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| 【1月11日】 |
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いわゆる「狩使」(かりのつかい)の一節である。「狩使」は、勅命によって諸国に野鳥を鷹狩りして宮中に捧げる。鷹狩りは古墳時代いらい「国魂」を捕らえる神事、捕らえた野鳥を宮中に奉じるのは諸国の服属儀礼であり、その発祥譚は『古事記』の四道将軍にさかのぼる。
そのような役目であったから、伊勢に入った「狩使」は斎王宮に宿泊する。この男も斎王宮に入りそれを斎王はもてなした。斎王は未婚の内親王が就任し、神の神託を受けた神聖巫女である。
それでも、男が「われて、あわん」というと、斎王はいやな様子でもない。もしかして来るかと寝られないまま外をながめていると、おぼろ月の光の中に童女を先に人が立っている。
男はその人を部屋に招くが、たいして語り合いもしないうちに帰っていった。「語らう」というのは男女の秘め事をふくむ。それは夢だったのか、幻であったのか。翌朝、斎王から歌が届けられた。
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君や来し我や行きけむおもほえず
夢かうつうか寝てかさめてか |
あなたが来たのか私が行ったのかよくわかりませんわ、夢か現実か、寝ていたのかさめていたか。その虚実を確かめるためにもう一度会いましょうと、男は歌を返すが、斎王は会おうとしなかった。
それは『伊勢物語』のタイトルの由縁ともなったが、書生張生と崔鶯鶯(さいおうおう)との礼に背いた西廂での交わりを描き、唐の宰相に昇りつめた文士・元 作、自伝ともされる『鶯鶯伝』を本歌に、業平自身がつくったらしい。
業平は平城天皇の皇子・阿保親王と桓武天皇の皇女・伊都(いと)内親王の間に生まれ、貞観時代(九世紀後半)を生きた。阿保親王は藤原薬子の変に失脚し、兄の行平(いくひら)が家運の立て直しをはかるが、藤原氏の台頭によってままならなかった。
そのころの宮廷文学は漢詩文であり、業平が庶民や女性のあいだに流通する和歌を表現手段としたのは意図的な抵抗であったにちがいない。「狩使」は、唐風を“本”として和風を“末”に創出しようとする実験的短篇だったのではなかろうか。
若き業平は惟喬(これたか)親王を皇太子に推す和歌の結社をむすぶが、藤原良房の圧力に惟仁(これひと)親王が皇太子となり、清和天皇に即位する。北山に隠棲する惟喬親王をたびたび業平は訪れた。その生き様は宮廷を閑居として、みずからを流離する神に擬したフィクションに心を遊ばせる。
それはともあれ、業平が十数篇ていどつくった最初の『伊勢物語』の編集的拡大は、唐風から和風に転進しようとしたチャレンジがひきおこしたもので、十一世紀をかけた物語の編集プロセスでは、ほとんどの段が一定のシーンとして呼びおこされるようになっていた。
「狩使」のシーンは、男は寝殿造の西の廂の部屋に待ち、斎宮は母屋からかつぎをすっぽりかぶって現れる。空には、ただ雲をとおして月光がもれ、決してありえない夢幻のロマンスが、和漢の情趣を重ねあわせて出現していたのだった。 |
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