二十一夜【00212000年3月28日

Seigow's Book OS / PIER
ボリス・ヴィアン
『日々の泡』
1978 新潮社
L' Ecume des jours 1947
曾根元吉 訳
[表紙]『日々の泡』
© 新潮社
Amazon
オンライン書店 bk1
 
 ちよっとした自意識過剰の青年青女には、おおむね2種類のポーズの意識というものがある。
 ひとつは自身の才能や容姿をより向上させて見せたいというしごくあたりまえだが、どこか偽善的な意識であり、もうひとつは自分を「まともには見せたくない」という、偽悪的であるのだからそうとうにひねくれているのだが、それでいてつねに影響力を計算しつづけているような、どこか悲しい自意識である。
 ボリス・ヴィアンはあきらかに後者に属していた。
 ぼくがボリス・ヴィアンを知ったのは、高校生のときに見た『墓に唾をかけろ』というやるせないほどハードボイルドなすごい映画の作者としてだった。この、ブルース・ハーモニカが甘ったるくせつなく鳴り響くモノクロームの映画は、ぼくの青春の「傷のつくりかた」を決定づけるほど衝撃的な映画だったのだが、ヴィアンについてはそのまま放っておいた。
 それがいつだったか、『遊』を創刊する直前の、おそらくは『日々の泡』が日本語訳されてまもないころだろうから1970年ごろのことだったとおもうが、ついにヴィアンを読むことになって、驚いた。
 探し求めていたオブジェの生きた陳列棚だった。探し求めていたというのは、当時のぼくにはシュルレアリストたちのオブジェのあげつらいかたにほとほと嫌気がさしていて、もっと斬新でキレのいいオブジェ感覚に出会いたいとおもっていたということである。
 『日々の泡』には冒頭から最後まで、実におびただしいオブジェが羅列されている。アレクサンドル・プーシキンの化石のようなオブジェではなく、といってアンドレ・ブルトンのこれみよがしのオブジェでもなく、日常の現実感覚の中をすばやく動きまわるモダリティをもったオブジェたち。
 たとえば、噴霧器で吹きつけられた香料ポマードと、そこへ琥珀の櫛が加わってつくられるオレンジ色の髪の線。鮫皮のサンダル・深い青緑色の畝織りビロードパンツ・淡褐色のキャラマンコ羅紗のジャケット。日光がたわむれて夢幻の印象をつくりつづけている台所の真鍮カラン。ニジンスキーの『薔薇の精』のように見える広口壜の中のホルマリン浸けの鶏卵。音符ひとつひとつにアルコールやリキュルや香料などを対応させてあるカクテルピアノ。
 こういった描写をともなうオブジェが次から次へと繰り出されるのである。では、それがヴィアンの狙いなのかというと、そんなことはない。『日々の泡』はレイモン・クノーが「現代における最も悲痛な恋愛小説」とよんだように、コランとクロエ、アリーズとシックらの奇妙な友情と錯綜を通して、まさに人間の魂の昇天のしかたを克明に描いてもいるし、その描きかたに最も美しい言葉が選びきられてもいるのである。とりわけクロエが肺の中に美しい睡蓮を咲かせて死んでいく場面は、この小説をとても有名にした。
 ヴィアンの言葉づかいは地口や冗句にも富んでいて、翻訳者を泣かせる。そのいちいちを紹介できないが、たとえば物語のなかでちょっと重要な役割で出てくるジャン・ポール・サルトルはジャン・ソオル・パルトルとなり、サルトルの大著『存在と無』(レートル・エ・ル・ネアン)は、綴りを変えて『文字とネオン』(ラ・レットル・エ・ル・ネオン)になって、しかもその意味で物語の筋を支えるというぐあいなのだ。そういう“おシャレ”は随所に出てくる。
 ヴィアンは39歳で死んだ。生前はジャズのトランペット奏者として、あるいは作詞家や歌手としてのほうがまだしも知られていた。
 おまけによせばいいのに、出版社の友人に“アメリカもどき”の小説は書けないかと相談されて、多才なヴィアンはわずか2週間で『ヴェルコカンとプランクトン』を筆名ヴァーノン・サリヴァンで仕上げ、それがたちまちベストセラーになると、不幸にも、当時モンパルナスのホテルの一室で情婦殺人事件がおこったのであるが、その現場にこの本がころがっていたために、ヴィアンは実名をあかさざるをえず、“偽訳者”としてさんざんな目にあってしまうのである。が、それもヴィアンらしい生き方だったのだろう。

参考¶ヴィアンの作品は『北京の秋』『赤い草』『心臓抜き』など、大半が翻訳されている。







 






 

RSSを表示する

 
松岡正剛の最新情報はこちら
いつでも見たい、松岡正剛
 

書名、または著者名からバックナンバーを検索できます

Web www.isis.ne.jp


千 夜 千 冊 BACK NUMBER

[目次]

1144

『海上の道』柳田国男

1143

『異装のセクシャリティ』石井達朗

1142

『日本人の自画像』加藤典洋

1141

『稲と鳥と太陽の道』萩原秀三郎

1140

『猿と女とサイボーグ』ダナ・ハラウェイ

1139

『カムイ伝』白土三平

1138

『江戸の枕絵師』林美一

1137

『ゲイ文化の主役たち』ポール・ラッセル

1136

『悪徳の栄え』マルキ・ド・サド

1135

『非常民の性民俗』赤松啓介

1134

『日本創業者列伝』加来耕三

1133

『市場の書』ゲルト・ハルダッハ&ユルゲン・シリング

1132

『女帝の手記』里中満智子

1131

『日本/権力構造の謎』上・下 カレル・ヴァン・ウォルフレン

1130

『多文明共存時代の農業』高谷好一

1129

『木村蒹葭堂のサロン』中村真一郎

1128

『江戸商売図絵』三谷一馬

1127

『性的差異のエチカ』リュス・イリガライ

1126

『インターネット資本論』スタン・デイビス&クリストファー・マイヤー

1125

『ボランティア』金子郁容

1124

『アヴァン・ポップ』ラリイ・マキャフリイ

1123

『笑いの経済学』木村政雄

1122

『ぼくの哲学』アンディ・ウォーホル

1121

『百物語』杉浦日向子

1120

『女性の深層』エーリッヒ・ノイマン

1119

『北条政子』永井路子

1118

『ネット・ポリティックス』土屋大洋

1117

『T.A.Z.』ハキム・ベイ

1116

『江戸の身体を開く』タイモン・スクリーチ

1115

『資本主義のハビトゥス』ピエール・ブルデュー

1114

『猫と小石とディアギレフ』福原義春

1113

『江戸の市場経済』岡崎哲二

1112

『田中清玄自伝』田中清玄・大須賀瑞夫

1111

『黒い花びら』村松友視

1110

『昭和という時代』鈴木治雄対談集

1109

『澄み透った闇』十文字美信

1108

『市場対国家』ダニエル・ヤーギン&ジョゼフ・スタニスロー

1107

『負ける建築』隈研吾

1106

『未来派』キャロライン・ティズダル&アンジェロ・ボッツォーラ

1105

『写真ノ話』荒木経惟

1104

『建築的思考のゆくえ』内藤廣

1103

『バイ・バイ・キップリング』ナム・ジュン・パイク

1102

『コンセプチュアル・アート』トニー・ゴドフリー

1101

『モダンデザイン批判』柏木博


各ナンバーをクリックすると、別ウィンドウで一覧が表示されます。
クリックするとランダムにバックナンバーが出現します。
電子の自由が選んだ一冊を、あなたに。




 
 
 

 ISIS

© Copyright Editorial Engineering Laboratory.
All rights Reserved.
│ ISIS編集学校 │ いと◎へん