第八百九十六夜
頭山満『幕末三舟伝』
(3/6)
多士才々が頻繁に出入りした玄洋社の歴史をかいつまむのは、容易ではない。が、最初に玄洋社の士族たちに強い影響と磁場をもたらしたのは、なんといっても高場乱である。
眼医者であって、男装の女傑。天保期に生まれた。眼科医であるのは父親譲りで、代々が医者だった。乱は亀井陽州(亀井南冥の孫)の亀井派に属して、飯田太仲・中村北海に学び、早くから尚書・周易・左伝・三国志・水滸伝に通じていた。
乱と書いてオサムと読む。少女のころから男児として育てられた。だから男装は乱の正装なのである。長じて興志塾を主宰した。その苛烈な気性から、豪傑塾・腕白塾・梁山泊などの異名をとった。箱田・平岡・頭山、武部小四郎、来島恒喜、いずれも高場乱の可愛い教え子だった。だから「玄洋社の生みの母」とも言われた。明治24年に死んでいる。
高場乱については書きたいことがいろいろあるのだが、石瀧豊美の『玄洋社発掘・もうひとつの自由民権』(西日本新聞社)や、永畑道子の『凛・近代日本の女魁・高場乱』(藤原書店)に譲っておく。
玄洋社ができてからの統率は箱田、進藤喜平太、頭山がもっぱら引き受けた。ただ役どころが違っていた。箱田や進藤は福岡に構え、頭山は遊説し、箱田や進藤は煽り、頭山は鎮めた。
このように最初のうちの頭山は人材を発掘することと、血気さかんな若者の暴発を押さえる役にまわっていた。それゆえテロリストを理想としていた杉山茂丸などから見ると、頭山は甚だ行動力がない者に映ったらしい。が、その杉山ものちに頭山の図太い魂胆の大きさに敬服していく(『百魔』)。杉山の息子の夢野久作も『近世快人伝』では、その巨魁性には跪きたいものがあると書いた。
こんなふうに頭山は「傑物」「巨人」「老獪」などと評されてきたが、頭山自身は「威力」という言葉を好んだ。その威力とは「千万人の敵を一人で制する威力」のことだった。一人で千万人とは、三舟を称えた頭山らしい。
しかし頭山の行く手は波瀾万丈だった。毀誉褒貶にも見舞われた。明治23年の第1回衆議院議員総選挙では玄洋社は頭山を送り出そうとしたのだが、頭山はこれを堅く固辞して香月恕経を代議士とし、松方内閣の肩をもたせた。2年後の総選挙では“選挙大干渉事件”とよばれる干渉をして、これで玄洋社は民権派を敵にまわして国権主義に転向したと言われた。
この第2回総選挙で政治家として登場した星亨が、伊藤博文が明治33年に立憲政友会を結成に際して暗躍したときは、ここへ一番に引き入れたかったのが頭山だった。が、頭山はこれを断り、大井憲太郎を推している。
こうした複雑な事情を、これまでの明治史は適確に叙述しえていない。たとえば民権派壮士たちによる頭山満暗殺計画があったといわれるのだが、その首謀者が大井か星だろうと推理しているのもそのひとつで、これは玄洋社や頭山の周辺の歴史を調べると、とうてい当たっていないと想われる。
けれども、そんなふうにあらぬ邪推が飛び交うのも、頭山という人物の尋常ではないスケールにもとづいていた。身から出た錆なのだ。
次へ
MENUに戻る
©2003 編集工学研究所