・竹生島
・飲酒二十首
・源氏物語
・コーラン

・閑吟集
・失われた時を求めて
・隆達唱歌
・神統記
・創造的人間
・アーサー王の死
・伊勢物語
・趙州録

・石山寺縁起
・神曲
・出雲国造神賀詞
・クマーラサンバヴァ
・松の葉
・妖精物語
・古語拾遺
・東方の旅
・神楽歌
・泥棒
・堤中納言物語
・ラ・レグロ

 
 【2月15日】

 

 長岡京から平安京に都を移した桓武天皇治下に、朝廷の祭祀をめぐる中臣氏と忌部氏の争いがおこった。中臣氏が忌部氏を幣帛を制作するのみで、祝詞を奏上できないとしたのに対し、忌部氏はみずからを奉幣祈祷を職とし、中臣氏は祓(はらえ)の職にあると主張した。これは『日本書紀』の記述によって、両氏とも宮中祭祀の祈祷にあずかると裁定された。そして延暦二十二年(803)、宮廷祭祀にかかわる天太玉命(あめのふとだまのみこと)の直系の忌部氏は斎部の名称を許される。これは正史を典拠として現実の職掌が決定された顕著な例である。
 けれども藤原氏の係累の中臣氏は多くの有名大社の祈祷、奉幣使を独占し、忌部氏は圧倒されはじめた。そこで平城天皇の即位の践祚大嘗祭に功をあげたのを機に、斎部広足は古来の祭祀を文書で天皇に訴える。この忌部氏が伝承する神話と祭祀の問題点十一条を示した文書が、後世に『古語拾遺』と称された。その問題提起の後に御歳神(みとしがみ)の祭祀伝説を加えた。それは広足以外のだれかが加えたにせよ、編集的に見れば、第十二番目の提案の体裁をとっている。
 「歳」(とし)は稲が熟する期間をさす。御歳神はスサノヲとオオヤマツミの娘、カムイチヒメの間に生まれた大歳神(おおとしのかみ)の子神とされ、二月十七日の祈年祭にに祀られる。御歳神は崇神天皇のとき、三輪神を復活した三輪氏・鴨氏の祖、大田田根子(おおたたねこ)の裔孫が本社とした葛城の御歳山に鎮まる。その子神が大国魂神(おおくにたまのかみ)で、大和の土地神として大和神社に大歳神とともに祀られる。歳神信仰は、今も民間の正月神事の中核をなす。
  『古語拾遺』は、その祭祀の正統性を主張した。その祭祀神話は奇妙なものだ。大地の神の大地主神(おおところぬしのかみ)が田をつくったとき、田夫に牛肉を食べさせ、大国魂神がそれを大歳神に伝えた。すると大歳神は怒って蝗(あかむし)を田に放ち、苗が枯れてしまう。この祟りを鎮めるために白猪・白馬・白鶏を献じると、大歳神は「麻の幹で糸巻道具の(かせ)をつくって蝗を巻きとり、麻の葉で払い、烏扇であおげ」と託宣した。それでも蝗を駆除できなければ、「牛肉と男茎の形代を用水の溝口におき、ハトムギ、ハジカミ、クルミの葉と塩を畔にまけ」という。
 これは大地主神から大歳神に田植神事の主神が移行したことを暗示するが、牛肉の供物はタブーでありながら、蝗を払う呪物である。麻幹は忌部氏の管轄で、神事に普遍的なものであり、男茎は豊饒、境界、避邪に関連する。このようにしぼると、「烏扇」の役割が問題になる。武蔵一の宮の大国魂神社の闇祭では、田植時に害虫を払う烏を描いた扇が祭りの気勢をあげる団扇になった。とはいえ、なぜ「烏扇」が大歳神の呪いの蝗を払うのか。
 そこには烏に人間が抱いた普遍的なイメージが作用している。烏は黒い鳥だが、黒が必ずしも悪いイメージをもたらすわけではない。とくに東アジアでは黒はすべての色を重ねた“玄妙”をあらわす。
 烏を極端に嫌うのは『旧約聖書』である。ノアの箱舟から放たれた烏は洪水に死んだ死体を食いあさったので、神に腐肉を食うことを命ぜられた。それで烏は動物の死を望み気味悪い声で鳴く。これは烏の雑食性に由来する物語で、聖典の民でなくても、烏を死の予兆の鳥とすることも多いが、それは観念の二つの分岐の一方にすぎない。
 烏は朝の光とともに活動を開始し、夕暮れの光の中に帰る。“カラス、カアと夜が明けて、カラスと一緒に帰りましょ”である。烏は天空神あるいは太陽神、雷神の先導とされる。インドではインドラ神、ペルシアではミトラ神の使いである。北欧の古きオーディンにはフギン(思考)とムギン(記憶)という二羽の烏がしたがう。二羽の烏は神の意志の根拠である。ケルトの太陽の火を盗んだ神ルーグを崇めるドイールド僧は“ルーグブラン”(ルーグの烏)とよばれ、あの黒ずくめの姿は神託を告げる烏である。こうした烏は神の情報を知る知者でもある。知恵の女神アテネの兜の鳥は烏であり、エドガー・アラン・ポーの『大烏』も“もう一つのヨーロッパの知”に思いをいたしている。
 オウィディウスの『変身譚』に、烏は太陽神アポロの使いで白い鳥だったが、アポロの愛人コロニスの浮気を讒言して黒くなったという。これは烏が太陽の鳥だったのに、不吉な烏のイメージが優勢になって、栄光の座を失ったことを語る。地理学者ストラボンは、アポロのデルポイ神殿のオンパロスを決めたのは烏とする。オンパロスは“大地の臍”で、日本なら社殿の“心の御柱”である。こうした烏伝説には石工たちも注意した。ノートルダム寺院の入口の石に奇妙な烏が彫られ、その視線は寺院の「賢者の石」を埋めた柱をさすというような伝説には古き烏が生きている。
 中国では崑崙山をめぐる太陽の象徴である。太陽の烏は陰陽五行説の普及によって、陰の数の二本足から陽の数の三本足になったというが、江南神話にもとづく屈原の宇宙叙事詩『楚辞』に「三足烏」が歌われる。おもしろいのは中華の東西を占める西王母と東王父が年に一度であうとき、天の川に羽を広げて渡す希有鳥伝説で、それは東王父の三羽の烏に由来する。三羽の烏は太陽の三つの大黒点を象徴し、それが三足烏になり、天の川にかかる光の霊烏にもなった。ギリシア神話の白鳥座は、東洋では大烏に見立てられていた。その三足烏は朝鮮から日本に太陽、光明の霊鳥として伝わり、近年ではJFAのシンボルにもなっている。あるいは妙見菩薩がもつ太陽の金鳥にもなる。
 中国でも烏は不吉ともされるが、神の使者でもある。白居易は烏が庭木に来ると富裕になるという伝承を歌う。そのとき烏をよびよせるために、大皿に肉をもって庭木の下におく。「鳥勧請」である。あるいは烏は決まった棲息知に毎日もどることから道先案内者として信仰される。
 日本にも世界共通の烏信仰が多い。大歳神とも縁のある鴨氏の祖先、賀茂建角身命(たけつぬみのみこと)は、神武天皇が熊野の山中に迷ったとき、八咫烏と化して先導した。それで建角身命を祀る京都の上加茂神社では禰宜が烏に扮して、年を占う烏相撲を執行する。この八咫烏は熊野の夫須美神の使いでもある。熊野の火祭では烏帽をかぶり、八尺の黒衣で烏の嘴をかたどって、烏と化した神官が空中に扇で呪文を書く。それは烏文字で、護符や熊野誓紙の文字ともなった。
 こうした烏の伝承は多岐にわたる。玄海灘の宗像三女神が瀬戸内海に進出したとき、二羽の烏に導かれて厳島神社に鎮まった。その神の巡幸は宮島の七浦神社祭として再現されつづけ、海上に鳥神楽を奏で神烏(こうがらす)を招き、粢(しとぎ)団子を供する。塩飽諸島の泊港の木烏神社には、水軍と関係の深い讃岐国造の武殻王(たけがいおう)が悪魚を退治したとき、水先案内した烏を祀る。あるいは崇峻天皇の皇子、蜂子親王は三本足の大烏に導かれて出羽三山を開いた。この霊山はその大烏にちなんで羽黒山という。羽黒の修験者は修行の成果を烏と化して行う「烏跳び」によって示す。日本の烏も、ユーラシアの諸文化の古層の烏のイメージにほぼ共通していた。
 『古語拾遺』にもどると、その主眼は軽視されていた草薙剣を祀る熱田神宮の処遇を高め、それを忌部氏の管轄で祀ることにある。その最後に大歳神と大国魂神の神話を挿入したのは、民間が共有する農耕儀礼を、非中臣系の祭祀集団の管轄下に糾合する狙いがあった。宮中および熱田神宮に大国魂神を立てた祈年祭を設定し、そこに民間の田植の予祝行事をネットワークすることで、平安京を中心とした新たな神道の日本を構想しようという提案であったとも読める。
 そして、あの牛肉やハトムギ、ハジカミ、クルミの葉と塩の供犠は、太陽の烏を御歳神の使いとして招く神聖な鳥勧請だった。これは、それまでの肉(しし)を大地神に捧げて、神と共食する田植えの儀礼を、大歳神と大国御魂神の祭祀に切り替え、扇で烏を招くことを害虫駆除の呪術としようとしたのだろう。
 しかし平城天皇が薬子の乱に退位してから、肉を供儀する祭祀の禁止令がぞくぞくと出され、斎部の進言はさけられた。熱田神宮の大年神を祀る摂社、御田神社の祈年祭はそうした斎部の祭祀の輪郭を残すものかもしない。それは神饌を烏に食べさせる烏喰の儀にはじまる。神官はホーホーと烏をよび、御供を土用殿の屋根に投げる。烏が飛んできて、それを食べなければ田植祭事はおこなわれなかった。それは田畑に太陽神の使者の烏をよんで餌ををやり、柴を刈り取ってきて初火をつくった世界に共通する儀礼をはからずも復活していた。それはまた文明発生を語る火盗み神話の母体でもあった。




 

  松岡正剛の千夜千冊言葉の景色絶品堂書録
図像学派タナローグ 遊書人香々庭園
 

立紙篇INDEX

© Copyright Editorial Engineering Laboratory.
All rights Reserved.
Edit Cafe │ ISIS編集学校 │ いと◎へん