第九百二十一夜
つげ義春『ねじ式・紅い花』
(3/7)

 つげがこんな夢をサンプリング・リミックスしたうえで一作のマンガにし、『ガロ』の昭和43年(1968)の増刊号に出したところ、“芸術だ、芸術だ”と騒がれた。
 すでに石子順造が「存在論的反マンガ」というたいそう難しい呼称をもって、つげの『沼』や『山椒魚』を褒めちぎっていたとはいえ、また谷川晃一が『ねじ式』を「不随のイメージ」と言ったとはいえ、さらに天沢退二郎が長々と「展望」に風景論としてのつげ義春論を書いたとはいえ、ゲージュツだ、ゲージュツだと大騒ぎされたのは、もう少しあとのことである。
 つげはのちに、「デタラメを描いただけで、しかもぼくは夢にはまるで関心がなく、夢に意味があるとも思っていないのに、それがひとたび芸術というヒョーバンをとってしまうといかにも芸術に見えるのは、ホントーに夢みたいな話だ」とシラけて書いた。
 夢の話なんだから、『ねじ式』がネルヴァルにもシュルレアリスムにも島尾敏雄にも見えるのも当然なことであって、これについてつげ義春がシラけた文句を言う筋合いはない。筋合いはないのだが、やはりつげ義春がこのようなナイトメアのようなオーバーフラッシュを絵付きコマ割りシナリオにするのは、まことにうまく、これには当時の並みいるインテリがみんな引っ掛かった。
 マックス・エルンストではないが、画面ごとのトビがうまいのだ。『夜が掴む』こそがその技法を証している。

 トビといえば、つげ義春は、写真もいい。
 旅先での温泉街モノクロ写真がほとんどだと思うのだが、どれを見ても頷ける。納得がある。子供を撮ったものなどは、ときに土門拳を思わせるけれど、やはり土門ではない。買いはしなかったが、その写真集に似た一冊を、何度、書店の片隅で眺め入ったことだろう。
 この「頷ける」ということには、ほとほと感心する。やはり、そこに土地がある写真が頷ける。しょうがないけれど行きたくて、今度はだらだらと「そこに行った」という実感がある。だから頷ける。しかし、この頷けるというのも妙なもので、ぼくはつげ義春ではないのにその土地の写真に「頷ける」のだ。
 どうも、つげにはこのような納得のさせ方を心得ているようなところがある。

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