱れたスカートをなおしながら、言った。「すぐ、まくれてしまうので」
 私は彼女の隣りに席を占めた。「あなた手が早いんでしょう?」と彼女は言った。私は返事をしなかった。
 「いつもこんなふうになさるの?」と、彼女はとろけるような眼で私を見ながら言った。
 「とんでもない。暇があるときは、ぼくはチベットの僧ですよ」
 「ただ暇がないんでしょ」

 この程度の会話は、だいたい全編の半分くらいを占めている地の味である。が、けっしてこれ以上は濃くならない。そして、ここからふいにキラリと「マロイはフランスパンのように眉毛がなくなっていた」といったジャブが効いてくる。これがチャンドラーのハードボイルドというものだった。
 が、第六作の『長いお別れ』で、フィリップ・マーロウは荒々しい優しさをもった、もっともっといい男だったことがわかる。消息を断った孤独なテリー・ノックスを、まるで真夜中になると探す気になるようなマーロウの友情は、男の読者の胸を熱くさせたものだ。この作品が頂上なのである。ファンの連中には申し訳ないが、とうてい日活の裕次郎ではまねられない。
 チャンドラーはアイルランド系のアメリカ人で、1888年にシカゴに生まれている。離婚した母親とともに7歳でイギリスに渡り、パリとドイツに留学した。その後は海軍省を皮切りにビシネスに転じて、ついに石油シンジケートのバイス・プレジデントにまでなっている。このあたりの体験がマーロウをしてハードボイルドな男にしている背景である。
 ところが、44歳で突如として首になる。会社のタイピストをものにしてしまったせいだったらしい。すでにその前に18歳年上を妻としていたチャンドラーが、いよいよフィリップ・マーロウその人になるのはこのときからである。チャンドラーは書きまくっていった。
 この時代を、世に「パルプ・フィクション」の時代とアメリカは呼ぶ。のちにクウェンティン・タランティーノが死ぬほど憧れた時代だった。日活ではフィリップ・マーロウには届かない。

参考¶チャンドラーのフィリップ・マーロウものは、日本では双葉十三郎を嚆矢として、本書の清水俊二のように、なぜか映画関係者が訳している。つまり、チャンドラーのハードボイルドは日本では映画そのものなのである。このあたりから日活をはじめとする日本映画のスパイ・ギャング・タフガイものが、なぜ連打されていったかが推測つくであろう。







 






 

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千 夜 千 冊 BACK NUMBER

[目次]

1144

『海上の道』柳田国男

1143

『異装のセクシャリティ』石井達朗

1142

『日本人の自画像』加藤典洋

1141

『稲と鳥と太陽の道』萩原秀三郎

1140

『猿と女とサイボーグ』ダナ・ハラウェイ

1139

『カムイ伝』白土三平

1138

『江戸の枕絵師』林美一

1137

『ゲイ文化の主役たち』ポール・ラッセル

1136

『悪徳の栄え』マルキ・ド・サド

1135

『非常民の性民俗』赤松啓介

1134

『日本創業者列伝』加来耕三

1133

『市場の書』ゲルト・ハルダッハ&ユルゲン・シリング

1132

『女帝の手記』里中満智子

1131

『日本/権力構造の謎』上・下 カレル・ヴァン・ウォルフレン

1130

『多文明共存時代の農業』高谷好一

1129

『木村蒹葭堂のサロン』中村真一郎

1128

『江戸商売図絵』三谷一馬

1127

『性的差異のエチカ』リュス・イリガライ

1126

『インターネット資本論』スタン・デイビス&クリストファー・マイヤー

1125

『ボランティア』金子郁容

1124

『アヴァン・ポップ』ラリイ・マキャフリイ

1123

『笑いの経済学』木村政雄

1122

『ぼくの哲学』アンディ・ウォーホル

1121

『百物語』杉浦日向子

1120

『女性の深層』エーリッヒ・ノイマン

1119

『北条政子』永井路子

1118

『ネット・ポリティックス』土屋大洋

1117

『T.A.Z.』ハキム・ベイ

1116

『江戸の身体を開く』タイモン・スクリーチ

1115

『資本主義のハビトゥス』ピエール・ブルデュー

1114

『猫と小石とディアギレフ』福原義春

1113

『江戸の市場経済』岡崎哲二

1112

『田中清玄自伝』田中清玄・大須賀瑞夫

1111

『黒い花びら』村松友視

1110

『昭和という時代』鈴木治雄対談集

1109

『澄み透った闇』十文字美信

1108

『市場対国家』ダニエル・ヤーギン&ジョゼフ・スタニスロー

1107

『負ける建築』隈研吾

1106

『未来派』キャロライン・ティズダル&アンジェロ・ボッツォーラ

1105

『写真ノ話』荒木経惟

1104

『建築的思考のゆくえ』内藤廣

1103

『バイ・バイ・キップリング』ナム・ジュン・パイク

1102

『コンセプチュアル・アート』トニー・ゴドフリー

1101

『モダンデザイン批判』柏木博


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