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| 【3月26日】 |
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イエス・キリストの磔刑のときほど、盗人が哲学を披瀝したことはなかっただろう。『新約聖書』の「マタイ福音書」にいう。エルサレムの治安を維持していたローマ帝国の軍官ピラトはイエス・キリストの有罪を疑い、ローマらしい民主主義の一端を示して、ヘブライの民を広場に集めて問うた。「死刑を免除するのはメシアのイエス・キリストか、盗人のイエス・バラバか」と。すると、聖典の民は「バラバ、バラバ」と喚声を挙げて答えた。その理由は、イエス・キリストはユダヤの王位、宗教を盗むものとされ、イエス・バラバは、本人がそう思っていたかどうかは別として、ユダ王国の復興のために戦うパルチザンの一角とみなされ、ローマ人を中心とした権力者や富豪を苦しめた盗人だったからである。
あるいは、「ルカ福音書」にいう。イエスは二人の盗人とともに磔刑に処せられたと。盗人の一人ゲスタスはイエスをなじって、「あなたがメシアなら、自分とわれわれを救え」といった。すると、もう一人の盗人ディスマスは押し止めて、「われわれは行ったことの報いを受けたのだから当然だ。だがこの人は何の盗みもしなかった」といって、「イエス、貴方が王位を受けて帰られるとき、私を思い出してください」と頼んだ。そこで、イエスは「あなたは今日わたしとともに楽園にいる」という言葉でディスマスに報いたという。後に、ディスマスは死刑囚と盗人を救う聖人として尊崇される。死刑囚や盗人の聖人とは奇異なものだが、そうした盗人の罪も、創造主の視座からすれば、救済に値することが多かったためだろう。
およそ諸文化の伝統的な法律において、盗みは殺人より罪が重かった。殺人には戦争や国を滅ぼされた民族のゲリラやテロ、暗殺、仇討ち、武術の試合、決闘などがあり、もちろん生殺与奪を許された特権階級が存在した時代には日常のことであって、賞賛される殺人も多かった。しかし、盗人は、行きがかりにパンの一切れを盗むような素人の窃盗が多いが、盗人として生きていこうとすれば、標的は国王、貴族、領主、地主、富豪、宗教家など財物を蓄積したものたちということになる。
したがって、国家の治安は殺人の規制よりも、盗みの規制に主軸がおかれてきた。ローマの「十二表法」には強盗は殺害してよいと定め、中世ドイツの「ザクセン・シュピュ―ゲル」では3シリング以上の盗みは死刑と定められた。他のヨーロッパ諸国、イスラム圏あるいは中国や日本でもほとんど事情は同じである。こうした苛酷な制裁を怖れず、富者を襲う盗賊が、額に汗して働く民衆の英雄として語りつがれるようになるのも無理からぬことである。
もっとも、国家そのものが盗賊集団であるという議論は古代からなされてきた。アレクサンダー大王が小アジアからペルシアへ軍勢を進めたとき、兵糧船を襲って困窮する難民に分け与えた海賊の首領デメトリオスが捕まって、若き大王のもとに引出されたとき、「私は民のものを民に戻しただけで、大王こそが民から奪い着服する盗賊の首領ではないか」と問うた。アリストテレスを師と仰ぐアレクサンダー大王にして、その問いに答えられないまま、海賊デメトリオスを死刑に処した。
中国には『荘子』に物語られる盗跖(とうせき)と孔子の対話がある。孔子は友人柳下季の弟が名高い盗賊の首領盗跖であることを知ってその巣窟に出向く。そして、「人間的魅力、知識力、軍事力の三徳のいずれかを備えれば王侯になれる。将軍にはそれが備わっている。私の意見を聴く気なら、各国に使者となり、将軍のために数百里の城を築かせ数十万戸の町を建てさせよう。天下を一新して戦争をやめ、兄弟と一緒に暮らし先祖を祭る。これこそ聖人の行いで民の願い」と説いた。将軍というのは国家のみならず、あらゆる軍事勢力の指揮者である。
盗跖はすぐさま、「城といっても、天下ほど広い城はない。その天下を取った歴代の王者の子孫はすべて死に絶える。それは得たものが多すぎたからではなかったか」と問い返す。孔子が答えられないでいると、「尭舜は天子となって多くの臣(官僚)を作り、湯王は主君を追放し、武王は紂を殺して天子となった。湯武の時代の後は民を食い物にする者ばかり」と喝破した。所詮が、奪った物は奪い返される。どうせつかの間の人生なら、奪う側(国家)になってでっちあげの正義に苦しむより、奪い返す側(盗賊)になって心おきなく歓楽を究めた方がましというわけだ。孔子は議論に敗れて、アワをくって退散したことになっている。
こうした盗人観は日本でも同じである。歌舞伎で大当りを取った『白波五人男』の首領、日本駄右衛門は浜島庄兵衛という実在の人物で、平戸藩主松浦静山が世間に流布する話題を集めた『甲子夜話』に、「この人、盗みせし初念は不義にして富める者の財物は盗み取るとも咎めなき理なれば、苦しからずと心に掟して、その人その家をはかりて盗み入りしとぞ」とあり、名台詞にもなった「盗みはすれど非道はせず」という盗人哲学を説いたと記す。このような話は盗賊の実態に関係なく、大名屋敷や富豪の邸宅への襲撃に陰ながら拍手喝采を送った民衆の間に流布した。そして、盗人をヒーローとする風潮が、盗人の側にもある種の正義と倫理を生じさせたこともいなめない。
盗人の論理を歴史に適用してみると、ヨーロッパに発生した近代国家というものも、盗賊集団によって形成されたと言えなくない。度重なる宗教戦争、ドイツ三十年戦争、王位継承戦争などによって、社会の周縁に没落していった乞食、浮浪者、無宿者が、戦争や動乱を惹起しながら焼け太る領主や富裕者を襲う盗賊となって横行し、それらが徒党をなして聖地や共有地の山や森に立てこもることも多かった。そうした盗賊を取締る側に正義が無くなってくれば、ラサリーリョ・デ・トルメスらにはじまるピカレスクやフランソワ・ヴィヨンの歌が愛されるようになるのもとうぜんであろう。
そして盗賊の論理は闇夜から白中へと公然化してきた。たとえば、フランス革命はフランスの下層民が富を奪いすぎたルイ王朝から、奪われた財を奪い返した盗賊行為で、その首領団が奪った財を山分けする革命政府をつくったといえなくない。反革命容疑者の財産を没収し、貧しい愛国者に分与する「バントーズ法」を定めた山岳党は、その名からして山岳の義賊の論理を踏襲している。
他国に行って強盗を働き、それを国家経済の基礎としたのがスペイン帝国で、アメリカ大陸のメキシコ、インカの民からの略奪によって成り立ち、あるいはイギリス帝国といっても新大陸からの盗品を満載したスペイン船を襲う海賊を奨励して、海賊船長をナイトとすることで国家の支柱、官僚や議員を形成した。これは“盗賊の盗賊”で、盗賊仲間ではもっともさげすまれた違反行為である。そこに生じた民主主義といっても盗賊団の山分け会議に似て、インドや中国の王朝にアジア型専制君主制などというレッテルを貼って、それを倒すことを口実にその人民の富を強奪し、あるいは追随する列強とともに不遜にもアフリカを分割した。もっとも盗跖の論理によれば、どっちもどっちだということになる。
アメリカ合衆国の成立に盗賊の論理がひそんでいたことは、勇気あるジャック・シェ―ファーが『シェーン』に暴いた。最初に西部開拓に乗り出した開拓者はインデアンと共存しながら、大牧場を形成していた。アメリカ合衆国がフランスから買い取り、後にはスペインから奪った西部の大牧場は多くの畜産家が牛を放し飼いにする共有地であったが、ワイオミング州ジョンソン郡への新来の入植者が、それらの共有地を自分たちの私有地として登録し、大規模な牛泥棒を企てた。これが原因となって勃発した「ジョンソン郡戦争」を背景に、『シェーン』は描かれている。東部に成立したアメリカ合衆国は、そうした牧場が共有地であることを逆手にとって、勝手に土地の私有を許可する法を定め、合衆国国民に分与していった。インディアンの土地についても同様の処置がとられ、アメリカ原住民は悲惨な状況に落とされる。いわば牛泥棒の正統化によって、アメリカ合衆国は形成されたともいえる。
近代国家というのは盗賊団の仁義を議会という形式でシステム化したものだと、古代のデメトリオスや盗跖が論評したとして、反駆できるものはないだろう。まして、昨今の議会と官僚集団を抱えた日本においてをやである。あの泥棒文学者ジャン・ジュネは幼くして里子に出され、十才のとき盗みをして感化院に入れられ、盗人の烙印を押されてから、何度も脱走しては逮捕されながら、決して盗みの罪を悔いることはなかった。それは近代国家が法を操作して正統化しつづける盗賊行為の韜晦でもあったが、存在にすぐ「嘔吐」してしまうサルトルが理解できるような問題ではなかった。
それは大きな盗賊行為を合法化し、私有権を設定して小さな窃盗、強盗罪を分離したことで、近代人の意識や身体に刻み込まれた本性の問題だからである。現代の法政史や社会学史が「暴力犯から窃盗犯へ」という、そのシェーマそのものがはらんでいた問題であった。
こうした盗人問題を社会主義の偏向に捉えたのが、レオニード・レオーノフの『泥棒』である。その発端に描き出された、もとはボルシェビキの党員にして、泥棒団の首領、稀代の金庫破りとなったミチカ・ヴェクーシン(ミーチャ)の泥棒宿に入り込んできた文士フィロソフが、「あなたを、民謡の中のグデアールになぞらえる者もいましたっけ」と声をかけたシーンには印象的なものがある。その社会小説としての評価は短命だろうが、泥棒小説としての評価は永遠であろう。善悪こきまぜた泥棒たちが暗躍するモスクワの裏町ブラグーシャは、古来変わらぬこの世の縮図なのだ。
グデアールは、ニコライ・ヴィクトル・ネクラ―ソフの叙事詩『ロシアに誰が住みよいか』に歌われた二人の盗人の一人である。この二人の盗人は、あのキリストの左右で磔刑に処せられた盗人の影を帯びているだろう。グデアールは十九世紀にロシア帝国の圧制に反抗した義賊で、彼を含む十二人の盗賊は日本のロシア民謡同好会の演目に必ず挙がる「十二人の盗賊」の歌にもなった。ネクラーソフはスターリンに睨まれ、パリに亡命したが、今回のアフガニスタン爆撃に際してロシアとの裏取引によってアメリカ合衆国が弾圧を黙認した悲運のチェチェン独立闘争の行方に、早くから心を痛めていたという。
時はロシア革命から四年、レーニンは新経済政策(ネップ)を打ち出したが、ネップマンという強欲な新興ブルジョワや富農を生み出した。それは公平に分配されるべき財を奪う盗人であり、トロツキーが反旗をひるがえして、永久革命論を唱えたのも当前だった。トロツキーはロンドンに亡命していたとき、自分の部屋を中国の『水滸伝』の水滸塞になぞらえていたというから、そこにももう一つの盗人哲学が横溢していただろう。しかし、レオーノフのミーチャはトロツキー的な存在ではなく、むしろネクラーソフにあったロシアの義賊精神を反映していた。ミーチャの泥棒行為はネップへのパルチザンなのだ。もっともネップマンの後裔たちがソビエト連邦そのものを崩壊させてしまい、ミーチャの盗人魂は置き去りにされたままになっている。
このように盗人の視線で世界を眺めると、人の世というものは、あのキリストの左右に磔刑になった二人の盗人の論理で駆動していたということにもなる。ゲスタスの論理では万能者はいかなる盗みも可能にするはずだというもので、合法化された盗人システムによって永遠に罰せられることなく盗みつづけることを夢見る。これに対するディスマスの論理では、万能者はによって罰せられざる盗みはないが、合法化された盗人システムから、しかるべきところへの財の再配分を実践しようというものである。
ゲスタスは地獄に落ち、ディスマスは救済されたのであれば、創造主は“盗み”そのものを生命の本質として与え、その活用を試しているとさえ思われる。キリスト教会たるもの、古代にそうであったように、キリスト磔刑像は二人の哲人盗賊とともに三尊形式としてもらいたいものだ。そうすれば、教会で結婚式を挙げようというカップルは少なくなるだろうが、具体的に神と人間の謎に迫る哲学が結集してこようというものである。 |
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