第九百二十一夜
つげ義春『ねじ式・紅い花』
(6/7)

 それにしても、つげ義春ほど批評から遠いマンガ家はめずらしい。賞賛の嵐を浴びながら、つげはいっこうに、そういう大向こうの言葉には応えなかった。ただ旅をして、団地に移り住み、一丁前の妻子との日々を送って、けれども似たようなマンガと旅日記を“ものする”だけなのだ。
 そこでぼくが思うのは、次のような系譜だった。どういう系譜かは当ててみてほしい。すなわち、小島烏水、木暮理太郎、田部重治、河田棹(ツクリは貞)、大島亮吉、中村清太郎、辻まこと‥‥。
 なぜ、この系譜につげ義春を数えたいかということは、つげ自身が『必殺するめ固め』のあとがきにこんなことを書いていた。

 一年数カ月に及ぶ治療によってぼんやりと見えてきたのは、自分の存在することの不確かさに病的に怯え、心のバランスを崩したということのようであった。(中略)自分は偶然存在していると認識していたが、理性による認識と生身の感情とは別であるということをおもいしらされた。
 治癒への道は、原因を幼児にまでさかのぼり、生い立ちを究明しなければならないが、それは限られた時間では不可能だ。認識を新たにするということが残された道だが、もともと理性と感情のアンバランスが招いたことでもあり、両者が一致した認識など、とうてい手のとどかぬ境地のように思える。それは悟りの一種でもあるからだ。

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