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 【3月6日】

 

 日本には星の神話が欠如しているという。『東雅』の天文に「陰陽二神、日神月神を生給ひしなどと見えたれど、星神を生み給ひしといふ事は聞こえず」として、『旧事記』に天の悪神として、天津甕星(あまつみかぼし)、またの名を天香香背男(あまのかかせを)を記すが、その意味も欠けるとしたうえで、星(ほし)は火を「ほ」というから、その光のようなのを「ほし」とする。
  『倭訓栞』に、星は「火石」(ほいし)として、『日本書紀』の「神代紀」の“天安河原にある五百箇磐石(いほついわむら)”を天の川とし、「神功紀」の“河石昇りて星と為る”を挙げ、『史記』の「星は石なり」を傍証する。これは隕石から想像したものだろう。
 あるいは、星を「づつ」あるいは「つづ」という。これは「粒」であって、「星粒」でもある。イザナギが日向のアハギハラに禊したときに生まれた海神、上筒男・中筒男・底筒男の住吉三神が「づつ」の神であったとすれば、太陽神、月神に先んじて星神が生まれたことになる。この神が三つ星であったとすれば、住吉神が海洋の神であるところから、夕刻に水平線の彼方から雄大に昇ってくるオリオン座の三つ星だろう。現在でも星の意味に使われている「づつ」に“夕づつ”、“朝づつ”がある。
 『万葉集』に、「夕づつもかよふ天道(あまぢ)をいつまでか仰ぎて待たむ月人壮(つきひとおとこ)」とあって、夕づつが出ると月が昇る。いわゆる“宵の明星”である。 「かよふ天道」というのは月の道だろう。太陽の道が十二宮であるのに対して、月がおよそ二十七日から二十八日をかけて天球の恒星群の上を移動する、その“月の宿”にあたる星座が二十八宿である。十二宮はバビロニア占星術に発祥して、アレキサンドリアで図像を完成し東西に伝播した。ヨーロッパにはロマネスク期に導入され、ゴシックの中で洗練された。二十八宿はインド、中国にそれぞれ発祥したらしく、どこか起原の地があるのではないかと推測されもするが定かでない。この太陽の道が黄道、月の道が赤道である。
 インドもイスラムも中国も黄道の星座より赤道の星座を重視した。二十八宿をインドではナクシャトラ、イスラムではアルマナージルという。東洋では、かに座だのうお座などの“太陽の宿”だけではなく、北方宿玄武の領域の斗・牛・女・虚・危・室・壁をはじめ四神が守護する“月の宿”を加えるべきだろう。二十八宿の中国での完成期は、周代の天文官の観測記録からかなり正確に知ることができる。『礼記』の月令によって、紀元前六二〇年を前後する百年の間とされる。この月の道に配置された星座の帯と天の北極との座標によって、恒星の位置や遊星の運行を観測した。だからこそ、中国天文学および星信仰において北極星が重視される。
 『万葉集』の「夕づつ」の歌は、このようなアジア天文学を背景として詠まれた。日本にこのような天文観が入ってくるのは継体天皇時代、百済王を仲介に南朝梁の五経博士・段揚爾が訪れ、後任の高安茂は易学・暦学・医学・薬学・礼学などの専門家を率いていた。この宇宙体系において五遊星は五行と結ばれ、重要な観測対象となったが、「づつ」という古名で呼ばれた太白金星は、かねてより日本人に親しまれていたにちがいない。
 北極星を中心とする世界観を地上の統治体系に転写しようとしたのが天武天皇であったことは占星台の建設などによって知られるが、それは初唐の道教的科学の導入でもあった。これが一転するのは空海および入唐八家の密教の普及によってである。中国での密教は、一行、不空の活躍によって中国天文学とインド天文学を習合した。不空は宇宙の智恵を自在にあやつる文殊菩薩の信仰者でもあって、『宿曜経』(文殊師利菩薩及吉凶時日善悪宿曜経)、『熾光経』(熾盛光頂大威徳消災吉祥陀羅尼経)を翻訳する。これらの経典には中国天文学が重視した北斗信仰がない生粋のインド占星術書である。一行はそのようなインド天文学を咀嚼しながら、陰陽五行、太一を織り交ぜ、『天一太一経』、『太一局遁甲経』を著して、ついに『開元大衍暦経』を完成した。
 これら中国密教における二十八宿と九曜の図像は、空海の入唐以降、急速に衰えた唐王朝のもとには残されず、むしろ日本に定着した。日本密教は従来の道教の体系をまとった神道との習合を深め、その影響は『神楽歌』におよぶ。その最初の編集は貞観のころで、密教の浸透とともに変容した。なかでも「明星」(あかぼし)は神仏習合を濃くしている。歌中に「あかぼしは」と歌い、「みょうじょうは」と言いかえるのは、そうした二重性をたくまず演出している。
 インドでは明星(アルナ)は払暁の「紅色」を意味し、帝釈天(インドラ)の従者で太陽神(スールヤ)が誕生する以前に世界を照らすものとなったという。「プラーナ神話」に、まだ夜明前の時代、梵天(ブラーフマン)の孫のカシュヤパ仙にカドルーとヴィナターという妻があり、カドルーが蛇族を産んだのに対して、ヴィナターはアルナ(金星)とガルーダ(金翅鳥)を産む。両方とも卵生だったが、ヴィナターがあせって卵を早く割ったためにアルナは不具の子として生まれた。それでアルナは母をガルーダが生まれて救済するまで、蛇族の奴隷となるよう運命づけて天界に昇ったという。
 アルナは仏教にとり入れられて迷妄を払う明星菩薩となる。仏教説話を満載した『大方等大集経』(だいほうとうだいしつきょう)に、明星菩薩が「我」(アートマン)はどこから生まれてきたのかを説く一章がある。明星菩薩は、アートマンは「生」から、「生」は「風」から、「風」は「空」から生ずると答える。『法華経』では、「譬諭品」「法師功徳品」に、帝釈天の眷属、日月の宝光天子(ほうこう)、名月天子(みょうがつ)とともに、普香天子(ふこう)としてあらわれ、法華経行者を救済する誓いを立てた。最澄は『法華文句』これを三光、すなわち月天(月)、明星天(金星)、日天(太陽)と記している。
 天台智は『法華経』と『普賢観経』によって『法華三昧懴儀』を編集し、道場・身体を整え、諸仏を勧請して六根の罪を懺悔し、『法華経』の観法をおこなう二十一日の行法を定めた。これが「法華懴法」であるが、天台の密教化とともに修験道にとり入れられ、たとえば那智の扇立式に、かつては「法華懴法」が行われた。「法華懴法」は神仏を勧請する行者が心身を浄化する行法ともなっていった。
  『神楽歌』の「明星」(あかぼし)の“白衆等(びゃくすとう) 聴説晨朝(ちやうせちしんてう) 清浄偈(しやうじやうげ)”は、読み下せば“衆等に白(もう)す、晨朝(しんちょう)に清浄偈を説くを聴け”となり、「法華懴法」の開始の常套句化で、明け方の清浄地に神々を招く呪文として用いられている。
 「明星」について、『梁塵秘抄口伝』は、“星三首曲、是又星のはかせ又別と云。この儀子細あり。星は神遊の別譜なり。神遊は取物になり、星句吉々利々、仏経の説あり。この所、僧伽陀の音ヲ別、一句ごとに畢也。双調よりいだして、又黄調ノ乙にとまる。一句ごとにこれを星のハカセと云。”と伝える。「はかせ」は、舞人の袖の振りをいったものか。「伽陀の音」は声明の歌唱法の一種で、白拍子たちが歌い舞っていた「今様」の楽曲に受けつがれていたので注意を喚起したものだろう。
 そして「明星」の冒頭の呪言、「きりきり」であるが、『梁塵秘抄口伝』は、それを星句「吉々利々」としている。表記の「々」(どう)の連続は、この時代には「吉利」のくりかえしをあらわす。それが星句というから、七曜金星の真言の終句「シリギャリ」(室利迦里)、あるいは九曜金星の真言「ジャヤシリギャ」(惹野室哩迦)が想起されるが、縁起のよい字音を当てて解釈したわけだ。けれども『梁塵後抄』に、これを「神異なる鳥の名」としているのは興味深い。
 もう一度、インド神話にもどると、かのカシュヤパ仙の妻ヴィナターがかえした卵はたった二個だったのだろうか。たとえば、八部衆として知られる音楽のキンナラ(緊那羅)や尋香のガンダルヴァ(乾闥婆)もまたブラーフマンの身体から、あるいはカシュシャパ仙の子として生まれて帝釈天の眷属となった古き者たちで、さまざまな異形をあらわすが、共通して鳥の姿をとるので、これがもとの姿だろう。だとすれば、かのガルーダの兄であったアルナもまた鳥形だったのではなかろうか。
 これがシルクロードをわたって中国に入ると、紅の鳥に乗る女神となる。『道蔵』に金星は女、火星は童、木星は帝王、土星は老人の形とあるから、アルナは道教の金星と融合して女性形になった。これらのインドと中国の図像編集は五胡十六国の争乱の間、敦煌におこなわれ、南北朝に入るや一斉に中国になだれこむ。そして南朝梁から百済を介して、日本に五経博士が暦学をはじめ諸学の博士を率いて訪れた。そのころの五星二十八宿図をもとに北宋の張僧(ちょうそうよう)が描いた「五星二十八宿図」(大阪市立美術館)の大白金星は鳳凰のような鳥に乗った女性形で鶏冠をつける。夜明けの星が夜明けを告げる鳥をシンボルにとり込んだのだろう。
 南朝梁から一世紀以上たって成立した密教の図像では、金星は琵琶をもつ女性とされる。これは台密の円形の星曼荼羅にも、東密の方形の星曼荼羅にも受けつがれた図様だが、その西域から伝来した楽器をもつ姿は、密教成立のころのインド神話ではアルナに光明の発生とともに、音曲の発生も託していたのかもしれない。それにしても、「きりきり」を「神異なる鳥」とするような解説は、鳥形の金星とであった遠い記憶が残されていたから付け加えられたのではなかろうか。西方に伝わってヴィーナスとなり、キリスト教に入ってルシファーとなった金星は、日本では黒髪に鶏冠をかぶって巾をひるがえし、琵琶を抱え禍福争乱を予告する女神となって、星曼荼羅の中に威風を放っている。
 この星曼荼羅の太白女神はなおも変貌しつづける。それは陰陽道に入って、禍乱を支配する“大将軍”に変貌し、御所を守るために平安京の厄封じの方角に大将軍社として祀られ、あるいは関渡津泊にも封じ神として社が設けられる。中でも難波津の大将軍社は、菅原道真が大宰府に流されたとき、土師氏の氏寺の道明寺に参って、瀬戸内海に出るときに詣でた。そこが今は大阪の天満宮となり、境内に大将軍社が祀られている。あるいは武家の時代になって中国占星術の軍事を司る太白信仰がよみがえり、戦国末期の天正ころ、その占星は絶頂に達する。
 なお帝釈天のもとにあった明星天子は、鎌倉新仏教の展開とともに、新たな装いで活躍しはじめた。親鸞は関東を教化中に、明星天子の夢告によって栃木県高田の地に専修念仏の根本道場、専修寺を建立する。あるいは、日蓮は『四条金吾殿御消息』に「三光天子の中に月天子は光物とあらはれ、龍口の頚をたすけ、明星天子は四五日已前に下て日蓮に見参し給ふ」として、法華行者を守護する明星天子を尊崇した。日蓮宗の柴又帝釈天は、『法華経』の月・明星・日の三天子を庶民信仰に広げる。神道においても、虚空蔵菩薩と関係づけられた三光天子が日吉三神の本地とされ、山王神道の骨格をなした。このような太白信仰をながめたでけでも、日本の星信仰の広がりが見える。朝鮮半島に勢力を維持しようとした古代倭国の政府は急速に中国占星術をとり入れたために、古き星の神話をないがしろにしたのではないかという逆説さえ浮かんできそうだ。
 寛政のころ、畑維龍は随筆『四方の硯』に「星象を見ることは、農民よりくはしきはなし」とした上で、水が乏しい大和の農民は星にからすきぼし、ひしぼし、すばるぼし、くどぼしなどの名をつけて、夜もすがら寝もせずに観察し、星が何時にどこに来るかなどをぴったり当てて、種おろし、苗のしめり、米穀の豊凶を判断していると記す。このようなことは日本各地でおこなわれてきただろうが、ただ記されなかっただけなのかもしれない。




 

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