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 【5月1日】

 

 「ちょうちょ、ちょうちょ、なの花にとまれ」という歌がある。明治の尋常小学校の国語の教科書にも採録された。つづけて、「なの花にあいたら、桜にとまれ」となる。そして、蝶は桜の花から花へと飛び、とまって遊び、花の蜜を吸う。
 この歌意は古い。江戸の百科辞典『倭訓栞』の「てふ」の項に、蝶が日本各地において呼び名が異なることを挙げた上で、『天寶遺事』の「てふてふとまれ、菜の花にとまれ、なれもとまらば、我もとまらん」という童謡が流布したという記事を引き、「粉蝶を放ちて、その止る所に随(したがい)て幸なるは唐明皇の故事なり」として、その歌は古意を得ているとしている。これが明治の「ちょうちょ」の歌の原典であろう。もっとも、近代以前の童謡は「わざうた」と呼ばれ、子供たちの間に自然発生的に広まる歌謡は時代の禍福を予言する「謡諺」(ようげん)の一種として怖れられた。
「謡」は中国では楽器に合わせないで肉声に節をつけた短い歌、「諺」というのも各地の故事や伝説を短い韻文に編集した雑歌であって、謡諺は通常は農事や商業の予祝の歌謡となり、いわばコミュニティのコモンセンスを支えた歌謡であった。この俚謡は歴代の治世に対する訓戒、予言であるとみなされ、新たに流布する謡諺は王朝の持続あるいは革命の予兆とされた。中国の宰相たるもの、世の中の怪異や謡諺を収集し解釈して、政治の方針を決定することが最大の責務であった。日本においても「わざうた」(童謡)は、幼童が神の領域の存在とみなされたこともあって、政府にたいする託宣として畏敬をもって解釈されてきた。
 蝶は東アジアではタブー視された背景があり、蝶に関する童謡の流行は特別扱いされた。そうした蝶に関する背景に熟知した『倭訓栞』の編集者は、「てふてふとまれ」という「わざうた」に中国の明皇蝶幸伝説をあてはめて、政権の持続が望まれているおめでたい歌詞と解釈した。その伝説は、唐の玄宗が后たちのもとに出向くとき、蝶を飛ばしてそれが飛び込んだところに宿ったというもので、絶頂の唐王朝を譬喩する画題となった。
それは皇帝を象徴する蝶と花の王、富貴花とされる牡丹を捧げる后によって構成される。あるいは晩唐にさしかかる文宗(あるいは穆宗)のとき、宮中に牡丹が咲きほこり、そこに黄白の蝶が群れ飛んで、それを捕まえるとすべて黄金になったという伝説もあって、これはまさしく崩壊期へと移行する唐王朝の最後の爛熟を象徴していた。ともあれ、牡丹蝶の文様と明治の教科書の「ちょうちょ」と歌謡曲の「花と蝶」は同じ背景に成り立っていたことになる。
 明治以前には、日本各地で蝶の呼び名が異なっていたことは、江戸の博物誌に一目瞭然である。さきほどの『倭訓栞』にも、「てふ」というのは“音”、すなわち古代中国の呼び方とした上で、関東・南奥州では「てふま」、津軽では「かにべ」あるいは「てこな」、越後では「ふまつべったら」、信濃では「あまびら」、西国では「ひるろう」、伊勢では「ひいろ」としている。このうち、「ひら」あるいは「へら」から変化した蝶(蛾もふくむ)の名は西日本から勢力を拡大した文化圏の蝶の古名の名残りなのだろう。
『重修本草綱目』では、古歌に「からてふ」というとした上で、さらに詳しく各地の蝶の呼び名を挙げるが、京都では「ちょてふ」、江戸では「てふてふ」といい、野州(群馬・栃木)では「かわびらこ」あるいは「てふてふばこ」というとし、「てふ」を、その飛ぶ様子をオノマトペイアであらわして「てふてふ」とする動向が江戸と京都に別途におこって一般化したことが知られる。その方言の分布を見ると、平安末期の『新撰字鏡』や『今昔物語』に記され、蝶の古名とされる「かわひらこ」が、沖縄の「てびらこ」のように、蝶を「ひら」をふくむ名で呼んでいた地域が八世紀ころの中国語の「てふ」を導入したけれども、北関東などには残存した可能性を示唆される。それが鎌倉武士の言葉とともに全国的な呼び名として再浮上し、蝶の古名として認知されるようになったのであろう。
 このように推測される「ひら」をふくむ蝶の古名は、記紀や万葉には記されない。蝶を名指しで呼ぶことが忌まれていたためであろうという。けれども、そこにふくまれていた蛾の方は早くにタブーを解かれ、古代には「ひひる」、後には灯火に寄り来る走光性から「ひとりむし」と呼ばれた。これはある種の蛾の繭から繊維を取ることが発見されたこともあって、その観察が進んだためであろう。『魏志倭人伝』には卑弥呼の使者が倭錦(わにしき)という日本の野蚕の織物を献上したと記されている。東北の蚕神の「おしら様」は、もとは「おひら」であった可能性もあり、蛾を意味する「ひひる」は失われた鱗翅類の古名を引きつぐものかもしれない。
 蝶に関するタブーはアジアの民俗と照らし合わせて推測するしかない。もっとも近しい沖縄では蝶は祖霊である。その意思を問うシャーマンのみに蝶の文様の着物が許された。蝶は死と結びつく忌むべきものである。ところが、さらに南の宮古や八重山などでは、蝶の訪れは吉祥とされる。これは蝶を神霊とみなすからだという。観念というものは反対に分岐するものであって、一方で悪なるものは、一方で善なるものとなる。
 こうした蝶を霊的な存在とみなす一種の信仰は中国に見られた。もっとも有名なのが『荘子』の「胡蝶の夢」であろう。荘子はその名を周というが、その文中に「周の夢に胡蝶となるか、胡蝶の夢に周となるか、周と胡蝶と則ち分あらん。これを物化という。」と記す。その思想は霊魂的物質觀に裏打ちされ、うがっていえば物質に記憶があって、蝶は夢の中でそうした物質の記憶として出現した。その蝶に象徴される物質の記憶が荘子を世界とつなげている。その記憶の象徴として蝶を用いたのは、蝶に特別な思い入れがあったからにちがいない。
中国では、蝶が橘や菜の花、百合、樹葉などの多くの聖物から変生してきた存在とされてきたことによる。そこには幼虫から蛹になって、羽化するという神秘的な現象があった。戦国の呉王闔閭婦人墓から、秦の始皇帝陵、漢代の墓にいたるまで、金蚕(きんさん)という蚕のような幼虫を象った呪物が大量に副葬される。「羽化登仙」の「羽化」というのは、まさしく幼虫である人間が蛹状態に棺に入って、より上位の存在へと変態することだった。
 こうした蛹幻想は華南におこったものであろう。唐の劉恂が越に派遣されて、その地方の民俗を記した『嶺南録異』に、越の女性が鶴子草という植物に育つ虫を箱の中に入れて飼うと記録している。その虫は蛹となって羽化し、赤黄色の美しい蝶となり、彼女らはそれを媚蝶といって身に飾っていたという。もちろん、それは彼岸と此岸を結ぶシャーマンの印であった。これなぞは、まさしく沖縄のシャーマンの蝶文様の着物の源流とみなしてよいだろう。
 こうした蛹幻想には世界的な広がりがある。その典型がギリシアのプシュケーの物語である。プシュケーはその美貌を嫉妬したアフロディテの画策で、冥界の女王ペルセポネから美が入っているという小箱を手に入れる。プシュケーは好奇心から決して開けてはならないという小箱を開けてしまい、中に入っていた眠りにとらえられた。それを恋人のエロスが翔んできて救い出す。この物語は死と再生の秘術を秘めた蝶の幼虫の箱を持って、彼岸と此岸をつないだ巫女の物語の変形であるにちがいない。プシュケーは蝶を意味しているからである。
 この蝶であるプシュケーは“宇宙の気息”、あるいは“魂”という概念を与えられた。アリストテレスは『霊魂論』に「プシュケーとは生命が宿る可能性のあるソーマ(自然物・肉体)のエイドス(形相)という意味でのウーシア(実体)でなくてはならない。この意味での実体は現実態としてのエネルゲイアである。」という。ポンペイの壁画には蝶のような翅のあるプシュケーが同じく有翼のエロスと抱き合う姿が数多く描かれている。これは“魂”でもあるプシュケーが理想の生へと変態するために、浄化し再生する“愛”であるエロスの焔に焼かれなくてはならないという譬喩画であった。これが蝶や蛾の走光性からきたことは明らかであろう。こうした蝶に関する観念は、ギリシア哲学を導入したイスラム神秘主義においては、火に飛びこんで焼かれた蝶は「ファナ」、すなわち迷妄を離れて本来の人間としてよみがえった境地の象徴となる。このような哲学の背景にプシュケーとされた古き巫女の姿がある。ちょうど荘子の哲学の背景に越に残存した蝶を飼う巫女の伝統があったように。
 日本においても、蝶や蛾は魂の実体と見られていたにちがいない。そのような事実の言語化は避けられていたのだから記録はないが、スクナヒコナ伝説にわずかにあらわれる。スクナヒコナは、オオクニヌシが国造りをするにあたって、その霊魂として遠い彼方の世界から流れついた。この小さな神は植物の茎を船として、「ひむし」(蛾)の皮を着て到来した。その姿はプシュケーそのものだ。あるいは銅鐸の後裔の鉄鐸が諏訪神社に残されているが、それを「佐名伎」(さなぎ)という。その名は「さなぎ」(蛹)と近しい。銅鐸がどのように呼ばれていたかは不明だが、それが「さなぎ」であったとすれば、銅鐸はかの越女の蝶の箱と観念を同じくする魂を呼びこむ“うつわ”の別形とも考えられる。
この「さなぎ」の「さ」は“先”や“岬”あるいは“咲く”や“裂く”に通じて、内部的充実の臨界を示し、彼岸と此岸を結び、あるいは変成がおこる状態を示している。あるいは「さな」という地名は金属の精錬と結びつくことも多く、鉱石を溶かしてさまざまな器物を鋳出すことが、ことに溶鉱炉が「さなぎ」(蛹)に見立てられることは充分に考えられる。
 このような霊魂の変態を左右すると見られた蝶のタブーは、ヨーロッパでも中国でもなかなか解けなかった。ことにヨーロッパでは、プシュケーの信仰はキリスト教によって異端的なものとして扱われ、ロマネスクにようやく天使に結びつける譬喩として復活するが、その輪廻再生する異教的死の影はぬぐいきれない。中国においても長らく蝶はタブー視され、漢王朝が崩壊して南北朝時代になるまで、蝶は宮廷の詩文や絵画、文様とすることを避けられてきた。荘子にしてからが、蝶をあからさまに蝶とはせず、わざわざ“胡蝶”(異国の蝶)としているほどなのだ。
 三国から晋の崩壊をへて、揚子江流域に南遷した東晋時代、謝眺、謝霊雲らが江南の風光を歌うようになったのが詩文に蝶が登場する初めであろう。謝眺は友人の季哲の“怨情”に和して、
「花叢 数蝶乱れ、風簾 双燕入る」と歌う。この蝶といい、燕というのも霊魂の実体であるという意味を引きついでいるが、その霊魂は叙景の中に託されている。蝶はタブーを脱して、シンボルとして機能しはじめた。
 こうして古代の神話的観念を景物の中に操作することで、神話的枠組みをたぐる新たな文芸が出現してきた。鮮卑出身の北朝が中国を統一した隨・唐文化は、秦・漢文化を受け継ぎながらそのタブーを開放したといえるだろう。唐詩において蝶は自在に飛び交いはじめる。蝶の絵画、文様においても同様で、ペルシアの双鳥文が双蝶文を誘発し、冥界の崑崙の花とされた牡丹と死霊の蝶が、反転して宮廷の庭園のモデルとなったのである。このようなドラスティックな観念の反転は、異民族の王権が誕生したことが大きかっただろう。
 日本もこのような文化変容の波にさらされ、ことに平安京の造営前後に唐を中心とする国際主義に同調していく。『万葉集』や記紀には、蝶への言及はないが、同時に編集されていた漢詩集『懐風藻』には蝶の詩があらわれ、嵯峨天皇時代の『文華秀麗集』にはますます蝶の詩は多くなる。嵯峨天皇そのひとが『舞蝶』と題して、「数群の胡蝶空に飛び乱れ 雑色粉々なり花樹の中。
本自弦管の響の因らず 無心にして処々春風に舞う」と賦す。これは日本の伝統からすれば、不吉ともとれるが、それは日本の蝶を描いたのではなく、唐の胡蝶を念頭にしていた。和漢の世界を分けて扱っていたともいえる。このような中国的な胡蝶の世界と日本の蝶の世界が融合しはじめるには、『古今集』いらいの和歌を待たなくてはならない。
 僧正遍照は、
  散りぬれば後はあくたになる花を
  思い知らずもまどう蝶かな
 と詠み、紀貫之は、
  こてふにも似たるものかな花薄
  恋しき人に見すべかりけり
  と詠じる。これらは魂の行方を蝶の光景に託しているが、仏教の洗練も受けて、巫女の呪物(まじもの)であっただろう蝶のタブーを開放している。このような蝶は紫式部や清少納言に代表される女房文学に引きつがれた。こうした新たな蝶の初期的な開放は、おもしろいことに宮廷舞楽において中国的な迦陵頻の舞と対になる「胡蝶」の創作におこっていた。これは延喜6年(906)、宇多法皇の童相撲(わらわずもう)御覧に際して制作が勅令され、作曲は藤原忠房、舞は敦実親王(あつみちしんのう)の御作になる。中国では考えられない女舞で、銀色の天冠に山吹の造花を挿し、蝶の作り羽根を背負い、手に山吹の花を持つ。童相撲そのものが神霊の出現の神事だが、この舞楽「胡蝶」の背景に神仏の加護を寿ぐ仏国の鳥形の化神・迦陵頻伽に対して、日本の“霊魂”の将来を占った巫女の伝統が明るみに芸能化されたといえなくもない。
 ところが、王朝の崩壊は蝶の古代的な観念を復活させることになった。藤末鎌初には天変地異も多かったこともあるが、藤原定家の日記『明月記』や鎌倉幕府の記録『吾妻鏡』などに、蝶の群舞が不吉とされる記事がさかんに出はじめる。在地の武士団の台頭は、そうした古い観念をも再生させた側面があったであろう。このような動向の中で、『堤中納言物語』の中に「虫めづる姫君」が収録される。
 そこには、『梁塵秘抄』の歌曲を歌い歩いた白拍子らの活動の活性化ともあいまつ、蝶の幼虫を飼う巫女の幻影が、逆説的にたゆたっている。『梁塵秘抄』に、次のような神歌がある。
  よくよくめでたく舞うものは 
巫(こうなぎ)小楢(こなら)葉車の胴とかや
八千ごま蟾(ひきがえる)舞手くぐつ
花の園には蝶小鳥
 独楽、蟾蜍、舞手、くぐつ、蝶、小鳥はいずれも巫祝の技であり、呪物(まじもの)である。古代との相違は、それらは言語化や表現を避けるのではなく、明るみの呪術となり、一種の娯楽へも移行することにある。このころから武将がつけはじめた胡蝶文の鎧甲も、こうした呪術の逆用といえなくない。平家が胡蝶を紋章としたことなどは、そうした逆用の極地であって、見る者を驚かせ、畏れさせたにちがいない。
 ここに一枚の辻が花でも初期のものらしい蝶文のはぎれ(蝶枝菊文縫箔箱能衣裳裂)を挙げておいた。辻が花の技法を生かして、しぼりで蝶の部分を抜いて茶に染め枝菊を摺箔し、蝶の姿を刺繍であらわしている。その蝶の姿はなんとも奇態な姿に見える。生き生きとしてリアルでありながら、現実的ではない。一方の蝶の下翅の模様は黒地に神紋に多い太陽のような光に包まれた三つ巴であり、上翅の模様は丸にバツ印の奇怪さである。もう一方の蝶は緑の上翅に菱の実を思わせる紋章状の模様がある。このはぎれが着物であったとき、どんな人が着ていただろうか。
 辻が花は、戦国大名の出現によって、広域な領内の関所が廃止され、交通網の活性化によって、道が交差する“辻”が交易、情報交換の拠点として出現したとき、そこを拠点とした巫女にして遊女たちが羽織っていたものである。そのようにこの蝶文を見ると、これはまさに古代いらい巫祝が幻想した蝶の文様的表現であったといえるであろう。両方ともアゲハチョウであるが、ことに三つ巴の模様の蝶はクロアゲハにちがいなく、これは江戸時代になっても、ジゴクチョウの異名をもって、冥界の使者と恐れられた痕跡を残していた。そうすると、緑の蝶は水沢になじみ深い巫女自身の神性であったかもしれない。こうしてみると、日本の巫女も蝶文様の着物を着て、彼岸と此岸を結ぶことほぎや口寄せをしたことがあったのではないかと推測させる。
 このような巫女の世界は、江戸時代の城下町ネットワークの完成とともに辺境の地に追いやられた。あるいは、修験の霊山にあった以外は衰退した。公界が苦界になっていくころから、巫祝の霊魂としての蝶は失われていった。蝶は変化と再生のことほぎを秘めた吉祥として、より広く詩文、絵画、文様として愛されるものとなった。それでも大きなアゲハがとつぜん飛来すると、どこか彼方からの伝言を感じさせることがあるから不思議なものである。




 

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